信心しなくても「人間革命」できる!?(仮題)
―未入信でも「協力者だから顧問に」だって!?―
―信仰を等閑(なおざり)にする、指導者失格の池田―
(『慧妙』H24.8.1)
『新・人間革命』第1巻「新世界の章」で、思わず我が目を疑ってしまう一文に出会ってしまった。
省略しても長文になるので簡単に端折(はしょ)ると、山本伸一こと池田大作が初めての訪米でサンフランシスコに行き、そこで創価学会組織「地区」を結成しようと、現地の夫人を地区部長・地区担当員(創価学会内部で支部長・支部婦人部長に次ぐ役職)に任命する。さらに、未入会(※『新・人間革命』では"日蓮正宗への入信"という言葉は見当たらない)の夫まで、信仰を抜きにして"人間性が素晴らしいから"との理由で「地区の顧問」として役職授与を行なうというのだ。
その一節がこれである。
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伸一は、それから、2人の夫に言った。
「また、ダニエル・ギルモアさんとポール・テーラーさんには、地区の顧問になっていただきたいのです。これまでと同じように、奥様を応援していただくとともに、地区の皆さんを見守り、時には、良き相談相手になっていただければと思います。お願いできますでしょうか」(中略)
ギルモアは仏法の深い法理などはほとんどわかっていない様子だし、テーラーは入会さえしていない。その2人が顧問になるなどという発想は、皆にはなかったからである。
伸一は、同行のメンバーの気持ちを察して、すかさず言った。
「私は、ポールさんのような方を大切にしたいんです。信心をしていないのに、学会をよく理解し、協力してくれる。これほどありがたいことはない。私は、その尽力に、最大の敬意を表したいんです。みんなは、ただ信心しているか、していないかで人を見て、安心したり、不安がったりする。しかし、それは間違いです。その考え方は仏法ではありません。
信心はしていなくとも、人格的にも立派な人はたくさんいる。そうした人たちの生き方を見ると、そこには、仏法の在り方に相通じるものがある。また、逆に信心はしていても、同志や社会に迷惑をかけ、学会を裏切っていく人もいます。だから、信心をしているから良い人であり、していないから悪い人だなどというとらえ方をすれば、大変な誤りを犯してしまうことになる。いや、人権問題でさえあると私は思っているんです」
伸一の思考のなかには、学会と社会の間の垣根はなかった。仏法即社会である限り、仏法者として願うべきは、万人の幸福であり、世界の平和である。(『新・人間革命』第1巻「新世界の章」)
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信仰していない人物を信仰団体の役職に加えるという前代未聞の人事であるが、これが池田独特の、いや、致命的な無信心を示している事例といえよう。
というのは、池田の言う「学会と社会の間の垣根はなかった。仏法即社会である限り、仏法者として願うべきは、万人の幸福であり、世界の平和である」とは、重大な誤りであり、詭弁(きべん)そのものである。
すでに日蓮正宗の勤行を捨てて怠行(たいぎょう)に堕(だ)し、さらに重度の障害を負った池田大作は寿量品の自我偈すら覚えてもおるまい。
寿量品自我偈の最後には「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身(毎〈つね〉に自〈みずか〉ら是〈こ〉の念〈ねん〉を作〈な〉さく何〈なに〉を以〈もっ〉てか衆生〈しゅじょう〉をして無上道〈むじょうどう〉に入〈い〉り速〈すみや〉かに仏身〈ぶっしん〉を成就〈じょうじゅ〉することを得〈え〉せしめんと)」
と説かれている。
すなわち、仏法の目的は衆生に成仏の境涯を得させることであり、単なる「万人の幸福であり、世界の平和」といった平べったいものではない。
簡単な話、信仰を取り違えているのだ。
この書籍のタイトル『新・人間革命』の語源ともなる「人間革命」の意味は、戸田2代会長によれば
●日蓮大聖人によって解き明かされた仏の境涯こそ、もっとも社会も個人も、幸福の境涯なのである。これこそ、人間革命の究極の姿なのである。(『戸田城聖先生巻頭言集』)
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と、成仏と同義で用いられており、現会長の原田稔も、その著『青年と仏法』(第三文明社刊)において
●人間生命の内部世界に宇宙森羅万象の法とも融合する実在の生命世界を仏教では数千年前に発見していたのです。この本源的な深層世界に迫る信仰の結果こそ人間革命なのです(原田稔著『青年と仏法』)
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と、これまた「人間革命=成仏」という図式で説明している。
少なくとも、彼ら創価学会員は信仰修行を行じてこそ自己の幸せ、すなわち成仏の境涯が開ける、と捉(とら)えていたはずである。
ところが、池田の手に掛かると「学会と社会の間の垣根はなかった」だの「人権問題でさえある」だのと、まるっきり信仰のかけらもない。いや、「信心はしていなくとも、人格的にも立派な人はたくさんいる」などと言うにおよんでは信仰の否定と言ってよかろう。
ところで、この池田の惰弱な信仰観は、聖教新聞紙上の『新・人間革命』執筆時から始まったものではない。池田の著『中国の人間革命』の中で、次のように書いている。
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思うに彼らの階級的な史観も、広くは人間革命を指向しているものではないだろうか。私たちと理念や方法において異なる点があるかもしれない。しかし、「人間革命」という言葉に包摂(ほうせつ)される現実の姿を、中国の人々のなかに、そして、青年たちのなかに、私は見た思いがする(池田大作著『中国の人間革命』)
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こうなるとミソもクソもごったである。簡略に図示すれば
「日蓮大聖人の仏法→成仏→衆生の幸せ→信心していなくても幸せな人がいる」
ということになり、信仰否定そのものである。
この池田の浅薄な信仰観に危惧(きぐ)を懐(いだ)かれた御先師第66世日達上人は
●過日、創価学会会長池田先生が訪中して帰国後、毎日新聞に『北京の冬に春をみた』の題名で書かれた一文を読んだ、又章は実に名文であるが、中に周恩来首相との会見の記事があった。(中略)此等(これら)の人びとは苦しい青年の時代を切り抜け、真実の人生を築き上げた偉人賢人というべき人であろう。(中略)偉大な人物は世間にはたまたまあるかもしれないが、即身成仏の出来る偉大な人物となるには、出世間法の大聖人の教えを信じて唱題修行しなければ不可能なことである(第66世日達上人『大日蓮』S50.2)
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と、当時の池田大作の顔を立てつつも、厳格に池田の誤りを糺(ただ)されている。
池田が『中国の人間革命』を執筆したのは昭和49年。それから翌50年1月には日達上人から誤りを指摘されたのに、いまだにこの態(てい)である。
「文章は人なり」というが、池田の場合は「文章が不信心を露呈(ろてい)している」といえよう。
▲自ら異流義の徒であることを公言したに等しい池田の『新・人間革命』
●法華経に背く謗法の者は極善の人為りと雖も猶之を捨つ(『薬王品得意抄』全集P1500)