剥(は)がれた! 池田の"反戦・平和"の仮面

―学会員よ、これでも目が醒めないのか!?
―自衛隊増強・イラク侵攻に同意した池田―
―この歴史的事実はもはや覆(くつがえ)せない―

(『慧妙』H21.12.1)

 創価学会はその会則に、「仏法の慈悲の哲理を根本に、世界の平和と人類の幸福の実現を目指す」と明記している。
 しかし実際の行動は、この会則とは裏腹。何故ならイラクヘの武力行使を是認した公明党を、必死になって支援してきたのだから。
 この点を創価学会員に質(ただ)すと、彼らは必ず口ごもる。そして"池田先生は「反戦・平和」を貫いてきた"と、言い訳にもならない言い訳を口にするのだが―。


【「池田先生は反戦主義者」!?】
―実際には軍事力行使を肯定―
 『週刊金曜日』(11月6日号)に、「創価学会の失われた10年」と題する記事が掲載された。8月の衆院選での公明党大惨敗を受けて、その敗因を検証した古川琢也氏(ルポライター)の記事だ。
 その中で、古川氏から「私には、創価学会信者の皆さんが言う、池田大作氏が平和主義者であるという話を100%信じることができません。(中略)池田さんの意向を無視して、公明党の議員たちが勝手に動くこと(※自衛隊のイラク派遣を推進したことを指す)があるとは、にわかには信じられないんです」と問われた学会壮年部は、次のように答えている。
 「外部の方にわかりにくいのは理解できます。でもね、本当にそれは実態とは違うんですよ。米国による『イラクの自由作戦』が開始された03年3月19日の後、池田先生の『戦争には断固、反対である』というコメントが、『聖教新聞』(H15.4.9)に掲載されました。
 それに、忙しい池田先生にしてこれだけは欠席しない、『本部幹部会』という会合があるんですが、イラク派兵が決まった直後に限っては国内におられたのに欠席されてしまったんです。これは、学会ではまさしく前代未聞のことでした。
 あくまで憶測(おくそく)ですが、学会が戦争に加担することになった心労ゆえではないか、と思う人もいました。」
 なるほど、平成15年4月9日付の『聖教新聞』に掲載された、創価学園入学式での池田大作のスピーチの中には、そうした言葉がある。
 だが、この壮年部幹部が指摘した池田のコメントは、見開き2面の大半を使うほど膨大(ぼうだい)なスピーチの中において、自分の一家の戦争体験を引き合いに出して語った、わずか17行ほどの中の一節。
 しかも、スピーチの後半で「イラク戦争」という言葉を口にしていながら、それに対しての池田自身のコメントは何もなし。
 つまり池田は、一般論としての「反戦」を口にした、というだけであって、米英軍などによるイラク侵攻の是非を語ったわけでも、ましてや、戦闘終息に向けた積極的な提言をしたわけでもなかったのである。
 そもそも、開戦の直前、"軍事力の全否定は、政治の場でのオプションとしては非現実的"と唱えた池田が、実際に武力行使が行なわれた後に、一言、「戦争には断固、反対」と言ってみたところで、それは免罪符(めんざいふ)にもならない。


【物議醸(かも)した池田の武力行使容認】
―池田見解が公明党を後押しした―
 ここで当時の状況を振り返ってみよう。
 米英軍によるイラク侵攻の前年の11月、国連安全保障理事会で「国連安保理決議1441」が議決された。
 これに対しイラクは、そこに定められた国連監視検証査察委員会の査察を受け入れはしたものの、その対応ぶりは、アメリカ・イギリスなどを満足させるものではなかった。
 翌平成15年1月9日、国連監視検証査察委員会が中間報告を提出。アメリカやイギリスは、その内容などから、イラクが「国連安保理決議1441」に違反したものとして、攻撃準備を開始した―。
 このように、国際的緊張が沸騰直前に達していた1月26日、池田大作は「SGIの日」記念提言なるものを発表した。
 そしてその中で、

軍事力を全否定するということは、一個の人間の「心情倫理」としてならまだしも、政治の場でのオプション=「責任倫理」としては、必ずしも現実的とはいえないでしょう(池田大作「SGIの日」提言 H15.1.26)

と、武力行使を容認するメッセージを発したのである。
 もちろん、このメッセージが大きな物議を醸(かも)したことは言うまでもない。
 そして、このメッセージを後ろ盾としたのであろう、開戦後、当時の公明党代表・神崎武法、同書記長・冬柴鉄三は、
 「イラクが国際社会の要求に誠実に対応していれば、今回の事態は避(さ)けられた、という意味で、『非』はイラクにある」(神崎武法)
 「ただ、口で反戦・平和と叫んでも、本当の平和は構築できない!」(冬柴鉄三)
などと、米英のイラク侵攻を明確に支持したのである。
 もし、池田大作が本気で「反戦・平和」を考えていたのなら、あの提言は絶対にあり得ないものであったはずである。


【武力容認は公明党設立当初から】
―池田の指示で自衛隊増強にも協力―
 池田大作の本性は、また、次のような歴史的事実からも類推できる。
 公明党は昭和42年の衆院選進出に先だって、憲法擁護(ようご)、大衆福祉、安保の段階的解消を盛り込んだビジョンを発表した。
 ところが、佐藤栄作元首相が書き残した、同年7月20日の日記には

●国会も明一日を残すのみとなったので、最後の勉強を党側に指示する。何よりも防衛二法を通過さす事、その為に大津君(※秘書官)を創価学会池田会長に連絡をとらす。会長が幸に引きうけてくれたので一寸安心。又その約束通り議事がとり運ばれた(『佐藤日記』S42.7.20)

と記されていたのである。
 防衛二法とは、防衛庁設置法(当時)と自衛隊法のこと。自衛隊の強化を目指した佐藤元首相からの働きかけに池田が乗り、その池田の指示に公明党が従った、というのだ。
 憲法擁護・安保反対を口にして、衆議院に進出してからわずか半年。その舌の根も乾かぬうちに、池田の命令によって、主張とは正反対の対応をした公明党―。この事実から、池田の唱える「反戦・平和」は、当初から、ただの表看板にすぎなかったということと、池田にとっての公明党は、政治的な取り引きの道具だった、ということが覗(うかが)える。
 さらに言えば、中国で天安門事件が起きた時も、また、湾岸戦争が勃発(ぼっぱつ)した時も、池田は何ら"反戦""非暴力"のための積極的な働きかけを行なっていない
 ことに、創価学会によれば池田大作は、日中国交正常化の立役者のはずであり、歴代の中国首脳と、太い友誼(ゆうぎ)の絆(きずな)で結ばれてきたはずだ。
 にも拘(かか)わらず、おびただしい血が流れた天安門事件に対し、何一つ発言せずに済ませてしまった事実は、池田には平和実現への実行力など全くなく、また、そもそもその気すらなかったことを、重ねて証明するものだろう。
 学会員諸氏よ、8月の総選挙で大敗した今こそ、冷静になって、創価学会・公明党がたどってきた足跡をよくよく分析してみるべきだ。
 そこから浮かび上がる池田大作の実像を直視し、自らの身の振り方を熟考(じゅっこう)することこそ重要である。


▲米英軍の攻撃でバグダッドの建物から立ち上る巨大な黒煙(写真提供 ロイター=共同)=池田大作が創価学園でスピーチした4月8日、イラクの首都バグダッドでは激しい市街戦が繰り広げられていた


▲天安門広場で戦車からの発砲に逃げまどう学生や群衆(写真提供 ロイター=共同)=天安門事件では、池田と中国首脳との「友誼」のほどが明確になった