「パッチワーク本尊」なる邪難を破す@

―"河辺メモを悪用した大御本尊への誹謗―
―メモは後の擯斥僧ちの邪難を記録したもの―

(『慧妙』H24.2.16)

 古来より当宗への誹謗誘(ひぼう)は数多く存在するが、その中で特に標的となるのが、戒壇の大御本尊と血脈相伝に関連する事柄である。
 この2つは当宗における宗旨の根幹であり、衆生の成仏に欠くことのできない、信仰上で最も尊崇(そんすう)すべき対象である。
 この大御本尊と血脈相伝が本宗に厳として在(ま)しますことこそ、当宗が正法正義たる実証であり、他宗他門と一線を画す所以(ゆえん)である。
 したがって他門流からすれば、とにかくこの大御本尊と血脈相承について難癖(なんくせ)をつけるのは当然のことといえよう。

 さて、近年、大御本尊に関する疑難がインターネット上にて掲載されている。種々の疑難が存在するなか、現在、最も強く影響を与えていると思われるものに「大石寺の大御本尊はパッチワーク本尊である」という邪義が存在する。
 この「パッチワーク本尊」なる語句は、宗門を批判するサイトにおいて多々見られるが、その内容は、端的(たんてき)にいって当宗の御本尊(特に大御本尊および日興上人筆の板本尊)に対する疑難である。
 ご存じのようにパッチワークとは、布片を縫(ぬ)い合わせて1枚の大きな布を作る手芸方法のことであるが、これを大御本尊の造立に当てはめて、大御本尊はいくつかの御本尊の組み合わせによって作られていると主張し、これを「パッチワーク本尊」等と揶揄(やゆ)するのである。
 この邪義を強く提唱している者のサイトによれば、
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 「河辺メモ」では「お題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆」と、中央題目・花押とその他が別のものであるというのです。つまり、この彫刻(本門戒壇の大御本尊)は文字を寄せ集めて創られたパッチワークであるというのが、その意味です。(中略)中央題目(と花押)以外が重ならないからこそ、パッチワークであることが証明されるわけです。右図は、彫刻に日禅授与漫荼羅から取った輸郭を、それぞれに配置し直したものです。つまり、パッチワークを再現したものです。「河辺メモ」では、四大天王は他のものとしますが、文字の書き癖(ぐせ)を除けば、文字の大きさの比率は日禅授与とさほど変わらないことが、図からわかります。ただし、細かく検証すると、その四大天王、不動愛染は、臨写して使用されている部分もあると私は分析しました
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とある。これを整理してみると、
1.「パッチワーク本尊」との主張の根底には、通称"河辺メモ"があること
2.戒壇の大御本尊と日禅授与の御本尊の写真を入手して検証していること
3.検証の結果、大御本尊は首題と花押は日禅授与の御本尊を元としている、と考えられること
これらの理由から、大御本尊は後世に造立されたと結論づける、というのである。
 そこで、これらの主張を順にあげ、「パッチワーク本尊」なる邪義を破折していく。

 まず第1に、彼らが「パッチワーク本尊」の邪義を提唱するキッカケとなった、"河辺メモ"について。
 この"河辺メモ"については、すでに本紙や宗門各方面より指摘がなされているので参照していただきたいが、今回は「パッチワーク本尊」の破折にあたり、再度、その概略を述べることにする。
 "河辺メモ"とは昭和53年2月7日、日顕上人(当時教学部長)と河辺慈篤尊師が面談し、その際に話し合われた事柄を、のちに河辺尊師が記録したものである。そのなかに、
 「一、戒壇之御本尊之件
戒壇の御本尊のは偽物である
種々方法の筆跡鑑定の結果解った(写真判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ
日禅授与の本尊に模写の形跡が残つている」
とあったことに創価学会が目を付け、「日顕上人が大御本尊を否定した」と歪曲(わいきょく)し、宗門誹謗のネタとしてきた。
 「パッチワーク本尊」の提唱者も、このメモを利用し「本門戒壇の大御本尊は、日禅授与漫荼羅を原本として、臨写・模写・作為された彫刻である」とするのである。
 しかしながら、この"河辺メモ"は、もとより個人のメモである性質上、主語などが欠け、前後の文脈も明確でないため、当事者の真意が伝わり難(がた)い。学会が、このメモを悪意に解釈して喧伝(けんでん)した当時、御当職であられた日顕上人猊下は、
 「いわゆる河辺メモは、客観的な言旨を極めて自己の主観的な形に書き変えた、慈篤房の記録ミスである。則(すなわ)ち、主として創価学会の存在によって生じた日蓮正宗に対する種々の批判中の一環として、御本尊と血脈等に関する疑難悪口があることの内容について、ある時に慈篤房と客観的な話をしたような記憶は存する。
 しかし学会で発表した、あのメモのような諸件についての主張をしたことは断じてないのである」(『大白法』H11.10.1)
と、"河辺メモ"と実際の面談とは、内容に大きな差異がある旨、御指南あそばされたのである。また、河辺師自身も
 「私はこれまで、種々メモを残しておりますが、その方法は、見聞した事柄につき、後に回顧して書いたものが多く、その際、私の性格として、自分の主観に強くこだわり、その趣旨で書き記す傾向があります。従いまして、今回の件における面談の折の記憶を喚起致しますと、当時の裁判や、以前からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難について様々な話が出た中で、それらと関連して、宗内においても、『戒壇の大御本尊』と、昭和45年に総本山へ奉納された『日禅授与の御本尊』が共に大幅の御本尊であられ、御筆の太さなどの類似から、両御本尊の関係に対する妄説が生じる可能性と、その場合の破折について話を伺(うかが)ったものであります。但(ただ)し、この話は強烈に意識に残りましたので、話の前後を抜いて記録してしまい、あたかも御法主上人猊下が御自らの意見として、『本門戒壇の大御本尊』を偽物と断じたかのごとき内容のメモとなってしまいましたことは明らかに私の記録ミスであります」
と、自身のメモの趣旨と当時の記憶を述べられている。
 正式な記録文書ではない走り書き程度の個人のメモを根拠として、大御本尊誹謗の根拠とすること自体、悪意に満ちた策謀であると言わねばならない。
 お二方の説明にも明らかであるが、大御本尊に関するメモの文意は、当時、宗内外から出ていた疑難について、日顕上人が河辺尊師へ話されたものだったのである。
 そして、河辺尊師がその談話の内容を筆記したのは後日のことであり、事実とそぐわない表現があることを示されている。さらに、当時の記憶を喚起され、大御本尊と日禅授与本尊との写真判定をもとに大御本尊を誹謗する輩(やから)が出ており、これについて日顕上人が河辺尊師に注意を促(うなが)された、というのが事の真相なのである。
 これは、本紙ですでに指摘したように、後に宗門から擯斥(ひんせき)される宗内僧侶(現在の正信会)の中に、メモの筆記された当時、戒壇の大御本尊に対する疑難を構える者が存在していたことも、その裏付けである。
 したがって、このメモの内容を根拠に、日顕上人が大御本尊を否定したとか、また大御本尊は後世によって造立されたとする妄説は、すでに粉砕されたといってよい。
 現在、ネット上で出処不明の写真をもとに「パッチワーク本尊」などと難癖をつけている正法誹謗者たちの悪行も、過去の擯斥僧による疑難の蒸し返しに過ぎないことを指摘しておく。
 次号より、「2.戒壇の大御本尊と日禅授与の御本尊の写真を入手して検証」についての破折をしていく。

[画像]:邪難の根拠とされた「河辺メモ」。しかし、そこに記されていたのは、後の正信会僧侶らが囁いていた邪推にすぎなかった!



「パッチワーク本尊」なる邪難を破すA

―「模写」にしては花押を始め大きな相違が―
―その相違は妄弁者自身もはっきり認識―

(『慧妙』H24.3.16)

 前稿においては"パッチワーク本尊"なる主張の要点のうち、
〈1.パッチワーク本尊の主張は通称「河辺メモ」が根底にあること〉について破折した。
 今回は、妄弁者の主張する〈2.戒壇の大御本尊と日禅授与の本尊の写真を入手して検証していること〉〈3.検証の結果、大御本尊は首題と花押は日禅授与の本尊を元としていること〉という邪難について破折していきたい。
 前稿で述べたように、ネット上における"パッチワーク本尊"なる邪義は、故・河邊慈篤尊師の個人的メモである通称「河辺メモ」をキッカケとして戒壇の大御本尊を非難したものであるが、その内容は、"戒壇の大御本尊は日興上人の弟子・日禅師に授与された大聖人真筆本尊などをもとにパッチワーク(繋ぎ合わせ)し造立された"とするものである。そして、"実際にインターネット上において、戒壇の大御本尊と日禅授与の御本尊の写真を比較検証したうえで、首題と花押が全く同じ筆跡である"と結論づけている。
 まず、ネット上において御本尊の写真画像を掲載し、検証する行為そのものについての問題点を述べよう。
 現在、インターネット上の掲示板などでは、教義研鑽の情報交換や単に当宗を誹謗(ひぼう)することを目的として、大聖人御真筆の御本尊や御歴代上人書写の御本尊をみだりに掲載している輩(やから)が多く存在し、なかには、どのようなルートで入手したのか定かでない、出処不明の本尊写真も合まれている。利便性の高いインターネットの普及に伴(ともな)い、謗法行為の実情も、刻々と変化しており深刻化しているのである。
 そもそも、末法衆生の正境となる、本宗格護の大聖人並びに御歴代上人の御本尊について、粗末に取り扱うことは慎(つつし)むべき行為である。ゆえに当宗においては、現在、みだりに御本尊を撮影したり、その写真を公開したりすることを禁じている。
 これは、御本尊を御本仏大聖人の法魂と尊崇する信仰者の立場として、当然の措置といえよう。
 しかし、正法から逸脱したり違背する者からすれば、もはや大聖人の御本尊は、単なる掛け軸や書き物、あるいは宗門誹謗の材料、という程度の認識でしかないのであろう。御本尊の写真を粗末に扱い、不特定多数の者に乱見させている行為は、けっして許されるべきものではなく、厳罰は必定である。
 日興上人は御本尊の取り扱いについて、
 「日興が云はく、此の御筆の御本尊は是(これ)一閻浮提に未だ流布せず、正像末に未だ弘通せざる本尊なり。然れば則ち日興門徒の所持の輩(ともがら)に於ては、左右無く子孫等にも譲り弟子等にも付嘱すべからず。同一所に安置し奉り、六人一同に守護し奉るべし」(御書P1872)
 「日興の弟子分に於ては、在家出家の中に或は身命を捨て或は疵(きず)を被り若しは又在所を追ひ放たれて、一分信心の有る輩(ともがら)に、忝(かたじけな)くも書写し奉り之を授与する者なり」(御書P1872)
と御教示されている。これは当時、大聖人直筆の御本尊を不敬に扱う者がおり、日興上人は、自らの弟子にそのようなことがないよう、本尊の取り扱いに慎重を期すべきことを遺誡(ゆいかい)されたものである。
 現在、ネット上において、御本尊の相貌(そうみょう)を云々して、本宗の御本尊を否定せんとする者達は、それが、すでに大聖人・日興上人の御精神に背(そむ)く大謗法行為であることを知るべきである。
 次に、相貌の類似についてであるが、すでに述べたように"パッチワーク本尊"なる主張が「河辺メモ」や信憑性(しんぴょうせい)のない資料を契機としている以上、相貌についての詳細をいちいち論じるまでもない。 それは大御本尊を無疑曰信(むぎわっしん)に信奉する当宗僧俗からすれば、取るに足らない愚論だからである。
 ただ、これに誑惑(おうわく)される者もいるので、ひとこと付言しておく。
 まず、大御本尊と日禅授与の御本尊の相貌は、共に弘安期の御図顕であるため、類似する点が多いのは当然のことである。
 しかし、よく拝すれば全く異なる相貌、筆致であることは、御隠尊日顕上人猊下が、
 「そこで此の際はっきりしておくことは、本門戒壇の大御本尊様と日禅授与の御本尊とは全く相違しているという事である。よく拝すれば中尊の七字の寸法と全体からの御位置においても、明らかに異なりが存し、また御署名御花押の御文字及びその大きさや御位置、各十界尊形の位置等にも歴然たる相異が存する。そして、もちろん模写の形跡などは存在しない。したがって、御戒壇様と日禅授与の御本尊とを類推すること自体が全くの誤りであり、この事をはっきり述べておくものである」
と、相貌の細かな相違について、甚深なる御指南をくだされている。
 そして現に、"パッチワーク本尊"を提唱した妄弁者自身も、一致するはずの題目と花押の相貌がどうしても合致せず、特に花押について「熟練した達筆の人が自在に筆を奮(ふる)った作であると思う」などと従前の主張を変え、日禅授与御本尊の相貌との異なりを認めているのである。
 このように"パッチワーク本尊"なる主張は、妄弁者の全くの想像によって作り上げられた邪説であり、また、〈3.検証の結果、大御本尊は首題と花押は日禅授与の本尊を元としていること〉との結論も成立していない。

 以上、"パッチワーク本尊"なる邪難を破折してきたが、それにしても大聖人出世の本懐たる大御本尊を「パッチワーク」などと表現するとは、何と罰当たりな不届き者であろうか。だいたい"パッチワーク本尊"と言いたいのなら、パッチワークの元となる複数の本尊を明らかに示さねばならないのに、結局、日禅授与の御本尊(これとて当てはまらないことは前述のとおり)しか指摘できていないのである。
 所詮、正法不信の輩(やから)が大聖人の御魂塊(こんぱく)たる大御本尊をいくら検証しようとも、真意に辿(たど)り付けないことは明白である。それは御書に、
 「此の血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり」」(『本因妙抄』御書P1684)
とあるように、当家においては古来より、本尊にかかわる一切のことは御法主上人の権能であり、他の誰人も立ち入ることのできない領域だからである。ゆえに本尊の大事は、御法主上人の御指南に基づき判断することが肝要であり、その上で、はじめて御本尊の意義・功徳も汲み取ることができるのである。
 ともかく妄弁者には、自身の成仏のためにも、一刻も早く、大御本尊への冒涜(ぼうとく)行為と宗門を非難中傷するサイトを閉鎖し、正法誹謗の悪行を止めるよう忠告をしておく。

[画像]:御本尊の取り扱いには慎重を期すべきが日興上人の御遺誡