ツルツルの「ニセ本尊」

(『大白法』H23.11.1)

 創価学会の「ニセ本尊」は、ポスター本尊ともカレンダー本尊とも揶揄(やゆ)されている。本尊の本紙と周囲の表装が、そのまま1枚刷りにされているところが、まるでポスターやカレンダーのようだからだ。
 通常、御本尊様にお給仕申し上げるときは、樒をくわえて慎重にお取り扱いする。また、むやみに触れてはいけない。
 この姿勢は、創価学会が日蓮正宗の信徒団体だった頃に教えられたものだが、今も守られているらしい。
 これを逆手に取ったのが池田大作である。1枚刷りであっても判らないと考えたのだ。だから学会員の中には、表装していないことに全く気付いていない者も多い。
 ウソだと思うなら、よく目を凝(こ)らして確かめて見るがよい。ポスターみたいにツルツルだということは、誰の目にもすぐに判る。

<不信心の正体>
 一般的に、「信は荘厳から」と言うが、たとえどんな宗派であろうと、荘厳さには心を配っている。
 御本尊にとって、表装とは衣装とも言うべきところであり、直接荘厳申し上げる部分である。
 それを「ニセ本尊」の場合は、色と模様を付けて表装したように見せかけ誤魔化しているのだから、荘厳する気など、さらさらないことがよく表われている。
 「ニセ本尊」の姿に表われたのは、第六天の魔王たる大作の正体である。「ニセ本尊」は大作の信心が腐り切っていることを如実に証明しているのだ。
 今こそ創価学会員は、冷静に「ニセ本尊」について考えてみるがよい。
 本尊に、このような誤魔化しを施(ほどこ)して何の痛痒(つうよう)も感じない、大作や大幹部たちの心底の汚さを、自らの目で鋭く見抜き、ニセモノをつかまされていることに気付いて欲しい。
 それでもまだ大作を疑えないなら、なぜ大作は、「ニセ本尊」に表装をしなかったのか、1枚刷りにしたのか、正当な理由が見いだせるか考えて欲しい。

<コスト削減>
 正論を言おう。
 この第1の理由は、本尊の表装などどうでもいいという、不信心である。もっと言えば、大作にとっては本尊などどうでもよいのである。何せ、本尊は自分の胸中にあると言い張っているくらいだから、礼拝の対象との認識が希薄なのだ。
 日寛上人は、
 「本尊とは所縁の境なり、境能く智を発し、智亦行を導く」(『六巻抄』42頁)
とお示しである。それが創価学会の場合、対境である本尊が「ニセ本尊」であるから、智は邪智となり、行は悪行となるのだ。
 第2の理由は、採算重視のコスト削減である。表装しなければ、安上がりだからだ。しかし、信は荘厳から起こる。ケチくさい根性むき出しのポスター本尊は、大作に全く信心がないことの表われなのである。
 むしろ、大作自身がニセと判っているから、こんなことが平気でできるのだ。

<「ニセ本尊」を見抜け>
 末端の学会員は、御法主上人や宗門に対する誹謗中傷を真に受け、宗門憎しとの感情を洗脳され続けて、早20年が経過した。やれ「C作戦」だ何だのと、その間に繰り返された悪口雑言(あっこうぞうごん)は須弥山よりもうず高く積まれている。
 日蓮大聖人は『十字御書』に、
 「我等凡夫はまつげ(睫)のちかきと虚空のとを(遠)きとは見候事なし」(御書1551頁)
と御教示である。
 創価学会員は、学会幹部に言われるままに、『聖教新聞』や『創価新報』の一方的な報道ばかりを見せられ、宗門の教導を全く見ることができない。御法主上人の御指南は遠くに置かれ、拝することができないかも知れないが、「ニセ本尊」は眼前にあるのだから簡単に確認できる。
 学会員に言おう。「『ニセ本尊』であることを確かめよ!」と。本紙と表装の境目がない、ツルツルの、ポスター同様の「ニセ本尊」だと言っていることは、紛(まぎ)れもない真実であることが容易に判るはずだ。
 それが判ったら、なぜ、こんなものを作ったのか、これが一体、何なのかが判る。「ニセ本尊」と見抜けば、やすやすと創価学会を止められるのである。