大師号宣下
日蓮大聖人への「大師号宣下」とは―57世日正上人の時代、「日蓮門下各派」が連名で、日蓮大聖人に大師号を賜(たま)わるよう宮内省に請願を提出、その結果、大正11年10月に「立正大師」の大師号が下賜(かし)されたというものである。
これにつき学会怪文書『フェイク』(※「いかさま師」のこと。自らこれを名乗るとは、何とも人を食った話だ)は、請願書に日正上人が名を連ねたこと、および、日正上人が「大師号宣下奉戴(ほうたい)式」に出席して閉会の挨拶(あいさつ)を行なったこと、さらに、「奉戴式」について報じた『中外日報』記事中に「磯野日蓮宗管長の発声で自我偈・唱題の法要を修し」(大正11年10月17日付)等とあったことを奇貨として、"権力と邪宗に迎合した大謗法""謗法与同""日正(上人)は身延派の管長の導師で読経・唱題した"と騒ぎ立てている。(『慧妙』H22.7.16)
この大師号宣下に関する事柄については、平成4年春に『創価新報』等が騒ぎ立てたのに対し、本紙の前身たる『妙観』紙が完膚(かんぷ)無きまでに痛烈な破折を加えている。(『慧妙』H22.6.16)
【「日正上人が邪僧と読経・唱題」!?】 ―真相を無視した為にする誹謗―
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大正11年、当時の日蓮正宗管長であった総本山第57世日正上人は、日蓮宗(身延派)管長の河合日辰、顕本法華宗管長の本多日生らとともに、日蓮大聖人に「大師号」を「宣下」してもらいたいと、天皇に請願した。そして、その願い出により、日蓮大聖人に対し、「立正大師」という「大師号」が天皇より贈られたのである。
「立正大師」の「宣下書」を天皇より下された大正11年10月13日、日蓮正宗管長の阿部日正上人ほか各派管長は、日蓮宗(身延派)の管長である磯野日筵(筆者注 請願時管長の河合日辰死去)の導師にしたがって勤行をした。
ところが、日蓮正宗の管長が邪宗日蓮宗の管長にしたがって勤行をしても、それが日蓮正宗内でなんら問題にされることもなかったのである。このことは、創価学会出現以前の日蓮正宗においては“富士の清流”などといった意識は、さらさらなかったことを示しているといっても過言ではない(本紙『地涌』第386号詳述)。
このように、立正大師号を天皇から宣下されるにあたって、身延はその中心的役割を担ったのだが、それによって江戸時代以来、身延が日蓮宗各派の盟主であることを印象づけることに成功した。(H4.4.21『地涌』409号)
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大正11年10月13日、第57世日正上人は、日蓮大聖人への「立正大師」号の宣下に伴(ともな)い、日蓮宗各派の管長と共に宮内省に参内(さんだい)。宣下書拝受の後、東京・築地の水交社にて開催された奉戴(ほうたい)式に出席された。
『フェイク』は、この時に撮影されたと目される写真について
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撮影は大正11年11月(ママ)13日。前列右から顕本法華宗の本多日生、日蓮正宗の阿部日正(上人)、日蓮宗の磯野日筵、本門法華宗の尾崎日ワ、後列も各宗派の代表だ。
この時、阿部日正(上人)は身延派管長の導師で、他の邪僧と並んで勤行・唱題もした。この「謗法同座」をどう弁解するのか(『フェイク』第1110号)
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この中で、"身延派管長の導師で、他の邪僧と並んで勤行・唱題もした"というのは、奉戴式について報じだ各種の記事中に「磯野日蓮宗管長の発声で自我偈、唱題の法要を修し」(『中外日報』T11.10.17)等と記載されていることを根拠としているようだ。
だが、『田中智學自伝』(第8巻)に掲載された奉戴式の模様を写した写真をよく見るなら、かつて『創価新報』が"日正上人だ"と指摘した人影は、
実際には合掌などしていないことがわかる。
合掌していない(共に読経・唱題はしていない)とすれば、第9世日有上人の『化儀抄』に、
●同座なれども経をも読まず布施をも引かざるなり(第9世日有上人『化儀抄』/『聖典』991頁)
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とあるように、他宗の僧侶と同座することになったとしても謗法になどならないのである。
よって、何ら問題のないことは明白である。(『慧妙』H22.6.16)
【「大師号宣下」の先例は伝教大師】 ―大聖人も「大師号もあるべし」と―
●日蓮が去ぬる文応元年◇庚太◇申歳に勘えたりし立正安国論今すこしもたがわず符合しぬ、此の書は白楽天が楽府にも越へ仏の未来記にもをとらず末代の不思議なに事かこれにすぎん、賢王・聖主の御世ならば日本第一の権状にもをこなわれ
現身に大師号もあるべし定めて御たづねありていくさの僉義をもいゐあわせ調伏なんども申しつけられぬらんと・をもひしに其の義なかりしかば其の年の末十月に十一通の状をかきて・かたがたへをどろかし申す(『種々御振舞御書』全集909頁)
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大聖人は『立正安国論』による国家諌暁について「現身に大師号もあるべし」と仰せられている。国家より大師号を受けることは、謗法でも何でもない。
◆大師とは、大師範、大導師の意。仏・菩薩の尊称。(中略)仏教が中国に伝来してから、人師のなかで威徳の勝(すぐ)れたものに対して帝王より諡号(しごう)として大師号を勅賜(ちょくし)するようになった。智が天台大師、あるいは、智者大師と号したのはこの例である。日本でも、この制例を用いて、高僧に対して諡号をして天皇より勅賜されるようになった。清和天皇の貞観8年(866年)に叡山の最澄に伝教大師、円仁に慈覚大師と大師号が贈られた。『種種御振舞御書』に
「賢王聖主の御世ならば、日本第一の権状にもをこなわれ、現身に大師号もあるべし」
とある。日蓮大聖人は、大正11年(1922年)に立正大師と諡号された(創価学会発行『仏教哲学大辞典』)
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つまり、「大師号」とは、皇帝・朝廷より高僧に対し、その高徳を讃(たた)えて贈られる「贈り名」である。
しかして日蓮大聖人は、国土の危機に警鐘を打ち鳴らした立正安国論の予言が適中したことをもって、賢王・聖主の時代ならば、大師号が下ってもしかるべきである、と仰(おお)せられている。
むろん、
「愚人にほめられたるは第一のはぢ」(御書577頁)
と仰せられる大聖人において、大師号等の称号を欲することなどありえないが、国主は正法正師の正義を重んずるべきである、との意により、かく仰せられたものと拝するのである。
また、正法正師が「大師号」を贈られた先例としては、最澄の「伝教大師」がある。
されば、日蓮大聖人を宗祖と仰(あお)ぐ者にとって、日蓮大聖人への大師号宣下を強(し)いて拒(こば)むほどの理由はないといえよう。(『慧妙』H22.6.16)
当然のことながら日蓮大聖人も、智(ちぎ)に勅賜された「天台大師」、最澄(さいちょう)に勅賜された「伝教大師」という「大師号」を否定することなく用いられている。
また、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」との大日本帝国憲法下における大師号宣下は、国主が日蓮大聖人を高僧であると公認するわけであり、そのこと自体については、日蓮正宗としても拒(こば)むべき筋合いのものではないことは明らかである。
その上、文部省からの働きかけまであれば(※後述)、日正上人も、たとえ本意でなくとも他門流と共に請願書に名を連ね、また、奉戴式に出席し、そして立場上、挨拶なさらざるを得なかったであろう。(『慧妙』H22.7.16)
【請願書への署名も謗法与同にあらず】 ―署名の背景には文部省の働きかけ― (『慧妙』H22.6.16)
さて、日蓮大聖人への大師号の宣下であるが、これは、大正11年9月11日、宮内大臣に対し、日蓮正宗を含む、日蓮門流各派管長の連名で、降賜請願書が提出されたことによって諡号されることとなった。
このことを奇貨として、創価学会は
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大聖人を末法の御本仏と認めず、戒壇の大御本尊を否定する輩(やから)と共同して、天皇より大師号を賜(たま)わった日正上人は謗法を犯したことになる
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だが、これまで見てきたとおり、
「大師号」それ自体が謗法でも何でもないし、その性格は、天皇が公に大聖人の高徳を認めるという、多分に社会性を帯びたものであり、かつ、拒まねばならぬ理由がないのだから、日蓮正宗が降賜請願書に他門流と名を連ねたとしても、ことさらに謗法呼ばわりするような問題ではないだろう。
なお、この件については、66世日達上人が
●私はそれ(大師号宣下)を聞いて、若輩で生意気盛りであったから、大いに憤慨(ふんがい)して、日蓮大聖人は仏様だから大聖人でよいのだ。大師だとか菩薩などの称号はいらない、もしそういう名前をくれたら即座に返して下さい、という事を書いて建白書として宗務院宛上人(※第60世日開上人)に送った。その後、しばらくして上人が帰寺せられ、夜であったが私は奥の居間に呼ばれて、
「お前の云(い)う事はよくわかっておる。しかし今の宗門は非常に小さくて力が無いのである、今、文部省に抵抗してもどうにもならない、もう暫時(ざんじ)待って、宗門を大きくしてからでなければどうにもならない、もう少し幸抱(しんぼう)しなさい」
と諭(さと)されたのであった(『日開上人第25回遠忌記念 序』日達上人全集第2輯第5巻720頁)
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と回顧(かいこ)されているが、この仰せから、当時、文部省より強い働きかけがあって、本宗も誓願に名を連ねざるをえなかったことがわかるのである。
次に、『フェイク』は、文部省からの働きかけもあって、不本意ながら日正上人も請願に名を連ねた、との本紙記事への反論として、日正上人が「日蓮聖人大師号追賜奉祝事務所」の幹事に就任したことをもって"不本意どころか奉祝行事の推進役だったのだ"と強弁する。
だが、これは彼奴等が短慮なのである。
まず、前出「奉祝事務所」が発行した、大師号宣下の顛末(てんまつ)をまとめた『立正大師諡号奉戴記事』(大正12年6月30日発行)には、「請願書」に名を連ねた各派管長の顔写真が載(の)せられているが、他派の管長の写真は居住まいを正して撮影した肖像写真なのに対し、日正上人の写真だけは、同書所載の集合写真の背景を処理したものが使われている。もし、日正上人が請願ならびに奉祝事業を積極的に進める立場であられたのなら、このような疎略(そりゃく)な対応はなさるまい。
「幹事」といっても、自ら立候補する者もあれば、推挙(すいきょ)され、断わりきれず不承不承受ける者もある。日正上人は、間違いなく後者であられたことが、この一事からも窺(うかが)われよう。
また、何より、当時、総監であられた日開上人が、お若き日達上人に「今の宗門は非常に小さくて力が無いのである、今、文部省に抵抗してもどうにもならない」と語っておられた(「日開上人第25回遠忌記念 序」日達上人全集第2輯第5巻720頁)こと、これと当時の政府の宗教政策を考え併せれば、文部省から大師号宣下の請願につき、本宗も他門流と足並みを揃(そろ)えるよう働きかけがあった、と考えるべきが当然であろう。(『慧妙』H22.7.16)
【「請願書」の文言も許容範囲内】
さて、次に『フェイク』は、「大師号降賜請願書」の中にある
「勤王ノ国士タル日蓮聖人」
「神儒仏三道ノ融合ヲ鮮明ニシ三道各々ノ特色ヲ尊重スル」
等の記述を指して"日正(上人)は、宗門としてはとうてい承服できない筈の内容の「請願書」に署名した"などという。
だが、日蓮大聖人が、わが身を省みず「立正安国」を唱えたお姿は、ごく外用(げゆう)浅近(せんごん)の(凡夫身の)辺から見るなら、「勤王ノ国士」と言って違いはなかろう。
また『フェイク』はここで、姑息にも、「〜ノ特色ヲ尊重スル」云々の後に「卜倶ニ相互ノ冥合ヲ期シ一天四海皆帰妙法ノ抱負ヲ抱キ之力為ニ立正安国ノ主張ヲ高潮シ……」と続くことを故意に隠して、悪口を言っている。だが、きちんと通読すれば、この文の意が"大聖人は、絶待妙の立場から儒教・神道をも摂(せっ)せられ、一天四海広布を目指して立正安国を高らかに主張された"との趣旨であることは明らかである。
しからばこれは、本宗の教義に照らしても、四悉檀の展開として許容範囲に収まるといえよう。(『慧妙』H22.7.16)
要するに、これは、本宗の立場から見れば、四悉檀(ししつだん)という弘教の方軌のうち、一時の、世界悉檀・為人(いにん)悉檀に当たるものであるから、時の御法主・日正上人におかれては、他門流と名を並べることは不本意なれども、後日の皇室に対する本宗正義の折伏を期して、「請願書」に記名遊ばされたものと拝する。そして、この「請願書」を提出したことによって、大師号は宣下された。さらに、これが因縁となり、およそ20年後、貞明皇后に本宗の常住御本尊と御守御本尊が御下附されるに至ったのである。(『慧妙』H23.7.16)
▲立正大師号宣下にまつわる誹謗を掲載した『創価新報』(『慧妙』H23.7.16)
【他門を折伏されていた日正上人】
尚、大師号宣下は大正11年であり、日正上人の時代である。一方、これより少し前の大正3年には、合同問題が起きている。但し同じ合同問題でも、太平洋戦争中と様子が異なることは、宗門からも積極的に働きかけ、日蓮本仏論を展開し、大御本尊を中心に合同しようとしたのであった。時の御法主日正上人は、法身の舎利たる大御本尊を中心にした合同を考えられていたのである。(法蔵)
●統合という意味の上に寄った時には、必ず宗祖の本意に随うのが精神である。宗祖の誠意というものは何だ、宗祖は外に何も望まない。私が言わないでも聴講生は大抵知っているでしょう。この一閻浮提の本尊を日本国に建てるというのが宗祖の本意だ(第57世日正上人講演『蓮華』S47.6・24頁)
●ところで統合問題ですが、身延派が「日蓮正宗の御本尊中心じゃいやだ」といいだして、逃げてしまった。確か講習会にも講師を出さなかったでしょう。そんなことから講習会も1回切りで取りやめになり、結局、門下大合同を実現しませんでした。それにしても、ここまで、ことが運んだのは日正上人の腹が大きかったわけですね(『日達上人全集』1−5−642頁)
●大正3年頃、日蓮宗統合問題が起こったことがあった。その時、かつて法論に負けた本多が富士へ登山して日正上人の出馬を願った。上人が参加しなければうまく行かないと考えたからである。その時正師は「統合はよい。けれども御本尊はどうするのか」とするどく問い詰めた。そして浅草清島町の統一閣(現在の日蓮宗宗務院のあるところ)で第1回の統一退会講演会を開いた。日正上人は日蓮大聖人の御曼陀羅を中央に掛けて、「日蓮本仏論」を説いた。満堂を圧する大声で実に堂々と説破されたのである。日蓮本仏論が通れば身延の頭が上がらなくなるので、結局はこの問題もつぶれてしまった。如何に剛気なお方であられたかゞ偲ばれるのである(『大白蓮華』S31.1・18頁)
【「称号が欲しい」とは誰のことだ】 (『慧妙』H22.7.16)
次に『フェイク』は、"『慧妙』は立正大師について「大師号もあるべし」との御文をあげて、「日蓮大聖人は大師号が下ってもしかるべきである、と仰せられている」などとバカなことを書いている。『種種御振舞御書』の御文は御本仏としての御境界の上から時の権力者への訓誡である。『慧妙』のいうような大師号が欲しいという卑(いや)しい根性ではないことが明白だ"などとも書き殴っているが、全くオソマツ極まりない。
本紙は、先の破折記事において「(大聖人も)賢王・聖主の時代ならば、大師号が下ってもしかるべきである、と仰せられている」と述べた後に、続けて
「むろん、
『愚人にほめられたるは第一のはぢ』(御書577頁)
と仰せられる大聖人において、大師号等の称号を欲することなどありえないが、国主は正法正師の正義を重んずるべきである、との意により、かく仰せられたものと拝するのである」
と述べたのである。
『フェイク』が切り文によって本紙の記事をネジ曲げ、悪口を書き殴ったことは明白である。
ここで、「称号が欲しいというのは卑しい根性」であると理解している『フェイク』の悪餓鬼共に質問しよう。
創価学会の永遠の指導者と称する池田大作は、自ら「アルゼンチンから5月の大十字勲章をもらったが、これで7つめである。これが妙法である。信心です。たった5ヵ月の間に3つの勲章(コロンビア、ブラジル)をもらった。(中略)5ヵ月間に世界の勲章を3つももらえる人は、これまで1人もいなかった。議員でも何でもない私なのにだ」(平成2年5月3日)
「平和・文化・教育の活動に対しては、各界から、私にさまざまな顕彰をいただいた。そのまま紹介するとタイ王国『1等王冠勲章』のほか……。たくさんになると、皆、慣れてしまって、あんまり喜んでくれない(爆笑)。じつは1つ1つが重みをもった意義深き顕彰なのである」(平成3年12月23日)
等と自慢し、「これが妙法である」とまで述べている。
さらに池田は、学会の機関紙誌にも「SGI会長に5大州から4,000の顕彰」「22ヵ国から国家勲章」「286の名誉称号」「670の名誉市民称号」(いずれも『聖教新聞』5月1日付の見出し)などと書かせ、「愚人にほめられたる」ことを狂喜している。
『フェイク』は、本紙の記事を切り文して難癖などつける前に、「愚人にほめられたる」を欲し、これを「妙法である」などと誇る池田大作について、きちんと見解を示すべきである。そして、自らの崇(あが)める「永遠の指導者」の正体をじっくりと噛(か)みしめてみよ。
[画像]:池田への顕彰を大きく報じた『聖教』(5月1日付)=『フェイク』よ!これを「卑しい根性」というのだ
【学会の謗法を弁明できない『フェイク』】 ―何が"偽装日蓮教団の実態を暴く"だ― (『慧妙』H22.6.16)
なお、怪文書『フェイク』は"学会幹部が宗教専門紙の祝賀会に出席したのを(『慧妙』は)非難したが、この「謗法同座」をどう弁解するのか"等と息巻いてみせるが、日正上人が出席された奉戴式は、午前11時30分に始まり、「簡素なる祝宴」まで含めて、わずか1時間30分後の午後1時には一切が終了している。
ところが、西口・山崎両副会長が出席した、邪宗の最高幹部らとの"懇親のタベ"は、
「会場では出席者が、京都の秋の旬が盛り込まれた色とりどりの多彩な料理に舌鼓を打ちながら、至るところで賑(にぎ)やかな人の輪をつくり、輪の中では祝杯の声と歓談、そして笑いが渦巻いた」
「最高潮に達した歓談の賑わいは、中締めに至ってもなかなか止まず。帰る段になっても、『これだけ楽しい会は初めてでした』『感動しました』など、見送りの中外日報社員に声を掛ける人たちがまた出口付近で輪をつくり、いつまでも余韻(よいん)に浸(ひた)っている姿が目立った」(『中外日報』平成9年11月13日付)
というものであり、写真に写った、さも満足げな2人の姿形は、まさに"破折を忘れて謗法の者との遊戯雑談(ゆげぞうだん)に現(うつつ)を抜かす姿"そのものである。
『フェイク』よ、他を批判するより前に、まず、自らのポジションを明確にするがいい。
西口・山崎の行為は「是」か?
池田家の「真言墓」は?
立正佼成会などとの「和解・協力」は?
「祭りへの参加」はいいのか?
黒柳の御輿(みこし)担(かつ)ぎは?
そして、創価学会による神社参道への寄附は?
これらについて『フェイク』が明確に弁明するまで、本紙の追及が止むことはない、と知るべきである。