―戸田氏は「仏は末法には大聖人以外にいない」と一
―「創価学会仏」は末法に迷い出た「怪物(もっけ)」―
(『慧妙』H28.12.1)
学会は、11月5日付『聖教新聞』において、またも会則の一部変更と前文の改訂を発表した。いわく、
〈今回の改正では、前文に、世界広宜流布を実現しゆく「仏意仏勅」の正統な教団は創価学会しかないことから、未来の経典に「創価学会仏」と記されるとの第2代会長・戸田城聖先生のご指導を加えた〉と。
そもそも、世界に広宣流布すべき根本もなければ、当然、正統な「仏意仏勅」の団体でもない学会が、仏であろうはずがない。
次に、「未来の経典」というが、末法は尽未来際でなかったのか。つまり「未来の経典」を説いて学会を仏と認定する仏とは、誰なのか。その仏がいつ世に現われるというのか。
末法万年尽未来際にわたっての仏は大聖人御一人であり、戸田氏も「仏は末法には日蓮大聖人様以外にいない」(『戸田城聖全集』4巻P106)と断言しているではないか。
また、大聖人の御書を根本というなら、創価学会仏なる仏が御書のどこに記されているのか、教えてほしいものである。
まさに、創価学会仏などというのは夢物語の妄想であり、それを会則前文にしているのである。
戸田氏が言ったとされる内容を考えてみても、「未来の経典」に記されるであろう、ということを今に持ち込み、自ら会則に組みこむなどという所業は、まさに増上慢のなせる業(わざ)としか言いようがない。
かつて池田大作は、増上慢について、
①世間から聖人のごとく尊ばれ、人々の依怙(えこ)依託(えたく)のように思われている
②その内面は悪心で貪欲であり、名聞名利を求めている
③正法の行者を怨嫉(おんしつ)し誹謗(ひぼう)する
④ついには国家権力に訴えて迫害する(『人間と仏法を語る』2巻P294)
と言っていた。これらは全て池田自身のことを言い当てており、このような人間により多くの会員が惑(まど)わされているのだ。
また学会執行部も、池田の名を利用して、ほしいままに会則を変えて会員を欺(あざむ)く増上慢の集団である。
最後に、創価学会には、会則にまで載(の)せた以上、次の点を明確にしてもらいたいものである。
1.戸田氏が「創価学会仏」を明言している文を、証拠として示せ。
2.もし、戸田氏の発言だというなら、池田以外に聞いている複数の人間の証言を示せ。
3.末法の先の「未来」とは、いかなる時代なのか、その文証を示せ。
4.末法の先の「未来」の仏とは誰なのか、また、その仏の出現を予証した金言を示せ。
5.「未来の経典」とは何処で説かれ、何処にあるのかを示せ。
学会はこれらの論難にまともに答えることはできまい。いずれにしても、「創価学会仏」とは、現われる時代を間違えて、末法今時に迷い出た「物怪(もっけ)」(御書P673)というべきであり、その意味からは「創価がっ怪物」とでも改称した方がよかろう。
▲会則変更について報じた『聖教新聞』(11月5日付)
―創価学会の謗法思想、ここに極まる!―
―「威音王仏(いおんのうぶつ)」は一仏の名、教団の名にあらず―
―道理・証文なき自称「仏」は仏法破壊の魔仏!―
(『慧妙』H28.12.16)
【戸田発言が出処というが…】
―全ては池田の妄言から出た!―
すでに報じられているように、『聖教新聞』(11月5日付)でとんでもない発表がなされた。創価学会がまたも会則を変更し、今度は、"創価学会それ自体が仏だ"とする内容を加えた、というのである。少々長くなるが、同記事を以下に引用する。
〈今回の改正では、前文に、世界広宣流布を実現しゆく「仏意仏勅」の正統な教団は創価学会しかないことから、未来の経典に「創価学会仏」と記されるとの第2代会長・戸田城聖先生の御指導を加えた。
「創価学会仏」の意義について、戸田先生は次のようにご指導された。
"大聖人に直結した広宣流布遂行の和合僧団である創価学会は、それ自体、仏そのものであり、未来の経典には『創価学会仏』の名が記されるであろう"
それを踏まえ、第3代会長の池田大作先生は、今夏の全国最高協議会に「御本仏の広大なる慈悲を体し、荒れ狂う娑婆世界で大法を弘通しているのは、学会しかない。戸田先生が『創価学会仏』と言い切られたゆえんである」とのメッセージを贈り、創価学会それ自体が「仏の存在」であることを示した。
このご指導は、学会という和合僧団の出現の意義、宗教的独自性を明確に宣言したものであり、会として未来にわたって踏まえるべき重要な内容であることから、その趣旨を会則に加えたものである。〉
一読してわかるとおり、この「創価学会仏」なる妄説の出処は戸田城聖氏の発言である、とされている。
その戸田氏の発言なるものが何処に残っているか、というと、昭和37年10月18日に行なわれた座談会の席上、池田大作が「戸田会長から聞いた話」として次のように語っている。
〈戸田先生がひとことお話しになりました。たとえば、こういう大勢の学会人がいても、将来、将来といっても、これはいつのことになるかわかりませんけれども、経文が、また仏が出て説かれるときには「創価学会仏」という仏の名前で出ると。
威音王仏(いおんのうぶつ)といろいろあるでしょう。そういう立場で「創価学会仏」という仏になるというそういう意味の、先生のおおせらしいのです。これは不思議です。―中略―(威音王仏の威音王という名前も、今で考えれば、創価学会というような名前で、当時、あったと考えてよいわけですか、との質問に答えて)そういう代表の仏の人物がいたともいえるし、ひとつは教団があったともいえるのです。〉(巻頭言・講義集第3巻)
これ以外に戸田氏の直接の発言記録が見当たらないところを見ると、どうやらこれも、あの「(宗門への)追撃の手をゆるめるな」発言や、「あとはお前だ。頼むぞ」とのエレベーター相承と同様、池田大作による戸田発言捏造(ねつぞう)の疑いが極めて濃厚である。
ともあれ、「創価学会仏」なるものが、仏法上、全く存在する余地のない妄説であることを、以下に明らかにしていく。
【経典では「威音王仏」は一仏の名】
―「教団」の意など全くなし!―
まず第1に、池田大作が「創価学会仏」の裏付けとして挙げた、威音王仏の事について。
池田は、法華経に説かれる威音王仏を「そういう代表の仏の人物がいたともいえるし、ひとつは教団があったともいえる」として、威音王仏を教団そのものの名前(別してはその代表者の名前)であると述べている。
だが、威音王仏の出典である『法華経不軽品第二十』に説かれるのは、
「威音王佛の壽(じゅ)は、四十萬億那由他恒河沙劫(しじゅうせんまんのくなゆたごうがしゃこう)なり。正法世に住せる劫数(こっしゅ)は、一閻浮提(いちえんぶだい)の微塵(みじん)の如く、像法世に住せる劫数は、四天下の微塵の如し。其の佛(ほとけ)、衆生を饒益(にょうやく)し已(おわ)って、然(しか)して後に滅度したまいき。正法像法、滅尽(めつじん)の後、此の国士に於(おい)て、復(また)佛出(い)でたもうこと有りき。亦(また)威音王如来・應供(おうぐ)・正遍知(しょうへんち)・明行足(みょうぎょうそく)・善逝(ぜんぜい)・世間解(せけんげ)・無上士(むじょうじ)・調御丈夫(じょうごじょうぶ)・天人師(てんにんし)・佛世尊(ぶっせそん)と號(なづ)けたてまつる。是(かく)の如く次第して、二万億の佛有(いま)す。皆同じく一號(いちごう)なり」(法華経P498)
との文で、その意は、
「威音王仏の寿命は四十万億那由他恒河沙劫である。威音王仏の説いた法は、正法時代、像法時代と、永く世に住して衆生を利益する。そして正法・像法を過ぎて仏法が滅尽すると、その同じ国土にまた仏が出現するが、その仏も威音王仏と号する。こうして二万億の仏が順次に出現したが、皆、同じく威音王仏と号したのである」
というものである。
普通に拝読すればわかるように、威音王仏とは、教団の名前でもなければ、その代表者の名前でもない。順次に出現した二万億の仏が、皆、威音王仏という名を名乗った(つまり、同一の威音王仏という仏が幾度も世に出現したか、あるいは順次に出現した仏が同じ名を名乗ったか、のいずれか)ということに他ならない。
これを池田は、同じ時空に存在する集団の名前を威音王仏と称したかのごとくスリ替え、「創価学会仏」へと結びつけようとしたわけである。恐れ入った話で、ペテンとは、まさにこういうことをいうのだ。
【一仏一国土が仏法の大原則】
―末法万年に亘(わた)り仏は大聖人御一人のみ―
第2に、末法時代に新たな仏が出現する余地があるかどうかについて。
前の『不軽品』の文を見ると、1人の仏が出世して法を説いた後、正法時代・像法時代を経(へ)て仏法が滅尽すると、また一仏が出世して法を説く、というように、仏は「是の如く次第して」世に出現されるのであり、同一の時空に同時に二仏が出世して法を説くことはありえない(※むろ
ん、ここでいう「仏」とは、法を説く教主としての仏であり、一切衆生に仏性が具わるという意味での、総じての仏を論じているわけではない。学会では、この両者を故意に混同して述べることで、人々を惑乱〔わくらん〕する手法を使うことがあるので注意)。
それは『涅槃経』にも、
「一人出世すれば多人利益す。一国土の中に二の転輪王あり、一世界の中に二仏出世す、といはゞ、是の処(ことわり)有ること無けん」
とあるように、一仏一国土(一仏が教化する時空に二仏・三仏は出世しない)が仏法の大原則だからである。
しかして、今末法の時代はどうか、というと、『報恩抄』に
「日蓮が慈悲曠大(こうだい)ならば南無妙法蓮華経は万年の外(ほか)未来までもながる(流布)べし」(御書P1036)
と仰せあるごとく、この地球上の末法時代は万年を超えて未来の果てまで続き(地球の歴史上では、末法の次の時代が到来することはない)、その教主・一仏は宗祖日蓮大聖人御一人なのである。
ゆえに、大聖人に続く第2の仏が地球上に出世する余地はないし、もし万一、そのようなことがあるとしたら、大聖人の御金言の中にその予証がなくてはならない(釈尊の法華経の中に、大聖人の御出世が予証されていたように)。
仏法はどこまでも道理・証文に基づく証拠主義であり、その証拠もなく、新たな仏を名乗る者が現われたとしたら、それは仏法を破壊する魔仏といわねばならぬのである。
【存在しない前提かち導かれた結論】
―この程度の低い詐欺に騙されるな!―
第3に、戸田発言(?)と池田発言の根本的矛盾(むじゅん)について。
そもそも、戸田氏が述べた(?)とされるのは、未来のいつの日にか新たな仏が出世して法を説く時には、その経文の中に(過去の存在として)「創価学会仏」という名が出るだろう、という話だが、池田らが言うのは、この未だ出世してもいない未来の仏の経文を前提に、今の創価学会(あるいは学会の代表的指導者)を仏であると言い切り、宣言する、というものである。
これは、未だ前提が存在してもいないのに、それをゴマカシして結論を導き出してしまう、という、程度の低い詐欺(さぎ)的論法に他ならない。こんな論理で欺(あざむ)かれてしまうのは、よほどのうっかり者か、盲信者・狂信者の類(たぐい)といわれても仕方あるまい。
以上、述べてきたように、「創価学会仏」なるモノは、経典をねじ曲げ、捏造して造り出された魔仏であり、日蓮大聖人の化導される時代の中に迷い出た物怪(もっけ)であることが明らかである。これ、我等が「創価がっ怪物」と揶揄(やゆ)する所以(ゆえん)である。
学会員各位には、このような謗法思想の極まった創価学会から1日も早く離れ、堕地獄(だじごく)への道から脱(のが)れるべきである。
▲一仏一国土が仏法の大原則。「創価学会仏」には道理も文証もなく、末法に出現する余地はない!