創価学会破折
法難と法体厳護について

―大聖人は経文身読のため法難を甘受―
―法体の建立・厳護には重々の御配慮―

(『慧妙』H21.8.1)

本紙6月16日号を読んだ読者の方から次のようなお便りをいただきました。
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 『連載学会機関紙を斬る』の中で、戦時中に御宗門が神札を受け取ったことについて、「当時は、現代のような平和な時代ではなく、戦時中の軍国主義下という、非常事態であったということである」と説明されていますが、大聖人御在世はさらにもっと厳しい世情でありました。なぜ、大聖人は頸(くび)の座という「超・非常事態」に遭遇(そうぐう)されたのに何故、法体を守るため命乞いをされるなり、「改心」のふりをされなかったのでしょうか。今にも刀が振り下ろされるという絶体絶命の状況なのに手を打たれなかった大聖人の御真意が理解できません。御住職に尋(たず)ねても、「御本仏のお考えはわからない」というだけで、明確なお答えがありません。創価学会の人も「宗門は絶対答えられないよ」と言っています。
 どうかよろしくお願いします。楽しみにしております。」
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楽しみにしておられるそうですから、今回は、このことについてお答えしましょう。
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 これは、学会員からよく出てくる疑難です。
 まず、弁(わきま)えておかなければならないのは、日蓮大聖人は、末法の大導師として、法華経の文を身読(しんどく)しなくてはならないお立場であった、ということです。
 すなわち、法華経勧持品には、末法において上行菩薩が法華経を弘通する際に、流罪・死罪をはじめ数々の大法難に遭(あ)うことが明かされています。
 大聖人は、外用(げゆう)は上行菩薩の再誕でありますから、法華経勧持品に予言された法難のすべてを御身に受けられることにより、御自身が上行菩薩であり、末法の大導師であられることを衆生に証明なさる必要がありました。
 ですから大聖人におかれては、進んで法難に臨(のぞ)まれることはあっても、避けられることはありえない、と拝するものであります。
 また、大聖人は、外用は上行菩薩の再誕ですが、その本地は久遠元初の御本仏であらせられますから、このような法難、それこそ「超・非常事態」に遭遇されたとしても、
 「聖人は横死せず」(御書1299頁)
と仰せのとおり、御命を奪(うば)われることはありえません。
 その実証が、竜の口の頸の座における大現証である、といえましょう。
 この御本仏の御境涯は、過去世の謗法(ほうぼう)の罪報によって末法に生を受けた、他の一切衆生とは、全く違うものです。
 その久遠元初の御本仏の示同凡夫の御姿に目を奪われ、御本仏を、我々末法の衆生と全く同列に考えているから、「大聖人の御真意が理解できない」などという浅識(せんしき)に陥(おちい)るのであります。
 では、大聖人には法体を守る、というお考えはなかったのか、といえば、それは違います。
 大聖人は、一期弘法(いちごぐほう)の正体たる本門戒壇の大御本尊を御図顕あそばされるにあたっては、折伏の最前線であった鎌倉を離れて、甲斐・身延の地に入られました。
 それは、
 「旁(かたがた)存ずる旨ありしに依りて」(御書1501頁)
と仰せられているように、法体の令法久住を鑑(かんが)みられての故であったと拝せられます。
 すなわち、鎌倉は謗法者が充満している地でしたし、。また、当時の門下の弘教地は、甲斐を除いて、各地方とも幕府の所領地や邪宗の勢力地であったため、もし、そのような地に法体たる大御本尊を建立すれば、法体の令法久住(りょうぼうくじゅう)が危機に晒(さら)される危険性があり、けっして適当とはいえませんでした。
 それに対し、甲斐の地は、日興上人の弘教地であり、地頭の波木井実長をはじめとして多くの檀越がいたため、大聖人はその身延の地を選んで、大御本尊を顕わされたのです。
 このように、大聖人におかせられても、法体たる大御本尊を厳護あそばされるために最善の手を尽くされたわけですから、2祖日興上人以降の御歴代上人方が、いろいろな時代や国の状況の変化の中で、法体の厳護を第一に考えられ、その上から種々の手だてを講じられるのは当然のことであります。
 以上、こうした大聖人の御振舞いや御意を正しく拝することができるのも、日蓮正宗に血脈が流れているが故であり、本当に有り難い思いでいっぱいになります。
 創価学会では、大聖人の御真意を拝する術(すべ)がないため、自分達に答えられないことはすべて「宗門は答えられないよ」と思うのでしょう。これぞ増上慢の典型、浅識謗法の極みであります。
 一日も早く、正しい血脈のもとで大聖人の御意に沿った信心をされることを、願ってやみません。