御僧侶の信徒教導は大聖人の御命

―僧侶と在家の関係は「二而不二」―
―僧俗師弟義を否定する『創価新報』―

(『慧妙』H24.11.16)

 学会は、『創価新報』において、日蓮正宗の主張する僧俗師弟義には何の根拠もない、と嘯(うそぶ)いている。
 まず、僧俗の違いについて大聖人は、
●よき師とは、指したる世間の失(とが)無くして、聊(いささか)のへつら(諂)ふことなく、少欲知足にして慈悲あらん僧の、経文に任せて法華経を読み持ちて人をも勧めて持たせん僧をば、仏は一切の僧の中に吉(よ)き第一の法師なりと讃められたり。吉き檀那とは、貴人にもよらず賎人をもにくまず、上にもよらず下をもいやしまず、一切人をば用ひずして、一切経の中に法華経を持たん人をば、一切の人の中に吉き人なりと仏は説き給へり(『法華初心成仏抄』御書P1314,全集P550)
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と、僧は,「師」であり、信徒は「檀那」であることを御指南されている。
 また、この両者の関係については、
●況んや我等衆生少分の法門を心得たりとも、信心なくば仏にならんことおぼつかなし。末代の衆生は法門を少分こゝろえ、僧をあなづり、法をいるか(忽)せにして悪道におつべしと説き給へり。法をこゝろえたるしるしには、僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし。今は仏ましまさず、解悟の智識を仏と敬ふべし、争でか徳分なからんや。後世を願はん者は名聞名利を捨てゝ、何に賎(いや)しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如
くに敬ふべし。是正しく経文なり(『新池御書』御書P1461,全集P1443)
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と、「師」たる御僧侶を尊敬申し上げ、その教導を受けてこそ、仏道を成ずることができる旨(むね)を御教示されている。
 この御教示は、御僧侶と信徒との間に師弟関係があることを、明確に示すものである。
 そもそも、大聖人の御書中には、
●此の法華経をば学乗房(がくじょうぼう)に常に開かさせ給ふべし。人如何(いか)に云ふとも、念仏者・真言師・持斎(じさい)なんどにばし開かさせ給ふべからず。又日蓮が弟子となのるとも、日蓮が判を持たざらん物をば御用ひあるべからず(『一谷入道御書』御書P830,全集P1330)
●覚乗房はわき(伯耆)房に度々(たびたび)よ(読)ませてき(聞)こしめせ、きこしめせ(『高橋入道殿御返事』御書P891,全集P1463)
●委(くわ)しくは此の御房に申し含めて候(『上野殿御書』御書P902,全集P1513)
●返す返すははき(伯耆)殿読み聞かせまいらせ給へ(『南条殿御返事』御書P954,全集P1530)
●又故(こ)道善御房の御はか(墓)にて一遍よませさせ給ひては、此の御房にあづけさせ給ひてつねに御聴聞候へ(『報恩抄送文』御書P1038,全集P330)
●さてはえち(越)後房・しもつけ(下野)房と申す僧を、いよ(伊予)どのにつけて候ぞ。しばらくふびんにあたらせ給へと、とき(富木)殿には申させ給へ。(中略)いよ(伊予)房は学生(がくしょう)になりて候ぞ。つねに法門きかせ給ひ候へ(『富木殿女房尼御前御書』御書P1429,全集P990)
●此の僧によませまひらせて聴聞あるベし。此の僧を解悟の智識と憑(たの)み給ひてつねに法門御たづね候べし。聞かずんば争(いか)でか迷闇の雲を払はん。足なくして争でか千里の道を行かんや。返す返す此の書をつねによませて御聴聞あるべし(『新池御書』御書P1461,全集P1444)
●又をも(思)いわす(忘)るゝ事もやと、いよ(伊予)房に申しつけて候ぞ。たのもしとをぼしめせ(『富木殿御返事』御書P1578,全集P978)
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等とあるように、在俗の信徒に対し、大聖人の弟子である御僧侶を師として、正しい法門の研鑽(けんさん)や信行に励むよう、御教示されているのである。
 ゆえに、「僧俗師弟義」は、まったく日蓮大聖人以来変わることのない、日蓮正宗僧俗の関係であることが明らかである。
 また、59世日亨上人は、第9世日有上人の『化儀抄』の、
●貴賎道俗の差別なく信心の人は妙法蓮華経なる故に何れも同等なり、然れども竹に上下の節(ふし)の有るがごとく、其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか(『聖典』P973)
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との御文を、僧俗平等の義・差別の義、常同常別・二而不二と釈されている。
 すなわち「僧俗の立場」は「二而不二」、すなわち「二にして二ならず」という関係である。立場・役割の現実的な相違は、否定し得ないものであるから「二而」である。また、御本尊に対し奉る信仰面で捉えるならば、「平等」であり「不二」である。
 仏法には、このような拝し方をすべき法門が多々存する。例えば、「色心不二」「因果不二」「依正不二」「凡聖不二」など、「二而不二」の立場から拝さなければ、とうてい真実義に至ることのできない教説は、多岐にわたって存するのである。
 つまり、信心の上では、僧俗に全く差別はなく、平等に即身成仏できることは当然である。しかし、仏法守護のため、信徒の信行学増進のため、宗団維持発展のために、竹に上下の節があるように、礼節が必要なのである。この点が大切なところで、前述の「二而不二」の「二而」の義も、実はここにある。
 宗門は古来、日興上人の『遺誡置文』の、
●若輩(じゃくはい)たりと雖も高位の檀那より末座に居(お)くべからざる事(『日興遺誡置文』御書P1885,全集P1618)
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との条目を守り、信心の化儀中にあっては、能化・所化、僧俗の分位、初信・後信の前後等から、上下の秩序を保ってきた。これは、日興上人の御教示であり、歴代の御法主上人が堅持せられてきた日蓮正宗の伝統精神である。
 この「二而不二」の原理が理解できなければ、創価学会員は、永遠に大聖人の仏法に敵対する道から抜け出すことはできないであろう。


▲『創価新諏』(11月7日付)に掲載された誹謗記事