「大御本尊を造立する資力はなかった」との暴論を破す@

―身延周辺の楠木には輸送コストなど不要―
―極貧どころか百人余の人々を十分賄(まかな)えた―

(『慧妙』H25.5.16)

 これまでインターネット上にみられる大御本尊に対する疑義(ぎぎ)・誹謗(ひぼう)をあげ破折をしてきた。
 ネット上の誹謗者には、創価学会員をはじめ元日蓮正宗信徒や日蓮宗系に属していた者など、過去にいずれかの宗派、教団に属し、そこから独立した者が多いように思う。この者達は、いずれも邪意邪見による主観的な見方でしか物事・歴史を判断できず、まさに「毒気深入(どっけじんにゅう)」の姿を露呈(ろてい)している、といってよい。
 この邪誑(じゃきょう)の内容に、創価学会員をはじめ世間一般の人々がいよいよ迷いを深くすることのなきよう、宗門僧俗としてこれらの邪義を徹底して破折することが、時代に即した正法護持の姿であると確信するものである。
 前々回、前回と、戒壇の大御本尊造立に関する誹謗のうち、「鎌倉時代の身延は小氷期であり楠木が自生できる気候ではなかった」「身延周辺には自生の楠木はない」との疑難について破折してきた。その結果、"身延に楠木は育たない"といった疑難は、誹謗者のいい加減な検証態度からくる邪推(じゃすい)でしかなく、全くのデタラメであることが明らかとなった。
 さて、今回からは「日蓮一門に経済力がなかったため、他から楠木を調達することは不可能だった」「日蓮一門に楠木加工・漆(うるし)加工・金箔(きんぱく)加工ができる経済力はなかった」との邪難(じゃなん)について破折をしたいと思う。
 この主張の詳細としては、ネット上に
 「日蓮自身が、身延山中での食うや食わずの極貧(ごくひん)生活をいくつもの遺文(御書)に書き綴(つづ)っているのである」
 「日蓮が身延山にいた9年間で信者から受けた供養金の1年平均ではたった19万2千5百円では、身延山での日蓮の生活は、ほとんど食うや食わずの生活だったことが明らかである」
とあり、さらに『上野殿御返事』(弘安2年12月27日作)の
 「五尺のゆきふりて本よりもかよわぬ山道ふさがり、といくる人もなし。衣もうすくてかんふせぎがたし。食たへて命すでにをはりなんとす」(御書P1437)
の一文を証拠として挙(あ)げ、
 「身延山中での食うや食わずの極貧生活を送っていることを日蓮自身が認めているのである。こういう極限の極貧生活をしていた日蓮には、漆加工や金箔加工を行う経済力は絶無である」
などとしている。

 まず「日蓮一門に経済力がなかったため、他から楠木を調達することは不可能だった」との疑難であるが、そもそも、これは前提が誤っている。
 誹謗者の言う「他から」とは何処(いずこ)のことを指すのか、身延近辺なのか、それとも伊豆や関東など遠距離の場所を指すのか。もし身延から離れた場所のことを指すのであれば、まずはその証拠を出してから主張せよ、と言っておく。
 すでに前号で述べたように、当時の身延近辺には楠木が樹生していたのであるから、わざわざ遠方より調達する必要はない。身延の楠木を使用すれば当然、運搬資金もかからない。
 ゆえに、誹謗者の「他から楠木を調達することは不可能だった」との疑難自体が成り立たないのである。

 次に、「日蓮一門に楠木加工・漆加工・金箔加工ができる経済力はなかった」という邪難について破折していきたい。
 この疑難の根拠として、誹謗者は『上野殿御返事』(弘安2年12月27日作)の
 「五尺のゆきふりて本よりもかよわぬ山道ふさがり、といくる人もなし。衣もうすくてかんふせぎがたし。食たへて命すでにをはりなんとす」(御書P1437)
との一文を挙げ、「食うや食わずの極貧生活を送っていることを日蓮自身が認めている」というのである。だが、本当にそんな状況だったなどと思っているのか。
 この御金言は、寒中の大聖人を思って御供養申し上げた上野殿の信心の篤(あつ)さ、尊さを褒(ほ)めるため、寒中の身延で生活する大変さを強調された御言葉であって、実際に大聖人が「食うや食わずの極貧生活を送って」いたわけではない。
 その証拠に、弘安元年11月の『兵衛志殿御返事』には
 「人はなき時は四十人、ある時は六十人」(御書P1295)
と仰せられて、40〜60人の弟子達が身延へ来て修学していると述べられており、これが翌・弘安2年8月の『曽谷殿御返事』になると
 「抑(そもそも)貴辺の去ぬる三月の御仏事に鵞目(がもく)其の数有りしかば、今年一百余人の人を山中にやしなひて、十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ」(御書P1386)
とあるように、増員して百人を超える大人数を身延に居住させていたことが分かる。
 その大人数を養(やしな)うための資力があったのであれば、大御本尊を漆加工・金箔加工する程度の資力がない、などというはずがないではないか。
 また、もう一言付け加えておくが、誹謗者は現存する御書のみからの資金額を求めているが、紛失した数多(あまた)の御書を含めて考えれば、実際は、さらに多くの御供養(資金)があった、と見るのが当然であろう。
 したがって、"漆加工や金箔加工を行なう経済力は絶無"などという疑難がまったくの邪推にすぎぬことは明らかである。


▲身延山にある大聖人の草庵跡。「草庵」とはいうものの、その十間四面(百坪)という規模は、多くの弟子が大聖人のもとで修行に励んでいたことを裏付けるもの





「大御本尊を造立する資力はなかった」との暴論を破すA

―大御本尊造立に"高額な外注"は不要―
―史実に明らかなこれだけの根拠!―

(『慧妙』H25.6.1)

 つぎに、「楠木(くすのき)、漆(うるし)、金箔の加工」について述べる。
 これらの加工について誹謗(ひぼう)する者は、どこかの有名な仏師に依頼したものとの前提に立って、資金や加工技術のことを考えているのだろう。
 だが、そもそも大御本尊は、弟子の和泉公日法師が彫刻したものと伝わっており、そこに莫大(ばくだい)な費用がかかるはずがない。
 また、傍証として挙(あ)げておくが、大聖人当時、木や紙、ひいては漆や金箔を加工できる職人が、身延付近に在住していた。すなわち『富士一跡門徒存知事』に、
 「甲斐国下山郷の地頭左衛門四郎光長は聖人の御弟子、遷化の後民部阿闍梨を師と為す(帰依僧なり)。而るに去ぬる永仁年中新堂を造立し一体仏を安置するの刻み、日興が許に来臨して所立の義を難ず。聞き已はって自義と為し候処に、正安二年民部阿闍梨彼の新堂並びに一体仏を開眼供養す。爰に日澄本師民部阿闍梨と永く義絶せしめ、日興に帰伏して弟子と為る」(御書P1874)
とあるが、ここに述べられる、永仁年中に新堂並びに一体仏を造立した下山光長とは、甲斐国下山郷(現在の山梨県南巨摩郡身延町下山)を領する地頭である。下山光長が新堂と一体仏を造立できたのは、この下山一門が大工の集団であったからである。
 下山郷に住する下山一門は、鎌倉時代初期から宮大工として活躍していた集団であり、この下山一門が古来より大工集団であったことは、『吾妻鏡』のなかに、
 「廿七日己未。奉二為故竹御所一廻御追善一。武州被レ造二立佛像一。佛師肥後法橋云云。下山次郎入道。三澤藤次入道等為二奉行一」(国史大系三三吾妻鏡後編P153)
と記されているように、嘉禎元年(1235年)5月27日の鎌倉将軍頼経室である竹御所の1周忌の折に、執権北条泰時が仏像の造立を下山次郎入道(光重)らに命じていることからも知ることができる。
 また下山一門は、大聖人滅後、身延離山の折に日興上人に随(したが)って富士へ移り、大石寺建立の一端を担(にな)っている。
 すなわち、大石寺創建にあたっては、大坊・塔中坊を建立し、その後も御影堂、御経蔵、三門など、江戸期の主要な堂宇は、ほぼ、下山大工が携(たずさ)わっているのである。
 このように当時、身延や富士に彫刻技術をもたらし、木材物資を提供したのが、下山大工の存在である。下山大工が大御本尊造立に携わったとの文献資料は存在しないが、下山家が日興上人の教化による有縁の信徒であることを勘案すれば、むしろ当然のことといえるであろう。
 さらにまた、大聖人滅後の身延山に板本尊が存在した、との事実からも、大御本尊造立が可能であったことはみてとれる。身延の古文書には
 「一、板本尊 本尊は祖師の御筆を写すか、下添え書きは第三祖向師の筆なり、下添え書きに云く、正安二年庚子十二月日右日蓮幽霊成仏得道乃至衆生平等利益の為に敬って之を造立す」(『身延山久遠寺諸堂建立記』日蓮宗宗学全書第22巻P56)
とあり、大聖人御筆の御本尊を模写した板本尊が、民部日向によって造立されていたことが判(わか)る。
 さらに中山三世・日祐の『一期所修善根記録』にも、
 「身延山久遠寺同御影堂、大聖人御塔頭、塔頭板本尊 金箔 造営修造結縁」(日蓮宗宗学全書第1巻P446)
と、身延上代の御影堂に板本尊が安置してあったことが記録されている。
 民部日向造立の板本尊と、中山三世・日祐の記した板本尊が同一のものかは定かではないが、いずれにしても大聖人入滅後、程なくして身延久遠寺において板本尊が造立されており、さらに「金箔」と記されているように、それが金箔で加工された板本尊であったことがわかる。
 このような史実からすれば、大聖人御在世においても、板御本尊の造立と、漆・金箔の装飾加工が成し得たであろうことは、想像に難(かた)くない。ことほどさように、大御本尊に対し奉る疑難は、邪推で固まっているのである。
 御本尊を物体視して邪義を振りまく輩(やから)よ、汝等(なんじら)の罪業は、極大深重であると知れ。


▲身延にも上古から板本尊が存在した!(写真は日蓮宗の宗学全書)