"師弟邂逅(かいこう)時の年齢の一致"のウソ(仮題)

―批判をかわそうと懸命に歴史を改竄―
(『慧妙』H25.6.1)

 改訂版『人間革命』の改訂目的は大きく分けて以下の3点に集約される。
@新旧創価学会の教学上の矛盾(むじゅん)を隠蔽(いんぺい)
A宗門の存在価値を矮小化(わいしょうか)
B池田神話の調整
 このうち、@とAについては、最近新たに出た第4・5・6巻と併(あわ)せて後日論及するとして、今回は、Bの「池田神話の調整」すなわち改訂版で施された"嘘(うそ)の上塗り"について検証する。

【「戸田は19歳の冬休みに東京へ下見に」?】
―牧口・戸田の邂逅に改竄を加えた池田―
 『人間革命』に散りばめられた池田神話には、史実と整合しない箇所(つまり嘘)が多々あり、本紙等もこれまで様々に追及してきたが、その中の1つに"歴代会長の師弟邂逅(かいこう)時の年齢の一致"という嘘がある。"初座談会で即興詩(そっきょうし)の朗読"という嘘とともに、池田(山本伸一)のデビューを華々しく彩るために捏造されたエピソードの1つである。
 "歴代会長の師弟邂逅時の年齢の一致"というのは、牧口-戸田、戸田-池田のそれぞれの邂逅時の年齢が、いずれも師匠48歳、弟子19歳の時であった、というものだ。『人間革命』初版には次のように書かれている。
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 戸田は、19歳の春―北海道から上京した頃のことを、しきりと思い出していた。牧口常三郎と、初めて会ったのは、その年の8月のことである。(中略)戸田城聖は19歳で牧口常三郎は48歳であった。いま、戸田は、その48歳になっている。そして、今夜の山本伸一は、19歳だといった。(中略)19歳の青年は、いくらでもいる。しかし、29年前の牧口と当時の戸田とを、まざまざと想(おも)い甦(よみがえ)らせたのは、今日の一人の青年ではなかったか。(『人間革命』第2巻「地湧の章」昭和41年版)
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 これについて、本紙は『人間革命の正しい読み方』のシリーズで次のように指摘、批判したことがある。
《まるで、年齢の一致が将来の会長継承を決定しているかのごとき描写であるが、この「年齢の一致の不思議」も、じつは、池田が「19歳」であったということ以外、全くのデタラメなのである。
 まず、牧口氏は1871年(明治4年)6月6日生まれ、戸田氏は1900年(明治33年)2月11日の生まれである。両氏が出会ったのは1920年(大正9年)8月のことであるから、この年の2人の年齢は、満年齢で牧口氏が49歳、戸田氏が20歳。数えでも50歳と21歳である。
 また、戸田氏と池田の出会いは、1947年(昭和22年)8月で、昭和3年1月2日生まれの池田は、当時19歳、戸田氏は47歳。数えに直(なお)しても戸田氏は48歳、池田は20歳である。
 どう計算し直してみても、この2例とも、それぞれ「19歳と48歳」にはならない。いったい、何故、こんなウソを書いたのか!?
 池田にしてみれば、『観心本尊抄文段』の「三事の不可思議」(『日寛上人文段集』P451)に擬して、牧口氏から戸田氏、また戸田氏から池田への会長継承を、仏法上で予(あらかじ)め定まっていた不思議な宿命として、意義付けたかったのであろう。》(『慧妙』H8.7.1)
 こうした批判を受けて、池田は改訂版でウルトラC級の詐術(さじゅつ)を展開する。
 戸田青年が20歳のときに上京したという史実は認めつつも、「実は19歳の時に下見のため1度東京に行ったことがあり、そのときに牧口と会った」などという初耳のエピソードを持ち出して、年齢の矛盾を誤魔化(ごまか)そうとしているのである。改訂版の記述を見てみよう。
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 彼は、19歳の時、冬休みを利用して、初めて東京に出て来たころのことを、しきりに思い出していた。
 青雲の志(こころざし)に燃えていた彼は、友人と未来を熱く語りながら、いつかは東京に出て学ぼうと決意していた。ともかく、一度、東京を見ておこうと考えた彼は、上京の計画を立てた。
 そこで、札幌に住む友人のつてで、札幌師範学校の卒業生に会い、東京で訪ねるべき人物を紹介してもらおうとした。その卒業生が、師範学校の先輩である牧口常三郎を推薦し、紹介状を書いてくれたのである。
 上京した戸田は、牧口を訪ねた。戸田が、やがて生涯の師と仰(あお)ぐ牧口常三郎と初めて会ったのは、この時のことである。(中略)―その時、戸田城聖は19歳で、牧口常三郎は48歳であった。今、戸田は、47歳になっている。そして、今夜の山本伸一は、19歳だと言った。(改訂版『人間革命』第2巻「地湧」P270)
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 このように、懸命の詐術を展開して、牧口校長と出会った時の戸田の年齢と、戸田に出会った時の池田(山本伸一)の年齢を、共に19歳であるとしているのだが、さすがに牧口の年齢と戸田の年齢を一致させることまでは、無理だったようだ。


【捏造エピソードには裏付けがない!】
―戸田の薄給では"下見上京"は困難―
 それにしても、本格上京のために19歳の時に下見に行った、などというエピソードは、いったい何が根拠になっているのか。戸田城聖著『若き日の手記・獄中記』にも、それを窺(うかが)わせる記述はない。
 おそらく根拠となる史料など何もなく、捏造されたものであろう。というのは、以下に述べる理由から"19歳の下見上京"など、あまりにも非現実的すぎるからだ。
 「19歳の時の冬休み」というのは、戸田氏の生年月日(明治33年2月11日)を考えると、大正9年(1920年)の正月前後の2週問をおいて外(ほか)にない。つまり、同年2月末の本格的上京の2ヶ月前に下見上京した、ということになるのだが、当時経済的に逼迫(ひっぱく)していた戸田青年に、下見旅行などという悠長(ゆうちょう)な浪費ができたとは考え難(がた)い。
 当時、青森-上野の往復運賃が14円46銭。(朝日新聞社刊『値段史年表』より)このほか、厚田-函館の汽車賃、青函連絡船の往復船賃、東京での滞在費等々、少なくとも20円以上が下見旅行に必要となる。当時、戸田青年の新任教員としての月給は12円である。(同前)そんな中、東京での新生活のための蓄(たくわ)えから、給料2ケ月分に相当するほどの金を切り崩して、下見旅行に費(つい)やすことなどあり得まい。上京後もバイトをせざるを得ないほどの苦境にあった、というのだから、なおさらである。
 それに、改訂版では下見上京時に紹介状を持って牧口常三郎校長を初めて訪問したことになっているが、紹介状持参ということは就職斡旋(あっせん)が訪問の主目的であろう。もしその訪問が事実だとすると、その後の筋書きとの整合性が取れなくなる。
 戸田青年は"本格"上京後、すぐに牧口校長には会いに行かず、先に母方の知人である海軍中将を就職斡旋の目的で訪れている。そこで屈辱(くつじょく)を味わい、失意と挫折の末に、ようやく8月になって牧口校長を訪ねているのである。もし「19歳のとき冬休みを利用して下見上京し、紹介状持参で牧口と会った」という前提事実があったのなら、そのような妙なストーリーにはなるまい。
 以上の理由から、「19歳下見上京」エピソードは、池田の捏造である可能性が極めて濃厚である。もし、そうでないと反論したいのであれば、「下見」説の根拠となった史料を直(ただ)ちに公表せよ(改訂版巻末の参考資料欄にも何も記されていないのは、根拠がないためだろう)。

 最後に、本紙が指摘してきた『人間革命』の嘘のうち、1つだけ本紙の主張を認めて訂正した箇所があるので、殊勝(しゅしょう)な特異例として紹介しておこう。
 「婦人雑誌『ルビー』」という嘘だ。
 池田の勤(つと)めていた日本正学館が発行していた雑誌『ルビー』は、元版(第3巻)や多くの学会書籍で「婦人雑誌」と説明されていたが、本紙等が『ルビー』は実は猥俗(わいぞく)なカストリ雑誌(終戦直後大流行したエロ小説雑誌)であったと指摘したところ、今回の改訂では「娯楽雑誌」と書き替えられていた。GHQ作成のマイクロフィルムが根拠になっているだけに、さすがに鉄面皮(てつめんぴ)池田も「婦人雑誌だ」と居直ることはできなかったと見える。
 上述以外にも池田神格化のための嘘は多々あるが、それらの"改訂"については追って紹介、検証していく。

▼『人間革命』第2巻「地涌」の章の新旧を比較。改訂により、嘘を上塗り!

「戸田城聖19歳、牧口常三郎48歳」は「戸田城聖20歳、牧口常三郎49歳」の間違い、「山本伸一19歳、戸田城聖48歳」は「山本伸一19歳、戸田城聖47歳」の間違いと『慧妙』(H8.7.1)に指摘されると以下のように改訂

実際は「戸田城聖20歳、牧口常三郎49歳」だが、前年に下見のために上京し出会ったことにして無理やり「戸田城聖19歳、牧口常三郎48歳」を維持。「山本伸一19歳、戸田城聖48歳」は「山本伸一19歳、戸田城聖47歳」に訂正