学会、ついに大御本尊との訣別を表明!


学会、ついに大御本尊との訣別を表明!/『慧妙』H26.11.16

大御本尊を信じてきた創価学会員の皆さんへ/『慧妙』H27.1.16

『聖教新聞』1月29・30日「会則改正に関する解説」のお粗末を嗤う/『慧妙』H27.2.16




学会、ついに大御本尊との訣別を表明!

―原田会長の大謗法の本尊義を破す―
―わずかに残っていた信心の欠片(かけら)も吹き飛ぶ―
―かつての学会の教義にも真っ向から違背する邪義―
―会員の皆さん、これでも学会を信じるのですか!?―

(『慧妙』H26.11.16)

 去る11月7日、創価学会は会則の教義条項を変更し、ついに「本門戒壇の大御本尊」との訣別(けつべつ)を決定しました(『聖教新聞』H26.11.8)。
 平成3年に日蓮正宗宗門から破門されて以来、日蓮正宗の御本尊を変造したニセ本尊を印刷して会員に頒布(はんぷ)し、それまで邪宗教として一線を引いてきた諸宗との融和路線をとり、五座三座の勤行をも改変してきた学会が、最後の最後まで訣別を憚(はばか)ってきた「大御本尊」への信心を捨棄(しゃき)したのです。これで、学会の中にわずかに残っていた信心の歯止めも吹き飛び、際限なく大謗法が深まっていくことは確実です。
 学会から流出した内部資料によれば、学会首脳は、この「大御本尊との訣別」で1割くらいの離反者が出てもやむを得ない、と考えているようですが、このような大謗法の暴挙に9割の学会員が盲従(もうじゅう)していくとしたら大変なことです。ますます国土の謗法は色濃くなり、三災七難も深刻化していくことでしょう。
 そこで以下、7日の原田会長の発表の要旨を取り挙(あ)げ、破折を加えて、その誤りを糺(ただ)すことにします。


【一閻浮提総体の大御本尊】
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 (これまでの会則では)会員の皆さまの感情や歴史的な経緯(けいい)を踏まえ、この「一閻浮提(いちえんぶだい)総与・三大秘法の大御本尊」については、「弘安2年(1279年)の大御本尊」を指すとの説明を行っていました。
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 ここで原田会長は、「弘安2年の大御本尊」を「一閣浮提総与・三大秘法の大御本尊」であるとしてきたのは、会員の感情への配慮と、歴史的な経緯を考慮したからだ、としていますが、とんでもない話です。
 日蓮大聖人は『聖人御難事』に
 「此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年〔太歳己卯〕なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計(ばか)りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり」(御書P1396)
と仰(おお)せられ、仏(釈尊)は40余年、天台大師は30余年、伝教大師は20余年、日蓮大聖人は立宗から27年(弘安2年)にして出世の本懐を遂げる、と宣言あそばされました。
 さらに、学会でも尊崇(そんすう)してきた第26世日寛上人は『観心本尊抄文段』に
 「弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり、況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり」(文段集P197)
と、弘安2年の大御本尊こそが大聖人出世の本懐にして、一閻浮提(全世界)の総(すべ)ての人々が信受すべき究極の御本尊である、と明かされています。
 それを今さら、「会員の感情への配慮だった」とか「歴史的な経緯を考慮したからだ」などと言って、この教義の根本を平気で覆(くつがえ)すとは、いったいどういう神経なのか。それでは学会は、初代会長以来、80余年にわたり、数多(あまた)の会員を騙(だま)してきた、ということになるではありませんか。


三秘総在の「本門の本尊」とは】
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 日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の曼荼羅(まんだら)と、それを書写した本尊は、全て根本の法である南無妙法蓮華経を具現されたものであり、等しく「本門の本尊」であります。
 そして、「本門の本尊」に唱える南無妙法蓮華経が「本門の題目」であり、その唱える場がそのまま「本門の戒壇」となります。
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 この原田会長の「三大秘法」についての説明も誤りです。
 原田会長は、「本尊は全て、等しく『本門の本尊』であります」などと、わざと曖昧(あいまい)なことを言っていますが、日寛上人は『依義判文抄』に
 「一大秘法とは即ち本門の本尊なり。此の本尊所住の処を名づけて本門の戒壇と為(な)し、此の本尊を信じて妙法を唱うるを名づけて本門の題目と為すなり。故に分かちて三大秘法と為すなり。(中略)亦(また)三大秘法を合すれば則ち但一大秘法の本門の本尊と成るなり。故に本門戒壇の本尊を亦は三大秘法総在の本尊と名づくるなり」(六巻抄P82)
と、「本門の本尊」とは三大秘法総在の「本門戒壇の本尊」であると明かされています。つまり、弘安2年の本門戒壇の大御本尊以外の本尊は、三大秘法の総てを含む意義を持たない(※その理由は、次に引く『折伏教典』の「戒壇」についての説明を読めば、わかります)ので、「全て等しく本門の本尊」とは言えないのです。
 ゆえに、学会でも『折伏教典』(※S40年発行)の中に
 「日蓮大聖人は、出世の本懐としての大御本尊をご建立になり、弘安5年、ご入滅に先だって、御弟子日興上
人にすべてをご相伝なされた。(中略)
 戒壇とは、広宣流布の暁(あかつき)に本門戒壇の大御本尊を正式に御安置申し上げる本門の戒壇、事の戒壇である。(中略)
 題目とは、この大御本尊を信じ奉(たてまつ)って南無妙法蓮華経と唱え、折伏することである。(中略)
 この大御本尊に対して信心修行に励むところに、成仏得道の道があるので、他には絶対ないのである」(総論・第6章・第3節)
と解説して、大聖人出世の本懐たる「本門戒壇の大御本尊」のみを三大秘法総在の「本門の本尊」とし、「他には絶対にないのである」と断じていました。
 これが草創期からの学会の教義だったのであり、全ての御本尊を「本門の本尊」である、と強調した原田会長の誤りは明らかです。


【大御本尊を離れたら謗法】
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 ある場所に特定の戒壇があり、そこに安置する御本尊が根本の御本尊で、その他の御本尊はそれにつながらなければ力用(りきゆう)が発揮されないという、あたかも"電源と端子"の関係であるかのような本尊観は、世界広宣流布が事実の上で伸展している現在と将来において、かえって世界広布を疎外(そがい)するものとなりかねないのであります。
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 大石寺と大御本尊を否定したいからとはいえ、ずいぶん思い切ったことを言ったものです。この原田会長の説は日蓮大聖人の御遺命に真っ向から違背しています。
 大聖人は『身延相承書』において
 「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(御書P1675)
と仰せられ、広宣流布の暁には富士山下に一切衆生の信仰の中心地たるべき本門戒壇を建立せよ、と御遺命あそばされました。そして、その本門戒壇に安置すべき御本尊を、弘安2年10月12日に御図顕あそばされ、その脇書にはっきりと「本門戒壇」(『富士宗学要集』8巻P177)と示し置かれたのであります。
 この本門戒壇の大御本尊こそ、「一閣浮提総体の本尊」(前出)と仰せのように、全世界の総ての人々が信仰すべき御本尊ですから、その他の、各個人等に与えられた数多の御本尊は、戒壇の大御本尊から分身した一分一分の御本尊に当たることは明らかです(もし、これらの御本尊が、「一閻浮提総体の本尊」から離れてしまったら、その存在意義を失います)。
 ゆえに、学会の『折伏教典』にも
 「この大御本尊に直結したお曼荼羅を拝(おが)む信仰でなければ、絶対に功徳もなく、ましてや、生命の本質をつかんで仏の境涯に立ち、永遠の生命を感得することなどは、とうてい望めないことである。(中略)
 ちょうど電灯にたとえて考えてみると、ヒューズがとんで電流が流れてこない電灯は、電球が切れていないからといって、いくらつけても明るい光を発しないようなもので、電球は本物であっても電流が流れてこなければ光が出ないのである。
 御本尊が大聖人の御真筆であっても、大御本尊に直結しなければ何の功徳もないのである。したがって、富士大石寺の大御本尊を拝まない者はすべて謗法である」(各論・第3章5)
と明記されていました。
 これを見れば明らかなように、原田会長の本尊観こそ、大聖人・日寛上人そしてかつての学会教学によって、木(こ)っ端(ぱ)微塵(みじん)に粉砕されています。
 重ねて言いますが、本門戒壇の大御本尊とつながらない御本尊には、絶対に功徳はなく、これを拝む者は謗法となるのであります。


【学会の流布は正法の破失(はしつ)】
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 法主詐称者の出現によって、永遠に法主が不在となり、宗門のいう法主の血脈なるものも断絶しました。大石寺はすでに大謗法の地と化し、世界広宣流布を目指す創価学会とは全く無関係の存在となったのであります。
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 まことしやかに述べていますが、かつて、第66世日達上人から日顕上人への血脈相承を疑い、「法主詐称である」と誹謗していた正信会の徒輩(とはい)に対し、学会は何と言っていたでしょうか。
 「日顕上人は53年4月15日、先代法主の日達上人から血脈相承を受け、54年7月22日の日達上人御遷化(せんげ)に伴(ともな)い、第67世法主・管長に就任。以来1年半にわたり、彼ら(正信会)も日顕上人を法主と仰いでいたのである。また、彼ら自身、法主の地位や血脈相承に異を唱えることは甚(はなは)だしい謗法なのである、と断じていたのである。」(『創価新報』S58.4.20)
 日顕上人の御登座から、「1年半」どころか12年間もの長きにわたって、日顕上人を法主として仰いできていながら(また、その間、日顕上人への血脈相承を疑った正信会を大謗法と責めておきながら)、いざ日顕上人から学会の誤りを指摘されるや、猛反発し、あげくは正信会と同様に日顕上人への血脈相承を否定する―御都合主義も甚だしいではありませんか。
 そのような無節操にして無信心な学会が、いかに「世界広宣流布を目指す創価学会」などと言ってみたところで、それは日達上人が
 「日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります」(『大日蓮』S49.8)
 「日蓮正宗の教義でなし、大聖人の教義でないものが、世界に広がったからといって、決して、我々は喜ぶべきでないし、大聖人がお喜びになるとは思いません。むしろ正宗の精神がなくなってしまった、消滅してしまったということになるので、非常に悲しいことであり、我々の責任は重大であります」(『大日蓮』S49.8)
と仰せのように、邪義邪信の流布でしかなく、大聖人の仏法を滅ぼすことにしかならない、と知るべきでありましょう。


【学会内には仏罰の現証が続出】
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 魂(たましい)の独立以来、学会員は皆、大石寺に登山することなく、弘安2年の御本尊を拝することもなかったわけであり、各人の御本尊に自行化他にわたる題目を唱えて絶大なる功徳を受け、宿命転換と人間革命を成就し、世界広布の拡大の実証を示してきたのです。まさに、これが会員が実践し、実感しているところなのであります。
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 戒壇の大御本尊から離れても功徳がある、と言い、また、そのように会員にも思い込ませたいようですが、日蓮大聖人は『諌暁八幡抄』に
 「一分のしるしある様なりとも、天地の知る程の祈りとは成るべからず。魔王・魔民等守護を加へて法に験(しるし)の有る様なりとも、終(つい)には其の身も檀那も安穏なるべからず」(御書P1531)
と仰せられ、邪義邪信にも、魔の加護によって一分の利益はあるが、ついにはその身が安穏安泰では済まなくなる、と指摘されています。
 日蓮正宗から破門となり、戒壇の大御本尊と遠離(おんり)してからというもの、この大聖人の御金言どおり、学会幹部の中には、ガンによる若死に、悲惨な事故死、病苦、経済苦などが渦巻いているではありませんか。
 よくよく周囲を見渡して、多くの学会員が何を「実感しているか」心静かに考えてみるべきであります。
 なおまた、この発表の冒頭で原田会長は、「お元気な池田先生・奥様と共に、晴れやかに」云々と言っていますが、池田センセーが脳に重大な障害をきたし、まったく「お元気」でないことは、今や大多数の会員が内心、知っているところであり、現今の学会には「絶大な功徳」どころか大きな仏罰がある、ということは明らかでありましょう。


【勝手な本尊認定は不相伝の証】
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 創価学会は、大聖人の御遺命の世界広宣流布を推進する仏意仏勅(ぶっちょく)の教団であるとの自覚に立ち、その責任において広宣流布のための御本尊を認定します。
 (中略)大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません。
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 これが原田会長の言わんとする結論ですが、そもそも、「御本尊を認定」するなどという発想自体が、自分が御本尊以上の存在になっている、ということに気付かないのでしょうか。そのような思い上がったところに信仰は成立しません。
 なおまた、「広宣流布のための御本尊」についても、今さら原田会長らに「認定」してもらわなくとも、日寛上人の『文底秘沈抄』に
 「富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり」(六巻抄P68)
と御示しのように、すでに日蓮大聖人御自らが、広宣流布の根源の御本尊として本門戒壇の大御本尊を定め置かれているのであります。
 この大御本尊を離れて他の御本尊に心を移す行為について、学会の『折伏教典』には
 「三大秘法抄、観心本尊抄等の御文に照らして拝察するならば、勝手な御本尊を拝むことが大きな誤りであることが、はっきりわかるのである。これは不相伝なるが故に仏法の深義に迷うのであって、不相伝家はみな本尊に迷うということができる」(各論・第3章5)
と破しています。
 したがいまして、本門戒壇の大御本尊を受持信仰しないと表明し、勝手に他の御本尊を「広宣流布のための御本尊」に認定するという原田会長は、仏法の深義に迷う謗法者であり、不相伝の創価学会は本尊に迷っている、というべきであります。
 学会員の皆さんには、今こそ真実を見極め、日蓮大聖人が定められた本門戒壇の大御本尊のもとへ戻られるよう、念願する次第です。

[画像]:学会が本門戒壇の大御本尊から訣別することを表明した『聖教新聞』(11月8日付)

[画像]:東京・信濃町の学会総本部「広宣流布大誓堂」。流出した内部資料では、ここに安置されている64世日昇上人の「学会本部常住」御本尊を「広宣流布のための御本尊」に「認定する」とか―





大御本尊を信じてきた創価学会員の皆さんへ

―原田会長の発表(11月8日付『聖教新聞』)をよく読んでください!―
―「受持の対象としない」との決定は大御本尊への誹謗背反の宣言!―
―大御本尊に敵対する団体に従うのですか?―

(『慧妙』H27.1.16)

 創価学会員の皆さん、昨年11月8日付『聖教新聞』に、極めて重大な記事が載(の)ったのを承知されているでしょうか。
 紙面のうちでも目立たない3面に、内容が一目でわかるような見出しもなく掲載されましたので、うっかり見過ごしてしまった方も多いかもしれません。
 それは、原田会長からの発表という形で、創価学会会則の中の「教義条項」を変更し、これまで80余年間にわたって「日蓮大聖人出世の本懐」としてきた「弘安2年10月12日の本門戒壇の大御本尊」への信仰を否定するものでした。
 戒壇の大御本尊への信仰を否定する、ということは、日蓮大聖人の御金言や第26世日寛上人の御指南に背反(はいはん)するのはもちろん、創価学会がこれまで説いてきた教義を根本から覆(くつがえ)す重大事件です。
 このような重大な教義の変更を、紙面の片隅に目立たぬように載せ、さらには12月14日の衆院選や本年1月2・3日の箱根駅伝の応援などに組織を駆り立て、会員の目を教義の変更から逸(そ)らさせていることは、会員の皆さんに対し不誠実どころか狡猾(こうかつ)ですらあります。
 会員の皆さんには、いま一度、昨年11月8日付『聖教新聞』を開き、学会が公式に、戒壇の大御本尊に対する信仰を否定したことを、確認していただきたいと思います。
 そして、これが信仰上、最後の重大な分岐点になる、ということを理解し、対処を誤らないでほしい、と念願いたします。
 次に、この重大な教義変更については、すでに日蓮正宗側から厳しい批判がなされています(本紙11月16日号参照)が、これに対し学会側が用意した弁明の一々を見ていきましょう。


【「御本尊は全て同じ」ではない】
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学会の弁明@
御本尊は全て同じであり、弘安2年の大御本尊だけを特別視する方がおかしい。大御本尊から離れても、御本尊を信仰しているのだから問題はない。
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 弘安2年10月12日の大御本尊は、日蓮大聖人が『聖人御難事』(御書P1396)において出世の本懐と示された御本尊です。
 その意義は、広宣流布の暁(あかつき)に建立される、一切衆生の信仰の中心地たる本門戒壇に安置されるべき、特別な御本尊であり(ゆえにその脇書〈わきがき〉にハッキリ「本門戒壇」と記されています。=『富士宗学要集』8巻P177参照)、一閻浮提(いちえんぶだい)総体の御本尊(全世界の全ての人々が信仰すべき御本尊)なのです。
 この大御本尊に対すれば、他の各個人等に与えられた御本尊は、一閻浮提総体の大御本尊から分身した一分一分の御本尊に他なりませんので、もし、本体である大御本尊から離れてしまったら、その存在意義も功徳も無くなるのであります。
 ゆえに、御本尊は全て同じ、とするのは大きな誤りです。このことは学会の『折伏教典』にも
◆御本尊が大聖人の御真筆であっても、大御本尊に直結しなければ何の功徳もないのである。したがって、富士大石寺の大御本尊を拝(おが)まない者はすべて謗法である(各論・第3章・5)
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と説明されています。


【「胸中の肉団に……」の意味は】
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学会の弁明A
 御本尊は「我が胸中の肉団におわします」との御金言もあるのだから、御本尊を拝まなくても何の問題もない。
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 その御金言をよく読んでください。それは『日女御前御返事』の一節で、
 「此の御本尊全く余所(よそ)に求むる事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり」(御書P1388)
というものですが、要するに、法華経(※末法の法華経たる南無妙法蓮華経の御本尊のこと)を信じて唱題する衆生の生命の中に、御本尊と同じ仏界の大生命が具現することを教えられたものです。
 さらに、その我らが信受すべき御本尊とは、大聖人の顕(あら)わされた御本尊なら何でもよい(たとえば、身延や池上にある御本尊でもよい)というわけではなく、弘安2年の大御本尊と、そこにつながる御本尊を信受するのでなくてはなりません(その理由は前項参照)。
 弘安2年の大御本尊を信受することをやめてしまっては、我が「胸中の肉団」に御本尊(仏界)が具現することもありえないのであります。ゆえに、かつて、代々の創価学会会長も
◆信者とは、ただ南無妙法蓮華経をお唱へする人であると思ふが(中略)総与の御本尊と称して、大石寺に伝へられる大御本尊を信じ奉(たてまつ)る者が正しい信者である(『牧口常三郎全集』第10巻)
◆ほかの本尊、どこのを拝んでも絶対にだめなのです。弘安2年の10月12日の大御本尊様から出発したものでなければ、法脈が切れてますから、絶対だめなのです(『戸田城聖全集』第4巻)
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と言っていたではありませんか。



【「受持しない」ことが謗法】
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学会の弁明B
学会は弘安2年の大御本尊を否定などしていない。ただ、受持の対象としないだけだ。
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 「受持の対象としない」ということは、信じ行ずる対象としない、という意昧です。日蓮大聖人は『戒体即
身成仏義』の中で
●謗と云ふは但口を以て誹(そし)り、心を以て謗(そし)るのみ謗には非ず。法華経流布の国に生まれて、信ぜず行ぜざるも即ち謗なり(御書P10)
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と仰せられ、口や心で誹謗(ひぼう)していなくても、大御本尊のまします国に生まれながら、大御本尊を信じ行じないことが誹謗背反することになる、との道理を示されています。
 ゆえに、「弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません」との原田会長の発表は、大御本尊に真っ向から誹謗背反することを宣言した大謗法発言であり、それに従う人々は全て堕地獄の業因を刻(きざ)むこととなるのです。


【真の功徳を失った学会員】
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学会の弁明C
学会員はすでに20年以上も登山できず大御本尊を拝んでいないが、それぞれの家の御本尊を拝んで功徳を戴(いただ)いている。だから大御本尊を信仰しなくても大丈夫だ。
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 邪義謗法の信仰にも一分の利益はあります。そのことについて日蓮大聖人は、『諌暁八幡抄』に
●一分のしるしある様なりとも、天地の知る程の祈りとは成るべからず。魔王・魔民等守護を加へて法に験(しるし)の有る様なりとも、終(つい)には其の身も檀那も安穏なるべからず(御書P1531)
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と仰せです、この御文の意は、「邪義謗法の信仰には一分の利益があるように見えても、天地を動かすような(不可能なことを可能にするような)大きな祈りの成就はありえない。魔の加護によって一時的に利益があるように見えても、ついにはその身が安穏安泰ではなくなってしまう」というものですが、学会員の皆さんには、この御金言を周囲の学会員の姿に引き較べて見てください。
 小さな利益らしきことはあっても、皆が驚き感動するような大功徳の体験はなく、会合でもほとんど体験発表が聞かれない。それどころか、長年にわたって信仰してきた学会幹部の中に、ガン等による若死に、悲惨な事故死、家庭不和、病苦、経済苦などが溢(あふ)れているではありませんか。
 日蓮正宗から破門されて20余年、辛(かろ)うじて弘安2年の大御本尊を誹謗してこなくても、血脈を誹謗しニセ本尊を拝んできた結果が、このような有り様です。
 しかも今後は、ついに大御本尊に真っ向から背反するというのですから、もはや何の歯止めもありません。さまざまな人生の困難と苦悩が、そして後生は八大地獄が口を開けて学会員を待ち構えている、と知るべきでありましょう。
 また、これは単なる脅(おど)しで申し上げているのではなく、これには証拠があります。
 学会員の皆さんが今まで「仏さま」と思って尊崇(そんすう)してきた名誉会長・池田大作の姿をご覧ください。
 池田センセーは脳に重大な障害をきたし、すでに会員に肉声を聞かせることも、自分の足で歩く姿を見せることもできず、不気味な表情の写真でしか姿を見ることができなくなってしまいました。
 これこそ大謗法の果報「頭破七分」の姿に他なりません。
 こんな末路を辿(たど)りたくなければ、大御本尊を誹謗する創価学会と袂(たもと)を分かち、1日も早く日蓮正宗の正法正義に帰伏すべきでありましょう。
 学会員の皆さんの、勇気ある決断を祈っています。

[画像]:いかなる理屈を並べようとも、大御本尊を「受持しない」とは捨て去ること!(写真は平成26年11月8日付『聖教』)





『聖教新聞』1月29・30日「会則改正に関する解説」のお粗末を嗤う

―身延等(他門流日蓮宗)と同じになった創価学会!―
―学会は邪心により明文も見えなくなった!―
―大御本尊こそ出世の本懐、根本の本尊―
―相伝を無視しては正義は立たず―
―矛盾だらけ、盗っ人猛々しい学会の立義―

(『慧妙』H27.2.16)


 『聖教新聞』(1月29日・30日)に学会教学部による「会則の教義条項改正に関する解説・」が載(の)った。
 これは先般、会則を変更して大御本尊への信仰を否定したことで、日蓮正宗から厳しい破折を受け、会員の動揺が拡がっているのを抑えるための発表であることは言うまでもない。
 その内容は、わざとわかりにくい表現と構成で会員を煙に巻こうとしている節があるが、詳細に読んでみると、従来の学会の教義解釈(主に、大石寺26世日寛上人によって体系化された、日蓮正宗の相伝教学に依拠している)を完全に捨て去り、身延等の他門流日蓮宗と変わらぬ教義に塗り変えるものであった。
 すなわち、創価学会はこれによって、自らが身延等と全く同等同列になったことを、あらためて世界に向かって表明したのである。
 ことの重大さに気付いていない(煙に巻かれてしまった)会員のため、以下に説明していこう。

 まず、今回、学会教学部が発表した会則の教義条項改正に関する「解説」(以下「解説」と呼ぶ)は、大きく分けて、「御本尊は全て同じである」「学会が自由に本尊を認定できる」という2の柱から成っている。
 最初の「御本尊は全て同じである」との内容は、いうまでもなく、弘安2年10月12日の本門戒壇の大御本尊の意義を否定することを目的としたものである。


【学会の「三大秘法」は身延と大同】
 その第1、「三大秘法」についてでは、
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《今回、三大秘法についての解釈を次のように明らかにした。すなわち、末法の衆生のために日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅(まんだら)と、それを書写した本尊は、すべて根本の法である南無妙法蓮華経を具現されたものであり、等しく「本門の本尊」である。また、「本門の本尊」に唱える南無妙法蓮華経が「本門の題目」であり、その唱える場がそのまま「本門の戒壇」となる》
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等と述べている。
 だが、全ての本尊を等しく「本門の本尊」だというなら、身延や池上にある大聖人直筆の本尊も、その複製の本尊も、全て等しく「本門の本尊」であることになる。このような本尊観を立てるならば、もはや学会は、根本において身延等の日蓮宗と変わらない。
 また、それら「本門の本尊」に題目を唱える場がそのまま「本門の戒壇」である(要するに、「本門の戒壇」としての特定の場所はない)とする戒壇論についても、日蓮大聖人の『三大秘法抄』『一期弘法抄』における御教示とは大違いである。
 大聖人は、一閻浮提(いちえんぶだい)の人々が参詣する信仰の中心地として、霊山浄土に似た最勝の地・冨士山に「本門の戒壇」を建立すべきことを説かれているのである。
 学会の主張は、"富士戒壇(すなわち大石寺)"を否定したい身延等の他門流の邪義と、全く同根である。


【宗祖の「出世の本懐」は明瞭】
 第2に、「出世の本懐」についてでは、大聖人が立宗から27年目(弘安2年)にして出世の本懐を遂(と)げる、と自ら宣言あそばされた『聖人御難事』に対し、
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《大聖人御自身が、本抄において、直接、「弘安2年の御本尊」について一言も言及されていない。(中略)本抄は、「仏」(釈尊)と、「天台大師」「伝教大師」を挙げて、それぞれの出世の本懐を遂げるまでの年数を示し、そのうえで、「余は二十七年なり」と言われて、この27年間、御自身が大難に遭われたことを強調されている。(中略)その意味で、「出世の本懐」の本義は、大聖人の御生涯において、末法万年の一切衆生の救済のために三大秘法を確立されたこと、それとともに、立宗以来27年目に、熱原の法難において、農民信徒たちが大難に負けない不惜身命(ふしゃくしんみょう)の信仰を示したことによって証明された民衆仏法の確立である》
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などと、解(わか)ったような解らないような、無理な解説(怪説)を加えている。
 だが大聖人は、すでに『阿仏房御書』において、曼荼羅御本尊が「出世の本懐」である、と明言しておられ、それに加えて本抄『聖人御難事』で、立宗から27年目の弘安2年に出世の本懐を遂げる、と宣言あそばされたのだから、数多(あまた)の曼荼羅御本尊の中でも「弘安二年の御本尊」こそが真の出世の本懐(本懐中の本懐)であることは明らかである。
 ここまで明確な道理と事実を無視して、《「弘安2年の御本尊」について一言も言及されていない》などと言うのは、大御本尊を否定したいがための大謗法の邪心によって全く物が見えなくなっているのであり、これまた、身延をはじめとする他門流と何ら変わるところがない。


【寛尊を侮(あなず)り身延の仲間入り】
 第3に、「一大秘法・六大秘法」についてでは、
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《三大秘法を合した「一大秘法」、また、三大秘法を開いた「六大秘法」という表現は、御書そのものには説かれていない。(中略)その意味で、日寛教学の一大秘法、六大秘法という用語は、今後用いない》
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などとして、日寛上人が体系的に説かれた三大秘法の開合の義を捨棄する、と述べている。
 だが、そもそも「表現が御書そのものには説かれていない」というなら、御書には、日蓮大聖人が御本仏であることも、大聖人の顕(あら)わされた大曼荼羅が釈尊より遥(はる)かに勝れる御本尊であることも、直接的な表現では説かれていない。それらの正義は、大聖人から日興上人はじめ御歴代上人へと伝わる相伝によって、はじめて明らかになるのであり、それを体系的にまとめられたのが第26世日寛上人の教学である。
 その相伝教学を用いない、ということは、もはや学会が、完全に身延等の他門流に仲間入りすることを宣言したも同然である。
 なお学会は、こうして日寛上人の相伝教学を捨棄しても、「日寛上人書写の御本尊」(※学会製ニセ本尊のこと)を受持するのは問題ない、として
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《なぜならば「日寛上人書写の御本尊」も根本の法である南無妙法蓮華経を具体的に現された「本門の本尊」であるからである》
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などと述べているが、それなら、南無妙法蓮華経を顕わした本尊でありさえすれば、他教団の貫主であれ在家であれ、誰が書いた本尊でも全て拝んでよいことになるではないか。
 学会が身延等と同じになったことは、もはや誰の目にも明らかである。


【「本尊認定」の言い訳で開き直る】
 次に、「学会が自由に御本尊を認定できる」との2つ目の柱であるが、この中で学会は、「御本尊を認定する権能」として
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《いずれの宗教教団も、独立した教団である以上、その教団の本尊、聖典、礼拝施設等を決定する権能を有するのは当然である。(中略)創価学会は、受持の対象としての御本尊を認定する権能を有する》
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と述べ、学会は独立教団だから本尊の選定は自由にできる、と開き直った。
 この論法なら、身延も立正佼成会も皆、独立教団だから《御本尊を認定する権能を有する》ということになる。
 無理に自己の正当化を謀(はか)ろうとした結果、他宗他門の正当性まで主張することになるとは、まったくお粗末きわまりないが、このようにして学会は、いっそう他の邪宗教と馴染(なじ)んでいくのだろう。
 しかして最後に、「学会が認定する広宣流布のための御本尊」について、
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《原点の地・信濃町に、師弟不二、広布の本陣として、「広宣流布大誓堂」を建立され、まさに「法華弘通のはたじるし」としての「大法弘通慈折広宣流布大願成就」とお認(したた)めの「創価学会常住」の御本尊を御安置申し上げた》
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としている。
 だが、その「創価学会常住の御本尊」を書写されたのは、いったいどなたであろうか。学会が「大謗法と化した他教団の大石寺」と罵(ののし)る大石寺の第64世日昇上人ではないか。また、日昇上人が「書写」あそばされたのは、学会のいう「根本の法である南無妙法蓮華経」ではなく、大石寺にまします弘安2年の本門戒壇の大御本尊を「書写」あそばされたのである。
 「他教団」の御法主が書写された御本尊を、その意義を隠して、「広宣流布のための御本尊」として利用する―、盗っ人猛々(たけだけ)しいとば、まさにこのことであろう。
 以上、縷々(るる)述べてきたが、今や創価学会は、完全に身延等の他門流と変わらない宗教に成り果てた(と言えば、他門流教団が気を悪くするかもしれないが)。会員諸氏には一日も早く事実に目覚めてほしいものである。


【学会は権門の輩と同じ"守文の徒"】
 なお、「広宣部」と称する狂信(盲信)的学会員らが、本紙からの破折に対して、主に
 「弘安2年の御本尊が根本の本尊であるということを、人師・論師(※26世日寛上人を指している)の釈ではなく、大聖人の御書で示してみろ」
等という戯言(たわごと)を並べて反論したつもりになっているという。これでは、
 「法華宗では一念三千が法華経の極理だというが、法華経の文には一念三千という語は見当たらない」
との疑難をなした、権宗権門の輩(やから)と同じ守文(しゅもん)の徒(と)である。恥を知れ!と言っておこう。
 また、こうした連中に惑(まど)わされている末端学会員のために、弘安2年の御本尊が根本の大御本尊にましますことを、次号で重ねて論証することにしよう。

[画像]:『聖教』(1月29・30日付)に掲載された「会則の教義条項改正に関する解説」

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▼創価学会が、思考停止した無知な人々によって支えられていることは、誰よりも、あの手この手を使って会員たちから金を巻き上げてきた学会職員(創価官僚)達の方が、よく知っているところであろう▼昨年11月8日に『聖教新聞』紙上に発表した重大な「教義変更」も、学会員たちが、自分自身の頭で考えたり、教団の言動を比較検討したりできないことを熟知した上で、"G0!サイン"となったことは、発表紙面の扱いや時期的タイミングから見ても明らかである▼この教義変更について『聖教新聞』(1月29日・30日付)は、重ねて大変な「解説」を発表した。学会寄りといわれる著名な宗教学者・島田裕巳は、この発表に関して「(学会は)一度、大挙して身延山に参詣に行ったらどうだろうか。(中略)教学部の見解として、大石寺の板曼荼羅(まんだら)だけが『本門の本尊』ではなく、日蓮自筆のすべての本尊はそれにあたるということが示されている。(中略)ということは、学会の教義と一般の日蓮宗の教義の間に、差がなくなったことを意味する」と評しているが、一般会員の大多数は、この重大な事態すら理解していないであろう。要するに、一般会員が編(だま)されている間に、学会は身延化してきてしまったのだ▼『佐高信の昭和史』の中に、「だまされるということは、無知で、迂闊(うかつ)で、思慮(しりょ)が浅いということ。野生動物であれば生き残っていけないことを意味しています。だまされることをよしとして、のうのうと生きていてはいけないのです。だまされないためには、きちんと真実を知らなければならないし、疑念のあることには声をあげなければいけない。だまされ続け、流されていてはいけないのです」とあるが、まさしく学会員に"贈る言葉"であろう。(『慧妙』H27.2.16)