信心の血脈が断絶した根無し草本尊(仮題)
―創価学会が唱える「三宝」の矛盾②―
―本門戒壇の大御本尊を捨てた学会-
―「奉書写之」との御認めに重大意義-
(『慧妙』H29.9.1)
次に、法宝については、いちおう「南無妙法蓮華経の御本尊」としているが、この"御本尊"とはどの本尊を指しているのだろう。ハッキリ言えることは、すでに本門戒壇の大御本尊は信仰の対象から外したのだから、それを指していないことは明らかである。
現在、学会にあっては、学会執行部が本尊を認定することになっている、という。そして、学会本部や会館、個人会館、各家庭にある本尊は、全て学会が認定した本尊なのだそうだ。
すなわち、かつて日蓮正宗宗門から学会及び学会員に下付された御本尊と、平成5年以降、学会で勝手に造(つく)った日寛上入御書写の御本尊の変造・複製品たる「ニセ本尊」を、全て学会の本尊として認定した、というのである。
では、その中で、別して学会が法宝とする本尊はあるのかというと、学会では、
「全て根本の法である南無妙法蓮華経を具現されたものであって、等しく『本門の本尊』である」(『聖教新聞』H27.1.29)
として、どの本尊も同じであるというのだ。
そして、これまで、一大秘法、三大秘法、六大秘法として、本門戒壇の大御本尊の開合の相を示された日寛上人の御教示を、「御書に示されていないから今後は採用しない」と言い捨てたのだ。
おそらく、「これで法宝の御本尊はどれを指すか、という議論から免(まぬが)れられる」と考え、幕引きを図ったのだろう。
だが、そうは問屋が卸さない。
というのは、学会が認定したという本尊の全てに「奉書写之」と認(したた)められているのである。これは、御書にないから関係ない、で済む話ではない。本尊そのものに認められている金言だ。
第56世日応上人が『弁惑観心抄』に
「本尊の説明は、本尊によってなしえざるや。本尊の弁義は直ちに本尊によるべし」(主意・該書P5)
と御教示になっているように、御本尊に示された意義こそ重要である。
しかして「奉書写之」とは、日興上人以下の御歴代上人が、戒壇の大御本尊を御書写された、という証明のために御本尊に認めたものなのである。すなわち、御本尊には能所(本体とその写し)の立て分けがあることを、御本尊そのものが示しているのだ。
したがって、学会が言うような「御本尊は全て同じ」などという道理はないのである。
要するに、根本の本門戒壇の大御本尊を捨てた創価学会の認定本尊は、全て、信心の血脈が断絶した根無し草本尊なのである。それを、いかに言葉巧みに「法宝」なりと言っても、黒は白にはならないと知るべきであろう。
次に、僧宝として、日興上人を掲げ他の日蓮宗系の新興宗教との区別を図っているが、現在の創価学会と日興上人を結びつけるものは何もない。
日興上人から代々正統に受け継がれてきた宗門の教義に信順してこそ、日興上人との繋(つな)がりがあったのだ。
しかるに、大聖人から日興上人への血脈相承は認めても、日興上人以降の唯授一人の血脈を認めないというなら、その時点で僧宝はこの世から消えて、仏法も断絶してしまうことになる。むろん学会へと繋がるはずもない。
にもかかわらず、続けて「日蓮大聖人のお心とお振る舞いを継承し、世界広宣流布を推進している創価学会が僧宝に当たる」などというのだから、暴論という以外にない。
いかに独りよがりで強弁しようとも、大聖人・日興上人からの繋がりのない学会には、大聖人のお心など微塵(みじん)も継承されていないのだ。また、弘める仏法の根本たる大御本尊を捨てたのだから、広宣流布の推進などできようはずがない。
したがって、広い意味でも、創価学会は僧宝には全く当たらないのである。
かつて池田大作は、仰ぐべき三宝を次のように述べていた。
「仏宝とは、末法御本仏・日蓮大聖人、法宝とは御本尊、そして僧宝とは本門弘通の大導師であられる2祖日興上人である。(中略)ここで『僧宝』とは、今日においては日興上人よりの唯
授一人の法脈を受けられた御法主上人貌下であられる。また、御僧侶は全部貌下の弟子である。法類である。ゆえに、いかなる理由があるにせよ、我々はご僧侶をたいせつにしなければならない。」(『聖教新聞』S53.2.26)
"いかなる理由があるにせよ"三宝義を違えてはならないのである。