さじき女房御返事(御書解説)

―御書1125頁―
(『大白法』H19.11.1)

1.御述作の由来
 本抄は、建治3(1277)年5月25日、大聖人様が56歳の御時に、鎌倉のさじき女房より帷(かたびら)が御供養されたことに対して与えられた御消息で、身延にて御述作になられました。御真蹟は2紙13行が現存しています。
 対告衆であるさじき女房とは、六老僧・日昭の兄、印東次郎左衛門尉祐信(いんどうじろうさえもんのじょうすけのぶ)の妻で、印東祐信の父を祐照(すけてる)、その妻の妙一尼をさじきの尼、嫁をさじき女房と称したと言われています。また、さじきとは桟敷(さじき)と書きます。昔、印東氏が、源頼朝の由比ケ浜遠望のために、山上に桟敷を構えました。後に、この旧蹟に居を構え住したことによるもので、地名に由来したものと言われます。


2.本抄の大意
 本抄は、大きく2段に分けられます。
 前段では、女人の境界は連れ添う夫によって定まることを教示されます。女人の身の上は器物に従う水、弓につがわさる矢、楫(かじ)のままに走る船のようなもので、夫の境遇によって定まるというものです。夫が盗人ならば妻も盗人、夫が国王ならば妻は后(きさき)となります。しかも、今世のみならず来世も夫によると説かれます。それ故に、法華経の行者に従う妻は法華経の女人となると明かされ、さじき女房が志した法華経への帷の御供養の貴いことを賞賛されます。
 後段では、法華経の行者に聖人と凡夫との2種あることを示し、凡夫の行者であるさじき女房による帷の御供養が6万9千384の法華経の文字に展転して、その功徳が広大であることを説かれ、さらに、その功徳が父母、祖父母ないし無辺の衆生にまで及び、夫にも納まることを説示され結ばれます。
 このように本抄では、帷の御供養にことを寄せて、夫婦の在(あ)り方や、成仏が決定する信心への心がけを教示せられています。


3.拝読のポイント
<女性の特性と実践>
 本抄冒頭に示される「女人は水のごとし」等の譬(たと)えは、女性の在り方を示されたものです。古来、女性は三従の障と言われるように、子供の時には親に従い、結婚しては夫に従い、老いては子に従うもの、すべて男性が上、女性が下と位置づけられています。また仏法においても、浄土に女性はいない、女性は求道心(ぐどうしん)を害する、見た目は菩薩だけれども内心は夜叉(やしゃ)であるなどと言われ、その性質も三毒強盛にして、川のごとく曲がった心とされ、永く成仏できない者として嫌われていました。
 権大乗教の『無量寿経』では阿弥陀仏の四十八願の第35番や、善導の『観念法門』で、まれに女身を転じて男子になって成仏することなどが説かれています。しかし、その実体について、大聖人様は『女人往生抄』に、
 「諸大乗経には多分は女人成仏を許さず。少分成仏往生を許せども又有名無実(うみょうむじつ)なり。然りと雖(いえど)も法華経は九界の一切衆生、善悪・賢愚・有心無心・有性無性・男子女人、一人も漏れなく成仏往生を許さる」(御書342頁)
と説かれ、諸大乗経に示す成仏は即身成仏の実義の存しない「有名無実」と廃し、法華経に限って一切衆生の成仏が叶うことを教示されています。
 本抄では現当二世に亘って夫婦一体であるとの教えから、善人の夫に従う女人が現当に亘る成仏を遂げることが説示され、夫の祐信殿が善人たる法華経の行者であることから、女房も法華経の女人であり、即身成仏が疑いないと決定されているのです。
 さらに1歩進めると、大聖人様は池上兄弟へのお手紙に、
 「女人となる事は物に随って物を随へる身なり」(同987頁)
と仰せです。女人はいつも夫に従っているように見えますが、実には従えているということが明かされるのですから、女人が自ら発心し率先して取り組む信行の在り方こそ大事です。即ち、生活の中心をはっきりと自覚し実践できる婦人は、家庭であれ、支部であれ、どこにあっても活動の主体者となります。勤行と唱題を根本にして、折伏と育成に励みましょう。婦人が動けは皆が動きます。その道理を実践した方こそさじき女房であり、婦人の活動の手本としましょう。

<凡聖2種の法華経の行者>
 本抄では、法華経の行者に聖人と凡夫の2種が存することが明かされています。
 聖人の行者は「皮をはいで文字をうつす」という故事をもって示されます。その故事として『開目抄』に、
 「上宮(じょうぐう)は手の皮をはぐ」(同578頁)
 『種種御振舞御書』に、
 「楽法梵士(ぎょうぼうぼんじ)は皮をはぐ」(同1056頁)
と示されています。聖徳太子が手の皮をはぎ、血を採って梵網(ぼんもう)経の外題(げだい)を書いたことや、楽法梵士が身の皮を紙とし、骨を筆とし、血を墨として一偈(いちげ)を書き留めようとしたというものです。共に正法を求め弘める修行を現したもので、他に雪山童子、常啼(じょうたい)菩薩、善財童子、薬王菩薩、師子尊者、提婆(だいば)菩薩、不軽菩薩らを聖人の行者として御書中から挙げることができます。
 これに対し、末代凡夫の修行は、聖人のような命を捧げる修行は実行し難いため、それに代わる志を持つことが大切であると教えられます。具体的には生活や命を養うための衣服や食物、加えて金銭などを、末法の法華経の行者・日蓮大聖人に御供養することであると説かれます。そして法華経の行者に対する帷の御供養は、法華経の6万9千384文字の仏への御供養であり、6万9千384の帷となると説示され、身の皮をはいで修行したことと同様であると教示されて、御供養の功徳の広大なことを明かされます。
 『白米一俵御書』の、
 「たゞ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が、身のかわ(皮)をはぐにて候ぞ(中略)聖人の御ためには事供やう(養)、凡夫のためには理く(供)やう(養)、止観の第七の観心の檀は(波)ら(羅)蜜と申す法門なり。まことのみち(道)は世間の事法にて候」(同1544頁)
とのお示しは、過去の聖人と末法の凡夫の御供養には「事供養」と「理供養」との差違が存しますが、共にその功徳は等しいとされたものです。
 さらに『日妙聖人御書』に、
 「章安大師云はく『取捨宜(よろ)しきを得て一向にすべからず』等これなり。正法を修して仏になる行は時によるべし。日本国に紙なくば皮をはぐべし(中略)あつき紙国に充満せり。皮をはいでなにかせん」(同606頁)
と説示の通り、末法においては「理供養」、即ちまことの志をもってする御供養にこそ大きな功徳が具(そな)わるのです。

<無辺に開く法華経の功徳>
 大聖人様の御金言に適った信行によって得られる功徳は、永続的にその力用を発揮し、未来永劫に崩れることのない境界を築きます。『御義口伝』に、
 「功徳とは六根清浄の果報なり。所詮今(いま)日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり(中略)悪を滅するを功と云ひ、善を生ずるを徳と云ふなり。功(おおきなる)徳(さいわい)とは即身成仏なり」(同1775頁)
と仰せです。妙法の受持信行により、私たちの眼(げん)耳(に)鼻(び)舌(ぜつ)身(しん)意(い)の六根は、煩悩による穢(けが)れが払い落とされて清浄となり、あらゆる事物・事象を正しく判断する智慧を得ることになります。すなわち、南無妙法蓮華経の口唱によって、生命の奥底に存する仏性は闊達(かったつ)な活動を起こし、染から浄へ、苦から楽へ、迷から悟へと転換し、幸福な人生を築くことになるのです。功徳の結実は即身成仏の境界に極まるのですから、信仰心を奮い立たせ、正しい教導に順じて修行に励むことが大切です。
 この功徳は、修行の過程で我が身に次第に積もって充満し、一杯になった器から溢れるように外へと流れます。故に、本抄にて、
 「この功徳は父母・祖父母乃至無辺の衆生にもをよぼしてん。まして我がいとを(最愛)しとをも(思)ふをとこゞは申すに及ばず」
と示されるように、この功徳は自分1人に止まるものではなく、どこにでも行き渡る風のように無辺に開き、世を浄化します。つまり、外から来る障魔を退ける破邪顕正の確信となり、一切衆生を救う折伏行として顕れ、安穏な社会を作る原動力となるのです。


4.結 び
 私たちの理供養の修行を大別すると2種あります。それは法供養財供養です。
 法供養とは、勤行・唱題を根本に、歓喜の折伏を展開することです。また寺院への参詣や会合等へ参加して、教学を研鑽し、悦びの体験などを語ることも法供養となります。まさに「地涌倍増」と「大結集」に直結する修行です。
 財供養とは、生活や命を養うための衣服・食物・金銭などを御本尊様に御供養することを言います。これによって大聖人様の教法の守護と興隆に役立ち、末法万年の衆生が大御本尊様の御利益を蒙(こうむ)れることとなるのです。まさに現在進められている「総本山総合整備事業」「記念出版事業」等に直結する修行と言えましょう。
 私たちは、『立正安国論』正義顕揚750年の記念事業の完遂に向かって、全力を傾注して折伏と御供養に邁進いたしましょう。