創価学会破折
牧口会長獄死と小笠原師は無関係

『聖教新聞』S27.6.10
▲「なぜ小笠原師が牧口会長を殺したと言うか」『聖教新聞』S27.6.10/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS061014)=昭和27年4月27日、創価学会青年部の一部の人たち(相当大勢)が、総本山に滞在中の小笠原慈聞師を下着姿にして拉致し、故牧口初代会長の墓前で、牧口氏への謝罪を強要した。これが、いわゆる「狸祭り事件」と呼ばれる事件である。この事件に関して、当時の戸田会長が「なぜ小笠原師が牧口会長を殺したと言うか」という旨の談話を、聖教新聞に発表している。(『大白法』H3.4.1)
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なぜ小笠原師が牧口会長を殺したと言うか
(戸田城聖『聖教新聞』S27.6.10)

 戦局も悲運にかたむき、官憲の思想取締が徹底化してきた昭和十八年六月初旬に総本山から「学会会長牧口常三郎、理事長戸田城聖その他理事七名登山せよ」という御命令があり、これを受けた学会幹部が至急登山、その当時の管長であられた鈴木日恭猊下、及び堀日亨御隠尊猊下おそろいの場に御呼出しで、(場所はたしか元の建物の対面所のように記憶している)、その時その場で当時の内事部長渡辺慈海尊師(現在の本山塔中寂日房御住職)から「神札をくばって来たならば受け取つて置くように、すでに神札をかざっているのは無理に取らせぬ事、御寺でも一応受取っているから学会でもそのように指導するようにせよ」と御命令があった。
 これに対して牧口先生は渡辺尊師に向ってきちっと態度をとゝのえて神札問題についてルルと所信をのべられた後、「未だかって学会は御本山に御迷惑を及ぼしておらぬではありませんか」と申上げた処が、渡辺慈海尊師がキツパリと
 「小笠原慈聞師一派が不敬罪で大石寺を警視庁へ訴えている、これは学会の活動が根本の原因をなしている
とおゝせられ、現に学会が総本山へ迷惑を及ぼしているという御主張であった。

註、◎不敬罪の告訴内容というのは大略次のようなものだということであった。
 一、御本尊は七字の題目の下に天照太神がしたゝめられているこれは仏を主として神を軽んじているから不敬である。(この不敬罪云々が神本仏迹論を戦時中通用させた大きな力になっている。)
 二、管長猊下の猊下という呼称が天皇陛下の陛下に通ずるから不敬である。
 こんなでたらめな告訴内容を神祇絶対主義の当時の官憲の権力で正当化して各派合同を実現させる手段とした悪辣きわまるものである。
 ◎当時学会は入信者のある毎にほう法払いで神札を焼き捨てゝいたし国家諫曉をしなければならぬと強硬に主張していたのであった。
 その後学会幹部は全部投獄されたのであったが、自分が警視庁に留置せられて取調べを受けた際に刑事が自分に向って「前に大石寺に対する訴状が出、それ以来学会に目をつけていたんだ、今少し大きくなつてからヤツテやろうと思つていたんだが、淀橋の警察に甚野達があがったんで少し早いけれ共お前達をヤツタんだ」と聞かされて驚いた事実がある。
 この事は小笠原慈聞が知ると知らずに関らず牧口先生を殺した原因になっているではないか。
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◆小笠原慈聞師一派が不敬罪で大石寺を警視庁へ訴えている、これは学会の活動が根本の原因をなしている(『聖教新聞』S27.6.10)
◆前に大石寺に対する訴状が出、それ以来学会に目をつけていたんだ、今少し大きくなつてからヤツテやろうと思つていたんだが、淀橋の警察に甚野達があがったんで少し早いけれ共お前達をヤツタんだ(『聖教新聞』S27.6.10)
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小笠原師等が不敬罪で訴えたことがキッカケで官憲が学会に目を付け、牧口会長が投獄されることになった。だから、牧口会長獄死の原因の一端は小笠原師にある、という論理である。

昭和17.1頃以降 警視庁当局に対し「創価教育学会々中には多数の現職小学校教員あり且其の教説は日蓮宗に謂ふ曼陀羅の掛幅を以て至上至尊の礼拝対象となし、他の一切の神仏の礼拝を排撃し、更に謗法払いと称して神符神札或は神棚仏壇等を焼燬撤却し、甚だしきは信者たる某妻が夫の留守中謗法払ひを為したる為離婚問題を惹起せり」等縷々投書せる者あり(「特高月報」昭和18年7月分/『牧口常三郎全集』第10巻371頁)
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学会は堂々と不敬行為を組織的に行っていた。そのために折伏された者から官憲に投書があった。これでは、小笠原師の告訴がなくても、遅かれ早かれ学会は官憲に注目されるところとなり、牧口会長は投獄されたであろう。

◆老衰と栄養失調が、彼(※牧口)の老体にしのびよった。彼は病んだ。取り締まり当局は、病監へ移ることを再三彼にすすめた。重体であったが、彼は頑としてこれを拒否しつづけた。(『人間革命』第1巻「一人立つ」)
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当局の勧めにも拘わらず、牧口会長がなぜ、病監へ移ることを拒否したのかは不明である。しかし、最初から素直に当局の指示に従っておれば、あるいは生きて出所できたのかも知れない。

牧口会長が投獄された原因は
人情の機微や世法を無視した強引な折伏

牧口会長が獄死した原因は
病監へ移ることを拒否したため