戸田2代会長の戦争観

―学会歌に見る戸田氏の思想の一端―
―その「愛国心」は牧口氏に引けを取らず―

(『慧妙』H24.10.1)

 創価学会が創立当初から一貫して反戦平和団体である、などというのは全くのまやかしである。本紙でも、過去において何度も報じてきたし、前回の当欄においては、初代会長牧口氏も戦争翼賛者であったことを指摘した。その歴史的事実は絶対に覆(くつがえ)るものではない。
 その牧口氏の意志を継(つ)いだ第2代会長戸田氏はどうだったのだろうか。
 壊滅的なダメージを受けた創価教育学会を、戦後、創価学会として復興した戸田氏が、会員の士気を鼓舞(こぶ)する役目として用いたのが「学会歌」である。以下に、戦後の学会歌のいくつかを紹介しよう。

〈日本男児の歌[戦陣訓の歌]〉
一、日本男子と生まれ来て 戦(いくさ)の庭に立つからは 名をこそ惜しめ つわものよ 散るべき時に潔(きよ)く散り 御国に香れ桜花

〈出撃[加藤隼戦闘隊]〉
一、エンジンの音 轟々(ごうごう)と 隼は征く雲の果て 翼に輝く日の丸と 胸に描きし若鷲の 印は吾等が戦闘隊

〈同志の桜[同期の桜]〉
一、貴様と俺とは同志の桜 同じ学会の庭に咲く 咲いた花なら 散るのは覚悟 見事散ろうよ国のため

 これらは全て、軍歌に若干の手を入れただけのものである([]内は原曲の軍歌の題名)。このように、戦時中、軍隊の士気を高めるために歌われた軍歌を利用し、学会の軍歌ともいうべき学会歌を高唱させ、活動の士気を高めていたのである。
 このことは、戸田氏が軍国主義の思想を継続して持っていたと窺(うかが)わせる、1つのエピソードであろう。
 はたして、戸田氏の戦争観とは、どのようなものであったのだろうか。
 「日本の癌(がん)になる対支問題の解決には、われわれが支那大陸の地下工作にまで乗り出そうではないか!勿論、巌(がん=戸田氏自身のこと)の全財産は、この運動に提供する」(精文館発行・妙悟空著『人間革命』P386)
 「牧田城三郎先生(牧口常三郎氏のこと)は国家諌暁(かんぎょう)を思い立たれ、自分は学会幹部を集めて、救国の一大折伏戦や、支那大陸への潜行運動などを展開しようとしたが、それは飽くまでも、日本を負けさせたくないからであって(以下略)」(同書P455)
との記述に明らかなように、牧口氏と同じく、あくまでも日本の戦勝を目的とし、そのためにできることは積極的に行なっていこう、というものであった。
 さらに戸田氏は、心理学者のインタビューに応えて
 「戦争では勝ちたかった。負けるとは思っていなかった。私の今もっている信念は、当時はなかった。私には教学もなかったし、勉強もしてなかったからなんだ。初代会長は勝つといっていた。(学会の)教線が伸びたのは日本の戦勝と一致していたし、学会の弾圧と敗戦への方向が一致し、初代会長の獄死と共に本土空襲がはじまったので、その結びつきは考えた」(小口偉一編『宗教と信仰の心理学』)
と語っている。
 このように、戸田氏率(ひき)いる戦後の創価学会も、牧口氏の戦争翼賛を継承し、積極的な戦争論者であったことが明確である。
 このように、創価学会に戦争容認思想が存在していたのは紛(まぎ)れもない事実であり、数々の資料がそれを立証している。
 だからといって、国体主義・軍事主義の特殊な時局にあって戦争翼賛していたことが非人道的であると非難するつもりもないし、同時に反戦を唱えなかったと批判するつもりもない。
 ただ、牧口・戸田両氏が明確な戦争翼賛であった事実、「反戦運動」によってではなく「不敬罪」によって投獄された事実を隠蔽(いんぺい)し、『創価新報』や『聖教新聞』で「学会は当初より反戦・平和の団体」「初代会長は戦争反対を叫んで投獄された」などと宣伝する、卑劣(ひれつ)にして無慙(むざん)な現在の学会の性根を糾弾するものである。


▲戸田氏の戦争に対する意識はこんなところにも。昭和29年10月31日に挙行された青年部1万名総登山の際、戸田氏は白馬にまたがり、隊列を組んだ男女青年部を"閲兵"。その模様は『聖教』で大々的に報じられた