「大御本尊はただのモノ」!?
―御本尊を仏の当体と拝せぬ池田大作―
―「法」にのみ囚われニセ本尊作成へ―
(『慧妙』H25.10.1)
前回、戸田氏と比べて、いかに池田の本尊観がデタラメであるかを紹介した。その池田の本尊観を象徴する発言が、
◆宗祖日蓮大聖人が、この御本尊も、ただ信心の2字におさまれり、と言われたのであります。信心の2字の中にしか本尊はないんです。本門戒壇・板御本尊がなんだ。寛尊は、信心の中にしか本尊はないと。ただのモノです。一応の。機械です。幸福製造機だもの。(第70回本部幹部会 H5.9.7)
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というものであった。
今回はこの発言を掘り下げて、池田の狂った本尊観を明らかにしていこう。
さて、上記発言を端的に要約すれば、信心の中に本尊があって、それを紙幅なり板などに顕(あら)わした本尊は単なる物質である、ということであろう。
ここで、まず1つ問題となるのが、信心の主体者が誰なのか、ということである。前回も紹介したが、池田はこうも言っている。
◆この御本尊は、自分の「信心」のなかにこそあると大聖人は仰せです。妙法の当体である自分自身、人間自身が大事なのです。その胸中の妙法を顕わすためにこそ、御本尊が、こよなく大切なのです。(『聖教新聞』H4.7.5)
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平成4年の時点では「その胸中の妙法を顕わすためにこそ、御本尊が、こよなく大切」と取って付けたようなことを言っているが、本部幹部会発言を見れば明らかなように、つまりは、末法の衆生の信心こそが根本であり、その中にしか本尊がない、と言っているのである。
よって、紙幅や板の御本尊を指して「ただのモノ」等の暴言を発することができてしまうのである。戸田氏の指導には一切見られない池田独自の本尊観である。
もし、現在の学会内で、これが本当に信じられているのなら、その宗教の正邪は抜きにして問いたいことがある。
信仰とは何か?信仰とは、神仏を真摯(しんし)に信じ崇(あが)め、救いを求めることではないのか?
また、池田の理論のごとくならば、創価学会員になれば、自己の信心に救いを求めれば成仏できることになる。それでは、その信心とは、いったい何を信ずる心なのか?
◆曼荼羅(まんだら)それ自体は、物体という側面からいえば永遠不滅ではありえない。(中略)いずれにしても、大聖人の仏法の真髄である「久遠元初の法」を根本としてこそ、永遠の妙法流布の道が開ける(『聖教新聞』H5.5.5)
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の発言に見られる、いわゆる"久遠元初の法"なのか。もし、そうであれば、それをどうやって認識し、どうやってそこに心を定めて信ずるのか?
創価学会はすでに宗教としての信仰が崩壊しており、神仏の救いなど望むべくもない。
元を正せば、現在の創価学会が本尊に迷う元凶は、偏(ひとえ)に、
「池田氏の本尊観・妙法観が、御本仏大聖人の己証から外れた法偏重(へんちょう)の外道義であり、まさに本宗の根本義たる仏宝・法宝の意義内容を、我見をもって改変する大謗法の邪義である」(『創価学会解散勧告書』)
「本宗の三宝中、仏宝及び法宝の意義内容たる人法一箇の御本尊について、池田大作氏は、『宇宙根源の法をそのまま御図顕あそばされた大御本尊』などという、御本仏大聖人の己証から外れた法偏重の謬義(びゅうぎ)を繰り返し述べております。これは、まさに本宗の教義を破壊する大謗法であります」(『創価学会破門通告書』)
と指摘される池田の「法偏重の妙法観」に起因するのである。
●日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ(御書P685)
●法華経の題目を以て本尊とすべし(乃至)釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給えり。故に全く能生を以て本尊とするなり(御書P1274)
●一念三千の法門をふ(振)りすゝ(濯)ぎたてたるは大曼荼羅なり(御書P523)
●心に本尊を信ずれば、本尊即ち我が心に染み、仏界即九界の本因妙なり。口に妙法を唱うれば、我が身即ち本尊に染み、九界即仏界の本果妙なり。境智既に冥合す、色心何ぞ別ならん(文段集P545)
●亦復(またまた)当(まさ)に知るべ、若し草木成仏の両義を暁(あきら)むれば、則ち今(いま)安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂(おも)うこと勿(なか)れ云云(文段集P214)
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池田は、これら大聖人・日寛上人の御訓誡を反故(ほご)にし、ニセ本尊の作成・販売という大謗法に手を染めていくのである。

▲ニセ本尊作成・販売の決定を発表した『聖教』(H5.9.8)