仏力・法力と信力・行力(仮題)

(『大白法』H23.3.1)

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信心の2字の中にしか本尊はない
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 これは池田大作が『日女御前御返事』の「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(御書1388頁)の御文を勝手に解釈したものです。
 池田は、さらに日寛上人の御文を悪用して「御本尊といっても、大切なのは『信心』である」(池田スピーチH5.9.7)と主張していますが、これは御本尊よりも自分達の信心を中心と考える本末転倒の己義からくる邪説です。
 日寛上人は『文底秘沈抄』に
●境能く智を発し、智亦行を導く。故に境若し正しからざる則(とき)んば智行も亦随って正しからず(六巻抄42頁)
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と説かれています。
 すなわち対境の御本尊があって、はじめて凡夫の信心(智)が発現し、信心(智)によって修行(行)が導き出されるゆえに、もし対境の御本尊が正しくなければ、信心も修行も正しいものではなくなるのです。
 池田の「御本尊といっても、大切なのは『信心』である」との発言は、凡夫の信心を中心にして本門戒壇の大御本尊をないがしろにするものであり、根拠のない邪説です。(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』46頁/『大白法』H23.3.1)

<解説>
 日蓮正宗の信仰においては、御本尊に具わる仏力・法力と、私たちの信力・行力との4種の力用が調うことが重要です。日寛上人は『観心本尊抄文段』においてこの「四力」の重要性を説示され、「信力」について、
●一向に唯此の本尊を信じ、此の本尊の外には全く仏に成る道無しと強盛に信ずるを即ち「信力」と名づくるなり(御書文段228頁)
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と、御本尊を唯一の成仏の道であると強盛に信じる心が大切である旨を説かれています。この意味でいえば「大切なのは信心である」という言葉も一見正しいと思われるかもしれません。しかし、その前提に御本尊が主体として示されているのですから、この御教示を「御本尊よりも、自分の信心の強さこそが大切である」というように解釈してしまうならば、それは大きな誤りであると言わざるを得ません。
 妙楽大師は『弘決』の中で、
●若し正境に非ずんば、縦(たとい)妄偽無けれども亦種と成らず(止観会本上175頁)
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と、正境(正しい信心の対象=本尊)を選ぶことの大切さを明かされました。たとえ疑いなく、真剣に信仰したとしても、対境である本尊が正しいものでなかったならば、それは成仏の因とはならない、という意味です。
 そもそも「信心の2字の中にしか本尊はない」のであれば、仏法においてこのように「正境」の重要性が説かれる必要はありません。さらに上掲の『文底秘沈抄』の御教示を拝すれば、自分の信心を重視し御本尊を軽視することの恐ろしさが、一層理解できるはずです。
 『観心本尊抄文段』では、さらに続いて、
●若し法力無くんば何ぞ信行を生ぜん。是の故に本尊を仰ぎ奉り法力を祈るべし(中略)我等法力に依って信力・行力を生ずと雖も、若し仏力を得ざれば信行退転更に疑うべからず(中略)我等仏力を蒙(こうむ)れば則ち信行成就して、速やかに菩提を得るなり(御書文段229頁)
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と、四力和合といっても御本尊に具わる法力・仏力こそが根本であり、御本尊を軽視して自分自身の信力・行力のみに頼っていては成仏することはできないことを明確に御教示です。
 すなわち、「信心の2字の中にしか本尊はない」のではなく、「正しい本尊に向かわなければ、正しい信心とはならない」のです。故に、究極の正境たる本門戒壇の大御本尊に向かい奉ってこそ、四力が和合する正しい信心となることを知るべきです。
 妙楽大師は、
●縦使(たとい)、発心真実ならざる者も、正境に縁すれば功徳猶多し(学林版止観会本上175頁)
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と正境の大切さについて説いています。日蓮正宗の正しい御本尊に具わる仏力・法力こそが、私たちの信力・行力を導き、そこに大きな功徳が生ずるのです。
 仏力・法力の大切さを見失い、大御本尊から離れてしまった人々が、再び大御本尊に向かって正しい信力・行力を発揮し、共に成仏への直道を歩むことができるよう、私たちは折伏の実践行動を重ねてまいりましょう。