創価学会破折
大御本尊の授与書きへの疑難


「なぜ日興上人が対告衆でないのか?」

―大御本尊建立の経緯と意義を知るべし―
(『慧妙』H24.5.16)

 今回は、本門戒壇の大御本尊の授与書きに関する邪義について、インターネット上に喧伝(けんでん)されるいくつかの疑難(ぎなん)を挙(あ)げて破折したい。
 まず、これに関する主な疑難を挙げれば「大聖人が大御本尊を日興上人に授与されたのなら、なぜ日興上人を対告衆(たいごうしゅ)にしなかったのか」「大御本尊の授与書きにある願主・弥四郎国重は氏素娃(うじすじょう)の不明な人物なので疑わしい」等の内容が散見される。
 所詮、不相伝の輩(やから)が、悪意を持って企ててくる戯言(ぎげん)であるが、これに惑(まど)わされている者のためにも、以下に鉄槌(てっつい)を下しておく。

 まず「大聖人が大御本尊を日興上人に授与されたのなら、なぜ日興上人を対告衆にしなかったのか」との疑難だが、これは、大聖人が大御本尊を御図顕あそばされた経緯(けいい)を正しく拝せない故(ゆえ)に生じる邪見である。
 そもそも大御本尊御図顕の背景には「熱原法難」が重大な機縁となっている。
 この法難は、建治2年頃から、富士南麓一帯における著(いちじる)しい正法弘通と入信者増加に対し、怨嫉(おんしつ)した他宗の僧等や法華誹謗(ひぼう)の者達が、様々な恐喝(きょうかつ)や迫害をもって法華講衆の弾圧を企(くわだ)てたところに端(たん)を発する。そして、弘安2年(1279年)4月頃からいよいよ凶悪化し始め、8月の法華衆徒・弥四郎の斬首(ざんしゅ)を経(へ)て、9月21日に神四郎ら20名の信徒を拘引(こういん)したことにより、ピークに達したものである。
 この事態を受けて大聖人は、法難真っ只中の10月1日に『聖人御難事』を著(あらわ)された。この時の法難が尋常ならざる状況であったことは、同御書に、
 「彼のあつわら(熱原)の愚癡の者どもい(言)ゐはげ(励)ましてを(堕)とす事なかれ。彼等には、たゞ一えん(円)にをも(思)い切れ、よからんは不思議、わるからんは一定とをも(思)へ。ひだる(饑)しとをも(思)わば餓鬼道ををし(教)へよ。さむ(寒)しといわば八かん(寒)地獄ををし(教)へよ。をそ(恐)ろしゝといわばたか(鷹)にあへるきじ(雉)、ねこ(猫)にあへるねずみ(鼠)を他人とをも(思)う事なかれ」(御書P1398)
と仰せられ、拘引された熱原の信徒達が、無事に釈放される可能性は極めて乏(とぼ)しく(よからんは不思議)、逆に極刑に処せられることは間違いない(わるからんは一定)であろう、と推察されていたことからも窺(うかが)えるのである。
 この法難における、僧俗の不自惜身命の信心の姿を通して、今まさに出世の本懐を遂げられるべき時機の到来を感ぜられた大聖人は、同御書に、
 「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計(ばか)りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり」(御書P1396)
と宣言あそばされた。そして、諸(もろもろ)の準備を整えられた11日後に、三大秘法の意義を総する本門戒壇安置の根源の大曼荼羅本尊を顕(あら)わされたのである。この大曼荼羅本尊こそ、日興上人が『日興跡条々事』に、
 「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す」(御書P1883)
と示された本門戒壇の大御本尊である。
 ここで留意すべきことは、大聖人の顕わされた御本尊にも、大別して以下のような意味の相違がある、ということである。
 1には、出家・在家への個人賜与(しよ)の本尊であり、その多くは信行の対象として安置すべき御本尊であるが、中には守り本尊の意味で顕わされ授与されている御本尊もあり、これらの場合、ほとんどの御本尊に授与者の名前が書かれている。
 2には、特別な意義と目的の下に顕わされるか、またその時々の境地より顕発される本尊で、授与書きが示されていない。この場合、願主と授与者とが共通でない場合があるのは、法華経の説法においても、発起衆と影響衆・当機衆・結縁衆とがそれぞれ分かれているのと同様である。
 実際、文永・建治・弘安の各期にわたって授与書きのない御本尊を相当数拝するが、授与書きがなくとも、それぞれ、大小の目的に従って委任すべき弟子に譲られたのは当然である。
 しかして、本門戒壇の大御本尊は唯一究竟の大目的のもとに、
 「本門戒壇之願主弥四郎国重法華講衆等敬白」
と認(したた)めて、弥四郎国重が願主であることを示されたが、その実、大御本尊は国重等の一機のためではなく、広宣流布の暁に本門戒壇に安置すべき御本尊として、独(ひと)り血脈付法の第2祖日興上人に付嘱・授与された。そして、前掲の『日興跡条々事』に拝するとおり、日興上人も、血脈嗣法の第3祖日目上人へ譲(ゆず)られたのである。個人への授与でないから、大聖人より日興上人への授与書きが示されていないのは当然のことである。
 この深重の意義を知らず、ネット上で無責任に戯言を列(つら)ねる妄弁者には、自らの浅識を改め、一刻も早く、大御本尊への冒涜(ぼうとく)行為を反省懺悔(ざんげ)すべきことを忠告しておく。(つづく)


「弥四郎国重」に関する疑難を一挙粉砕!

―仏法の道理・常識に従えば疑う余地なし―
(『慧妙』H24.6.16)

 次に、ネット上には「大御本尊の願主・弥四郎国重」に関する疑難として、「弥四郎国重は氏(うじ)素姓(すじょう)の不明な人物なので疑わしい」「脇書を文のまま読めば、弥四郎国重は『本門戒壇之願主』なのであって、本尊の願主ではない」「脇書によれば、弥四郎国重こそが、この脇書きを書いた本人である」などといった疑義を挙(あ)げ、大御本尊が後世の偽作(ぎさく)であるかのような邪説を提唱しているものもあるが、どれも無責任な戯言(たわごと)に過ぎない。以下に破折しておく。
 まず、戒壇の大御本尊の願主「弥四郎国重」殿の氏素性であるが、今日においては、それが、熱原法難初期の弘安2年8月に、謗法者により斬首(ざんしゅ)された法華衆徒・「弥四郎」(御書P1404)のことであったか、あるいは熱原三烈士の1人・神四郎は、兄を弥藤次といい、弟が弥五郎・弥六郎というから、元の名は「弥四郎」で、かつ武家の出で「国重」という名を持っていたのか、はたまた斬首された神四郎・弥五郎・弥六郎の名前の1文字ずつを取って「弥四郎」とされたか、詳細を明らかに知ることはできない。
 だが、いずれにしても、日蓮大聖人の御境界において、弥四郎国重をはじめとする強信の法華講衆を戒壇の大御本尊の願主とされたことにつき、否定すべき根拠とはなりえない。
 もし今日、願主の氏素姓が不明だからということを理由に、その御本尊も偽作ではないか、などというのであれば、現存する大聖人御直筆の御本尊のうち、授与者の素性が不明な御本尊は多数存するが、それはどうするのか。授与者の素性がハッキリしない御本尊は偽作である、などと言えないことはむろんである。
 また、後世、もし、不届きな者が御本尊を偽作するとしたら、それこそ四条金吾殿や南条時光殿など、よく知られている人物を願主に選ぶはずである。わざわざ氏素姓のはっきりしない「弥四郎国重」という名を使うはずもない。
 むしろ「弥四郎国重」の名が使われている、ということは、大御本尊が後世の偽作などではない証(あかし)の1つといえよう。
 次に「脇書を文のまま読めば、弥四郎国重は『本門戒壇之願主』なのであって、本門の本尊の願主ではない」との疑難について。
 そもそも本門戒壇の大御本尊について、第26世日寛上人は、
 「本門戒壇の本尊を亦は三大秘法総在の本尊と名づくるなり」(六巻抄P82)
と示されている。つまり、「三秘総在の義」(本門の本尊の在〈おわ〉します処が本門の戒壇であり、本門の本尊に向かって唱え奉る題目が本門の題目である。故に本門の本尊に、戒壇も題目もすべて包含〈ほうがん〉されている、との意義)により、大御本尊の当体には、そのまま本門戒壇の意義が具(そな)わっている。
 されば、大御本尊の願主を「本門戒壇之願主」と記すことについて、何の不都合もあろうはずがない。
 妄弁者は、こうした三秘総在の義すら理解していない頭で、やみくもに疑難を加えているにすぎないのである。
 最後に、「脇書によれば、弥四郎国重こそが、この脇書きを書いた本人である」との疑難について。
 おそらくは、脇書きの末文の願主の直後に「敬白」とあるのを見て、この脇書きは、願主が敬って白(もう)した文である、と解釈し、このような疑義を考えついたのだろう。
 しかし、それならば、この脇書は、
 「願主 法華講衆弥四郎国重 敬白」
と書かれていなくてはならない。
 それが実際には、
 「願主 弥四郎国重法華講衆等 敬白」
と記されている。これでは、弥四郎国重をはじめ大勢の法華講衆が皆で脇書きを書いたことになり、まことに考え難(がた)い文意となってしまう。
 しからば、この脇書の文の正しい拝し方は如何(いかん)といえば、大聖人が「不惜身命の信心を貫いた弥四郎国重はじめ法華講衆等に、称賛の意を表して認(したた)められた文」と拝し奉るべきである。すなわち、願主が敬って白(もう)しているのではなく、大聖人が「敬って白す」と記されたのである。

 以上、願主に拘る疑難を破してきたが、所詮、これらの疑難は、首尾一貫した仏法の正義を浅識をもって捉(とら)え、我見を正当化せんとする妄説にすぎない。加えて、大御本尊を否定するために立てられた邪義である故に、「頭破七分」して支離滅裂となっているのである。
 即刻、大謗法の謬見(びゅうけん)を改めるべきことを再告しておく。