創価学会破折
「人間主義」と「対話」の大安売り
―提言の名に価しない長広舌―
(ジャーナリスト・溝口敦『フォーラム21』H17.2.15)

【曖昧語に立脚した駄文】
―ヒットラーや金正日でも可能な「人間主義」―
 1月26日と27日の両日、池田大作は創価学会インターナショナル会長の肩書でSGIの日記念提言『世紀の空へ人間主義の旗』を『聖教新聞』に発表した。上下2回、計7ぺージに及ぶ長文だが、内容は空疎、ほとんど読むに値しない駄文である。
 なぜ駄文なのか。池田が立脚すると表明する「人間主義」とやらが定義しようもない感覚語であり、どのようにでも解釈可能な曖昧語だからだ。そういう曖昧模糊とした言葉の上に考えを重ねたところで、下手の考え休むに似たりで、明確な提言が出せないことは自明である。
 たとえば池田はアインシュタインを「希代の平和主義者」と持ち上げて、彼の成したことに言及している。
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しかし、私が留意したいのは、第1にアインシュタインが、ナチスのような問答無用の暴力を前に無抵抗でいることは、結局「敵に塩を贈ることになる」とのやむをえざる決断を迫られたこと、第2に専らナチスに先に保有されることへの恐怖を前提にした原爆製造(使用ではなく)の是認が、意に反して、日本への投下を招いてしまったことへの後悔、「生涯において1つの重大な過ち」との罪の意識、そして第3に、罪の意識を淵源とする戦後の核廃絶、世界政府樹立への積極的かつ献身的な取り組み、平和運動の推進であります。
 そうした魂の遍歴を通底していたものこそ、その都度「これを人間的と感ずる」普遍的心情のやむにやまれぬ発露であり、ぎりぎりの選択、決断であったにちがいない。その善なるものを求めての内なる葛藤、精神闘争こそ、人間主義の人間主義たる証であります
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 これによれば、広島、長崎の無辜(むこ)の市民を多数殺傷しても「人間主義」であり得る。思うに「人間主義」とは人間らしいこと、悩んだり、苦しんだりすることを指すらしい。内心大いに悩み、葛藤し、反省することが免罪符になりうるのだろうが、この伝では罪の意識を持つかぎり、ヒットラーや金日成、金正日さえ「人間主義」に立ち得ることになる。
 法律が代表例だが、社会的な規範、提言の類が掬い取らねばならないのは人間の外形的言動である。誰かを殺したい、政府を転覆したいと内心願っても、罪に問わないのは近代社会が獲得した知恵なのだ。社会的提言で内心を問うのは自由だが、少なくとも「心がけ論」であってはならない。
 悪事を成した後悩めば、あるいは平和運動に挺身すれば、広島、長崎に原爆を落としてもいいと読める「人間主義」など、提言に値しないことは自明である。未来に対して有効でなく、提言の名にも値しない。


【内容空疎の極み-「対話」の称揚】
要するに池田の提言は自分をエラソーに見せたいだけの長広舌でしかない。文中、内容空疎の極みとなるのは「対話」の称揚である。
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その最大のカギとなるのが、言い古されているようで、なお未解決の難題であり続けている「対話」の2字であります。「対話こそ平和の王道」とは、人類史がその歩みを止めようとするのでない限り永遠に背負い続けていかねばならない宿題ではないでしょうか
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 よくもぬけぬけと人ごとのように言えるものと感心する。さすが池田大作、面の皮は十枚張り、百枚張りというわけか。
 対話が平和の王道というなら、池田自身がまず手近なところから始めたらどうか。日蓮正宗の阿部日顕管長や山崎正友氏、乙骨正生氏、週刊新潮誌など、対話すべき相手はいくらでもいるではないか。先方が対話を断る可能性もあり得るだろうが、少なくとも口汚い悪罵を投げつけるよりよほど品性は上である。
 池田、あるいはこの駄文を物したゴーストライターは自らの陣営について、こう突っ込まれることを予期してか、後の方に言い訳を用意している。
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 こう見てくれば、私どもがここ十数年来続けている邪悪な宗教的権威との戦い、"平成の宗教改革"運動も、そうした反人間主義に対する人間主義の戦い以外の何ものでもない。聖職者の権威を盾にとって、自らの腐敗、堕落に頬かむりし、その権威、権力の下に信徒の魂の圧殺を図るなど、最悪の人間主義であります。
 それに怖じ気づいたり、屈服したりするのは、人間性の敗北であり、一宗一派の問題を超えて人間の尊厳という普遍的な心情「これを人間的と感ずる」心情にかけて、一歩も退いてはならないのであります
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 創価学会員が日蓮正宗の信徒であるならともかく、すでに破門された以上、両者の間には支配-被支配の関係はない。にもかかわらず、「人間主義」の名の下に口汚く悪罵を投げつけるのは内政干渉であり、侵略である。さらに会外に出て池田大作、あるいは創価学会を批判する者はなんら宗教的権威を持っていない。そのような者に対して悪口の限りを尽くすのは弱者に対する強者の暴力である。対話とは縁もゆかりもない。
 こうして「対話」がごくお手軽に「一歩も退いてはならない戦い」に転化する以上、池田の提案になる対話が戦いへの抑止力にならないことは明白である。池田の論の立脚点はどだい無理筋であり、空理空論になることを不可避としている。


【先人の言を利用した床屋政談】
「これを人間的と感ずる」は文化人類学者の石田英一郎に負っていると池田は記している。
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石田英一郎氏は、かつて、人間性の普遍的な基準について聞かれた時、これを"普遍的"とする線引きはできないとして、「結局自分がこれを人間的と感ずるのだと最後はそこに行ってしまうのです」と苦渋を語っていました
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 つまりは自分が人間的と感じれば、それは人間的なんだという言い分である。これは客観的な検証や批判に耐えなければならない学問としては「人間性」の定義不能を認めた敗北宣言である。だからこそ石田は苦渋をもってそう語ったのだろう。
 池田が石田のような先人の敗北を是として、その敗北に屋上屋を重ねる形で「人間性」や「人間主義」を恣意的に、無限定的に用いることは許されない。なぜなら「人間的」であることは地域や時代、環境により多種多様な相を帯びるからである。早い話、中世の日本では平然と子殺しが行われていた。当時はそれもまた人の営為だった。そういう子殺しをも人間的と認めるのかという話になって当然だからだ。
 1583年に日本巡察使として来日したヴァリニャーニの『日欧文化比較』には次の記述がある。
〈もっとも残念で自然の秩序に反するのは、しばしば母親が子供を殺すことであり、流産させるために薬を腹中に呑みこんだり、あるいは産んだ後に首に足をのせて窒息させたりする〉
 今、胎児の中絶手術は合法だが、出産後の子殺しは犯罪である。池田が人間主義というとき、こうした子殺しという風習も内包せざるを得ない。つまり現代社会にあって「人間主義」という語は何ものをも定義しないに等しい。論の出発点となる用語の厳密な定義もなく、エラソーに提言するのは床屋政談の一種である。ご近所さんなら我慢して耳を貸そうが、世間には通用しない。いかなる賞の賞取りも無理である。
(文中・敬称略)


▲内容空疎な池田提言が2日間、7ぺージにわたって掲載された(『聖教新聞』H17.1.26~27)
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(法蔵)

◆善なるものを求めての内なる葛藤、精神闘争こそ、人間主義の人間主義たる証
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「善」とは何か。「善」の定義が曖昧なのに「善なるものを求めての内なる葛藤、精神闘争」を「人間主義」としても意味がない。

◆対話こそ平和の王道
◆私どもがここ十数年来続けている邪悪な宗教的権威との戦い、"平成の宗教改革"運動も、そうした反人間主義に対する人間主義の戦い
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「善」の定義が明らかでない上、「対話こそ平和の王道」と言いながら、「邪悪な宗教的権威」に対しては「反人間主義に対する人間主義」の「戦い」を肯定する。およそ、歴史的な紛争や戦争が、大概、当事者にとっての"悪との戦い"であったろうことを思えば、池田のいう「人間主義」が「平和の王道」たりえないことは容易に分かる。

◆「これを人間的と感ずる」普遍的心情のやむにやまれぬ発露であり、ぎりぎりの選択、決断
◆石田英一郎氏は、かつて、人間性の普遍的な基準について聞かれた時、これを"普遍的"とする線引きはできないとして、「結局自分がこれを人間的と感ずるのだと最後はそこに行ってしまうのです」と苦渋を語っていました
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「人間主義」が求める「善」の定義が曖昧である以上「人間主義」の普遍的客観的定義ができようはずもない。

 日蓮大聖人直結、御書根本と言いながら御書に示された善悪の判別や、最高善について言及しない池田。御書によれば、人間の善悪や幸不幸には宗教が大きくかかわっているのであり、正しい宗教を信じてこそ善も実現できるし幸福にもなれるのである。
 大聖人の御指南に基づく善悪の判別、宗教批判に言及せずして「対話」と「善なるものを求めての内なる葛藤、精神闘争」だけを主張する池田が、大聖人の教えを広めているとは到底いえない。