阿仏房御書

第68世日如上人御講義

―H22年度 第7回法華講夏期講習会 第4期−
(『大日蓮』H22.11)

今日蓮が弟子檀那又々かくのごとし。末法に入って法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり。若し然れば貴賎上下をえらばず、南無妙法蓮華経ととなふるものは、我が身宝塔にして、我が身又多宝如来なり。妙法蓮華経より外に宝塔なきなり。法華経の題目宝塔なり、宝塔又南無妙法蓮華経なり。今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり。然れば阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房、此より外の才覚無益なり。(御書792頁13行目)


 この『阿仏房御書』は、文永12(1275)年の3月13日、大聖人様が54歳の時に、佐渡の阿仏房に与えられた御書であります。内容は、阿仏房から法華経見宝塔品における宝塔涌現の意義を質問されたことに対してのお答えであります。
 すなわち、宝塔とは御本尊のことであり、南無妙法蓮華経と唱える者はその身が宝塔であり多宝如来であると述べられています。また、阿仏房を「北国の導師」とされ、浄行菩薩が生まれ変わって大聖人を訪れるのかとまで言われて、深い信心を愛でておられます。
 この阿仏房という方な、俗名は遠藤左衛門尉為盛と言います。もとは順徳上皇の北面の武士でありました。北面の武士というのは院の御所の北面に詰めて、中の警備に当たった武士のことです。
 承久3(1221)年に承久の乱が起こりましたが、承久の乱というのは、後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒のために兵を挙げ、結局、幕府に鎮圧された事件であります。この時、後鳥羽・土御門・順徳の3上皇が配流、島流しにされてしまい、朝廷方の公卿や武士の所領も没収されて、乱ののちには幕府の絶対的な優位が確立したとされます。
 この承久の乱に敗れて順徳上皇が佐渡に流された時、阿仏房は上皇と共に佐渡に来て、定住したと伝えられております。しかし一説には、古くから佐渡にいた人ではないかとも言われておりまして、定かではありません。いずれにいたしましても、日蓮大聖人の佐渡在島中に、塚原三昧堂で大聖人を論詰しようとして、かえって大聖人様の化に触れて念仏を捨て、妻の千日尼と共に帰依をした人であります。以来、文永11(1274)年に大聖人様が佐渡流罪を赦免となって鎌倉に帰られるまでの2年余りの間、大聖人に給仕をし、大聖人の身延入山後も、高齢の身でありながら3回にわたって身延を訪ねています。そして弘安2(1279)年3月21日、91歳で亡くなられたと伝えられています。
 よく「御登山は阿仏房の精神で」と言われますけれども、まさに齢90にならんとする年老いた方が、わざわざ山海を隔てた佐渡から身延の山に3度にわたって御登山せられたということは、まことに尊いことであります。また、阿仏房の奥さんの千日尼も非常に信心が強盛な方であり、夫婦そろって信心が強盛なのですが、今申し上げたとおり、最初は大聖人をやっつけようと、大聖人様の所へ出向いていったのでありますが、反対に折伏をされて、このような強盛な信者になったのであります。
 さて、テキストに挙げた、御文の最初に「今日蓮が弟子檀那又々かくのごとし」とあります。これはどういうことかと申しますと、先程も言ったように、この御書は佐渡の阿仏房から見宝塔品の宝塔涌現の意義を質問されたことに答えられたものであります。
 そもそも、宝塔とは七宝をもって荘厳された塔で、これは法華経の見宝塔品第11に説かれております。いわゆる地より涌出した、多宝塔のことで、高さ5百由旬、縦広2百5十由旬の大きさで、このなかに宝浄世界の多宝如来の全身を収めているとされます。
 この宝塔涌現について、天台大師は『法華文句』のなかで、
 「塔出に両と為す。一に音声を発して以て前を証し、塔を開して以て後を起す」(『学林版文句会本』下6頁)
と述べております。つまり宝塔の出現には、証前と起後の2つの意味があるということです。
 「証前」とは、この宝塔品の前に説かれた迹門の内容を証するという意味でありまして、法華経の会座では、宝塔の中から多宝如来が迹門前10品の内容が真実であると証明したことを言うのであります。すなわち多宝如来は、
 「善哉善哉、釈迦牟尼世尊、能く平等大慧・教菩薩法・仏所護念の妙法華経を以て、大衆の為に説きたもう。是の如し、是の如し。釈迦牟尼世尊、所説の如きは、皆是れ真実なり」(『法華経』336頁)
と証明しております。つまり釈尊の説かれた教え、法華経は間違いなく真実であるということを証明したのであります。これが証前で、前の迹門を証するという意味であります。
 また「起後」というのは、後に説かれる本門を起こすという意味でありまして、これも『法華文句』のなかに、
 「起後とは、若し塔を開かんと欲せば須(すべから)く分身を集むべし。玄を明して付嘱せんとす。声は下方に徹し本の弟子を召して寿量を論ず」(『学林版文句会本』下9頁)
と説かれております。つまり釈尊の十方分身の諸仏が集まって宝塔が開かれ、多宝如来と釈迦如来の二仏が並んで座る「二仏並座」をしたことが、滅後の弘通を付嘱すべき地涌の菩薩を召して寿量品か説かれる遠序になっているということです。遠序というのは、本門の序・正・流通の序分よりも、さらに先に示される遠い序という意味で、宝塔涌現が寿量品の説かれる遠序になっているということであります。
 この証前と起後の二義のうちでは、証前が傍、起後が正であり、さらに本迹二門では、もちろん迹門が傍、本門が正であります。また釈尊在世と滅後末法を比較すれば、在世は傍、滅後は正であります。すなわち証前起後の宝塔とは、末法に弘通すべき三大秘法の御本尊を説き起こし、かつ証明するところにその意義があるということになるのであります。また、テキストに挙げた御文の直前には、
 「所詮三周の声聞法華経に来たりて己心の宝塔を見ると云ふ事なり」(御書792頁)
とおっしゃっているのですが、これは釈尊在世の化導において法説・譬説・因縁説の三周の声聞が法華経に来たって、己心に具足している宝塔を見て、つまり己心のなかに持っている宝塔を覚知して即身成仏したことを仰せられているわけであります。
 法華経が説かれる以前の三周の声聞は、40余年の長い間、小乗に執われて身心を滅し、偏った空にのみ入らんとして、自らの命が妙法の当体であるという、この大事なことが自覚できないために成仏できなかったわけであります。それが法華経に来て、自己の心に宛然として、つまりそっくりそのまま、宝塔すなわち妙法蓮華経であることを悟り、仏様に成ったということです。
 したがって、「今日蓮が弟子檀那又々かくのごとし」と仰せになっている意味は、三周の声聞が法華経に来て己心に具わっている妙法蓮華経の宝塔を覚如したように、今、日蓮の弟子檀那もまた、それぞれの己心に具足している宝塔、妙法蓮華経を見ることができ、即身成仏することができるとの仰せなのです。
 その宝塔とは、あとの御文に「法華経の題目宝塔なり、宝塔又南無妙法蓮華経なり」と仰せの如く、寿量品文底の妙法蓮華経の大御本尊のことを意味しているのであります。そして、皆さん方の命のなかにはみんな、すばらしい仏性がある、仏性があるということは宝塔、妙法蓮華経をきちんとお持ちになっていらっしゃるということです。
 もちろん、私達は凡夫だから、なかなかそれが開発されないのです。つまり、いくら仏性があっても、実際にはなかなか成仏できないのです。『三世諸仏総勘文教相廃立』のなかに、
三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値はざれば、悟らず知らず顕はれず(同1426頁)
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とお示しのように、どんなにすばらしい仏性、南無妙法蓮華経をお持ちだったとしても、正しい縁に出会わなければ「悟らず知らず顕はれず」なのです。
 だから御本尊様の縁はとても大切なのです。御本尊様の縁によって、すべての人が持っている仏性、南無妙法蓮華経が顕れてくるのでありますから、常にお題目を唱え、大御本尊様の縁に触れて行動していくことが大切なのです。
 やはり、縁に触れなければだめなのです。世間でも「縁なき衆生は度し難し」と言いますが、御本尊様の縁に触れるということの尊さ、なかんずく総本山にお参りして戒壇の大御本尊様にお目通りするその功徳というものは、本当にすばらしいものがあるのです。それを知らず、その縁に触れないままだと、「悟らず知らず顕はれず」ということになるのです。そうなると、ずっと一生、いや、二生、三生、十生そのままで行くことになりますので、それはもう苦しみの人生でしかないわけです。そういった命になってしまってはだめです。だから我々は御本尊様の縁に触れると同時に、多くの人達にこの縁に触れさせていかなければならないのです。そして共に題目を唱え、折伏をしていけば、必ずその人の仏性も開かれてくる、南無妙法蓮華経が開いてくるのです。このことをしっかり知らなければならないと思います。
 また「末法に入って法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり」と仰せですが、これも今言った意味と全く同じです。もちろん、このなかで「法華経」とおっしゃっているのは、いわゆる文上脱益の法華経ではありません。法華経本門寿量品文底秘沈の妙法、すなわち三大秘法の随一たる本門の本尊のことであります。故に、この本門の本尊に信心を起こし、これを受持する男女の姿は、まさしく尊い宝塔そのものであり、また、宝塔の本体はそれ以外のどこにも求めることはできないと説かれているわけであります。つまり、この文は「法華経」すなわち三大秘法の随一、本門の奉尊を受持する以外には、我が身を宝塔とする道はないという意味であります。我らはこの御文をよくよく銘記して、自行化他のお題目をしっかり唱えていくことが大切であります。
 続いて「若し然(しか)れば貴賎上下をえらばず、南無妙法蓮華経ととなふるものは、我が身宝塔にして、我が身又多宝如来なり」とおっしゃっておりますが、本当にこれはすばらしい、尊いことであります。お題目を唱えていく者は「我が身宝塔にして、我が身又多宝如来」であると、仏様に成るとおっしゃっているのです。
 もともと、この法華経のなかには、下地獄より上仏界に至るまでの成仏に区別がなく、十界互具が説かれているわけでありまして、すべての衆生を救済しうる偉大なる教えがこの法華経であります。したがって、貴きも賎しきも、上も下も、賢者も愚者も一切区別なく、ただ一心に本門の本尊を信じて題目を唱えるときは、我が身は地水火風空の五大和合なる宝塔であって、また永遠の生命の上に自在に生滅し、正法正義を証明する多宝如来であると仰せられているのであります。
 もちろん、このように仰せあそばされているのは、題目を唱えていくということが根本になっております。「若し然れば貴賎上下をえらばず、南無妙法蓮華経ととなふるもの」が初めて、そのようになるということです。
 次に「妙法蓮華経より外に宝塔なきなり。法華経の題目宝塔なり、宝塔又南無妙法蓮華経なり」と仰せであります。この御文は、本門の本尊の意義をもって宝塔の顕すところの体が妙法蓮華経であると示されております。つまり大聖人様の弘通あそばされる妙法蓮華経は、久遠元初の自受用報身の能証・所証の法体を末法に移して、本仏大聖人様出世の本懐たる事の一念三千人法一箇独一本門の、いわゆる本門の本尊に存しているわけであります。
 多宝如来の宝塔は、本地久遠元初の自受用身が迹を垂れ、インドに出現した釈尊の化導のなかにおいて涌現したものでありますが、本門寿量品文底の真実相より見れば、この宝塔とは根本の久遠元初自受用身の色法たる地水火風空の五大を顕しているのであり、また、この地水火風空はそのまま心法を具して不思議なる故に妙法蓮華経の五字なのであります。故に「妙法蓮華経より外に宝塔なきなり。法華経の題目宝塔なり」と仰せられている「妙法蓮華経」とは、久遠元初自受用身の人即法の当体を示されたものと拝せられるわけであります。
 したがって、この御文は南無妙法蓮華経の御本尊こそ宝塔の実体であることを解説あそばされているのであります。故に宝塔を仰ぐことの本義は、末法出現の宗祖大聖人の御魂魄たる、寿量文底の義による南無妙法蓮華経の御本尊を信ずることであるとの御教示と拝するべきであります。
 次に「今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり」とありますが、阿仏房および一切衆生の一身は皆、地水火風空の五大から出来ております。つまり万物は全部この地水火風空の五大から出来ているということでありますので、阿仏房も、また一切衆生も同様であります。
 この五大は何かというと、妙法蓮華経の五字であると仰せになっております。『御義口伝』のなかには、
 「我等が頭は妙なり、喉(のんど)は法なり、胸は蓮なり、胎は華なり、足は経なり。此の五尺の身は妙法蓮華経の五字なり」(同1728頁)
という甚深の御法門がお示しあそばされてあります。つまり、この御文から拝しますと、私達のこの身体は地水火風空の五大であり、その地水火風空の五大とは妙法蓮華経であるということは、私達の一身が即、妙法蓮華経の五字であるということになるわけです。それほど我々の身体は尊いのです。しかし先程も言ったとおり、それは理の上においてはそうだけれども、あくまでも大御本尊の縁に触れなければ、己心の妙法蓮華経が妙法蓮華経として開いてこないのです。縁に触れなければ、凡夫のままなのです。そこに、御本尊に向かってお題目を唱えていくことの大きな意義があるわけです。
 また『三世諸仏総勘文教相廃立』のなかには、
 「五行とは地水火風空なり(中略)是則ち妙法蓮華経の五字なり。此の五字を以て人身の体を造るなり。本有常住なり、本覚の如来なり」(同1418頁)
と、このようにまでおっしゃっておられます。もともと私達は、すべてが妙法蓮華経つまり本有常住、本覚の如来であるとおっしゃっています。さらにまた、同じ御書のなかでは、
 「釈迦如来五百塵点劫の当初(そのかみ)、凡夫にて御坐(おわ)せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき」(同1419頁)
と、御本仏の五大は法界の五大であると仰せであります。法界の五大は衆生1人ひとりの五大なるが故に差別なく、色心ともに七宝をもって荘厳された仏様の宝塔と衆生の身体とは全く異なりません。もちろん、これは信心がなければだめなのですが、信心を発こして題目を唱えるところ、妙法蓮華経の宝塔の功徳は凡夫の阿仏房の一身にあると示されているのです。よって我々も、末法の正境たる本門の本尊に向かって信心を発こすとき、十界本有の尊形、事の一念三千の本尊の功徳は我が心に染み入り、境は智に冥じて仏界即九界の下種本因妙を成ずるのです。また口に自受用身の色心たる妙法蓮華経を唱えるとき、智は境に合し冥じ、我が九界の当体すなわち本尊の仏界と顕れ、九界即仏界の下種本果妙を成じ、速やかに即身成仏の本懐を遂げるわけであります。
 すなわち、宝塔とは南無妙法蓮華経の御本尊であり、「今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり」と仰せのなかに、法華経に説かれる荘厳無比の宝塔といっても実は他の何物でもなく、衆生自身の命、我々そのものを顕しているという御教示を、よくよく拝していくべきであります。
 だから、私達1人ひとりは末法の荒凡夫ではあっても、その実は妙法蓮華経の当体である、宝塔そのものであるというすばらしい御教示を拝して、1人ひとりがしっかりと題目を唱えていくということが大事だと思います。
 宇宙万物を構成している地水火風空は、そのまま我々人間の生命の構成要素でもあるわけです。そして、この地水火風空の五大とは妙法蓮華経の題目にほかならず、その法華経の題目がすなわち宝塔に象徴するところの当体でありますから、地水火風空の五大から成っている我々の生命自体が宝塔だという本当に尊い御教示をいただいて、我々は自分自身をもっと大切にするとともに、しっかりと南無妙法蓮華経と唱えていかなければなりません。
 このことは今日来ている方々が知るばかりでなく、すべての人達にそのすばらしい宝塔、妙法蓮華経が存しているということを知らしめなければだめなのです。だから折伏をたくさんしなければなりません。先程も言ったように、いくら妙法蓮華経というすばらしい仏性を持っていても、正しい縁に値わなければ、宝塔が宝塔としての、妙法蓮華経が妙法蓮華経としての用きをしないのだから、なんとしても縁をさせるということが大事であります。そこにまた、折伏の大事が深く存しているのであります。


我が身は七宝を以てかざりたる宝塔なり

―布教講演―
―全国布教師 石井栄純―
―平成22年11月21日 総本山御大会の砌 於総本山仮御影堂―

(『大日蓮』H23.2)

 ただいま御紹介をいただきました石井でございます。
 宗門2大行事の1つである総本山の御大会(ごたいえ)が、御法主日如上人猊下大導師のもとに盛大かつ厳粛に奉修あそばされましたことを、心からお祝い申し上げるものでございます。
 法華講員の皆様方には、支部を代表して御大会に御参詣なされ、まことに御同慶に堪(た)えません。
 私もこの大法要に参詣させていただき、さらに布教講演の機会まで与えてくださったことは、まことに光栄でございます。
 つきましては、御報恩のために「我が身は七宝を以(もっ)てかざりたる宝塔なり」と題しまして、お話し申し上げたいと存じます。

【『阿仏房御書』の概略】
 宗祖日蓮大聖人の御在世中に、法華経の宝塔品に説かれている多宝の塔が、いったい何を表しているのかについて質問された方がおりました。
 その方は、大聖人が佐渡在島中、妻の千日尼と共に、それこそ命懸けのお給仕を申し上げた阿仏房でありました。
 その阿仏房の質問に対して、大聖人がお手紙をもって宝塔の深義をお説きあそばされたのが『阿仏房御書』であります。
 この御書では、まず、天台大師の説かれた宝塔の意義を概略示され、さらに文底下種仏法のお立場から、宝塔とは御本尊であり、御本尊を護持する弟子檀那の一身の当体であることを御教示されております。そして、法華経の見宝塔品において大地より出現して虚空に架かった宝塔には7つの宝、すなわち「金・銀・瑠璃(るり)・硨磲(しゃこ)・瑪瑙(めのう)・真珠・玫瑰(まいえ)」で飾られていたが、それでは我が身の宝塔を飾る七宝とは何かということについて日蓮大聖人は、末法の観心修行の上から、聞(もん)・信・戒・定(じょう)・進・捨・慚(ざん)であると御教示あそばされているのであります。
 すなわち、宝塔に飾られていた金・銀などの七宝は「世間」における財宝であるのに対し、聞・信・戒などの七宝は「出世間」における財宝と言えるのであります。
 故に聞・信・戒などの七宝を「七法財」あるいは「七聖財」と言われて、仏道修行をする上においてどれ1つとして欠くことのできない、不可欠の要件とされているのであります。
 そして、お手紙の最後に「宝塔すなわち御本尊を書き顕してさしあげましょう」と仰せられ、夫婦で固く受持するよう勧められているのであります。

【聞-聞法下種の大事】
 それでは、七宝の1つひとつを説明してみたいと思います。
 まず、七宝の第1番目が聞(もん)であります。「聞法」つまり正しい仏の教えを聞くということであります。
 日蓮大聖人は、
 「此の娑婆世界は耳根(にこん)得道の国なり」(御書110頁)
と仰せになり、我々の住む現実の娑婆世界は、耳で妙法を聞くことによって成仏得道できる国土世間であると仰せられております。
 故に、私達は法を聴聞するために色々な法要に参詣し、僧侶の説法を聞き、さらに座談会等、講の行事にも多く参加して、法を聞く機会を持つことが大事であります。
 しかし、聞く姿勢に求められるものがあります。
 経典には次のような話があります。
 「ある所に1人のバラモンがおりました。彼は慢心が強く、他人の話に耳を傾けることもせず、両親をも敬わないような人でした。
 ある時、釈尊が説法をするとの話を聞いたバラモンは、その説法の内容を論破してやろうと考えたのでした。そして聴衆にまじって釈尊が自分に話しかけるのを待っていたのでした。しかし、釈尊は最後まで彼に声をかけることはありませんでした。
 バラモンは『釈尊は私を恐れて話しかけなかったのだ。私はこの男に勝ったのだ』と思い込んで、その場から去ろうとしました。その時、釈尊は『慢心はよくない。ここに来た目的は何か。その目的を大切にせよ』と諭しました。」
 つまり、本来、仏にまみえて法を聴聞するというのは、己れの至らなさを知り、進むべき道を示していただくためのものであります。それを、逆に論破しようなどと考えるのは、単なる自己満足に過ぎず、けっして真実の智慧を得ることはできません。御報恩御講やその他の行事で住職から色々な話を聞き、また指導を受けることもありましょうが、どんなときでも謙虚に耳を傾ける姿勢を持ちたいものでございます。
 さらに申し上げるならば、私達は親なり法華講の先輩なり、だれかから南無妙法蓮華経の正法を聞くことによって、信心の心を発(お)こすことができたのであります。「聞法を種となす」とございますとおり、正法を聞くだけでなく、聞かせること、すなわち折伏もまた「聞法」と言えるのであります。

【信-強き信こそ生命を飾る宝】
 七宝の2つ目が「信」であります。「信受」あるいは「信心」ということであります。
 妙法を聞き、御書を拝して、絶対と信ずることであります。
 日蓮大聖人の仏法は、この「信」に帰着すると言ってもよいでしよう。
 日寛上人は、
法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為(な)す(『六巻抄』13頁)
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と仰せのように、妙法を信ずる心が仏性を開くのであり、これこそ我が生命を飾る至高の宝にほかなりません。
 大聖人は、
 「所詮信と随喜とは心同じなり。随喜するは信心なり、信心するは随喜なり」(御書1849頁)
と仰せられており、御本尊を素直に信じて、大歓喜していくことこそ「信心」なのであると説かれております。
 なお、この歓喜の信心について日如上人猊下は、
 「『随喜』というのは、1つは教えを聞いて大きな喜びを感じるということなのです。それともう1つは、他の人が善行を修めるのを見て喜ぶことであります。(中略)多くの人達の幸せを求めていくのが大乗仏教なのです。その精神が随喜という心のなかに存している」(功徳要文13頁)
と、信心には自行の喜びだけでなく、化他によって得られる喜びもあることを御指南されております。

【戒-末法においては受持即持戒】
 3つ目が「戒」であります。「持戒」であります。
 戒というのは「防非止悪」すなわち「非を防ぎ悪を止(とど)める」ということで、仏法を修行する者の守るべき軌範のことであります。
 これには、小乗の戒とか、大乗の戒などがあります。
 小乗の戒は「外からの規制によって自らの行為・行動を束縛する」というものですが、大乗の戒は「自らの煩悩をよくコントロールする」、欲望に振り回される自分ではなく、欲望を"自己と他者との両方にとってプラスになるような方向に向けていく。これが大乗の戒であります。この戒を失えば、動物のように本能のままに生きる卑(いや)しい存在に堕してしまうのでありますから、気をつけなければなりません。
 末法においての戒は、受持即持戒と言いまして、南無妙法蓮華経の御本尊を固く受持し、信行に励むことを言うのであります。

【定-微動だにしない信心の確立】
 七宝の4番目が「定(じょう)」であります。「禅定」であります。
 心を一処に定め、雑念を払い、安定した境地に立つことであります。
 いかなる事態に直面しても、微動だにしない信心を確立することであります。
 御本尊に帰命しきった人は、いかなる風波があろうと揺るがない、安定そのものの境地となっていくのであります。
 安定した人生観・目的観を持たない人の人生は、あたかも波間に漂う浮き草のような儚(はかな)い人生となってしまいます。
 それは、人間として生きているのではなく、死なないでいるだけの存在であり、これは「定」の欠落であります。
 総本山第66世日達上人は、
 「いかなる魔にも紛動されないというのが定である」(『大日蓮』S41.3 11頁)
と仰せになっております。
 私どもが自行化他の信心に励む時、色々な形で障魔が競い起こってきます。
 そういう時こそ、恐れず、怯(ひる)まず、純粋な信心を貫き通していくことが大事であります。

【進-倦まず弛まず信仰実践】
 5番目が「進」であります。「精進」ということであります。
 釈尊は、
 「人は過去に遊び、未来の空想にふける。これは怠惰(たいだ)な者の習性である。一生を真剣に生きる人は今を大切にし、精進努力する。大切なのは『今、瞬間、一刹那(せつな)』に全力を注ぐことである」(長老偈経取意)
と、今、この一瞬を真剣に生きることの大事と難しさを説かれております。
 「精進」の本来の意味は仏道に徹することであります。仏典には次のような説話があります。
 「ある時、山が火事になった。その山には一羽の雉(きじ)がいた。雉は山に住む仲間を救うために、山を越え、池に飛び込み、その身を濡らし、山に帰っては翼(つばさ)の雫(しずく)で火を消そうとした。当然、火の勢いは変わらなかった。それでもけっしてやめようとはしなかった。その雉の努力に感じた帝釈天が最後には火を消した」
というものです。
 ここで見逃してはならないのは、すぐに逃げれば自分は助かるにもかかわらず、逃げずに他者の命を救おうという慈悲の精神の大事が、ここに説かれていることであります。
 つまり、精進とは成仏を目指して雑念や謗法の行為を払い、倦(う)まず弛(たゆ)まず、自行化他の実践に邁進(まいしん)していくことを言うのであります。
 大聖人は、
 「月々日々につよ(強)り給へ。すこしもたゆ(弛)む心あらば魔たよりをうべし」(御書1397頁)
と仰せです。
 妙法の信行学が深まりゆけば、自我に振り回されることもなく、人々のために生きようとする、力強い利他の振る舞いとなることは間違いありません。
 道歌に「たゆみなき 歩みおそろし かたつむり」というものがあります。これは精進することの大切さを歌ったものであります。
 月々日々に自己の境界を開きつつ、人間として大きく成長していくためにも、精進は欠かせないのであります。

【捨-不自惜身命の修行】
 6番目が「捨」であります。これは「喜捨」あるいは「施捨」ということであります。
 「捨」は一往「この身を仏法のために捨てる」という意味であります。
 しかし、大聖人はもう一歩深い境地から『御義口伝』に、
 「是の身を捨てゝ仏に成ると云ふは権門(ごんもん)の意なり」(同1744頁)
と、「すてる」と読むのは爾前権経の読み方であり、真実の「捨」とは、
 「是の身を捨(ほどこ)す」(同頁)
と読まなければならないと御教示なされております。
 日達上人は、
 「妙法蓮華経のために信行を惜しまず、一心欲見仏・不自惜身命の修行が捨である」(『大日蓮』S41.3 11頁)
と仰せられております。
 自己に対する執着を捨てて、他者の幸福のために自分の命を施していく利他の振る舞いが「捨」なのであります。
 これが大乗仏法の骨髄であり、地涌の菩薩の生き方なのであります。

【慚-自他共に慚】
 最後が「慚」であります。「慚愧(ざんき)」であります。
 世間でも「慚愧の念に堪えない」と言いますが、「慚」も「愧」も共に、はじるということであります。
 自分を省みるということであり、これも人間としての輝きをもたらす重要な特質であります。
 小乗教では慚が「自らの罪を内心で恥じること」であり、愧は「自らの罪を他人に告白して恥じること」と説かれております。ですから、小乗における「慚」と「愧」の違いは、罪を内心で恥じるか、他人に告白するかの違いに過ぎず、自分の内面の問題に限定されていることが判ります。
 これに対して、大乗教である涅槃経によりますと慚が「自ら罪を作らない」ことであるのに対し、愧は「他に教えて罪を作らせない」ことと説かれております。
 つまり、作った罪をどの相手に恥じるかということより、とにかく自分が罪を作らないとともに、他人にも教えて罪を作らせないという、前向きで積極的な行動であることが判ります。
 特に、他人に教えて罪を作らせないというのは、大乗仏教の特質を表していることがよく判ります。
 自分1人の内面のみに限定せず、他人に対して能動的に関わりつつ救済していく慈悲の精神が、よく表れています。

【受持信行することによって我が身即宝塔なり】
 以上、七宝を順次見てきましたが、どれをとってみても、すべて根底に相手を救おうという慈悲の精神、利他の精神が流れていることが判ります。
 つまり、自行化他の実践なくしては、己れの生命を七宝で飾ることはできないということになります。
 なお、大聖人は『阿仏房御書』のなかで、一切衆生の一身は地水火風空の五大によって成り立っており、この五大は妙法蓮華経の当体であり、宝塔であると仰せられていますが、それだからといって、直ちに自分は妙法の当体である、宝塔であると考えることは間違いであります。
 つまり、だれもが等しく宝塔と称することができるわけではなく、『阿仏房御書』に、
●法華経を持(たも)つ(御書792頁、全集1304頁)
●南無妙法蓮華経ととなふる(同頁)
●宝塔をば夫婦ひそかにをがませ給へ(御書793頁、全集1305頁)
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などのお言葉があるとおり、御本尊を信受し、持って、題目を唱えていくなかにこそ、初めて我が身が妙法の当体・宝塔と顕れることを知らなければなりません。
 御本尊と境智冥合することによって、我が身即宝塔となるのであって、御本尊に対する信と行を忘れて、直ちに我が身即宝塔と理解することは大きな誤りと言わなければなりません。
 故に、大聖人は『御義口伝』に、
●今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉るは有(う)七宝の行者なり(同1752頁)
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と仰せられているとおりであります。
 これは、南無妙法蓮華経の一法を持ち、実践する人に、七宝の価値を使いこなす力が具わってくるというのであります。
 いかに自分のなかに七宝を持っているといっても、信心がなければ、それは活(い)かされないのであります。
 このように、日蓮大聖人の仏法においては、七宝を単に理念として、生命を飾るものとして言っているのではなく、生命の尊厳を事実の上で開き示していく、実践の軌範として展開されていることを、けっして忘れてはなりません。(以下略)