簡略破折(仮題)

―御歴代上人をも誹謗する『新報』―
―『新報』は邪僧・安永弁哲の邪推を脚色―
―その疑難は日淳上人・日達上人が破折済み!―

(『慧妙』H25.5.16)

 58世日柱上人、60世日開上人の御事につき、『創価新報』は、
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日開上人のクーデターにより日柱上人が退座させられ、59世日亨上人が登座された。日開上人は有元日仁(大慈院〈だいじいん〉)師との間で、権謀術数(けんぼうじゅっすう)うずまく管長選挙を展開し、猊座に登った
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などと疑難している。
 こうした疑難は、日蓮宗の悪僧・安永弁哲の受け売りを基礎に、創価学会流にアレンジしたものである。安永の誹謗(ひぼう)は、すでに『悪書板本尊偽作論を粉砕す』によって粉砕されているので、同書を引用し、両上人への疑難に対する破折とする。

●日柱上人は、宗学において漢学において、また信念において、まことに傑出(けっしゅつ)されておられた。ただしかし、それがためにか、凡庸(ぼんよう)なる人に対して思いやりの心が充分でなかった、ということは僻目(ひがめ)ではないと思う。日正上人もそのことを憂(うれ)えられたのであった。日柱上人は、壮年時代より、そのため他の誤解を招かれた事があったが、日正上人はそのつど庇護(ひご)られたのであった。しかして、また一方においては、いかがわしい人物に乗せられるきらいがあったのである。
 日柱上人は管長に御就任になられるや、宗門の全体的建て直しを断行すべく、宗務院に剛直をもって聞こえた板倉広淳師を登用して、着々計画を実施あそばされたのであった。しかるに広淳師はその準備を完了する前に逝去(せいきょ)せられたのである。次いで坂本要道師を登用せられたのであるが、日柱上人の志(こころざし)を遂行するには、必ずしも適当なる人ではなかったのである。ここに宗門は日柱上人の志における宗門の再建に賛成もあり、反対もあったのであるが、ついに再建には不賛成ということになって、その決議がなされたのであった。日柱上人も、これではとうてい志を達することは不可能と思し召されたが、この接渉(せっしょう)の間に、日柱上人に帰依(きえ)する信徒は、日柱上人に対しての反対は絶対許し難(がた)いとして、此の信徒達と一般僧侶との対峙という形になったのである。しかし、まもなくして、日柱上人は辞職をなされて、日亨了上人に御相承あらせられたのである。この御辞職については、信徒には御相談なくなされて、後継の詮衝(せんこう)に移られたので、周囲の信徒は、我々に一言の御相談もなくなされたとして憤慨(ふんがい)したが、この一事をもって万事を察することができよう
 日柱上人が日亨上人への御代替式に当たって、御影堂における、一山大衆始め宗門信徒に対しての御挨拶は、じつに申し上げようのない立派さで、今日に至っても、その印象が一般の脳裏(のうり)にしみわたっていて、昔話の折(おり)には必ず語り合われている。これが真実の歴史であって安永君などの遠く想像も及ばぬところである。
(中略)
 日柱上人の御事柄は、爾来(じらい)、宗門人の脳裡(のうり)にあって、宗門行政の上に常に指針となっている。日柱上人は、厳然(げんぜん)と宗門の運営の上に生存しておられるのである。
(中略)
 日開上人は、生来(せいらい)、非常に謙譲(けんじょう)な御方であって、むしろ謙譲すぎると、一般から言われていた方である。この上人が何で日亨上人の地位を奪い窺(うかが)うということをなしえたであろうか。
 まったく事実を誣(し)ゆるも甚(はなは)だしいと言わなければならない。
 日亨上人は、御隠退を決定あそばされるや、御意中、日開上人に御譲りあそばされる御意向があられたであろうが、きわめて理性的な遵法(じゅんぽう)的な御方であるから、宗制に選挙に依(よ)って定めることになっているかぎり、それに従うべしとの御意向で(これは吾人の想像である)、自由なる選挙を行なわしめられたのである。ここに大慈院との競争が展開されたのである。当時は宗門の上には、守旧派と進歩派があって(この分け方は必ずしも妥当ではないが)、その数は、ほぼ五分五分であった。大慈院は進歩派の棟梁(とうりょう)をもって任じておられ、実践的な方であった。しかも、日開上人は、前述のとおり非常に謙譲な方であったから、対抗してあくまでやるというような御考えはなかったと見るが至当であろう。むしろ、周囲の者が日開上人の御人格に帰依して、あくまで後継者たらしめねば、との強い意気込みで、その熱に動かされて選挙に臨(のぞ)まれたのである。もちろん日開上人は、大慈院のあまりにも進歩的なところに危惧(きぐ)を持たれておって、やはり他に人はなく、自分が出なければ、という御考えは深く御持ちあそばされた、と拝察ができる。ここに、初めての自由選挙が行われたのである。そして、その過程においては、種々の問題があったのであるが、それは当然、選挙には免(まぬが)れないことである。これを嫌えば、自由選挙はありえないことである。一番問題になったのは、有権者を俄(にわ)かに作ったことで、その有権者の資格が問題になって、文部省へ裁断を願い出たのである。この裁断が下るのが存外(ぞんがい)、暇(ひま)取ったため、選挙が永引いた観があった。裁断はたとえ資格がないから無効としても、票数を厳密に調べれば、日開上人の方が2あるいは3票多いから当選は日開上人である、ということであった。これが当時の真相である。
 日開上人は御在職7年にして、御隠退あそばされたが、これに対しては御留任(りゅうにん)を願うというのが、宗門のすべての声であった。然(しか)し上人は断固として御決意をせられたのである。それは日亨上人の時、管長の年限は7年と規定されたのであって、その宗制の規定によって管長に就任したのであるから、これに従うべきで、今さら自分の手で規則を改正して延長することは断じてできないとの御意見であった。(65世日淳上人・66世日達上人著『悪書板本尊偽作論を粉砕す』)

 以上が両上人の御事についての真実である。
 この『悪書板本尊…』は、65世日淳上人・66世日達上人の御著述である。すなわち、御自身の目で見られてきた真実を記されているのであって、偏頗(へんぱ)な資料しか持ち合わせず、妄想によって文を作る池田教徒どもの遠く及ぶところではない。
 さて、右の『悪書…』においても、また、御隠尊日顕上人におかれても、日柱上人が退座せられたのは、自らのお考えによる御辞職であった、とせられている。
 すなわち、日淳上人・日達上人・日顕上人と、歴史を御覧になってきた3代の猊下が断言あそばされているのである。
 学会は、唯授一人の血脈相承をなんとか否定したいがために、当時の資料を自分達の都合のいいように解釈し、なかったことをあったかのように言って、学会員を騙(だま)しているのである。


▲『新報』の疑難は日淳上人・日達上人が破折済み!