創価学会破折
日布上人誹謗粉砕



「日布上人が邪宗の者に御開扉」?/『慧妙』H5.11.1




「日布上人が邪宗の者に御開扉」?

―「地涌からの通信・資料編」を笑う―
―法義・化儀に暗い『資料編』の邪難―
―謗法呵責の宗史燦然―『人間革命』にも明らか―

(『慧妙』H5.11.1)

 『資料編』は、『大日蓮』(昭和10年3月号)に掲載された回顧文「日布(にっぷ)上人をしのび奉りて」を捉えて、
 "第55世日布上人が、宗教学者の姉崎博士、国柱会の山川智応等に御開扉を受けさせている。それ故、学会出現以前の日蓮正宗には「謗法厳誡」の精神などなかったのだ"
などと非難している。
 この回顧文は「巨栗山樵」こと福重昭平師が、御生前の日布上人を偲(しの)び、その御徳の一端を記されたものであって、正常な信心の持ち主であれば、その御徳の高さに思いを馳(は)せることこそあれ、このような誹謗など思いもつかぬことである。


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日布上人が邪宗の最高幹部を「仏子」として遇した。謗法を責めずに詐(いつわ)り親しむことは、宗祖大聖人が固く誡(いまし)められたことで、当時の日蓮正宗には宗祖の精神が失われていた。(『地涌からの通信・資料編』)
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 日布上人は、明治11年12月、北山本門寺住職・玉野日志から宗義に関して送られてきた50箇条の詰問(きつもん)に対し、その論難の逐一を論破され、さらに引き続いて、52世日霑(にちでん)上人がこれを完膚なきまでに破折されている。これが世にいう「霑志(でんし)問答」である。
 また、国柱会の創始者である田中智学は、明治15年、「横浜問答」において日霑上人に敗れ、違約して遁走(とんそう)している。
 これらの問答については、『人間革命』第9巻に簡略ながら記してあるので、学会員諸氏には再読をお勧めする。
 このような歴史上の経過を見れば、「謗法を責めずして詐り親しむ」とか「謗法厳誡の意識がじつに低かった」などという『資料編』の非難が、史実を歪曲(わいきょく)した学会の捏造・悪口であることが明らかであろう。
 このような所業は、謗法を呵責(かしゃく)し正法正義を顕彰してこられた歴代上人方を貶(おとし)めるものであり、これは明らかに、
 「若しは在家にてもあれ出家にてもあれ、法華経を持ち説く者を一言にても毀(そし)る事あらば、其(そ)の罪多き事、釈迦仏を一劫の間、直ちに毀り奉る罪には優(すぐ)れたり」(『松野殿御返事』全集1382頁)
との制誡に背(そむ)き、自ら地獄の門を押し開くものである。


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国柱会の最高幹部2名に御開扉を受けさせたのだから、当時の日蓮正宗にあっては、謗法厳誡(げんかい)という意識がじつに低かった。(『地涌からの通信・資料編』)
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『資料編』が問題にしている「邪宗の者への御開扉」であるが、この問題提起自体が、法義上、まったく意味をなさないものである。

●大石寺は御堂と云い墓所と云い日目之を管領せよ等云々、すでに戒壇の本尊を伝う、故に御堂と云う(第26世日寛上人『文底秘沈抄』/『聖典』852頁)
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上古の時代においては、戒壇の大御本尊を御堂(御影堂)に御安置申し上げ、宗祖御在世当時のままに尊崇申し上げていたことがうかがわれる。

●法華宗の御堂なんどへ他宗他門の人参詣して散供(さんぐ)参らせ花を捧(ささ)ぐる事有り。之れを制すべからず、既に順縁(じゅんえん)なるが故なり、但し大小の供養に付いて出家の方へ取り次ぎ申して仏聖人へ供養し申せと有らば、一向取り次ぐべからず。謗法の供養なるが故に、与同罪の人たるべし(第9世日有上人『化儀抄』/『聖典』993頁)
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謗法者の御堂への参詣自体を禁じてはおられない(ただし、供養の取り次ぎは禁じておられる)のである。

 このように見てくるならば、本宗の化儀の上から、日布上人に何らの失(とが)もないことは明らかであろう。
 なおまた、戒壇の大御本尊が、広宣流布の時至るまで秘蔵の形をとって公開をされていないのは、いまだに邪宗・謗法の者多く、それらの者の手から大御本尊を厳護申し上げるためであって、何も"謗法者に拝ませてはならないから"というわけではない。

●日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は日目に之を授与す(第2祖日興上人『日興跡条条事』御書1883頁)
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戒壇の大御本尊に関する一切の御権能は、御歴代上人方におわすのである。その御歴代に連なる日布上人が、山川らの善導の一環として、御開扉の僧俗の中に加えることを許可されたのであって、どこにも批判の余地などないのである。

 次に、山川らについて言えば、その師匠である田中智学が横浜問答において完膚なきまでに破折し尽くされ、遁走の憂き目を見た因縁から考えれば、彼らにとって日蓮正宗は憎んでも憎みきれぬ宗団であったはずである。その山川らが大石寺に詣で、日布上人の大導師に従って読経・唱題までしたのは、一分の改悟(かいご)と求道心の表われ、とも考えられるのである。
 また、「謗法を責めずして詐り親しむ」ことを厳禁している本宗の信仰から考えても、日布上人が国柱会の邪義をことごとく破折され、山川等を教化しつつある中での御内拝であったことは容易に推察できることではないか。
 なお、いみじくも『資料編』自ら、「どのような経緯から国柱会の幹部と総本山大石寺に登山したかは不明」としているように、これに関する資料は『大日蓮』掲載の「日布上人をしのび奉りて」の一文のみであって、『資料編』に見られる「謗法」云々の脚色は、妄想の産物以外の何物でもないのである。
 『文底秘沈抄』にいわく、
 「化を受け教を稟(う)く、須(すべから)く根源を討(たず)ぬべし、若し根源に迷わば則ち増上して真証(しんしょう)を濫(みだ)さん」(『聖典』855頁)
と。「根源に迷」い、「真証を濫」した学会の姿がここにあるといえよう。