創価学会破折

「人間主義」の問題点(仮題)


(『大白法』H25.5.1)

 一般的に「人間主義」はヒューマニズムともいわれ、"人間の意義と価値を重視し、人間の権利や自由を尊重する思想"と解釈されています。
 人間の価値をすべてに優先させるという意味では、人間主義と民主主義は共通であり、その基本原則は自由・平等・尊厳といわれています。人間として何ものにも束縛されず、平等に認められ、人間としての尊厳を守ることが理想です。
 しかし、創価学会が盛んに「人間主義」という言葉を使うのは、学会に不都合な仏法本来の僧俗・師弟の立て分けを「権威主義」として排除し、日蓮大聖人以来、代々の御法主上人に伝えられる唯授一人の血脈を否定しようと目論んでいるからにほかなりません。
 したがって、創価学会でいう「人間主義」とは、まさに仏法の本筋から外れた「学会員至上主義」「在家主義」の意であり、創価学会にとって、創価学会を批判する人間や、創価学会に理解を示さない人間は、「人権を守るべき人間」には当てはまらず、徹底した攻撃対象とされています。
 こうしたご都合主義によって「人間主義」という言葉を使い分ける創価学会には、それこそ「人間主義」などと主張する権利はありません。(『創価学会「ニセ本尊」破折-100問100答』P92)

 「人間主義」とは簡単に言えば、人間の価値と尊厳を、すべての物事の中心に据える思想だということです。つまり宗教の教えや神仏の価値よりも、人間の価値を絶対視するということになります。それは一見、現代の民主主義の考え方とも相俟(あいま)って、自由と平等の考え方に立脚したすばらしい思想のように見えてしまうかもしれません。
 しかし、私たちが宗教を信ずる目的は、個々人の幸せの確立と、一切衆生救済に他なりません。そしてその大目的は、人間の生命の根本法理を解き明かした大法に依らなくては成就できないのです。
 また、その大法とは、迷いの衆生の心を中心として説き顕わされるものではなく、あくまでも仏の悟られた法を中心・基準として、仏が大慈大悲の上から、一切衆生救済の大誓願によって説き出されるものなのです。このところを日蓮大聖人は『撰時抄』において、
●如来の教法は必ず機に随ふという事は世間の学者の存知なり。しかれども仏教はしからず。(中略)機に随って法を説くと申すは大なる僻見(びゃっけん)なり(『撰時抄』御書P846)
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と喝破(かっぱ)あそばされました。「仏の教えは必ず衆生の機根に随って説かれるということは、一般的な仏教学者の思うところだが、仏の本意から拝すると、衆生の機根に随って法を説くというのはたいへんに間違った考え方である」との仰せです。
 この御指南から見ると、創価学会の言う、仏や法よりも衆生を中心に考える「人間主義」が、大聖人の教えに反し、仏法の道理から外れたものであることは明らかです。
 現実社会に大聖人の教えを弘めていく上で、衆生の機根に応じるという一面から言えば、その時代や国ごとに用いられる言葉・考え方をもって布教していくことは、十分あり得ることです。ただしそれにも、仏法上の正しい筋道に基づいた取捨選択が必要なのですから、けっして安易な御都合主義に堕してはならないことは言うまでもありません。
 前御法主日顕上人猊下は、
 「人間主義という語自体が既に大聖人様の大慈大悲を否定しているのです。(中略)人間主義という名のもとに、凡夫の三悪道等の考えを中心にすることは実に怖いことなのです。今の創価学会のあらゆる面から社会的に顰蹙(ひんしゅく)を買っておる姿、自分達の利得のため
にはどのような悪行も辞さない姿を見ればお解りになると思います」(大日蓮588号)
と仰せられ、迷いの衆生である凡夫の心を中心として仏法を私する危険性を指摘されています。
私たちは、聞こえのよい「人間主義」などという言葉に惑わされることなく、その底意には大聖人が定め置かれた唯授一人の血脈を否定しようとする創価学会の根本的な悪義、誤りがあることを知って、1人でも多くの学会員にその誤りを教え、共に正しい信心に励めるよう精進していきましょう。