「大御本尊も物質だから、いつか無くなる」?

―御本尊は色心不二の仏の御当体―
―御本尊を支える血脈相承の御歴代―
(『慧妙』H24.9.16)

 前回は「板の御本尊は後世の造立」なる疑難について、本門戒壇の大御本尊が板御本尊である意義を略示しながら、特に他門流の古文書についての曲解や、自己矛盾(むじゅん)による論理破綻(はたん)を指摘して破折した。
 今回は、「物質である以上、戒壇の本尊もいつかは無くなる」との邪義について、インターネット上に喧伝(けんでん)されるいくつかの疑難を挙(あ)げ、これらの邪義を破折したい。
 まずこれに関する主な疑難をみると「大石寺の板本尊も、物質である以上、いつかは無くなってしまう。そのような物質に捉(とら)らわれるのは、唯物の次元に堕(だ)した本尊観ではないのか」「むしろ、目に見える本尊の奥にある、久遠元初の永遠の法こそ根本として信じるべきである」等の疑難が散見している。
 所詮、これらの疑難は、日蓮大聖人出世の本懐である大御本尊を持たない他門流や、大石寺から破門されて根本の大御本尊を失った異流義団体(自称正信会・創価学会等)が、悪意を持って企ててくる妄説である。
 何とも滑稽(こっけい)なのは、不相伝の他門流にしても、大石寺から破門された異流義の徒輩にしても、互いを"誤った宗教"としながらも、互いに酷似(こくじ)した妄説を立てているという点である。
 もっとも、大石寺の本門戒壇の大御本尊に対する嫉善(しつぜん)誹謗(ひぼう)という、同じ根から生じた妄説であれば、酷似しているのも当然かもしれないが…。
 いずれにせよ、これは、まったく法華経の法理を弁(わきま)えない、習いそこねの戯言(ざれごと)にすぎない。
 以下、インターネットに無法に垂(た)れ流されるこれらの戯言に鉄槌(てっつい)を下しておく。

 まず「御本尊に捉らわれるのは、唯物の次元に堕した本尊観ではないのか」との疑難だが、日蓮大聖人は、
●文字は是(これ)一切衆生の心法の顕はれたる質(すがた)なり。されば人のかける物を以て其の人の心根を知って相(そう)する事あり。(中略)然れば文字は是一切衆生の色心不二の質なり(『諸宗問答抄』御書P36,全集P380)
●口決に云はく「草にも木にも成る仏なり」云云。此の意は、草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり。(中略)一念三千の法門をふ(振)りすゝ(濯)ぎたてたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり(『草木成仏口決』御書P522,全集P1339)
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等、要するに、御本尊は単なる物質(色法)ではなく、仏の御悟り(心法)を目に見える形に顕わした、色心不二の仏の当体であり、板であろうが、紙幅であろうが、そこに仏の御悟りが文字をもって認(したた)められれば、尊厳な仏の当体と顕われることを御教示くださっている。
 しかるを、御本尊を"単なる物質"としか見られず、御本尊以外に"永遠の法"を求める、というような輩(やから)は、法華経の一念三千の法理を弁えない「習ひそこないの学者」といわざるをえない。
 その誤りは、すでに第65世日淳上人が、
●彼等はまた、"日蓮正宗では御本尊の板や紙に執(とら)われているから唯物思想だ"といっておるが、事ここに至っては、開いた口がふさがらない。彼等には、草木成仏・非情成仏等、仏法の重大法門は少しも解(わか)っていない。それでは法華を学んだとは、とうてい、いえないことである(『日淳上人全集』P1411)
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と、明確に指摘されているとおりである。
 また、"御本尊も物質である以上、いつかは無くなってしまう"という点については、一見、紙や板からなる色法の側面を見れば、そのように思えるかもしれない。
 だが、御本尊とは、
●日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ(『経王殿御返事』御書P685,全集P1124)
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と仰(おお)せられるように、「日蓮が魂」すなわち日蓮大聖人の御悟りを、文字をもって顕わされたものであるから、たとえ長い年月の中で色法としての御体が朽(く)ちていったとしても、「日蓮が魂」がましますかぎりは、永遠に地上に住されることになる。
 そして、そのための備えとして、
●仏宝・法宝は必ず僧によて住す(『四恩抄』御書P268,全集P938)
●日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す(中略)血脈の次第 日蓮日興(『日蓮一期弘法付嘱書』御書P1675,全集P1600)
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等と御示しのごとく、日蓮大聖人は御自身の悟り(仏の心法)の全てを、血脈相承によって、第2祖日興上人以下、御歴代上人方へ付嘱され、御本尊の書写をはじめ一切の権能を委(ゆだ)ねられたのである。
 されば、"いつかは無くなってしまう"などという心配は、まったく無用というべきであろう。
 なお、これだけ説明しても、まだ"眼に見える御本尊より、久遠元初の永遠の法を信ずる"という輩は、真面目に真実を探求する姿勢を失い、ともかく日蓮正宗大石寺に背反しようとの邪心に凝(こ)り固まった、一闡提人(いっせんだいにん)である。
 そうした人に一言しておくが、仏とは、久遠元初の法を自ら覚知されたが故に仏なのであり、それ以外の凡夫は、仏の教説を通じてしか法を知ることはできないのである。
 大聖人が
●法自(おの)づから弘まらず、人、法を弘むるが故に人法ともに尊し(『百六箇抄』御書P1687,全集P856)
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と仰せられているのも、法は自ら顕われるものではなく、それを覚知された仏によって、初めて世の衆生の前に説き出される、の意である。
 されば、大聖人が覚知遊ばされた久遠元初の法は、大聖人が文字をもって顕わされた漫荼羅御本尊として、我々凡夫にも観見ができるのであり、そこを離れて他に求めることはできえない。いかに"自分は眼に見える御本尊より、久遠元初の永遠の法を信じている"つもりでいても、所詮、それは、真の久遠元初の法体に背(そむ)く、堕地獄・謗法の信仰である、と知るべきであろう。
 さらには、これらの意義をまったく無視して、ネット上で無責任な戯言を列(つら)ねる妄弁者には、早く自らの浅識を改め、一刻も早く、大御本尊への冒涜(ぼうとく)行為を反省懺悔(さんげ)すべきことを忠告しておく。

 所詮、いずれの疑難も、首尾一貫した仏法の正義を無視して、浅識をもって我見をかまえ、それを正当化するために生まれた妄説に過ぎない。
 ことに、大御本尊を否定するために作出された邪義である故に、「頭破作七分」の恐ろしい現罰となって表われることは明らかである。即刻、大謗法の謬見(びゅうけん)を改めるべきことを再告しておく。