創価学会破折資料
戦時下の問題


『畑毛日記』/『慧妙』H6?

『特高月報』に記載された日恭上人から某師への書簡/『特高月報』/『慧妙』H6?

小笠原慈聞擯斥処分の宣言書/『仏教者の戦争責任』文芸社H10

ガリ版印刷機/<Oh!Retro>WS

創価教育学会本部関係者の治安維持法違反事件検挙/『特高月報』昭和18年7月分/『牧口常三郎全集』第10巻

牧口常三郎に対する起訴状/『特高月報』昭和18年12月分/『牧口常三郎全集』第10巻

さじき女房御返事(御書解説)/『大白法』H19.11.1
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宗教界への弾圧と戦争協力
宗教弾圧と戦争協力

陸軍愛国号献納/<陸軍愛国号献納機調査報告>WS070623


カトリック教会が靖国参拝を勧めた時代/<2002年度 カトリック社会問題研究所夏期セミナー>070618

日本基督教団の成立と活動


金光教が発した通牒等/<戦時における教団活動>070625



『畑毛日記』(抜粋)

―直達講(講頭・三谷素啓氏、牧口氏も同講に所属していた)の副講頭であった竹尾清澄氏の著作―
(『慧妙』H6?)

……最期を遂げた、極右の朝日平吾も大石寺に参篭(さんろう)したことのある人である。
 また他而,牧口氏の側にも次のような事情があったことが、ご隠尊と山峰氏のお話から感じられた。
 牧口氏は所属寺院の歓喜寮主管堀米泰栄師(後の日淳上人)と議論し、「もう貴僧の指導は受けない」と席を蹴って退去し、本山宿坊理境坊住職の藩合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会は茲(ここ)で日蓮正宗と縁が切れ、後に戸田氏が宗門に帰参してからも、学会は寺院を離れた独自の路線をとることになった。
 この様な状勢の中で、天照大神に対する牧口氏の不敬事件は、個人の問題として取扱われ、曼荼羅中の天照大神の位置が下の方にあることについても、他宗ではあったが鑑定人として呼び出された老僧が「それは下位ではない。最上位である。そのようなことを云うのは曼荼羅を知らないからだ」と証言したことで片付けられた。
 牧口氏が折伏教化して、写真に撮った御本尊を入信者に与へていたとか、自分の肖像を飾らせたとか、出征兵士が氏の写真をお守りとして所持したとか、噂されたのはその頃のことであろう
 唯茲で一つ問題となるのは日亨上人との関係である。牧口氏は早くから日亨上人に近づき、上人から雪山坊の解体材料のお下げ渡しを受け、理境坊に別棟を建てそれを学会の宿坊とした。これが学会か本山に根拠を占める発端となり、その後戸田会長によって2階建に改築され、更に現……





『特高月報』に記載された日恭上人から某師への書簡

(『慧妙』H6?)

5.〔第四信〕
貴翰拝誦 天照大神も釈迦如来も其本地は久遠本仏なりとせば天照大神は本地として拝すべきものにして神本仏迹なり云々
貴師は垂迹の前後に依而論ぜられる様に存候 久遠本地により見れば釈尊も天照○○も本地已後の事なれば結果より見れば二尊とも全く本地にさか上れば一体と存候 一体なりと雖も体内の本迹と云事当家古来之法義にしてどこ迄も本迹優秀(劣?)なる事は御承知の事と存候 天月水月本有之法と成て本迹共に三世常住と顕はるゝ也等之御書もあり本有の法は一なれ共 共にの文字は二字ある事等僅かの紙面位にては盡(つく)されざる事と存候
諸仏諸菩薩諸天善神は迹なりとせば大聖人も垂迹とすべきか はた本仏と仰ぐべきかの事龍の口以前迄は垂迹已後は本仏と仰ぐべき事と存候発迹顕本なる故なり 天照大神も本地を尊て神本とすべき歟 なれど當宗之立場より大聖人を本仏として人本尊と仰ぐなり 乍然是等は第一義の法門にして世間悉壇 所謂日本之国体より君臣之義よりすれば天照大神は 御皇室の御先租日蓮聖人は御臣下に在す故に宗租を本地と云ひ 天照○○を垂迹など云へば不敬に渡る事故言ふべからざる事と存候 甚だ乍略寸暇も無之最中御海容願上候 拙僧に対し責任ある身之上なるが故に時局柄手紙にては法義を論ずべからずと注意せられ候間此等之点に就而以後は他之方へ御照会願上候 右之次第に付是迄にて御断り申候
八月廿一日
日恭
小笠原尊師





小笠原慈聞擯斥処分の宣言書

(『仏教者の戦争責任』文芸社H10)

特第三一号
 神奈川県小田原市萬年町四丁目
  日蓮正宗小田原教会主幹者
          小笠原慈聞
今般宗制第三百九十一条に依り管長の裁可を得て別紙の通り懲戒に付し宣言書を及送附
 昭和十七年九月十四日
  日蓮正宗宗務総監 野木慈隆印
   宣告書
(引用者注・住所略)

 日蓮正宗小田原教会主幹者
      大僧都 小笠原慈聞
主文 擯斥に処す
    理 由
 其の方儀一、昭和七年より昭和十七年に至る宗費賦課金を拒否して納付せず二、布教監の職は既に消滅したるに拘らず異議を唱へて公用し三、昭和十六年七月三十日附特第五号を以て其の以前の刊行物中不穏当なるものは各自適宜処理を為すべき様申達し置きたるに却て自ら不穏当となすものを取出し信徒を使嗾(※しそう=そそのかす)して共に之を世上に吹聴す右の行為は其の證憑(※しょうひょう=証拠)明白にして之を宗制に照して判ずるに第一の行為は宗制第三百八十九条第一号に第二の行為は同条第三号に第三の行為は宗制に明文なきも宗務院の命令に従はざるのみならず宗門教学の刷新に協力せず故意に宗門の治安を紊(みだ)すものにして現下最も厳重に戒むべき行為と認む
以上
 依て主文の通り処分す
 昭和十七年九月十四日
   日蓮正宗管長 鈴木日恭印





ガリ版印刷機

<Oh!Retro>WS抜粋)

 (前略)正式名称は「謄写板」といい、むかし学校で渡されるプリント類はすべてこれで印刷されていたのです。
 「ガリ版」の名の由来は、印刷原稿を作成する時に、ヤスリ板の上を鉄筆でこする「ガリガリ」という、歯の浮くような音がしたから。でも、今のコピー印刷機のように便利なものがなかった時代は、これが貴重な大量簡易印刷手段だったのです。
 必要な道具は、鉄筆、ヤスリ板、製版用のロウ原紙、文字を修正する茶色の修正液。あとは印刷用のインクとローラーってところ。印刷機はたいてい木で作られていて、細かい網が張られた木枠がついている。昔の職員室には、ガリ版インク特有のツンとした刺激臭がいつも漂っていた。



 印刷原稿を作る仕事は、通称「ガリ切り」と呼ばれ、ヤスリ板の上にロウ原紙をのせ、鉄筆で枠の中をひたすら文字で埋めてゆく実に根気のいる仕事だった。ガリ切りで内職をする人もいて、早い話がその道の「プロ」までいた。間違えたら修正液をぬり、乾くまでしばし待つ。のんびりした時代だったから、こんなことが出来たのでしょう。
 原稿が完成すると、印刷機上部の網の部分の裏側に原紙をセットし、網の表側に調合したインクを乗せ、ローラーで上をこすって下の白い紙に1枚ずつインクを押し出す。原紙にはヤスリ板でこすられて文字の部分だけ小さな穴が開いているから、そこだけインクが滲み出てくる、って理屈なんです。
 ローラーでこする→網を上げる→刷り上がった紙を取り出す→白い紙を乗せる→網で蓋をする→またこする。という流れ作業を必要枚数だけカタコン、カタコンとやる。これが当時の教師の重要な仕事だったのです。膨大なプリントを印刷するってところは今の学校も昔の学校も変りありません。(後略)


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「皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様」と書かれた「通諜」(理事長名で会員に通達)について、学会では"筆跡が戸田先生のものとは違う"と言い、「通諜」が偽物である根拠の1つに挙げている。しかし、当該通牒はガリ版で作成されたものである。

印刷原稿を作る仕事は、通称「ガリ切り」と呼ばれ、ヤスリ板の上にロウ原紙をのせ、鉄筆で枠の中をひたすら文字で埋めてゆく実に根気のいる仕事だった。ガリ切りで内職をする人もいて、早い話がその道の「プロ」までいた
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このような、単純だが根気のいる作業を理事長自らが行ったと考える方が、不自然であろう。戸田理事長がメモ書きし、それをもとに印刷原稿を作る仕事は、身近にいた人が行ったと考えるべきである。従って、「通諜」の筆跡は戸田理事長のものでなくて当然である。





創価教育学会本部関係者の治安維持法違反事件検挙

(『特高月報』昭和18年7月分/『牧口常三郎全集』第10巻252頁)

 東京都神田区錦町一ノ一九所在創価教育学会は、昭和三年頃現会長たる牧口常三郎が芝区白金台町小学校長退職後、当時本名の冒信中なりし日蓮正宗(静岡県富士郡上野村大石寺を本山とす)の教義に特異の解説を施したる教理を創案し、知人たりし小学校教員等を糾合して創設せる宗教団体なるが、会長牧口を中心とする関係者等の思想信仰には幾多不逞不穏のものありて、予てより警視庁、福岡県特高課に於て内偵中の処、牧口会長は信者等に対し「天皇も凡夫だ」「克く忠になどとは天皇自ら言はるべきものではない。教育勅語から削除すべきだ」「法華経、日蓮を誹謗すれば必ず罰が当る」「伊勢神宮など拝む要はない」等不逞教説を流布せるのみならず、客年一月頃以降警視庁当局に対し「創価教育学会々員中には多数の現職小学校教員あり且其の教説は日蓮宗に謂ふ曼茶羅の掛幅を以て至上至尊の礼拝対象となし、他の一切の神仏の礼拝を排撃し、更に謗法払ひと称して神符神札或は神棚仏壇等を焼燬撤却し、甚しきは信者たる某妻が夫の留守中謗法払ひを為したる為離婚問題を惹起せり」等縷々(るる)投書せる者ありて、皇大神宮に対する尊厳冒涜(ぼうとく)並に不敬容疑濃厚となりたる為同庁に於て、本月七日牧口常三郎外五名を検挙し取調べを進めたる結果、更に嫌疑濃厚と認めらるる寺坂陽三外四名を追検挙し(別記参照)引続き取調べ中なり。





創価教育学会々長牧口常三郎に対する起訴状

(『特高月報』昭和18年12月分/『牧口常三郎全集』第10巻252頁〜)

 被告人 東京都神田区錦町一ノ九
     牧口常三郎 当七十三年

被疑者は明治二十六年北海道師範学校を卒業し、爾来小学校訓導師範学校教諭文部属、小学校長等を歴任し、昭和六年東京市立麻布新堀尋常小学校長を退職したるものなるところ、昭和四年頃従来教育学に慊(あきた)らず、自己創案に係る生活の科学と称する創価学説に基き、人類をして最大の幸福を得しむる為の最良の方法を考究することこそ真の教育学なりと做して、創価教育学なる独特の学説を提唱するに至り、更に其の頃日蓮宗の一派なる日蓮正宗の研究者三谷素啓より同宗に関する法話を聴くや、之を右創価教育学の学理に照合理解して痛く共鳴し、同宗の教理こそ末法時に於ける一切衆生の帰依すべき唯一無二の正法なるのみならず、創価教育学の極致なれば人間をして最大の幸福を得しむるには同宗に帰依せしむるの外なしと思惟し、昭和五年頃同宗の教理に特異なる解釈を施したる教説を宣布する為、創価教育学会なるものを創設したるが右教説たるや、妙法蓮華経を以て仏法の根本宇宙の大法なりとして弘安二年日蓮図顕に係る中央に法本尊たる南無妙法蓮華経及人本尊たる日蓮を顕し、其の四方に十界の諸衆及妙法の守護神を配したる人法一箇十界互具の曼茶羅を以て本尊とし、一切衆生は此の本尊を信仰礼拝し、同本尊の題目たる南無妙法蓮華経を口唱することに依りてのみ成仏を遂げ得べしと倣す日蓮正宗本来の教理を創価教育学の見地より解釈したるものにして、日蓮正宗の法門こそ無上最大の善にして、該法門に帰依し其の信仰に精進するに於ては、最大の善因を施すことゝなり、因果の理に依り最大の善果を得、最も幸福なる生涯を送り得べく、爾余の神仏を信仰礼拝するは該法門に対する冒涜(ぼうとく)にして、所謂謗法の罪を犯すことと偽り、法罰として大なる不幸を招くべしと説き右本尊以外の神仏に対する信仰礼拝を極度に排撃し、畏くも皇大神宮を尊信礼拝し奉ることも亦謗法にして、不幸の因なれば尊信礼拝すべからずと做す神宮の尊厳を冒涜(ぼうとく)するものなるに拘らず、実験証明と称し入信者が忽ち幸福を得たる反面謗法の罪を犯したる者が怖るべき不幸に陥りたる実例を挙げて該教説を証明する等の手段を用ひ、未信者を強硬に説伏入信せしむる所謂折伏を行ひ、該教説の流布に努め来りたるものにして、昭和十五年十月に至り同会組織の整備を企図し約二百名の信者を糾合して之を会員とし、綱領規約を決定し自ら会長に就任すると共に理事長以下各役員を任命し、本部を同市神田区錦町一丁目十九番地に設けて前記教説を流布することを目的とする結社創価教育学会の組織を遂げ、爾来同会拡大の為活溌なる活動を続け、現在会員干数百名を擁するに至れるが其の間昭和十六年五月十五日改正治安維持法施行後も前記目的を有する同会の会長の地位に止まりたる上、同会の目的達成の為

第一 昭和十六年五月十五日頃より昭和十八年七月六日頃迄の間前記同会本部に於て同会の運営竝活動を統轄主宰したるが
(一)昭和十六年六月一日頃より昭和十八年七月一日頃迄の間、毎月約一回前記同会本部等に於て幹部会を開催し、之を主宰して同会の運営竝活動に関する方針を決定し
(二)昭和十六年十一月二日頃より、昭和十八年五月二日頃迄の間四回に亘り同市神田区一橋教育会館に於て総会を開催し、其の都度講演、実験証明等の方法に依り参会者数百名に対し折伏又は信仰の強化に努め
(三)昭和十六年五月十五日頃より昭和十八年六月三十日頃迄の間、二百四十余回に亘り、同市中野区小滝町十番地陣野忠夫方等に於て座談会を開催し、其の都度説話、実験証明等の方法に依り参会者数名乃至数十名に対し折伏又は信仰の強化に努め
(四)昭和十六年五月十五日頃より昭和十八年六月三十日頃の間毎週一回面会日を定め、其の都度同市豊島区目白町二丁目千六百六十六番地自宅に於て、説話、実験証明等の方法に依り身上相談の為の来訪者数名乃至数十名に対し折伏又は信仰の強化に努め
(五)昭和十六年十一月五日頃より昭和十八年七月五日頃迄の間十回に亘り地方支部又は地方に在住する信徒の招聘に応じ福岡県其の他の地方に赴き、約十五回に亘り福岡市二日市町武蔵屋旅館其の他に於て座談会又は講演会を開催し、其の都度講演、説話、実験証明等の方法に依り参会者数名乃至数十名に対し折伏又は信仰の強化に努め
(六)昭和十七年九月前記同会本部に同会員三十数名を委員とする退転防止委員会を設け、昭和十八年七月六日頃迄の間、全委員を七班に分ち、信仰を失ひ脱会せんとする同会々員の再折伏に努めしめ、且其の間六回に亘り同本部に其の報告会を開催し、委員より再折伏の実際に関する報告を徴し、爾後の方策を考究指示する等同委員会の指導に任し

第二 昭和五年頃より昭和十八年七月六日頃迄の間、東京市内其の他に於て同市王子区神谷町三丁目千三百六十四番地岩本他見雄外約五百名を折伏入信せしむるに当り、其の都度謗法罪を免れんが為には皇大神官の大麻を始め家庭に奉祀する一切の神符を廃棄する要ある旨強調指導し、同人等をして何れも皇大神宮の大麻を焼却するに至らしめ、以て神宮の尊厳を冒涜(ぼうとく)し奉る所為を為したる等諸般の活動を為し、以て神宮の尊厳を冒涜(ぼうとく)すべき事項を流布することを目的とする前記結社の指導者たる任務に従事したると共に、神宮に対し不敬の行為を為したるものなり

検事 山口弘三





さじき女房御返事(御書解説)

―御書1125頁―
(『大白法』H19.11.1)

1.御述作の由来
 本抄は、建治3(1277)年5月25日、大聖人様が56歳の御時に、鎌倉のさじき女房より帷(かたびら)が御供養されたことに対して与えられた御消息で、身延にて御述作になられました。御真蹟は2紙13行が現存しています。
 対告衆であるさじき女房とは、六老僧・日昭の兄、印東次郎左衛門尉祐信(いんどうじろうさえもんのじょうすけのぶ)の妻で、印東祐信の父を祐照(すけてる)、その妻の妙一尼をさじきの尼、嫁をさじき女房と称したと言われています。また、さじきとは桟敷(さじき)と書きます。昔、印東氏が、源頼朝の由比ケ浜遠望のために、山上に桟敷を構えました。後に、この旧蹟に居を構え住したことによるもので、地名に由来したものと言われます。


2.本抄の大意
 本抄は、大きく2段に分けられます。
 前段では、女人の境界は連れ添う夫によって定まることを教示されます。女人の身の上は器物に従う水、弓につがわさる矢、楫(かじ)のままに走る船のようなもので、夫の境遇によって定まるというものです。夫が盗人ならば妻も盗人、夫が国王ならば妻は后(きさき)となります。しかも、今世のみならず来世も夫によると説かれます。それ故に、法華経の行者に従う妻は法華経の女人となると明かされ、さじき女房が志した法華経への帷の御供養の貴いことを賞賛されます。
 後段では、法華経の行者に聖人と凡夫との2種あることを示し、凡夫の行者であるさじき女房による帷の御供養が6万9千384の法華経の文字に展転して、その功徳が広大であることを説かれ、さらに、その功徳が父母、祖父母ないし無辺の衆生にまで及び、夫にも納まることを説示され結ばれます。
 このように本抄では、帷の御供養にことを寄せて、夫婦の在(あ)り方や、成仏が決定する信心への心がけを教示せられています。


3.拝読のポイント
<女性の特性と実践>
 本抄冒頭に示される「女人は水のごとし」等の譬(たと)えは、女性の在り方を示されたものです。古来、女性は三従の障と言われるように、子供の時には親に従い、結婚しては夫に従い、老いては子に従うもの、すべて男性が上、女性が下と位置づけられています。また仏法においても、浄土に女性はいない、女性は求道心(ぐどうしん)を害する、見た目は菩薩だけれども内心は夜叉(やしゃ)であるなどと言われ、その性質も三毒強盛にして、川のごとく曲がった心とされ、永く成仏できない者として嫌われていました。
 権大乗教の『無量寿経』では阿弥陀仏の四十八願の第35番や、善導の『観念法門』で、まれに女身を転じて男子になって成仏することなどが説かれています。しかし、その実体について、大聖人様は『女人往生抄』に、
 「諸大乗経には多分は女人成仏を許さず。少分成仏往生を許せども又有名無実(うみょうむじつ)なり。然りと雖(いえど)も法華経は九界の一切衆生、善悪・賢愚・有心無心・有性無性・男子女人、一人も漏れなく成仏往生を許さる」(御書342頁)
と説かれ、諸大乗経に示す成仏は即身成仏の実義の存しない「有名無実」と廃し、法華経に限って一切衆生の成仏が叶うことを教示されています。
 本抄では現当二世に亘って夫婦一体であるとの教えから、善人の夫に従う女人が現当に亘る成仏を遂げることが説示され、夫の祐信殿が善人たる法華経の行者であることから、女房も法華経の女人であり、即身成仏が疑いないと決定されているのです。
 さらに1歩進めると、大聖人様は池上兄弟へのお手紙に、
 「女人となる事は物に随って物を随へる身なり」(同987頁)
と仰せです。女人はいつも夫に従っているように見えますが、実には従えているということが明かされるのですから、女人が自ら発心し率先して取り組む信行の在り方こそ大事です。即ち、生活の中心をはっきりと自覚し実践できる婦人は、家庭であれ、支部であれ、どこにあっても活動の主体者となります。勤行と唱題を根本にして、折伏と育成に励みましょう。婦人が動けは皆が動きます。その道理を実践した方こそさじき女房であり、婦人の活動の手本としましょう。

<凡聖2種の法華経の行者>
 本抄では、法華経の行者に聖人と凡夫の2種が存することが明かされています。
 聖人の行者は「皮をはいで文字をうつす」という故事をもって示されます。その故事として『開目抄』に、
 「上宮(じょうぐう)は手の皮をはぐ」(同578頁)
 『種種御振舞御書』に、
 「楽法梵士(ぎょうぼうぼんじ)は皮をはぐ」(同1056頁)
と示されています。聖徳太子が手の皮をはぎ、血を採って梵網(ぼんもう)経の外題(げだい)を書いたことや、楽法梵士が身の皮を紙とし、骨を筆とし、血を墨として一偈(いちげ)を書き留めようとしたというものです。共に正法を求め弘める修行を現したもので、他に雪山童子、常啼(じょうたい)菩薩、善財童子、薬王菩薩、師子尊者、提婆(だいば)菩薩、不軽菩薩らを聖人の行者として御書中から挙げることができます。
 これに対し、末代凡夫の修行は、聖人のような命を捧げる修行は実行し難いため、それに代わる志を持つことが大切であると教えられます。具体的には生活や命を養うための衣服や食物、加えて金銭などを、末法の法華経の行者・日蓮大聖人に御供養することであると説かれます。そして法華経の行者に対する帷の御供養は、法華経の6万9千384文字の仏への御供養であり、6万9千384の帷となると説示され、身の皮をはいで修行したことと同様であると教示されて、御供養の功徳の広大なことを明かされます。
 『白米一俵御書』の、
 「たゞ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が、身のかわ(皮)をはぐにて候ぞ(中略)聖人の御ためには事供やう(養)、凡夫のためには理く(供)やう(養)、止観の第七の観心の檀は(波)ら(羅)蜜と申す法門なり。まことのみち(道)は世間の事法にて候」(同1544頁)
とのお示しは、過去の聖人と末法の凡夫の御供養には「事供養」と「理供養」との差違が存しますが、共にその功徳は等しいとされたものです。
 さらに『日妙聖人御書』に、
 「章安大師云はく『取捨宜(よろ)しきを得て一向にすべからず』等これなり。正法を修して仏になる行は時によるべし。日本国に紙なくば皮をはぐべし(中略)あつき紙国に充満せり。皮をはいでなにかせん」(同606頁)
と説示の通り、末法においては「理供養」、即ちまことの志をもってする御供養にこそ大きな功徳が具(そな)わるのです。

<無辺に開く法華経の功徳>
 大聖人様の御金言に適った信行によって得られる功徳は、永続的にその力用を発揮し、未来永劫に崩れることのない境界を築きます。『御義口伝』に、
 「功徳とは六根清浄の果報なり。所詮今(いま)日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり(中略)悪を滅するを功と云ひ、善を生ずるを徳と云ふなり。功(おおきなる)徳(さいわい)とは即身成仏なり」(同1775頁)
と仰せです。妙法の受持信行により、私たちの眼(げん)耳(に)鼻(び)舌(ぜつ)身(しん)意(い)の六根は、煩悩による穢(けが)れが払い落とされて清浄となり、あらゆる事物・事象を正しく判断する智慧を得ることになります。すなわち、南無妙法蓮華経の口唱によって、生命の奥底に存する仏性は闊達(かったつ)な活動を起こし、染から浄へ、苦から楽へ、迷から悟へと転換し、幸福な人生を築くことになるのです。功徳の結実は即身成仏の境界に極まるのですから、信仰心を奮い立たせ、正しい教導に順じて修行に励むことが大切です。
 この功徳は、修行の過程で我が身に次第に積もって充満し、一杯になった器から溢れるように外へと流れます。故に、本抄にて、
 「この功徳は父母・祖父母乃至無辺の衆生にもをよぼしてん。まして我がいとを(最愛)しとをも(思)ふをとこゞは申すに及ばず」
と示されるように、この功徳は自分1人に止まるものではなく、どこにでも行き渡る風のように無辺に開き、世を浄化します。つまり、外から来る障魔を退ける破邪顕正の確信となり、一切衆生を救う折伏行として顕れ、安穏な社会を作る原動力となるのです。


4.結 び
 私たちの理供養の修行を大別すると2種あります。それは法供養財供養です。
 法供養とは、勤行・唱題を根本に、歓喜の折伏を展開することです。また寺院への参詣や会合等へ参加して、教学を研鑽し、悦びの体験などを語ることも法供養となります。まさに「地涌倍増」と「大結集」に直結する修行です。
 財供養とは、生活や命を養うための衣服・食物・金銭などを御本尊様に御供養することを言います。これによって大聖人様の教法の守護と興隆に役立ち、末法万年の衆生が大御本尊様の御利益を蒙(こうむ)れることとなるのです。まさに現在進められている「総本山総合整備事業」「記念出版事業」等に直結する修行と言えましょう。
 私たちは、『立正安国論』正義顕揚750年の記念事業の完遂に向かって、全力を傾注して折伏と御供養に邁進いたしましょう。







宗教界への弾圧と戦争協力

宗教弾圧と戦争協力


【「神国」思想】
●吾が皇統の万邦むひなることを道破して――大日本は神国なり。天祖肇めて基を拓き日神長く統を伝え給う。吾が国のみこのことあり。異朝にはその類なし。この由に神国というなり。――(国民精神を統一するために編まれた『国体の本義』)
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大日本帝国は神国なり。ある年代の人々はこれを史実、当然のことと受け止めました。これは北畠正親の「神皇正統記」からの引用で人々の脳裏にはひたすら、「我が国は神国である」と刷り込まれたのです。日本が本当に神国かを問うたり、天皇制を検討することなどはタブーでしたから、神国論を批判した文献などこの時代には皆無でした。(<2002年度 カトリック社会問題研究所夏期セミナー>

●肇国(国の初め)、大日本帝国は万世一系の天皇、皇祖の神詔を奉じ永遠にこれを統治し給う、これわが万古不易の国体である。而してこの大義に基づき一大家族国家として億兆一心聖旨を奉戴し、よく忠孝の美徳を発揮する。これ我が国体の精華とするところである。国体は我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて柄として燦燦と輝いているものである(『国体の本義』)
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このような皇国史観がすべてをがんじがらめに規定して、それを疑うことは絶対に許されなかった時代。天皇制、国体、国家神道など天皇がらみの概念はタブーであって口に出すことさえ控えなければならないとされました。お国のため、天皇のために滅私奉公することは当然の義務――少なくとも表向きはそのような建て前で国全体が動いていたのでした。(同)



【宗教団体法制定】
『月刊住職』H8.4
<アメとムチの法案>
 宗教団体法の原型となった「宗教法案」が最初に登場したのは、明治22年(1889年)のことだった。第14回帝国議会に提出されたもので、時の総理・山県有朋は次のように法案の提出理由を述べている。
 「国家ハ信仰ノ内部二立入テ干渉セザルコトハ勿論ノコトデアリマス。併シナガ
ラ其ノ外部二現ハルル所ノ行為ニツキマシテハ……国家ハ之ヲ監督シテ社会ノ秩
序安寧ヲ妨ゲズ、又臣民ノ義務二背カザラシメントスルコトハ、是レ国家ノ義務
デアルノミナラズ、又其ノ職責二属スルモノト存ジマス」
と述べ、続いて提出理由は宗教団体への恩典の数々を並びたてた内容だった。「兵役の特典」「租税の免除」等々。要するに、監督管理する代わりに、特典が与えられるアメとムチが中身だった。
 宗教側はこれに乗るか乗らないか、どう対処したのか。じつは乗らなかった。特に仏教界が強く反対した。
 大日本仏教同盟会が出した「反対意見書」は第1に、「(宗教団体の)自治の権能をほとんど認めていない」と突っぱねた。
 法案によれば、寺・教会・教派・宗派などの宗教団体は、主務官庁(文部省など)の「監督」に属し、主務官庁は「報告」を徴し、「検査」し、必要な「命令」を発し、または「処分」ができる規定になっていた(第14条)。
 なんだか昨今の宗教法人法改正に際しての争点がそのままみたいなのだ。
 しかしともあれ、仏教団体などの動きもあって、法案は否決され消えていく。


<宗教団体法の誕生>
 次に、第2次宗教法案が提出されたのが昭和2年(1927年)。第1次法案から30年を経てのことで、しかしこれも審議未了で日の目をみなかった。
 この後は、いよいよ「宗教団体法」と名称が変わり登場。昭和4年(1929年)の第1次宗教団体法案に次いで、同14年(1939年)第74回帝国議会に再度提出され可決。翌15年(1940年)から施行された。
 宗教団体は主務官庁の「認可」制。認可を得ないでは設立、規制の変更、法人になること、合併・解散ができない――といった内容だった。
 しかも昭和に入ってからの第2次宗教法案以降は、仏教界も積極的な法案推進に転じていた。仏教連合会が推進大会を開くなど、神道教派とともに「1日も早い成立」を陳情、請願した結果であった。



【治安維持法】
●国体を否定し、神宮または皇室の尊厳を冒涜すべき事項を流布することを目的として、結社を組織したるもの、または結社の役員その他指導者たる任務に従事したるものは無期または四年以上の懲役に処し、情を識りて結社に加入したるものまた結社の目的遂行の為にする行為をなしたるものは一年以上の有期懲役に処す(治安維持法)
-----------------------
 この法律から新聞紙法や出版法などに至るまで、当時一般的な報道の規制を目的として取り締まるための法律は、電信法まで含めると26の多きに及びました。つまり、天皇制の下に言論の自由などは望むべくもなかったのです。
 もちろん、信教の自由についても事情は同じでした。新憲法の下で言論の自由や信教の自由が保障されているはずの今日でもなお、皇室の存在は時としてマスコミに沈黙を余儀なくさせます。カトリックの代表的ジャーナリスト、酒井新二氏の著作には「天皇制に抵触すると宣教できない」とか「(天皇制については)マス・メディアさえ沈黙している」といった事例が挙げられています。(<2002年度 カトリック社会問題研究所夏期セミナー>)

自らを「超宗教」の高みに祭り上げ、他の宗教は国家神道を侵さない限りにおいてのみ存在を許す、という排他性・偏狭さが実際だった。(同)



【戦争協力】
終戦直後、憶えておられる方も多いと思いますが、東京・九段の靖国神社周辺や皇居前広場には、敗戦を詫びる人々の姿がありました。食うや食わずの困窮をものともせず「天皇さま、奉公心が足りず申し訳ございませんでした」「私たちの努力が足りませんでした」といつまでも頭を垂れている姿があちらにもこちらにも見られました。そのように教育したのは国家神道であり国粋主義者だったわけで、今日を生きる私たちの目から見れば、そのように教育された人々は国家神道の犠牲者、15年戦争の被害者です。家を焼かれ人生を破壊され肉親を奪われながら、まさに被害者が加害者に「申し訳なかった」と詫びる構図をもって、国全体を統治していたのです。(<2002年度 カトリック社会問題研究所夏期セミナー>)

 ところで、かくして成立した団体法の結末はどうであったか。にわかに起こった教派・宗派の統合の嵐であった。同法施行後1年以内に文部大臣の「認可」を受けないでは存立できなかった。その結果、従来の仏教56派は28派に、教派神道13派はそのままだったが、キリスト教の新教は合同し日本基督教団など2教団となり、すべり込みで認可を受けた。この辺は周知の通りだ。戦時下のことで、昭和16年(1941年)6月には第1回宗教報国大会。大東亜戦争に入ると各宗派は競うように「戦時布教方針」をたて、勤労報国隊や軍費献納運動に走った。各宗教宗派の独自性とヒューマニズムは見失われ、戦争協力の翼賛宗教に転落していった。みんなが知っているところだ。
 単純に歴史が繰り返すなんてことはだれも思わない。とはいえ、「歴史に学ぶ」とはどういうことかとつくづく思わざるを得ないのである。(『月刊住職』H8.4)


<大分県仏教連合会の宣言>
◆今次の支那事変たるや、東亜の安定と世界の平和とを 以(もっ)て国是とする帝国一貫の皇道を妨ぐる支那軍閥を膺懲(ようちょう)して、これが反省を促し、万邦協和の理想世界を建設せんとするに外ならざることは、多言を要せざる所なり。……我等生を皇国に受け、教を仏陀に奉ずるもの、勇往邁進(まいしん)報国報仏の大業に躍進すべき秋なり。ここにおいて我等は、仏教連合会を創設し、緊密なる連携協調の下に、大菩薩(ぼさつ)道の法旗を高揚し、精神報国の大運動を起し、上聖明に対(こた)へ奉り、下国民精神総動員の実績を挙げ、以て仏徒の本分を尽さん
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宗教団体による戦争協力の論理は、12年11月別府市の西本願寺別院で開かれた大分県仏教連合会(会長 奥大拙)創立大会での宣言に、その一例を見ることができる。(<戦時下の宗教統制>070620)


<日蓮宗>
 1915年(大正4)の大正天皇の即位大典に際して、日蓮宗宗務院は、偽作である「奉献本尊(蒙古調伏護国の本尊)」を宮内庁に献納するのだが、その解説を清水梁山に依頼し、「日宗新報」奉祝記念号を特集して、梁山筆の「奉献本尊玄釈」「同開光文」「同説明書」を発表する。
 「奉献本尊玄釈」に解説されたその内容は「王仏一乗即神仏一体にして聖天子即是本尊の正体、霊山虚空即高天ヶ原、宝塔即高御座、二仏並座即是両陛下、故に法華経即大日本国の説明也。寿量本仏即聖天子也。」というものであった。(<教化情報第12号「現代教学への検証」>070620)

 昭和に入った1928年(昭和3)6月に開かれた「天皇即位御大典記念日本宗教大会」では、仏教、基督教、神道関係者が集まり、国体明徴をめざして「皇道仏教」という言葉が広く唱えられるようになっていった。
 この場合の皇道仏教とは一般的な意味で、国体の本義(日本が記紀神話に基づく天皇中心の国であること)を明徴にするために、「皇道」を扶翼して国民を教導する仏教のあり方という意味だろう。(同)

1938年(昭和13)には各地の寺院で戦勝国祷会・戦没者追悼会が開催され、五月に宗務院は国民精神総動員・立正報国運動の促進を通達している。(同)


<浄土真宗>
大谷光瑞は1931年の満州侵略を唱讃し、仏教徒が正義のために戦争することを肯定した。また、1938年の国家総動員法が公布されるに当たって、宗教報国運動を展開した。本願寺派の梅原真隆は『興亜精神と仏教』を刊行し、聖戦論を主張した。また、1942年には金子大栄が『正法の顕現』を著して、誓願に基づく聖戦であることと、仏法が神道の一部であることを主張した。同様に、清沢満之門下の暁烏敏も『臣民道を行く』で、戦争を擁護している。1943年には、龍谷大学興亜科の普賢大円が、『真宗の護国性』を刊行して、天皇絶対主義の思想をそのまま真宗教学として位置づけ、神道と仏教の相互補完を説いた。この傾向は、1945年の大谷光照法主の『皇国護持の消息』、本派の『宗門決戦綱領』、大派の大谷光暢法主の『殉国必勝の教書』でその極に達する。(<kenkyukou>070620)

戦争という時代背景の中、私たち念仏者が真宗教団として選択したのは「戦争協力」という道でした。1941(昭和16)年、太平洋戦争に突入するにあたり、『本願寺新報』(本願寺の機関誌)では、教団挙げて臨戦態勢の強化を強調する記事を掲載。仏具供出、戦時布教、戦時教学、その後兵器献納、日曜学校における献金運動、宗教戦士として各地に出兵しました。「皇国の宗教としての浄土真宗」と自ら名乗り、聖戦の名のもと、国家の戦争遂行に積極的に協力したのは、隠すことのできない事実なのです。(<真宗教団の戦争協力>070620)


<臨済宗妙心寺派>
●太平洋戦争。同派は全国の信徒から資金を集め戦闘機を国に奉納した。機名は「花園妙心寺号」。仏は不殺生を説く。時代のすう勢とはいえ、教えを破ったことに変わりはない。(河野太通=花園大学長/<神戸新聞>WS掲載日:2003/08/10)

●高校教師をやめ、父の跡を継いだ。ある日、自宅にあった宗派の機関紙を読んだ。「興禅護国」「宗教報国」。戦争協力と戦闘機献納への道のりがあった。(水田全一住職/同)


<真言宗>
昭和18年には「真言報国団」の名前で陸軍に飛行機を献納している。(<陸軍愛国号献納機調査報告>WS070623)


<キリスト教>
自らを「超宗教」の高みに祭り上げ、他の宗教は国家神道を侵さない限りにおいてのみ存在を許す、という排他性・偏狭さが実際だった。国粋主義一辺倒となった昭和前期から戦時中にかけて、唯一・絶対の神を信じるキリスト教はもっとも鋭く国粋主義と対峙する要素を持っていたわけですが、そのキリスト教がほとんど全部、雪崩を打って国家神道の軍門に下ったのでした。(<2002年度 カトリック社会問題研究所夏期セミナー>)

この時期に教会は、「超宗教(国家神道)の受容と信仰の自由は両立できるか」「神社参拝による国策協力、宗教報国による戦争完遂に励んでよいのか」という難題に直面し、いずれも受け入れました。積極的に協力する道を選択したのです。その選択をしたことについて、敗戦後50年以上経った今日に至ってもまだ、根本的反省を表明せず当時の見解を公式には撤回していません。(<2002年度 カトリック社会問題研究所夏期セミナー>)

昭和期後半のキリスト教界は、昭和16年12月の太平洋戦争突入、20年8月の敗戦、27年4月の平和条約発効(独立回復)など政治動きに影響されるところが多かった。苦境に立った教団日本基督教団の成立半年後、日本は太平洋戦争に突入、教団はきびしい戦時下の要請にいかに対処して行くかという苦しい立場に追込まれた。軍事政府と憲兵がキリスト教は国体に反するとして圧迫の挙に出たので、全教会と全信徒とを保護することは容易でなかった。教団が国策に追従し過ぎ、自信を欠いた動きをしたとしても、止むを得なかったと見るべきであろう。(<日本基督教団の成立>

教団では開戦前から基督教報国団を組織していたが、開戦後はこれを強化し、地域の防災、託児、国債割当など戦時緊急事項の処理に協力した。一方文部省からの要請により、教師たちに大東亜における日本の使命を理解せしめるために練成会を開いた。「日本的基督教」が好んで口にされるようになったのはこのためである。教団は中国、フィリピン、インドネシア等に多くの教師を送り、現地の教師信徒との交わりを深めた立教団はまた文部省の要請により、戦時布教指針を発表したが、それは宗教報国、日本基督教の確立を骨子とするものであった。(同)





陸軍愛国号献納

<陸軍愛国号献納機調査報告>WS070623抜粋編集)

【献納機】
 献納機とは企業や一般人の方たちが国防献金等として集めたお金を軍に供出し軍用機を献納したもので、昭和7年の陸軍あいこく1号(右写真)から始まり、瞬く間に全国的レベルに広がりました。
 献納者にはそれこそ一企業や同業組合による献金、一市民から区民、市民、県民といったグループ献金、大人のみならず大学生や中学生、女学生のおこづかいを倹約した献金、更には朝日新聞の呼びかけで献金したものまで多種多様な献納が行われています。また本ページで取り上げている献納機以外にも、鉄カブトから鉄砲、機関銃や高射砲、軍用自動車・装甲車、患者輸送車、はては艦船まで、様々な献納が行われています。



【宗教界の献納】
番号機体名献納日時献納者
81佛立(佛立)S8.05.07大阪本門佛立協会
275新勝S13.5.30成田山新勝寺
283眞宗高田派本山 高田派本山専修寺
738宗教報国  
739宗教報国  
740宗教報国  
741宗教報国  
1255鹿宮両本願寺S17.9.20宮崎県の本願寺門徒
1353西本願寺北海道S18.9.20西本願寺
1384立正報国S18.9.20日蓮宗
1385立正報国S18.9.20日蓮宗
1386立正報国S18.9.20日蓮宗
1393西本願寺福岡  
1471西本願寺 西本願寺
1484本派本願寺大長村第一S18.4.19広島県豊田郡大長村村民
1485本派本願寺大長村第二S18.4.19広島県豊田郡大長村村民
1697真言報国S18.9.20真言宗報国団
2092金光第一 金光教
2093金光第二 金光教
2094金光第三 金光教
2095金光第四 金光教
2096金光第五 金光教
2097金光第六 金光教
2098金光第七 金光教
2099金光第八 金光教
2100金光第九 金光教
4351四天王持国天 四天王寺
4354四天王毘沙門天 四天王寺
4431新勝第二S19.6.28成田山新勝寺
4432新勝第三S19.6.28成田山新勝寺



【学生の献納】
番号機体名献納日時献納者
23全国中学生(中学生)S7.6.19全国中学生
30全国女学生(女学生)S7.6.19全国女学生
31全国児童(児童)S7.6.19全国小学生、幼稚園児
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【有名企業の献納】
番号機体名献納日時献納者
77三越(三越)S8.5.14(株)三越重役、社員
78日清紡績(日清紡績)S8.5.14日清紡績(株)従業員
215松坂屋S13.4.8松坂屋
528日水従業員S16.5.5日本水産株式会社 従業員
721日立S17.9.21日立製作所
722日立S17.9.21日立製作所
723日立S17.9.21日立製作所
724日立S17.9.21日立製作所
1031松坂屋第二S17.4.8松坂屋
1032松坂屋第三S17.4.8松坂屋
2575富士写真 富士写真フィルム株式会社
2711東海銀行S19.3.10東海銀行
4981第二中外日報S19.9.27中外日報株社
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【朝日新聞による提唱】
番号機体名献納日時献納者
226全日本 朝日新聞による提唱
227全日本 朝日新聞による提唱
228全日本 朝日新聞による提唱
229全日本 朝日新聞による提唱
230全日本 朝日新聞による提唱
231全日本 朝日新聞による提唱
232全日本 朝日新聞による提唱
233全日本 朝日新聞による提唱
234全日本 朝日新聞による提唱
235全日本 朝日新聞による提唱
236全日本 朝日新聞による提唱
237全日本 朝日新聞による提唱
238全日本 朝日新聞による提唱
239全日本 朝日新聞による提唱
296全日本 朝日新聞による提唱
297全日本 朝日新聞による提唱
298全日本 朝日新聞による提唱
299全日本 朝日新聞による提唱
648全日本 朝日新聞による呼びかけ
649全日本 朝日新聞による呼びかけ
650全日本 朝日新聞による呼びかけ
651全日本 朝日新聞による呼びかけ
652全日本 朝日新聞による呼びかけ
653全日本 朝日新聞による呼びかけ
654全日本 朝日新聞による呼びかけ
655全日本 朝日新聞による呼びかけ
841全日本S17.9.21朝日新聞による呼びかけ
842全日本S17.9.21朝日新聞による呼びかけ
843全日本S17.9.21朝日新聞による呼びかけ
1449全日本S18.5.22朝日新聞による呼びかけ
1450全日本S18.5.22朝日新聞による呼びかけ
1451全日本S18.5.22朝日新聞による呼びかけ
1452全日本S18.5.22朝日新聞による呼びかけ
1453全日本S18.5.22朝日新聞による呼びかけ
1454全日本S18.5.22朝日新聞による呼びかけ
1455全日本S18.5.22朝日新聞による呼びかけ
1456全日本S18.5.22朝日新聞による呼びかけ
1457全日本S18.5.22朝日新聞による呼びかけ
1458全日本S18.5.22朝日新聞による呼びかけ
1459全日本S18.5.22朝日新聞による呼びかけ
1460全日本S18.5.22朝日新聞による呼びかけ
1461全日本S18.5.22朝日新聞による呼びかけ
1462全日本S18.5.22朝日新聞による呼びかけ
1774全日本S18.9.20朝日新聞による呼びかけ
1775全日本S18.9.20朝日新聞による呼びかけ
1776全日本S18.9.20朝日新聞による呼びかけ
1777全日本S18.9.20朝日新聞による呼びかけ
1778全日本S18.9.20朝日新聞による呼びかけ
1779全日本S18.9.20朝日新聞による呼びかけ
1780全日本S18.9.20朝日新聞による呼びかけ
1781全日本S18.9.20朝日新聞による呼びかけ
1782全日本S18.9.20朝日新聞による呼びかけ
1783全日本S18.9.20朝日新聞による呼びかけ
1784全日本S18.9.20朝日新聞による呼びかけ
1785全日本S18.9.20朝日新聞による呼びかけ
1786全日本S18.9.20朝日新聞による呼びかけ
全部を検索した結果ではありません(法蔵)



●本ページは、戦前戦中にかけて盛んに行われたにも係らずまとまった形での記録がほとんど残っていない、民間からの献納機(陸軍:愛国号、海軍:報国号)、特に陸軍献納機についての調査結果を公開するものです。
●現在までの愛国号判明機数:1331機(2007.06.03 現在)
(番号まで判明している愛国号:1117 番号不明号:214、他 存在しか判明していない愛国号:713)
 飛行機好きが高じて調べはじめてから、年月だけは二昔ほど過ぎ去りました。まだまだ調査途中であり公開内容は不完全極まりない物ですが、皆さんのご理解と協力を得て、「事実としての献納機」を1機でも多く判明させていきたいと思っています。


************************************************************
日蓮正宗(以下、宗門)が今日まで重ねてきた悪事の中で、最悪のもののひとつが、第2次世界大戦への積極的な加担でした。これは、SGIメンバーであるか否かを問わず、現在の全世界から糾弾されるに十分な対象と言って差し支えありません。宗門による積極的な戦争への加担を明示する史料は、膨大な数に及びます。(中略)
宗門における戦争協力は、当時、群を抜いて突出したものであり、全国民の間で、まぎれもなく「米英撃滅の大いなる模範」であったと言えます。現在残っている数多くの史料が、それを裏付けています。それにも拘わらず、宗門には、平然と「日蓮正宗の戦争加担は、国民一般の感覚以上に突出していたとはいえない」と述べている現状があります。(<ふうふうさんのウエブナビ>WS070623)
------------------------------------------------------------
・「陸軍愛国号献納機調査」を見れば宗教界でも積極的に飛行機を献納していたことが分かる。しかし、この資料の中には日蓮正宗の名前はない。
・全国紙までもが、飛行機の献納を提唱し、多くの国民がこれに応じていた。
・有名企業も飛行機を献納していた。
-----------------------
少なくとも「陸軍愛国号献納機」に関しては、上記記述がまったくの誤りであることが分かる。

 そもそも、「宗門における戦争協力は、当時、群を抜いて突出」などと断言するからには、全国的規模において、他の諸団体、少なくとも宗教団体の動向を比較した客観的資料を提示すべきはずである。しかし、そのような資料はまったく提示せずに、日蓮正宗の資料のみを取り上げて、このような主張を断定的に行っているのである。
 このような主張に、学問的科学的価値のないことは勿論だが、それだけでなく名誉毀損の可能性大である。
 御本人は"客観的資料"に基づいて論理的に導き出した当然の結論のように思っているのであろう。しかし、実際には自己の願望に基づく牽強付会の論に過ぎなかったのである。これは、"学会を破門した宗門憎し"の個人的感情が、無意識に、理性的思考判断を鈍らせてしまった結果、なのかも知れない。





カトリック教会が靖国参拝を勧めた時代

<2002年度 カトリック社会問題研究所夏期セミナー>070618抜粋)

 教会が初めてこの問題に当面したのは、昭和7年のことでした。治安維持法が猛威を振るい、国際的には世界恐慌に襲われていた時代です。満州事変、国際連盟脱退と続いて日中戦争へ突入、国家総動員法が制定され挙国一致体制が築き上げられていきました。「国体とは天皇制という名の超宗教であり、その協議は踏み絵であって……宗教団体法が成立する頃には、神社非宗教論はもはや、抗(あらが)うべき議論ではなく進んで解説すべきテーマ、弁証すべき論証、証言すべき真理であった」(戸村政博『神社問題とキリスト教』)、そのような時代背景だったのです。
 昭和7年5月5日(満州事変勃発の翌年)の靖国神社大祭に、上智大学では配属将校に率いられた学生らが靖国神社参拝を行なったのですが、そのとき信徒学生2名が参拝を拒否、神社に隣接する施設「遊就館」内で過ごしたというのが“事件”のあらましです。実際5月5日に参拝が行われたか、当日工事中で閉館中だった遊就館内に入ることが可能だったか、参拝を拒否した学生とは誰か――など事実関係にはあやふやな点がいくつもあるのですが、とにかくそういう噂が立ち、それが10月1日付の『報知新聞』の記事となりました。5月初旬の出来事が10月になって具体的な裏付けもないまま記事化されること自体にもある種の恣意的意図が透けて見えるようです。いみじくも学内では「誰が参拝を拒否したかということが問題なのではない。結局仕組まれたのだ」(伊藤保ドイツ語学科教授)との論評が専らでした。
 ともあれ“事件”は起きてしまい、配属将校引き上げという事態になりました。上智大が創立以来初めて直面する危急存亡の大ピンチ、というわけです。当時の荒木貞夫陸軍大臣などは「カトリック、否、キリスト教そのものが、日本の国体と相容れない邪教である。その信者や、その活動である学校経営は反国家的である。日本を外国に売る売国奴である。外人教師や宣教師などはそれぞれの母国から派遣されたスパイである」とまで言い放ちました。
 上智大は慌てふためいて対応を検討し、まずホフマン学長以下全学が謹慎します。政府に対して詫び状を提出、率先して靖国神社その他の神社に参拝しようとしました。「(上智大側は)『神社参拝は国民慣習としてまた国民精神涵養のうえから欠くべからざるものである』として神社参拝を敢行」と、『東京日日新聞』は伝えています。同紙上で当時上智大の橋本重次郎予科長は次のように言っています。
 「どんな理由でも神社参拝を拒んだことは悪いので、学長以下全校一致謹慎しています。
……幸い、陸軍当局その他の方々も私たちの慎みを汲んで次第に理解してくださるので喜んでいます」
 事実、学長以下イエズス会の神父、学生らがこぞって神社に参拝、関係者が辞表を出すなどして18ヵ月後の8年12月15日に大学付き将校が再配属され、ようやく一件落着となるわけです。
 この一件落着はいかにして可能となったか。そこには事態解決のために教会当局と文部省が何度も折衝し、神社参拝を良しとするカトリック側の声明が公表されるという経緯がありました。これによってカトリック教会の日本人信徒には神社参拝が認められただけでなく、神社参拝は教会関係者が率先垂範して行なうべき責務、実践すべき徳目とされたのです。
 実際、上智大学がそのような対応を選択した裏には、日本の教会当局とバチカン(教皇庁)の“お墨付き”がありました。まず7年9月22日に東京教区のシャンボン大司教が鳩山一郎文部大臣に宛てて「御伺い書」(質問状)を出します。「昨今神社参拝について(カトリック)学校関係者が苦慮している。文部省において学生生徒に神社参拝を奨励実践させる理由が教育目的であるならば、教会としても協力しやすい。その点をご理解のうえ、教育的理由であると保証していただきたい」という内容でした。
 8日後の9月30日付で、粟谷謙文部次官名の返事がシャンボン大司教宛に届きます。
 「学生生徒児童等を神社に参拝せしむるは教育上の理由に基づくものにして、この場合に学生生徒児童の団体が要求せらるる敬礼は愛国心と忠誠とを表わすものに外ならず」
 参拝させるのは教育上の理由であり、学生らが表わす敬礼時に求められるのは愛国心と忠誠だけだ、というのです。注意しなければならないのは、シャンボン大司教は神社参拝が非宗教行事はどうかを尋ねておらず、文部次官もそれに答えているわけではないという事実です。ましてや、神社ないし国家神道が宗教かどうかについては一言も触れられていません。
 にもかかわらず教会当局は、この回答をもって「政府は神社参拝を非宗教行事と保証した」と断定しました。この断定の公表が12月にまでずれ込んだのは、無理な解釈に後ろめたさを感じたからであろうかと考えられます。
 ところで日本のカトリック教会は教皇を頭に戴いてローマに連なる世界教会の一部です。民族宗教ではなく、その教義・道徳は普遍のものであるはずです。換言すれば、国内で信じられる教義、実践される道徳はそのまま、全世界で通用するものでなければならないということです。そこで日本の教会はローマにお伺いを立てます。
 長い間待たされ何度も督促した末、11年5月26日付でようやく布教聖省長官のP・F・ビオンディー枢機卿から次のような内容の返事が来ました。
 「愛国心と宗教心の表明において、日本人信者が外国人に劣らぬように導くことは宣教師の務めである。……神社参拝を宗教行事でないと政府当局が保証したのなら、信者はそれを実践しなければならない」
 神社参拝の可否を、その目的がどうかということだけに矮小化して論じ、目的が非宗教的だから(参拝という)行為もまた非宗教的であると牽強付会する論理は、あきらかに詭弁、ごまかしです。
 教会関係者の苦渋がいかに深刻であったにしろ、結果としては文部省回答を都合よく解釈し、その解釈があたかも政府見解であるかのようにバチカンに報告した教会当局のやり方は詐術と批判されても仕方のないもの、そしてその論理を丸呑みにして神社“参拝”を奨励したバチカンは、その上を行くものでした。が政府・文部省にとっては、無理やりこじつけた論理の帰結にせよ、教会当局者や信徒らがその後こぞって神社参拝をしたのですから、その態度や良しとなるわけで、将校の上智大再配属はそのご褒美といったところだったのでしょう。
 当時の祈祷書の中に「皇国のためにする祈り」というのがありました。昭和12年10月版の出だしは「ああ天主、我らは主の御前に平れ伏し、光輝ある我が大日本帝国に生まれ出たる幸いを、深く主に感謝し奉る」となっています。まずは大日本帝国の臣民であることを神に感謝すると、皇国史観が前面に打ち出されているのです。
 もう1つ、当時使用されていた『公教要理』の結言はこう書かれています。
 「……以上は天主公教の教義の大要を述べたものであるが、日本天主公教は皇国の教団であり、日本天主公教の信徒は斉しく皇国の臣民であるから、一に皇国の道に従ってこの趣旨を理解しなければならない
 カトリックの教えを大日本帝国の国体の精神に沿って理解しなさいと大枠をはめた上で、結論としてこう続けます。
 「我が国は皇室を宗家とし、天皇を中心と仰ぎ奉る君臣一体の一大家族国家であり、忠孝一本の道理をもって国民道徳の要諦とすることはここに改めて言ふまでもない……此の任務を完了し得て初めて善誠なる日本天主公教の信徒と称すべきである
 よい臣民になることがよいカトリック者になることだ、と再三強調されています。この趣旨に従えば、よい臣民はよい信徒、忠実な愛国者、ということになりますが、果たしてそう言えるでしょうか。
 内村鑑三も「私は人にも増して日本を愛する。しかし私は、人にも増してイエスを愛する。」と言いました。日本を愛すること、イコール忠君愛国?神社参拝しない者は国を愛していない、参拝するものだけが愛国者?余りにも独り善がりの理屈です。
 にもかかわらず、なぜ前出のような祈りが成り立つのでしょうか。やはり、この時代既に“国体の本義”は国民に突き付けられた踏み絵だったのです。宗教団体にとって国体は、天皇制という超宗教であり、自教団が存続するためには超宗教への従属を誓うほかなかったのでしょう。「皇国のためにする祈り」や公教要理の「緒言」は、見方によっては当時の教会の苦渋の選択、屈服の表明と言えなくもありません。しかし、“超宗教”の前に膝を屈して生き延びたとして(現実にそうなったわけですが)、それで時代にキリストを証したといえるでしょうか。
 ここまでの話をなんとなく“昔話”として聞いてこられた方々には、現在も教会典礼で使われている『カトリック聖歌集』を開いてみられることをお勧めします。聖歌32番「日出る国」の歌詞を読めば、これが「君が代」の亜流であることがすぐに分かります。私たちの愛すべき教会は、今だにこの歌を生かし続けているのです。なんという感性の鈍さでしょうか。それともなにか特別の意図の下に“聖歌版・君が代”が残されているのでしょうか。悪い冗談、と笑い飛ばすにはあまりにも由々しい事実です。

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 カトリック教徒にとって、彼らが信じるところの神以外の神を拝むなどということは、決してあってはならないことである。それを「神社参拝を宗教行事でないと政府当局が保証したのなら、信者はそれを実践しなければならない」などという事実に反する理由(政府は宗教行事でないとは表明していなかった)をつけて正当化し、「学長以下イエズス会の神父、学生らがこぞって神社に参拝」したのである。
 カトリック教会はこのようにして「“超宗教”の前に膝を屈して生き延びた」のであるが、「宗教団体にとって国体は、天皇制という超宗教であり、自教団が存続するためには超宗教への従属を誓うほかなかった」のである。
 日蓮正宗も異常な時局を鑑み、国家政策に追従する方針を様々に打ち出し、その中には法義に抵触するおそれのあるものもあった。しかし、それは形式的なもので実質を伴うものではなく、僧俗個々は謗法に手を染めるということはなかった。

神宮遥拝→政府からの指示を形式的に機関誌等に掲載したことはあるが、実際に行った事実はない。

一方、学会は会合において宮城遥拝を行っていました。↓

◆(※宮城遥拝・黙祷の後、野島辰次理事「開会の辞」)大東亜戦開始以来の戦果は、法華経の護持国家なればこそであります。昨夜のラヂオ放送の如き余裕下に、今日総会を開くのは感激の極みであります(昭和17年5月17日・創価教育学会第4回総会『大善生活実証録』/『フォーラム21』H14.3.15)
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宮城遥拝を行うとは単に、皇居に礼をすることではない。宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)と現人神である天皇に対する拝礼であり、その根底にはもちろんのこと神道がある。(『地涌』第33号)

◆吾々(われわれ)は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは(中略)お礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願ではない。(中略)今上陛下こそ現人神であらせられる(昭和17年11月・第5回総会『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10巻362頁)
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"感謝のためなら神社に参拝してもよい"これが牧口会長の指導でした。「吾々が靖国神社へ参拝するのは」とありますから、実際に参拝していたのでしょう。
[参拝]=神社・寺にお参りして拝むこと(『新明解国語辞典』第4版


御書削除→上記同様、実際に削除したという記録はない。



経文改訂→学会が批判するような内容の教本を実際に使用したという記録はない。


ある学会員は「宗門における戦争協力は、当時、群を抜いて突出したものであり、全国民の間で、まぎれもなく『米英撃滅の大いなる模範』であったと言えます」などと主張していますが、上記カトリック教会の実態と比べてみても、この主張が如何に牽強付会の為にする批評であるかが明らかです。
(法蔵)





日本基督教団の成立と活動


【日本基督教団の成立】
昭和15年8月31日、『福島民報』に「神の教へも新体制・キリスト教会大同団結」という記事が載っている。メソジスト教会や日本基督教会など日本のプロテスタント各派の教会代表が集まって、外国からの経済援助、宣教師の排除などを採択。合同団結して日本基督教団という単一統合の宗教団体結成を決め、欧米神学に影響されない日本純正のキリスト教の誕生と謳われているものの、「皇紀2千6百年記念日本キリスト教大会には宗教団体法に初めて宗教法人として認められたことを記念する」と報じられており、文字どおり天皇制の下に認可された宗教という国家との屈辱的な妥協の産物であった。(<戦時下における日本基督教団、およびキリスト者の問題>070620)


<プロテスタント諸派の合同とデサイプルの合同支持>
 1939年(昭和14)1月18日、平沼内閣によって「宗教団体法」が議会に提出され、超非常時局大政翼賛議会はこれを難なく通過させた。この法律では宗教団体を設立しようとするときは、一定の事項を記入した規則を作成して文部大臣に提出し、その許可を受ける必要がある。その見返りとして、認可された宗教団体は文部大臣の保護監督の下にあって、一定の利益をうけ、例えば戦時体制下にあって他からの指図や干渉からのがれ、それ自身の教務を完全に執行することができる。
 当時のキリスト教界は、30余の教派にわかれ、その組織は民主的で、各々別個に活動し、その多くが欧米の教会と関連をもっていた。このままでは、文部大臣の管轄下に入らない「宗教結社」となり都道府県知事に結社の届けを出さざるを得ず、内務大臣の監督下で厳しい取り締まりをうける恐れがあった。
 基督教会(ディサイプルス)は昭和15年10月16日聖学院中学で教役者会議を開き、大合同支持を議決。翌年6月の教団創立とともに、第3部に所属することになった。日本基督教団(編)日本基督教団史 日本基督教団出版部(1967)(<戦時下における日本基督教団、およびキリスト者の問題>070620)

日本では多くの教派に別れていたプロテスタントは、昭和15年皇紀2600年の神嘗祭に青山学院に集り、国歌斉唱のうちに皇運と大東亜共栄圏を奉祝し、「日本基督教」による教派解散と大陸伝道を誓い、翌16年公式に「日本基督教団」を設立し、聖戦の目的完遂のための宗教報国を誓った

<全教派の大合同教会成る>
―1941年(昭和16)―

 昭和16年に入って、日米関係は一触即発の状態になった。各国大使館や各教派の伝道局は在日宣教師に帰国を勧告し、多くの者はそれに従った。わが基督教会のヤング夫妻は3月に帰米し、残るはマコイ夫妻のみとなった。時局の緊迫は、全教会の大合同について1日の猶予をも許さなかった。前年10月の信徒大会の決議に続いて早速合同準備委員会が発足し、各教派の信条や伝統の相違から難行したが、外的圧力もあって、16年3月には合同教会創立委員会(委員31名、千葉儀一を含む、委員長富田満)が作られ、6月24、5両日富士見町教会で日本基督教団の創立総会が開催されるに至った。
 ただし、準備段階で大きな問題となった各教派の信条と伝統とを持続し得るようにするため、暫定的に部制合同によることにした。この大合同に参加したのは33派(信徒数240、620)で、参加しなかったのは聖公会とセブンスデー教会だけであった。(注、聖公会は単独の教団設立が認可されず、18年7月、60余の単立教会として参加し、セブンスデー教会は19年6月解散を命ぜられた)。合同教会は11部から成り、わが教会は第3部、四谷ミッション系(東京基督教会)は第10部に加入したが、雑司ケ谷ミッション系は上富坂教会のように閉鎖した所が殆んどで、細々と家庭集会を続けたようだ(昭和48年、お茶の水キリストの教会小幡史郎)。日本基督教連盟、日本日曜学校協会などは発展的解消を遂げた。なお創立総会の各派割当て議員数はつぎのとおり。
第1部 日本基督教会      86名
第2部 日本メソジスト教会   63
    日本美普教会       4
    日本聖園教会      --------
第3部 日木組合基督教会    47
    日本基督同胞教会     4
    日本福音教会       4
    基督教会         3
    基督友会        --------
第4部 日本バプテスト教会   10
第5部 日本福音ルーテル教会  10
第6部 日本聖教会       --------
第7部 日本伝道基督教団(日本イエスキリスト教会、基督伝道隊、日本協同基督教会、基督伝道教会、基督復興教会、日本ペンテコステ教会、日本聖潔教会)                 14
第8部 日本聖化基督教団(日本自由メソジスト教会、日本ナザレン教会東部部会、同西部部会、日本同盟基督教会、世界宣教団)      10
第9部 日本きよめ教会、日本自由基督教会         10
第10部 日本独立基督教会同盟会(ウェスレアン・メソジスト教会、普及福音教会の一部、一致基督教団、日本聖書教会、東京基督教会、聖霊教会加入)13
第11部 日本救世団(旧救世軍)10
推薦議員            10
              計320
 創立総会(わが教会から千葉儀一、石川養之輔、友野三恵が議員として出席)では教団規則を可決し、統理者に富田満(旧日基)、代務者に小崎道雄(旧組合)を選んだ。11月24日に文部省から教団の設立認可が下りた。政府は仏教の各派の統合も進め、キリスト教では日本天主教団(統理土井原確)と日本基督教団の2つを認めただけであった。(注、教団名については「基督教会」としてはという意見もあったが、それではわが教派と同じになるというので「日本基督教団」に決まったのだ----千葉儀一談)
 昭和16年当時の教会月報は、「基督教会の年会は教会大合同への参加を決議したので、50年の歴史を持つ年会も今回で最後となり、従って総務委員会もなくなり、今後は年会で挙げられた実行委員会が処理して行くことになった。その氏名は 委員長=千葉儀一(東京)」と記しかつての原町基督教会牧師だった千葉儀一が、旧教派の幕引き役と新生の日本基督教団の創立メンバーの一員であることを示している。(<戦時下における日本基督教団、およびキリスト者の問題>070620)



【国内活動】
 1941年6月、いよいよ日本基督教団が成立することとなる。諸教派は合同で、教会、キリスト者のあり方を、自身の置かれた戦時下という状況の中で規定していくことになるのである。発足したこの教団の方向性を、土肥昭夫は「国家の統制と動員のために設立され、民間にあって国家に協力する補完的存在であった」と述べている。それではどのような意味において教団が国家体制に順応し、かつ「補完的存在」であったのか。これを裏づける具体的な資料を通して検討する必要があるだろう。
 日本軍による真珠湾並びにマレー半島奇襲の翌日、教団統理者、富田満は、それに呼応する形で『統理者の示達』と題した見解を各教会に向け通達している。ここで富田は、前日の奇襲の意義を「是我国の自衛並に東洋永遠の平和確立の為むを得ざるに出たものである」として位置づけ、また「不動精神を養い以て祖国に負う我等の使命を完ふせねばならぬ。」、「和協一致して愛国の赤心を高揚すべし」と、この事態にあってキリスト者がとるべき姿勢を強調している。
 明けて1942年10月、文部省に促されて公表された『日本基督教団戦時布教方針』においても、同様の姿勢が前面に出されている。まず全体は「大東亜戦争ハ其ノ目的ノ高遠ニシテ規模雄大ナル世界史上未ダ會テ其ノ比ヲ見ズ。」の言葉をもって始められ、「1、国体ノ本義ニ徹シ大東亜戦争ノ目的完遂ニ邁進スベシ 2、本教団ノ総力ヲ結集シテ率先垂範宗教報国ノ悃(マコト)ヲ效(ツク)スベシ 7、信徒ヲシテ隣人愛ノ実践ニ励ミ銃後ノ活動ニ挺身セシムルコト」等、教団と信徒の指針が示されているのである。「隣人愛の実践」が、国体への積極的な関与という文脈のなかで語られている点が印象深い。そして両者共が、前章で触れた「大東亜共栄圏」の建前の部分と、見事なほどの一致を見せていることがわかるだろう。その他具体的な事例には事欠かない。しかし以上の例からは、このような軍政への「補完」、「協力」の姿勢が、何も統理者富田をはじめとする首脳部に固有のものであったのではなく、まさしく教団全体の向かうべき方向として強調されていたといういことを読み取ることができる。
 こうした教団の国家体制への順応的な姿勢は、発足当時11部まで存在した各部制を解消し、完全合同を成し遂げた1942年11月、より一層強化されることとなっていった。
 いずれにせよ教団はその組織を、自らの手によって国体イデオロギーに添うものへと変革し、内部に置かれたキリスト者の一本化が図られることとなるのである。無論、発足から部制解消までの流れに、国家からの比類なき圧力がのしかかっていたことは確かである。しかし、「その懸命ぶりや自発性を考えると、やはり天皇制イデオロギーが彼らの心情を溶解していた」と土肥が指摘するように、教団、キリスト者の側からも、はっきりとした歩み寄りの姿勢があったことはやはり否めないだろう。それは、敗戦へと近づく1945年特攻精神を聖書的に裏づける「死生超脱」などというスローガンを掲げたことでも明らかである。人間の死、それも故人を起越した共同体への犠牲を意味する死を宗教的根拠によって美化しようとするこの言葉は、同時に天皇制国家の宗教性をキリスト教が保障したことの表れであり、またその信条保持のため失われる命を、「殉教者」として記念碑的に刻印する、いわば究極的なスローガンである。最早この段階において、教団は国体イデオロギーとキリスト教を融合する作業を完遂させ、それに心酔すらしていたのである。(<戦時下における日本基督教団、およびキリスト者の問題>070620)

<報国団と練成>
教団では開戦前から基督教報国団を組織していたが、開戦後はこれを強化し、地域の防災、託児、国債割当など戦時緊急事項の処理に協力した。一方文部省からの要請により、教師たちに大東亜における日本の使命を理解せしめるために練成会を開いた。「日本的基督教」が好んで口にされるようになったのはこのためである。教団は中国、フィリピン、インドネシア等に多くの教師を送り、現地の教師信徒との交わりを深めた立教団はまた文部省の要請により、戦時布教指針を発表したが、それは宗教報国、日本基督教の確立を骨子とするものであった。(<日本基督教団の成立>070620)



【国外活動】
 国内キリスト者に向けられた一本化の矛先は、次第に国外植民地のキリスト者にも向けられることとなる。その一手は、隣国朝鮮であった。日本が本格的に朝鮮統治に乗り出すのは1910年の日韓併合を経てからであり、これは日本基督教団の結成以前であるが、日本のキリスト者と植民地との関連を見るならば、当然踏まえねばならないだろう。
 日本の植民地支配の特徴は、まず現地民を「外地」の者として、血統的純粋性の面から区別しながらも、一方で「日本人」としての皇民化を進めるといった点にあるだろう。「内鮮融和」、「内鮮一体」のスローガンのもと、創氏改名、日本語の強要、神社参拝等、民族意識抹消の意図を盛り込んだ皇民化政策が実施されていくのである。問題は、このような軍国主義政府の方針、実施に、教団結成以前の各派が、どのような反応を示したかである。結果を先に論じれば、キリスト教界は積極的にこれを是認し、また皇民化政策の担い手として貢献したと言わざるを得ない。
 朝鮮でキリスト者が担った主な活動は、皇民化の一環として行われた神社参拝に対し、朝鮮キリスト者、教会がこれに従うよう「説得」を促すことにあった。支配者にとっては忠誠を図るバロメターとなりうるこの行為も、朝鮮人にとっては「民族的屈辱」を示す耐え難き問題であり、またキリスト者にとっては「キリスト教の背信行為」をも含む二重の苦悩を意味するものである。当然朝鮮長老教会を筆頭とする強い反応を招いた。これに対し日本基督教会は、日本人と朝鮮人の信仰による融和を説き、1938年春に「朝鮮基督教連合会」を組織する。また日本基督教会大会議長富田満を派遣し、神社の非宗教性、国家儀礼的なものであると強調、参拝を呼びかけている。しかしここで説かれる「融和」、「参加」が植民地支配への従属を示していることは明白であり、既にこの時期からキリスト教界が「補完的」役割を担っていたことを物語っている。
 教団結成後の国外活動は、植民地拡大に伴ってその範囲を東南アジアにまで拡大することとなる。このとき教団のとった方針は、『日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書簡』に明らかである。序文から4章立てで構成された、膨大な量に及ぶこの書簡は懸賞応募形で作成され、1944年、統理者富田の名前で出されている。これは、国内における『戦事布教方針』をはじめとする教団の基本的立場を確認し、それを自賛と共に普遍化、強要するという性格を備えるというものである。序文において「本書が第一信であって、続いて縷々書翰を贈る計画である」と記されている通り、この後にますます完成に近づくであろう日本の共栄圏実現に向け、その下地を着々につくっておこうとする教団の意図がよく表れている。また、表面的な美辞麗句の裏で、信仰による一致のもとに現地キリスト者を吸収しようとする本音が丸出しになり、軍政の圧力に晒されたキリスト者の状況への認識を欠いた、著しく一方的な文体で書かれている。
 まず第1章では、欧米の植民地支配の敵対視ともに共栄圏の理想の正当性が高らかに謳われている。また欧米のキリスト教を「自己を絶対者の如く偶像化し、嘗て使徒がまともに其の攻撃に終始したユダヤ的基督者と同一の型」として激しく非難している。つづく第2章では日本文化、天皇制イデオロギーに基づく国家主義を「ただ日本の国土内に留まるにはあまりに崇高にして広大無辺」とたたえ、第3章では同じく日本的キリスト教を「大東亜の基督教」として普遍化する意志を示している。第4章では「汝らキリスト・イエスのよき兵卒として我らと共に苦難を忍べ」と共闘を呼びかけ、「我らは祈る。キリストの恩恵、父なる神の愛、聖霊の交際、我らがその実現の一日も早からんことを望みて止まざる大東亜共栄圏の凡ての兄弟姉妹の上にあらんことを。アアメン」としめくくられる。
 このように、欧米への敵対視と信仰で共通する日本、東南アジアキリスト者の「同志」が、「大東亜共栄圏」の建設という作為と欺瞞に満ちた膨張思想を地上に現れるべき「神の国」とし、共にその実現を目指そうとすることが要点である。
 こうした理念の実践は、まずは東亜局の設置によって具体化することとなった。これは、教団の結成以前から満州や東南アジアで活動していた東亜伝道会、南洋伝道団の事業を引き継ぐ形で行われ、「今後は、完全に日本基督教団の重要な事業として万事順調に運営され、教団の発展成長する限り、この事業は永く大東亜の天地を光波することでせう。」という富田の言葉どおり、海外活動を教団が管理し、「伝道」の拠点を確保しようとする意図に沿う形で行われた。またフィリピンとインドネシアには計32名の正教師を派遣、軍政に協力的な教会形成、現地キリスト者の「指導」など宣撫工作を進めている。(<戦時下における日本基督教団、およびキリスト者の問題>070620)

<南方派遣宣教師>
 南方派遣宣教師の役割は、宣撫工作である。これは現地キリスト者の混乱を沈め、植民地軍政の管理統治を容易にすることを目的とする、極めて政治的意味合いが濃いものといえるだろう。
 1942年3月に開始した日本の軍政は、インドネシア領土を陸軍第16軍、25軍、海軍と3分割に統治するものであった。これによって独立運動を分断された住民の抵抗は強まり、更に西欧農園衰退による経済的打撃はこの気運に拍車をかけた。40)軍政は抵抗に対し圧力を強化、「ジャワ奉公会」を組織、またイスラム教をはじめとする宗教団体にもその統制が及ぶこととこととなるのである。
 海軍軍政下に置かれた現地プロテスタント・キリスト教への宣撫、統制も、当然この流れの中にある。海軍より宣撫工作の依頼を受けた教団は1944年、白戸八郎を派遣、実施調査を行い、準備段階を整えるに至った
 白戸の残した記録、『白戸メモ』には、軍政と教団の意図、現地教会の状態、宣教師の選考基準について詳細に記されている。簡潔にまとめれば、それはオランダ母団体との連携を断たれ、「跛行状態」にある現地へ出向き、「宗教善用、治安維持、人心把握」することを意図し、またキリスト者を「啓蒙(国策理解と日本への協力奨励)」する任務である。「ねむれる子を起す勿れ」という本音もちらついている。そして派遣する牧師には、「使命感と奉仕精神」に富み、「語学性と指導力」を兼ね備えた人と書かれている。実際、赴任した派遣教師らは、場合にとっては現地キリスト者と信頼関係を築く者もあったが、「練成講習会」などを開いて皇民化と「日本的キリスト教」の指導を行っている。以上の事柄は、派遣の目的が「決して伝道のためではなく、戦争遂行のための補完的義務の住民統治に必要な宣撫工作であった」ことを克明に描くものである。この後教団は20名の牧師を送り出し(内、芦名を含む4名死亡)、その目的を遂行することとなるのである。(<戦時下における日本基督教団、およびキリスト者の問題>070620)





金光教が発した通牒等

<戦時における教団活動>070625抜粋編集)

【満州事変に際して出された通牒】
1931年(昭和6)9月に日本軍と張学良軍(満州軍閥)との軍衝突に因るいわゆる満州事変が起り、翌1932年1月には居留日本人の保護の名目で上海事変に戦火が移ったが、その年3月に五族協和の旗印をかかげた満州国が成立して、大陸に日本の支配権を樹立する第1歩となった。この満州事変に際して、1931年(昭和6)11月12日付けの教監通牒(六監第四◯号)をもって、次のように指示した。
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 今回ノ満洲事変ハ実ニ皇国ノ重大事ニシテ苟モ生ヲ我皇土ニ享ケ職ヲ我教ニ奉ジ教化ノ任ニ在ル者ハ宜シク其事態ヲ正視シテ大ニ自覚奮起スル所無カルベカラズ
 惟フニ正義ニ立脚シテ東洋ノ平和ヲ確保シ信義ニ基キテ友誼ヲ隣邦ニ厚ウシ以テ共存共栄ノ福祉ヲ希フハ日本古来ノ精神タルノミサラズ又実ニ明治天皇ノ明示シ給ヘル皇国永遠ノ国是ニシテ我国策一トシテ此趣意ニ出デザル無キハ歴史ニ徴シテ明カナリ然ルニ隣邦我誠意ヲ覚ラズシテ無謀ノ言動多ク遂ニ今回ノ事態ヲ惹起スルニ至レリ而モソノ政府〔編者註―張学良政権〕ニ統一ノ威令無ク責務ヲ明カニスル能ハズシテ事態ハ益々紛糾セントス列国又我真意ヲ誤解シ且ツ満蒙ノ実情ニ通セズ国際聯盟ノ本旨ヲ没却シテ正論ヲ顧ミザラントスルモノアリ抑モ此事タル素隣邦ノ我誠意ヲ解セザルニ因ルト雖モソノ関スル所一隣邦トノ問題タルニ止ラズ実ニ対世界列国ノ問題ナリ將東洋永遠ノ平和ニ関スル大事タルノミナラズ又国際信義ノ死活世界平和ノ成否ヲ左右スル重大事ナリ此ヲ以テ之ヲ観レバ正ニ我国未曽有ノ難局ナリト謂フベシ
 此秋ニ当リ常ニ信忠一本ノ教義ヲ体シテ教導ノ職ニ在ル者ハ須ク日夜不断ノ祈念ニ世道人心ノ指導ニ専念努力以テ教信徒ヲシテ国民タリ奉教者タルノ自覚ヲ促シ時局ニ処スベキ道ヲ誤ルコト無カラシメ終ニハ外邦ノ蒙ヲ啓キテ我正義貫徹シ眞ノ平和確立ヲ見ル日ノ一日モ速カナランコトヲ祈念セザルベカラズ
 此祈念ニ基キ特ニ正義貫徹国威宣揚ノ祈願祭ヲ行ヒ或ハ在満ノ将士及同胞ノ慰問犒労ニ或ハ戦歿者犠牲者ノ慰霊祭ニ或ハ是等遺族ノ慰問救助ニ夫々誠意ヲ尽シテ遺漏無カランコトヲ期スベシ

 右命ニ依リ此段通牒候也
 昭和六年十一月十二日
金光教本部  教監 山本 豊

 金光教各教会長殿
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この通牒に示された事変の原因や経緯の論述は、当時の日本政府の公式の見解であって、広く一般国民に宣伝されていたものであった。したがって本教は、この通牒に指示された慰霊祭の執行・慰問金品の寄贈・遺家族への慰問と救助・在満軍隊への慰問使の派遣等を行ない、とりわけ大陸の各地で布教伝道に当っていた教師は、信徒の保護と国策への協力に献身的に取り組んだ。


この満洲事変を契機として軍部の政治介入が強くなり、国家の政策決定への主導権を持つに至った。その結果、日満両国の防衛を名目として中華民国への侵攻政策がすすめられ、1937年(昭和12)7月の蘆溝橋事件を発端として日中戦争へと拡大していった。本教は、昭和9年10年事件をへて教団自覚の信念運動が情熱的に進められている時であったが、同年(1937)7月12日付けの文部次官通達に依り、次ぎのような教監通牒でもって教団活動を実施することになった。
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一二監第三五号

 今次、蘆溝橋ニ於ケル、支那兵ノ不法行為ニ端ヲ発シタル北支事変(編者−日中戦争初期の名称)ハ、其ノ当初ヨリ、局地解決ヲ希望シテ、隠忍自重、百方之カ拡大ヲ妨止シ、誠意折衝、切ニ隣邦ノ反省ヲ促サムトシタル帝国ノ努力ハ、何等酬ヒラルル所ナキノミナラス、却ツテ其ノ非ヲ覆ヒ、其ノ罪ヲ嫁シ、事実ヲ歪曲シテ列国ニ讒構シ、慘忍倨傲、暴状到ラサルナク、而モ陰ニ軍隊ヲ集中シ、防備ヲ厳ニシ、挑戦以テ武力抵抗ノ挙ニ出テムトスル、隣邦ノ態度ニ因リテ、事態ハ今ヤ全ク危殆ニ瀕スルニ至レリ。
 惟フニ、東亜ノ和平ヲ永遠ニ確保シテ、隣比其ノ幸ヲ同シクシ、国際ノ正義ヲ不断ニ尊重シテ、列国其ノ福ヲ一ニセムトスルハ、我カ列聖ノ宏謨ニシテ、亦、帝国不動ノ国是タリ、明治以来、帝国ノ干戈ヲ動シタル、一再ニ止ラサリシ所以ノモノモ、職トシテ此ニ存シタルリシナリ。然ルニ、今ヤ隣邦、帝国ノ誠意ヲ蹂躙シ、両国ノ福祉ヲ阻害シテ、自ラ愧ツル所ナシ。帝国政府ノ、決然起チテ、断乎、其ノ不信ヲ膺懲シ、其ノ無道ヲ排撃セムトスル、亦、眞ニ已ムヲ得サル所、時局之ヨリ重大ナルハ無ク、挙国一致、以テ此ノ難局ニ処シ、上下団結、以テ其ノ所信ヲ貫徹シテ、迷昧ヲ啓発シ、国威ヲ顕揚スヘキナリ。
 我カ教祖、夙ニ信忠一本ノ教義ヲ樹テ、滅私奉公ノ教風ヲ布キ給ヘリ、斯ノ教義ヲ信奉シ、斯ノ教風ニ薫化セラルヽ本教徒ハ、今ヤ当ニ、平生実修セル所ノモノヲ実証スヘキ秋ナリ。全教、宜シク時局ヲ正確ニ認識シ、不撓ノ活力ヲ、一教依立ノ源泉ニ仰キ、別示要項ニ準拠シ、所属ノ教師信徒ヲ督励シテ、祈念ニ教導ニ、丹誠ヲ新ニシ、機ニ応シ宜シキヲ制シテ、率先挺進、銃後ノ事ニ従ヒ、虔ミテ無極ノ神徳皇恩ニ答ヘ奉リ、上ハ以テ教祖立教ノ神意ヲ暢達シ、下ハ以テ教徒護国ノ本分ヲ全ウセムコトヲ期スヘキナリ。

 右依命通牒候也
 昭和十二年七月二十日
金光教本部  教 監  高橋 正雄
 金光教各教区支部部長殿
 金光教満洲布教管理所所長殿
 金光教台湾事務所担当殿
 金光教各教会長殿

 要 項
一、現下国家非常ノ時局ニ際会シ本教ハ教祖立教ノ本旨ニ則リ事態ノ推移ニ伴ヒ左ノ各項ニ準拠シ必要ニ応シテ何時ニテモ御国ノ御用ニ奉シ得ルノ用意ヲ常ニ整フヘシ

一、先ず教師信徒一同所属教会所結界御取次ノ下ニ『我身は我身ならず皆神と皇上との身とおもひ知れよ』『信心してまめで家業を努めよ君の為なり國の為なり』トノ信念ヲ一層明確ニ確立センコトヲ要ス

一、教会所ハ本来信心修行ノ道場ナリ サレハ結界奉仕ノ御取次ヲ中心トシテ祭典説教御理解及青年会婦人会健児団等ノ集会ソノ他教会所ニ於ケル一切ノ行事ニヨリテ吾等ハ神ト倶ニアリトノ信念ノ下ニ国民トシテ私ヲ去リテ邦家ニ殉スヘキ原動力ヲ絶エス此処ニ仰キ得ルノ機能ヲ発揮シテ遺憾ナカラン事ヲ期スヘシ

一、各教会所ハ以上ノ要旨ヲ具体的ニ実現シテ
 (イ)御取次奉仕者ハ教祖立教ノ本旨ニ則リ大教会所神前奉仕ニ神習ヒ御祈念御取次ニ専心一意タルヘキコト
 (ロ)教師ハ一身一家ヲ挙ケテ御取次ヲ仰キソノ生活凡テ神任セトシ起居一切ニ本教本来ノ教風ヲ具現シ以テ信者ノ模範タルヘキコト
 (ハ)信者ハ御取次ヲ仰キ教師ノ指導ニ従ヒ求道ノ歩ヲ進メツヽ家業ニ従事シ以テ各自ノ生活ソノマヽヲ『我身は我身ならず』トノ自覚ノ下ニ『君の為なり國の為なり』トノ本義ノ現ハルヽヤウ勤ムヘキコト
 (ニ)総代役員ハ信徒ノ先達トシテソノ信念ヲ進メツヽ教会所諸般ノ用務ニ当リ以テ内外ノ雑事ノ為ニカリニモ御取次ノ御事ニ支障ヲ来スヤウノコトナカラシメ奉ルコト
 (ホ)青年会婦人会健児団等ハ教会長ノ指導ノ下ニ団体トシテ本教的活動ヲナシ各々ソノ独特ノ機能ヲ発揮シ地方公共ノ事業ニハ身ヲ挺シテ参加スルコト
 (ヘ)朝夕時刻ヲ定メ教師信徒教会所ニ参集シ特ニ国威ノ宣揚武運ノ長久ヲ祈念スルト共ニ各自ノ意気ヲ揃ヘ所信ヲ一ニシテ以テ以上各項ノ実現ニ努ムルコト

一、特ニ応召将兵及ソノ家族ノ慰問等ハ只一時ノ儀礼的措置ニ流ルヽコトナク感謝ノ誠意ヲ籠メテ絶エス親身ノ実意ヲ尽シ真ニ力強サヲ感セシムル様務ムルコト

一、斯クテ本教信奉者ハ各自ソノ所属ノ教会所ヲ通シ全教ヲ挙ケテ国家ノ急ニ奉シ苟モ一身一家ノ利害ニ捉ハルルコト無キヲ期スヘシ

 〈以下2項目の事項は省略〉
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これらの実践要項は、その後の戦時下における教団活動の基本となり、本教が宗教団体としての活動の組織化を促進する指導理念となった。すなわち大教会所神前奉仕(結界取次)を根源とする全教各教会所の取次を基軸として、全信奉者が組織的統一的に布教活動を推進する、という方向が生み出されることとなった。その組織的活動を統一するために、7月28日付けで事変対処事務局を本部に設置し、その総務に教監が当ることとした。また事務局の業務を指導部・慰恤部・庶務部の3部に分け、布教宣伝、各団体の指導、情報蒐集、恤兵金品・国防献金、将兵及びその家族の慰問、祭事の執行等を取り扱うこととした。これらの活動は、北支事変から支那事変を経て太平洋戦争が終るまで実施された。その間の1940年(昭和15)から1941年(昭和16)にかけての新教規制定問題が整然と行なわれ、その統率は昔日の比ではなかったという。



【太平洋戦争勃発に際して出された通達】
1941年(昭和16)12月8日に、米英両国に対して宣戦を布告する詔書が渙発されたので、文部大臣の訓令に依って、同日付けで管長金光攝胤の諭告が達示された。さらに同日、金光教事変対処事務局長から次のような指示が通達された。
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一六事第五号

 昭和十六年十二月八日

金光教事変対処事務局長

 金光教各事変事務部長殿
 金光教各教会主管者及教師殿

 本日畏クモ宣戦ノ大詔ヲ渙発アラセラレ候義寔ニ恐懼措ク能ハザル所ニ有之候予テ今日アルヲ覚悟罷在候我等今ヤ愈々平素ノ信心ニ基キ管長諭告ノ趣意ヲ体シテ勇躍国難ニ赴キ毅然トシテ戦時国民生活ノ確保ニ精進スベキノ一途アルノミニ有之候就テハ全教一体同信相率ヰテ特ニ左記事項ノ実践ニ孜メ以テ聖旨ニ奉答センコトヲ期セラレ度此段通牒候也

一、各教会ニ於テハ朝夕「戦勝一斉祈願」ヲ行ヒ又特ニ日ヲ定メテ「戦勝祈願祭」ヲ執行シ皇国ノ必勝ヲ熱願スルコト
一、政府当局ノ指示ニ絶対随順シ苟ニモ流言蜚語ニ惑ハサレザルコト
一、各自ノ職場ヲ死守スルノ覚悟ヲ以テ職域奉公ノ実ヲ現ハシ生産拡充国力増進ニ邁進スルコト
一、生活ヲ最低限度ニ切下ゲ物資ヲ節約シテ国債購入及貯蓄ニ全力ヲ注グコト
一、各重要地区ニ於テハ特ニ防護活動及救護事業ニ挺身奉仕スルコト

以上
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 この通牒には、すでに戦時活動が特殊なものではなく、日常的な布教活動であり、信心生活運動となったことを表わしていた。そしてこれらの活動の実践組織として結成された金光教報國会(信奉者の団体)を統括する本部機関も、事変対処事務部から事変事務局に変わり、さらに12月15日付けで戦時事務局となった。1942年(昭和17)6月20日に教団創設以来、本教の柱石として常に教政・教義・教育のうえに重きを成してきた金光教宿老佐藤範雄が死去し、名実共に教祖直信の時代が終った。それは、奇しくも天皇信仰に基づく大日本帝国崩壊の前夜を思わす時期でもあった。
 文部省宗教局が教学局と改編され、皇国思想に依る教育・宗教行政を行なうこととなった。そこで本教においても、同年11月29日付けで教学調査会が設置されたが、従来の信忠一本の教義を前提とするかぎり新しい内容は生まれようもなかった。1941年(昭和16)8月1日以来、新教規に依って管長選挙が行なわれ、その結果、神前奉仕金光攝胤が金光教管長に就任してきた。したがって金光攝胤管長は、教団という社会的組織の統理者であると同時に、本部教会長として信奉者の信仰の中心生命である神前奉仕を行なってきた取次者であって、その結界取次を受けて全教の信心生活が進められてきた。つまりこの取次者という信仰的人格に依って、教務と神務が一元的に行なわれる体制であった。ところが教務の本質は国家権力の行使であって、それに対して神務とは純信仰の発動による宗教行為であるから、両者は全く異質の働きであったのである。太平洋戦争が、大東亜戦争と称せられて、東亜共栄圏という亜細亜の新秩序建設を目指して始まり、その世界理念として古事記・日本書紀の世界観の現代化を求めたのが、政府の教学行政であった。それは、いわば国家神道(神社神道)の亜細亜版を映し出すことにあるのであって、本教の信仰とは本質的に異なることであったので、教学調査会の実績は停滞してしまった。

 1943年(昭和18)1月25日から26日にかけて、本部教会に於いて聖旨奉戴金光教全国大会を開き、全教から代表者6000名が参会し、聖旨奉戴必勝生活確立運動を実施することとなり、その第一着手として生活切下断行決意表明壱百萬円軍費献納運動を実施した。この軍費献金は、2月から8月の間に予定の100萬円を超え、10月の教祖60年祭には150萬円余となり、陸軍航空機9機を献納し、12月には海軍航空機9機を献納したのであった。因みにその年の教団経費は60萬円程度であった。
 同年10月4日・7日・10日の三ヵ日に亘って教祖六十年記念大祭及び戦勝祈願祭が執行され、管長より「…教祖六十年大祭ヲ迎ヘタル本教ハ恰モ再生ノ機運ニ際ス全教一新須ラク教祖ノ遺範ニ則リ先蹤ヲ践ミ一死奮ツテ国難ニ赴キ上ハ以テ畏ミテ宗教ノ上ニ垂レサセ給ヘル大御心ヲ安ンジ奉リ下ハ以テ謹ミテ殉国英魂ノ忠烈ニ酬ウルトコロアルベキナリ…」との諭告があって、それをうけて聖旨奉戴全教一家挺身奉公運動が11月29日から翌1944年(昭和19)3月31日までを第一期として実施された。その趣旨は、「一意無私奉公ノ実践ニ挺身セントセラルル管長ノ心ヲ心トシ祈念ヲ祈念トシテ、全教一家ノ体制ヲ一層整備シ、国家ノ要請ニ従ヒ適時即応ノ実動ニ努メ、以テ聖戦完遂ノ大業ヲ翼賛シ皇恩ニ応ヘ奉ルト共ニ、之ヲ以テ…‥管長神勤五十年ノ教恩報謝ノ途タラシメントス」という点にあった。そして大戦の開戦以来、本教唯一の全教的信奉者団体であった金光教報國会を整備強化して、管長を総裁に仰ぐと共に教監(3代目白神新一郎)を会長とし、報國貯蓄運動及び勤労報國隊の活動を全面的に統括運営することとした。



【祈誓文】
1943年(昭和18)12月20日には、金光四神貫行之君50年祭及布教功労者報徳祭が執行され、続いて管長神勤50年報謝祈誓式が挙行された。この式典に於いて、全教信奉者の祈誓名簿が管長に奉呈されたが、その祈誓文は次の通りである。(編者註−句読点を付す)
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祈誓

 戦局はいよいよ決戦に次ぐに決戦の段階に突入し今や寸刻の猶予を許さず。各自その持場に無私奉公の実を挙げ聖業完遂に邁進すへきのみ。
 我か管長昨秋畏くも拝謁の栄に浴し、戦時下宗教の上に注かせ給ふ大御心の程に恐懼感激し、全教を率ゐて生活立て直し戦力増強の一途に邁進せらるゝことゝなりてより正に一周年。その当日たる去十一月二十六日東上し天機を奉伺して更に決意を新にし。全教一家総力を結集して、この秋の御用に立たんことを諭示せらる。今年正に教祖六十年祭四神之君五十年祭我か管長神勤五十年に相当し、教祖立教以来不断の御取次に依りて大御蔭を蒙り来れる本教信奉者一同如何にかしてこの教恩に報いんと熱願せるところ、今茲に管長の諭示を受く。
 仍ち管長の心を心とし、その祈念を祈念とし、その実践を教会家庭職場に亘る各自の持場を通し、身を以て取次かせて頂く事により、戦力増強挺身奉公の活動を倍強し、無極の皇恩に奉答することこそ、この教恩に報ゆる所以なることを痛感し、管長を家長と仰ぎ全教一家協心戮力以てその実を挙げんことを誓ひ茲に各自署名してその志を明かにし、吾等の心願成就の大御蔭を御祈念御取次あらんことを希ひ奉る。

 昭和十八年十二月二十日
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白神教監によってこの祈誓文が朗読され、所願の表明があつた。これに対して金光攝胤管長より「皆さん、ありがとう存じます。至らぬながら今日まで神様のみかげ頂いて御用をさせて頂きまして、今後とも一層御かげを蒙りたいものと考へて居ります。つきましては聖旨奉戴全教一家挺身の実をいよいよあげさせて頂きたいと思ひます。又報國会のことにつきましても順々に進めて行きたいと思ひます。よろしく御協力をお願ひ致します」との挨拶があった。