血脈相承の尊厳について

―批判者には相承を否定せんとの思惑が―
―その偏った姿勢では真理に到達できず―

(『慧妙』H26.1.16)

 これまで当欄において、ネット上に見られる血脈相承に関する誹謗(ひぼう)内容を種々取り上げ、破折を加えてきた。
 前回は『二箇相承』についての疑難をあげたが、ここで、あらためて相承書の意義と特質について、記したいと思う。
 古今東西、宗門を誹謗中傷する輩(やから)や離脱した者に共通するのが、大聖人より現御法主日如上人猊下にまで伝承される当宗の血脈相承についての疑難である。現代においても、顕正会、正信会、創価学会などの破門された団体が中心となり、インターネット上で血脈相承を否定軽視する大罪を犯しているのである。
 しかして、彼等が、二箇相承やその他の相伝書の文献に疑難を加えてくる底意(そこい)には、当宗の命脈である唯授一人の血脈相承を否定せんとする悪意が存していることを、まず知る必要があろう。
 つまり、唯授一人の血脈相承を否定せんがために、二箇相承を、また本因妙抄や百六箇抄を偽書とするのである。
 このように相承書に疑義を挟(はさ)む輩の根底には、当宗の血脈相承を否定せんとする悪意があり、その上から、我意我見をもって相承書の真偽を結論づけようとする、偏(かたよ)った研究姿勢が見られる。そのような姿勢で、大聖人の仏法の真意にたどり着ける道理はない。このような迷妄に誑(たぶら)かされてはいけないのである。
 いま、これらの輩に対し、相承の意義について簡単に触れておく。
 御隠尊日顕上人猊下は、御相承について、
 「金口嫡々(こんくちゃくちゃく)の相承ということが、実は相承全体を包括した語であり、そのなかには、身延・池上の二箇相承が金紙として存するとともに、さらに時代の経過とともに、金口の内容を金紙の上に書き移してきた意味があるのです」(『大日蓮』560号)
と御指南されている。
 このことからすれば、現在、私たちが文献として拝見できるのは、血脈相承の一端に過ぎないことが分かる。相承の全容は、唯授一人の血脈を受けられた御方のみが知り得る秘法であって、他の者がみだりに相承の是非を云々したり、勝手な口を挟んだりする権限など、微塵(みじん)も存在しないのである。
 第56世日応上人も、
 「仮令、広布の日といへども別付血脈相承なるものは他に披見せしむ可きものに非ず」(研教27巻P456)
と仰(おお)せのように、法体別付属相承が他人に披見を許されない秘伝であることを知るべきである。
 ゆえに、私たちは、血脈相承の上から時々に応じた御指南をくださる御歴代上人に素直に信順し、仏道修行に邁進(まいしん)するべきであり、それが、大聖人の弟子檀那としての信心のあり方なのである。
 インターネットという不特定多数の人々が閲覧する場において、正法誹謗をなす者の罪がどれほど大きいかを知るべきである。