創価学会破折
戒壇の大御本尊の御相貌に関する邪難について
―戒壇の大御本尊誹謗の悪書『日蓮と本尊伝承』を破すA―
(漆畑正善 御尊師『大日蓮』H20.4)

 金原明彦(以下、金原)は、悪書『日蓮と本尊伝承』で、出所不明の写真を提示し、戒垣の大御本尊の相貌(そうみょう)について、次のように主張している。
 「大石寺板曼荼羅が(中略)その書体や諸尊の在座名を詳細に検討すると、どうしても『弘安二年十月十二日』ではあり得ない点が存在する」(『日蓮と本尊伝承』19頁)
 要するに、本門戒壇の大御本尊と、他の日蓮大聖人御筆の御本尊の書体や図顕形式とを比較対照すると、本門戒壇の大御本尊に疑義があるというのである。
 今日、大聖人の御本尊として130数幅が伝承されているが、現存する御本尊が大聖人の御本尊のすべてではない。日興上人の『弟子分本尊目録』には、日興上人の弟子・檀越に対して授与された大聖人の御本尊、65幅の記録が残されているが、そのなかで現存するのは20幅に満たない。実に3分の2以上の御本尊が、なんらかの事情で散失してしまっている。これは大聖人の御本尊を厳格に取り扱われた、日興上人の弟子・檀越に限定されてのことであり、他門が大聖人の御本尊を軽視してきた実状を考えると、今日現存する数倍の大聖人筆御本尊が存在したと推定される。
 金原は、本門戒壇の大御本尊の特例的な特徴を挙げては、一々に難癖をつけているが、大聖人の御本尊がかつて何倍も存していたことを考えれば、金原の指摘する例外が、果たして例外かどうかすら判らないのである。
 本門戒壇の大御本尊は、まさに大聖人出世の本懐、宗旨の根幹であり、いかなる誹謗悪口にも微動だにしない。しかしながら、金原のような謗法者の悪口誹謗を放置しておくわけにもいかない。
 そこで、ここでは金原の戒壇の大御本尊誹謗のなかの相貌論(書体や御図顕の形式)を破折しておくこととする。

 もとより、謗法者の言であれば、そこに提示されている資料の真偽や、改ざんの有無なども疑わしいかぎりであるが、さりとて本宗で厳護する真正なる重宝を資料として議論する必要はない。
 金原の如き悪意に満ちた相貌論を破すには、金原の悪書に挙げられた資料、および他宗・他門で刊行された御本尊に関する資料だけで充分である。



第1章 御本尊の「書体」と「図顕形式」
@首題「南無妙法蓮華経」の「経」字について
 金原は大聖人の真蹟研究者として知られる山中喜八の論文(『大崎学報』102号)をもとに、戒壇の大御本尊の首題「経」の字は、
 「第4期に属するもので、すなわち弘安3年3月以降の特徴を示している。つまり、その相貌は、弘安2年10月12日の図顕年月には似つかわしくないのである」(『日蓮と本尊伝承』20頁)
としている。
 山中喜八の説とは、首題の「経」字の旁(つくり)を、その特徴から4期に分類するというものである。
「経」文永8年10月〜建治2年8月
▲第1期文永8年10月〜建治2年8月

「経」建治3年2月〜同年11月
▲第2期建治3年2月〜同年11月

「経」弘安元年3月〜弘安3年3月ただし弘安元年8月を除く
▲第3期弘安元年3月〜弘安3年3月ただし弘安元年8月を除く

「経」弘安元年8月。弘安3年3月〜同5年6月
▲第4期弘安元年8月。弘安3年3月〜同5年6月
(『大崎学報』102号99頁)

 大聖人が戒填の大御本尊を御図顕あそばされた弘安2年10月は、この分類によれば第3期に属すわけであるが、金原は大御本尊の「経」字の旁は「一ツ工」となる第4期の筆法であり、第3期の通例ではないと言うのである。
 しかし山中喜八は、この分類においても、第3期に例外を設けており、『御本尊集』(立正安国会発行)にある大聖人御本尊のうち、弘安元年の御本尊である53番と54番の2幅は時期的に第3期でありながら、筆法としては第4期の特徴であるとしている。
「経」弘安元年8月 日
▲53番 弘安元年8月 日

「経」弘安元年8月 日
▲54番 弘安元年8月 日

 すなわち、山中喜八の説によれば、第3期と第4期の筆法は明確に時期を区分しうるものではないのである。
 ところが金原は、身延山大学の寺尾英智の説を元に、
 「【53】【54】の『経』字の旁は、確かにこの時期異例の『ツ』字型ではあるが、同じ『ツ』型でも、第4期のそれとは異なった筆法を示している。前者は旁の第1画が『つ』型で、続く『ツ』字へと流れるように筆の留まりがないのに対し、後者の第4期は、第1画が力強い『一』型であって、『ツ』字へは折り返した形で運筆される。故に、【53】【54】は、異例とはいえ、まさしく第3期に属す特徴を示しているとみるべきであろう。大石寺板曼荼羅のそれは、明らかに第4期、すなわち弘安3年3月以降の筆法で、第3期の異型とすることは出来ない」(同201頁)
として、山中喜八の例外をも排除し、
 「大石寺板曼荼羅の書体は弘安3年3月以降に初めて見られる書体なのである」(同24頁)
と規定している。
 しかし、山中喜八の分類第3期であっても『御本尊集』60番や64番のように、「経」字の旁の第1画をしっかり「一」と書かれてから折り返している御本尊も存する。
「経」60番 弘安2年2月
▲60番 弘安2年2月

「経」64番 弘安2年6月
▲64番 弘安2年6月

 また、第4期であっても89番のように「一」と「ツ」がはっきり分かれている場合もあれば、92番のように「一」と「ツ」が明確な留めもなく、連続している場合もある。
「経」89番 弘安3年4月
▲89番 弘安3年4月

「経」92番 弘安3年5月
▲92番 弘安3年5月

したがって「経」字の旁の4期の分類は、山中喜八が弘安元年に例外を設けているように、第3期であっても「一ツ」という例外があり、このことをもって戒壇の大御本尊に疑義を呈する根拠とはならない。


A「釈提桓因大王」について
 金原は、
 「釈提桓因は、弘安2年11月までは、基本的に『釈提桓因王』と認められ、同月を境に、以後、『釈提桓因王』と『大』字を付されるようになる。すなわち、『釈提桓因大王』と認められるのは弘安2年11月【69】以降の特徴であって、弘安2年10月にこれが記されるのは不審といえる」(『日蓮と本尊伝承』26頁)
として、大御本尊の御相貌に「釈提桓因大王」とお認(したた)めであることに不審があるとしている。
 しかし、身延山33世日亨の『御本尊鑑』(27番)によれば、身延曽存の弘安2年7月の御本尊に「釈提桓因天王」と認められていたことが記録されている。
 「釈提桓因天王」と「釈提桓因大王」は確認できる資料によって、弘安2年7月以降、同時期に拝されるものであり、また、「大」も「天」もなく、『御本尊集』77番のように「釈提桓因王」とのみ示される場合もある。
71番 弘安3年2月
▲71番 弘安3年2月

77番 弘安3年2月
▲77番 弘安3年2月

つまり大聖人は、弘安2年7月以降は、同時期に「釈提桓因大王」「釈提桓因天王」「釈提桓因王」等と自在に御図顕されるのであり、必ずしも画一的ではない。現に弘安3年2月の御本尊には「釈提桓因大王」「釈提桓因天王」「釈提桓因王」が併存しているのである。弘安2年10月の大御本尊に「釈提桓因大王」とお認めであっても全く不審はないのである。


B「大迦葉尊者」について
 金原は、
 「迦葉尊者』と迦葉に『大』字を冠せられるのは弘安3年3月【81】以降の特徴で、それ以前は一切これを冠することがなく、例外も見られない(中略)大石寺板曼荼羅はまさに『南無迦葉尊者』と刻まれており、やはり、その造立年月日とは矛盾する」(『日蓮と本尊伝承』27頁)
等と述べて、戒壇の大御本尊に「大迦葉尊者」と認められていることが不審であるとする。
 金原の言うように、弘安3年3月以前の御本尊で「大迦葉」と認められた御本尊は、戒壇の大御本尊を除いては現存しない。
 しかし、金原の言う大聖人の御本尊中の「迦葉」についての特徴は、あくまで現存する御本尊によって確認できる範囲のことである。
 御書を拝せば、「大迦葉」といった用例は文永以前にも、文応元年の『唱法華題目抄』(御書223頁)にあり、本門戒壇の大御本尊に「大迦葉」と認められたとしても、なんの不思議もない。
 なお、大聖人の御本尊には、1、2幅にだけ表れる例外も数多く拝される。一例を挙げるならば、『御本尊集』32番の2、建治2年2月5日の御本尊には、二乗として「南無舎利弗尊者等」「南無迦葉尊者等」のほかに「南無大目犍連等」とお認めである。
御本尊集32の2 建治2年2月5日
▲御本尊集32の2 建治2年2月5日

 「大目犍連等」というお認めは、現存の御本尊を見る限り、この1幅のみである。この御本尊は西山本門寺蔵で、日興上人の「日興祖父河合入道に之を申し与う」というお書き入れもあり、大聖人の御真筆たることが間違いないが、相貌としては例外である。
 御書を拝しても、「目連」に「大」を冠し、「大目連」「大目犍連」等と記された用例は皆無である。すなわち大聖人の御書、御本尊を通じて、大聖人が「大目犍連」と認められたのは、この御本尊のみである。
 もし例外を認(みと)めないとする金原のような考えがまかり通ってしまうと、この御本尊まで偽作とされることになる。
 まして「迦葉」については、文永以前に「大迦葉」という用例があるのだから、戒壇の大御本尊に「大迦葉」と認(したた)められていても、なんの不思議もないと言うべきである。



第2章 戒壇の大御本尊と日禅師授与の御本尊
@「首題の筆跡形状、大きさが完全に一致している」について
 金原の主張は、本門戒壇の大御本尊の首題は、日禅師授与の御本尊の首題を模写されたものであるとして、
 「全体的に酷似しているが、何より驚くべきことに、首題の筆跡形状、大きさが完全に一致している」(『日蓮と本尊伝承』66頁)
 「おそらくこの首題は、本紙に薄紙を充ててその輪郭を写し取る、いわゆる『籠抜き』という方法で模写されたのであろうと推定される」(同68頁)
などと言っている。
 日禅師とは、日興上人の弟子で総本山南之坊開基・少輔房日禅師のことで、日禅師に授与された大聖人の御本尊が、現在、総本山に厳護されている。
 金原は「筆跡形状、大きさが完全に一致」(下線は筆者)するなどと言っているが、金原の書に掲載された写真を見ても、戒壇の大御本尊と日禅師授与の御本尊の首題には、「妙」の偏(へん)の部分や「経」の旁の部分、さらにほかのお文字にも、運筆や形状において大きな相違点が認められる。
 また形態の面でも、日禅師授与の御本尊は戒壇の大御本尊に比して、首題が「経」に向かうほど右にずれており、全体として左に傾いている。
 金原も、
 「日禅授与本尊は、料紙の寸法に比して首題が極めて大きく、その首題は『経』字に向かうほど右に寄って傾き、名判は逆にやや左へ寄っているのが特徴であるが、板本尊は、写した首題を料板の中心へほぼ垂直に据えており」(同頁)
と述べているように、その違いを充分認識している。要するに、一方で両御本尊の首題の形が完全に一致していると断定しながら、ここでは相違していることを認めているのである。
 また、御署名・御花押(かおう)についても、
 「名判(御署名・御花押)だが、やはり似ているものの、両者に多少の違いが見うけられる」(括弧内は筆者・同頁)
として、以下のように形が異なることの言い訳をしている。
 「名判も『日』文字が首題の真下に来るよう調整されたと思われる」(同頁)
 「(御花押の)形状も、日禅授与の方は料紙の下端一杯に大書されたために、判形(御花押)の外輪がかなり歪みを見せているが、一回り大きな料板を使用した板本尊は、写し取った首題の大きさに対し書顕スペースに余裕があるため、この歪みを直している」(括弧内は筆者・同頁)
 ここで金原が述べるように、両御本尊の御署名・御花押は明らかに異なっている。金原は、首題は籠抜きだが、首題と同じように中央に大書された御署名・御花押は籠抜きではなく、形を調整したなどと逃げを打っているのである。
 このように、戒壇の大御本尊と日禅師授与の御本尊は、首題はもちろんのこと、御署名・御花押に至るまで、その位置や形まで全く異なっているのである。


A"戒壇の大御本尊は模写されたもの"という邪説を破す
 金原は、「河辺メモ」を曲解し、自説を正当化するために悪用している。
 前号(『大日蓮』H20.3)で川喜多雄秀師が指摘したように、「河辺メモ」には、昭和53年2月7日、当時の教学部長であった日顕上人と、河辺慈篤師が面談した際に話し合われた事柄が記されている。それは、のちに自称正信会となる活動家僧侶達のなかで語られていた内容で、本門戒塩の大御本尊は日禅師授与の御本尊の首題・御花押を模写した偽物であるとする邪説である。
 金原は、この「河辺メモ」に記された邪説が、日顕上人の御発言であると曲解した上で、次のように述べている。
 「阿部日顕の語った『河辺メモ』の内容は、かなり入念な調査検討の上に出された結論であることがわかる」(『日蓮と本尊伝承』70頁)
 「『日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている』のも、籠抜きの作業によって墨が本紙の墨の上に染みたものと考えられ、日禅授与本尊にその痕跡を発見したのであろう」(同頁)
 要するに金原は、「河辺メモ」の記述を奇貨として、日禅師授与の御本尊に模写の形跡が残っているとし、それが戒壇の大御本尊造立(ぞうりゅう)の際に出来たものと妄断しているのである。
 しかし、「模写の形跡」云々について日顕上人は、
 「勿論模写の形跡などは存在しない。したがって御戒壇様と日禅授与の御本尊とを類推すること自体が全くの誤りであり、この事をはっきり、述べておくものである」(『大日蓮』H2.10 6頁)
と御指南され、日禅師授与の御本尊に模写の形跡などないことが明白である。金原の邪説は、もはや水泡に帰していることを知るべきである。
 さらに言えば、「河辺メモ」には、
 「日禅授与の本尊の題目と花押を模写し」と、題目のほかに花押も模写であると明記されていることについて、
 「名判だが、やはり似ているものの、両者に多少の違いが見うけられる」(『日蓮と本尊伝承』68頁)
として、メモにある見解を訂正している。つまり金原は、「河辺メモ」について、一方では「入念な調査検討の結論」としながら、一方では不都合な箇所を、簡単に否定して逃げ道を用意しているのである。これもまた、御多分に漏れず、金原の自家撞着(どうちゃく)に陥(おちい)った姿であり、実に姑息(こそく)な御都合主義を露呈したものであることを指摘しておく。



小結
 ここでは、相貌論を取り上げ破折をしてきたが、そもそも本門戒壇の大御本尊と、日禅師授与の御本尊は、大きさや御相貌の文字の位置など、一々に全く異なった特徴が拝される。金原は、この両御本尊の相違点について、
 「配置調整を伴った臨写」(『日蓮と本尊伝承』68頁)
などと述べているが、これこそが悪意に満ちた全くの妄言であることを付言しておく。日顕上人も御指南されているように「御戒壇様と日禅授与の御本尊とを類推すること自体が全くの誤り」なのである。
 御本仏大聖人が末法万年尽未来際の衆生救済のために、御魂魄を留められた戒壇の大御本尊であれば、その意趣より、他と異なった特徴があっても、なんの不思議もない。我々日蓮正宗の僧俗が、本門戒壇の大御本尊を日蓮大聖人の御魂魄と拝し、信仰の根本対境とする根拠は、大聖人以来、御歴代上人に伝承される血脈相伝の深義と、その御指南に基づくものであり、不確定な凡俗の類推の域を超たものなのである。
 本宗僧俗は、金原の本門戒壇の大御本尊に対する邪難に対し、また同調する邪教徒に対しても、徹底した折伏を行わなければならない。
(うるしばた しょうぜん・大石寺大坊内)