「泥縄式に探すしかなかった」ニセ本尊(仮題)

(『慧妙』H25.5.1編集)

【学会は想定外の破門で混乱した】
 破門後の創価学会は、「創価ルネサンス」とか「魂(たましい)の独立を勝ち取った」などと聞こえのよい言葉で体裁を繕(つくろ)っているが、それらのフレーズは"独立"や"改革"のための大義名分や理論構築が十分にできていて、満を持して反旗を翻(ひるがえ)した者が言う台詞(せりふ)である。実際は、池田創価学会は理論構築も心の準備もできていないまま宗門から破門され、周章狼狽(しゅうしょうろうばい)し混乱していたのである。それは学会の御用学者・宮田幸一氏の次の述懐(じゅっかい)からも明らかである。
第2次宗門問題は準備無しで起こったようで、対策室でもどのように教義的に創価学会を正当化するかについては、そもそも日蓮正宗の教義については殆ど知らないスタッフばかりだったので、まだはっきりとはしていなかった。そのうち『聖教新聞』で日有の『化儀抄』を使って「法体の血脈」と「信心の血脈」の論争を始めた。私は、法主を中心にした日蓮正宗の体制を作ったのが日有であり、彼の書いた『化儀抄』には圧倒的に日蓮正宗にとって都合のよい部分が多いのだから、そんな資料を使って教義論争をしても敗北するだけだ……(宮田幸一氏のHPより)
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 そこで仕方なく御用学者を総動員し、かつて自分達が破折したはずの邪宗による日蓮正宗誹謗(ひぼう)論法を、無節操に受け売りするなどして、宗門誹謗と自己正当化に血道を上げ始めたのである。


【破門後の本尊問題が深まる】
 また、本尊に関しても、宗門と敵対した後の会員への本尊下付について予(あらかじ)め対策が練られていたわけではなく、破門が避けられない事態になってから慌(あわ)てて下付用本尊のオリジナルを血眼(ちまなこ)になって探し始めた、という始末であった。その点も前述・宮田氏が以下のように証言している。
◆日蓮正宗との非妥協的な対立が避けられないということが明らかになると、多くの会員の自宅にある日顕の本尊をどうするかということが問題になり、学会独自の本尊を作成しようとなった
◆多くのスタッフは教義とは無関係に日蓮の曼荼羅(まんだら)を欲しがっていた。それで実際に候補になりそうな本尊を探したところ、あるにはあったが、模刻本尊で、当然オリジナルの本尊は別のところにあるから肖像権の問題があり使用できそうになかった。もう少し準備期間があれば、創価学会の財力に物を言わせて、日蓮筆の曼荼羅を何らかの手段で購入するか、肖像権を購入することはできたと思われるが(中略)、なにせ突発事故みたいなものだから、泥縄式に探すしかなかった。それで次善の策として日興筆の本尊を探すと栃木浄円寺に日興筆の曼荼羅があったという情報が伝えられた。これは『日興上人御本尊集』にNo.223と表示されている本尊だが、そこには写真版も図版も記載されていず、未調査の曼荼羅とされている。ところがその後の情報では、御厨子(ずし)に入れるときに、御厨子が曼荼羅よりも小さかったために、曼荼羅の上部が一部分切り取られていて、どうも本尊として使用するには具合いが悪いということのようで、この話も立ち消えになった。その後の経過は知らないが、最終的には日寛の曼荼羅を使用することになった。(宮田幸一氏のHPより)
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 「創価学会の財力に物を言わせて」とか「泥縄式」と素直に白状している箇処が笑えるが、現在、学会員が拝んでいる本尊は、とにかく「何でもいいから探せ」と命令されて闇雲(やみくも)に物色した挙(あ)げ句、ようやく入手した御本尊がコピー元になっており、それを複写し修正加工しただけの、値打ちの全くない代物(しろもの)なのである。かつて小樽問答で池田らが身延のお土産本尊を嘲笑(ちょうしょう)したことがあるが、それと変わらぬニセ本尊(魔札)であることを学会員は知らなければならない。
 こうした、池田創価の破門直後の狼狽ぶりと、泥縄式本尊作成の顛末(てんまつ)を見ると、「創価ルネサンス」だの「魂の独立を勝ち取った」だのという美辞麗句(びじれいく)が、いかに鼻白(はなじろ)む負け惜しみであったかが分かる。
 そしてそれ以後も、破門された腹癒(はらい)せのために根拠なき宗門誹謗や訴訟を繰り返し、一方で、相次ぐ脱会者を食い止めるために池田のカリスマ性強化が必要と勘違いしたのか、池田偉人化を目論(もくろ)んで名誉称号の乱獲、自己宣揚に明け暮れるなど、無価値な目的のために時間と労力と資力を費やしてきたのが、池田創価のこの20年であった。