創価学会破折
戸田会長の「獄中の悟達」


戸田会長「獄中の悟達」の真相/『慧妙』H26.3.16

「獄中の悟達」という迷妄/『慧妙』H19.1.1




戸田会長「獄中の悟達」の真相

―仏身と大御本尊の有り難さに気付いた戸田氏―
―それを池田が勝手に「獄中の悟達」と脚色―

(『慧妙』H26.3.16)

 平成26年3月5日の『創価新報』に、学会の原点は創価学会第2代戸田会長の「獄中の悟達」にあるとしている。
 この「獄中の悟達」は、創価学会の宗門からの独立の根拠とも、会長本仏論の原点ともいうべきもので、池田の『人間革命』によって、会内に深く浸透している邪説である。この「獄中の悟達」について、その真相と実態を明らかにしてみよう。
 まず、『人間革命』第4巻「生命の庭」の章に、戸田氏の「獄中の悟達」なる話が出ている。その該当個所を挙(あ)げる。
 「3月の初め、まだ寒さも消えやらぬ日、彼はまた、あらためて4回目の法華経を読みはじめていた。法華経の開経である、無量義経からである。(中略)―仏とは、生命なんだ!生命の表現なんだ。外にあるものではなく、自分自身の命にあるものだ。いや、外にもある。それは宇宙生命の一実体なんだ!
 彼は叫びたかった。あらゆる人々に向かって―。狭い独房の中は、瞬間、無限に広大に念(おも)われた。……やがて興奮が静まると、端座して大石寺の方角に向かい、タ闇迫る中で、唱題を続けていくのであった。戸田城聖のこの時の悟達の一瞬は、将来、世界の哲学を変貌せしむるに足る、一瞬であったといってよい。(中略)11月中旬、元旦から決意した唱題は、すでに2百万遍になろうとしていた。(中略)彼は自然の思いのうちに、いつか虚空にあった。数限りない、六万恒河沙(こうがしゃ)の大衆の中にあって、金色燦然(さんぜん)たる大御本尊に向かつて合掌している、彼自身を発見したのである。(中略)―よろしい、これでおれの一生は決まった。きょうの日を忘れまい。この尊い大法を流布して、おれは生涯を終わるのだ!」(第4巻"生命の庭"の章)
 ここで池田のいう「獄中の悟達」に2種類ある。
 「悟達」の第1は、昭和19年3月、獄中において「無量義経の"三十四の非"から『仏とは生命なり』と悟(さと)った」ということで、第2は、同年11月、唱題中、「法華経に説かれる『虚空会の儀式』に参列していたことを悟った」というものである。
 まず、第1の「"三十四の非"の悟達」であるが、池田はこれを、高々と持ち上げ、まるで仏法上の大発見ででもあるかのように描(えが)いている。
 だが、当の戸田氏本人が書いた『人間革命』(妙悟空著)では、「彼(※戸田氏)は仏の三身の説を知らなかった。ただ此の経典(※無量義経の三十四の非)から仏の実体を汲(く)み取ろうとして思索に入ったのであった。次下の応身の説においては、ほぼわかるような気がしたが、法身・報身を説かれていたこの無量義経の説には、彼はほとほと当惑したのであった。思索すること数時間、彼はハタと手を打ったのであった。『仏とは生命なんだ、生命の一部の表現なんだ(後略)』」と解説している。
 要するに戸田氏は、獄中にあったため、まともな講義書が手に入らず、彼なりの思索で、仏に三身が備わっていることを「仏とは、生命の表現なんだ」と気付いた、と述べたにすぎないということである。
 しかるを池田は、さも、これが仏法上の大発見か、無上の悟りであるかのごとく宣伝しているのである。池田の邪説について、御隠尊日顕上人は、
 「この獄中の悟達ということについては、戸田氏が言っていたというよりも、おそらく池田大作が勝手に言っているだけだと思います。また、考えてみれば、三十四の非が生命の当体であるとしても、結局、無量義経ですから、やはりその教えには限界があるのです。
 無量義経は、『無量義とは一法より生ず』(開結P84)ということを説いた経典であって、けっしてその一法の当体が何であるかを説いたものではないのです。したがって、法華経に来て初めて、その一法が妙法蓮華経として顕(あら)われるわけですから、無量義経でいくら思索して、『これは生命だ』と悟達したとしても、それはまだ法華経の迹門にも到達していない、法華経に至らんとする道程の悟りであって、久遠元初の悟りであるとは、とうてい言えないのです」(『大日蓮』H4.11)
と、明快に破折されている。
 すなわち、「法華経の迹門にも到達していない」「悟達」を「創価仏法の原点」などと位置づけること自体、大聖人の仏法への違背であり、本門三大秘法に背(そむ)く大謗法である。
 また、学会が大宣伝する「仏とは生命」とは、はたして誰も説いていなかった「悟達」なのであろうか。
 御先師66世日達上人は、
 「たとえば、『仏とは生命なり』とさっとやってしまう。なるほどな、と思うかもしれない。しかし、そう簡単なものではないですね。『心仏及衆生是三無差別』といって、仏も衆生も心も、この3つは離すことのできない無差別のものであると華厳経にすでに説いています。それをあっさり、仏とは生命なりとやってしまうと、大変わかりやすいような、結局、最後はわからないということになってしまうのであります」(S53.8.4 行学講習会閉講式の砌)
と、「仏とは生命」は、すでに華厳経に説かれていることを指摘されている。
 これでは、池田のいう「戸田会長の悟達」とは、爾前権教の「悟り」ということになるではないか。
 次に、第2の「虚空会の儀式に参列した」との「悟達」とやらも、戸田氏の『創価学会の歴史と確信』に
 「ちょうど、牧口先生が亡くなったころ、私は2百万遍の題目も近くなって、不可思議な境涯を、御本仏の慈悲によって体得したのであった。(中略)心の中からこみあげてくる大御本尊のありがたさ、私は一生の命を御仏に捧げる決意をしたのである」
とあることからわかるように、要は、「御本尊のありがたさ」に気づき、一生をかけて流布していくことを誓願した、というにすぎない
 『創価新報』では、先に挙げた御隠尊日顕上人の"「獄中の悟達」は池田が作り上げたものである"との御指摘を的外れだなどといっているが、戸田氏自身、「悟達した」などとは一言も言っていないのである。
 以上、見てきたように、戸田氏はあくまでも、日蓮正宗に伝持されてきた仏法を唯一の正法と位置づけ、その広宣流布を決意・誓願した、というのが真相である。
 最後に、『創価新報』では、学会は「地涌の菩薩」の教団と謳(うた)っているが、戸田氏の言葉をもって破折とする。
 「本尊とは全く他所に求むべきではなくて、自分自身が本尊であり、お題目を唱える者は、等しく地涌の菩薩であって、日蓮大聖人と変わりがないと考えることは、重大な増上慢のきわみであり、大謗法である。」(『戸田城聖全集』第2巻P65)


▲"獄中の悟達"を喧伝する『創価新報』(H26.3.5)





「獄中の悟達」という迷妄

―末法衆生に特別な「悟達」はない―
―大御本尊への信こそが「悟達」―

(『慧妙』H19.1.1)

 最近の創価学会機関紙の中に、「戸田会長の獄中の悟達(ごたつ)」という言葉や、「戸田会長の獄中の悟達が、仏教を現代の哲学として蘇生(そせい)させ、万人のものとする原点となった」との内容が目に付くようになりました。
 この「戸田会長の獄中の悟達」ということは、かつて、昭和53年6月、日蓮正宗総本山富士大石寺より創価学会に提示された、当時の学会路線(いわゆる52年路線)についての「質問」の中にもあり、その誤りを破折されています。
 そして、この時の御宗門からの厳(きび)しい指摘にあって、創価学会は自らの謗法を認めざるをえず、当時会長だった池田が会長を辞任、正式に御宗門・日達上人に謝罪する、という事態となりました。
 ところが、今、かつて自ら謗法だと認めていた内容を、学会の教義として持ち出しているのです(もっとも、正宗から破門された者が行き着く当然の帰着点、といってしまえば、それまでかもしれませんが…)。
 さて、前置きが長くなりましたが、創価学会(池田)のいう「戸田会長の獄中の悟達」とは、おおむね次のような内容です。
 「戦時中、牧口初代会長と共に投獄された戸田会長は、獄中で2百万遍の題目を唱え、法華経を読み進める中で、2つの悟達を得た。1つは"仏とは生命なり"ということ。この時の悟達が、仏教を現代の哲学として蘇生させ、万人のものとする原点となった。また、もう1つの悟達は、戸田会長自身が地涌の菩薩の1人として釈尊の虚空会(こくうえ)の儀式に参加していることを覚知し、"われ、地涌の菩薩なり!"との確信を得たことである。
 そもそも「悟達」という言葉の意味は、読んで字のことく「悟(さと)りに達する」ということです。仏教における悟りとは何か、といいますと、己心中の仏界を悟り開くこと、すなわち成仏でありますから、この悟りに達することを「悟達」といいます。
 今、末法に出生してくる私達衆生は、過去に何の善根も積んでいない本未有善の愚人・悪人ばかりであり、もとより自らの智慧で己心の仏界を悟ることなど、できようはずがありません。
 そこで、宗祖日蓮大聖人が御出現あそばされ、仏の生命を一幅の大曼荼羅として御建立くださいました。私達末法の衆生は、この大御本尊を絶対無二と信じ受持していくところに、はじめて己心の仏界を開顕(かいけん)することができるのです。
 また、このことから、大御本尊に対する絶対の信心をもって、即身成仏、悟達とするのであります。
 ですから、修行の結果としての何か特別な悟りというものに執着するとしたら、それは大聖人の仏法ではありません。大聖人の仏法には、もとより特別な「獄中の悟達」など、ありえないのです。
 また、戸田会長が得たという2つの悟達も、大聖人の仏法から逸脱(いつだつ)する、増上慢な内容です。


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"仏とは生命なり"との悟達を得て、これが、仏教を現代の哲学として蘇生させ、万人のものとする原点となった
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 たしかに、仏教では、一切衆生の生命には仏界が内在(冥伏〈みょうぶく〉)していることは説かれていますが、しかし、その仏界を現実に顕現(けんげん)できなければ、どこまでいっても迷いの凡夫でしかありません。そして、その内在(冥伏)している仏界を顕現するためには、大聖人が顕(あら)わされた大曼荼羅御本尊を信じて、正しい仏道修行に励む以外にないのです。
 それゆえ、大聖人も、ただちに「仏とは生命なり」(※一切衆生の生命に仏界があるのだから、一切衆生は仏である)というような思想は、大慢であり、天魔の所為である、と徹底的に破折されているのです。
 さらには、「その時の戸田会長の悟達が、仏教を現代の哲学として蘇生させ」云云というに至っては、まるで、戸田会長が投獄されるまでは大聖人の仏法は死せる仏教だった、といっているようなものですし、「哲学として蘇生させ」というのは、世のあらゆる哲学・思想等をも含有する、唯一最高にして根源の大聖人の仏法を貶(おとし)め、大聖人を冒涜(ぼうとく)する増上慢の極み、というしかありません。


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釈尊の虚空会の儀式に参加していることを覚知し、"われ、地涌の菩薩なり!"との確信を得た
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 大聖人は、
 「いかにも今度、信心をいたして法華経の行者にてとを(通)り、日蓮が一門とな(成)りとをし給ふべし。日蓮と同意ならば、地涌の菩薩たらんか」(御書666頁)
と仰せられています。つまり、私達が総じて地涌の菩薩であるというのは、地涌の上首たる上行菩薩の再誕・内証は久遠元初の御本仏であられる日蓮大聖人を信じ、大聖人の弟子檀那に名を連ねるからであります。
 それを、何か独自の特別な悟達によって、自ら地涌の菩薩たるを自覚した、とするのは、地涌の上首としての宗祖大聖人に自らを匹敵させるものであり、地涌の菩薩の本義からは、逸脱するものであります。
 このように、本来の大聖人の仏法とはかけ離れた、というよりも、むしろ大聖人の仏法を冒涜する内容を、学会員に徹底し、それを「会長の獄中の"悟達"」として、ことさらに強調する―まさに会長の神格化、会長本仏論であります。

 日蓮正宗から破門されて丸15年が経過する中、口では「日蓮大聖人の仏法」と言っていても、独自で拠(よ)り所とするところを模索(もさく)するしかなく、結局のところ、創価仏法、池田教学にしかならなかった、ということでありましょう。本当に哀(あわ)れなことです。
 一方、これだけの年数が経過する中、「やっばりお山に戻りたい」という会員が出てきていることも耳にします。
 「行動の年」の本年、真剣な唱題を根本に、精いっぱいの折伏の行動を起こして、1人でも多く、哀れな学会員を救っていこうではありませんか。