創価学会破折
「板の大御本尊は後世の造立」なる疑難を破す


戒壇の大御本尊と他の御本尊との根本的な違い

―大聖人は令法久住の御意思の上から板本尊に―
(『慧妙』H24.7.16)

 昨今、インターネットの掲示板の利用が問題となっている。というのも、不特定多数が匿名(とくめい)で情報交換する掲示板において、薬物の取り引きや売買春の勧誘、さらには殺人予告や集団自殺の呼びかけなど、さまざまな犯罪に悪用されていからである。
 この問題は世法だけに止まらず、宗教上においても当てはまる。仏法に無智浅識(せんしき)なる者どもが、自身の我見のもとに好き勝手に己義を唱え、正法誹謗(ひぼう)の重罪のかぎりを尽くしている現状が、ネットの世界で蔓延(まんえん)しているのである。
 このような宗教上の犯罪者を、世間のネット犯罪のように警察が取り締まったり、法律で裁(さば)くことはできないが、必ず仏天の厳罰によって裁断される、と確信するものである。
 さて、今回は、本門戒壇の大御本尊への誹謗のなかでも、大御本尊が板本尊であることから起こる疑難をとりあげる。ネット上には、
 「板本尊は大聖人御在世には存在せず、大聖人滅後、門下弟子によって造立されたものである」「文字の部分を削ることは大聖人の御聖意に反する」「大御本尊の元となる楠(くすのき)は当時、身延には自生していなかった」「大聖人当時は金箔(きんぱく)、漆(うるし)を買う資金がなかった」などの疑難がある。
 板本尊を否定する者には、大聖人の御本尊は紙幅のみであるという考えが前提にあることから、楠によって造立された板御本尊の存在を認めないのであろう。
 大聖人御一代中に顕(あら)わされた多数の御本尊には、それぞれ建立意義と目的に異なりがあり、御本尊図顕(ずけん)における大聖人の御化導を相伝仏法の上から正しく拝さなければ、本義を見失うこととなる。ゆえに、正法不信の者がいくら邪智(じゃち)浅見をもって御本尊の深義を理解しようとしても、けっして大聖人の御聖意に辿(たど)り着けることはない。
 当宗僧俗はすでに周知のことであるが、大御本尊が何たるかを知らない者どもに、簡略に説明しておこう。
 元来、大聖人所顕(しょけん)の御本尊は、大きく2種類に分けることができる。
 1には、弟子や檀那への個人に与えられた御本尊である。これは、主に授与者の信行の対象として安置すべき御本尊であり、ほとんどの御本尊に授与者の名前が認(したた)められている。
 2には、特別な意義と目的のもとに顕わされる御本尊で、その時々の境地より御図顕され、授与者が示されていないものもある。
 戒壇の大御本尊が、このうちの後者に当たることは言うまでもない。
 当宗においては、戒壇の大御本尊をもって信仰の主体としている。その理由は、大聖人の宗旨が戒壇の大御本尊に極まるからであり、法義的に三大秘法のすべてを惣在(そうざい)する上から「三大秘法惣在の本尊」と称し、また末法万年の衆生を救済するために万人を対象として御図顕され、一閻浮提(全世界)すべての人々が信受すべき御本尊である意味から「一閻浮提総与の本尊」とも称するのである。
 これは大聖人が、『観心本尊抄』に
 「此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為(な)す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべじ」(御書P661)
と仰(おお)せられ、さらに『三大秘法抄』に
 「三国並びに一閻浮提の人懺悔(さんげ)滅罪の戒法のみならず、大梵天王(だいぼんてんのう)・帝釈(たいしゃく)等の来下(らいげ)して踏(ふ)み給ふべき戒壇なり」(御書P1595)
と仰せられた本尊義が示すところである。
 そして、26世日寛上人も、大御本尊について
 「故に弘安元年已後、究竟の極説なり。就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」(文段集P452)
と、大聖人の「究竟中の究竟」「本懐の中の本懐」たることを仰せである。
 つまり、本門戒壇の大御本尊とは、個人に与えられた一機一縁の本尊とは意義も目的も一線を画す、特別な本尊であり、大聖人が末法万年の一閻浮提の衆生救済のために、紙幅ではなく、木の板に認(したた)められたことは、むしろ当然と拝せられる。大御本尊の建立意義を正しく拝せば、板御本尊である道理も必然性も理解できるのである。
 板御本尊を否定する輩(やから)は、まず自身の宗派の本尊形態を顧(かえり)みるがよい。もしそこに、板本尊が祀(まつ)られていたり、過去に安置されていた史実があれば、当宗の大御本尊を誹謗する前に、自宗の本尊を攻めるがよい。
 学会員しかり、日蓮宗しかり、保田妙本寺しかりである。
 宗旨の根幹と御本尊建立の意義に迷い、正しい宗門史を理解することもできず、支離滅裂な愚論を展開するネット上の誹謗者には、大御本尊の真偽を語る資格など微塵(みじん)もなく、増上慢も甚(はなは)だしいと、念告しておく。(つづく)


身延にも、中山にも、上代から板本尊が存在

―古文書の曲解(きょくげ)も、自己矛盾により論理破綻―
(『慧妙』H24.8.16)

 前号において、本門戒壇の大御本尊が板御本尊である意義について簡略に説明した。今回は、「板本尊は大聖人御在世には存在せず、大聖人滅後、富士門流(日有上人時代)によって造立されるようになったものであるから、戒壇大御本尊は偽作である」との疑難について破折していく。
 この疑難の根底には、大聖人の御書や富士門流上代の文献に板本尊に関する記述が確認できない、とする考えがあるのだが、しかしながら、これを理由に大御本尊を否定することはできない。
 なぜなら大御本尊以外の大聖人の数多(あまた)の御本尊であっても、そのほとんどが御書や上代の文献に記されていないからだ。したがって文献に記述がないことをもって大御本尊を否定する根拠にはならないのだ。
 まして大御本尊は、他の一機一縁の本尊と異なり、一切衆生を救済する一閻浮提総与の御本尊である。この出世の本懐である重宝を末代に残すためには、安易に口外しないなど、重々の配慮をもって厳護されたであろうことは当然のことである。

 さて、大御本尊が御板であることを理由に難癖(なんくせ)をつける輩(やから)に対し、門下上代において板本尊が存在していた証拠を示そう。
 まず、日蓮正宗に伝わる板御本尊のうち、戒壇の大御本尊を除いて最も古いものは、栃木県信行寺に伝わる8世日影上人造立の板御本尊である。
 この御本尊は、総本山に所蔵される弘安3年の大聖人御真筆御本尊を謹刻されたものであるが、このような化儀を日影上人が独創するとは考えられず、大石寺門流の伝統を踏まえ、造立された御本尊であることが明白である。したがって、板御本尊造立の始まりが日有上人からである、とする疑難は崩壊しているのである。
 次に大聖人滅後の身延山に、板本尊の存在を確認できる文献がある。身延の古文書(身延山33世遠沽院日亨の記とされる)に
 「一、板本尊 本尊は祖師の御筆を写すか、下添え書きは第三祖向師の筆なり、下添え書きに云く、正安二年庚十二月日右日蓮幽霊成仏得道乃至法界衆生平等利益の為に敬って之を造立す」(『身延山久遠寺諸堂建立記』日蓮宗宗学全書22-P56)
とあり、大聖人御筆の御本尊を模写した板本尊が、民部日向によって造立されていたことが判(わか)る。それは、もともと身延山久遠寺の本堂に安置されていた大御本尊を、日興上人が身延離山の際に富士へ御遷座(せんざ)されたため、その後に民部日向が、大御本尊を真似(まね)て板本尊を造立したものと推察できるのである。
 さらに、身延上代の別の板本尊の記録と思われる中山3世日祐の『一期所修善根記録』には、
 「身延山久遠寺同御影堂、大聖人御塔頭、塔頭板本尊 金箔 造営修造結縁」(日蓮宗宗学全書1-P446)
と、観応2年に修理された身延上代の御影堂には板本尊が安置してあった、と記されている。
 この他にも身延では、日向造立の板本尊以外に、行学院日朝(日有上人と同時代)が大聖人御真筆の御本尊を彫刻して板本尊を造立した記録が残っているなど、複数の板本尊の存在が知られている。
 またさらに、中山門流の宝物記録である『本尊聖教録』(大聖人滅後50年頃、3代日祐著)には「板本尊一体」と記されており、当時、中山門流にも板本尊が存在していたことが判る。
 これらのことから、日有上人以前の日蓮門下最上代より、板本尊造立の史実が存したことが判明し、それが造像本意の他門にまで及んでいることは、滅後の弟子たちが身延における大聖人・日興上人の大御本尊安置の化儀を踏襲(とうしゅう)したもの、と考えるのが当然である。
 しかして、これらの史実は、大御本尊の成立時期が宗祖御在世乃至日興上人身延在住期にまで遡(さかのぼ)ることを意味しており、日有上人が初めて板御本尊を造立したなどとする見解は否定されるのである。

 次に、この民部日向造立の本尊について、近年、ネット上において異論を唱える者が出てきた。
 その主張とは、「日蓮正宗、日蓮宗を問わず、板本尊ではないが、板本尊そっくりのものがかつては多数存在していた。したがって、1300(正安2)年12月に日向造立の板本尊なるものも、『日蓮幽霊成仏得道乃至法界衆生平等利益の為に敬って之を造立す』と書いてある文があることからしても、これは板本尊というよりも、当時、中国から伝来して仏教界に普及しはじめていた本位牌や寺位牌をモデルにした板位牌だったと考えられる」というものである。
 この主張は、門下上代に板本尊が成立していたことの傍証となる日向造立の板本尊を、何とか否定せんとする苦し紛(まぎ)れの説だが、はたして、日向が造立したのは「位牌」だったのだろうか。
 かつて、その身延の板本尊を御覧になった59世日亨上人は、それが本尊であることを断言されている(『大白蓮華』66号)。宗内外において学匠と名高い日亨上人が、位牌と本尊の形態を見間違うはずはない。
 また、先に引用した『身延山久遠寺諸堂建立記』には、
 「一、板本尊本尊は祖師の御筆を写すか」
と、明らかに板本尊と明記してある。これをわざわざ「板位牌だった」などと解釈する方が無理な話だ。しかも、この文献の別項目には、位牌に関する記述も示されており、筆録者が板本尊と位牌とを別物としていることが明らかである。
 以上のように、日向が造立したものを「板本尊」と断定したのは、当宗ではなく日蓮宗なのである。
 これらの史実から、板本尊造立という化儀は、けっして大石寺門流独自のものではなく、むしろ、大聖人の化儀を門下の弟子たちが継承したもの、と見るべきである。
 また現在、ネット上において散見される大御本尊に関するさまざまな誹謗(ひぼう)は、三宝破壊の逆徒が我見をもって唱える、全く根拠のない邪義である、と喝破(かっば)するものである。


▲日蓮宗の教学書。そこには、上代においてすでに、身延や中山に板本尊があったことが記されている