事実と異なる「日興上人の本尊観」を破す

『原殿御肖息』の背景には波木井実長の非法が

釈尊像造立に執する波木井を糺(ただ)した日興上人

(『慧妙』R1.8.1c

 

日興上人の『原殿御消息』の正意を拝す

 前稿では、大埜氏の

 「後世、日興上人は、脇士(きょうじ)ありの仏像肯定から曼荼羅(まんだら)正意にかわります。しかし、それでも、釈尊否定の書はありません。あるならば提示されてください。むしろ賛美です。言い換えるならば、『脇士なしの釈迦像』を否定しますが、『脇士ありの釈尊像』を否定している書はありません。むしろ肯定です」

との邪説に対し、『富士一跡門徒存知事』をはじめ、いくつかの文献を提示した上で、日興上人の御本尊観と史実を拝し、大埜氏の主張があまりにも真実とかけ離れた一知半解(いっちはんげ)の讒言(ざんげん)であると断じた。

 当稿でも、引き続き大埜氏の上記主張を取り上げ、その邪説たる理由を指摘し破折しようと思う。

 ただし、大埜氏の主張は、一法華講員との間で行なわれた往復メールでの法論という性格上、また法論の主眼から外れた主張でもあったため、大埜氏の持つ日興上人の本尊観について掘り下げての議論は行なわれなかった。

 大埜氏がどのような日興上人の著述等を読んで、このような考えに至ったのかは示されていないので不明だが、同様の考えは過去の日蓮宗の学者達の説と共通しているため、氏はそれを鵜呑(うの)みにしたものであろうか。

 それは、これまで当欄で破折してきた大埜氏による大御本尊否定の数々の邪難を見ても、氏の主張は過去の批判の二番煎じでしかないからである。過去に見られない新たな見解があれば別だが、大埜氏の力量が及ばず、まったく「二番煎じ」の焼き直しという域を出ていない。

 そこで今回からは、大埜氏の邪難の元ネタと考えられる、過去に、日興上人の御本尊観を誤解した人々(特に日蓮宗の学者達)が読み間違えた、『原殿御返事』と『富士一跡門徒存知事』の文を正しく拝し、破折を加えていこうと思う。

 まずは『原殿御返事』の

 「日興が申す様には、責()めて故聖人安置の仏にて候わばさも候いなん。それも其の仏は上行等の脇士も無く始成の仏にて候いき。其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候いぬ。なにのほしさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給うべき」(日蓮正宗聖典P559)

の文について。

 日蓮宗の学者達はこの文について「仏像否定でもなく、また大曼荼羅正本尊思想でもない。寧(むし)ろ仏像造立を肯定し、大曼荼羅所顕の一尊四士をもって本尊奠定(てんてい)の様式と解されていた、とみるべき」「久成の釈尊に四菩薩を副()へて本尊と見ている説が窺(うかが)える」「一尊四士の造立を否定するものではなく、久成の釈尊に四菩薩をそえて造立するは末法正境の本尊とするものである」などと述べる。

 どうしたらこのような解釈になるのか、甚(はなは)だ疑問だが、まったく文意を取り違えており、日興上人の本意に惇(もと)っている。

 彼らが『原殿御消息』を正しく読むことができないのは、第1に、日興上人がこのように述べられた背景、当時の状況を、しっかりと把握(はあく)できていないため、そして第2に、文章の意味を正しく理解できず、自分の都合の良いように解釈しているためであり、この2点を押さえることができれば、先のような邪難を懐くことはないだろう。

 まず、当書の背景には、民部日向による波木井実長への教唆(きょうさ)がある。

 弘安8年に身延に登山した民部日向は、様々な我見や虚構を交えて波木井実長を誘引し、大国阿闍梨(日朗)が大聖人御所持の一体仏を持ち去ったことを理由に、同じ仏(釈尊の一体仏)を新たに造立するよう唆(そそのか)した。

 これを信じて一体仏造立を発願した実長に対し、日興上人は大聖人が大曼荼羅御正意であることを解らせようと、実長に様々な法門の道理を説かれた。

 ところが、日向に顛倒(てんとう)する実長は、初発心の師である日興上人に随(したが)おうとせず、それ以外にも大謗法を犯すに至った。

 日興上人はいよいよ離山を決意され、その経緯と心情を、実長の子息である原殿に吐露(とろ)されたのが本書である。本書は当時の状況のみならず、情状をも拝せられる貴重な文献でもある。

 こうした背景を踏まえて拝すれば、本書の文は、日興上人が「末法正境の本尊」として「久成の釈尊に四菩薩を副へて本尊」とすることを述べた文でも、「仏像造立を肯定」した文でもなく、実長の頑迷(がんめい)な一体仏造立の執着を、何とか善導しようとした文なのである。

 そこで、あらためての文を拝すると、日蓮宗の学者達が見過ごしているのは「責めて故聖人安置の仏にて候わばさも候いなん」と、「第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給うべき」の文である。簡単に言えば、日興上人は「大聖人が安置(所持)されていた仏であれば」と限定された上で、上行等の四菩薩を脇士として副えるならば許されるが、新たに2体目の一体仏を造立するなどは論外である、と述べられているのである。

 本来、日興上人が定められた御本尊は、大聖人御図顕の大曼荼羅のみであるが、日興上人は実長の一休仏への強い執着に接し、"せめて大聖人ご所持の一体仏があったならば、その一体仏は始成の仏であるため、本門の法義に矯正する一分として、四菩薩の脇士を造立して本尊としてもいいが、大国阿闍梨(日朗)に奪われてしまった以上、べつに新たな一体仏を作る必要はない"と述べられたのである。

 つまり、「上行等の脇士云云」の文は実長に対する暫定的な説示なのであり、そもそも大聖人御所持の一体仏は身延になく、かつ、の次下の文には

 「御力契(かな)い給わずば、御子孫の御中に作らせ給う仁出来し給うまでは、聖人の文字にあそばして候を安置候べし」(日蓮正宗聖典P559)

とあって未来に託されているのであるから、日興上人の本意が造像でないことは明らかである。

 したがって、新たに一体仏を造立することは、四菩薩を副えようが副えまいが、そのようなことに関係なく、不可とされているのであり、本書はけっして一体仏及び四菩薩(一尊四士)の造立を肯定することを本意としているわけではない。消極的ではあるが、新たな一体仏を造立しようとする実長の思いを止められた文なのである。

 前稿で拝したように、日興上人に一体仏・四菩薩を造立した事実はないのであるから、いくら日蓮宗の学者達がおかしな解釈、真逆な解釈をしようとも意味はないが、もし大埜氏がこの

誤釈を妄信しているのだとしたら、愚の骨頂である、と教えておくものである。