―頭破七分した怪文書『フェイク』―
―論に窮(きゅう)し呆(あき)れた自家撞着―
(『慧妙』H22.8.1)
『フェイク』がついに血迷った。
日如上人御書写の御本尊の御文字についての、自らがつけた難癖(なんくせ)の手法を、「本尊の書写は、神聖な宗教的行為。一般紙や書道の資料を例に挙(あ)げて騒ぐのは噴飯物(ふんばんもの)」(第1125号)とあざ笑ったのだ。
『フェイク』はこれまで、日如上人御書写の御本尊における「奉書写之」の「写」の御文字について、「ワ冠」が「ウ冠」になっている、とし、"埼玉県在住の著名な書道家""B展審査員の著名な書道家"なる者の批評として、「『写』を『字』と書き間違っている」(第1063号)「『書写』か『書字』か、判断に迷う文字は当然、書き直すべき」(第1065号)などと謗(そし)った。
『フェイク』はさらに、第1108号において「念のため『明清行草字典』『行草大字典』『書体字典』『草書大字典』など『書』に関する字典類、及び俗字、略字なども調べたが、日如(上人)が書いているような『写』は全く見当たらない」との難癖をつけたので
ある。
また中央首題の「南」の御文字についても、第9画が上に突き抜けていることに目を付け、「(中堅の)僧も書道家も『御本尊のこんな首題は見たことがない』と言う」(第1063号)とし、これまた一般の書道家の言葉を根拠に誹謗(ひぼう)してきた。
そこで本紙は、『フェイク』の愚蒙(ぐもう)を糺(ただ)すべく、7月1日号にて、『草書大字典』『書体字典』に「ウ冠の写」の文字が掲載されていること、さらに、一般紙にも、やはり突き抜けて「ウ冠」の形となった「写」の文字が載(の)っていることを紹介し、日如上人の御文字の御筆致が、書体としても正当なものであることを証明。
また、中央首題の「南」については、大聖人の御真筆御本尊にも中央9画目が突き抜けた形の御本尊が約3割あることを示して、「見たことがない」という書道家の誤りを破した。
これで完全に行き詰った『フェイク』は、これまで自らが書道の資料や一般書家の言を根拠に誹謗してきたにも拘(かか)わらず、なんと、平気で「本尊の書写は、神聖な宗教的行為と捉(とら)えていたが、『慧妙』が一般紙や書道の資料を例に挙げて騒ぐのは噴飯物」と居直ったのだ。
『フェイク』編集子が「頭破七分」したことは、もはや誰の目にも明らかといえよう。
御本尊誹謗による厳しい現証に、慄然(りつぜん)とするばかりである。
よって、この論争は、『フェイク』の破綻(はたん)によって決着したものと断ずる。
この決着をごまかそうとして『フェイク』は、御歴代上人の誹謗を書き殴(なぐ)り、本紙に「答えてみよ」などと挑発を繰り返している
が、この醜態(しゅうたい)は、頸(くび)を刎(は)ねられた鶏(にわとり)が狂ったように走り回っているのと変わるところがない。
今後は、『フェイク』の主張と本紙の主張を並べ、学会員に直接、学会製怪文書の狂いぶりを知らしめていくことにしよう。呵々(かか)。
『フェイク』
>「南無」の「南」の9画の縦棒が上に突き抜けている。
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・著名な書道家や中堅僧も「御本尊のこんな首題は見たことがない」と発言しており、これは誤字である
>「奉書写之」の「写」の3画が上に突き抜け、「ワ冠」が「ウ冠」になっていて、「写」が「字」に見える。
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・"埼玉県在住の著名な書道家""B展審査員の著名な書道家"なる者の批評として、「『写』を『字』と書き間違っている」(第1063号)「『書写』か『書字』か、判断に迷う文字は当然、書き直すべき」(第1065号)
・「念のため『明清行草字典』『行草大字典』『書体字典』『草書大字典』など『書』に関する字典類、及び俗字、略字なども調べたが、日如(上人)が書いているような『写』は全く見当たらない」(第1108号)
↓
『慧妙』の反論
・『草書大字典』『書体字典』に「ウ冠の写」の文字が掲載されていること、さらに、一般紙にも、やはり突き抜けて「ウ冠」の形となった「写」の文字が載(の)っていることを紹介
・中央首題の「南」については、大聖人の御真筆御本尊にも中央9画目が突き抜けた形の御本尊が約3割あることを示す
↓
『フェイク』の自家撞着
・本尊の書写は、神聖な宗教的行為と捉(とら)えていたが、『慧妙』が一般紙や書道の資料を例に挙げて騒ぐのは噴飯物
・著名な書道家や中堅僧も「御本尊のこんな首題は見たことがない」と発言しており、これは誤字である
・"埼玉県在住の著名な書道家""B展審査員の著名な書道家"なる者の批評として、「『写』を『字』と書き間違っている」(第1063号)「『書写』か『書字』か、判断に迷う文字は当然、書き直すべき」(第1065号)
・念のため『明清行草字典』『行草大字典』『書体字典』『草書大字典』など『書』に関する字典類、及び俗字、略字なども調べたが、日如(上人)が書いているような『写』は全く見当たらない(第1108号)
矛↓盾
・本尊の書写は、神聖な宗教的行為と捉(とら)えていたが、『慧妙』が一般紙や書道の資料を例に挙げて騒ぐのは噴飯物
―学会怪文書『フェイク』の誹謗・奸曲(かんきょく)を叱る―
―御本尊への邪悪な差し出口を徹底粉砕!―
―日如上人御書写の御本尊は真正―
―御認めの御文字に誤りなどなし!―
(『慧妙』H22.7.1編集)
学会怪文書『フェイク』の、日如上人御書写の御本尊に対する難癖(なんくせ)について、本紙が6月1日号でこれを粉砕したところ、『フェイク』は愚かにも、第1117号から4号連続で、本紙に対し反駁(はんばく)を試みてきた。だが、それは詭弁(きべん)と虚言(きょげん)をもっての、単なる言い逃がれと新たな悪口に過ぎなかった。そこで、彼奴等が二度と御本尊に難癖を付けることができぬよう、ここで徹底的に弾呵(だんか)して、その難癖を完全に破しておく。
【相伝により御内証を「書写」し奉る】
―「書写」と「模写」の別も知らぬ『フェイク』編集子―
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>歴代法主が書写し奉(たてまつ)る「戒壇の御本尊」の「南」の字は(第9画が上に)突き抜けてはいない
>書き写すのは「戒壇の御本尊」である筈だ
>細井日達師も「戒壇の御本尊様を書写し奉る」と述べ、この種の言葉は『日達上人全集』を開くと山ほどある
>日如(上人)は「戒壇の御本尊様」ではなく、何処かの「邪宗の寺」に保存された数少ない本尊を見て「書字」したことになる
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だが『フェイク』は、「戒壇の御本尊を書写し奉る」という意味が、そもそも解っていないのだ。
その深意について、日達上人は、
●相承を受けて、御本尊をお認(したた)めするのは、けっして面には「書写」と書いてあるけれども、(※経文をそのまま書き写す、というような)書写の行ではなくして、御本尊造立なのである。ただただ、その姿を、戒壇の大御本尊にちなんでお書きし奉るから「書写」と書くだけ(『日達上人全集』第2輯第1巻545頁)
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と仰せられ、御本尊書写とは、いわゆる写経のように、ただ本門戒壇の大御本尊の御文字(相貌)を書き写す、ということではない旨を示されている。
また、67世日顕上人は、
●根本は申すまでもなく、本門戒壇の大御本尊でこざいます。
その御本尊の内証を拝して御書写申し上げました御本尊が本日ここに入仏いたしました(第67世日顕上人 S56.4.18 教光寺落慶入仏法要の砌)
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と仰せられ、本門戒壇の大御本尊の内証を拝して御認めになることが、御本尊書写である旨、明かされている。
さらには56世日応上人も、『本門戒壇本尊縁由』に
●当宗に於て授与する処の御本尊は、一切衆生に下し置れたる此の御本尊(※本門戒壇の大御本尊)の御内証を、代々の貫首職、一器の水を一器に写すが如く直授相伝の旨を以て之を写し奉り、授与せしむる(『日應上人全集』第1巻9頁)
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と御教示あそばされている。
以上のことから明らかなように、歴代の御法主上人は、唯授一人の相伝の御法門によって本門戒壇の大御本尊の御内証を拝し、御本尊を御認めになっているのであり、これを御本尊書写と申し上げるのである。
したがって、御本尊書写とは、大御本尊の相貌として示された御文字を単に「模写」する(姿形をそのままに写す)ことではない。
そして現に、第2祖日興上人以来の御歴代上人が「書写」あそばされてきた御本尊の相貌は、それぞれ、戒壇の大御本尊の相貌を寸分違わず模写されているわけではないのである。
しかるに『フェイク』は、「書写」と「模写」の区別もつかず、"戒壇の御本尊の「南」と日如上人御書写の御本尊の「南」の形が違うから書写とはいえない"などという難クセを付けてきた。まさに、相伝なき輩(やから)の無知蒙昧な疑難であり、笑う外(ほか)はない。
【「こんな首題見たことない」だと!?】
―大聖人の御本尊の首題を拝してみよ―
次に『フェイク』は、「歴代法主が書写し奉る『戒壇の御本尊』の『南』の字は突き抜けてはいない」と言いながら、本紙から「日蓮大聖人御筆の御本尊においても、同様の『南』の形が拝される」「それ以外の御文字についても、上(もしくは下)に御筆の突き抜けている事例は、第2祖日興上人はじめ御歴代書写の御本尊にも拝される」と破折を受けたことに対し、
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大聖人の直筆の中で「南」の9画目が突き抜けているのは、現存する120数幅のうち約1割。判読できないのもあるので断定はできないが、京都・本圀寺、要法寺、小泉・久遠寺などに保存されている14ないし15幅にすぎない
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などと、言い訳にもならない言い訳をしている。
仮に『フェイク』の言うように「約1割」だとしても、大聖人御認めの御本尊の中に"「南無」の「南」の9画の縦棒が上に突き抜けている"事例が多々ある以上、これまで『フェイク』が書き殴(なぐ)ってきた"僧も書道家も「御本尊のこんな首題は見たことがない」と発言しており、これは誤字である"との悪口が、誤りであったことは明らかである。
また、さらに言っておけば、確認したところによると、「約1割」ではなく、大聖人御筆の御本尊のうちの約3割が、「南」の9画目が上に突き出ていることも付け加えておこう。
ともあれ、このような「南」の認(したた)め方が「誤字」でも何でもないことは、もはや誰の目にも明らかであって、これをもって御法主日如上人を誹謗(ひぼう)してきた『フェイク』の所業は、まさに、白を黒と言いくるめようとする、邪義・奸曲(かんきょく)以外の何ものでもないのである。
【「『ウ冠』の『写』はない」だって!?】
―実際には複数の書体字典に例示が―
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>(『慧妙』は)「写」は「ワ冠」が「ウ冠」になっているが、誤字ではないと強弁しているのだ
>『草書大字典』など「書」に関する字典類、及び俗字、略字なども調べたが、日如(上人)が書いているような「写」は全く見当たらない
>B展審査員の著名な書道家は「書の大家でも最後の落款で意に沿わない場合は最初から書き直すものです。法主と称するからには《書写》か《書字》か、判読に迷う文字は当然、最初から書き直すべきです。それをしないとは、《手抜き本尊》と言われても仕方ありません」と厳しく指摘していた
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ところが、大冊である『草露貫珠 草書大字典』の「寫(=写の旧字体)」の項に、また普及版の『書体字典』の「写」の項に、線が冠の上から突き抜けた書体が、ちゃんと載(の)っているのである。(写真@A)
また、かつて一般紙に載った書家の文字も、筆の運びは同じである。(写真B)
したがって、日如上人の認められた「写」の文字の御筆致が、全く正当であることは明らかである。
『フェイク』を編集する莫迦者共は、両の眼を開いて、よくよく拝してみよ。それでも自らの誤りがわからないというのなら、今度こそ精神鑑定が必要だ。
さらに、ここまで『フェイク』の主張のデタラメが明らかになった以上、『フェイク』が自説の論拠としてきた「B展審査員の著名な書道家」なる者は、自ら名乗り出て、この本紙の批判に対し堂々と再反論すべきである。
それができぬのなら、『フェイク』は、架空の書道家を登場させてまで日如上人を(さらには日如上人御書写の御本尊を)誹謗した、ということを認めるべきであろう。
いずれにせよ、『フェイク』編集子もその関係者も、自らの邪(よこしま)な悪業を自覚して、後生を畏(おそ)れるがよい。
【怪文書が怪文書をネタに意趣返し】
―やはり『フェイク』の差し出口は謗法だ―
なお、『フェイク』は、本紙から"御本尊の御文字に差し出口をすることは天目と同一轍の大慢謗法の者だ"と破折された意趣返しとばかりに、
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>大草(妙観講講頭)こそ、日顕(上人)が書写・下付した板本尊の「誤写」を指摘し、訂正して彫り直させていた事実がある
>『慧妙』は本紙(『フェイク』)を批判する前に、まず、大草を徹底的に糾弾せよ
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などとも書いているが、これまた事実を全くねじ曲げた与太話である。
大草氏にも碓認したが、真相は、昭和57年当時、赤澤朝陽で彫刻された板御本尊の御文字に、なんと数ヶ所の彫り残し(!!)があり、これを指導教師を通じて御法主上人に御報告したところ、「それはおかしい!」ということになり、直ちに赤澤朝陽に注意をして手直しを命ぜられた、というものであった(※この件は過去に活字にもなっている)。
つまり、この件は「板本尊の『誤写』を指摘し」たなどというものではなく、赤澤朝陽の杜撰(ずさん)な彫刻が問題になった事件なのだ。これを全くデタラメな話に作り変えてくるのだから、やっぱり『フェイク(=いかさま師)』は『フェイク』でしかない。
なお、『フェイク』は、この与太話の出処として、以前の学会怪文書『勝ち鬨』の内容を挙(あ)げているが、怪文書が怪文書を出典にして、嘘(うそ)の上塗りをしても、結局、何の信憑(しんぴょう)性も生まれないという事例である。
いずれにせよ、大聖人が禁じたもうた御本尊の御筆致への差し出口をした『フェイク』編集子が、天目と同様の憍慢(きょうまん)謗法の徒輩であることは間違いない。御本尊の右肩には「若悩乱者頭破七分」(若し悩乱する者は頭七分に破る)と認められているが、その御本尊のことに差し出口をして難癖をつけ、日如上人を悩まそうとさんざん画策した『フェイク』編集子の末路がいかに恐ろしいものか、憐憫(れんびん)の情を禁じ得ないものである。
―『フェイク』の姑息な策謀を粉砕!―
―宗祖は御筆致への差し出口を厳禁―
(『慧妙』H22.6.1編集)
【日如上人御本尊は「誤字」に非ず】
『フェイク』等の学会怪文書は、昨年10月頃より、御法主日如上人猊下が御認(したた)めの御本尊に「誤字がある」などとして、分も弁(わきま)えぬ誹謗(ひぼう)を加えてきた。
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>「南無」の「南」の9画の縦棒が上に突き抜けている。著名な書道家や中堅僧も「御本尊のこんな首題は見たことがない」と発言しており、これは誤字である
>「奉書写之」の「写」の3画が上に突き抜け、「ワ冠」が「ウ冠」になっていて、「写」が「字」に見える。誤字に違いない
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まず、彼奴等がなしている誹謗は、日如上人御書写の御本尊の「南」の字と「写」の字が、いずれも、御筆至の勢いのしからしむるところにより、「上に突き抜けている」という点に目を付けて、「誤字だ」と難癖(なんくせ)を付けたものである。
だが、筆勢によって文字が突き抜ける、というのは「誤字」でも何でもなく、肉筆ゆえの、他に2つなき特徴である。
畏れ多くも、日蓮大聖人御筆の御本尊においても、同様の「南」の形が拝されることは前述のとおりであるが、それ以外の御文字についても、上(もしくは下)に御筆の突き抜けている事例は、第2祖日興上人はじめ御歴代書写の御本尊にも拝されるのである(どうせ『フェイク』の連中は「見たことがない」であろうが)。
―差し出口は天目と同一轍―
よって、これらは「誤字」などではなく、『フェイク』の疑難は、御本尊の御筆致の事など何も弁えていない、憍慢(きょうまん)謗法の輩(やから)の悪口にすぎない。
なお、こうした憍慢の輩は、大聖人御在世からもいたようだ。
「日蓮の蓮字に点を一つ打ち給う事は、天目が点が一つ過ぎ候なりと申しつる間、亦一点を打ち給いて後の玉いけるは、予が法門に墨子(ふすべ)を一つ申し出だす可き者なり」(聖典380頁)
すなわち、大聖人御筆の御本尊を拝した弟子の天目が、「蓮の字の点が一つ余分です」と批判めいた発言をしたところ、大聖人はこれを退(しりぞ)けられて、さらに点をもう一つ加えられた、との仰せである。
要するに、御文字を認めるのは凡身(凡夫即極の凡身)に握った御筆であっても、御筆をもって顕わされた御本尊は絶対無二の仏の御当体であって、これに対し衆生(たとえ弟子であっても)が差し出口をすることを、大聖人は断じてお許しになっておられないのである(※この天目は後に、迹門不読の邪義を構えて異流義の徒となっている)。
されば、その批判が、「点が一つ過ぎ候なり」であっても「棒が突き抜けている」であっても、いずれも大聖人の御意に適(かな)わぬ憍慢謗法たることは明らかである。
しかして、日蓮大聖人が謗法の輩の過去世を明かして、
「法然(ほうねん)が一類、大日(だいにち)が一類、念仏宗・禅宗と号して、法華経に捨閉閣抛(しゃへいかくほう)の四字を副(そ)へて制止を加へて、権経の弥陀(みだ)称名(しょうみょう)計(ばか)りを取り立て、教外別伝(きょうげべつでん)と号して法華経を月をさす指、只文字をかぞ(数)ふるなんど笑ふ者は、六師が末流の仏教の中に出来せるなるべし」(御書581頁)
と仰せられている理に照らすならば、憍慢から異流義化した天目の末流の者共が、今日、池田創価学会の中に出来(しゅったい)して、またも御本尊の御文字に口を差し挟(はさ)んでいるのではないか、と思われるのである。まさに、過去世からの謗法のなせる業(わざ)というべきであろう。