御遷化記録

―六老定置と日興上人への別付嘱は矛盾しない―

同(=弘安5年)十月八日本弟子六人を定め置かる
 此の状六人面面に帯す可し云云
 日興一筆也
 定
 一、弟子六人の事 不次第
 一、蓮華阿闍梨 日持
 一、伊与公 日頂
 一、佐土公 日向
 一、白蓮阿闍梨 日興
 一、大国阿闍梨 日朗
 一、弁阿闍梨 日昭
  右六人は本弟子也
仍って向後の為めに定むる所件の如し
 弘安五年十月八日

(聖典P581)

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二箇相承は弘安5年(1282)10月8日、日蓮入滅の直前に制定した本弟子6人の「定」と明らかに矛盾する。この「定」は日興が執筆して6人面々に帯すべしとし、日持・日頂・日向・日興・日朗・日昭と入門の浅いものから列ね、この本弟子6人は序列なく「不次第」であるとしている。もし日興が付法の弟子であるならば、その付法は二箇相承によればすでに9月に行なわれているのであり、「不次第」とする必要はなく、最上位におかねばならないはずである。
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 大聖人は弘安5年10月8日、日持・日頂・日向・日興・日朗・日昭の6人を本弟子と定められました。
 そして、これを大聖人の御命によって日興上人が記録された書(『宗祖御遷化〈せんげ〉記録』御書1863頁)には、冒頭に「弟子六人の事 不次第」とあって、入門の若い順(逆次)に6人の名前が記されています。(『慧妙』H17.6.1)


<「不次第」の意味>
●六弟子を定めて法臘(ほうろう=僧になってからの年数)の順に記録なされたが、それは自(おのずか)ら順位を示すものである。然るに大聖人の思召しは平等にあらせられた故に、わざわざ「不次第」と御書入れがあつたと拝するが妥当であらう。しかし、もう1歩進んで考へると、「不次第」と仰せられしは上を抑えて下を上げてをると解釈できる。さすれば、次第不順で相違を法臘(ほうろう)以外に御認めなされたからといふべきである。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1268頁)
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 この文書(『御遷化記録』)は、あくまでも本弟子定置のためのものである。本弟子が誰であるかを示すものである以上、上下関係が特別にあったとしても、わざわざそれを述べる必要もない。
 特別な上下関係がなかったとしても法臘の上から兄弟子・弟弟子という上下関係は以前から存在する。それでも、法臘の順に書かれて尚、「不次第」と特に書かれたところに、法臘以外の上下関係の存在を暗に示しているといえよう。


<本弟子を定められた理由>
●うちこしうちこし直(ぢき)の御弟子と申す輩(やから)が、聖人の御ときも候しあひだ、本弟子六人を定めをかれて候。その弟子の教化の弟子は、それをその弟子なりと言はせんずるためにて候(第2祖日興上人『佐渡国法華講衆等御返事』)
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吾人は六老を定められた理由は『報佐渡国講衆書』(※『佐渡国法華講衆等御返事』)に「(※上記●)」と仰せられた通りと拝する。勿論此の御手紙は弟子関係の乱れを防ぐためのものであるから特にかく仰せられたので、此の他に教団の中心たれとの思召しがあらせられたと拝することができる。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1268頁)
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 本弟子6人が定められた真の理由は、各地の僧俗が本弟子を通じて大師匠である大聖人を拝していく、その師弟の筋目を明確にすることにあったのです。
 ですから、本弟子6人が定められたことと日興上人の付嘱とは、別問題であり、まして、入門の順番によって日興上人への付嘱が否定されることなど、絶対にありえないのであります。(『慧妙』H17.6.1)

 つまり、師弟子の筋目を正して、大衆に自分勝手な信仰をさせないため、教団の秩序を築くべく、「本弟子六人の定め置き」がなされたことが判(わか)るのである。
 この「六老僧の定置」と、令法久住(りょうぼうくじゅう)のために行なわれる唯授一人の相伝とは、意義や目的が異なることは自ずから明らかである。
 ところで、唯授一人の相伝は、剃髪(ていはつ)し入門した順序によって与えられるのではなく、あくまでも信解(しんげ)・行徳の浅深によって選ばれるものである。
 日興上人は、本弟子6人の中、法臘(ほうろう=入門してからの年数)は第3位であるが、そうした順序次第に関わらず、行体堅固・信解抜群の比類無き御弟子であったことは、何処にあっても大聖人に常随給仕(じょうずいきゅうじ)され、粉骨砕身(ふんこつさいしん)の布教を展開されたこと等、史実に明らかである。このような信解・行徳の積み重ねの上に、大聖人より嫡弟(ちゃくてい)として選ばれ唯授一人の相伝を受けられたのである。
 その点から言えば、前の『宗祖御遷化記録』に、6人の名前が、入門順に列記されながらも、わざわざ冒頭に「不次第」と念記され、必ずしも法臘順に上下次第が定まらないと示されていた御意が、ありがたく領解できるではないか。
 要するに「不次第」の語は、高位を下げて下位を押し上げる意であり、その内意には、すでに大聖人が法臘第3位の日興上人を付弟1人に選ばれていた御意が存する、と拝せられるのである。
 したがって、「本弟子六人の定置と唯授一人の相伝とが矛盾する」などということは、まったくありえない。
 不相伝の輩(やから)は、何としても日蓮正宗の正統性を否定したい、との邪(よこしま)な底意(そこい)があるから、こういう戯(たわ)けた疑難しかできないのであろう。(『慧妙』H25.7.16)


<法華経の先例>
 法華経従地涌出品第15には、大地より出現した6万恒河沙の地涌の菩薩に関して、
●是(こ)の菩薩衆(ぼさつしゅ)の中に、四導師(しどうし)有り。一を上行(じょうぎょう)と名づけ、二を無辺行(むへんぎょう)と名づけ、三を浄行(じょうぎょう)と名づけ、四を安立行と名づく。是の四菩薩、其(そ)の衆の中に於(おい)て、最も為(こ)れ上首(じょうしゅ)唱導(しょうどう)の師なり(法華経P410)
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とあり、6万恒河沙の菩薩衆の上首は、上行等の四菩薩である、と示されている。
 一方、滅後末法における弘通を付嘱される法華経如来神力品第21に至ると、
●日月(にちがつ)の光明の能(よ)く諸(もろもろ)の幽冥(ゆうみょう)を除くが如(ごと)く斯(こ)の人(ひと)世間に行じて 能く衆生の闇(やみ)を滅し(法華経P516)
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とあり、釈尊よりの付嘱を受けて滅後末法に出現する人は「斯の人」という単数で示されていることがわかる。 このことについて、日蓮大聖人は
●斯人とは上行菩薩なり(御書P1784)
●釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給ふ(御書P1039)
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と、「斯の人」とは「上行菩薩」であり、神力品の付嘱は、別して上行菩薩御一人への要法付嘱であった、と仰(おお)せられている。
 これらの金言によって判ずるならば、地涌六万恒河沙の導師は四菩薩であるが、さらにその四菩薩の中でも、別して上行菩薩ただ御一人に付嘱がなされ、滅後末法の大導師と定められたことが明らかである。(『慧妙』H25.7.16)


<日興上人も日目上人に付嘱したあと、本弟子6人を定める>
1290(正応3=聖滅9年)10.18 日興、日目に法を内付し本尊を授与〔譲座本尊〕(石蔵/『富士年表』)
1298(永仁6=聖滅17年) 日興、本弟子6人を定む(『富士年表』)
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聖人の御例に順じ日興六人の弟子を定むる事。
 一 日目
 二 日華
 三 日秀  聖人に常随給仕す。
 四 日禅
 五 日仙
 六 日乗―聖人に値い奉らず。(『富士一跡門徒存知事』全集1603頁)
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●寂日房日華 (寂日坊開創)
新田卿公日目 (日目上人・蓮蔵坊開創)
下野公日秀 (理境坊開創)
少輔公日禅 (南之坊開創)
摂津公日仙 (上蓮坊開創、後の百貫坊)
了性房日乗 (蓮仙坊開創、後の了性坊。大聖人御滅後の入門とある)(第2祖日興上人著『弟子分本尊目録』編集)
●此の六人は日興第一の弟子なり。聖人御遷化の後身命を惜しまず国方に訴へ、謗法を責む。自今以後と雖(いえど)、緩怠(かんたい)有るべからず(第2祖日興上人著『弟子分本尊目録』)
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 いわゆる『弟子分本尊目録』の冒頭には、日興上人の本弟子6人(「本六」と称される)の名前が列記され、本六僧はこの時点で定められたというように解されます。『富士一跡門徒存知事』(御書1869頁)によれば、本六僧の選定は、大聖人が御入滅に当たって定められた、六老僧の例に準じたものであったということです。
 ここでは『弟子分本尊目録』に記載された順序により、本六僧の名前と開創した坊などを列挙してみましょう。(『富士門流の歴史 重須篇』P52〜)
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 日興上人も大聖人の例に準じて本弟子6人を定められた。しかし、その順序は日目上人が筆頭ではない。しかもこの6人について日興上人は「日興第一の弟子なり」と仰せである。普通に考えれば全員が「第一」なのだから平等とも考えられる。しかし、実際には第2番目に記された日目上人に付嘱されたのである。
 この事実からみて、大聖人が定められた本弟子6人の順序も、地位や能力の序列ではないことは明らかだ。「不次第」の意味も平等ということではないことが分かる。
 日興上人は日目上人御一人に法を付属された後に、本弟子6人を定められた。大聖人が本弟子6人を定められたことは、学会員も認めているようであるが、日興上人が本弟子6人を定められたことは、明らかに大聖人に倣(なら)われたものである。であれば、日興上人が本弟子を定める前に、付弟1人を定められたこともまた、大聖人に倣われたと考えるのが自然であろう。要するに、日興上人がそうであられたように大聖人もまた、本弟子6人を定められる前に、法を1人の弟子に付嘱されたのである。


<日頂・日朗の行動>
1302(乾元1=聖滅21年)3.8 日頂、下総真間弘法寺を日揚に付し重須に来たり日興に帰依(『富士年表』)
●日頂、心身ともに伏す(第59世日亨上人著『富士日興上人詳伝(下)』101頁)
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他門では"六老僧は平等"などと主張しているようであるが、その平等であるはずの日頂師が、最後の最後になって日興上人に帰依した事実は、重大である。このことは、師自身、法門に対する信解は拙なかったにせよ、日興上人が大聖人の付弟であるという客観的事実は無視できなかったということを示しているのではないか。

1310(延慶3=聖滅29年)3.8 日朗、富士に詣ず(『富士年表』)
1317(文保1=聖滅36年)3.8 日朗、再び重須に到り正御影を拝す(『富士年表』)
●但し日朗は大聖御入滅已後二十九年目に日興上人へ御同心有って初て大聖の御影を拝し御在生の時を謂ひ悲歎し玉ふと也、開山へ御対面定めて子細あるべし。(富士妙蓮寺日眼・康暦2年6月4日『富士宗学要集』第4巻10頁)
●彼等の祖師日朗上人は富山に帰伏して両度下向す・古老遺弟皆以つて存知なり(日順『摧邪立正抄』正平6年3月/『富士宗学要集』第2巻50頁)
●日朗、心伏して身は伏せず(第59世日亨上人著『富士日興上人詳伝(下)』98頁)
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日興上人在延中は"地頭が不法だから"という理由で、久遠寺を訪ねることがなかった日朗であるが、身延離山後の日興上人を2度も訪ねている。同師は、身延の日向をはじめ他の本弟子を訪ねているのだろうか?日朗は日頂師と異なり、"心は・をちねども身はをち"たようである。
●心は・をちねども身はをちぬ(『四条金吾殿御返事』全集1181頁)

 封建時代に家督(かとく)を相続するのに、惣領(そうりょう)だけではなく庶子(しょし)にまで分割(ぶんかつ)して相続した者は「田分(たわ)け者」と言われ、愚(おろ)か者の代名詞となりました。所領が一族の命綱(いのちづな)であった時代に、分割相続をすることは、一家・一族の力を衰(おとろ)えさせることになるので批判されたのです。
 仏法の付嘱も同様であり、釈尊は迦葉(かしょう)に付し、天台は章安(しょうあん)へ、伝教は義真(ぎしん)へと、何れもただ1人に付嘱されたのであり、日蓮大聖人が六老僧に分割乃至平等に付嘱するなどということは有り得ないことです。(『妙教』H16.2/<宗教に関心を持とう>WS)

●六老在すと雖も法主は白蓮阿闍梨に限り奉るなり、在世には唯我一人の大導師は釈尊なり、末代には上行菩薩・本門の別付嘱唯我一人なり、争でか告勅に背て唯我一人の法華経を六人までに御付嘱あらんや、六人の上首日興上人なり、例せば四大菩薩の上首は上行なるが如し(富士妙蓮寺日眼『五人所破抄見聞』/『富士日興上人詳伝下』63頁)
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第59世日亨上人は正史料と認定されている。


▲『宗祖御遷化記録』。「一、弟子六人の事」の次下には「不次第」の文字が(『慧妙』H25.7.16)