学会で教える「直結」が大謗法だった!

―日興上人は直結信仰を厳しく禁止―
(『慧妙』H24.10.1)

【「直結」公言した池田の次男が急死】
 「創価学会は日蓮大聖人直結の団体である」―多くの学会員がこのように教えられ、また何の疑問もなく、そう信じてきたものと思います。
 では、学会で教える「直結」とは、どのような意味だったのでしょうか。"横道に逸(そ)れることなく真っ直ぐにつながる"という意味だったら、何の問題もありませんでしたが、学会で教える意味はそのようなものではなかったのです。
日蓮大聖人の正真正銘の門下であるならば、日蓮大聖人の振る舞いと、その精神を根本にすべきなのであります。それは、途中の人師、論師ではないということなのであります(池田講演・『聖教新聞』S52.2.17)
大聖人直結の広布の団体である学会(池田講演・『聖教新聞』H20.4.28)
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 すなわち、学会で言う「直結」とは、"途中を経(へ)ることなく直接に結びつく"との意であることは、一目瞭然(いちもくりょうぜん)です。
 こうした思想が、いつ頃から根付いていたのかは定かではありませんが、おそらく創価学会の初期の頃から、徐々に醸成(じょうせい)されていったものと思われます。
 そして、正本堂が落慶(らっけい)した昭和47年には、こうした直結思想が学会内に蔓延(まんえん)しつつありました。現に当時、池田大作の次男・城久(故人。昭和59年に29歳の若さで急死)なども、
会長は日蓮大聖人の次の位である
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と述べ、日蓮大聖人に直結する位が池田会長である、と断言していました。
 しかしながら、7百年前に出現あそばされた日蓮大聖人と、今日の池田大作(及び創価学会)が、直接どうつながるのか、その7百年間の隔(へだ)たりをどう解決するのか、よく考えてみればおかしな話であり、そこには大変な間違いが潜(ひそ)んでいたのです。


【直結は日興上人を無視する非法の衆】
 すなわち日蓮大聖人は、二箇相承において
 「日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。(中略)血脈の次第 日蓮日興」(御書P1675)
●釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり(同頁)
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と仰(おお)せられ、第2祖日興上人を大聖人の後継者と定めて、「大導師」の位を委譲(いじょう)し(「大導師」とは「仏」のこと。大聖人は御自身を「五五百歳の大導師」と仰せられている)、これに背(そむ)く輩(やから)は非法の衆である、と戒(いまし)められています。
 しかるに、日蓮大聖人に直結する位が池田会長で、学会は大聖人直結の団体である、というならば、それは大聖人の後継者である第2祖日興上人(はじめ御歴代上人)を無視し、否定することとなって、大聖人の戒められた「非法の衆(=大謗法の輩)」となるのであります。
 また、学会の中では、よく「信心は御本尊直結であるべきだ」と言われ、弘安2年の本門戒壇の大御本尊についても「自分達一閻浮提の民衆に大聖人が与えられた御本尊である(ゆえに大御本尊は我々民衆の物である)」等と強調されますが、これも直結信仰に由来する誤りです。弘安2年の大御本尊は、『日興跡条々事』に
●日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す(御書P1883)
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と示されるように、大聖人から第2祖日興上人へ、そして日興上人から第3祖日目上人へと、後継の御歴代上人の御身に付与されているのです。したがって、いかに一閻浮提の一切衆生を救済するために顕(あら)わされた御本尊とはいえ、この御本尊の拝し方は、いみじくも戸田城聖氏が
◆御法主上人を通して大御本尊を拝すれば必ず功徳が出てくる(S30.12.13「関西本部入仏式」/『戸田城聖全集』4-P399)
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と述べていたように、あくまでも御法主上人に随(したが)い、御法主上人を通じて拝していく、という姿勢でなくてはなりません。
 それを、「御本尊直結である」「一閻浮提総与である」と安易に考え、大御本尊を"自分達の物である"かのごとく主張することは、大御本尊を(正当に所持される上人から)簒奪(さんだつ)しようとする法盗人であり、大謗法であります。
 以上のことから、日蓮大聖人の仏法の全て(むろん本門戒壇の大御本尊を含む)は、余すところなく第2祖日興上人・第3祖日目上人等に譲(ゆず)り与えられ、この御歴代上人が大聖人御入滅後の後継者にあたるのでありますから、大聖人を信ずる者は、「大聖人直結」「大御本尊直結」などと言うことなく、仏法の全てを所持する御法主上人に信伏随従(しんぷくずいじゅう)して、信心修行に励まなくてはならないのであります。
 第2祖日興上人は、『佐渡国法華講衆御返事』に
●この法門は師弟子を正(ただ)して仏に成(な)り候(そうろう)。師弟子だにも違い候へば、同じ法華を持(たも)ちまいらせて候へども、無間地獄におち候也。(中略)聖人の御後(おんのち)も、末(すえ)の弟子どもが、これは聖人の直(じき)の御弟子と申やから多く候。これが大謗法にて候也(『歴全』1-P183)
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と仰せられ、大聖人直結の信仰を標榜(ひょうぼう)する信徒を「大謗法にて候也」と戒められています。学会員諸兄には、よくよく反省懺悔(さんげ)をいたすべきでありましょう。


【「直結」の文字に捉(とら)われる狂信者に告ぐ】
 なお最後に、文字に捉(とら)われて義のわからない狂信者のために、念のため一言しておくことにします。
 ここで「直結」がいけない、といいましても、それは冒頭でも述べたように、"途中を経ることなく直接(大聖人に)結び付く"ことを目指す在(あ)り方がいけないのでありまして、もし、単に"横道に逸れることなく真っ直ぐに(大聖人に)つながる"との意味であれば、「直結」という言葉を用いること自体に問題はありません(学会の言う「直結」は前者だから大謗法なのです)。
 たとえば、65世日淳上人が
●(法華講という)名称について、宗門に於ては或は古いとか、或は他宗とまぎらはしいとかの意見もままあるやに聞きますが、それは何かの勘違ひではないかと思ひます、若し他宗にあるならば法華講の由来を説いて本宗の法華講でなければ意義をなさず、又大聖人に直結し奉ることが出来ない意味を説いて教化すべきであります(「日蓮正宗法華講について」『日淳上人全集』下巻P1165)
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と仰せられている「直結」の趣旨は、文脈上、明らかに後者であって、学会の言う「直結」とは全く意味が違います。
 したがって、この日淳上人の御文を引いて、学会の直結信仰を肯定することなどできない、と知るべきでありましょう。


▲池田の「直結」発言は、昭和52年の第1次創価学会問題の際にも大問題になった(写真は昭和52年2月17日付の『聖教』)


▲"大聖人直結"を断言していた池田の次男・城久は、昭和59年に、29歳という若さで急死