反社会勢力とのつながり


反社会勢力を利用してきた学会・公明党/『慧妙』H26.2.1

後藤組だけではない!学会と暴力団との関係/『慧妙』H26.3.1


反社会勢力を利用してきた学会・公明党

―誰もが驚く!暴力団との長年の蜜月関係―
―反社会勢力とのつながり―

(『慧妙』H26.2.1)

 平成23年8月、大物芸人の島田紳助は暴力団(山口組系極心連合会)との交際を理由に芸能界引退を表明、国民を驚かせました。その背景に、暴力団は排除すべきであるとの、健全なる世論の高まりがあったことは申すまでもありません。
 ところが、創価学会と暴力団の関係を見てみれば、島田などとは比較にならぬほどの深い癒着(ゆちゃく)があり、それはいまだにハッキリとしたケジメがつけられていないのです(もし、つけられている、というのなら見せてほしいものです)。


【富士桜墓園問題から濃密な関係に】
―反対者を暴力団が日本刀で鎮圧―
 創価学会と暴力団とのつながりが、いつ始まったのかは、定かではありません。というのは、学会員の中に暴力団のトップが多数含まれており(稲川会会長だった石井進、山口組系山健組組長だった山本健一、東声会会長だった町井久之、会津小鉄の会長だった高山登久太郎など。いずれもすでに故人。むろん信教は自由ですから、これらの人々が信仰に付いたこと自体を批判するわけではありません)、もともと、学会と暴力団とが近い距離にあったからです。
 学会が暴力団の力を利用した事例で最初に表面化したものは、1973年(昭和48年)に着工した学会の富士桜自然墓地公園の開発に絡むものでした。地元で巻き起こった反対運動を鎮圧するため、山崎正友学会顧問弁護士(当時)らの依頼を受け、静岡県内に勢力を伸ばしていた山口組系後藤組が乗り出したのです。
 そして77年(昭和52年)には、反対運動の中心的住民宅に後藤組幹部が大型ブルドーザーで突入、住宅を損壊したばかりか、住民に日本刀で切りつけて、顔、肩、背中、左腕などに重傷を負わせる(被害者は一命を取りとめたものの数年後に死亡)という、法治国家とは思えぬ事件まで起きました。
 こうした動きに対抗して、富士宮市内では大規模な反学会の市民運動が起こり、さらに富士宮市議会には百条委員会(強力な法的権限を持つ特別調査委員会)が設置されることになりました。
 一方、この頃、学会が日蓮正宗と対立する事態(第1次学会問題)が発生する中で、その渦中にあった山崎弁護士が学会を除名されました。百条委員会では、山崎正友を証人として呼んで喚問しよう、との話が持ち上がり、学会にはかなり危機的な局面が迫(せま)っていました。
 この時、公明党の元代議士・市議らが再び後藤組組長・後藤忠政に"市民運動潰(つぶ)し""百条委員会潰し"を依頼。これにより、市民運動及び百条委の中心者達に対し、たびたび後藤組からの強い圧迫が加わったのです。
 その結果、81年(昭和56年)3月に設置された百条委員会は、何の機能も果たさないまま、同年12月には終結、市民運動も消滅してしまいました。


【暴力団の"使い捨て"に失敗した学会】
―学会破門後、宗門狙った凶悪犯罪が多発―
 ところが、この百条委員会潰しの成功報酬をめぐって学会と後藤組との間でトラブルが発生、83年(昭和58年)3月になって、後藤組は、池田大作と竹入義勝公明党委員長(当時)にあてて、組長名で約束の履行(りこう)を促(うなか)す内容証明郵便を送りつけました。
 学会がこれを無視黙殺していたところ、怒った後藤組は、85年(昭和60年)4月、多数の学会員が登山していた大石寺の塔中・五之坊(現在はない)に散弾銃を撃ち込み、さらに11月には、東京・信濃町の創価文化会館にピストル2発を撃ち込んだのです。
 当時、多くの僧俗が、何故こんなことが起こったのかと首を傾(かし)げた、発砲事件の真相がこれです。宗教者たる者が指定暴力団と手を組み、非合法な仕事をさせた成功報酬を支払わずに脅(おど)され、その迷惑が一般参詣者にまで及ぶ―まったく呆(あき)れ果てた話ではありませんか。
 ともあれ、これに慌(あわ)てて、池田大作の使いが後藤組に謝罪に行き、学会は再び後藤組との円滑な関係を取り戻しました。
 この"池田の使い"が誰であったかについて、宝島社刊『池田大作と暴力団』では「藤井富雄・元公明党東京都議」であると断じており、それは今日に至るも覆(くつがえ)されていません。
 その後、91年(平成3年)に第2次学会問題が勃発、学会は日蓮正宗から破門され、激しく宗門と対立するようになります。
 すると、92年(平成4年)3月には当時の御法主・日顕上人に「死ね」等の脅迫文を添えて実弾が送り付けられ同年4月には大石寺塔中・妙遠坊に弾丸7発が撃ち込まれ、さらに5月には大石寺の警備員宿舎だった奉天寮に火炎瓶が投げ込まれる―等々の非合法事件が起きたのです。
 こうした状況を経(へ)た95年(平成7年)晩夏、東京港区のオフィスビルの2階で、後藤組組長・後藤忠政と公明党・藤井富雄が密会しました(※その模様はビデオに隠し撮りされ、また盗聴されてテープ録音されていました)。
 すでに明らかになった関係者の証言等も合わせ、密会の背景と内容を簡単に言うと次のようになります。
 "そろそろ後藤組が用済みになったため、手を切りたくなった藤井が、山口組5代目に話をつけてもらおうと頼み込み、これに立腹した後藤が直接、藤井と会って問い詰めた。藤井は必死に言い訳したが、らちが明かず、いちおう最後は、今後とも学会に関する案件は後藤組へ持っていく、ということで話がついた"
 この密会があって間もなく、またしても非合法事件が起きました。同年9月1日夜創価学会批判を展開していた東京・東村山市の朝木明代議員が、1人で仕事をしていた事務所から突然、姿を消し、付近のビルの屋上から転落して不審死を遂(と)げる、という事件が発生したのです(今日では、明らかになった事実から「他殺の可能性がある」と裁判でも認定されています)。この事件に後藤組の関与を疑う向きも、少なくありません。
 そのため、後藤・藤井会談の中身は"暗に殺人を依頼するものだったのではないか"との風説も流れましたが、そこまでの内容はなかったようです。


【政治に利用された学会と暴力団の関係】
―こんな創価学会・公明党を認めてよいのか!?―
 ところで、後藤・藤井会談の盗撮・盗聴は、いったい誰が何の目的で行なったのでしょうか―。
 それは会談の現場となったオフィスの主によれば「(ビデオ撮影の)依頼者はある大物代議士の秘書」だそうで(前出・宝島社書)、また後藤本人によれば「ビデオを撮られていたことは知らなかったが、後になってそう聞いた」「最終的には(ビデオは)亀井(静香)が持っていったと聞いている」(後藤著『憚りながら』)とのことです。
 この「密会ビデオ」がその後、どのように使われたかは『月刊現代』(2004年2月号)掲載の「野中広務『権力20年戦争』」に詳(くわ)しく載っています。
 ここではその結論だけを述べますが、「密会ビデオ」は自民党の手に渡り、住専の処理問題で激しく自民党と衝突していた新進党(中核に公明党を含む)を切り崩すために、水面下での交渉材料に使われた(公明の最大の弱みとして)ことが、関係者の証言でわかっています。
 そして、それが後の自公連立へとつながるキッカケともなるのです(要するに、公明党は自民党中枢に弱みを握られた結果、自民党を補完する連立政党とならざるをえなかった、といえましょう)。
 いずれにせよ、創価学会・公明党が、反社会勢力と深く癒着してきたことは明らかであって、今更、その事実を消し去ることはできません。
 また、こうして、これまでの歴史を振り返ってみると、後藤組が学会からの依頼で、地元における反学会運動潰しを引き受けてから以後30余年が経ちますが、後藤組が暴力装置としての役割を果たし、その見返りを学会から受けていたことは確実です。
 それ以後の後藤組の急速な興隆も、また後藤忠政が山口組本部の中枢幹部に昇り詰めていったのも、そうした資金ルートがあったればこそ、ともいえましょう。
 やはり、これは島田紳助など比較にならない重大問題です。創価学会・公明党には、公益法人や政党としての資格があるとは思えません。(文中敬称略)

[画像]:暴力団(後藤組)と、創価学会・公明党の関係がいかに濃密であったかを物語る、後藤組長が池田大作に宛てて出した内容証明郵便=顔写真は、池田大作と、その"使い"をした藤井富雄(池田と藤井の写真は共同通信社提供)





後藤組だけではない!学会と暴力団との関係

―暴力団トップまでが呆れる学会の在り方―
―反社会勢力とのつながり―

(『慧妙』H26.3.1)

【藤井宅爆破の嫌疑を妙観講に】
 後藤組と創価学会・公明党の関係は前に述べたとおりですが、その後、結局、両者の関係はうまくいかず、切れることとなります(※元組長・後藤忠政は後年「学会、いや池田大作のために、それまでさんざん働いてきた連中や、俺みたいに協力してきた人間を、用済みになったと思ったら、簡単に切り捨てるようなやり方が許せん」と、自著『憚〈はばか〉りながら』の中で、これまでの学会との関係をあからさまに暴露しています)。
 学会と後藤組の関係が切れたところ、後藤組との窓口役だった公明党・藤井富雄の周辺で、またもや非合法な事件が起こりました。97年(平成9年)10月29日未明、藤井宅の南隣の門扉が爆破されたのです。
 爆発物の形態などから警視庁は、過激派による犯行の可能性は低いと判断。学会・公明党に犯人の心当たりはないか、聞き込みを行ないました。
 これまでの経緯からすれば、学会側としては後藤組関係者による犯行の可能性を考えただろうと思いますが、それを警察に述べて過去からの後藤組との関係を明らかにするわけにはいかなかったのでしょう、なんと学会側は、"心当たりとしては妙観講(※理境坊所属の法華講中)しか思い当たらない"等といって、捜査の目を後藤組から逸(そ)らせて妙観講へと向けさせたのです。
 後日、そのあまりの荒唐無稽(こうとうむけい)さに、捜査を担当した刑事も呆(あき)れ返ったそうですが、それほどまでに学会側にとっては、後藤組との関係は知られてはならない汚点だったのでしょう。
 その後藤組も今では解散し、構成員も他団体に移っています。学会・公明党は、このまま頬被(ほおかむ)りを続け、全てが風化していくのを待つつもりなのでしょうが、いくら後藤組が解散しようと、こうした反社会勢力を利用してきた歴史が無かったことになるわけではありません。ケジメは未(いま)だについていないのです。


【造反した藤原都議に仕掛けられた罠!?】
―"池田暗殺"持ちかけた暴力団員の正体―
 さらに、学会・公明党と反社会勢力との関係は、後藤組だけに止どまるものではありませんでした。
 88年(昭和63年)当時、公明党都議だった藤原行正が池田大作に反旗を翻した時のことです。
 藤原の決起はマスコミでも大々的に取り上げられ、公明党議員や学会幹部の中でもこれに同調する人々が出て、反学会の気運が盛り上がっていきました。
 ところが、そのような中、突如として、藤原が暴力団幹部と会談し池田大作暗殺計画を話し合っていた、とされる隠し撮りテープがマスコミに暴露されたのです。
 それによると、池田暗殺の報酬は合計5億円で、「とりあえず5千万でもいいから払ってほしい」と迫る暴力団幹部に、藤原が行動延期を言い出し、暗殺計画は頓挫(とんざ)という形になったようです。そして、このテープはマスコミに流出するところとなり、藤原は、法治国家で暗殺計画を話し合った人間として、世の中の批判を浴び、表舞台から姿を消していきました。
 この時の暗殺を請け負った暴力団幹部とは、東声会・関西支部(当時)の水城健雄という人物ですが、じつは水城の夫人(当時)は学会の婦人部幹部で、水城自身も、年間に5百万、1千万の財務を拠出する程の熱心な池田信奉者だったのです。
 水城は、藤原が決起した際、「藤原さんの言い分はもっともだと思う」と言って藤原にコンタクトを取り、やがて池田暗殺計画の言質(げんち)を取ることに成功しました(※隠し撮りテープの内容を聞いたマスコミの記者は「水城が意図的に藤原から"池田殺害計画"の明確な言質を取ろうとしているかのように聞こえた」と報じています)。
 その後、この隠し撮りテープは学会側に持ち込まれた後、水城の手でマスコミに暴露され、藤原による反学会の活動は尻つぼみとなってしまいました。
 こうした経緯から、今日では「水城は学会反対派に放たれた諜報・謀略・攪乱(かくらん)要員だった、と断ぜざるを得ない」(『無数にある創価学会と暴力団の因縁話』溝口敦)といわれています。


【「ルノアール」絡みでも裏仕事を依頼】
―"成功報酬"を払わず関係が露呈!―
 さらに89年(平成元年)、いわゆる「ルノワール絵画取引事件」が起こり、創価学会が三菱商事をダミー(代理)として使って絵画を買い取った際、3億円が闇に消えてしまったことが発覚、世を騒がせました。
 すると、これに目を付けた右翼の街宣車2、30台が東京・信濃町に繰り出し、大音量で「ルノワールの絵画取引で池田大作に金が渡っている!」「税金ドロボーの創価学会は解散せよ!」等の街宣を始めました。
 これにすっかり困り果てたのでしょう、93年(平成5年)3月、公明党都議の藤井富雄と参院議員の続訓弘の2人が、"法曹政治連盟"の看板を掲げる松浦良右という人物(※かつて3代目山口組の若頭補佐の"若い衆"の1人で、後に政界のフィクサーとまで呼ばれるようになった人物)に頼み込み、「5億円出すから右翼の街宣活動を抑えてほしい」と裏仕事の依頼をしたのです。
 程なくして街宣活動は止まりました。しかし、約束の5億円は、一部が支払われたものの、全額は支払われなかったということで、「(松浦は)93年以降、1度として藤井・続両氏に未払い額の支払いを求めていないそうだが、彼らが取引の事実まで否定するのであれば、時効を承知で請求すると語った」(『フライデー』平成22年12月10日号)とのことです。
 こうして、すでに表面化している事件を羅列(られつ)してみただけでも、創価学会・公明党と反社会勢力との癒着(ゆちゃく)の闇はあまりに深く、これが宗教団体や政党のすることなのかと、あらためて慄然(りつぜん)とさせられます。
 本項の終わりに、学会・公明党に関わってきた暴力団・元組長が、最後に述べた言葉を見てみましょう。

[画像]:「公明党議員の依頼で5億円の裏仕事をした」と松浦良右が暴露。それを報じた『フライデー』(平成22年12月10日号)


【会津小鉄・高山登久太郎のブログより】
―「学会の宗門批判は"負け犬の遠吠え"」―
 「宗門からの破門、追放以後にみる池田のとった行動について言及しなければならない。
 創価学会・公明党の、宗門とりわけ日顕上人への批判は、いまなお聖教新聞、公明新聞紙上で続いているが、もちろんこれは池田の指示で行なわれているものだ。しかしこの行為自体、(池田への)書簡でも申し述べたように『負け犬の遠吠え』の感が拭えない。
 もともと学会全体が破門されるに至った経緯も、池田の指導に端を発しているわけであるから、(中略)池田は、真に信ずるところがあるのなら、学会全体を巻き込むことなく、ひとりで宗門と論戦を張り、正々堂々と闘うべきだった。
 しかし論議を戦わすこともなく、シアトル事件に見るような日顕上人個人のスキャンダル暴(あば)きに終始するような低俗な攻撃を繰り返し、これまで外部からは潮笑(ちょうしょう)の的になって来た。このことによって学会員が恥ずかしい思いをしていることなど、思いもつかないのだろうか。
 創価学会は池田一人の私物ではない。学会の信用を彼一人の判断で落すような権利はどこにもないし、いやしくも人から尊敬を得ようとする人間のすることではない。
 これはリーダーとしての資質の問題でもある。(中略)外部からの批判に一切耳を貸さず、金まみれ、権力ヘの迎合の本質を知っていながらもなお、(学会員が)池田の無謬(むびゅう)性を信じようとするのは、現実を直視しようとする勇気がないからではないのか。
 洗脳ともいえる池田のマインドコントロールから解放され、狭い視野から脱却するときが来ている。これ以上、無知を装うことは罪悪だ。」(会津小鉄・高山登久太郎〔故人〕)


【後藤組・後藤忠政の著『憚りながら』より】
―「国家乗っ取りの野望は捨てよ!」―
 「俺が今回、初めて創価学会との経緯を話したのには、2つほど理由がある。ひとつは、あいつら(学会)のやっていることが、俺が付き合っていた30年前と同じ、いやそれ以上に悪くなっているからだ。(中略)
 俺たちヤクザをさんざん利用し、仕事が終われば知らんぷりだ。それで俺たちがちょっとでも、もの言おうもんなら、今度は警察権力を使って潰(つぶ)しにかかる。で、それがマスコミにバレそうになったら、今度は頬かむりだ。竹入さんにも、矢野さんにも、俺にした仕打ちとまったく同じことをしてるんだよ。だから、俺もこうして公の場で居直らせてもらったわけだ。
 それともうひとつ、創価学会、いや「池田教」が、この日本という国家を乗っ取ろうとしていることが、見過ごせないんだよ。(中略)
 宗教を持つこと自体は構わんよ。けど、それ以上のこと、公明党を作うて政治に入り込んだり、創価大学作って、"優秀な人材"を官僚にしたり、法曹界を牛耳るために人を送り込んだりしちゃいかんだろう。(中略)
 どんな宗教信じるかは勝手だ。しかし、その宗教のために国会や官僚組織に入り込むというのは、筋が違うんじゃねえか。特定の宗教の利益を目的とする人間が、国家権力の中枢にいるのはまずいよ。あいつら(学会)が何を信じようと勝手だ。また池田個人がどんな考えを持っていようと構わん。だけど、その宗教の理屈を国に持ち込み、さらにはそれで牛耳(ぎゅうじ)ろうとするのは、少なくとも自由主義国家じゃ許されることじゃねえだろ。そもそもこんな組織(創価学会)が、「自公連立政権」だとか言って、国家の中枢でデカイ面してきたこと自体が、間違いなんだよ。(中略)過去、創価学会とはいろいろあったが、今回、池田大作にはあらためてモノを言っておくよ。この国の将来を憂(うれ)うひとりの元極道としてな。」(後藤組・後藤忠政)
 元が付くとはいえ、暴力団組長から宗教者としての在(あ)り方を教訓され、その存在を憂えられる池田創価学会とは、いったい何なのか―創価学会員の皆さんは心静かに考えてみるべきでありましょう。(文中敬称略)