創価学会破折資料
日柱上人退座


宗会議員・評議員による「誓約書」(T14.11.18)/『仏教者の戦争責任』

「管長不信認(ママ)決議案」(T14.11.20)/『仏教者の戦争責任』

辞職勧告(T14.11.20)/『仏教者の戦争責任』

全国信徒大会での「決議書」(T15.1.16)/『仏教者の戦争責任』

日柱上人の「宣言」(T15.1.25)/『仏教者の戦争責任』

悪書板本尊偽作説を粉砕す/第66世日達上人監修『悪書板本尊偽作説を粉砕す』


宗会議員・評議員による「誓約書」(T14.11.18)(抜粋)

(『仏教者の戦争責任』)

誓約書
 現管長日柱上人ハ私見妄断ヲ以テ宗規ヲ乱シ、宗門統括ノ資格ナキモノト認ム、吾等ハ、速カニ上人ニ穏退ヲ迫リ宗風ノ革新ヲ期センカ為メ、仏祖三宝ニ誓テ茲ニ盟約ス。不正行為左ノ如シ。
一、大学頭ヲ選任スル意志ナキ事。
二、興学布教ニ無方針ナル事。
三、大正十三年八月財務ニ関スル事務引継ヲ完了セルニモ不拘、今ニ至リ食言シタル事。
四、阿部法運ニ対シ強迫ヲ加へ僧階降下ヲ強要シ之ヲ聴許シタルコト。
五、宗制ノ法規ニヨラズシテ住職教師ノ執務ヲ不可能ナラシム。
六、宗制ノ教師ヲ無視スル事。
七、自己ノ妻子ヲ大学頭ノ住職地タル蓮蔵坊ニ住居セシムル事。
八、宗制寺法ノ改正八十数年ノ懸案ニシテ、闔宗ノ熱望ナルニモ不拘何等ノ提案ナキハ一宗統率ノ資格ナキモノト認ム。

実行方法左ノ如シ。
一、後任管長ハ堀慈琳ヲ推薦スル事。
二、宗制寺法教則ノ大改正ヲ断行シ教学ノ大刷新ヲ企画スル事。
三、総本山ノ財産ヲ明確ニシテ宗門ノ財産トスル事。
右ノ方法ヲ実行スルニ当リ本聯盟ニ反スル者ハ吾人一致シテ制裁ヲ加ル事。

以上ノ箇条ヲ認認シ記名調印スル者ナリ。
大正十四年十一月十八日

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※この連判状に参加した者の名は次のとおりである。

宗会議員
 下山広健、早瀬慈雄、宮本義道、小笠原慈聞、松永行道、水谷秀圓(後の64世日昇)、下山広琳、福重照平、渡辺了遣、水谷秀道(後の61世日隆、日昇の兄)、井上慈善

評議員
 水谷秀道、高玉広弁、太田広伯、早瀬慈雄、松永行道、富田慈妙、松本諦雄、西川真慶、有元広賀、坂本要遣、中島広政、相馬文覚、佐藤瞬道、白石慈宣、崎尾正道





「管長不信認(ママ)決議案」(T14.11.20)

(『仏教者の戦争責任』)

宗会決議案
宗会ハ管長土屋日柱猊下ヲ信認(ママ)セス
        大正十四年十一月二十日
提出者 福重照平
賛成者 早瀬慈雄
松永行道
渡辺了道

宗会議長 小笠原慈聞殿





辞職勧告(T14.11.20)

(『仏教者の戦争責任』)

辞職勧告
 管長土屋日柱猊下就職以来何等ノ経論ナク徒ラニ法器ヲ擁シテ私利ヲ営ミ職権ヲ乱用シ僧権ヲ蹂躙ス我等時勢ニ鑑ミ到底一宗統御ノ重任ヲ托スルヲ得ス速カニ辞職スル事ヲ勧告ス
    大正十四年十一月二十日

宗会議員
 下山広健、早瀬慈雄、宮本義道、小笠原慈聞、松永行道、水谷秀圓、下山広琳、福重照平、渡辺了道、水谷秀道、井上慈善

評議員
 水谷秀道、高玉広弁、太田広伯、早瀬慈雄、松永行道、富田慈妙





全国信徒大会での「決議書」(T15.1.16)

(『仏教者の戦争責任』)

正法擁護会を中心とする信徒たちは大正15(1925)年1月16日、東京神田において全国信徒大会を開催し、日柱上人を当選させるため全国檀信徒の覚醒を促すとともに、5項目にわたる決議書を満場一致で採択した。
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決議
一、管長即大導師の宝位を日柱上人に奉還することに努力まい進すること
二、戒壇の御本尊の開ひ(扉)並に壇信徒に授与さるる御本尊の書写は日柱に限り行はせられ血脈相承なき僧りよ(侶)によって行はれざる様適当の方法を構ずること
三、日柱上人を排斥し又は之に与同した僧りよに対しては我等の目的を達するまで一切の供養を禁止すると共に信仰上の交際を断絶すること
四、宗制寺法、教則の改正等は管長の宝位が日柱上人に奉還せられた以後に実現される様に適当の処置を採ること
五、右の各項を実現するため数十名の実行委員を選定すること
(丸カッコ内は引用者による)





日柱上人の「宣言」(T15.1.25)

(『仏教者の戦争責任』)

宣言

 日柱の管長辭職は、曩(さき)に評議員宗會議員并に役僧等の陰謀と、其強迫によつて餘儀なくせられたるものであれば元より日柱が眞意より出たものでない。かゝる不合理極まる経路に依て今回の選擧が行はれる事になつた。
斯の如き不合理極まる辭職が原因となりて行はれる選擧に於て、日柱以外の何人が當選されたとしても、日柱は其人に對し、唯授一人の相承を相傳することが絶對に出來得べきものでない事を茲(ここ)に宣言する。

抑も唯授一人の相承は、唯我與我の境界であれば、妄りに他の忖度すべきものでない。故に其授受も亦た日柱が其法器なりと見込みたる人でなければならぬ。聞くが如くんば、日柱が唯授一人の相承を紹繼せるに對し、兎角の蜚語毒言を放つ者ありと。これ蓋(けだ)し爲にせんとての謀計なるべきも、斯の如き者は、師虫の族である。相承正統の紹繼者は、日柱に在り。日柱を除いて他にこれなき事を斷言する。
既に不合理の經路に依て行はるゝ、今回の選擧であれば、これに依て他の何人が當選するとも唯我與我の主意に反するを以て。相承相傳は出來ないのである。乃ち佛敕を重んずる精神に基く故である。斯の如く日柱が相承を護持する所以は、謗徒の爲に、宗體の尊嚴を冒瀆せられ、仏法の血脈を斷絶せらるゝ事を恐るゝゆへである。而かも米國の民主主義や、露國の無政府共産主義の如き事が、我宗門に行はれることになり、それが延ては終に日本國體に及ぼす禍根となるを悲む所以である。

日柱は宗體を顚覆せらるゝ事を痛嘆する者である。既にこれを憂慮せる清淨の信徒は、奮起して正義を唱へ、相承紹繼の正統を、正統の正位に復すべく熟誠活動して居るのである。苟(いやし)くも僧侶として信念茲に及ばざる如きあらば眞に悲むべきである。即ち佛法の興廃は今回の選擧によって定まるのである。願くば選擧に際し其の向背を誤らざらんことを。
佛日を本然の大光明に輝かさんと願はん純正の僧侶並に信徒は、完全として三寶擁護に奉ずるために、正路に精進し、倶に宗體を援助するに勇猛なれ。

南無妙法蓮華経
大正十五年一月廿五日

總本山五十八嗣法  日柱 花押





悪書板本尊偽作説を粉砕す

(第66世日達上人監修『悪書板本尊偽作説を粉砕す』/『地涌』『慧妙』)

 次に日柱上人の御事であるが、安永君も上人の人となりについては讃嘆の言葉を以て述べているが、此の点は全く当つている。もつとも此れは某氏の種本にある所であろうから、安永君もついうかうか其の儘を書いて了つたのである。此処で安永君に言うことは、何故其の種本に日柱上人を讃嘆(此の点だけでも)しているか、其の理由がわかつているかという事である。いづれにせよ日柱上人は宗学に於て漢学に於て、又信念に於て誠に傑出されて居られた。唯然し其れが為にか、凡庸なる人に対して思いやりの心が充分でなかつたと云う事は僻目(ひがめ)ではないと思う。日正上人も其のことを憂えられたのであつた。日柱上人は壮年時代より其の為め他の誤解を招かれた事があつたが、日正上人は其の都度庇護せられたのであつた。然して又一方に於ては、いかがわしい人物に乗ぜられるきらいがあつたのである。日柱上人は管長に御就任になられるや、宗門の全体的建て直しを断行すべく宗務院に剛直を以て聞えた板倉広淳師を登用して、着々計画を実施遊ばされたのであつた。しかるに広淳師は其の準備の完了する前に逝去せられたのである。次いで坂本要道師を登用せられたのであるが、日柱上人の志を遂行するには坂本師は必らずしも適当なる人ではなかったのである。此に宗門は日柱上人の志に於ける宗門の再建に賛成もあり、反対もあつたのであるが遂に再建には不賛成という事になつて其の決議がなされたのであつた。日柱上人も之れでは到底志を達することは不可能と思召されたが、此の接捗の間に日柱上人に帰依する信徒は、日柱上人に対しての反対は絶対許し難いとして、此の信徒達と一般僧侶との対峙という形になつたのである。然し間も無くして、日柱上人は辞職をされて、日亨上人に御相承あらせられたのである。此の御辞職に就いては信徒には御相談なくなされて、後継の詮衡に移られたので、周囲の信徒は我々に一言の御相談もなくなされたとして憤慨したが、此の一事を以て万事を察することが出来よう。日柱上人が日亨上人への御代替式に当つて、御影堂の御宝前に於ける、一山大衆始め宗門信徒に対しての御挨拶は実に申上げ様のない立派さで、今日に至っても、其の印象が一般の脳裡にしみわたつていて、昔話の折には必らず語り合わされている。此れが真実の歴史であつて安永君などの遠く想像も及ばぬ処である。宗門が歩んで来た、又此れからも歩んで行く此の歴史的の過程に於て、いづれの道を歩むべきか、而して歩んだ道が良かつたか悪かったかは後になつて判断される事である。今静かに振りかえつて見て、矢張り其の道は人によつて選定されるのであり、人があつて計画が実現される訳けである。人の無いのに理想の計画は到底行われもしないし、唯道を険難ならしめるだけであると云う事が思われるのみである。此れはこれでよかつたのだというのが宗門の考え方である。しかし日柱上人の御事柄は爾来宗門人の脳裡にあつて、宗門行政の上に常に指針となつて居る。日柱上人は厳然として宗門運営の上に生存して居られるのである。
(中略)
 日開上人は、生来(せいらい)、非常に謙譲(けんじょう)な御方であって、むしろ謙譲すぎると、一般から言われていた方である。この上人が何で日亨上人の地位を奪い窺(うかが)うということをなしえたであろうか。  まったく事実を誣(し)ゆるも甚(はなは)だしいと言わなければならない。
 日亨上人は、御隠退を決定あそばされるや、御意中、日開上人に御譲りあそばされる御意向があられたであろうが、きわめて理性的な遵法(じゅんぽう)的な御方であるから、宗制に選挙に依(よ)って定めることになっているかぎり、それに従うべしとの御意向で(これは吾人の想像である)、自由なる選挙を行なわしめられたのである。ここに大慈院との競争が展開されたのである。当時は宗門の上には、守旧派と進歩派があって(この分け方は必ずしも妥当ではないが)、その数は、ほぼ五分五分であった。大慈院は進歩派の棟梁(とうりょう)をもって任じておられ、実践的な方であった。しかも、日開上人は、前述のとおり非常に謙譲な方であったから、対抗してあくまでやるというような御考えはなかったと見るが至当であろう。むしろ、周囲の者が日開上人の御人格に帰依して、あくまで後継者たらしめねば、との強い意気込みで、その熱に動かされて選挙に臨(のぞ)まれたのである。もちろん日開上人は、大慈院のあまりにも進歩的なところに危惧(きぐ)を持たれておって、やはり他に人はなく、自分が出なければ、という御考えは深く御持ちあそばされた、と拝察ができる。ここに、初めての自由選挙が行われたのである。そして、その過程においては、種々の問題があったのであるが、それは当然、選挙には免(まぬが)れないことである。これを嫌えば、自由選挙はありえないことである。一番問題になったのは、有権者を俄(にわ)かに作ったことで、その有権者の資格が問題になって、文部省へ裁断を願い出たのである。この裁断が下るのが存外(ぞんがい)、暇(ひま)取ったため、選挙が永引いた観があった。裁断はたとえ資格がないから無効としても、票数を厳密に調べれば、日開上人の方が2あるいは3票多いから当選は日開上人である、ということであった。これが当時の真相である。
 日開上人は御在職7年にして、御隠退あそばされたが、これに対しては御留任(りゅうにん)を願うというのが、宗門のすべての声であった。然(しか)し上人は断固として御決意をせられたのである。それは日亨上人の時、管長の年限は7年と規定されたのであって、その宗制の規定によって管長に就任したのであるから、これに従うべきで、今さら自分の手で規則を改正して延長することは断じてできないとの御意見であった。

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この『悪書板本尊…』は、65世日淳上人・66世日達上人の御著述である。すなわち、御自身の目で見られてきた真実を記されているのであって、偏頗(へんぱ)な資料しか持ち合わせず、妄想によって文を作る池田教徒どもの遠く及ぶところではない。(『慧妙』H25.5.16)