創価学会破折
日盛上人誹謗粉砕



日盛上人誹謗粉砕

「大石寺に権力争い」!?

学会による日盛上人誹謗を粉砕する(下)/『慧妙』H6?

学会による日盛上人誹謗を粉砕する(上)/『慧妙』H6?

52世日霑上人と53世日盛上人の間



日盛上人誹謗粉砕


【日盛上人の御事跡】
―破邪顕正、正法宣揚の御一生―
 第53世日盛上人に対する、創価学会の度重なる誹謗について、そのつど、本紙紙上で破折を加えてきたが、怪文書『勝ち鬨』(131号)が、さらに卑劣な手口をもって日盛上人を誹謗しているので、ここに徹底的に粉砕する。
 まず、大石寺53世日盛上人の御事跡の概略を記す。
天保2(1831)年
・10月11日 江戸京橋に出生

 
天保13(1842)年
・10月22日 51世日英上人を師として得度

 
弘化2(1845)年
・10月13日 細草檀林に入檀

 
安政6(1859)年
・12月1日 細草檀林第92代化主に昇進

 
万延元(1860)年
・7月11日 平井信行寺住職として、寺社奉行所に申状を奉る

 
文久2(1862)年
・12月 52世日霑上人より唯授一人の御相承を受ける

 
慶応元(1865)年
・2月28日 大石寺客殿、六壷、大坊焼失

・4月
◆此度(このたび)、普請に取り懸(か)かり候(第53世日盛上人御手紙=慶応元年4月)
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日盛上人が火災後も大石寺で復興の指揮を執っておられた証拠。

◆已に普請に取り掛かるべく種々と支度手配いたし候ところ、大難に大難重なり大衆一同より故障出候(いでそうろう)耳(のみ)ならず、霑師は御出府、何とも混雑、将にまた、檀中一同、不信無法の者、殊に不帰依なり。またまた内謁のところ、なかなか難しき一条之有り。拙僧すること為すこと、皆悪しく相なり、是には困り入り候(第53世日盛上人御手紙=慶応元年4月)
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「大衆一同より故障」が出て、さらに「檀中一同、不信無法の者、殊に不帰依」という状態により、大石寺復興に支障を来(きた)されていたことがうかがわれる。

5月7日 大坊を辞して下之坊へ移り、後、下野平井信行寺へ赴く
◆日盛師も去月(五月)七日下之坊へ隠居致され、大御隠居英尊師(諸事)御引き受け御再住下され候(第52世日霑上人御手紙=慶応元年6月/『慧妙』H6?)
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日盛上人が下之坊へ隠居されたのは「去月(五月)七日」と記されている。

◆到れば盛師(日盛上人)亦(また)下之坊を脱し去り行衛(ゆくえ)知れず(第52世日霑上人『霑伝』)

・第51世日英上人が後事を託されて再住
◆本山御跡式御引き譲りの義、今本山に両能化もおられ候えば、いずれの仁(ひと)へか、お譲り相成り候様(第53世日盛上人)
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後継の御法主については、日盛上人御自ら、日英・日霑両上人に後継の御法主の選定を委ねられている。

◆日盛師も去月(五月)七日下之坊へ隠居致され、大御隠居英尊師(諸事)御引き受け御再住下され候(第52世日霑上人お手紙)

 
明治7(1875)年
・11月10日 常泉寺住職

 
明治13(1880)年
・12月10日 長野県上伊那郡西春近に信盛寺を建立

 
明治14(1881)年
・10月 静岡県庵原郡辻村に妙盛寺を建立

 
明治19(1886)年
・3月 興門大学林林長となる
・7月 日蓮宗正統興門大石寺布教会を設立し、その会長に就任

 
明治23(1890)年
・11月20日 神奈川県横須賀で清水梁山と問答して論破

 
明治25(1892)年
・6月25日 御遷化

 
 以上のごとく、日盛上人は、御年28歳にして細草檀林第92代化主、本山第33代学頭に就任、その翌年には寺社奉行に申し状を奉呈するなど、行学兼備の御方であられたことが拝される。
 さらに、31歳にして血脈付法の御法主として一宗を統率され、慶応元年に御退座されてからも各地に布教、折伏・問答に活躍せられるなど、破邪顕正、正法宣揚の御一生であられたのである。
 しかるに、本宗御歴代の正法正師を何としても誹謗したい学会は、邪推に邪推を重ねた疑難を、日盛上人ならびに日霑上人に浴びせかけてきた。(『慧妙』H6?)



【日盛上人への相承】
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◆大衆檀徒等、学頭広道院を大坊へ請待す五十三世日盛上人これなり(第52世日霑上人『日霑上人伝』=以後、『霑伝』と略す)
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日盛上人の御登座は52世日霑上人の御意志ではなく、大衆檀那等の推挙によるものであった
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 日盛上人は、安政6年(1859年)12月1日に本山の学頭職に就かれている。当時は、次期御法主候補者が学頭職に就かれるのが通例であったことからわかるように、日霑上人御自身が次期御法主を日盛上人と決めておかれたのである。
 したがって、『霑伝』の「大衆檀徒等、学頭広道院を大坊に請待す」との記述は、日霑上人が隠居を宣言されたため、当時の大衆檀徒等が、次期御法主と決まっていた日盛上人に、速やかに御登座していただくよう願った、という意味にすぎない。
 ちなみに、『霑伝』の、日霑上人の御登座の際の記述にも、
 「(嘉永6年)六月先師日英上人老を告げ大坊を辞し富士見庵に隠遁し給ふ。之に依て衆檀予を請する事再三、固持に能はず其の七月朔日を以て大坊に入院す歳三十七なり」
とあって、日霑上人も衆檀に請待されて大坊に入られたことが記されている。(『慧妙』H6?)


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◆慶応元年乙丑六月八日盛師晋山始めての虫払にて所謂(いわゆる)代替り法宝譲り渡しなり故に其の前に遠足は尤(もっと)も遠慮慎むべき時なり。然(しか)るに予が身に取り堪へざるの窮愁ありて止を得ず其の二月初旬亦重ねて江戸に出ず(第52世日霑上人『霑伝』)
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実際には2月に火災が発生し、5月には"失踪"しているから、「代替り法宝譲り渡し」は行われなかった。つまり、"不完全にしか相承されない"まま終わった法主だったのだ(『創価新報』)
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 「代替わり法宝譲り渡し」の法要は、御相承を内外に鮮明にするために執り行われるものである。この法要が行われることになった、ということ自体、「御相承が行われた」という証明である。
 御相承は、日盛上人御登座の時に完了していることはいうまでもない。「代替わり法宝譲り渡し」の法要は、御相承されたことを内外に示す儀式であるから、儀式が行われなかったとしても、"御相承"が不完全だ、などという意味ではありえない。(『慧妙』H6?)


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御相承は古来、一器の水を一器に移すように伝えられるといわれるが、日盛上人は次の法主に相承せず、日霑上人が次の法主に相承している。これではまるで覆水が盆に返ったようで不可解だ(『創価新報』)
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 本宗においては、もし万一、御当代御法主上人が相承できない場合は、御隠尊上人が次の御法主へ相承されることになっている。それすらも知らなかったのであろうか。どこまでも勉強不足の『新報』編集部である。
 また、御隠尊であれ、唯授一人の付弟として選定された無上の法の上人なのだから、御当代上人の代行として、次期御法主に御相承を与えられることには、何の問題もない。"覆水が盆に返ったようで"云々などという戯論を言うのは、仏法の道理がわかっていない証拠である。
 なお、日盛上人におかれても、次期御法主の選定にあたっては、再住された日英上人・日霑上人へ、御一任されているのであるから、なんら問題はないのである。(『慧妙』H6?)



【相承せずに行方不明?】
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慶応元年2月28日、大石寺に火災が発生した翌日、日盛上人は次の猊下に相承もせずに下之坊へ移り、その後、行方不明になった
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 日盛上人の後継についての疑難であるが、日盛上人が御法主であった当時は、御隠尊として日霑上人・日英上人のお二人が控えていらっしやった。
 しかして、退座を御決意された日盛上人は、先々代たる日英上人に再登座を願い、これを諒(りょう)とせられた日英上人は、再登座の後、改めて日霑上人を次の御法主と定められた、ということであって、日盛上人の御振る舞いが無責任であったとは、為にする誹謗以外の何ものでもない。(『慧妙』H18.11.1)

 日盛上人は慶応元年2月28日の大石寺火災翌日から5月7日まで大石寺で復興の指揮を執っておられた。
 「火災の翌日、相承もせずに下之坊へ移った」などとは、学会怪文書作成者らの創作にすぎない。
 日盛上人が火災後も大石寺で復興の指揮を執っておられた証拠に、日盛上人のその年の4月の御手紙に、
 「此度(このたび)、普請に取り懸(か)かり候」
とある。
 また、日盛上人御隠居後の大石寺の住職については、日霑上人の同年6月の御手紙に、
 「日盛師も去月(5月)七日下之坊へ隠居致され、大御隠居英尊師(諸事)御引き受け御再住下され候
とあるとおり、第51世日英上人が後事を託されて再住されている。
 さらに、その後継の御法主については、日盛上人御自ら、
 「本山御跡式御引き譲りの義、今本山に両能化もおられ候えば、いずれの仁(ひと)へか、お譲り相成り候様
と、日英・日霑両上人に後継の御法主の選定を委ねられているのである。
 なお、日盛上人は、御隠居後、下之坊へ、さらに平井の信行寺へと移られている。この時の状況について、『霑伝』に、
 「到れば盛師(日盛上人)亦(また)下之坊を脱し去り行衛(ゆくえ)知れず
と記されているが、これは、日盛上人が下之坊を出られてから平井の信行寺へ移られるまで、交通不便な時代であったために、しばらくの間、連絡が取れなかったにすぎない
 学会では、要するに、日盛上人が御法主としての一切の責任を放棄し、無責任に大石寺を逃げ出した、ということにしたかったのであろうが、以上に述べてきたごとく日盛上人は、復興の一切を御先師日英上人に委ねられ、大石寺住職としての、また一宗の御法主としての一切の責務を終えられているのである。どこにも疑難をはさむ余地などない。
 また、日盛上人におかれては、大石寺の火災とその復興の遅滞、檀家の不帰依等々、並々ならぬ辛労を重ねられていたであろうことは想像するに余りある。その日盛上人の御心境を拝すれば、身辺が落ち着かれるまでの間、日英・日霑両上人ともあまり連絡を取られなかったとしても、余人が云々すべきことではない。(『慧妙』H6?)

※現役の貫主や末寺住職が、本山当局や関係者に無断で旅行することは法務に支障をきたすから、有りえないことである。しかし、日盛上人は既に隠居の身であられた。そうであれば、御自分の私的な行動の一々について本山に連絡する必要もなかったであろう。

さらに、日盛上人が、無責任どころか、いかに責任感が強く、また有能かつ人望厚き方であられたかは、退座後、明治13年12月には長野県伊那市に信盛寺を、同14年10月には静岡県静岡市に妙盛寺を建立、また同19年3月には興門大学林の林長となられた後、同年7月に日蓮宗正統興門大石寺布教会を設立し、その会長に就任、さらに、同23年11月には神奈川県横須賀において清水梁山と問答して論破す、というように、布教・折伏・問答に活躍された事実によって十二分に証明されよう。(『慧妙』H18.11.1)

※日霑上人・日盛上人の御事については、『慧妙』平成6年4月1日号・同6月16日号・平成7年5月16日号・同7月1日号・同7月16日号・平成8年1月16日号・同3月1日号を参照されたい。


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「日盛上人自筆の履歴書」によれば、大石寺の大火の翌日にあたる慶応元年2月29日、「同寺辞職」と記されている。「英師再住」までの約2ヵ月間、猊座の空白があった。
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 仮に、この資料が本物だとしよう。これは、日盛上人がお書きになられたことであるから、辞職の日を「2月29日」とされたのは、同上人の主観であろう。日盛上人が大火後も、しばらくは大石寺におられ、復興の手立てを探られておられたことは、現存する下記資料(●)から明らかである。しかし、諸般の事情により、思うように事が運ばず、万やむを得ず、大坊を辞し下之坊へ移り、後に下野平井信行寺へ赴かれたのである。
 では、なぜ、辞職の日を「2月29日」とされたかと言えば、辞職の原因が大火後の復興策の行き詰まりにあったことと、管長として大火の責任を取る意味を込められて、敢えて大火の翌日を辞職の日とされたのではないか。
 「2ヵ月間、猊座の空白」などというが、宗務行政に関しては宗務院があり、法門上の問題についても御隠尊猊下がおられるのだから、何の問題もない。

●此度(このたび)、普請に取り懸(か)かり候(日盛上人御手紙=慶応元年4月/『慧妙』H6?)
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日盛上人が火災後も大石寺で復興の指揮を執っておられた証拠

●已に普請に取り掛かるべく種々と支度手配いたし候ところ、大難に大難重なり大衆一同より故障出候(いでそうろう)耳(のみ)ならず、霑師は御出府、何とも混雑、将にまた、檀中一同、不信無法の者、殊に不帰依なり。またまた内謁のところ、なかなか難しき一条之有り。拙僧すること為すこと、皆悪しく相なり、是には困り入り候(第53世日盛上人御手紙=慶応元年4月/『慧妙』H6?)
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「大衆一同より故障」が出て、さらに「檀中一同、不信無法の者、殊に不帰依」という状態により、大石寺復興に支障を来(きた)されていたことがうかがわれる。

●日盛師も去月(五月)七日下之坊へ隠居致され、大御隠居英尊師(諸事)御引き受け御再住下され候(第52世日霑上人御手紙=慶応元年6月/『慧妙』H6?)
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日盛上人が下之坊へ隠居されたのは「去月(五月)七日」と記されている。

[画像]:「日盛上人自筆の履歴書」



【日霑上人との確執?】
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52世日霑上人の3度の御登座について、大石寺に権力争いがあった証拠(『法主詐称』)
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◆日霑上人はモメ事に巻き込まれるのを避けようとして、また江戸をめざして旅に出てしまいました。日盛上人を擯出して日霑上人に再住してもらおうと期待していた大石寺大衆は驚きました。そして日霑上人に帰ってきてもらうために日盛上人と和解しました。隠居日英上人からも、現住日盛上人からも、日霑上人に帰ってきてほしいという手紙が届きました。(<nbのページ>WS)
◆日霑上人は、「日盛上人が先非を悔いて、下の坊に隠居した」という報告を受けました。これを聞いた日霑上人は、「(あたかも自分が日盛上人を追い出したような案配になり)、自分は大石寺に帰れない、日盛上人が元どおり貫主にもどるか、隠居の日英上人が再び貫首に就任するか、どっちかにしてほしい、日霑は再住したくない」と使僧を大石寺にやりました。(同)
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これらは正信会系のサイトに掲載されていた内容である。原文も示されていないので、信頼性は低い。しかし、唯授一人の血脈を相対化し軽くみている連中が、日英・日霑・日盛各上人が、他師を思いやっておられたことを伺わせる記述をしていることは注目すべきである。
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 日霑上人は生涯に3度、猊座に登られているが、2度目の登座の砌には、
 「其の六月に至り英師(日英上人)御再住六十日に及ぶ。(中略)老体、大いに御労れ。予へ再住交代の御談あり。予が云く此の義、難(レ)甚の次第なり」
と述べられて、再住を固持されつつ、やむをえず再住されているのが拝される。
 3度目の登座の砌には、
 「予が老衰の身に取り実に絶体絶命の場合、進退惟(これ)に谷(きわ)まれり。爰(ここ)に於いて、予、惟(おも)うらく、年已に古希に及び心身共に強く労(つか)れ、物の用にも立ちがたく露命も亦た久しからじ。如何として再勤なるべき。爾(しか)れども若し予、是れを謝断せば、法灯の堙滅(いんめつ)一山の滅亡、旦夕(たんせき)に迫れり」
と仰せられ、これまた万やむをえず再住されている。

[日霑]=明治18年(1885年)4月、日霑上人の徳を慕う人々の熱意あふれる懇請により、3度法主として大石寺大坊に入る。当時、総本山の経済は廃仏毀釈の悪影響ですこぶる逼迫しており、万策尽きた感があったが、老齢にもかかわらず、総本山の窮乏を救おうと決意しての再三の就任を伝え聞いた全国の末寺、信徒は、信心を奮い起こしてぞくぞく本山に登山し、日霑上人の確信と相呼応してたちまち問題は解決を見る(『仏教哲学大辞典』聖教新聞社発行)
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ここにもあるとおり、当時の大石寺は多額の負債を抱えており、その返還に行き詰まりつつあった。そのような状況下、再々登座あそばされた日霑上人が"権力闘争"どころか、疲弊した大石寺の経済建て直しに御苦労あらせられたことは、いうまでもあるまい。

これらの事を見ても、「猊座をめぐる権力闘争の歴史」などという見方が、『新報』編集子の薄汚れた邪難にすぎないことが、よくわかろうというものだ。(『慧妙』H6?)
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〈藤本〉 まったく邪推もいいところだと思うね。権力争いの中にいる人間は、世の中のすべてが権力争いのように見えるのだろう。日蓮正宗の御歴代上人は代々順序乱れずに血脈を承継あそばされることが理想だが、御歴代上人と雖も生身のお身体であられるし、さらに様々な事情もあられるのだから、止むを得ない緊急の場合には、御先師に再度、再々度御登座をいただくことも当然あるわけだよ。
〈菅野〉 その通りですね。日蓮正宗にとって何よりも大切なことは、血脈不断と広宣流布へ向けての宗勢の興隆にあるわけだから、その上から、御隠尊御当代了解のもとに、宗内の願いを受け再住、乃至再々住なされることがあっても何も不思議ではないね。
〈阿部〉 御高徳な日霑上人が、仏法興隆のため、宗内の求めに応じてやむを得ず再登座あそばされたことを、権力争いなどと、まったく許せぬ誹謗です。(『大白法』H16.2.1)


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日盛法主は"以前の過ちを覚り謝罪状を残"すどころか、『諸記録』に収められた手紙によれば、失踪後6月には栃木県の信行寺に居を構え、8月初旬には「日霑大石寺を則取(のっとり)候」として日霑法主と本山に対して3箇条の「難題」を突き付け、「若し本山にて此の三箇条の内一箇条にても御聞済みならざる候時は、未だ和合の時至らざる事と明らめ居り候」と猛反発している。つまり日盛法主は、大石寺の火災後、僧たちが「沸騰し挙って」自分を追及したのも、日霑法主の帰山待望論が起るようにしむけたのも、さらには、つなぎの法主として日英(上人)を1ヵ月だけ担いだのも、すべて日霑法主が再び登座し「大石寺を乗っ取る」ための陰謀であったと、とらえているのである。(『創価新報』)
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 『新報』が日霑上人のお手紙から引用した「日霑大石寺を則取り候」と記された意味は、いったいどういうことであろうか。
 まず、この記述を『新報』では、火災があった年の8月のこととしているが、これは間違いである。というのも、この私信の最初には「去春(去年の春)、焼亡の後」とあり、火災のあった年の翌年の記述と見られること。また、末尾にも「寅(とら)十月」と日付が記されており、「寅」の付く年は慶応2年であることから、『新報』の「火災のあった年の8月」という説は誤りであることがわかる。
 おそらく『新報』は、日盛上人と日霑上人との間に、当初から「確執」とやらがあったことにしたいために、ロクに調べもせずに断定したのだろう。
 次に、「日霑大石寺を則取候」との文言であるが、日盛上人は大石寺火災の後、その責任をお取りになる形で、下之坊、そして栃木県信行寺へとお移りになったが、前にも述べたとおり、当時は交通不便である上、通信もままならない時代であった。そのような状況の中、日盛上人の周囲に「悪口書」(怪文書の類い)が撒(ま)かれたことが、日盛上人のお手紙から察せられる。
 このような状況は、火災後、再建に着手された慶応元年4月頃にもあったらしく、当時のお手紙にも、
 「已に普請に取り掛かるべく種々と支度手配いたし候ところ、大難に大難重なり大衆一同より故障出候(いでそうろう)耳(のみ)ならず、霑師は御出府、何とも混雑、将にまた、檀中一同、不信無法の者、殊に不帰依なり。またまた内謁のところ、なかなか難しき一条之有り。拙僧すること為すこと、皆悪しく相なり、是には困り入り候」
とみえる。すなわち、「大衆一同より故障」が出て、さらに「檀中一同、不信無法の者、殊に不帰依」という状態により、大石寺復興に支障を来(きた)されていたことがうかがわれる。
 あるいは、こうした「不信無法」「不帰依」の者たちにより、「悪口書」が撒かれたのかもしれない。
 日盛上人におかれては、火災の責任、復興の遅滞、周囲の不帰依などの心労を重ねられ、加えて怪文書の横行―等々により、日霑上人との間に行き違いが生じ、ついには一時、「日霑大石寺を則取り候」との誤解をせられたものと拝察される。
 しかし、正法正師の間において、そのような状況が長く続くハズはなく、明治元年(火災から4年後)の日盛上人の筆による「口述の覚え」には、
 「一、本山より諸講中へ御序(つい)での砌、去る年中、悪書触れ流れ候は取り糾し候処、間々心得違いの者より出候様の御状御遣わしに相なり、その上、諸方より御請上り候を、内々にて拙僧披見仰せ付けられ候はば、早速御両師へ是迄(これまで)の行き違い廉々(かどかど)、書状を御詫び使僧を以て申上ぐ可く候事」
と、それまで日盛上人のもとに「悪口書」が流されていたが、それは心得違いの者の手によるものであったことが明らかになったので、その誤解による行き違いを、率直に日英・日霑の両上人へお詫び申し上げていることが拝されるのである。
 すなわち、『新報』が両上人の「確執」とした内容は、悪心を抱く人々の策謀により、両上人の間に生じた、一時的な"誤解"だったのである。
 そもそも、私信というのは、当人同士でなければ、その真意をくむことは不可能である。それを、断片的な資料から、当時の種々の状況、御苦労を抜きにして論ずるなど論外であろう。もっと、まじめな姿勢で歴史を探求してはどうか。
 もっとも、今日、自らが怪文書作りに精を出しているご連中であれば、時代を超えて「悪口書」を作成・配布した悪人に加担し、嘘でも何でも、とにかく御歴代上人を誹謗したかったのかもしれない。(『慧妙』H6?)

[画像]:日盛上人の筆による「口述の覚え」


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◆日盛師目差之、衆徒等・・・斯く迄悪念深く相懸かり候上は、今般の難条へも潔白に返答為すに至り候へば、弥々憤り、相憎む。所詮、日霑在山候へば、如何様に取り扱い候へども、決して帰山成され候事、之あるまじ(日霑上人お手紙)
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つまり"日盛師の一派は悪念が深いから、たとえ3箇条の難題に返答したとしてもますます憤り憎むだけである。結局、日霑が大石寺にいる限り日盛師が帰山することはないであろう"と述べ、無視黙殺する方針を固めていたようである(『創価新報』)
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 このお手紙は慶応2年、いまだ日盛上人が誤解を抱かれていた時期のものであるが、その内容は、「願わくは日霑素願も相果たしたく、傍(かたわ)らに付き、先般願いの通り、再住御免蒙(こうむ)り」たいと、御自身の広布願業を果たすべく、日盛上人の御帰山を望まれているものなのである。
 日霑上人が、一貫して日盛上人を信頼あそばされ、常に御帰山を望まれていたことは、『霑伝』や『諸記録』収録の書翰(しょかん)等にも明らかであって、虚心に拝せば、けっして『新報』がいうがごとき結論にはならないのである。(『慧妙』H6?)







「大石寺に権力争い」!?


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52世日霑上人の3度の御登座について、大石寺に権力争いがあった証拠(『法主詐称』)
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〈藤本〉 まったく邪推もいいところだと思うね。権力争いの中にいる人間は、世の中のすべてが権力争いのように見えるのだろう。日蓮正宗の御歴代上人は代々順序乱れずに血脈を承継あそばされることが理想だが、御歴代上人と雖も生身のお身体であられるし、さらに様々な事情もあられるのだから、止むを得ない緊急の場合には、御先師に再度、再々度御登座をいただくことも当然あるわけだよ。
〈菅野〉 その通りですね。日蓮正宗にとって何よりも大切なことは、血脈不断と広宣流布へ向けての宗勢の興隆にあるわけだから、その上から、御隠尊御当代了解のもとに、宗内の願いを受け再住、乃至再々住なされることがあっても何も不思議ではないね。
〈阿部〉 御高徳な日霑上人が、仏法興隆のため、宗内の求めに応じてやむを得ず再登座あそばされたことを、権力争いなどと、まったく許せぬ誹謗です。(『大白法』H16.2.1)





学会による日盛上人誹謗を粉砕する(上)

―「行方不明説」「無相承説」「大衆檀徒推挙説」etc.―
―偏執・邪推に陥った群盲学会の目を開く!―

(『慧妙』H6?)

 第53世日盛上人に対する、創価学会の度重なる誹謗について、そのつど、本紙紙上で破折を加えてきたが、怪文書『勝ち鬨』(131号)が、さらに卑劣な手口をもって日盛上人を誹謗しているので、ここに徹底的に粉砕する。
 まず、大石寺53世日盛上人の御事跡の概略を記す。

 日盛上人は、天保2年(1831年)10月11日、江戸京橋に出生。
 天保13年(1842年)10月22日、51世日英上人を師として得度。
 弘化2年(1845年)10月13日、細草檀林に入檀。
 安政6年(1859年)12月1日、細草檀林第92代化主に昇進。
 万延元年(1860年)7月11日、平井信行寺住職として、寺社奉行所に申状を奉る。
 文久2年(1862年)12月、52世日霑上人より唯授一人の御相承を受ける。
 慶応元年(1865年)2月28日、大石寺客殿、六壷、大坊焼失。
 同年5月7日、大坊を辞して下之坊へ移り、後、下野平井信行寺へ赴く。
 明治7年(1875年)11月10日、常泉寺住職。
 明治13年(1880年)12月10日、長野県上伊那郡西春近に信盛寺を建立。
 明治14年(1881年)10月、静岡県庵原郡辻村に妙盛寺を建立。
 明治19年(1886年)、興門大学林林長となる。
 明治23年(1890年)11月20日、神奈川県横須賀で清水梁山と問答。
 明治25年(1892年)6月25日、御遷化。

 以上のごとく、日盛上人は、御年28歳にして細草檀林第92代化主、本山第33代学頭に就任、その翌年には寺社奉行に申し状を奉呈するなど、行学兼備の御方であられたことが拝される。
 さらに、31歳にして血脈付法の御法主として一宗を統率され、慶応元年に御退座されてからも各地に布教、折伏・問答に活躍せられるなど、破邪顕正、正法宣揚の御一生であられたのである。
 しかるに、本宗御歴代の正法正師を何としても誹謗したい学会は、邪推に邪推を重ねた疑難を、日盛上人ならびに日霑上人に浴びせかけてきた。

<学会の疑難>
学会のこれまでの、日盛上人への疑難を整理すると
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@『日霑上人伝』(以後、『霑伝』と略す)の
 「大衆檀徒等、学頭広道院を大坊へ請待す五十三世日盛上人これなり」
との記述からわかるように、日盛上人の御登座は52世日霑上人の御意志ではなく、大衆檀那等の推挙によるものであった
A日霑上人は日盛上人に血脈相承していなかった
B慶応元年2月28日、大石寺に火災が発生した翌日、日盛上人は次の猊下に相承もせずに下之坊へ移り、その後、行方不明になった
C日霑上人と日盛上人との間には終生にわたる確執があり、その証拠に、日盛上人は日霑上人に対し、「日霑、大石寺を則り候」などという文書を送りつけている
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以上の4点になるが、以下にこれらを逐条的に破しておく。
<破折>
@日盛上人は、安政6年(1859年)12月1日に本山の学頭職に就かれている。当時は、次期御法主候補者が学頭職に就かれるのが通例であったことからわかるように、日霑上人御自身が次期御法主を日盛上人と決めておかれたのである。
 したがって、『霑伝』の「大衆檀徒等、学頭広道院を大坊に請待す」との記述は、日霑上人が隠居を宣言されたため、当時の大衆檀徒等が、次期御法主と決まっていた日盛上人に、速やかに御登座していただくよう願った、という意味にすぎない。
 ちなみに、『霑伝』の、日霑上人の御登座の際の記述にも、
 「(嘉永6年)六月先師日英上人老を告げ大坊を辞し富士見庵に隠遁し給ふ。之に依て衆檀予を請する事再三、固持に能はず其の七月朔日を以て大坊に入院す歳三十七なり」
とあって、日霑上人も衆檀に請待されて大坊に入られたことが記されている。

A日盛上人が大坊に入られた時点で、日霑上人より御相承があられたことは当然であり、「相承がなかった」などと捉える方がどうかしている。
 そもそも、御相承があったからこそ、『霑伝』に、
 「其の翌慶応元年(1865年)乙丑(きのとうし)六月八日盛師晋山始めての虫払いにて所謂(いわゆる)代替わり法宝譲り渡し」
と、「代替わり法宝譲り渡し」の記述が存するのである。
 なお、学会機関紙『創価新報』ならびに怪文書『勝ち鬨』はどうしようもないアホで、「代替わり法宝譲り渡し」は、その年の大石寺火災のために執り行なわれなかったから、「日盛法主は、戒壇の大御本尊ほか一切の宝を譲り受けないまま」だった、などとしているが、このような疑難は御相承への無知の証明に他ならない。
 「代替わり法宝譲り渡し」の法要は、御相承を内外に鮮明にするために執り行われるものである。この法要が行われることになった、ということ自体、「御相承が行われた」という証明である。

B日盛上人は慶応元年2月28日の大石寺火災翌日から5月7日まで大石寺で復興の指揮を執っておられた。
 「火災の翌日、相承もせずに下之坊へ移った」などとは、学会怪文書作成者らの創作にすぎない。
 日盛上人が火災後も大石寺で復興の指揮を執っておられた証拠に、日盛上人のその年の4月の御手紙に、
 「此度(このたび)、普請に取り懸(か)かり候」
とある。
 また、日盛上人御隠居後の大石寺の住職については、日霑上人の同年6月の御手紙に、
 「日盛師も去月(5月)七日下之坊へ隠居致され、大御隠居英尊師(諸事)御引き受け御再住下され候
とあるとおり、第51世日英上人が後事を託されて再住されている。
 さらに、その後継の御法主については、日盛上人御自ら、
 「本山御跡式御引き譲りの義、今本山に両能化もおられ候えば、いずれの仁(ひと)へか、お譲り相成り候様
と、日英・日霑両上人に後継の御法主の選定を委ねられているのである。
 なお、日盛上人は、御隠居後、下之坊へ、さらに平井の信行寺へと移られている。この時の状況について、『霑伝』に、
 「到れば盛師(日盛上人)亦(また)下之坊を脱し去り行衛(ゆくえ)知れず
と記されているが、これは、日盛上人が下之坊を出られてから平井の信行寺へ移られるまで、交通不便な時代であったために、しばらくの間、連絡が取れなかったにすぎない。
 学会では、要するに、日盛上人が御法主としての一切の責任を放棄し、無責任に大石寺を逃げ出した、ということにしたかったのであろうが、以上に述べてきたごとく日盛上人は、復興の一切を御先師日英上人に委ねられ、大石寺住職としての、また一宗の御法主としての一切の責務を終えられているのである。どこにも疑難をはさむ余地などない。
 また、日盛上人におかれては、大石寺の火災とその復興の遅滞、檀家の不帰依等々、並々ならぬ辛労を重ねられていたであろうことは想像するに余りある。その日盛上人の御心境を拝すれば、身辺が落ち着かれるまでの間、日英・日霑両上人ともあまり連絡を取られなかったとしても、余人が云々すべきことではない。

C日霑・日盛両上人の間に確執などあろうハズがなく、日盛上人の御手紙に「日霑、大石寺を則り候」との文言があるのは、日盛上人と両上人との間に生じた一時的な誤解によるものである。しかし、そのような誤解も、正師の間では長く続くはずがなく、火災発生から4年後の明治元年には、日盛上人より日英・日霑両上人へ、
 「早速御両師へ是迄(これまで)の行き違い、廉廉(かどかど)書状を御詫び使僧を以て申し上ぐべく候事」
と、行き違いによる誤解を解消すべく、お詫びの御手紙を出されているのである。
 これを「終生にわたる確執」と言い張る学会怪文書作成班―、文のまともに読めない連中の相手は本当に疲れる。





学会による日盛上人誹謗を粉砕する(下)

(『慧妙』H6?)

<「権力闘争」とは無縁の日霑上人の再登座>
―疲弊した大石寺建て直しのために尽力―

 まず、日盛上人の御事について概要を記すと、日盛上人御登座3年目の慶応元年(1865年)2月28日、大石寺に火災が発生し、客殿・六壷・大坊が焼失。その後、5月7日、日盛上人は51世日英上人に再住を請い、下之坊へ隠遁され、さらに平井・信行寺へ移られている。
 また、日盛上人御隠退後再登座あそばされた日英上人は、翌月の閏(うるう)5月15日に日霑上人へ再登座を要請されて隠退された。その後、日霑上人は、明治2年(1869年)11月まで再住され、54世日胤上人に法を付嘱された。
 『新報』は、この間の模様について、大要、次のように疑難している。
 「日盛法主は"以前の過ちを覚り謝罪状を残"すどころか、『諸記録』に収められた手紙によれば、失踪後6月には栃木県の信行寺に居を構え、8月初旬には『日霑大石寺を則取(のっとり)候』として日霑法主と本山に対して3箇条の『難題』を突き付け、『若し本山にて此の三箇条の内一箇条にても御聞済みならざる候時は、未だ和合の時至らざる事と明らめ居り候』と猛反発している。つまり日盛法主は、大石寺の火災後、僧たちが『沸騰し挙って』自分を追及したのも、日霑法主の帰山待望論が起るようにしむけたのも、さらには、つなぎの法主として日英(上人)を1ヵ月だけ担いだのも、すべて日霑法主が再び登座し『大石寺を乗っ取る』ための陰謀であったと、とらえているのである。
 この『新報』の疑難を破折する前に、怪文書『地涌』『勝ち鬨』等では、日盛上人の御隠退の時期を、「5月7日」ではなく「2月28日の火災の翌日、誰にも相承せず突然隠退した」としているので、まずもって破折しておく。
 日盛上人の当時のお手紙を拝見すると、火災の発生した2ヵ月後の慶応元年4月には、焼亡した堂宇の再建のため、日盛上人が普請にとりかかっている旨の記述があり、さらに、日霑上人より日英上人に宛てられた私信にも、日盛上人が5月7日に下之坊へ隠居された旨が記されている。
 これらのことから、日盛上人の御隠退は、火災直後ではなく、5月7日であることが明らかである(なお、今回の『新報』では、初めて『諸記録』の記述を読んで気づいたものか、素知らぬ顔で、「この年の5月に失踪」などと書き直している)。

 さて次に、『新報』が、「日霑上人と日盛上人との間に猊座をめぐる確執があった」としている件について。
 まず、その「確執」とやらの内容であるが、『新報』の言い分では、中見出しに「大石寺の歴史は猊座をめぐる権力闘争」と設けているように、日霑・日盛両上人の間に猊座をめぐって権力闘争があった、と述べている。それが「確執」だというのであるが、全くもって誤った見解といわざるをえない。
 まず、日霑上人は生涯に3度、猊座に登られているが、2度目の登座の砌には、
 「其の六月に至り英師(日英上人)御再住六十日に及ぶ。(中略)老体、大いに御労れ。予へ再住交代の御談あり。予が云く此の義、難(レ)甚の次第なり」
と述べられて、再住を固持されつつ、やむをえず再住されているのが拝される。
 3度目の登座の砌には、
 「予が老衰の身に取り実に絶体絶命の場合、進退惟(これ)に谷(きわ)まれり。爰(ここ)に於いて、予、惟(おも)うらく、年已に古希に及び心身共に強く労(つか)れ、物の用にも立ちがたく露命も亦た久しからじ。如何として再勤なるべき。爾(しか)れども若し予、是れを謝断せば、法灯の堙滅(いんめつ)一山の滅亡、旦夕(たんせき)に迫れり」
と仰せられ、これまた万やむをえず再住されている。
 また、当時の本宗の模様についてであるが、聖教新聞社発行の『仏教哲学大辞典』の「日霑」の項には、「明治18年(1885年)4月、日霑上人の徳を慕う人々の熱意あふれる懇請により、3度法主として大石寺大坊に入る。当時、総本山の経済は廃仏毀釈の悪影響ですこぶる逼迫しており、万策尽きた感があったが、老齢にもかかわらず、総本山の窮乏を救おうと決意しての再三の就任を伝え聞いた全国の末寺、信徒は、信心を奮い起こしてぞくぞく本山に登山し、日霑上人の確信と相呼応してたちまち問題は解決を見る」とある。
 ここにもあるとおり、当時の大石寺は多額の負債を抱えており、その返還に行き詰まりつつあった。そのような状況下、再々登座あそばされた日霑上人が"権力闘争"どころか、疲弊した大石寺の経済建て直しに御苦労あらせられたことは、いうまでもあるまい。
 これらの事を見ても、「猊座をめぐる権力闘争の歴史」などという見方が、『新報』編集子の薄汚れた邪難にすぎないことが、よくわかろうというものだ。


<当時からあった!陥(おとしい)れ目的の怪文書>
―正師の間では一時の誤解も氷解―

 では、『新報』が日霑上人のお手紙から引用した「日霑大石寺を則取り候」と記された意味は、いったいどういうことであろうか。
 まず、この記述を『新報』では、火災があった年の8月のこととしているが、これは間違いである。というのも、この私信の最初には「去春(去年の春)、焼亡の後」とあり、火災のあった年の翌年の記述と見られること。また、末尾にも「寅(とら)十月」と日付が記されており、「寅」の付く年は慶応2年であることから、『新報』の「火災のあった年の8月」という説は誤りであることがわかる。
 おそらく『新報』は、日盛上人と日霑上人との間に、当初から「確執」とやらがあったことにしたいために、ロクに調べもせずに断定したのだろう。
 次に、「日霑大石寺を則取候」との文言であるが、日盛上人は大石寺火災の後、その責任をお取りになる形で、下之坊、そして栃木県信行寺へとお移りになったが、前にも述べたとおり、当時は交通不便である上、通信もままならない時代であった。そのような状況の中、日盛上人の周囲に「悪口書」(怪文書の類い)が撒(ま)かれたことが、日盛上人のお手紙から察せられる。
 このような状況は、火災後、再建に着手された慶応元年4月頃にもあったらしく、当時のお手紙にも、
 「已に普請に取り掛かるべく種々と支度手配いたし候ところ、大難に大難重なり大衆一同より故障出候(いでそうろう)耳(のみ)ならず、霑師は御出府、何とも混雑、将にまた、檀中一同、不信無法の者、殊に不帰依なり。またまた内謁のところ、なかなか難しき一条之有り。拙僧すること為すこと、皆悪しく相なり、是には困り入り候」
とみえる。すなわち、「大衆一同より故障」が出て、さらに「檀中一同、不信無法の者、殊に不帰依」という状態により、大石寺復興に支障を来(きた)されていたことがうかがわれる。
 あるいは、こうした「不信無法」「不帰依」の者たちにより、「悪口書」が撒かれたのかもしれない。
 日盛上人におかれては、火災の責任、復興の遅滞、周囲の不帰依などの心労を重ねられ、加えて怪文書の横行―等々により、日霑上人との間に行き違いが生じ、ついには一時、「日霑大石寺を則取り候」との誤解をせられたものと拝察される。
 しかし、正法正師の間において、そのような状況が長く続くハズはなく、明治元年(火災から4年後)の日盛上人の筆による「口述の覚え」には、
 「一、本山より諸講中へ御序(つい)での砌、去る年中、悪書触れ流れ候は取り糾し候処、間々心得違いの者より出候様の御状御遣わしに相なり、その上、諸方より御請上り候を、内々にて拙僧披見仰せ付けられ候はば、早速御両師へ是迄(これまで)の行き違い廉々(かどかど)、書状を御詫び使僧を以て申上ぐ可く候事」
と、それまで日盛上人のもとに「悪口書」が流されていたが、それは心得違いの者の手によるものであったことが明らかになったので、その誤解による行き違いを、率直に日英・日霑の両上人へお詫び申し上げていることが拝されるのである。
 すなわち、『新報』が両上人の「確執」とした内容は、悪心を抱く人々の策謀により、両上人の間に生じた、一時的な"誤解"だったのである。
 そもそも、私信というのは、当人同士でなければ、その真意をくむことは不可能である。それを、断片的な資料から、当時の種々の状況、御苦労を抜きにして論ずるなど論外であろう。もっと、まじめな姿勢で歴史を探求してはどうか。
 もっとも、今日、自らが怪文書作りに精を出しているご連中であれば、時代を超えて「悪口書」を作成・配布した悪人に加担し、嘘でも何でも、とにかく御歴代上人を誹謗したかったのかもしれない。


<悪意による両上人「確執」説>
―虚心に拝せば広布願業の御意明らか―

 なお、『新報』は、日霑上人のお手紙の、「日盛師目差之、衆徒等・・・斯く迄悪念深く相懸かり候上は、今般の難条へも潔白に返答為すに至り候へば、弥々憤り、相憎む。所詮、日霑在山候へば、如何様に取り扱い候へども、決して帰山成され候事、之あるまじ」との箇所を挙げて、「つまり"日盛師の一派は悪念が深いから、たとえ3箇条の難題に返答したとしてもますます憤り憎むだけである。結局、日霑が大石寺にいる限り日盛師が帰山することはないであろう"と述べ、無視黙殺する方針を固めていたようである」とも邪推している。
 これもまた、『新報』の読解力不足による曲解である。このお手紙は慶応2年、いまだ日盛上人が誤解を抱かれていた時期のものであるが、その内容は、「願わくは日霑素願も相果たしたく、傍(かたわ)らに付き、先般願いの通り、再住御免蒙(こうむ)り」たいと、御自身の広布願業を果たすべく、日盛上人の御帰山を望まれているものなのである。
 日霑上人が、一貫して日盛上人を信頼あそばされ、常に御帰山を望まれていたことは、『霑伝』や『諸記録』収録の書翰(しょかん)等にも明らかであって、虚心に拝せば、けっして『新報』がいうがごとき結論にはならないのである。


<あまりに無知な御相承への疑難>
―日盛上人は御法主選定を両上人に一任―

 次に、『新報』は、『霑伝』に、「慶応元年乙丑六月八日盛師晋山始めての虫払にて所謂(いわゆる)代替り法宝譲り渡しなり故に其の前に遠足は尤(もっと)も遠慮慎むべき時なり。然(しか)るに予が身に取り堪へざるの窮愁ありて止を得ず其の二月初旬亦重ねて江戸に出ず」とあるが、実際には2月に火災が発生し、5月には"失踪"しているから、「代替り法宝譲り渡し」は行われなかった。つまり、"不完全にしか相承されない"まま終わった法主だったのだ、などとしている。
 御相承は、日盛上人御登座の時に完了していることはいうまでもない。「代替り法宝譲り渡し」は、日盛上人へ御相承されたことを内外に示す儀式であるから、儀式が行われなかったとしても、"御相承"が不完全だ、などという意味ではありえない。
 また、『新報』は、"御相承は古来、一器の水を一器に移すように伝えられるといわれるが、日盛上人は次の法主に相承せず、日霑上人が次の法主に相承している。これではまるで覆水が盆に返ったようで不可解だ"とも疑難している。
 本宗においては、もし万一、御当代御法主上人が相承できない場合は、御隠尊上人が次の御法主へ相承されることになっている。それすらも知らなかったのであろうか。どこまでも勉強不足の『新報』編集部である。
 また、御隠尊であれ、唯授一人の付弟として選定された無上の法の上人なのだから、御当代上人の代行として、次期御法主に御相承を与えられることには、何の問題もない。"覆水が盆に返ったようで"云々などという戯論を言うのは、仏法の道理がわかっていない証拠である。
 なお、日盛上人におかれても、次期御法主の選定にあたっては、再住された日英上人・日霑上人へ、御一任されているのであるから、なんら問題はないのである。
 以上、学会が、日盛上人に浴びせた疑難を破した。





52世日霑上人と53世日盛上人の間


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 両上人は幕末から明治の時代を生きられました。
 日霑上人は近年の英傑ともいうべき貫主です。
 幕末・維新の騒乱と廃仏毀釈により、次々と大石寺諸堂は羅災しましたが、そのたびに苦労して復興されました。九州地方に本格的な布教のクサビを打たれたのも日霑上人です。その他、東京、奥州、野州、名古屋、京都、大阪、奈良、讃岐などを次々と行脚され布教に努められました。数々の問答に勝利され、興門派合同問題などでも苦慮しながら大石寺を守りました。幕末・維新の好機をとらえ徳川幕府に申状を捧げてもいます。また、多くの勝れた弟子を輩出しました。近年の貫首の中で、徳行はひときわ秀でています。
 日霑上人は嘉永6年(1853)に日英上人から血脈相承を受けました。37才の時です。それから10年後の文久2年(1862)に隠居して、53世日盛上人に血脈相承を授けました。隠居したわけは、幕府に申状を捧げるためでした。申状は駕籠訴、直訴でしたから身の安全は保障されません。そこで後継を日盛上人に委ねたのです。もっとも、隠居として日英上人が存生ではありましたが。

 ところで、文久2年から3年後の、慶応元年(1865)6月8日に、日盛上人の「代替わり法要」が予定されていました。「代替わり法要」というのは歴代上人にとって最重要儀式です。前貫主が次貫主に宗宝を譲る儀式で、「お肉牙」を披露するのはこの時と御遠忌法要の時だけです。ところが、日霑上人はこれほど重要な法要をボイコットして、慶応元年2月初旬に旅に出てしまいました。宗門人の常識ではちょっと考えられない行動をとったのです。この行動について日霑上人は「御自伝」に次のように述べています。
 「日盛師晋山、始めての虫払にて、いわゆる代替わり法宝譲り渡しなり。故にその前に遠足はもっとも遠慮慎むべき時なり。しかるに、予が身にとり堪えざる窮愁ありて、やむを得ず、しばらく奥地に身を避けんと欲する」
 何があったのかについては日霑上人は黙されたままです。史実も伏せられています。「堪えざる窮愁」が何であったのかは想像するしかありません。
 が、日霑上人が旅に出かけて間もなしの慶応元年2月28日に大石寺が火事になりました。客殿・六壺・大坊が焼失しました。この急報を日霑上人は3月3日に旅先で受けました。さっそくとって返し3月中旬に大石寺に帰り着きました。帰ってみると大石寺は大モメの最中でした。その時の様子を「御自伝」には次のように語っています。
 「大石寺の大衆は、ある事情から大いに沸騰し、こぞって日盛上人に退座を迫っていた。日霑は聞くにたえず、ひそかに問題をあつかったが、事情を聞けば、日盛上人をかばいきれなかった。」
 出火の不始末に加え、何かの事情があって、大石寺大衆が日盛上人を擯出しようとしていたのです。
 日霑上人はモメ事に巻き込まれるのを避けようとして、また江戸をめざして旅に出てしまいました。日盛上人を擯出して日霑上人に再住してもらおうと期待していた大石寺大衆は驚きました。そして日霑上人に帰ってきてもらうために日盛上人と和解しました。隠居日英上人からも、現住日盛上人からも、日霑上人に帰ってきてほしいという手紙が届きました。そこで日霑上人は5月初旬に沼津市にある本広寺までもどってきました。が、そこで日霑上人は、「日盛上人が先非を悔いて、下の坊に隠居した」という報告を受けました。
 これを聞いた日霑上人は、
 「(あたかも自分が日盛上人を追い出したような案配になり)、自分は大石寺に帰れない、日盛上人が元どおり貫主にもどるか、隠居の日英上人が再び貫首に就任するか、どっちかにしてほしい、日霑は再住したくない
と使僧を大石寺にやりました。大石寺の衆檀会議の結果、日英上人が再住すると決定しました。そこで日霑上人は大石寺にもどったのですが、日盛上人は、下の坊を脱出して行方不明になっていました。日霑上人はあちこちを捜索させましたが、30日たっても日盛上人の行方はわかりません。2ヵ月ほどのちに、栃木県の信行寺にいることがわかりました。
 日英上人は60日ほど再住したのちに、
 「自分は老齢であるから勤めがつらい、貫首を日霑上人に代わってほしい」とたのみました。日霑上人は「自分はイヤである、日英上人の弟子であり、且つ、日盛上人と兄弟弟子になる能化2人の中から、貫首を選ばれたらよろしい、さすれば日盛上人も異念を残されないでありましょう」
と答えました。これに対し、日英上人は
 「私はもうダメである、今の能化2人など何の用にもたたない、大火災のあとを挽回できるのは、日霑上人しかいない、大石寺大衆もそれをのぞんでいる、もし日霑上人が再住を引き受けてくれないのなら、私は今晩自殺する」
と泣きました。これには日霑上人も恐れ入ったようで、しぶしぶ、慶応元年6月に再住を引き受けました。49才の時です。
 結局、日盛上人は血脈相承を受けて大石寺に晋山しましたが、代替わり法要はできませんでした。
 この事件につき日霑上人は、次のように述懐されています。

<日英上人への嘆願>
 「日盛師は、自身の過ちを自覚せず、かえって日霑に怨念をだいているようである。信者講中も心配し、日盛師に和解するように働きかけているのに、あろうことか、手紙をもって寂日坊に数カ条の文句を言ってきた。その中には、日霑が大石寺をのっとったなどと書いてある。ここまで悪念が深いのであるから、どんな返事をしたとしても、いよいよ日霑を憎むばかりであろう。」

<信者への手紙>
 「天奏をしたいと考え、先例を欠いて、能化未満の日盛師を引き立て貫首に据えた。が本当のところを言えば、いろいろと自分の意見もあった。そうしたところに、はからずも火事が起こってしまった。その後、日盛師は大石寺を出奔してしまった。そこで日英上人が再住された。日英上人や大衆は、日霑に再住せよと言う。日霑はイヤだと重ね重ね辞退し、日英上人の弟子の中から次の貫首を選んでほしい、さすれば日盛師の心もおさまるであろうと申し上げた。が、日英上人のたっての命令で、よんどころなく再住することになった。それでも日霑は早く隠居したいと思い、その気持ちを日英上人に申し上げるのだが聞き入れてはくれない。
 日盛師は4月に大石寺を出奔した後、6月には野州に至ったようであるが、そこからいろいろと文句を言ってくる。困ったものだ。」
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日盛上人は大石寺火災の後、その責任をお取りになる形で、下之坊、そして栃木県信行寺へとお移りになったが、(中略)当時は交通不便である上、通信もままならない時代であった。そのような状況の中、(中略)日盛上人におかれては、火災の責任、復興の遅滞、周囲の不帰依などに心労を重ねられ、加えて怪文書の横行―等々により、日霑上人との間に行き違いが生じ、ついには一時、「日霑、大石寺を則り候」との誤解をせられたものと拝察される。しかし、正法正師の間において、そのような状況が長く続くハズはなく、明治元年(火災から4年後)の日盛上人の筆による「口述の覚え」には、(中略)それまで日盛上人のもとに「悪口書」が流されていたが、それは心得違いの者の手によるものであったことが明らかになったので、その誤解による行き違いを、率直に日英・日霑の両上人へお詫び申し上げていることが拝されるのである。(『慧妙』)


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文久2年から3年後の、慶応元年(1865)6月8日に、日盛上人の「代替わり法要」が予定されていました。「代替わり法要」というのは歴代上人にとって最重要儀式です。前貫主が次貫主に宗宝を譲る儀式で、「お肉牙」を披露するのはこの時と御遠忌法要の時だけです。ところが、日霑上人はこれほど重要な法要をボイコットして、慶応元年2月初旬に旅に出てしまいました。宗門人の常識ではちょっと考えられない行動をとったのです。
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◆慶応元年乙丑六月八日盛師晋山始めての虫払にて所謂(いわゆる)代替り法宝譲り渡しなり故に其の前に遠足は尤(もっと)も遠慮慎むべき時なり。然(しか)るに予が身に取り堪へざるの窮愁ありて止を得ず其の二月初旬亦重ねて江戸に出ず(第52世日霑上人『霑伝』)
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「遠足は尤(もっと)も遠慮慎むべき時」ではあるが、「代替わり法要」が予定されていたのは「六月八日」である。それに対して日霑上人が「止を得ず」「江戸に出」られたのは「二月初旬」である。この史料をみる限り、日霑上人が「代替り法宝譲り渡し」の法要を「ボイコット」する積りであられたかどうかは分からない。

日霑上人が旅に出かけて間もなしの慶応元年2月28日に大石寺が火事になりました。客殿・六壺・大坊が焼失しました。この急報を日霑上人は3月3日に旅先で受けました。さっそくとって返し3月中旬に大石寺に帰り着きました
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実際には、「代替わり法要」が予定されていた「6月8日」よりも前に、帰山されたのである。


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大石寺の衆檀会議の結果、日英上人が再住すると決定しました。
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根拠となる史料の原文が示されていないので断言はできないが、「衆檀会議の結果」によって「日英上人が再住すると決定」されたとは考えられない。おそらく真相は、"「衆檀会議」の結果、日英上人に再住願うことに決定"したということであろう。唯授一人の血脈の重大性を認識できない者にとっては、この違いの重要性が分からないのであろう。だから、上記のような記述を平然と行えるのである。


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>日盛上人は、下の坊を脱出して行方不明
>日盛師は、自身の過ちを自覚せず、かえって日霑に怨念
>日霑が大石寺をのっとった
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これらについては、<日盛上人邪難粉砕>参照のこと。