性懲(こ)りもない「大聖人直結」論

―「日寛上人が『大聖人直結』の信心」だって!?―
―御歴代は皆「血脈の次第」の信心に立脚―

(『慧妙』H24.3.16)

 『創価新報』2月1日号に、"学会による「御本尊授与」の意義"と題して、御本尊の授与の資格が学会にあるかのごとく述べている。
 その中で、
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日寛上人は、大聖人の滅後に発生した邪義を粉砕し、日蓮仏法の正しさを大きく宣揚しました。教学の振興にも尽力し、「大聖人直結」の信心で広宣流布の実践を貫き宗門においても「中興の祖」と仰(あお)がれています
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と、日寛上人が「大聖人直結」だったかのように言っているが、日寛上人は『文底秘沈抄』に
●而(しか)して後、法を日目に付し、日目亦(また)日道に付す。今に至るまで四百余年の間(あいだ)一器の水を一器に移すが如し。清浄の法水、断絶せしむること無し(第26世日寛上人著『六巻抄』P66)
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と仰(おお)せのように、唯授一人の血脈が大聖人から日寛上人に至るまで断絶することなく連綿と受け継がれてきた、とお示しである。
 もし日寛上人が、この唯授一人血脈に則(のっと)った信心を否定し、「大聖人直結」の信心を掲(かか)げていたというのなら、文証がどこにあるのか示してもらいたいものである。
 また、第2祖日興上人は、『佐渡国法華講衆御返事』に
●この法門は、師弟子をたゞして仏になり候。師弟子だにも違い候へば、同じほくゑ(法華)をたもちまいらせて候へども、無間地獄に堕ち候なり。うちこしうちこし直の御弟子と申す輩が、聖人の御時も候し間、本弟子六人を定めおかれて候。その弟子の教化の弟子は、それをその弟子なりと言わせんずる為にて候。案の如く聖人の御後も、末の弟子どもが、誰は聖人の(直)の御弟子と申す輩多く候。これらの人、大謗法にて候なり。御講衆等この旨をよくよく存知せらるべし(第2祖日興上人『佐渡国法華講衆御返事』)
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と仰せられ、「大聖人直結の信仰」は謗法である、とお示しあそばされているのである。
 それに、日寛上人は、創価学会の祖師でも歴代でもなく、学会が"邪宗"呼ばわりする日蓮正宗大石寺の第26代の御法主であらせられる。
 しかも上人は、学会が"大謗法の邪師"と罵(ののし)る第17世日精上人の教化によって出家・得度なされ、さらに、その日精上人を経て受け継がれてきた血脈相承を受けて、第26世として御登座され、御本尊を書写あそばされたのである。
 その日寛上人御書写の御本尊をコピーして、平然と学会の本尊にしてしまう。まさに厚顔のかぎり、無恥の極みではないか。
 「大聖人直結・御書根本」と謳(うた)う学会は、「御書根本こそ正しい。歴代上人は"途中の人師・論師"であるから、その御教示に従う必要はない」
と言いながら、そのじつ御書の一節を勝手に歪曲(わいきょく)し、時には「歴代上人もこう言っているから学会は正しい」などと、己れの正当化の根拠として使おうとするのである。学会の支離滅裂ぶり、身勝手さが、この一事からも知れよう。

 次に、『新報』は、
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御書には、「此の四菩薩、折伏を現ずる時は賢王(けんのう)と成(な)って愚王(ぐおう)を誡責(かいしゃく)し、摂受(しょうじゅ)を行ずる時は僧と成って正法を弘持(ぐじ)す」と説かれています。大聖人は広宣流布を、「賢王」、すなわち民衆の指導者に託したものと拝されます。大聖人御入滅後、難事中の難事である御本尊流布を敢行し、民衆救済に奔走しているのは創価学会以外にありません。ゆえに学会こそ「賢王」の団体といえます
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などと述べている。
 この『観心本尊抄』の「此の四菩薩、折伏を現ずる時は賢王となって…」(御書P661)
の御文について、日寛上人は
●或は復(また)兼ねて順縁広布の時を判ずるか(第26世日寛上人著『文段』P284)
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と釈せられ、この賢王出現の時を「順縁広布の時」すなわち時至って三大秘法が国中に広宣流布する、その時のこととせられている。
 それは、おそらくは『三大秘法抄』に、広宣流布の暁(あかつき)の相として、
 「有徳王、(うとくおう)・覚徳比丘(かくとくびく)の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時」(『三大秘法抄』御書P1595)
との御金言があることから、広布の暁には、命がけで覚徳比丘を護った有徳王のごとき強信の賢王が出現される、との意によって述べられたものであろう。
 されば、この在家の賢王は、正法護持の僧を護って、命がけで謗法者と闘う、護法の士であらねばならない。
 間違っても、「創価学会こそが現代における僧宝」などと言って、自らが僧に成り替わろうとしたり、護るべき僧を攻撃・弾圧したりするような者共が、賢王であろうはずがないのである。
 最後に、街本尊授与の資格についてであるが、『本因妙抄』に
●此の血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)・唯授一人の血脈なり(『本因妙抄』御書P1684)
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と仰せのように、御本尊の御事はすべて唯授一人の御法主の掌中(しょうちゅう)におわすのであって、他の誰人であれ、時の御法主上人を離れて、勝手に御本尊を作ったり授与したりすることなど、絶対にできないのである。
 ゆえに、59世日亨上人も、『化儀抄註解』に
●曼荼羅(まんだら)書写・本尊授与の事は、宗門第一尊厳の化儀なり。(略)ゆえに宗祖は濫(みだ)りに曼荼羅を授与したまわず、開山は曼荼羅転授についてもこれを丁重になしたまい、尊師は宗門未有の弘通者なれども自ら曼荼羅を書写せず。しかるに余門流の僧侶、不相伝のまま猥(みだ)りに曼荼羅を書き散らして、僭越の逆罪とも思わざるのみならず、雑乱滅裂、全き型式をだに得たるものなし。無法・無慙(むざん)の甚だしきもの、八大地獄は彼れ等のために門を開けり。慎まざるべけんや(第59世日亨上人著『化儀抄註解』/『富要集』第1巻P112)
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と仰せられ、御本尊の御事は、書写のみならず授与についても、本宗の第一尊厳の化儀であり、これを相伝なく濫りに行なう者は、僭越な謗法者である、と断ぜられている。
 これらのことから、「唯授一人の血脈」もなき「不相伝」の創価学会に、御本尊を独自・勝手に授与していく資格がないのは、誰の目にも明らかである。


▲『新報』が主張する「日寛上人が『大聖人直結』の信心」は大ウソ!