『随宜論』の目的と日精上人の善導


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◆右の一巻は予法詔寺建立の翌年仏像を造立す。茲(ここ)に因つて門徒の眞俗疑難を致す故、朦霧(もう
む)を散ぜんが為、廃忘(はいもう)を助けんが為に筆を染むる者なり。(『随宜論』)
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 大石寺系の人々は曼荼羅御本尊以外を本尊とは認めないし、仏像の安置自体を謗法だと思っている。また彼らは、日蓮大聖人は自受用身如来であり末法の御本仏、曼荼羅御本尊は即日蓮大聖人であると思っている。
 一方、要法寺系の信徒の中には久成釈尊に執着し、これを中央の本尊として拝みたいと思っている人がいる。そして、そのような人は、大聖人が釈尊以上に尊い存在(末法の御本仏)であることを信じられない。
 仏像に執着する要法寺系信徒を善導しつつ、仏像を嫌う大石寺系信徒に理解を求める。これこそが、日精上人が抱えられた大きな課題であり、その課題を克服する方法の1つとして認められたのが『随宜論』である。


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◆又五人所破抄に云く「諸仏の荘厳同じと雖も印契(いんけい)に依つて異を弁(べん)ず如来の本迹は測り難し眷属を以て之を知る、所以に小乗ノ三蔵の教主は迦葉・阿難を脇士と為し伽耶(がや)始成の迹仏は普賢文殊左右に在り、此の外の一躰の形像豈(あに)頭陀(ずだ)の応身に非ずや、凡(およ)そ円頓の学者は広く大綱(たいこう)を存して綱目を事とせず倩々(つらつら)聖人出世の本懐を尋ぬれば源と権実已過の化導を改め上行所伝の乗戒を弘めんが為なり、図する所の本尊は亦正像二千の間・一閻浮提の内未曾有の大曼荼羅なり、今に当つては迹化の教主・既に益無し況んや哆哆婆和(たたばわ)の拙仏をや。
 次に随身所持の俗難は只是れ継子一旦の寵愛・月を待つ片時の螢光か、執する者尚(なお)強いて帰依を致さんと欲せば須(すべか)らく四菩薩を加うべし敢て一仏を用ゆること勿(なか)れ」文。(『五人所破抄』/『随宜論』)
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◆次に五人所破抄の事、是れ亦一体仏を制止するの文にして而も未だ久遠実成の釈迦仏を制止するの文を見ず。其の故は初に尓前迹門の仏の相を挙げ畢(おわっ)て、次ぎ下に宗家の本尊を示して相待して尓前迹門門の仏は今末法に迎へて益無しと嫌ふ、明かに知んぬ久遠の釈迦を制せざる事を。随身仏も一体仏の故に小権迹本の不同明らめ難し、若し帰敬(ききょう)致さんと欲せば四菩薩を加えて久遠実成の自受用報身如来と成し奉つて帰敬すべし、若し尓(しか)らずんば小権迹本混乱して弁(わきま)へ難し、故に一仏をば用ゆべからざるなり。是れ即ち還(かえ)つて久遠の釈迦造立の明文にして敢て不造の証文には非らざるなり。(『随宜論』)
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 大聖人や日興上人の時代には仏像に執着する信徒が多く存在した。これは、宗旨草創の時であり化導の段階上、仕方のないことであったといえよう。だから、本尊としての造仏を容認されていた。
 翻って日精上人時代の要法寺系信徒はどうであったかといえば、信教の自由が十分には認められず、寺院ごとに改宗が実施されたと思われる。彼らは日蓮大聖人と大聖人書写の曼荼羅御本尊を信じている一方で、仏像に執着している。仏像を拝むことは謗法であるが、大石寺を本山と仰ぎ、日蓮大聖人と曼荼羅御本尊を信じている人々を無礙に断罪し見捨てることは、宗旨草創期の仏像に執着している信徒を謗法だと切り捨てるようなものではないか。
 日精上人は、以上のような理由から宗旨草創期の方便による善導に準じて、大聖人や日興上人の造仏容認の文証を根拠として、敬台院をはじめとする仏像に執着する要法寺系信徒を擁護されたと思われる。


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◆日代上人の御書に云く、仏像造立の事は本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し、国主御帰依の時三ケの大事一度に成就せしめ給ふ可きの由御本意なり。御本尊の図は其の為なり文。此の文実録の内に興師の御義に符合す、然らば富山の立義は造らずして戒壇の勅許を待ちて而して後に三ケの大事一度に成就為す可きなり。若し此の義に依らば日尊の本門寺建立の時に先きんじて仏像を造立して給ふは一箇の相違なり。罪過に属す可しと云はば未だ本門寺建立の時到らず本門寺と号するは又一箇相違なり罪過に属す可きや。此の如きの段今の所論に非らず。願くは後来の学者二義を和会せば造不造は違する所無くして永く謗法を停止して自他共に成仏を期すのみ(『随宜論』)
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 しかし一方、『随宜論』の最後には「仏像造立の事は本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し、国主御帰依の時三ケの大事一度に成就せしめ給ふ可き」という西山日代の書を紹介したのち、戒壇建立後にはじめて仏像をつくるのが大石寺の「立義」だとしている。そして、要法寺開山の日尊が本門寺建立前に仏像を造立したことや、西山が本門寺と名乗ることを挙げて「一箇相違なり罪過に属す可きや」としている。
 これは明らかに広布達成前の造仏制止の立場であるが「此の如きの段今の所論に非らず。願くは後来の学者二義を和会せば造不造は違する所無くして永く謗法を停止して自他共に成仏を期すのみ」という言葉で結び、「二義を和会」する内容については示されていない。
 『随宜論』では本尊としての造仏を容認する文証を挙げて、仏像に執着する要法寺系信徒を擁護したが、実際に行われた化儀はどうであったか。
 日精上人時代に造仏されたとされる文証を見ると、「釈迦・多宝」の文字はあっても「釈尊」の文字はない。このことと、敬台院が曼荼羅御本尊を拝んでいたこと、法詔寺建立時には仏像がなかったこと等を考え合わせると、造仏は曼荼羅御本尊の脇士であったと思われる。
 これこそが、「二義を和会」する内容であり、日精上人が要法寺系信徒に許されたギリギリの化儀だったのではないか。


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●五人一同に云く本尊に於ては釈迦如来を崇(あが)め奉る可し既に立て随て弟子檀那等の中にも造立供養する御書之れ有り云云(中略)日興云く聖人御立の法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊とせず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可し即自筆の本尊是なり
[精師・註釈]=是本尊問答抄、妙法曼陀羅供養抄の二文意なり、草案並びに日尊実録本門心底抄日代状等は余の文意なり(第17世日精上人著『富士門下家中抄上』/『富士宗学要集』第5巻166頁)
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―「草案並びに日尊実録本門心底抄日代状等は余の文意なり」―
◆例せば興師の御草案(五人所破抄)に、但四悉の廃立、二門の取捨宜しく時機を守り、敢えて偏執すること勿れと云うが如し(日辰の義『末法相応抄』/『富士宗学要集』第3巻)
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『五人所破抄』では、強執の機に対する方便として四菩薩添加の造仏を容認されていた。また、「日尊実録本門心底抄日代状等」は三大秘法の1つである「本門の本尊」を仏像とし、広布達成後の本門寺に仏像が安置されるとしている。その意味で造仏を絶対認めない●に対すれば「余の文意」ということである。ここだけ読めば強執の機に対しては本尊としての造仏も許されるという意味にもとれるが、そうではない。実際に行われた造仏は曼荼羅本尊の脇士に過ぎなかったのである。

●又五人所破抄に云く「諸仏の荘厳同じと雖も印契(いんけい)に依つて異を弁(べん)ず如来の本迹は測り難し眷属を以て之を知る、所以に小乗ノ三蔵の教主は迦葉・阿難を脇士と為し伽耶(がや)始成の迹仏は普賢文殊左右に在り、此の外の一躰の形像豈(あに)頭陀(ずだ)の応身に非ずや、凡(およ)そ円頓の学者は広く大綱(たいこう)を存して綱目を事とせず倩々(つらつら)聖人出世の本懐を尋ぬれば源と権実已過の化導を改め上行所伝の乗戒を弘めんが為なり、図する所の本尊は亦正像二千の間・一閻浮提の内未曾有の大曼荼羅なり、今に当つては迹化の教主・既に益無し況んや哆哆婆和(たたばわ)の拙仏をや。
 次に随身所持の俗難は只是れ継子一旦の寵愛・月を待つ片時の螢光か、執する者尚(なお)強いて帰依を致さんと欲せば須(すべか)らく四菩薩を加うべし敢て一仏を用ゆること勿(なか)れ」文。(『随宜論』)
●本門心底抄の云く、本門の戒壇其れ豈(あ)に立たざらんや、仏像を安置すること本尊の図の如し文。(『随宜論』)
●日尊実録(日大記之)に云く、第三に云く、一、久成の釈迦造立有無の事、日興上人仰に云く、末法は濁乱なり、三類の強敵之れ有り、尓らば木像等の色相荘厳の仏は崇敬するに憚(はばか)り有り。香花燈明の供養も叶ふべからず。広宣流布の時分まで大曼荼羅を安置し奉る可し云云。
 尊の仰に云く、大聖人御代二ケ所之を造立し給へり。一ケ処は下総国市河真間富木ノ五郎入道常忍、三ソ木を以て造立す。一ケ所は越後ノ国内善浄妙比丘尼造立して之れ有り云云。御在世に二ケ処なり。
 身延の沢の仏像等聖人没後に様々の異議之れ有り、記文は別紙に之れ有り云云。総じて三ケ処之れ有り、此等は略本尊なり、但し本門寺の本尊造立の記文相伝別に之れ有り云云。
 予が門弟相構へて上行等の四菩薩を相副(そ)へ給へる久成の釈迦略本尊資縁の出来檀越の助否に随つて之を造立し奉り広宣流布の裁断を相待ち奉る可きなり文。(『随宜論』)
●日代上人の御書に云く、仏像造立の事は本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し、国主御帰依の時三ケの大事一度に成就せしめ給ふ可きの由御本意なり。御本尊の圖は其の為なり文。(『随宜論』)



随宜論

(日精上人述『随宜論』/『地涌からの通信』5)

 當家(とうけ)に於て古来従(よ)り造仏読誦を制止すること年久し。爰(ここ)に信心の檀越(だんのつ)有 りて来つて愚に問て曰(いわ)く、諸の門徒皆仏像を造立し一部を読誦す、富山(ふざん)の一家は何の意趣有りてか此の義を許さざるや。願くば其の意を示せ。
 愚之に語りて曰く、聖人出世の本懐は三箇の秘法を弘通せんが為なり。造仏は即ち一箇の本尊なり、誰か之を作らざる。然るに今に至るまで造立せざることは聖人の在世に仏像を安置せざるが故なり。
 読誦は一段摂折時異るなり。是の故に誦経廣略殊なると雖(いえど)も共に以て読誦す。此の問に因(よ)りて管見に任せ諸文を勘(かんが)へ宗意を得て他の侮(あなど)りを禦(ふせ)がんと欲して文を睹(み)るに心盲(くら)く、義を聴くに性聾(せいろう)にして其の器に非ずと雖も、要用の文を集めて愚が廢忘(はいもう)を助くるのみ。
 此の義を明かさんと欲すに二あり、初には造仏、次には読誦なり。
 初に造仏を云はば亦三あり、道理と文證と外難(げなん)なり。

 初に道理を云はば、権教の意に約せば、造仏は悪趣に堕さざるの因。天上に生ずの縁なり。権経猶(なお)此(かく)の如し況(いわ)んや実大乗の法華経は小善悉(ことごと)く成仏す、造像の大善は言論すべからず、所有の業障皆徐滅を得、衆(もろもろ)の苦悩を離れ、見聞の益を得、具(つぶ)さには異相珠林心宝等諸経を引きて之を明かすが如し、繁(しげ)き故に之を略す。

 二に、證を引かば、観心本尊抄に云く、「其の本尊の為体(ていたらく)本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊の脇士上行等の四菩薩・文殊弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し迹化他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く十方の諸仏は大地の上に処し給う迹仏迹土を表する故なり、是くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し八年の間にも但八品に限る、正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し権大乗並に涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す此等の仏をば正像に造り画(えが)けども未だ寿量の仏有(ましま)さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか」文。
 報恩抄下云、「一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂(いわゆる)宝塔の内の釈迦多宝・外(そのほか)の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」文。
 唱法華題目抄ニ云く、「問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何にてか候べき、答えて云く第一に本尊は法華経八巻一品或は題目を書いて本尊と定べしと法師品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし、又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし」文。
 問、此文十方の諸仏なるカ故ニ阿弥陀仏を造立すべきや、答て曰く、一切経並に天台日蓮の御義、十方諸仏其の名定れるや、十方の諸仏を云うに阿弥陀の名之れ無し、普賢観経に東方善徳仏・南方栴檀徳仏の二仏を挙げ、餘(よ)の八方仏の御名を略す。観仏三昧経と天台の法華三昧儀と祖師の御書とには、具さに十方仏の名を挙ぐ千日尼御前御書に云く、「十方の仏と申すは東方善徳仏・東南方無憂徳仏・南方栴檀徳仏・西南方宝施仏・西北方華徳仏・北方相徳仏・東北方三乗行仏・上方広衆徳仏・下方明徳仏なり」文。
 此の十方仏中阿弥陀の名を載せず、十方仏の大将を挙げ、即ち阿弥陀を納む可きや。
 又聖人御自筆本尊に云く、南無釈迦牟尼仏、南無多宝如来、南無東方善徳仏、南無十方分身の諸仏、南無上行菩薩等文。此(かく)の如き本尊数多有り、若し乍(しか)らば御書曼陀羅の如く作る可きや。
 問て云く、第六天の魔王提婆達多等を造立す可きか如何。答て云く、力有らば、魔王提婆を作るべし、但し心に随ふ可しと判ぜる故に、意楽(いぎょう)に随ふ可きなり。又大聖人御在世を案ずるに御開眼度々なり。所謂(いわゆる)真間釈迦仏供養抄、四條金吾釈迦仏供養抄、日眼女釈迦仏供養抄、木絵二像開眼等なり、是れ皆一体仏を造立するなり。宗祖所弘の三箇の秘法の本尊に非ずと雖も各々開眼を為すなり。繁文(はんもん)を恐れ之を出ださず往見(おうけん)すべきなり。

 第三に外難を遮せば、問て云く、富山一家造仏を許すとなすや否や、若し之を許さば何(いか)んが意造立せざらんや、若亦許さずんば上の諸文如何(いかに)会用(えよう)せんや。
 答え云く、古来従(よ)り多義有りと雖も愚意に任せば造仏を許すべき歟(か)。問う、若し造仏を許さば不審繁多なり、案ずるに聖人御在世(中)は仏像造立されず、深く所以(ゆえ)有る故なり。若し造立して苦しからずんば釈迦を立像して四菩薩を加へられざるや、其ノ上御遷化記録に云く「仏は釈迦立像墓所の傍(かたわら)に立て置くべし」云々文。是れ不造仏の現証なり是一。
 又本因妙抄に云く「仏は熟脱の教主・某(それがし)は下種の法主なり」文。熟脱の仏とは未だ惑を断ぜず我等が機には不相応故造る可からざるなり。是の故に日有師化儀抄に云く「當宗の本尊の事日蓮聖人に限り奉る可し」文。一百六箇血脈抄に云く「下種感応日月の本迹 下種の仏は天月・脱仏は池月なり」文。是れ即ち下種の法主は日蓮、天月は脱仏、釈迦は水月の証文なり。之に就いて弥々(いよいよ)深意あり、古徳の云く「久遠元初自受用報身とは本因名字即日蓮の事なり、故に日蓮を下種仏と名づ<るなり是二。
 又本尊七箇決に云く「明星直見の本尊の事如何、師の曰く、末代の凡夫幼稚の為めに何物を以て本尊とす可きやと虚空蔵に御祈請(きしょう)ありし時、古僧の示して云く、汝等が身を以て本尊となす可し、明星が池を見給へとの玉ふ。即ち彼池を見るに不思議なり、日蓮が影今の大曼荼羅なりと云云」文。三箇の秘法の本尊全く日蓮が形像なり。此の故に日蓮の御影を以て本尊と為す、色相荘厳の仏を造立すべからざるなり是三。
 又五人所破抄に云く「諸仏の荘厳同じと雖も印契(いんけい)に依つて異を弁(べん)ず如来の本迹は測り難し眷属を以て之を知る、所以に小乗ノ三蔵の教主は迦葉・阿難を脇士と為し伽耶(がや)始成の迹仏は普賢文殊左右に在り、此の外の一躰の形像豈(あに)頭陀(ずだ)の応身に非ずや、凡(およ)そ円頓の学者は広く大綱(たいこう)を存して綱目を事とせず倩々(つらつら)聖人出世の本懐を尋ぬれば源と権実已過の化導を改め上行所伝の乗戒を弘めんが為なり、図する所の本尊は亦正像二千の間・一閻浮提の内未曾有の大曼荼羅なり、今に当つては迹化の教主・既に益無し況んや哆哆婆和(たたばわ)の拙仏をや。
 次に随身所持の俗難は只是れ継子一旦の寵愛・月を待つ片時の螢光か、執する者尚(なお)強いて帰依を致さんと欲せば須(すべか)らく四菩薩を加うべし敢て一仏を用ゆること勿(なか)れ」文。
 此の文の如くんば、今時に當って尓前(にぜん)迹門の仏は悉く無益と嫌い、聖人所持の立像一旦の義なり。明かに知んぬ不造仏なるを是四。
 有(ある)が云く、當家の本尊は法宝勝る故法華経を以て本尊と為(す)るなり。本尊問答抄の如し。又云く、板本尊は富士山本門寺本堂の本尊なり、御端書亦其の所以なり。此等の義を以ての故に造仏すべからず如何が会用せんや。
 答え云く、聖人御在世に仏像を安置せざることは未だ居処定まらざる故なり如何。鎌倉比企谷(ひきがやつ)は転法輪の地、名越松葉が谷(やつ)は安国論の作窟なり。共に以て国主の為に破却せらる。
 或は伊豆・佐渡の遠嶋適(たまたま)は帰ると雖も、旧里亦法敵隙(すき)を闚(うかが)ふ故に未だ片時も安堵せず、国主帰依なき故一歩地も領無く何処(いずこ)に卜居(ぼっきょ)せん。亦身延山蟄居(ちっきょ)は且(しば)らく居処を定むるに似ると雖も勅裁無き故本尊造立も及ばず。
 次に立像釈迦に四菩薩を加えられざること、是又宗祖の本意に非らず、故に若し遺告(ゆいごう)無くんば誤りて立像の釈迦を以て末代の本尊と為し聖人出世の本懐三箇の秘法の本尊を棄て置く可し、故に預(かね)て墓所の傍(かたわら)に立て置くべしと示す云云。御遺言の上、猶(なお)以(もっ)て執する者は立像釈迦を以て本尊と為すべし。是れ則ち五人所破抄に制禁する所なり。此の義を以て不造仏の現証と為すは会(え)するに足らざる者歟(か)。
 次に本因妙抄の事、凡(およ)そ熟脱の教主は第二番成道已来今日の釈迦応身は尽未来際の応身仏を指し熟脱仏と為すなり。宗祖勧請(かんじょう)の釈迦は敢て脱仏に非ざるなり。如何が寿量品の時、近成の門を開いて今日の釈迦応身仏ト見ずして直ちに久遠実成の自受用報身如来ト拝見す。是の故に天台大師の如来寿量品を釈する時、若し別意に従へば正しく報身に在りと云フは亦此の意なり。此の自受用報身如来、上行等を召し出し別付属あり、是れ神力品の形なり。
 此の時の体を今本尊に顕わす故に脱仏を存す可からず。一体仏と雖も四大菩薩を脇士と為すは自受用報身如来なり。是れ五人所破抄の指南興師の御義なり。又一体仏たりと雖も日蓮聖人の御本尊の前に造立する釈迦は久遠実成の釈迦如来報身如来なり。
 若し又久成の報身と雖も卅二相八十種好ならば脱仏なりと云はば、一百六箇に云く「下種の法華経教主の本迹自受用身は本・上行日蓮は迹なり」文。是れ即ち相好(そうごう)を具す而(しか)も下種仏なり。是の故に本尊勧請は釈迦牟尼仏ハ脱仏なる可からずと得意するなり。
 次に日有上人化儀抄の事、未だ明拠を見ざる故慥(たし)かならず信用し難し。但だ歌道は人丸(ひとまる)を以て本尊と為し、医師は薬師を以て本尊と為す等、此等を以て尓亦(にしゃく)ならば先ず一重三箇の秘法の内、一箇の本尊は徒然(いたずら)なる歟。
 次に感応日月本迹の事、是れ亦釈迦と日蓮との相対に非ず、唯仏与仏の相対なり。下種仏とは挙ぐる所の自受用報身、脱仏とは二番已下今日の応身仏なり。是れ即ち本果の釈迦は本なり天月なり。二番已下の脱仏は迹なり池月なり判文なり。
 尓(しか)らば釈迦と日蓮と相対の釈と見るは僻見(びゃっけん)なり。
 次に久遠元初自受用身は即日蓮の事なりとは、此一段甚だ以て不審なり、如何となれば、百六箇に云く、今日蓮が修行は久遠名字の振舞に芥爾(けに)計(ばかり)も違わざるなり文。
 又云く、三世常住の日蓮は名字の利生なり文。御書に云く「日蓮は名字凡夫なり」文。又云く「理即には秀でて名字には及び及ばず」文。諸文悉(ことごと)く日蓮は名字即と判じて未だ凡人に仏名を付くること見ず。但し日蓮の本地は上行、上行の本地は仏なり。今難ずる所は此くの如き義に非ず。天台・妙楽・伝教・蓮祖の義に非らずんば会用し難し。若亦若遇余仏の文を引て云く、天台大師此の文を釈して云く、四依也云云。
 是即ち名字即の日蓮を仏と称する明文なりと云はば亦本文に違す。天台・章安・妙楽の四依を釈する時、或は十信初依、或は初住初依、或は六根五品初依不同ありと雖も名字即初依の未だ明文を見ず、若し尓らば本拠本説の如く得心して後、義を取るは常途の法式なり。
 若し尓(しか)らば頗(かたよ)りて阿黨(あとう)を捨て本文の如く之を論ずる時、文四に云く「便(すなわ)ち界外(かいげ)有餘(うよ)の国に生じ餘仏に値遇し此の経を得聞(とくもん)す○餘仏とは四依なり」文。記の四末に云く「初文は有餘土の仏を以て名づけて餘仏と為す○須(すべか)らく四依に遇うと云うべきのみ」文。玄六に云く「初依は餘仏に名づく、無明を未だ破らず、之を名づけて餘と為す。能く如来秘密の蔵を知り深く円理を覚る、之を名づけて仏と為す」文。
 籤六に云く「通じて五品及び六根浄を取る故○内外の凡の位を名づけて凡師と為ることを証す」文。玄五に云く「五品六根を初依と為す」文。此の文実に五品に居(こ)す六根の人の衆生の依止と為す処を釈するなり。記の八、補証六等之を略す。此の本拠本説の如く心得畢(おわ)んぬ。
 扨(さ)て義を取る時、元祖日蓮聖人は上行菩薩の後身なり。此の故に諸の内證(ないしょう)は自受用報身如来なり。又本門四依の内初依の導師なる故、又餘仏なり。又下種の仏とも云ふ可き歟。
 次に明星直見ノ本尊の事、是れ亦御影を以て本尊と為すこと文証に備へ難き歟。凡そ体用(たいゆう)の法門は体を取つて用を捨つるは常途の義なり。今此の文の如きは例同し難し、如何が蓮祖本尊を空蔵に祈るに以て蓮祖の影を示現(じげん)す。影全く神力別付属の形相(ぎょうそう)なり。宗祖大悟亦符合す、是れ即ち三箇の秘法の本尊故示現に任せ影を以て本尊と為す可し。体を取る莫(なか)れ、若し強(あなが)ちに体を取らば三箇の秘法は徒設(とせつ)なるべき歟。
 次に五人所破抄の事、是れ亦一体仏を制止するの文にして而も未だ久遠実成の釈迦仏を制止するの文を見ず。其の故は初に尓前迹門の仏の相を挙げ畢(おわっ)て、次ぎ下に宗家の本尊を示して相待して尓前迹門門の仏は今末法に迎へて益無しと嫌ふ、明かに知んぬ久遠の釈迦を制せざる事を。随身仏も一体仏の故に小権迹本の不同明らめ難し、若し帰敬(ききょう)致さんと欲せば四菩薩を加えて久遠実成の自受用報身如来と成し奉つて帰敬すべし、若し尓(しか)らずんば小権迹本混乱して弁(わきま)へ難し、故に一仏をば用ゆべからざるなり。是れ即ち還(かえ)つて久遠の釈迦造立の明文にして敢て不造の証文には非らざるなり。
 次に法宝最勝の事。誰か此の事を論ぜんや。是れ即ち宗家の本尊なり。弥(また)御書の如く仰いで信ずべきのみ。
 次に板本尊の事、是れ即ち戒壇堂の本尊なり、之を以て不造の証と為すこと謂(い)ふに足らざるのみ、然りと雖も次を以て之を謂ハん、聖意測り難しと雖も愚推を以て之を謂はば、本門心底抄の云く、本門の戒壇其れ豈(あ)に立たざらんや、仏像を安置すること本尊の図の如し文。此の文を以て推するに戒壇成就の日は仏像ヲ造立すること分明なり。
 之に就て叡山迹門戒壇を案ずるに、根本中堂には薬師像を安置す。寿量品の如来の名を秘して薬師と称す云云。伝教大師の御作なり。祖師堂には伝教大師の御影之れあり。毘沙門堂には多門天の像を安置す。之を号して三堂と名つく。
 此の外戒壇あり、是れ即ち円頓の大戒なり。亦金剛宝戒と名づけ大白牛車戒とも名づく、其の為体多宝塔を建立して中に本迹二経の秘法を蔵(おさ)む。以て戒壇を築く、宝塔は大慈悲室なり。解説憧相(げせつとうそう)の袈裟を繋(か)くるは柔和忍辱衣(にゅうわにんにくえ)なり。尼師壇(にしだん)を敷くは諸法空を座と為すなり。法華経の所在は即ち常寂光土なり。此の妙土に於て性戒を傳受す。受法のみ有つて捨法無き故に虚空不動戒と名づく、委(くわ)しく之を論ずること今の所用に非らず。
 若し此の義に准(じゅん)ぜば、本堂には本尊の如く仏像を安置すべし、祖師堂は日蓮聖人ノ御影、垂迹堂には天照八幡の尊像之れ有るべし。其の上に戒壇堂を建立して中に法華経一部を納め戒壇を築き板本尊を安置し奉らんこと是れ即ち法華本門の大戒なる可き歟。
 是の故に元祖大士は板本尊を圖(ず)して以て後代に送り、日興上人は棟札を書きて以て滅後に伝ふ。伝教大師は迹門の三譬(さんぴ)を表して三堂を叡山に建立し、興師は本門の三譬を表して三堂を富山に建立することを願す。御棟札良(まこと)に故有る哉、委しくは別紙に在り、此に尽くす可きに非らず。若し此の義に准ぜば板本尊を以て不造仏の現証と為るは甚だ非なり。
 又興師御筆(おふで)に云く、弁の阿闍梨の弟子小輔房日高去ヌる嘉元年中以来日興の義を盗み取つて下総の国に於て盛んに引通(いんつう)す、伊予阿闍梨下総の国眞間堂の一体仏なり、而るを年月を経て日興の義を盗み取りて四脇士を造り副(そ)ゆ彼の菩薩の像は宝冠形なり文。是れ亦五人所破抄の文に符合す。又波木井(はきり)・原殿に給ふ御返事に云く、第二の久遠実成の木像最前に破れ候文。是れ即ち興師正義の破懐を悲歎し玉ふ文なり。
 寂日房日華の状等繁(しげ)き故に之を略す。此等の文は造仏を許す明文に非ずや。
 問、若し尓らば古来従(よ)り仏像を造立せざるは誤りと謂(い)ふ可き歟如何(いかん)。答て云く、古(いにし)へより今に至るまで造仏は堕獄の因と称するは誤りの甚だしきなり。造立せざることは由緒有るべきなり。其の故は日尊実録(日大記之)に云く、第三に云く、一、久成の釈迦造立有無の事、日興上人仰に云く、末法は濁乱なり、三類の強敵之れ有り、尓らば木像等の色相荘厳の仏は崇敬するに憚(はばか)り有り。香花燈明の供養も叶ふべからず。広宣流布の時分まで大曼荼羅を安置し奉る可し云云。
 尊の仰に云く、大聖人御代二ケ所之を造立し給へり。一ケ処は下総国市河真間富木ノ五郎入道常忍、三ソ木を以て造立す。一ケ所は越後ノ国内善浄妙比丘尼造立して之れ有り云云。御在世に二ケ処なり。
 身延の沢の仏像等聖人没後に様々の異議之れ有り、記文は別紙に之れ有り云云。総じて三ケ処之れ有り、此等は略本尊なり、但し本門寺の本尊造立の記文相伝別に之れ有り云云。
 予が門弟相構へて上行等の四菩薩を相副(そ)へ給へる久成の釈迦略本尊資縁の出来檀越の助否に随つて之を造立し奉り広宣流布の裁断を相待ち奉る可きなり文。
 日代上人の御書に云く、仏像造立の事は本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し、国主御帰依の時三ケの大事一度に成就せしめ給ふ可きの由御本意なり。御本尊の圖は其の為なり文。
 此の文実録の内に興師の御義に符合す、然らば富山の立義は造らずして戒壇の勅許を待ちて而して後に三ケの大事一度に成就為す可きなり。若し此の義に依らば日尊の本門寺建立の時に先きんじて仏像を造立して給ふは一箇の相違なり。罪過に属す可しと云はば未だ本門寺建立の時至らず本門寺と号するは又一箇相違なり罪過に属す可きや。此の如きの段今の所論に非らず、願くは後来の学者二義を和會(わえ)せば造不造は違する所無くして永く謗法を停止して自他共に成仏を期(ご)すのみ。

 右の一巻は予法詔寺建立の翌年仏像を造立す。茲(ここ)に因つて門徒の眞俗疑難を致す故、朦霧(もうむ)を散ぜんが為、廃忘(はいもう)を助けんが為に筆を染むる者なり。

 寛永十戊年霜月吉旦
日精(花押)

△日因云 精師御所存ハ当家実義と大相違也(已下略)