『畑毛日記』(抜粋)

―直達講(講頭・三谷素啓氏、牧口氏も同講に所属していた)の副講頭であった竹尾清澄氏の著作―
(『慧妙』H24.3.1)

……最期を遂げた、極右の朝日平吾も大石寺に参篭(さんろう)したことのある人である。
 また他面、牧口氏の側にも次のような事情があったことが、ご隠尊と山峰氏のお話から感じられた。
 牧口氏は所属寺院の歓喜寮主管堀米泰栄師(後の日淳上人)と議論し、「もう貴僧の指導は受けない」と席を蹴って退去し、本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会は茲(ここ)で日蓮正宗と縁が切れ、後に戸田氏が宗門に帰参してからも、学会は寺院を離れた独自の路線をとることになった。
 この様な状勢の中で、天照大神に対する牧口氏の不敬事件は、個人の問題として取扱われ、曼荼羅中の天照大神の位置が下の方にあることについても、他宗ではあったが鑑定人として呼び出された老僧が「それは下位ではない。最上位である。そのようなことを云うのは曼荼羅を知らないからだ」と証言したことで片付けられた。
 牧口氏が折伏教化して、写真に撮った御本尊を入信者に与へていたとか、自分の肖像を飾らせたとか、出征兵士が氏の写真をお守りとして所持したとか、噂されたのはその頃のことであろう
 唯茲で一つ問題となるのは日亨上人との関係である。牧口氏は早くから日亨上人に近づき、上人から雪山坊の解体材料のお下げ渡しを受け、理境坊に別棟を建てそれを学会の宿坊とした。これが学会か本山に根拠を占める発端となり、その後戸田会長によって二階建に改築され、更に現在のコンクリート三階建の雪山坊が出来るまで、長年に亘って学会本部の宿坊となった。