勲章・名誉称号集めを誇る誤り

―世間の称賛求めるのは"第一の恥"―
(『慧妙』H25.9.1)

【「栄誉」に執着する創価学会】
 創価学会の池田大作名誉会長がこれまでに世界各国かち受け取った勲章・称号は、「23ヵ国から国家勲章・名誉学術称号333・名誉市民称号736」(『聖教新聞』H24.11.19)
という膨大な数にのぼり、それは今も増え続けています(その中には池田が行ったことすらない国も数多く含まれていますから、呆〈あき〉れさせられます)。
 何とも凄(すさ)まじい数であり、地球上のどこを捜しても、これほどの世間的名誉をかき集め、我が身を飾った人は1人もいないでしょう。
 こうした褒賞(ほうしょう)を受けるつど、『聖教新聞』1面では
 「栄光の5月3日を祝賀 サンパウロ州、SGI会長夫妻に顕彰状」(H25.5.3)
 「79年の歴史を誇るタイ王国屈指の名門学府タマサート大学が決定 SGI会長に名誉哲学博士号」(H25.7.3)
 「きょう8.24師弟の平和闘争を世界が讃歎 モンゴル人文大学が決定 池田SGI会長に各誉博士号」(H25.8.24)
等と大々的な報道が行なわれ、"これこそ創価学会が正しい証拠"といわんばかりの宣伝がされてきました。そして、これに踊らされた学会員も、
 「池田先生は世界から称賛される偉大な指導者で、これに嫉妬(しっと)した日顕(上人)が日蓮正宗から破門したのだ」
などと言ってきたものです。
 また、当の池田自身も、
 「アルゼンチンから5月の大十字勲章をもらったが、これで7つ目である。これが妙法である。信心です。たった5ヵ月の間に3つの勲章(コロンビア・ブラジル)をもらった。(中略)5ヵ月間に世界の勲章を3つもらえる人は、これまで、1人もいなかった。議員でも何でもない私なのにだ」(H2.5.3)
 「平和・文化・教育の活動に対しては、各界から私に、さまざまな顕彰をいただいた。そのまま紹介すると、タイ王国『1等王冠勲章』のほか(中略。この後、多くの勲章や賞などを羅列〈られつ〉して自慢)……。たくさんあると、皆、慣(な)れてしまって、あんまり喜んでくれない。じつは1つ1つが重みをもった、意義深き顕彰(けんしょう)なのである」(H3.12.23)
などと誇(ほこ)り、大いに自慢してきました。


【大聖人は「名聞名利」を厳誡】
 しかし、ちょっと待ってください。このような褒賞を受けることが仏法の正邪を決める基準(創価学会・池田大作が正しいという証拠)になる、というのは、そもそも日蓮大聖人の教えに適(かな)っているのでしょうか。
 日蓮大聖人は、
 「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」(御書P577)
と仰せられ、正法の修行者が仏法を知らない世間の謗法者から誉(ほ)め上げられることは、むしろ最大の恥と思いなさい、と教えられています。
 むろん、正法を信仰する功徳が仕事上・生活上に現われて、それを周囲から評価される、ということであれば、それは正法の功徳の実証として喜ばしいことといえましょう。
 しかし、そうではなくて、仏法信仰者としての活動そのものを世間の謗法者から誉め上げられる、としたら、それは邪宗謗法を破折していくことを忘れ、世間に媚(こ)び迎合した、正法信仰者にあるまじき姿となった証左、に他なりません。
 較べるのも畏(おそ)れ多いことですが、宗祖日蓮大聖人が、間違っているものは間違っている、と説いて、法難が重なる中、あくまでも邪宗謗法を折伏なさった御姿に照らして、じつに恥ずべき姿である、と知るべきでしょう。
 また日蓮大聖人は、
 「名聞名利(みょうもんみょうり)は今生のかざり、我慢偏執(がまんへんしゅう)は後生のほだし(紲)なり。鳴呼、恥ずべし恥ずべし、恐るべし恐るべし」(御書P296)
と仰せられ、仏道修行を今生から後生まで全うしていくためには、世間的な栄誉栄達を求める心や自慢する心を仏法の中に持ち込んではならない、と戒(いまし)められています。
 勲章や名誉称号を集めて、「これが妙法だ」「私だけである」などと自ら誇る姿は、まさに名聞名利・我慢偏執以外の何ものでもなく、ここまで醜悪(しゅうあく)な心の持ち主は、たしかに「これまで1人もいなかった」といえましょう。


【かつては池田も「栄誉はいらぬ」と】
 こうした、日蓮大聖人の仏法を信仰する者の基本精神を、池田名誉会長は知らなかったのでしょうか。いえいえ、遠い昔はちゃんと知っていたのです。
 その証拠に彼は、世間的な名誉等について、次のように述べていました。
 「今の政治家は、やれ勲章を貰(もら)うとか、金をとるとか、また有名人は利己主義になって、自分の名だけ売って、金儲(もう)けをするとか、めちゃくちゃな世界であります。(中略)私ども創価学会員は、位もいらない、名前もいらない、有名でなくともよい、大臣もいらない、また権力もいらない。」(『聖教新聞』S38.8.3)
 「(※クーデンホーフ・カレルギー伯との対談で、"あなたはノーベル賞をもらえるでしょう"と激励され)そのような栄誉はほしくもありません。また、くださるといっても、受けることもありません。そのような人間が世界に1人くらい、いてもよいでしょう。」(S42.10.13の対談)
 仏法信仰者として、まことに在(あ)るべき、謙虚(けんきょ)な姿であった、と申せましょう。しかし、こうした謙虚さも、自分を仏として祀(まつ)り上げているうちに、すっかり失われてしまったのです。
 かくて慢心の固まりと成り果てた池田センセー―以前の謙虚な発言が、現在の醜悪な姿をメッタ切りにしているかのようであります。
 創価学会員の皆さんにおいては、勲章や名誉称号を誇るような現今の学会の在り方こそ、じつは日蓮大聖人の教えにも外れ、学会が誤っていることを示す証拠である、ということに気付いていただぎたいものです。


▲『聖教』は、"記念日"にかこつけ、池田への顕彰を喧伝!


▲何たる自語相違!池田はかつて、「私ども創価学会員は、位もいらない、名前もいらない、有名でなくともよい」と、殊勝に述べていた