すべりまくる『ニセ本尊』

(『大白法』H26.8.1)

【ツルツルの『ニセ本尊』】
 創価学会のツルツルの『ニセ本尊』については、平成23年に本欄で述べたことがある。
 本尊本紙と周囲の表装を、そのまま一枚刷りにしているから、ポスターのようにツルツルなのだ。
 創価学会は、この『ニセ本尊』の正当化に躍起になっている。最近でも、
 「日顕宗の権威主義を象徴する最たる暴挙は、学会員への御本尊下付を停止したことであろう」(『創価新報』H26.5.21)
と述べている。だから、
 「学会は1993年(平成5年)9月、日寛上人御書写の『御形木御本尊』を、全世界の会員に授与していくことを決議するに至った」(同)
というのだ。
 池田大作の大謗法路線の言いなりになった幹部たちが、悪知恵を巡らして考えた言い訳である。
 自分たちの大謗法を棚に上げて、ウソと悪口で塗り固めた宗門批判で、御法主上人と宗門を悪者に仕立て上げ、だから『ニセ本尊』を作っても販売してもいいんだ、というのだ。
 盗人猛々しいとは、このことである。

【創価学会に正統性はない】
 しかし、考えてもみよ。増上慢と大謗法では、大作に全く引けを取らない浅井昭衛の顕正会ですら、会員向けの『ニセ本尊』は作っていないのだ。
 なぜか。浅井には正当化できないからである。
 大作の愚かなところは、絶対に正当化できないことを、必ず正当化できると思うことである。
 「ウソも百回言えば本当になる」とは、大作の有名な迷言であるが、ウソはどんなにごまかしても、所詮はウソなのだ。
 本尊が真正か偽物かの違いは、授与する側の正統性にある。
 日蓮正宗では、御本尊の権能はすべて御法主上人にある。この権能は、
 「血脈の次第日蓮日興」(御書P1675)
に始まり、以来、第3祖日目上人、第4世日道上人、乃至、第67世日顕上人と次第して、現御法主・第68世日如上人の継承あそばされるところである。
 創価学会が血脈を否定しようとして、なんと言い狂おうとも、この真実は微動だにしない。
 創価学会が日蓮大聖人を末法の御本仏と崇めるのなら、その兼知未萌の御仏智を否定することはできないはずである。
 大聖人は下種仏法の血脈が、末法万年・尽未来際まで流れ通うことを御存知なのだ。また、この血脈不断こそが、大聖人および三世十方の諸仏の護念し給うところである。
 したがって、血脈付法の御法主上人の正統性は、どんなことがあっても揺るがないのである。
 それに対して、創価学会の正統性はどうだ。
 創価学会は、
 「御本尊に『法主の許可』が要るなどというのは、御書のどこにも書かれてない」(『創価新報』H26.5.21)
と、鬼の首を取ったかのように言うが、大聖人の御書は、そのほとんどが「二箇相承」以前の御述作ではないか。ならば、日興上人以降のことが書かれていないのは当然である。
 では問う。「創価学会」の文字が御書のどこにあるか。「池田大作」の文字が御書のどこにあるか。なければ正統性はない。

【すべりまくる『ニセ本尊』】
 創価学会の『ニセ本尊』がツルツルであることは、触ってみればすぐ判る。過日、それが判って、ためらいなく脱会し、勧誡を受けたという事例もある。
 『ニセ本尊』は、ツルツルだけにブレーキがきかないから、すべりまくる。『諸宗問答抄』には、禅宗を指して、
 「あなたこなたへすべり、とゞまらぬ法門にて候なり」(御書P35)
とあるが、創価学会の法門のすべることは、禅宗の比ではない。
 そんな連中が作った『ニセ本尊』を拝めば、口がすべり、手がすべるようになるから、人生すべてにすべること、請け合いである。
 極めつけは、臨終である。
 無間地獄にすべり落ちるスピードは、他の追随を許さない。