女人の即身成仏は仏説
―提婆品を読み損なった創価大のセンセイ―
―法華経持つ女人の即身成仏は経文に分明―
(『慧妙』R1.12.16c)
今月上旬、インド・ウッタルプラデシュ州(同国北部の州・ネパールと国境を接する)で、極めて痛ましい事件が発生した、とのニュースが目に入ってきました。
報道によると、複数の男性から暴行被害を受けた23歳の女性が、この事件を審理する裁判で、被害者本人として証言するため外出した際、この裁判で被告となっている男2人を含む暴漢らに襲撃・放火され、入院先の首都ニューデリーの病院で6日夜に亡くなったとのこと。
インドでは、このような女性の人格・尊厳を踏みにじるような事件が頻発(ひんぱつ)していて、それは今に始まったことではなく、例えば日常生活においても、"妻は夫のことを名前で呼ぶことすら憚(はばか)られる"のだそうで、女性を蔑視(べっし)する悪弊(あくへい)は同国の"有史以前"から、とも言われているそうです。
「ウチも"インド並"など求めぬが、せめて…」などとお考えの殿方、共に一考いたそうではありませんか。
さて、今月(12月)度の御報恩御講では、『四条金吾殿御返事』を拝読いたしました。
日蓮大聖人は、この御消息中に『妙法蓮華経法師品第十』から、
「若(も)し是(こ)の善男子、善女人、我が滅度の後、能(よ)く竊(ひそか)に一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん。當(まさ)に知るべし、是の人は則ち如来の使なり。如来の所遣(しょけん)として、如来の事を行ずるなり」(法華経P321)
との御経文を引用されています。しばしば耳にする御経文です。
経文中「善男子、善女人」と、男女が並列に記述されている、つまり平等に扱われていることと、冒頭に挙げた事件報道に見られるような悪弊を残すインド社会と、完全に乖離(かいり)した経文と現状。
法華経がその御名のごとく清浄の白蓮華とすれば、社会の悪弊は白蓮華の下にある汚泥のごとくに思えてなりません。
そもそも釈尊の教説においても、法華経が説かれる以前は、女性の地位は男性と比較して常に低く据え置かれていました。
『四条金吾殿女房御返事』に、
「日蓮法華経より外の一切経をみ(見)候には、女人とはなりたくも候はず、或経には女人をば地獄の使ひと定められ、或経には大蛇ととかれ、或経にはまが(曲)れ木のごとし、或経には仏の種をい(焦)れる者とこそと(説)かれて候へ」(御書P756)
との仰せが拝せられるとおりです。
また、ある仏教語辞典(『日本仏教語辞典』岩本裕著)には、「女人成仏」について、以下のような記述が見られます。
「女人成佛【にょにんじょうぶつ】女性が女の身体のままで佛になりうること(中略)『提婆達多品』に説かれる竜女の成佛は変成男子(へんじょうなんし)説の物語で、女人の即身成仏説ではない。日蓮は『女人成佛抄』の中で、法華経以前の経典には女人不成佛が説かれ、法華経に至ってはじめて女人の成仏が説かれたとし、事の本質をかくしたことが知られる。」
ウィキペディアで著者の先生について検索してみましたら、創価大学の教授(故人)なんですね。
この先生は、ずいぶん学識豊かな御仁のようです。しかし「日蓮は(略)法華経に至ってはじめて女人の成仏が説かれたとし、事の本質をかくしたことが知られる」との一文は看過しかねます。
著者が指摘する提婆品の経文は、
「當時の衆会(しゅえ)、皆、龍女の、忽然(こつねん)の間に変じて男子と成って(中略)成仏して、普(あまね)く、時の会(え)の人、天の為に法を説くを見て、心大いに歓喜して、悉(ことごと)く遥かに敬禮(きょうらい)す」(法華経P369)
と思われますが、これをもって「成佛は男になってから」とのご高説でしょう。
しかし、
「智積(ちしゃく)菩薩、文殊師利に問うて言わく(中略)此の経[註・法華経]を修行して、速かに仏を得る有りや不(いな)や。文殊師利の言わく、有り。娑竭羅(しゃかつら)龍王の女(むすめ)、年始めて八歳なり」(同P365)
との明文によって、龍女が変成男子する以前に、成佛を遂げていたことが示されています。
著者が経文を読み損なったことは明らかです。大した創価大のセンセイです。
「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。」(御書P666)
私たちは講中の老若男女、互いに敬(うやま)い、励まし仏道精進を心掛けたいものです。「以信得入」の経文、有難く拝し、また、戒めといたしたく存じます。