「狸祭り」事件の波紋
―処断への不服を口実に宗門役僧を糾弾―
―真の目的は反学会僧侶に対する威嚇!?―
(『慧妙』H24.5.1)
「平和」「栄光」「勝利」―創価学会の旗印として掲げる主義である。しかし、学会は時に、「平和」を「暴力」に、「栄光」を「謀略」に変えて、宗門から表面上の「勝利」をもぎ取ってきた。
あの壮絶な『狸(たぬき)祭り事件』から遡(さかのぼ)ること1年。昭和26年5月3日、向島・常泉寺本堂において、戸田第2代会長推戴(すいたい)式が行なわれ、戸田氏は、就任後、日蓮正宗の信徒団体であることを前提とした上で、創価学会を新たに宗教法人として設立したい旨を、日蓮正宗宗務院に願い出た。
そして、同年11月1日付けの『聖教新聞』に、『宗教法人「創価学会」設立公告』を出し、同年12月18日、戸田第2代会長以下数名は、細井庶務部長らと、学会の宗教法人設立についての会議に臨(のぞ)み、宗務院の示した3箇条の条件、すなわち、
(1)折伏した人は、信徒として各寺院に所属させること
(2)当山の教義を守ること
(3)三宝(仏法僧)を守ること
を誓約し、宗教法人取得を許された。
しかし、戦後に復興した創価学会の急速な成長は、常軌(じょうき)を逸(いっ)した過激な折伏によるものであり、時として独自の思想を振り回すその体質に、宗内の多くの御僧侶は、学会に対し警戒心を抱いていたのである。
なかには、戸田氏が学会の宗教法人化に着手した際、さらに過激な団体になるのではないか、という危機感から、創価学会員に対する化儀の執行を拒(こば)む寺院も現われたのである。
このような学会に対する反対勢力に対して、戸田会長はそれを力でねじ伏せるという暴挙に出た。それが、前号で取り上げた『狸祭り事件』である。
つまり、学会の宗教法人設立に対する反対勢力を封じ込めるために、あらぬ理由をこじつけてこの事件を引き起こしたのであり、その目的は、見せしめによる威嚇(いかく)だったのである。
その後の宗会では、学会の独立法人化に反対する意見が多数を占め、宗規を改正して、信徒が勝手に独立法人を作ることを禁止すべし、ということを決議した。
また、小笠原師には、宗制宗規に照らし適切な処置をし、戸田氏には、謝罪文の提出・大講頭を罷免(ひめん)・登山の停止という処分が下った。
しかし、この宗会の決議を不服として、猛反発した学会は、宗会議員をターゲットにして"集団吊し上げ"を始めた。
この吊(つる)し上げは熾烈(しれつ)を極めたといわれる。常健院日勇御能化は当時を振り返って、
「その『狸祭』で、結局戸田会長も登山停止になるわけだけれども、登山停止になった後の、各宗会議員や宗務院の役の上のほうの人、総監とかに対する(学会による)吊し上げなんて凄(すさ)まじかったんだからね。妙玄院さん(常泉寺第41代高野日深上人)なんかも内事部で吊し上げられているのを見てたけどね。まだそのころはね、日達上人も庶務部長でいらしたから、宗務行政に対して何か注文をつける時は日達上人が吊し上げられて。今度はお山のことで何か文句があると吊し上げられる対象は私だったから。だいたい決まっていたみたいだね。もうそれはねえ、ひどい吊し上げが何度もありましたよ…。」(『富士の法統』P138)
と証言されている。
最終的に、この事件については、戸田会長への処分として、管長猊下より「戒告文」が下され、それと同時に、宗務院は7月26日付で宗内に院達を出し、狸祭り事件に対する、いっさいの論争を差し止め、先に議決された宗会決議も取り消された。一方、戸田氏も、青年部に対し、闘争中止命令を出した。
結局、創価学会は、宗教法人化が阻止される事態を打開するのと併(あわ)せ、宗内の反学会派に痛撃を加えるために、"狸祭り事件"を計画し、ほぼ目論見(もくろみ)どおりの成果を得たのである。とんでもない「平和」「栄光」「勝利」があったものではないか。
▲宗会決議に反発し青年部が抗議闘争を開始と報じた『聖教新聞』