創価学会破折
金原による文献乱用の欺瞞を糾す

金原による文献乱用の欺瞞を糾す(1)
―戒壇の大御本尊誹謗の悪書『日蓮と本尊伝承』を破すC―
(長谷川信達 御尊師『大日蓮』H20.6)

はじめに
 金原は、牽強付会(けんきょうふかい)の論証によって戒壇の大御本尊を偽物と断言し、さらにそれを正当化するために、本宗に伝わる文献史料を俎上(そじょう)に載せて暴論を展開している。
 本稿ではそのなかで特に金原が邪説を吐くために引用した『日興跡条々事』、『家中抄零編』、『御下文』、『御伝土代』の4書に関する欺瞞(ぎまん)をそれぞれ破折し、本宗に伝わる教義信条の正当性を証明するものである。


1.『日興跡条々事』に関する疑難
 @『日興跡条々事』について
 『日興跡条々事』(御書1883頁)は、御開山第2祖日興上人から第3祖日目上人への譲り状である。すなわち、日興上人は、唯授一人の血脈相承を仏法伝持の方軌とされた宗祖日蓮大聖人の御意志に基づき、自らの後継として選定した日目上人に対し、大聖人より御相伝された仏法の一切を御付嘱あそばされた。その証明として遺された相承書がこの『日興跡条々事』である。
 その内容は3箇条から成っている。本門寺建立の時には日目上人を座主とすること、また「弘安二年大御本尊」すなわち大聖人の出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊を日目上人に相伝すること、そして日目上人に広宣流布の根本道場たる大石寺の管理・運営を託し、広布の陣頭指揮を執らしめることである。
 この『日興跡条々事』には、元弘2(1332)年11月10日に認(したた)められた正本とその草案の2本が、総本山大石寺に厳護されている。
 ちなみに金原は、
************************************************************
大石寺所蔵の日興筆と伝える『日興跡条々事』は未だ実物の公開がされておらず、客観的な立場からの分析・検討はなされていない(中略)公開しないのは、何か不都合があるからだと言われても仕方がないのではなかろうか(『日蓮と本尊伝承』132頁)
------------------------------------------------------------
と、いかにも「大石寺が『日興跡条々事』に不都合な点があるから非公開にしている」かのような主張をしている。
 しかし、毎年の御霊宝虫払会では、参詣者に正本の実物が披露公開されており、内容についても、本宗より刊行された各種出版物に原文のすべてが掲載されているのである。よって、金原が僻目(ひがめ)に「何か不都合がある」と邪推する如きことなど、もとより全くない。
 むしろ、こうした先入観に執われた狭隘(きょうあい)な姿勢が象徴するように、金原の立論は、およそまともな文献考証の体を成しているとは言えないのである。


 A「身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊」について
 さて今回、焦点となるのは『日興跡条々事』にある「弘安二年大御本尊」の解釈である。戒壇の大御本尊を否定したい金原にとって、日興上人の時代に戒壇の大御本尊が存在したとなれば、自説はもろくも崩れ去ってしまう。
 そこで金原は、この『日興跡条々事』の文中にある「弘安二年大御本尊」の解釈について、
************************************************************
戒壇板本尊が日蓮の直造ではない以上、本状の「弘安二年大御本尊」が戒壇板本尊を指したものとすると、本状も偽筆ということになってしまう。だが、偽筆でないとすれば、「弘安二年大御本尊」には何か別の正しい解釈があるはずである(『日蓮と本尊伝承』131頁)
------------------------------------------------------------
と、本門戒壇の大御本尊を偽物と断定した上で、その記述との関連性を否定し、強引かつ恣(し)意(い)的に暴論を展開するのである。
 金原は『日興跡条々事』の草案『日興跡為後書置條々事』にある、
●日興カ当身○所給安貳年所給大本尊日興一期之後日目授弘安五年二月二十九日御下文与之(『日興跡為後書置條々事』145頁)
-----------------------
との記述について、
************************************************************
ここで注意したいのは、問題の大御本尊に関する条項が、当初は、
 「日興ヵ当身弘安貳年所給大本尊日興一期之後日目授与之」
と記されていたことである。「弘安二年に給わる所の大本尊」であれば、「弘安二年」はあくまで所給の年であって、御本尊書顕の年を指すものではない。もし本状の弘安2年が図顕年次を意図したものとすれば、当初より、「弘安二年」は「大本尊」の語に直接冠せられて、「弘安二年大本尊」との一語で表されたはずで、たとえ草稿の初筆であっても、「弘安貳年所給大本尊」との表現には成り得ない(同150頁)
------------------------------------------------------------
と言うのである。
 要するに、正本の文面通りに「弘安二年大御本尊」のままでは戒壇の大御本尊がこれに該当してしまうため、どうしても「弘安二年」を御図顕の年ではなく、「所給の年」(給わった時)としたいのである。
 しかし、草案=草稿とは下書きであり、その内容や字句などをさらに検討・推敲(すいこう)し、清書したのが正本であるから、作者の真意は正本にこそある。故に、草案を読み解く場合にあっても、正本の記述からその意を汲むことが大前提である。したがって金原の主張は、既にこの時点で前提から逸脱したものとなっている。
 しかも、この草案の当該箇所を拝せば、それはさらに闡明(せんめい)となる。なぜなら、日興上人御自ら、本文行にある「所給」の2字を棒線で削除し、「当身」と「弘安」の間に「所給」を挿入するよう修正し、「所給」から「弘安」に続くよう文脈を整足されているからである。
 この加筆訂正によって「日興ヵ当身所給弘安二年大本尊」として、「弘安二年」と「大本尊」の文字列が連続し、正本で「日興宛身所給弘安二年大御本尊」と清書された。故に当該箇所の真意は「弘安二年に御図顕された御本尊」にこそある
 あとに述べるように、金原は「給わった年」とすることで、「弘安二年大御本尊」を、弘安2年に賜った文永11年12月の通称「万年救護本尊」と牽強付会する。
 しかし『弟子分本尊目録』や『富士一跡門徒存知事』等の御教示、また大聖人の御本尊に加筆された添え書き、御書の「到来筆(手紙が到来した年時などの書き入れのこと)」の記入など、細微にわたる日興上人の厳格なお振る舞いを拝するとき、文永11年の年号を有する「万年救護本尊」のことを、賜った年時とはいえ、「弘安二年大御本尊」と記されるとは考えられない。
 仮りに「弘安二年大御本尊」が「万年救護本尊」を指すのであれば、「弘安二年に給わる文永十一年の御本尊」と記されるはずであろう。しかし『日興跡条々事』の正本と草案ともに「文永十一年」の文字はなく、「弘安二年」の年号のみが記されている。これは「弘安二年に御図顕された御本尊」であることの揺るがない証拠である。
 さらにもう1点。現在、確認される日興上人書写の御本尊は260幅を超え、日興上人はそのすべてに「書写之」と認めて、大聖人所顕の御本尊の法体を書写された意義を示されている。そして、それら御本尊の相貌(そうみょう)は、すべて大聖人の大漫荼羅御化導中における、弘安期の究竟の大漫荼羅本尊の相貌であり、中央に「南無妙法蓮華経 日蓮在判」と人法一箇の御内証が書写されている。
 これに対し、文永11年12月の通称「万年救護本尊」は、「南無妙法蓮華経」の首題の下の右端に「日蓮」、左端に御花押が認(したた)められた文永・建治期の御本尊の相貌であり、いまだ人法一箇の意義は究竟されていない。さらに、十界の列衆に文上の意義を示される「善徳仏」や「十方分身諸仏」が認められていることなどから、弘安期の大漫荼羅本尊の体相に対すれば、あくまで未究竟の大漫荼羅本尊であると言える。
 こうした日興上人の御本尊書写の事実と、『日興跡条々事』に記された「身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊」とは、本来一致しなくてはならない道理である。とすれば、金原のような、「弘安二年大御本尊」とは通称「万年救護本尊」のことだ、などという珍説はけっして成立しないのである。



2.、『家中抄零編』に関する疑難
 @正本こそが真意
 前述のように、金原は、「弘安二年大御本尊」を「弘安2年に御図顕された御本尊ではなく、弘安2年に給わった大御本尊である」とし、加えて、
************************************************************
『日興跡条々事』が記す弘安2年に宗祖より日興が給わった御本尊とは如何なる御本尊であろうか(中略)これが保田妙本寺に伝来する通称、万年救護本尊ではないか(『日蓮と本尊伝承』152頁)
------------------------------------------------------------
と、その御本尊こそ保田妙本寺蔵・文永11年御図顕の通称「万年救護本尊」であると結論づけている。
 この自らの描くシナリオを完成させるために悪用しているのが、次に挙げる日精上人の『富士門家中見聞稿本零編』(以下、『家中抄零編』と言う)である。
●日興カ宛テ(レ)身ニ所(レ)給ル等ト者是万年救護御本尊事也、今在(二)房州妙本寺当山(一)也。御堂ト者マシマス(二)板御本尊(一)故也、墓所ト者マシマス(二)大聖之御骨(一)故也(『家中抄零編』/『研教』6-361頁)
-----------------------
 金原は、右の記述に目をつけ、あたかも日精上人御自身が「弘安二年大御本尊」を「戒壇の大御本尊」ではなく、「万年救護本尊」と認識されていたかのように述べるのである。
 この『家中抄零編』とは、『富士門家中見聞』(『家中抄』)の草稿本のことで、日亨上人が、
●四囲の加註に捨つべからざる珠玉あり(『研教』6-343頁)
-----------------------
と仰せのように、このなかには『家中抄』正本に記載されていない貴重な御指南が散見されるのは事実である。しかしながら、これらの内容を拝する上で留意しなくてはならないのは、先と同様、いずれも真意は正本にあるということである。この前提に背き、草案である『家中抄零編』の記述をもって正本の記述内容を打ち消すことは、著者の意を欺(あざむ)くことになる。
 ここで、右の記述に関する『家中抄』正本の当該箇所を挙げておこう。
●日興が身に宛て給はる所等とは是れ板御本尊の事なり、今に当山に之れ有り、御堂とは板御本尊有(ましま)す故なり(『家中抄』/(歴全』2-195頁)
-----------------------
 これを見る限り、日精上人は最終的に『日興跡条々事』中の「弘安二年大御本尊」を「板御本尊」、すなわち戒壇の大御本尊であると明確に御指南されているのである。
 したがって、『家中抄零編』においても、右に続く記述に、『日興跡条々事』の「御堂」の語について、
●御堂とは板御本尊有す故なり(『家中抄零編』/『研教』6-361頁)
-----------------------
と、「御堂」には「万年救護本尊」ではなく、「板御本尊」すなわち戒壇の大御本尊が御安置される旨が示されているのである。
 正本が真意であるという基本を逸脱して、金原のように、『家中抄零編』の原案の記述を優先して邪推を巡らすことなど、まさに本末転倒なのである。


 A「万年救護本尊」の記述に関する真意拝考
ここで、日精上人が草案とはいえ、なぜ「日興宛身所給等者是万年救護御本尊事也、今在房州妙本寺当山也」との記述を示されたのであろうか。たいへん恐れ多いが、その御真意について拝察する。

  (1)本門戒壇の大御本尊が基軸
 日精上人が『家中抄』に、
●弘安二年に三大秘法口決を記録せり。此の年に大漫荼羅を日興に授与したまふ万年救護の本尊と云ふは是なり(『家中抄』/『歴全』2-145頁)
-----------------------
と仰せのように、古来、大石寺には万年救護本尊が弘安2年に日興上人に授与されたとの伝承があり、『富士年表』にもそのように記されている。
 ただし、日精上人が『家中抄』の草案執筆時とはいえ、『日興跡条々事』における「弘安二年大御本尊」を戒壇の大御本尊と切り離して、万年救護本尊と記されたのではない。
 その証拠に、第14世日主上人は『日興跡条々事示書』のなかで、御相承の形態について触れられ、
●富士四ヶ寺の中に三ヶ寺は遺状を以て相承なされ候。是は惣付嘱分なり。大石寺は御本尊を以て遺状なされ候、是れ則ち別付嘱唯授一人の意なり。大聖より本門戒壇御本尊、興師より正応の御本尊法体御付嘱(『日興跡条々事示書』/『歴全』1-459頁)
-----------------------
と記されているのである。
 すなわち、他の富士諸山では「遺状」をもって相承とするのに対し、大石寺では大聖人から日興上人へ授与された戒壇の大御本尊、日興上人から日目上人へ授与された譲座御本尊の授受が唯授一人血脈相承の本旨であることを御教示あそばされている。
 この日主上人の『日興跡条々事示書』はその名称からも解るように、『日興跡条々事』の意義の上からお示しになられたものである。
 当書に明らかな如く、大石寺では古来、『日興跡条々事』における「弘安二年大御本尊」は「戒壇の大御本尊」であり、かかる伝承は、血脈を受けられた御法主上人としては至極当然の御認識であったと拝察される。
 その上から、『家中抄零編』における記述を拝するとき、日精上人は、「戒壇の大御本尊」の御相承は血脈相承における最大事であることを大前提とした上で、「遺状」である『日興跡条々事』に示された「弘安二年大御本尊」との記述が、同年に日興上人へ授与されたとの伝承を持つ「万年救護本尊」もこれに該当するとする傍説を、一時的に示そうとされたのであろう。
 しかし、また、誤解を生じる危倶を勘案し、種々考慮され、正本では明確に「板御本尊」と書き改められたと推察する。
 『家中抄』は富士門流の多岐にわたる歴史を網羅した史伝書である。こうした大がかりな史伝書を作成されるなかで、伝承や誤解を生じやすい記述を訂正すべく、何度も推敲(すいこう)を重ね、間違った内容や誤記を排除し、清書したものが正本である。よって日精上人の御真意は『家中抄零編』の記述ではなく、正本にあると見なければならない。
 また、万年救護本尊は、大聖人が身延入山直後の文永11年に御図顕あそばされ、授与書きもなく、他の御本尊には類例を見ない讃文が認(したた)められ、しかも、のちに身延山の別当になられた日興上人に御相伝あそばされた御本尊である。こうしたことからも、身延入山直後から大聖人が住まわれた身延の草庵に御安置されていた可能性が存する。そして弘安2年に戒壇の大御本尊が御図顕されたとなれば、当然、本堂に戒壇の大御本尊を御安置なされることになるから、その時を期して、万年救護本尊を日興上人に授与されたと考えるのは極めて自然である。その証しとして、『家中抄零編』の当該部分には、続いて、
●御堂とは板御本尊有す故なり(『家中抄零編』/『研教』6-361頁)
-----------------------
と仰せのように、「万年救護本尊」と記されながらも、戒壇の大御本尊の存在を前提とされているのである。

  (2)『家中抄零編』当時の史的背景
 また一方で、『家中抄零編』の記述には、当時の万年救護本尊をめぐる富士門下の複雑な状況との関連性も看過できない。
 それは日精上人御在世当時、日郷師が大石寺から持ち出した保田妙本寺所蔵の大聖人御筆御本尊が売りに出されるといった事件が何度か起こった。
 のちに、日精上人が保田妙本寺に宛てて出された書状には、
●然れば、南条七郎二郎時光授与の御本尊売物に之れ出ず。二月八日拝見致し候。此の本尊は日目御相伝にて富士大石寺より外には之れ無き御本尊にて候(中略)是は貴寺の重宝たりと雖も、又大石寺の証文にて候故に是くの如き論議仕り候。貴寺の御霊宝御吟味になられ、御覧あるべく候(中略)ケ様の霊宝の売物に出し申し候は、偏えに興門の瑕瑾に候間、申し進らす所、此くの如くに候(日精上人が保田妙本寺に宛てて出された書状/『歴全』2-319頁)
-----------------------
と記されている。
 すなわち日精上人は、唯一正統たる大石寺の唯授一人血脈相承をお受けになられたお立場より、「南条七郎二郎時光授与」(南条時光)の御本尊が外部に売りに出されている事実を深刻に受け止められ、このような不始末を繰り返す妙本寺に対し、妙本寺所蔵の御本尊が本来は「大石寺の証文」であることを主張されるとともに、御本尊を売り渡すことは「興門の瑕瑾(かきん)」であると仰せられている。
 万年救護本尊は、日興上人、日目上人御在世当時は大石寺に格護されていたが、東坊地をめぐる一連の問題において日郷師が持ち出し、以来、日郷師が開いた妙本寺に伝承されてきた経緯がある。しかし、日精上人の時代に、一時、妙本寺から外部に放出したことがあった。
 この事件に関して『家中抄』に、
●弘安二年に三大秘法口決を記録せり。此の年に大漫荼羅を日興に授与したまふ万年救護の本尊と云ふは是なり。日興より又日目に付属して今房州に在り、比西山に移り、うる故今は西山に在る也(『家中抄』/『歴全』2-145頁・傍線筆者)
-----------------------
とあるように、日精上人が『家中抄』の正本を述作された時点では、当本尊が西山本門寺にあったことが記されている。
 この万年救護本尊は、大聖人から日興上人に授与され、また日目上人が最後の天奏に随身されたとの伝承(『歴全』2-199頁)を持つ御本尊であり、富士門流にとっては法義的にも、歴史的にも非常に重要な意義を有する御本尊である。日精上人は『家中抄零編』述作当時の万年救護本尊をめぐる妙本寺の不穏な動きを察知され、万年救護本尊の散逸を防ぐとともに、本来、万年救護本尊は大石寺の宝物であるとの意を込めて、改めて自らの著書である『家中抄』に「万年救護本尊」の深い意義を記し、このような憂慮すべき事態に警鐘を鳴らされたとも拝察できる。
 何より日精上人の著述である『日蓮聖人年譜』、『家中抄』に明らかなように、その御化導を拝せば、日精上人が本門戒壇の大御本尊を大聖人出世の本懐として拝されていたことは紛れもない事実である。『家中抄』は、富士門流の正統たる証明、すなわち本門戒壇の大御本尊を厳護する大石寺に大聖人以来の命脈が歴然と存在することを後世に伝えるために著された史伝書である。それを、金原のような謗法者が戒壇の大御本尊を否定する根拠として乱用すべきものではなく、しかもその草案の記述をもって主張を構築すること自体、本末転倒である。
 ともかく、日精上人が正本で記されたように、「弘安二年大御本尊」を「板御本尊」たる本門戒壇の大御本尊とされた記述を日精上人の最終決判、御本意と拝すべきであり、この事実は疑う余地がない。
 金原の言い分は、日精上人が本門戒壇の大御本尊を尊崇なされていた事実を覆い隠し、また、その崇高なる意義を一切排除した上で、『家中抄零編』つまり草案の記述を作為的に解釈した戯論(けろん)なのである。


 B「見解の揺れ」について
 金原は、日亨上人が『家中抄零編』の「万年救護御本尊事也、今在(二)房州妙本寺当山(一)也。」の記述に関して述べられた、
●亨云板ノ字ハ精師ニ似タレドモ当山ノ二字ハ全ク因師ナリ又二所ノ消シ方精師ノ例ニアラズ又師ニ万年救護ノ説アルコト年譜ニハ弘安二年ニ態トカケタリ常在寺ニハ万年板本尊ヲ本堂ニ安シタリ(『研教』6-362頁)
-----------------------
との説、また、『富士年表』の「弘安2年」の項の、
●○ 日興に文永十一年十二月の本尊〔万年救護本尊〕を賜う(『富士年表』)
-----------------------
との記事を挙げて、
************************************************************
当の大石寺においてさえ、『跡条々事』の「所給弘安二年大御本尊」について、見解に揺れを残しているのである(『日蓮と本尊伝承』154頁)
------------------------------------------------------------
などと、あたかも宗門には見解の揺れがあるかの如く述べている。
 先にも指摘したとおり、日精上人の御真意は、『日興跡条々事』の「弘安二年大御本尊」を本門戒壇の大御本尊と拝されていたのである。したがって『家中抄零編』の記述を訂正されたのが、日精上人御自身であっても、日因上人であっても正本に照らして、日精上人の真意に沿って改められたと見るべきであろう。
 さらに、『富士年表』の記述は、日興上人が大聖人より万年救護本尊を弘安2年に授与されたという事蹟を、『家中抄』を根拠として載せたものであって、大聖人が戒壇の大御本尊を弘安2年に御図顕されたこととは全く別の事蹟である。それを混交して「見解に揺れを残している」などと得意気にあげつらうこと自体が愚劣であろう。(つづく)

 本文中に引用した文献名には略称を用いた。
 略称および書名は次のとおり。

 研教-富士学林教科書研究教学書
 歴全-日蓮正宗歴代法主全書


金原による文献乱用の欺瞞を糾す(2)
―戒壇の大御本尊誹謗の悪書『『日蓮と本尊伝承』』を破すD―
(長谷川信達 御尊師『大日蓮』H20.7)

1.「御下文」は『法華証明抄』にあらず
 前号でも述べたように、『日興跡条々事』の草案『日興跡為後書置条々事』には、次の記述がある。
●日興カ当身・所給安貳年所給大本尊日興一期之後日目弘安五年二月廿九日御下文授与之(『日興跡為後書置条々事』)
-----------------------
 金原は、「弘安二年」が御本尊御図顕の年ではなく、あくまで日興上人が御本尊を給わった年、すなわち「所給」の年であると主張する傍証として、右の本文の傍らに加筆された「御下文」の語に注目し、弘安5年には「御下文」が大聖人から日興上人に与えられたとする。
 ここで言う「御下文」とは、総本山第17世日精上人の『家中抄』に、
●御下文とは天子より御下文なり(『家中抄』/『日蓮正宗聖典』661頁)
-----------------------
とあり、また、要法寺日辰より総本山第13世日院上人に送られた書状に、
●日目上人は○高開の代官として鳳闕に奏聞し鎌倉の訴状既に四十二度に及ぶ、帝王即ち奏状並に三時弘経の図を得て園城寺の碩学に讎校(しゅうこう)せしむ、碩学上書して云く三時弘経の勘文殆んど以つて符合すと取意、帝王感悦して御下し文を賜ふ、其文に云く朕(ちん)若し法華を持たば富士の麓を尋ぬべしと取意(要法寺日辰より総本山第13世日院上人に送られた書状/『富要』第8巻330頁)
-----------------------
とあるように、日目上人の奏聞に対して天皇より賜った下文(くだしぶみ)と伝えられるものである。
 しかし、金原は、
************************************************************
『草案』に記された「弘安五年二月二十九日」という日付によって、この「御下文」は宗祖が日興に与えられた『法華証明抄』であると考えている(『日蓮と本尊伝承』155頁)
------------------------------------------------------------
として、『法華証明抄』こそが「御下文」であるとの新説を提示し、「ほぼ確定」(同頁)などと自画自賛している。
 たしかに金原が言うように、『日興跡条々事』の草案には「弘安五年二月廿九日御下文」と記されている。また総本山に所蔵する日興上人御書写の『法華証明抄』には、「二月二十八日」の日付の上に、追記として日興上人御自身が「弘安五年二月廿九日」との到来日を書き加えられている。
 「所給」にかこつけて戒壇の大御本尊を否定したい金原は、この追記の到来日を絶好の材料と見たのであろう。
 むろん、肝心の『法華証明抄』の御真蹟には「二月二十八日」という日付のみで「二十九日」の文字はなく、日興上人による到来日の加筆もない。仮りに金原が言うように、「御下文」が『法華証明抄』であった場合、その御真蹟に「弘安五年二月二十九日」を特定できる御記述がないというのは、宗門の重要書を特定する証拠としては、はなはだ脆弱(ぜいじゃく)であり、後代の誠証になりえないという問題が生じる。常識で考えても、譲状に記す場合、『法華証明抄』であれば、実際に御真蹟に記載された「二月二十八日」とするのが当然であると言える。このことからも「御下文」と『法華証明抄』は無関係であることが明白である。
 次に、金原は日興上人が書写された『法華証明抄』の末尾にある「下伯耆房(=伯耆房へ下す)」の「下」の字こそ、『法華証明抄』が「御下文」であることの根拠であると主張するのである。
 この「下伯書房」は日興上人の写本によってのみ拝されるもので、御真蹟には記されていない。おそらく本抄の上紙(包み紙等)に書かれたものであろうが、金原も指摘するように、日興上人が給わった御消息のなかで「下す」の意で宛名等に「下」字をもって与えられたものは、当抄のほかに『伯耆殿御返事』の宛名に、
●伯耆殿
 日秀
 日弁等へ下す(『伯耆殿御返事』御書1399頁)
-----------------------
とあり、また『聖人等御返事』の上紙(日興上人写本)にも、
●下伯耆房(『聖人等御返事』日興上人写本・北山本門寺蔵)
-----------------------
とあって、計3通の御消息ということになる。
 日興上人は、これら3通の御消息に認(したた)められた「下」の字に重要な意義を感じられ、『伯耆殿御返事』『聖人等御返事』の日興上人写本には、追記としてそれぞれ、
●日興数通の御状を給中にも此沙汰時之一(二)通之外、下字給たる御書無(レ)之、余所一字、已三字下也(『伯耆殿御返事』日興上人写本・北山本門寺蔵)
●六人御弟子中ニモ下字給たるハ日興外無(レ)之、日興か給中ニモ此御状(二通)外に無(レ)之、又余所一字有(レ)之(『聖人等御返事』日興上人写本・北山本門寺蔵)
-----------------------
と示されている。
 しかし、これらの注記には、『法華証明抄』のみを御下文として特別視するような文言は一切、見られない。あくまで他の2通と同様の扱いであり、いくら重要な意義を持つ「下」の字があるからといって、『法華証明抄』のみを「御下文」とするのは早計である。なぜなら、金原の論法でいけば、「御下文」は3通、存在することになってしまうからである。
 こうした矛盾を補足するためであろうか、金原はさらに、
************************************************************
書状の上書に「下伯耆房」と記され、日蓮にはめずらしく本文第一紙の袖に「法華経の行者 日蓮(花押)」と、病中とは思えぬ雄渾な墨痕を認められて、まさに当時の「下文」の形態をもって与えられた御状である(『日蓮と本尊伝承』155頁)
------------------------------------------------------------
と述べ、『法華証明抄』が「下文」の形態を備えた特別な文書であると言う。

 『日本国語大辞典』(小学館刊)によれば、下文(くだしぶみ)とは、書き出しに「(某所)下(くだす)」との文言のある文書の総称で、一般に上位機関から下位に向かって出される命令文書のことを言う。

▲鎌倉時代の下文(鎌倉幕府将軍家政所下文)

 しかしながら、『法華証明抄』の御真蹟を拝するかぎり、中世における下文とは、全く性質を異にするものである。
 『法華証明抄』は南条時光に対して与えられた御消息文であり、内容的にも「下文」の形態を備えたものではない。書き出しどころか、本文全体からも「下」の文字は確認できないのである。それが日興上人の写本にある、次の追記によって、その存在を初めて知ることができるのである。
●弘安五年二月廿九日 二月二十八日
御判ハはしかきにあり
下伯書房(『法華証明抄』日興上人写本・総本山大石寺蔵)
-----------------------
 この追記によって明らかなことは、金原も「書状の上書に『下伯耆房』と記され」と言っているように、「下伯耆房」は、本文中の言葉ではなく、上紙に記された文言と言えるであろう。
 また、金原は「日蓮にはめずらしく本文第一紙の袖に『法華経の行者 日蓮(花押)』と、病中とは思えぬ雄渾な墨痕を認められ」として、これを「下文の形態」としている。
 当抄の御真蹟の冒頭には「法華経の行者 日蓮(花押)」と書かれ、これまで編纂出版されてきた諸御書等も本章の冒頭にこれを置いている。しかし、大聖人がこの署名・花押を、何か特別な意図をもって冒頭に書かれたとは判断できない。御消息であれば、署名・花押は末尾に書かれるのが通例であるが、当抄の場合、大聖人は本文に続いて日付まで書かれたところで、紙面が足りなくなったために、第一紙冒頭にある余白部分に戻って署名・花押を認(したた)められたのである。
 このことは、日興上人の追記に「御判ハはしがきにあり」と記されていることからも明白である。署名・花押が最後に認められたことは、「法華経の行者」「日蓮」と本文行の位置、また花押が「法華経の行者」と本文の両方に重なっていることなどから明らかに看取されるのである。


▲『法華証明抄』冒頭部分=大聖人の花押が「法華経の行者」と本文1行目の「末代悪世に法華経を」の両方に懸かっている。



▲『法華証明抄』末尾部分=末尾部分にはほとんど余白がないので、署名・花押を記すことができない。

 御書のなかにこうしたケースは多く存在する。大聖人は、御消息を認められる際、当時の書式に倣(なら)い、文書の袖(第一紙の冒頭部分)には余白を設けられ、その内容や状況によって、文書頭の袖に戻り、追伸や署名・花押を記されていることがしばしば確認され、当抄もまたその一例であると考えられる。


▲末尾に署名・花押を記された例(『南條後家尼御前御返事』〈御書741頁〉冒頭部分)=この御書も末尾部分に余白がなくなり、冒頭に戻って、3箇所に第2紙の続きを記されている。特にBの箇所には署名・花押が記されている。

 また、一般的に見ても、平安から鎌倉時代の書札礼には、『法華証明抄』のような形態の文書を「下文」であるとする例は皆無であり、そのような説はけつして成り立たないのである。
 また、金原は、
************************************************************
日興在世当時は「聖人の御下文」と通称されていたのかもしれない(『日蓮と本尊伝承』159頁)
------------------------------------------------------------
と推測しているが、歴史的に見ても、当抄には、『死活抄』との名称は存在したものの「御下文」と呼称された形跡は全く見当たらない。もし、富士門流上代において、「御下文」としての位置付けがなされ、まして日興上人が直々に命名され、他の御書よりも特別な意義をもって別格な扱いを受けたのであれば、その伝承が残っていても不思議ではないが、伝承の経路をたどってみても、そのような事実は確認できない。
 さらには、日興上人の初七日忌に日目上人・日仙師・日善師の連名で記された『日興上人御遺跡事』には、
●日蓮聖人御影並御下文園城寺申状(『日興上人御遺跡事』/『歴全』1-213頁)
-----------------------
とあり、「御下文」に続いて「園城寺申状」が割注として記されている。たいてい、割注は前に記された内容に関連する場合に施される書式であることから、「御下文」と「園城寺申状」は不離の関係にあると見るべきである。
 また、この、「御下文園城寺申状」の記述の意味として、次のようにも考えられる。
 鎌倉時代の下文には、申請書類の前後の余白や裏などに許認可の意を書き記した「外題(げだい)」という形態もあった。その一例として、養和2(1182)年5月の『吾妻鏡』には、
●廿六日 乙未 金剛寺僧徒が訴の事(中略)今日沙汰を経られ、外題を成し下さると云々(『全訳吾妻鏡』1-126頁)
-----------------------
とあり、相模国の金剛寺僧徒が申状をもって鎌倉幕府に訴えた件について、源頼朝が申状の一部に外題を記して金剛寺に下したと記されている。
 「園城寺申状」にも、あるいは外題がついており、「園城寺申状」に「御下文」そのものが記されていたとも考えられるのである。

▲尼浄智申状

 いずれにしても古来の所伝の如く、日目上人が大聖人の代官として「園城寺申状」を呈したことによって、天皇より下されたのが「御下文」であると見るのが自然である。


2.『三師御伝土代』の「日興上人と御本尊にあそはす」の解釈について
 金原は、『御伝土代』に記された、
●さてあつわらの法花宗二人ハくひをきられおハん、その時大聖人御かんあつて日興上人と御本尊にあそはす(『歴全』1-266頁)
-----------------------
との文について、
************************************************************
右は大石寺4世日道筆とされる『三師御伝土代』の一文である。戒壇本尊を絶対視する人々の一部には、右文中の「その時大聖人御かん(感)あ(有)って日興上人と御本尊にあそ(遊)はす」を、「日興上人とともに御本尊を認められた」と解釈して、これが戒壇本尊を指すと主張するものがある(中略)文脈に沿って素直に読めば、「日興上人と御本尊にあそばす」とは、「『日興上人』と御本尊に認められた」と解釈するのが最も妥当な解釈である(『日蓮と本尊伝承』160頁)
------------------------------------------------------------
と述べている。
 しかし、授与書に「日興上人」と記された御本尊は存在せず、宗門上代の文献にもその片鱗すらうかがえない。これも戒壇の大御本尊との関連性を一切、排除しようと謀(はか)る金原が、その我見をもとに企てた乱暴な会通である。
 そもそも、金原は当該箇所の考察において、『御伝土代』の先に引用した箇所に続く、
●興の同弟子日秀・日弁二人上人かう(号)し給(『御伝土代』/『歴全』1-266頁)
-----------------------
との御文も『聖人等御返事』のことであると断定し、その上で、
************************************************************
「聖人」を「上人」としたり、「御書」を「御本尊」とするなどの他、随所に誤謬や潤色がみられ、正史としての信用度に疑問がある(『日蓮と本尊伝承』162頁)
------------------------------------------------------------
との見解を示している。
 すなわち、「日興上人と御本尊にあそはす」の「御本尊」が「御書」の誤謬(ごびゅう)であり、「上人かうし給」の「上人」は「聖人」の誤記であると言うのである。これ自体、首肯し難い見解であるが、続いて金原は、
************************************************************
「日興上人」と認められた御本尊があったのかもしれないが、当文が戒壇の板本尊を指すとするのは、到底無理な話である(同頁)
------------------------------------------------------------
と記し、さらに当該箇所の注記には、
************************************************************
この時(『御伝土代』執筆の時)には、この「日興上人」と認められた御本尊が存在していたのかもしれない。実際、宗祖御本尊に「日頂上人授与之」の例があり(『本尊集』【53】)、日興にあったとしても不思議はない。筆者は、同日書顕と推される『本尊集』【54】にその可能性を感じている(同206頁)
------------------------------------------------------------
と言う。
 すなわち、『御伝土代』の記述を「誤謬」「潤色」としながらも、これに該当する御本尊の考察をしているのである。
 しかし、本尊集53番の御本尊は弘安元年8月の御図顕であり、「大聖人御かんあつて日興上人と御本尊にあそは」されたのは法難の渦中である弘安2年10月のことである。よって、双方に関連性がないことは一目瞭然である。
 金原の論法でいけば、熱原法難における功績から弘安2年10月に日興上人に対して初めて上人号の認められた御本尊が授与されたはずであり、弘安元年授与の御本尊がこれに該当するわけがない。しかも『御伝土代』の記述を「誤謬」「潤色」と見ているのであるから、金原の主張は論理的に破綻(はたん)を来たしている。
 要するに、金原の所論は本門戒壇の大御本尊偽作説に立脚するが故に、このような整合性に欠けた牽強付会(けんきょうふかい)のものになるのである。
 『御伝土代』の「日興上人と御本尊にあそはす」との記述は、本門戒壇の大御本尊御図顕における尊い伝承であり、当該御文はその甚深なる意義の上から拝すべきなのである。


お わ り に
 以上、金原の文献乱用に対する破折をしてきたが、最後に付言すれば、『法華証明抄』に関する金原の論証は、何も独自の新説ではない。自称正信会の発行する『継命』紙の記事にヒントを得た二番煎じである。それを、あたかも自分が発見したかのように論じている辺りが、実に校滑(こうかつ)であり、滑稽(こっけい)である。
 とはいえ、金原のように、いたずらに文献を乱用し、富士門流に伝わる珠玉の伝承を、都合のよいように捏造(ねつぞう)することは許し難い所業であり、これは直ちに御開山日興上人に対する冒涜(ぼうとく)行為になることを念記しておきたい。