金光教が発した通牒等

<戦時における教団活動>070625抜粋編集)

【満州事変に際して出された通牒】
1931年(昭和6)9月に日本軍と張学良軍(満州軍閥)との軍衝突に因るいわゆる満州事変が起り、翌1932年1月には居留日本人の保護の名目で上海事変に戦火が移ったが、その年3月に五族協和の旗印をかかげた満州国が成立して、大陸に日本の支配権を樹立する第1歩となった。この満州事変に際して、1931年(昭和6)11月12日付けの教監通牒(六監第四〇号)をもって、次のように指示した。
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 今回ノ満洲事変ハ実ニ皇国ノ重大事ニシテ苟モ生ヲ我皇土ニ享ケ職ヲ我教ニ奉ジ教化ノ任ニ在ル者ハ宜シク其事態ヲ正視シテ大ニ自覚奮起スル所無カルベカラズ
 惟フニ正義ニ立脚シテ東洋ノ平和ヲ確保シ信義ニ基キテ友誼ヲ隣邦ニ厚ウシ以テ共存共栄ノ福祉ヲ希フハ日本古来ノ精神タルノミサラズ又実ニ明治天皇ノ明示シ給ヘル皇国永遠ノ国是ニシテ我国策一トシテ此趣意ニ出デザル無キハ歴史ニ徴シテ明カナリ然ルニ隣邦我誠意ヲ覚ラズシテ無謀ノ言動多ク遂ニ今回ノ事態ヲ惹起スルニ至レリ而モソノ政府〔編者註―張学良政権〕ニ統一ノ威令無ク責務ヲ明カニスル能ハズシテ事態ハ益々紛糾セントス列国又我真意ヲ誤解シ且ツ満蒙ノ実情ニ通セズ国際聯盟ノ本旨ヲ没却シテ正論ヲ顧ミザラントスルモノアリ抑モ此事タル素隣邦ノ我誠意ヲ解セザルニ因ルト雖モソノ関スル所一隣邦トノ問題タルニ止ラズ実ニ対世界列国ノ問題ナリ將東洋永遠ノ平和ニ関スル大事タルノミナラズ又国際信義ノ死活世界平和ノ成否ヲ左右スル重大事ナリ此ヲ以テ之ヲ観レバ正ニ我国未曽有ノ難局ナリト謂フベシ
 此秋ニ当リ常ニ信忠一本ノ教義ヲ体シテ教導ノ職ニ在ル者ハ須ク日夜不断ノ祈念ニ世道人心ノ指導ニ専念努力以テ教信徒ヲシテ国民タリ奉教者タルノ自覚ヲ促シ時局ニ処スベキ道ヲ誤ルコト無カラシメ終ニハ外邦ノ蒙ヲ啓キテ我正義貫徹シ眞ノ平和確立ヲ見ル日ノ一日モ速カナランコトヲ祈念セザルベカラズ
 此祈念ニ基キ特ニ正義貫徹国威宣揚ノ祈願祭ヲ行ヒ或ハ在満ノ将士及同胞ノ慰問犒労ニ或ハ戦歿者犠牲者ノ慰霊祭ニ或ハ是等遺族ノ慰問救助ニ夫々誠意ヲ尽シテ遺漏無カランコトヲ期スベシ

 右命ニ依リ此段通牒候也
 昭和六年十一月十二日
金光教本部  教監 山本 豊

 金光教各教会長殿
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この通牒に示された事変の原因や経緯の論述は、当時の日本政府の公式の見解であって、広く一般国民に宣伝されていたものであった。したがって本教は、この通牒に指示された慰霊祭の執行・慰問金品の寄贈・遺家族への慰問と救助・在満軍隊への慰問使の派遣等を行ない、とりわけ大陸の各地で布教伝道に当っていた教師は、信徒の保護と国策への協力に献身的に取り組んだ。


この満洲事変を契機として軍部の政治介入が強くなり、国家の政策決定への主導権を持つに至った。その結果、日満両国の防衛を名目として中華民国への侵攻政策がすすめられ、1937年(昭和12)7月の蘆溝橋事件を発端として日中戦争へと拡大していった。本教は、昭和9年10年事件をへて教団自覚の信念運動が情熱的に進められている時であったが、同年(1937)7月12日付けの文部次官通達に依り、次ぎのような教監通牒でもって教団活動を実施することになった。
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一二監第三五号

 今次、蘆溝橋ニ於ケル、支那兵ノ不法行為ニ端ヲ発シタル北支事変(編者−日中戦争初期の名称)ハ、其ノ当初ヨリ、局地解決ヲ希望シテ、隠忍自重、百方之カ拡大ヲ妨止シ、誠意折衝、切ニ隣邦ノ反省ヲ促サムトシタル帝国ノ努力ハ、何等酬ヒラルル所ナキノミナラス、却ツテ其ノ非ヲ覆ヒ、其ノ罪ヲ嫁シ、事実ヲ歪曲シテ列国ニ讒構シ、慘忍倨傲、暴状到ラサルナク、而モ陰ニ軍隊ヲ集中シ、防備ヲ厳ニシ、挑戦以テ武力抵抗ノ挙ニ出テムトスル、隣邦ノ態度ニ因リテ、事態ハ今ヤ全ク危殆ニ瀕スルニ至レリ。
 惟フニ、東亜ノ和平ヲ永遠ニ確保シテ、隣比其ノ幸ヲ同シクシ、国際ノ正義ヲ不断ニ尊重シテ、列国其ノ福ヲ一ニセムトスルハ、我カ列聖ノ宏謨ニシテ、亦、帝国不動ノ国是タリ、明治以来、帝国ノ干戈ヲ動シタル、一再ニ止ラサリシ所以ノモノモ、職トシテ此ニ存シタルリシナリ。然ルニ、今ヤ隣邦、帝国ノ誠意ヲ蹂躙シ、両国ノ福祉ヲ阻害シテ、自ラ愧ツル所ナシ。帝国政府ノ、決然起チテ、断乎、其ノ不信ヲ膺懲シ、其ノ無道ヲ排撃セムトスル、亦、眞ニ已ムヲ得サル所、時局之ヨリ重大ナルハ無ク、挙国一致、以テ此ノ難局ニ処シ、上下団結、以テ其ノ所信ヲ貫徹シテ、迷昧ヲ啓発シ、国威ヲ顕揚スヘキナリ。
 我カ教祖、夙ニ信忠一本ノ教義ヲ樹テ、滅私奉公ノ教風ヲ布キ給ヘリ、斯ノ教義ヲ信奉シ、斯ノ教風ニ薫化セラルヽ本教徒ハ、今ヤ当ニ、平生実修セル所ノモノヲ実証スヘキ秋ナリ。全教、宜シク時局ヲ正確ニ認識シ、不撓ノ活力ヲ、一教依立ノ源泉ニ仰キ、別示要項ニ準拠シ、所属ノ教師信徒ヲ督励シテ、祈念ニ教導ニ、丹誠ヲ新ニシ、機ニ応シ宜シキヲ制シテ、率先挺進、銃後ノ事ニ従ヒ、虔ミテ無極ノ神徳皇恩ニ答ヘ奉リ、上ハ以テ教祖立教ノ神意ヲ暢達シ、下ハ以テ教徒護国ノ本分ヲ全ウセムコトヲ期スヘキナリ。

 右依命通牒候也
 昭和十二年七月二十日
金光教本部  教 監  高橋 正雄
 金光教各教区支部部長殿
 金光教満洲布教管理所所長殿
 金光教台湾事務所担当殿
 金光教各教会長殿

 要 項
一、現下国家非常ノ時局ニ際会シ本教ハ教祖立教ノ本旨ニ則リ事態ノ推移ニ伴ヒ左ノ各項ニ準拠シ必要ニ応シテ何時ニテモ御国ノ御用ニ奉シ得ルノ用意ヲ常ニ整フヘシ

一、先ず教師信徒一同所属教会所結界御取次ノ下ニ『我身は我身ならず皆神と皇上との身とおもひ知れよ』『信心してまめで家業を努めよ君の為なり國の為なり』トノ信念ヲ一層明確ニ確立センコトヲ要ス

一、教会所ハ本来信心修行ノ道場ナリ サレハ結界奉仕ノ御取次ヲ中心トシテ祭典説教御理解及青年会婦人会健児団等ノ集会ソノ他教会所ニ於ケル一切ノ行事ニヨリテ吾等ハ神ト倶ニアリトノ信念ノ下ニ国民トシテ私ヲ去リテ邦家ニ殉スヘキ原動力ヲ絶エス此処ニ仰キ得ルノ機能ヲ発揮シテ遺憾ナカラン事ヲ期スヘシ

一、各教会所ハ以上ノ要旨ヲ具体的ニ実現シテ
 (イ)御取次奉仕者ハ教祖立教ノ本旨ニ則リ大教会所神前奉仕ニ神習ヒ御祈念御取次ニ専心一意タルヘキコト
 (ロ)教師ハ一身一家ヲ挙ケテ御取次ヲ仰キソノ生活凡テ神任セトシ起居一切ニ本教本来ノ教風ヲ具現シ以テ信者ノ模範タルヘキコト
 (ハ)信者ハ御取次ヲ仰キ教師ノ指導ニ従ヒ求道ノ歩ヲ進メツヽ家業ニ従事シ以テ各自ノ生活ソノマヽヲ『我身は我身ならず』トノ自覚ノ下ニ『君の為なり國の為なり』トノ本義ノ現ハルヽヤウ勤ムヘキコト
 (ニ)総代役員ハ信徒ノ先達トシテソノ信念ヲ進メツヽ教会所諸般ノ用務ニ当リ以テ内外ノ雑事ノ為ニカリニモ御取次ノ御事ニ支障ヲ来スヤウノコトナカラシメ奉ルコト
 (ホ)青年会婦人会健児団等ハ教会長ノ指導ノ下ニ団体トシテ本教的活動ヲナシ各々ソノ独特ノ機能ヲ発揮シ地方公共ノ事業ニハ身ヲ挺シテ参加スルコト
 (ヘ)朝夕時刻ヲ定メ教師信徒教会所ニ参集シ特ニ国威ノ宣揚武運ノ長久ヲ祈念スルト共ニ各自ノ意気ヲ揃ヘ所信ヲ一ニシテ以テ以上各項ノ実現ニ努ムルコト

一、特ニ応召将兵及ソノ家族ノ慰問等ハ只一時ノ儀礼的措置ニ流ルヽコトナク感謝ノ誠意ヲ籠メテ絶エス親身ノ実意ヲ尽シ真ニ力強サヲ感セシムル様務ムルコト

一、斯クテ本教信奉者ハ各自ソノ所属ノ教会所ヲ通シ全教ヲ挙ケテ国家ノ急ニ奉シ苟モ一身一家ノ利害ニ捉ハルルコト無キヲ期スヘシ

 〈以下2項目の事項は省略〉
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これらの実践要項は、その後の戦時下における教団活動の基本となり、本教が宗教団体としての活動の組織化を促進する指導理念となった。すなわち大教会所神前奉仕(結界取次)を根源とする全教各教会所の取次を基軸として、全信奉者が組織的統一的に布教活動を推進する、という方向が生み出されることとなった。その組織的活動を統一するために、7月28日付けで事変対処事務局を本部に設置し、その総務に教監が当ることとした。また事務局の業務を指導部・慰恤部・庶務部の3部に分け、布教宣伝、各団体の指導、情報蒐集、恤兵金品・国防献金、将兵及びその家族の慰問、祭事の執行等を取り扱うこととした。これらの活動は、北支事変から支那事変を経て太平洋戦争が終るまで実施された。その間の1940年(昭和15)から1941年(昭和16)にかけての新教規制定問題が整然と行なわれ、その統率は昔日の比ではなかったという。



【太平洋戦争勃発に際して出された通達】
1941年(昭和16)12月8日に、米英両国に対して宣戦を布告する詔書が渙発されたので、文部大臣の訓令に依って、同日付けで管長金光攝胤の諭告が達示された。さらに同日、金光教事変対処事務局長から次のような指示が通達された。
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一六事第五号

 昭和十六年十二月八日

金光教事変対処事務局長

 金光教各事変事務部長殿
 金光教各教会主管者及教師殿

 本日畏クモ宣戦ノ大詔ヲ渙発アラセラレ候義寔ニ恐懼措ク能ハザル所ニ有之候予テ今日アルヲ覚悟罷在候我等今ヤ愈々平素ノ信心ニ基キ管長諭告ノ趣意ヲ体シテ勇躍国難ニ赴キ毅然トシテ戦時国民生活ノ確保ニ精進スベキノ一途アルノミニ有之候就テハ全教一体同信相率ヰテ特ニ左記事項ノ実践ニ孜メ以テ聖旨ニ奉答センコトヲ期セラレ度此段通牒候也

一、各教会ニ於テハ朝夕「戦勝一斉祈願」ヲ行ヒ又特ニ日ヲ定メテ「戦勝祈願祭」ヲ執行シ皇国ノ必勝ヲ熱願スルコト
一、政府当局ノ指示ニ絶対随順シ苟ニモ流言蜚語ニ惑ハサレザルコト
一、各自ノ職場ヲ死守スルノ覚悟ヲ以テ職域奉公ノ実ヲ現ハシ生産拡充国力増進ニ邁進スルコト
一、生活ヲ最低限度ニ切下ゲ物資ヲ節約シテ国債購入及貯蓄ニ全力ヲ注グコト
一、各重要地区ニ於テハ特ニ防護活動及救護事業ニ挺身奉仕スルコト

以上
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 この通牒には、すでに戦時活動が特殊なものではなく、日常的な布教活動であり、信心生活運動となったことを表わしていた。そしてこれらの活動の実践組織として結成された金光教報國会(信奉者の団体)を統括する本部機関も、事変対処事務部から事変事務局に変わり、さらに12月15日付けで戦時事務局となった。1942年(昭和17)6月20日に教団創設以来、本教の柱石として常に教政・教義・教育のうえに重きを成してきた金光教宿老佐藤範雄が死去し、名実共に教祖直信の時代が終った。それは、奇しくも天皇信仰に基づく大日本帝国崩壊の前夜を思わす時期でもあった。
 文部省宗教局が教学局と改編され、皇国思想に依る教育・宗教行政を行なうこととなった。そこで本教においても、同年11月29日付けで教学調査会が設置されたが、従来の信忠一本の教義を前提とするかぎり新しい内容は生まれようもなかった。1941年(昭和16)8月1日以来、新教規に依って管長選挙が行なわれ、その結果、神前奉仕金光攝胤が金光教管長に就任してきた。したがって金光攝胤管長は、教団という社会的組織の統理者であると同時に、本部教会長として信奉者の信仰の中心生命である神前奉仕を行なってきた取次者であって、その結界取次を受けて全教の信心生活が進められてきた。つまりこの取次者という信仰的人格に依って、教務と神務が一元的に行なわれる体制であった。ところが教務の本質は国家権力の行使であって、それに対して神務とは純信仰の発動による宗教行為であるから、両者は全く異質の働きであったのである。太平洋戦争が、大東亜戦争と称せられて、東亜共栄圏という亜細亜の新秩序建設を目指して始まり、その世界理念として古事記・日本書紀の世界観の現代化を求めたのが、政府の教学行政であった。それは、いわば国家神道(神社神道)の亜細亜版を映し出すことにあるのであって、本教の信仰とは本質的に異なることであったので、教学調査会の実績は停滞してしまった。

 1943年(昭和18)1月25日から26日にかけて、本部教会に於いて聖旨奉戴金光教全国大会を開き、全教から代表者6000名が参会し、聖旨奉戴必勝生活確立運動を実施することとなり、その第一着手として生活切下断行決意表明壱百萬円軍費献納運動を実施した。この軍費献金は、2月から8月の間に予定の100萬円を超え、10月の教祖60年祭には150萬円余となり、陸軍航空機9機を献納し、12月には海軍航空機9機を献納したのであった。因みにその年の教団経費は60萬円程度であった。
 同年10月4日・7日・10日の三ヵ日に亘って教祖六十年記念大祭及び戦勝祈願祭が執行され、管長より「…教祖六十年大祭ヲ迎ヘタル本教ハ恰モ再生ノ機運ニ際ス全教一新須ラク教祖ノ遺範ニ則リ先蹤ヲ践ミ一死奮ツテ国難ニ赴キ上ハ以テ畏ミテ宗教ノ上ニ垂レサセ給ヘル大御心ヲ安ンジ奉リ下ハ以テ謹ミテ殉国英魂ノ忠烈ニ酬ウルトコロアルベキナリ…」との諭告があって、それをうけて聖旨奉戴全教一家挺身奉公運動が11月29日から翌1944年(昭和19)3月31日までを第一期として実施された。その趣旨は、「一意無私奉公ノ実践ニ挺身セントセラルル管長ノ心ヲ心トシ祈念ヲ祈念トシテ、全教一家ノ体制ヲ一層整備シ、国家ノ要請ニ従ヒ適時即応ノ実動ニ努メ、以テ聖戦完遂ノ大業ヲ翼賛シ皇恩ニ応ヘ奉ルト共ニ、之ヲ以テ…‥管長神勤五十年ノ教恩報謝ノ途タラシメントス」という点にあった。そして大戦の開戦以来、本教唯一の全教的信奉者団体であった金光教報國会を整備強化して、管長を総裁に仰ぐと共に教監(3代目白神新一郎)を会長とし、報國貯蓄運動及び勤労報國隊の活動を全面的に統括運営することとした。



【祈誓文】
1943年(昭和18)12月20日には、金光四神貫行之君50年祭及布教功労者報徳祭が執行され、続いて管長神勤50年報謝祈誓式が挙行された。この式典に於いて、全教信奉者の祈誓名簿が管長に奉呈されたが、その祈誓文は次の通りである。(編者註−句読点を付す)
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祈誓

 戦局はいよいよ決戦に次ぐに決戦の段階に突入し今や寸刻の猶予を許さず。各自その持場に無私奉公の実を挙げ聖業完遂に邁進すへきのみ。
 我か管長昨秋畏くも拝謁の栄に浴し、戦時下宗教の上に注かせ給ふ大御心の程に恐懼感激し、全教を率ゐて生活立て直し戦力増強の一途に邁進せらるゝことゝなりてより正に一周年。その当日たる去十一月二十六日東上し天機を奉伺して更に決意を新にし。全教一家総力を結集して、この秋の御用に立たんことを諭示せらる。今年正に教祖六十年祭四神之君五十年祭我か管長神勤五十年に相当し、教祖立教以来不断の御取次に依りて大御蔭を蒙り来れる本教信奉者一同如何にかしてこの教恩に報いんと熱願せるところ、今茲に管長の諭示を受く。
 仍ち管長の心を心とし、その祈念を祈念とし、その実践を教会家庭職場に亘る各自の持場を通し、身を以て取次かせて頂く事により、戦力増強挺身奉公の活動を倍強し、無極の皇恩に奉答することこそ、この教恩に報ゆる所以なることを痛感し、管長を家長と仰ぎ全教一家協心戮力以てその実を挙げんことを誓ひ茲に各自署名してその志を明かにし、吾等の心願成就の大御蔭を御祈念御取次あらんことを希ひ奉る。

 昭和十八年十二月二十日
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白神教監によってこの祈誓文が朗読され、所願の表明があつた。これに対して金光攝胤管長より「皆さん、ありがとう存じます。至らぬながら今日まで神様のみかげ頂いて御用をさせて頂きまして、今後とも一層御かげを蒙りたいものと考へて居ります。つきましては聖旨奉戴全教一家挺身の実をいよいよあげさせて頂きたいと思ひます。又報國会のことにつきましても順々に進めて行きたいと思ひます。よろしく御協力をお願ひ致します」との挨拶があった。