旧版『人間革命』で露呈!池田の反中国意識

―改訂で"不都合な真実"を隠蔽―
(『慧妙』H25.9.1)

 小説『人間革命』では、ストーリーの時代背景を描(えが)くため、当時の社会情勢や国際情勢に関する解説が辟易(へきえき)するほどの頁数を割(さ)いて記述されているが、そうした歴史記述の中に、"日中国交回復の立役者"と自惚(うぬぼ)れる池田大作がどうしても消し去りたかった表記があった。それは20数箇所にわたって存在する「中共」という2文字の蔑称(べっしょう)だ。
 「中共」は中国共産党の正式略称であるが、彼らが建国した中華人民共和国を指して「中共」と呼ぶ場合は蔑称となる。
 中華人民共和国は1949年に成立した。しかし日本政府(岸-佐藤政権)は、20年以上の長きにわたって同国を正式国家として承認せず、敵対的態度を取っていた。
 そして、同国を呼称する場合も、「中国共産党が不当に支配している国」というネガティブな意味合いと、反共感情を込めた「中共」の2文字を用(もち)いていたのである。朝日新聞を除く大新聞もこの"公式蔑称"を用いて中国関連記事を書いていた(ちなみに、今日この「中共」は放送禁止用語に指定されている)。この状況は日中国交回復が実現する1972年まで続いた。
 一方、そうした政府見解に反して、新中国(中華人民共和国)を正式国家として認め、国交回復運動に携(たずさ)わっていた日本の友好人士が少なからずいたが、彼らは同国を呼称する際に「中華人民共和国」あるいは「中国」と呼ぶのが常で「中共」と蔑称することなどあり得なかった。
 『人間革命』第5巻(1969年出版)で「中共」という蔑称を抵抗なく連呼していた池田大作は、当然、後者の友好人士群には属さない。
 「中共」呼ばわりの例は、『人間革命』だけに留(とど)まらない。学会内スピーチにおいても、聖教新聞紙上においても、中華人民共和国を指して「中共」と呼称・表記した例は多数ある。これについては、後で証拠として引用する。


【反中国思想があった創価学会】
 創価学会が中国側と初めて接触したのは1966年のことである。
 それも、学会側から積極的に接触したものではなく、中国(周恩来)が日本に中国を承認させるべく、学会・公明勢力を取り込もうと、工作員を使って学会にアプローチしてきた結果であった(当時、周恩来は世界各国でこうした人心獲得工作を行なっていた)。
 当時、中国を「中共」と呼ぶほどの親台湾派であった池田創価学会は、突然の中国側からの接近に戸惑いつつ、恐る恐る中国側との初接触に臨(のぞ)んだのである。『新人間革命』13巻「金の橋」には次のように書かれている。
 「どうしても警戒心を拭(ぬぐ)いきれません。共産主義国では、宗教を否定的に見ているにもかかわらず、なぜ、学会と交流を希望するのか疑問です。何か、別の意図があるように思えます。」(『新人間革命』第13巻P33)
 これは伸一(池田)の偉(えら)そうな指導が語られる前振りとして置かれた"青年部の戸惑(とまど)い"であるが、おそらく当時の池田自身の戸惑いそのものを吐露(とろ)したものであろう。
 そして、中国側から説得されて、ようやく「日中友好」バスに乗り込んだのであるが、こうした経緯(けいい)からみると、池田の日中友好事始めは1966年ということになる。「日中国交正常化提言」のわずか2年前である。
 ところが、近年、池田大作は著作やスピーチを通して、"池田や学会の日中友好姿勢は1968年の「日中国交正常化提言」から突如始まったものではなく、学会創立以来ずっとそうであった"かのように印象操作している。例(たと)えば以下のような具合いである。
◆私は戸田先生の弟子です。戸田先生も、また牧口先生も、日中友好を念願しておられた。私は、師匠の心の苦しみを知っています。(中略)私の『日中国交正常化提言』は、あらゆる障害を突破して、両国の青年のため、未来の友好を開きゆく、生命を賭(と)した挑戦であった。
 この思いはまた、私の青春時代からの信念でした。若き日より私は、中国をはじめ全世界に、絶対の信頼の『金の橋』をつくりはじめたのです。(延安大学「終身教授」称号授与式『聖教新聞』H20.5.13)
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 中国延安大学からの来賓を意識して、"日中友好の信念の人―池田大作"を自己アピールしたスピーチであるが、よく臆面(おくめん)もなくこのような嘘(うそ)が語れるものである。
 まず、牧口の「日中友好」観。彼にもし善隣友好の志(こころざし)があったとすると、創価教育学会の学会歌に、以下のようなキナ臭(くさ)い歌詞を含めたりはしないだろう。
◆八紘一宇(はっこういちう)肇国(はつくに)の御理想、今全く地球をつつむ(創価教育学会 生活改善同盟の歌)
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 この中の「八紘一宇(全世界を統一し、一家のように和合させる)」とは、軍部の海外侵略を正当化するスローガンであり、善隣友好の対極にある思想である。牧口は軍部に阿(おもね)って唯々諾々(いいだくだく)とそれを学会歌に取り入れたのである。
 次に、戸田の"日中友好"観であるが、戸田はそもそも中華人民共和国を正式国家として認めていなかった。むしろ敵対意識をもっていた。以下の戸田会長就任スピーチ(1951年)がその証拠である。
◆いま大陸は、中共勢力の席捲(せっけん)するところとなり、また朝鮮にあっては世界の兵力集まっての戦乱であります。(『戸田城聖全集』第3巻)
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 このスピーチは旧版『人間革命』の第5巻にも引用されていたが、「中共勢力の席捲するところとなり」の部分が新中国を否定、敵視するニュアンスであるため、改訂版では上記の文言を以下のように書き換えて、ごまかさねばならなかった。
◆今日、中国大陸では、いまだ混迷の様相を呈し、また、朝鮮半島にあっては、世界の兵力集まっての戦乱であります。(改訂版5巻P17)
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 前述の池田スピーチを聞いて感心したであろう延安大学の来賓が、もし日本語読解力があり、この旧版『人間革命』の第5巻を読んだら驚くに違いない。
 延安といえば、かつて中国革命の根拠地であり、革命聖地と呼ばれていた地である。そこから来た賓客が、「中共勢力の席捲」という戸田発言や、それに続く池田の怒涛(どとう)の「中共」表記を見たならば、「終身教授」称号を返せ、と言いたくなるかもしれない。


【池田も再三にわたり中国を侮蔑】
 さて、前述の池田スピーチ中、池田が若いころから日中友好に取り組んでいたかのように印象操作している、以下の自己宣揚フレーズ、
◆(日中)両国の青年のため、未来の友好を開きゆく、……この思いはまた、私の青春時代からの信念でした。
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 これもまた、彼の過去の言動と矛盾(むじゅん)しており、己れを美化した妄想を現実のように語る池田得意のレトリックである。
 ここで、昔の池田の対中認識はどのようなものであったか、それを窺(うかが)い知る聖教記事があったので挙例(きょれい)しておく。
 まず、会長就任直前の総務時代の池田発言。蔑称を用いて中国をジョーク・ネタに使っている。
◆2、3日前、イギリスの大使館の人が話を聞きにきました。4、5日前にはアメリカ大使館からも本部へきました。もうじき、ソ連と中共からもくることになっている。(笑)(S34.7.10)
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 次に、池田会長就任後の『聖教新聞』に発表された、海外在住学会員の統計報告。報告者は森田理事であるが、当時の創価(池田)の対中認識が明確に見て取れる。
◆…、第4位中華民国 45世帯、第5位大韓民国 36世帯、…第8位中共 10世帯、第9位朝鮮民主主義人民共和国 4世帯、…(S35.8)
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 笑い話のネタに使われ、在外学会員リストに正式国名も載(の)せない。これが当時の池田創価における対中意識だったのである。さらに、当時の会員向け指導の中でも「中共」の語が飛び交っている。
◆中共などは何年来の大飢饉(ききん)です。やはり東洋広布の前提でしょう。(S36.4.22 中国総支部幹部会・土木殿御返事講義)
◆私どもの祖国は日本です。祖国ソ連でもなければ、祖国中共でもなければ、祖国アメリカでもありません。私どもの祖国は日本でしょう。(S37.6.2 中国総支部地区部長会・一昨日御書講義)
◆アメリカは、どんどん北ベトナムを空襲している。そのうちに中共も原爆を持って、どう応酬(おうしゅう)するかもしれない。(S40.5.28 倉敷会館入仏式・諸法実相抄講義)
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 そして、こうした侮蔑(ぶべつ)意識が、『人間革命』第5巻「戦争と講和」の章にある20数箇所もの「中共」という蔑称表記に集大成されていくわけだが、これらは、近年池田が語っている"青春時代からの日中友好の信念"云々という自己宣揚が、全くの虚言であることを証明して余りある。"青春時代から日中友好の信念"を持っていた人間が、相手国の正式国名を避(さ)けて、不快な蔑称で呼ぶようなことはすまい。
 『人間革命』第5巻に散りばめた「中共」という蔑称を、改訂版ですべて「中国」と書き換えたのは、そうした矛盾や過去の己れの不見識を隠蔽(いんぺい)するためだった、と言ってよい。
 この「中共」問題については、他にも言及したいことがあるが、紙幅の都合で機会を改める。

[画像]:"日中友好の立役者"のはずの池田は、かつて中国を「中共」と蔑んでいた!