本尊模刻

(『慧妙』H14.3.1ほか編集)

 はじめに、模刻とは、大聖人御図顕の御本尊や、御歴代上人が書写された紙幅(しふく)の御本尊を、板に御謹刻(きんこく)申し上げることです。
 御法主上人の許可を得れば「模刻」自体は謗法ではありませんが、許可を得ないで行なった場合の「模刻」は大謗法であり、かつ正しい本尊とはならないのです。
 創価学会が御本尊を勝手に模刻したということは、当時の会長であった池田大作氏に、御本尊への信心がなくなっていたからにほかなりません。御本尊は根本尊崇(こんぽんそんすう)、本来尊重(ほんらいそんちょう)の御当体で信心の根本ですから本当に信心があり、御本尊への畏敬(いけい)・尊敬の念があるならば、御本尊に関しては厳格すぎるほど厳格に、慎重すぎるほど慎重にお取り扱いするはずです。
 ましてや、御本尊を模刻するという重大な行為ですから、何度でも御法主上人に御指南を戴くべく、総本山に足を運び、ことを進めるのが当然です。
 それを勝手に「模刻」を実行してしまったのですから、たとえどのような理由を並べようとも、池田氏には厳格な信心がなかったのです。しかも、当時池田氏は、本宗の全信徒に模範を示すべき、法華講総講頭の立場にあったのですから、なおさらのことです。(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』法義研鑽委員会編)

 ことの発端は、昭和49年9月2日、宗門と学会との連絡会議の席上、池田が日達上人に対して「学会本部安置の紙幅の御本尊様が、年月を経(へ)て傷みがひどいので板本尊にしていただきたい」との願い出をしたことに始まる。
 日達上人はその願い出を受け、後で改めて御本尊下付願が出されるものとお思いになっていた。しかし、その下付願が出されないまま、あろうことか池田は、昭和50年1月1日、勝手に模刻した板本尊を学会本部に安置し、自身が導師をして入仏式を執行したのである。
 この謗法行為を間近で見た幹部たちは不信と疑問を持ち、学会内には動揺が拡がり始めた。池田は事態を収拾すべく、あわてて日達上人に模刻本尊の入仏開眼法要を懇請(こんせい)した。
 日達上人は、断固として受け入れなかったが、再三の願い出により、やむなく承諾され、昭和52年11月7日に創価学会創立47周年記念法要において、併(あわ)せて入仏開眼法要を奉修されたのである。
 これで一件落着かと思われたが、さらに重大な事態が明らかとなる。翌・昭和53年正月、年始の挨拶のため御目通りをした赤沢朝陽の社長から「多数の本尊を池田の依頼で模刻した」との話が出たのである。
 日達上人は、ただちに大宣寺御住職・管野慈雲御尊師(当時)に調査の指示を出された。その結果、追認を受けた学会本部安置の板本尊だけでなく、なんと合計8体もあったのである。それらを以下に列挙する。(『慧妙』H25.8.1)

①学会本部安置 昭和26年5月19日・大法弘通慈折広宣流布大願成就
②関西本部安置 昭和30年12月13日
③ヨーロッパ本部安置 昭和39年12月13日
④創価学会文化会館安置 昭和42年6月15日
⑤学会本部会長室安置 昭和42年5月1日
⑥アメリカ本部安置 昭和43年6月29日
⑦賞本門事戒壇正本堂建立 昭和49年1月2日
⑧池田大作授与の御守本尊 昭和26年5月3日
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このうち、①の本尊は、事後の昭和52年11月7日、日達上人が正式に御允可(いんか)あそばされ、学会創立47周年記念と併(あわ)せて開眼入仏法要を営(いとな)まれたので、違法なものは②以降の7体となる。これらはすべて、赤澤佛具店が池田に命ぜられて行なった。それぞれの紙幅の御本尊を写真に撮り、拡大して板に彫刻したのである。(『慧妙』H23.8.1)

[これが模刻事件の真相だ!!]

①御本尊の事は御法主の専権事項だから模刻についても御法主の認可が必要
・これが大前提である。

●今回、宗内に御守本尊と称して、「日蓮大聖人御真蹟」と脚注せる弘安4年3月の御本尊を写真版にしたるものが配布されていることを発見した。
 右は総本山で下付したるものでなく、又法主上人の御允可ありしものでもない。依て本宗の本尊として取り扱うべきではない。(院第246号S29.4.16・宗務院庶務部長 細井精道)
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これは昭和29年に当時庶務部長であられた日達上人が出された院達である。大聖人の真筆御本尊であっても、「法主上人の御允可(いんか)」が必要なのである。当然、学会幹部も知っていたはずである。

●日昇上人御本尊の彫刻(※本部常住「大法弘通」の御本尊)については、前に話があったかどうか記憶ない、許可した覚えはない。正月登山の時に、会長から「板本尊にしました」という報告はあった(日達上人S50.1.10/藤本庶務部長が書き留めた「藤本メモ」大奥での日達上人への御報告)
●こちらが許可していない分(の板本尊)は取り上げて、注意をしました(第66世日達上人『大日蓮』S54.7
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日達上人御自身が「許可した覚えはない」(「藤本メモ」S50.1.10)「許可していない分(の板本尊)は取り上げて、注意をしました」(『大日蓮』S54.7)と仰せられている以上、これがすべてである。手続きがどうあれ、日達上人の允可のない模刻本尊を拝んでも功徳はないのである。

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②杜撰(ずさん)かつ不可解な申請
S49.1.
昭和49年に、学会は創価学会常住の御本尊はじめ数体の御本尊を、将来にわたり大切にお守りするために板御本尊に謹刻させていただきたいと、時の日達上人に願い出たのです。(秋谷会長『聖教新聞』H5.9.15)
昭和49年1月16日のことですが、私が池田先生にお会いした折、先生の方から「御本尊のことは、私から猊下に申し上げておいた。猊下は、“大事にするためなんだからいいんだよ”とおっしゃっていた。安心してよろしく頼みます」と言われたんです。(模刻作業に携わった赤澤猛の証言『聖教新聞』H9.10.17)
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以上は口頭による願出であり、真実を知るのは当事者である日達上人と池田だけ、ということになる。

S49.9.2 宗門・学会の連絡協議会議
●7、本部3階の御本尊(※本部常住「大法弘通」の御本尊)の件-板御本尊にしたい(「藤本メモ」

S49.9.3 日達上人と宗務役僧の会議
●7の件-OK(「藤本メモ」

学会は、模刻の申請をし日達上人の許可をもらったといっているが、公式の連絡会議で申請されたのは本部常住の御本尊のみであり、他は皆、非公式の場でのものである。なぜ、他の7体については連絡会議で申請しなかったのか?このような一貫性のない杜撰な申請と、独りよがりの早合点が、模刻事件を引き起こしたことは間違いない。否、というよりも他の7体について連絡会議で申請しなかったのは、非公式な口頭による申請及び認可もなかったと考えるのが自然である(平成14年発行の北林某著『暁闇』では、賞与御本尊についても連絡会議で申請したことになっているが、平成5年から平成9年の『聖教新聞』にも記載されていない。さらに当該連絡会議について報じる『聖教新聞』にも模刻の申請については記載されていない。したがって全く信じるに足りない)。



③結局、"後出し"の赤澤証言だけの学会
今日の学会側の言い分は、問題発覚当時には全くなかったことであり、"後出し"もいいところ。これだけでも信用できないが、客観的な証拠は何1つなく、赤澤1人の証言のみに基づくという極めて貧弱な主張である(正信会の件と日達上人の御指南を結び付けるのは学会の主観に過ぎない)。



④赤澤証言の矛盾
―「御本尊のこととなると」「厳格」であられた日達上人が失念されたことにしてしまった学会―
S49.1.
昭和49年に、学会は創価学会常住の御本尊はじめ数体の御本尊を、将来にわたり大切にお守りするために板御本尊に謹刻させていただきたいと、時の日達上人に願い出たのです。(秋谷会長『聖教新聞』H5.9.15)
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『聖教新聞』H5.9.30において赤澤が「1月に、池田先生にお会いした折、先生のほうから『御本尊のことは、私から猊下に申し上げておいた。猊下は、“大事にするためなんだからいいんだよ”とおっしゃっていた。安心してよろしく頼みます』と言われたんです。」と証言しているから、この「願い出」は昭和49年1月だと分かる。

S49.秋
日達上人が最初から了解されていたことも、私は直接、確認しています。それは、同じく49年の秋ごろでした。仕事のことで、大奥の対面所で日達上人とのお目通りがありました。本来の用件が終わって、猊下はいったんお帰りになろうとしたんですが、思い出したように戻ってこられ、「そういえば、学会本部の御本尊は赤澤で彫ってるんだよね」と聞かれたのです。
 私が「そうです」と答えますと、猊下は「他のもやってるのかい」と言われました。私が「はい。やりました。たしか、池田先生が猊下様に申し上げたと言われておりましたが」と申し上げると、「うん。池田会長から聞いているよ。あと5、6体やらせてもらいたいと言ってたな」と言われて、部屋を出ていかれたんです。
(赤澤証言『聖教新聞』H5.9.30)
   ↑矛盾↓
S50.1.10
●日昇上人御本尊の彫刻(※本部常住「大法弘通」の御本尊)については、前に話があったかどうか記憶ない、許可した覚えはない。正月登山の時に、会長から「板本尊にしました」という報告はあった(日達上人/藤本庶務部長が書き留めた「藤本メモ」大奥での日達上人への御報告)

[矛盾1]
昭和49年1月に日達上人が「大事にするためなんだからいいんだよ」と模刻の許可をなさり、さらに同年秋(『暁闇』では11月)に「うん。池田会長から聞いているよ。あと5、6体やらせてもらいたいと言ってたな」と仰せになったという。その日達上人が、それからわずか2ヵ月後に「許可した覚えはない」などと仰せられるはずがない。もし、赤澤証言が事実ならば、この時点では正信会の"圧力"はないから、日達上人は、わずか2ヵ月ほど前のことを失念されたことになってしまう


こと御本尊のこととなると日達上人は厳格で、必ずそばにだれもいない時に話をされていました。それが役僧であろうと側近であろうと、だれかいる時にはそうした話は一切口にされませんでした。(赤澤証言『聖教新聞』H9.10.18)
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[矛盾2]
 「御本尊のこととなると」「厳格」とする一方で、何体もの模刻の申請及び許可をすべてお忘れになったというのだから矛盾も甚だしい。
 もし、日達上人が物忘れが激しくなられたのであれば、当然、その他のことでもトラブルが起こるであろうから、上人御自身が一々記録に残されるなどの配慮をされたはずである。赤澤の言うように御本尊のことに厳格であられたのであれば尚更そうなさったであろう。
 ところで、これまで、多くの本尊下付や模刻乃至彫刻の允可をされたはずの日達上人が、以前に同様のトラブルがあったのであろうか?それはなかったはずである。"敵"のアラを捜し出し針小棒大に取り上げることに長けた学会が、日達上人の"物忘れ"の証拠を出せないのだから、間違いない。そうであれば、こと「御本尊のこととなると」「厳格」な日達上人が、学会の模刻についてだけ失念されるなど、到底考えられない。



⑤"日達上人を守るために"のウソ
―上人を二枚舌・嘘つきと言うに等しい学会―
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〈秋谷〉そう。その時、日達上人は「すべて学会本部に宝物としてお納めくだされば結構です」と言われたんだ。私もその場にいて、この耳で聞いている。その日達上人のおっしゃった通り、翌日の『聖教新聞』に報道されています。
〈森田〉ところが今度は、それを材料にした活動家僧侶が、「また猊下は学会にだまされ、利用された」と騒ぎ出し、収拾(しゅうしゅう)がつかなくなった。日達上人に対して、活動家僧侶はものすごい剣幕で詰め寄っていた。
〈佐藤〉結論として学会は、その目通りの後、本部常住の板御本尊以外の7体の板御本尊を本山に納めることになりました。これについても光久は、“大宣寺が学会に泣きつかれた”などと、とぼけたことを言っていますが。
〈原田〉あべこべだ。学会が大宣寺に泣きつかれたんですよ(笑い)。菅野慈雲が「猊下は活動家僧侶との板挟(ばさ)みで、学会を守るために苦しんでいる。猊下の立場を考えて、板御本尊については、本山に納めてくれないか。そうしてくれれば、問題はすべて収まるから」と言ってきたんです。
〈森田〉とにかく当時の宗内は、山崎正友の暗躍と活動家僧侶の暴走で揺れに揺れていた。学会としては、こうした宗内の混乱を収拾することが最優先課題と判断した。だからこそ、日達上人を守るために、学会本部常住の御本尊以外の7体の板御本尊を大石寺に納めたわけです。(『聖教新聞』H9.10.18)

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そう。その時、日達上人は「すべて学会本部に宝物としてお納めくだされば結構です」と言われたんだ。私もその場にいて、この耳で聞いている。その日達上人のおっしゃった通り、翌日の『聖教新聞』(※S53.9.3)に報道されています。(秋谷会長『聖教新聞』H9.10.18)
   ↑矛盾↓
●こちらが許可していない分(の板本尊)は取り上げて、注意をしました(第66世日達上人『大日蓮』S54.7

・学会の言い分を鵜呑みにすれば、日達上人は正信会を抑えるために学会を悪人にしたことになってしまう。これは、日達上人を嘘つき呼ばわりしているに等しい

・また、学会の言い分を鵜呑みにすれば、このことで学会は日達上人に恩を売った格好になる。しかし、その後の日達上人の言動を見る限り、一貫して学会の教義逸脱を厳しく糾弾されている。

・もし、日達上人が7体の模刻を許可されて「すべて学会本部に宝物としてお納めくだされば結構です」と仰せられたのであれば、その後に、正当な理由もなく許可を取り消すなどということはありえない。もし、学会に非がないにも拘らず許可を取り消されたのであれば、必ず、最終的には学会の要望を叶えられたはずである。学会の要望とは何か、それは7体の紙幅本尊を永久に残すために板に謹刻することであろう。学会に非がなく、日達上人もそれを御存知であったならば、学会は何故、52年路線の収束後に、再度、本尊の模刻を御願いしなかったのか?それができなかった理由は、そんなことを申請できるような筋合い(立場)ではなかったからに他ならない。筋合い(立場)ではなかったとは、日達上人は当初から一貫して、学会の模刻を容認されていなかったということである。



⑥言い訳のしようもない、御守御本尊の拡大模刻
 これは、池田大作が、第64世日昇上人より賜った御守御本尊であるが、本来、御守御本尊とは奉安礼拝の対象ではなく、したがって模刻し、奉安する必然性もない御本尊である。
 これを拡大して模刻、奉安したのであるから、池田の信仰が、すでに根本的に崩れ去っていたことが分かろう(『慧妙』H12.11.16)
 このような発想をする者は、大聖人御在世以来、皆無だったのではないか。御守御本尊を拡大して板に模刻してよいという文証や、前例があれば出してみよ!化儀を無視し、本尊を私物のように扱う池田大作は、増上慢の極みとしか言いようがない。学会の模刻行為は、これだけでもアウトです!!

●特にお守御本尊を彫刻したことに対して、(日達上人の)お怒りのお言葉があったことを記憶しております(菅野慈雲御尊師『大日蓮』第573号78頁/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』法義研鑽委員会編)

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⑦唯授一人の血脈を軽視していた当時の池田
 ①で述べたように御本尊に関する一切の権能は御法主上人が所持されている。しかるに池田は、以下に述べるように唯授一人の血脈に対する尊信の念が欠如していた。このような信心だからこそ、②のような杜撰な対応となり、⑥のような狂気の沙汰に及び大問題を引き起こしたのである。
 言い換えれば、当時の池田に唯授一人の血脈に対する尊信の念が欠如していたことは、模刻に際しても御法主を軽視していたことが容易に推測されるのである。そして、この推測の正しいことは、②の一貫性のない杜撰な申請と、⑥の常軌を逸した行為によって確実になる。

血脈相承といえば、よく既成宗教などに見られるように、神秘的に高僧から高僧へ、甚遠甚深の儀式を踏まえて流れるものと思われがちであります。事実、最蓮房もそのように思っていたに違いない。しかし、大聖人の仏法の本義はそのようなところにあるのではない。我が己心の厳粛な信心の中にこそあるといわれているのです。
 大聖人の生命にある生死一大事の血脈を、私たちはどうすれば相承できるか。大聖人ご自身はすでにおられません。だが、大聖人の人法一箇の当体たる御本尊を残してくださっております。この御本尊から生死一大事の血脈を受けるのでありますが、それは剣道の免許皆伝の儀式のような、学校の卒業証書のような、そうしたものがあるわけではない。ただ、唱題という方程式によって、大御本尊の生命を我が生命に移すのです。
(池田大作『生死一大事血脈抄講義』/『大白蓮華』昭和52年6月号)
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これは、当時、血脈否定の証拠として問題になった。

●最近分かったのですけれども、既に昭和38、9年ごろから「会長が仏だ」という話は出ておるんです。それを我々は知らなかった。
 なぜ知らなかったかというと、あの時分はよく地方のブロックに行って、学会の若い人、あるいは教授になった人、あるいは教授補という人が御書の講義をして歩いております。その内のある地方に行って、こういうことを言っておるんです。これは最近分かったことで、私もびっくりしておるんでございます。
 そのことは『曽谷殿御返事』に「是には総別の二義あり総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず」(全集1055頁)これはだれでもよく引用する御文であります。
 その解釈に、「総とは一往血脈相承なり、再往は池田会長で、信心の大師匠である」と、こういう解釈をしておる。それはもう昭和38、9年のことです。こんなことを我々は少しも知らない。そのような地方のブロックヘ、若い人が教授と称して行って、こういうことを一生懸命に言って、会員の頭に入れてしまった。
 総別二義の意義ということは、そんなところにもっていくもんじゃない。一往だとか再往だとかという言葉を使って、我々の言う仏教用語をうまく利用して、とにかく一往は血脈相承だと言う。何で総が血脈相承か、おかしくてしようがない。又「再往は池田会長で、信心の大師匠」だと言う。そういうところから、「池田会長が血脈相承を承(う)けている。学会に血脈が有る」などと言い出してしまう。(第66世日達上人『大白法』S54.4.3号外)



⑧現在の学会の言動が"無許可の模刻"であったことを雄弁に物語っている。

・日寛上人が特定の方に授与された常住御本尊を勝手に写真撮影した上、授与書を抹消してして印刷
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52年路線当時は、まがりなりにも自分達に授与された御本尊の模刻であったが、今回は、他人に授与された御本尊の文字を削除して印刷している。

日顕宗の言う「血脈」などは本当にナンセンスな話です。本来、宗教には、「仏と自分」との関係の信仰が重要であって、権威主義の「血脈」などは、信仰的には何の意味もない(池田大作『聖教新聞』H5.5.5)

その折、私(識者)は、「究極に求められるものは何でしょうか」と(池田に)質問しました。おそらく「板曼荼羅(いたまんだら)の御本尊」と答えられると思っておりましたが、しかし、名誉会長は「久遠元初の法です」と答えられたのです。(中略)このことから、名誉会長が、永遠の根源を求めておられ、板曼荼羅に偏狭(へんきょう)にこだわっておられないことに、非常に感動し、創価学会の普遍性と、発展の因を見た想いでした(「識者の声」として池田が紹介・H5.5.3/『慧妙』H16.7.16
御本仏・日蓮大聖人の御生命は宇宙大であられる。小さな寺院や本山にしか大聖人の御生命はないなどというのは、御本仏への冒涜であろう(『聖教新聞』H5.10.24)
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永遠の根源は「板曼荼羅(日蓮大聖人の建立された御真筆御本尊のうちで、板に彫刻されたのは本門戒壇の大御本尊のみ)」ではなく「久遠元初の法」である、としています。うかつに聞くと、通り過ごしてしまうかもしれませんが、これは大きな誤りです(【御本尊から離れた「法」】参照)。

宗旨の根幹は唯授一人の血脈と大御本尊である。一般の御本尊は、唯授一人の血脈によって大御本尊の内証を書写されたものである。唯授一人の血脈を否定し、大御本尊を軽視する池田が、御本尊を勝手に模刻するくらいのことは"朝飯前"だったのではないか。



[事件の経過]


[本部常住「大法弘通」の御本尊]
 【「藤本メモ」】
  <昭和49年9月2・3日>
  <昭和50年1月10日>


[勝手に作られた7体の模刻本尊]
  <許可の有無>
  <7体の模刻本尊の処置>
  <「模刻はしたけれども偽作はしていません」>
  <「議論無用」との院達>
  <藤本総監の証言>

 【賞与御本尊】
  <略年表>
  <赤澤証言について>
  <原島証言について>
  <学会も正式の許可を認めていない>

 【御守り御本尊の模刻】


[赤澤証言について]


[正信会の証言]
 【佐々木秀明の証言】
 【『祖道の恢復と真の正信確立の為に』】
  <[1]「W師」の発言>
  <[2]「不用意に謹刻」>
  <[1]と[2]の矛盾>
  <執筆者のスタンス>


[御僧侶が模刻本尊を礼拝!?]
 【関西本部安置の「大法興隆所願成就」の板御本尊】
 【「創価学会常住の板御本尊」ならびに「正本堂記念御本尊」の入仏法要】
 【文化会館常住御本尊の入仏式】
 【日達上人が賞与御本尊に読経】


[宗門機関誌の広告]


[「議論を禁止」の院達について]


[『聖教新聞』記事]


[『暁闇』]

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事件の経過


S39. 最も古い目撃証言
●昭和39年9月15日、千葉市・稲毛の稲丘に、小さな創価学会の会館(千葉会館)が建設されたのです。私達も、唱題会や大きな会合があると、よく稲丘の会館に行きました。そこで、初めて手を合わせたときは、板曼荼羅(まんだら)でした。(千葉市・清涼寺信徒S・Tさん談『慧妙』H7.3.16)
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この板曼荼羅は公式的には、その存在が確認されていないため、創価学会が無断で模刻したとされる8体(そのうち1体は後に認可)の中には入っていない。

S48.8.23 日達上人、「賞本門事戒壇正本堂建立」という授与書のある御本尊を書写
●昭和48年8月23日御書写の「賞本門事戒壇正本堂建立」という授与書のある御本尊(『慧妙』H13.4.16)
●御本尊裏書の件(S48.8.23正本堂記念の御本尊)学会持参の原稿「此の御本尊は、正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇為ることの証明の本尊也」(「藤本メモ」S49.5.6=裁判で資料提出されたこともある/『正本堂に関する御指南の真義』)

S48.12.
48年の暮れに、学会本部から、「学会の御本尊を何体か板御本尊にしたいので、そのときはよろしくお願いしたい」という話がありまして、私は、「猊下に一言いっていただければ、私どもも安心してできますが」と答えました。(模刻作業に携わった赤澤猛の証言『聖教新聞』H5.9.30)

S48.12.29
◆実は「本門事の戒壇は正本堂」という御本尊がある。猊下と私だけの唯仏与仏だ。板本尊で、まさしく化儀の広宣流布の8百万は、明確に終わった。文化会館の7階の座しきに安置してあるのだ。これは、私が受けたもの。私が拝ませてあげよう。(池田大作・第2回『御義口伝』受講者大会/原島証言『大白法』H11.7.1)
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ここでいう「板本尊」とは、昭和48年8月23日御書写の「賞本門事戒壇正本堂建立」という授与書のある御本尊を、池田が授与された後、直ちに模刻・複製してしまった板本尊である。これで明らかなごとく、学会では昭和49年以前から、すでに勝手に板本尊を作っていたのだ。(『慧妙』H13.4.16)
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この板曼荼羅は公式的には、その存在が確認されていないため、創価学会が無断で模刻したとされる8体(そのうち1体は後に認可)の中には入っていない。

S49.1.2
◆この御本尊(※紙幅)は、昨年(昭和49年)、会長の誕生日に当たる1月2日に、日達猊下から特別に下賜されたもので、正本堂建立の重要な意義がとどめられた御本尊である。(『聖教新聞』S50.10.24/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)

S49.1.
昭和49年に、学会は創価学会常住の御本尊はじめ数体の御本尊を、将来にわたり大切にお守りするために板御本尊に謹刻させていただきたいと、時の日達上人に願い出たのです。(秋谷会長『聖教新聞』H5.9.15)

S49.1.10
1月10日に学会本部で宗門と学会の連絡会議がおこなわれた際、同御本尊(※賞与御本尊)を板御本尊に謹刻する件について、細井管長の許可を求める申請が宗門側に正規になされた。翌11日、総監・早瀬日慈より、「御本尊に関することは、一応申し上げました」(「記録文書」/北林芳典著『暁闇』H14.12報恩社)
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このような話は模刻事件を扱った『聖教新聞』(H5.9.15・H5.9.30・H9.10.16・H9.10.17・H9.10.18)にもない。さらに当該連絡会議について報じる『聖教新聞』にも模刻の申請については記載されていない。したがって全く信じるに足りない。

S49.1.16
昭和49年1月16日のことですが、私が池田先生にお会いした折、先生の方から「御本尊のことは、私から猊下に申し上げておいた。猊下は、“大事にするためなんだからいいんだよ”とおっしゃっていた。安心してよろしく頼みます」と言われたんです。(赤澤証言『聖教新聞』H9.10.17)

S49.4
◆昭和四十九年四月 朝陽(ニセ本尊と台座に接合した「ほぞ」の彫刻
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ニセ板本尊の実物調査の結果、本体を台座に接合した「ほぞ」の部分に、彫刻師の名前と彫刻した年月を「◆」と刻んだ板本尊も発見されています。(『慧妙』H16.8.1)
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この本尊はいわゆる『賞与本尊』と言われるもの。(『慧妙』H22.3.16)

S49.9.2 宗門・学会の連絡協議会議
●7、本部3階の御本尊(※本部常住「大法弘通」の御本尊)の件-板御本尊にしたい(「藤本メモ」
昭和49年9月2日、大石寺雪山坊でおこなわれた連絡会議においては、創価学会本部3階の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」との脇書のある第64世・水谷日昇管長書写の御本尊を板御本尊に謹刻することについて、創価学会側より宗門側に申し入れがなされた。(『暁闇』)

S49.9.3 日達上人と宗務役僧の会議
●7の件-OK(「藤本メモ」
3日、教学部長・阿部信雄より、創価学会理事長・北条浩宛に、「一応、申し上げました。猊下ご了承です。後程、お目通りの時、先生からお話がある旨申し上げておきました」(『暁闇』)
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北林某の勝手な主張。模刻問題を扱った『聖教新聞』には出ていない。

S49.秋
日達上人が最初から了解されていたことも、私は直接、確認しています。それは、同じく49年の秋ごろでした。仕事のことで、大奥の対面所で日達上人とのお目通りがありました。本来の用件が終わって、猊下はいったんお帰りになろうとしたんですが、思い出したように戻ってこられ、「そういえば、学会本部の御本尊は赤澤で彫ってるんだよね」と聞かれたのです。
 私が「そうです」と答えますと、猊下は「他のもやってるのかい」と言われました。私が「はい。やりました。たしか、池田先生が猊下様に申し上げたと言われておりましたが」と申し上げると、「うん。池田会長から聞いているよ。あと5、6体やらせてもらいたいと言ってたな」と言われて、部屋を出ていかれたんです。
(赤澤証言『聖教新聞』H5.9.30)

S50.1.1 突如、池田は、模刻複製した板御本尊を、自ら導師をして学会本部3階に入仏してしまったのである。(『慧妙』H14.3.1)
◆入仏式は会長(池田)の唱導で方便品・自我偈の読経・唱題の声が和するなか、これまでの紙幅の御本尊は北條浩理事長、森田康夫本部事務総長らの手によって収納され、そのあと、板御本尊に参加者はお目通り。これにより「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の常住御本尊は、永遠不滅の義を刻みつつ本部にご安置されたわけである。(『聖教新聞』S50.1.4

S50.1.10 大奥での日達上人への御報告
●日昇上人御本尊の彫刻(※本部常住「大法弘通」の御本尊)については、前に話があったかどうか記憶ない、許可した覚えはない。正月登山の時に、会長から「板本尊にしました」という報告はあった(日達上人/藤本庶務部長が書き留めた「藤本メモ」

S50.10.12
細井管長は昭和50年10月12日に池田会長と話し合った際、「謹刻した御本尊については、僧侶2、3人で拝むようにしてください。それで結構です」(「記録文書」/『暁闇』)
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このような主張は模刻事件を扱った『聖教新聞』(H5.9.15・H5.9.30・H9.10.16・H9.10.17・H9.10.18)にもない。もし、この記録が事実とすれば本部常住「大法弘通」の御本尊の件についてのことか。

S50.10.23
◆「創価学会常住の板御本尊」ならびに「正本堂記念御本尊」の入仏法要が23日午後、東京・信濃町の学会本部と創価文化会館で、それぞれ早瀬日慈総監の導師のもと厳粛に営まれた。(『聖教新聞』S50.10.24/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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上記昭和50年1月1日の入仏法要の報道(『聖教新聞』S50.1.4)をきっかけに次第に問題視する声が出始めたため、学会は同年10月23日、早瀬日慈御尊能師に願って、再び「大法弘通…」の板本尊の開眼入仏法要をやり直している(『慧妙』H23.8.1)。

S50.11.17
〈※タイトル〉牧口初代会長のお逮夜法要
〈※サブタイトル〉創価文化会館常住御本尊の入仏式も
〈※本文〉「創価学会常住の板御本尊」が安置された学会本部で初めて営まれた牧口初代会長の第32回忌法要―。この日の会場には初代会長の遺影(?)がライトに明るく照らし出され、人々の眼前に迫っていた。特に在りし日の初代会長の写真を目のあたりにした「牧口会」のメンバーは、懐かしの情(?)ととも……
〈※写真説明〉早瀬総監の導師を得て厳粛に営まれた牧口初代会長の第32回忌お逮夜法要(学会本部で)(『聖教新聞』S50.11.18?/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)

S51.10.28
◆この板本尊を永久に東北の守りとして置く(池田大作)
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創価学会会長であった池田大作氏は、自分の「お守り御本尊」を撮影拡大し、勝手に模刻したうえ、昭和51年10月28日に東北研修所で「◆」旨の発言をしました。(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)

S52.11.7
◆この日の儀式は御法主日達上人猊下の大導師により、正午前、正本堂記念御本尊への読経・唱題に始まり、そのあと、師弟会館に御安置の学会本部常住御本尊、そして、広宣会館の慶祝法要と続いた。(『聖教新聞』S52.11.10/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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結局、この学会本部安置の板御本尊については、当初、あいまいながらも「板御本尊にお願いしたい」との申し出があったことから、昭和52年11月7日、日達上人が正式に御允可(いんか)あそばされ、開眼入仏法要を営まれて、決着をつけられたのである。(『慧妙』H14.3.1)

S53.1.
●今、赤澤朝陽の社長が年始の挨拶にきて、学会からの依頼で多数の御本尊を板本尊に直したと聞いた。何体彫刻したのか、赤澤に行って調べて来るように(第66世日達上人/菅野慈雲御尊師の手記『大日蓮』第573号77頁)
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これによって、日達上人が本尊模刻の実態を初めて耳にされたのが、昭和53年正月のことであり、これを報告したのが赤澤氏本人であったことがわかります。赤澤氏は、学会が秘密にしてきた本尊模刻を日達上人に報告した張本人なのです。(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)

●浅草の赤澤佛具店本店に出向き、社長に面会して尋ねたところ、「全部で8体です」とのことでした。(中略)私は大変驚き、また、事の重大さを身を以て感じて、早速、寺に戻って日達上人に電話にて御報告申し上げました。日達上人は、お電話口で、「とんでもないことだ。誠に無礼なことである」と申され、特に御守御本尊を彫刻したことに対してお怒りの御言葉があったことを記億しております。(管野慈雲御尊師『大日蓮』H5.11/<百禍繚乱>WS)
●このようなことは承知していないし、許可したことはない(第66世日達上人/大石寺主任理事として日達上人のおそばに仕え、模刻本尊の収納に当たられた妙縁寺住職・光久諦顕師の話/『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)
菅野住職が、この問題が騒ぎになってから1度見えたことはありますが、それは御謹刻御本尊のあくまで確認だけで、それ以上のことではありませんでした。(赤澤証言『聖教新聞』H5.9.30)

S53.6.
昭和53年6月頃、創価学会が紙幅の御本尊を勝手に板御本尊に「模刻」したという話が、反学会活動家僧の中に流れ始めた。(『暁闇』)

S53.6.29
・学会から、これまで逸脱してきた路線を改め、日蓮正宗の教義を遵守する旨の回答を寄せてきた。これが『教学上の基本問題について』と題する文書で、『聖教新聞』紙上で発表されたのが昭和53年6月30日であったことから「6.30」とも呼ばれている。
●ただ今回の回答では、まだ満足しない人があるだろうけれども、だいたい、この線で了解を願いたいと思います。そして今後、あらためて進んでいこうと思います。  また、それが3年先、5年先にどう変わっても、それは我々の責任ではないんだから、皆の考えにおいてどう取っても結構だけれども、最近の問題は、この辺で納めてもらいたいと思います。(第66世日達上人・教師指導会の砌S53.6.29)
●学会の方で板御本尊に直したところがあります。それは私が知らなかった。しかし、あとで了解をして、こちらも承認したのだから、そういうことをつついて、お互いに喧嘩(けんか)しないように(第66世日達上人・教師指導会/『聖教新聞』H5.9.15)
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このように、学会による御本尊模刻の経緯には問題があったが、日達上人は、一往後から追認したことであるからと、学会本部安置の板御本尊については御了解せられたのである。(「自称『正信会』の虚言集を粉砕す」H15.6.7/<青年僧侶邪義破折班>WS)
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この時点では、宗門として7体の本尊模刻については公開していなかったようである。(法蔵)

S53.9.
・「6.30」以降の昭和53年9月に前述の「本尊模刻事件」が露見してしまい、宗門どころか、学会内部でも大問題となり、脱会者も続出する騒ぎとなった。(『慧妙』?)

S53.9.2
●(学会が模刻した8体の内、7体の板本尊の処置について御指南を求めたのに対し)そんなものは人目にさらすな。金庫の中にでもしまっておけ(第66世日達上人・連絡協議会の記録/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)
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 池田は、同年9月2日の宗門との連絡会議での席上、7体の模刻本尊の処理について、日達上人に「どのように対処したらよいか」とお伺いした。
 この時、日達上人は「●」という旨の御指南をされたという。
 しかし、このような厳しい御指南を、創価学会が会員に示せるはずもなく、学会が『聖教新聞』に掲載した記事は、次のような驚くべきスリカエであった。(『慧妙』?)↓

◆今まで本部として謹刻させていただいた数体の板御本尊について御指南を仰ぎ、猊下よりすべて学会本部の宝物としてお納めくだされば結構ですとのお話があった(『聖教新聞』S53.9.3

S53.9.14
大分県別府市の寿福寺において、創価学会の原田稔副会長、野崎勲青年部長、原島嵩教学部長と、反学会活動家僧である佐々木秀明、渡辺広済、山口法興、荻原昭謙、丸岡文乗、菅野憲道らとで話し合いがもたれた。この時佐々木は、細井管長から口止めされている本尊「模刻」問題について、学会側を詰問した。(『暁闇』)

S53.9.28 学会、7体の模刻本尊を総本山に納める(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)

S53.10.3
●①9月28日、学会模刻の板本尊は本山に奉納せられた。②学会本部安置(3階)の板本尊は猊下の承認。③よって、板本尊に関して論議無用(院達/『暁闇』)
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日達上人は一宗を統括し、御本尊にかかわる権能を所持あそばされる御法主のお立場から、創価学会が2度と過ちを犯さないという前提で、10月3日付の「院達」をもって本尊模刻事件に関する議論を禁止されました。(教学部副部長・水島公正『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)

S53.11.7
◆総本山大石寺こそ、信仰の根本道場である。戒壇の大御本尊を離れて、われわれの信仰はない。不用意にご謹刻申し上げた御本尊については、重ねて猊下のご指南をうけ、奉安殿にご奉納申し上げた(辻副会長『聖教新聞』S53.11.8要旨/<宗門>WS)
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「6.30」以降の昭和53年9月に前述の「本尊模刻事件」が露見してしまい、宗門どころか、学会内部でも大問題となり、脱会者も続出する騒ぎとなった。そこで、学会は事態を収拾すべく宗門側と会談を重ねた結果「創価学会創立48周年記念代表幹部会」を、11月7日に総本山で開催することになった。これが、創価学会が初めて宗門に公式に謝罪した、通称「お詫び登山」である。昭和53年11月7日に開催されたことから「11.7」とも称される。
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学会の非を詫びたことによって、一往、模刻事件を終息することとなりました。(教学部副部長・水島公正『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)

S54.
●こちらが許可していない分(の板本尊)は取り上げて、注意をしました(第66世日達上人『大日蓮』S54.7

S54.11.11
◆御本尊の件につきましては、信心の根本の問題であり、「11.7」の基本をふまえて、猊下の御指南を仰ぎつつ、お取り扱い、手続きなど、宗風を重んじ、一段と厳格に望んでまいります。
 御本尊に関しては、昭和53年10月3日付けの院達をもって「一切論じてはならない」旨の厳命を受けておりますので、私たちとしては、これを猊下の御命と受けとめ、厳守してまいりたい。御命があるにもかかわらず、なお論ずることは、そのこと自体が猊下の御命に背く謗法であると信ずるからであります。
 以上これまでの経緯と意義内容及び過去において正宗の化儀化法から逸脱した点を明らかにしてまいりましたが、会員の皆さまにおかれては、よろしくその趣旨をご理解願いたいと思うものであります。(『特別学習会テキスト』)

S57.
●(正信会側の弁護士の「1体のほか、7体の本尊の模刻は事前に猊下の承認を得たのですか」との尋問に対して)7体については知らなかった(対正信会裁判でに藤本総監の証言/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)




常住「大法弘通」の御本尊


 記録によれば、昭和49年9月2日の宗門・学会の連絡会議において、学会側が、「本部の常住御本尊を板御本尊にお願いしたい」と申し出ており、翌3日、この申し出を知られた日達上人は、「いいでしょう」との御意向を宗務役僧に示されている。
 その後、日達上人は、学会から本部常住の新たな板御本尊御下附願が正式に出てくるもの、とばかり思って待っておられたが、。学会側からは総本山に何の願い出も連絡もないまま、約4ヵ月が経過した。
 そして年を明けた昭和50年の1月1日、突如、池田は、学会常住の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の御本尊から模刻複製した板本尊を、自ら導師をして学会本部3階に入仏してしまったのである。当時の『聖教新聞』は、これを次のように報じている。
 「板御本尊に参加者はお目通り。これにより『大法弘通慈折広宣流布大願成就』の常住御本尊は、永遠不滅の義を刻みつつ本部にご安置されたわけである。なお、これまでの紙幅の常住御本尊は学会の重宝として永遠に保存されることになった」(『聖教新聞』S50.1.4)
 これが物議をかもさぬわけはない。この報道をきっかけに次第に問題視する声が出始めたため、学会は同年10月23日、早瀬日慈御尊能師に願って、再び「大法弘通…」の板本尊の開眼入仏法要をやり直している(『聖教新聞』S50.10.24)。
 そして、これをもって、「この日に、常住御本尊が日達猊下の御認可を得て板御本尊に謹刻・荘厳され」(「入仏1周年記念の儀式」『聖教新聞』S51.10.24)たことにしようとしたが、これはかえって、1月1日の時点で池田によって行なわれた模刻・開眼・入仏が、ほとんど独断で行なわれたものであることを、自ら証明する結果となった。
 結局、この「大法弘通…」の板御本尊については、、当初、あいまいながらも「板御本尊にお願いしたい」との申し出があったことから、昭和52年11月7日、日達上人が正式に御允可あそばされ、学会創立47周年記念と併(あわ)せて開眼入仏法要を営まれ、決着をつけられたのである。(『慧妙』H23.8.1)

1◆入仏式は会長(池田)の唱導で方便品・自我偈の読経・唱題の声が和するなか、これまでの紙幅の御本尊は北條浩理事長、森田康夫本部事務総長らの手によって収納され、そのあと、板御本尊に参加者はお目通り。これにより「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の常住御本尊は、永遠不滅の義を刻みつつ本部にご安置されたわけである。(『聖教新聞』S50.1.4
-----------------------
実はこの時点で、この板本尊は模刻の許可を宗門からいただいていなかったのである。口頭による願いの後、正式な御本尊御下付願いを出すのが当然であるにもかかわらず、これを無視し、勝手に板本尊を造ってしまったのである。


【「藤本」メモ】
<昭和49年9月2・3日>
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9・2
  △后6:50~8:40 雪山坊 連絡会議
   阿部、吉田、藤本、理事    横山
   会長、北条、森田(康)、星生、八尋、平野
1. 正本堂建立2周年記念行事の件、  ―10月11. 12の2日間
2. 正本堂会計の収束について、  ―9月末日で収束
3. 正本堂会計の土地を学会に譲渡する件、  ―扶桑文化センター等
4. 宗門擁護基金について、  ―とりやめる
5. 記念資料館について、  ―運営主体、富士美術カンに
6. 旧妙國寺建物、土地譲渡の件 ―お願いしたい
7. 本部三階の御本尊の件 ―板御本尊にしたい
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9・3
  [奥]*ゼ8:35~9:40(阿、吉、藤、理)
  昨夜の連絡会議の件 御報告
1. 正本堂2周年法要の名称 正本堂建立第三年記念大法要
       第1日 世界平和祈願会
       第2日 正本堂建立第三年記念法要
 2の件 ―OK
 3の件 ―OK
 4の件 ―OK
 5の件 ―OK
 6の件 ―OK
 7の件 ―OK
(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS061028)
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 許可を得ていた事実は、藤本総監の昭和49年9月2日付のメモ(宗門・学会の連絡会議の記録)に
 「7、本部3階の御本尊の件-板御本尊にしたい
とあり、さらに、その翌日のメモ(日達上人と宗務役僧の会議の記録)
 「7の件-OK
と、日達上人が許可されていた事実を記されていることからも、明らかである。
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 この本部3階の御本尊というのは、64世日昇上人の昭和26年5月19日お認めの「大法弘通慈折広布大願成就」という為書きのある紙幅御本尊であり、この御本尊が、永年、陽が当たって傷んできたので、もったいないから、板御本尊にしたいという、こういう願い出でありました。
 これを翌9月3日、日達上人に御報告申し上げ、日達上人は御承知あそばされたということであります。
 ここで大事なことは、日達上人は、学会の「板御本尊にしたい」という意味は、今までの日昇上人の紙幅御本尊はおしまいして、新たに日達上人に板御本尊の御下附を願い出るものと、このように思われて、そういう意味で御承知であったということでございます。日昇上人の御本尊そのものを板御本尊に模刻することを許可せられたのではないということであり、このことは、先程も出ましたが、菅野慈雲師の『大日蓮』573号に発表されている手記のなかで、日達上人の右言葉として、
●「板本尊にしてほしいという願いはあったが、その後、御本尊下附願いが正式に出てこないので、どうしたのかと思っていたら、既に板本尊に直していたということを後から聞かされた」(同書78頁)
と、こういう仰せからも明らかであります。(総監・藤本日潤『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)

 昭和49年9月3日の連絡協議会メモ(別掲2)にある「OK」を見て軽々に判断を下さず、前日9月2日のメモ(別掲1)の内容をよく読んで「OK」の意味を考えなければなりません。
 連絡協議会の議題①~⑦の内で、①は9月3日のメモにあるように、正本堂2周年法要の名称についてですから、特に手続きが必要な事柄ではありません。
 ところが②~⑦の件は、よく読めばわかるように、すべて正式な手続きが必要なことばかりです。ですから9月3日のメモの「OK」は、いずれも前日の連絡協議会の御報告を日達上人にし、正式な手続きを開始する許可を賜ったことを意味する「OK」なのです。(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)

 これは、昭和49年9月2日、雪山坊で開かれた連絡会議の席上、学会側より「本部安置の御本尊を板御本尊にしたい」との申し出があったことを、その翌日、日達上人に御報告申し上げたところ、日達上人より板御本尊にすることのご許可をいただいた旨を、記録したものである。
 その後、日達上人は、学会から本部常住の新たな板御本尊御下附願が正式に出てくるもの、とばかり思っておられたというが、学会側からは総本山に何の願い出も連絡もないまま、約4ヵ月が経過。
 そして年を明けた昭和50年の1月1日、突如、池田は、模刻複製した板御本尊を、自ら導師をして学会本部3階に入仏してしまったのである。(『慧妙』H14.3.1)

別掲1[画像]:藤本総監の昭和49年9月2日付のメモ(宗門・学会の連絡会議の記録)

別掲2[画像]:藤本総監の昭和49年9月3日付のメモ(日達上人と宗務役僧の会議の記録)


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◆3日、教学部長・阿部信雄より、創価学会理事長・北条浩宛に、「一応、申し上げました。猊下ご了承です。後程、お目通りの時、先生からお話がある旨申し上げておきました」(『暁闇』)
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北林某による出所不明の勝手な主張。模刻事件を扱った『聖教新聞』(H5.9.15・H5.9.30・H9.10.16・H9.10.17・H9.10.18)にもない。仮に事実だったとしても「猊下ご了承」とは、前述のように正式な手続きを開始する許可を賜ったことを意味するものに過ぎない。



<昭和50年1月10日>
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1. 10
 [奥]*ゼ9:10(吉田、藤本)
 1. 昨日の会議の結果 御報告
  (藤本より)
 1. 妙教寺 駐車場用地購入承認書1/10付―印頂戴
 2. 仏心寺 土地贈与(学会へ、会館用地として)承認証―OK
 3. 本証寺 総代・補欠(K)選定届―OK
 4. 妙経寺 総代改選届      ―〃
 5. 興道寺 法ケ講役員改選届   ―〃
 6. 伊藤康二(品川区小山4―14―10)より藤本宛書簡(学会本部で紙幅御本尊を板御本尊に彫刻、入仏式をやったことが聖教新聞に出ている件について質問) 御披露―G)日昇上人御本尊の彫刻については. 前に話しがあったかどうか記憶ない.許可した覚えはない。正月登山の時に。会長から「板御本尊にしました」という報告はあった。個人が受けた御本尊だから、その人又は会の宝物だから。どのように格護しようと他がとやかく云えない。紙幅を板御本尊にするということは。前からも行なわれている。御開眼とか。入仏式とかは。信仰上からは。僧侶にお願いするのが本当だが。しかし。これも個人の自由で、僧侶を呼ばなければいけない。という事でもない
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●日昇上人御本尊の彫刻については、前に話があったかどうか記憶ない、許可した覚えはない。正月登山の時に、会長から「板本尊にしました」という報告はあった(昭和50年1月10日の大奥での日達上人への御報告の議事録)
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以上のことから、日達上人が、いったん板御本尊への願い出を受け許可されていながら、それを失念されていたことは明白である。
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 ですから、次に挙げている4ヵ月後の「藤本メモ」、昭和50年1月10日の日達上人への御報告の記録のなかで、「6、伊藤康二より藤本宛書簡(学会本部で紙幅御本尊を板御本尊に彫刻、入仏式をやったことが聖教新聞に出ている件について質問)」、これを御披露申し上げたところ、日達上人は、
 「日昇上人御本尊の彫刻については、前に話しがあったかどうか記憶ない。許可した覚えはない。正月登山の時に、会長から『板本尊にしました』という報告はあった」
と、こう仰せられている。
 その「記憶ない、許可した覚えはない」という内容は、まさに日昇上人の御本尊そのものを模刻することについては「話も聞いていないし、許可した覚えもない」という意味であって、4ヵ月前の9月の池田の願い出をお忘れになったということでは、けっしてないということであります。(総監・藤本日潤『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)

 4ヵ月後の、昭和50年1月10日付メモ(別掲3)に「日昇上人御本尊の彫刻については前に話しがあったかどうか記憶ない、許可した覚えはない」とあり、さらに日達上人は
 「板本尊にしてほしいという願いはあったが、その後、御本尊下附願いが正式に出てこないので、どうしたのかと思っていたら、既に板本尊に直していたということを後から聞かされた」(第66世日達上人/菅野慈雲御尊師手記『大日蓮』第573号78頁)
と明確にいわれています。
 学会は「連絡協議会のメモ」や、関係者の記憶で弁解せず、何年何月何日に正式に許可を戴いた、という明確な書類をこそ公表すべきです。その許可がないゆえに、「OK」の文字で学会員をごまかそうとしているのです。(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)

 およそ、紙幅の御本尊を板御本尊に替えるとすれば、通常は新たな板御本尊の御下附を申請するものであり、まさか、紙幅の御本尊を板に模刻してしまうとは思わない。
 それ故、日達上人は、昭和50年1月10日の大奥での議事録において、池田の「板本尊に直した」との報告について「許可した覚えはない」と仰せられたのであって、学会が言うように「失念」せられていたわけではない。
 結局、この学会本部安置の板御本尊については、当初、あいまいながらも「板御本尊にお願いしたい」との申し出があったことから、昭和52年11月7日、日達上人が正式に御允可(いんか)あそばされ、開眼入仏法要を営まれて、決着をつけられたのである。
 しかし、先にも記したように、それ以外の7体の板本尊(もちろんニセ本尊)は、許可されていない拝んではならないニセ本尊であるから、創価学会から取り上げ、会員の目に触れないようにしてしまったのである。(『慧妙』H14.3.1)


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●個人が受けた本尊だから、その人又は会の宝物だから、どのように格護しようがとやかく云えない。紙幅を板御本尊にするということは、前からも行われている。御開眼とか、入仏式とかは、信仰上からは、僧侶にお願いするのが本当だが、しかし、これも個人の自由で、僧侶を呼ばなければいけない、という事でもない(昭和50年1月10日の大奥での日達上人への御報告の議事録)
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 昭和50年1月1日、創価学会本部で板御本尊の入仏式が行われ、その模様が同月4日付けの『聖教新聞』1面(※上記1◆)に掲載された。
 この記事を読んだ伊藤某が宗門に問い合わせをし、藤本庶務部長(当時)が細井日達管長に報告。その時の管長の回答が藤本メモ。
 日達上人が、じつは学会による御本尊の彫刻、入仏を認めていたことが明らかである。
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 まず、「紙幅の御本尊を板御本尊になおすということは、以前からも行われていることであり、受けた人の考えによるものであるから、そのこと自体に他の人がとやかく言うことはできない」という仰せでありますが、このことと御法主の許可を頂くという手続きとは別であります。板御本尊にするかどうかは本人の意志によるけれども、そのための手続きとしては御法主上人のお許しが必要であるということは、本宗の信仰の上から当然のことであります。
 しかし、この本部3階の御本尊については、前年の9月に申し出を受けたという経過もあるので、一往与えて、追認という形をとられたわけであります。もし許可の必要が全くないものであれば、他の7体の模刻本尊を総本山へ納めさせる理由も全くなくなるのであります。(中略)
 次に「御開眼とか、入仏式とかは、信仰上からは、僧侶にお願いするのが本当だが、しかし、これも個人の自由で、僧侶を呼ばなければいけない、という事でもない」というお言葉であります。
 これは、学会が、本部3階安置の御本尊を模刻し、昭和50年元旦に入仏式まで行ったという、特殊なけケースに対する御指南であり、しかも、これに不審を懐いた伊藤康二氏に対する内々の御指南である、ということを知らなくてはなりません。すなわち、通常、総本山より正規に下附される御本尊とは一切、関係がない、ということであります。日達上人は、伊藤氏が本宗の信仰に混乱をきたさないよう御配慮されつつ、御法主としての大慈大悲のお立場から最大限に学会を包容あそばされ、追認あそばされた、と理解すべきであります。
 したがって、このお言葉のなかでも「御本尊の御開眼とか入仏式とかは、本来的に僧侶の導師によって行うべきである」ということを仰せでありますが、ここで仰せの「僧侶」とは御法主上人御自身であり、あるいはその御代理の僧侶を意味する、ということは言うまでもありません。しかしまた、既に入仏式まで行ってしまった学会を擁護され、また追認あそばされるという情況の上で、敢えて「僧侶(御自身)なしでもやむをえない」旨をお示しになっているのであります。このため、日達上人は、御法主による御開眼のない模刻御本尊の入仏式を、本来的、また一般的な意味で、まして積極的な意味でお認めになっているのではけっしてない、ということであります。  それを学会は、「彫刻したことも、開眼がなかったことも特に問題ではない」というふうに解釈して、あまつさえ「学会は日達上人を守るために、全く問題のなかった御本尊謹刻の無実の罪をかぶってきたというのが真実だったのです」と強言するに及んでは、何をか言わんやであり、日達上人の御慈悲を踏みにじる無慚無愧、この上ないものと言わなければなりません。(総監・藤本日潤『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)

別掲3[画像]:藤本総監の昭和50年1月10日付のメモ(大奥での日達上人への御報告の議事録)

●こちらが許可していない分(の板本尊)は取り上げて、注意をしました(第66世日達上人『大日蓮』S54.7
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★日達上人は"申請もせずに勝手に模刻したこと"を理由に7体の模刻本尊を回収されたのである。その事実が、"法主の許可なく模刻することは違法"ということが日達上人の真意であったことを雄弁に物語る。




勝手に作られた7体の模刻本尊


昭和53年正月、学会御本尊の模刻にかかわってきた仏師・赤澤朝陽の社長が、自らの罪の深さに恐れおののいたのであろう、日達上人にお目通りした折り、「多数の本尊を池田の依頼で模刻した」と報告したことから、先の「大法弘通」の御本尊以外にも、多数の御本尊が勝手に模刻されていた事実が明らかとなった。(『慧妙』H14.3.1)

 Ⅰ 賞 本門事戒壇正本堂建立 昭和49年1月2日
 Ⅱ 創価学会 関西本部 昭和30年12月13日
 Ⅲ 創価学会 文化会館 昭和42年6月15日
 Ⅳ 創価学会 会長室 昭和42年5月1日
 Ⅴ 創価学会 ヨーロッパ本部 昭和39年12月13日
 Ⅵ 日蓮正宗 アメリカ本部 昭和43年6月29日
 Ⅶ 御守御本尊 昭和26年5月3日


[画像]:模刻された御本尊(『慧妙』H14.3.1)=未許可ゆえに、宗門に"取り上げ"られた模刻板本尊


<許可の有無>
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すべて日達上人の許可を得て、傷(いた)んできた紙幅の常住御本尊を、板御本尊として御謹刻したもの
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創価学会が、日達上人に板御本尊の申し出をしたのは、昭和49年9月2日のこと(上記学会本部常住御本尊の件)。後にも先にも、この1回のみであった。(『慧妙』H14.3.1)

◆総本山大石寺こそ、信仰の根本道場である。戒壇の大御本尊を離れて、われわれの信仰はない。不用意にご謹刻申し上げた御本尊については、重ねて猊下のご指南をうけ、奉安殿にご奉納申し上げた(辻副会長『聖教新聞』S53.11.8要旨/<宗門>WS)
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模刻本尊に問題がなければ「奉安殿にご奉納」する必要はない。「奉納」といえば聞こえはよいが、7体のニセ本尊(当時、判明しただけでも、7体の板本尊が勝手に模造されていた)を総本山で取り上げたのであった。↓

こちらが許可していない分(の板本尊)は取り上げて、注意をしました(第66世日達上人『大日蓮』S54.7


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時の御法主日達上人が、自ら許可していたことを失念されていたため、創価学会が勝手に作ったかのごとく宗門で喧伝され、大騒ぎになったのである。
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 何体もの御本尊を数年間の中で模刻することにつき、そのつど許可されておきながら、それを全て失念する、などという馬鹿な話があろうはずがありません。
 この学会の言い訳は、「死人に口なし」とばかりに、全ての罪を日達上人にかぶせてしまおうとする、許し難(がた)い捏造(ねつぞう)であります。(『慧妙』H16.8.1)

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〈原田〉まったくタチの悪い教学部副部長だ。こんな“トリック”で、人々を騙(だま)そうとするなんて、まったくずるい。この昭和49年9月2日というのは、学会と宗門の連絡会議が行われた日のことだが、ここで議題に上がった板御本尊とは、学会本部常住の師弟会館の御本尊のことで、「正本堂賞与御本尊」のことではない。
〈森田〉そう。私も出席者だったからよく覚えている。もともと御謹刻は日達上人の了解を得てから始めたものだが、学会本部常住の御本尊を御謹刻する際、改めて、連絡会議にかけたのです。(『聖教新聞』H9.10.17)
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 「御謹刻は日達上人の了解を得たうえで始めた」というのは昭和49年1月の非公式な口頭の申請である。これは8体全部の模刻を申請したのだそうだ。しかし、「再度、連絡会議にもかけている」という「49年の9月2日」の「連絡会議」で議題に上がった板御本尊とは、学会本部常住の師弟会館の御本尊のことで、「正本堂賞与御本尊」のことではない。では、「正本堂賞与御本尊」を含む7体の模刻については、連絡会議にかけたのかといえば、証言も証拠もない。
 要するに、7体については口頭で日達上人に申請(死人に口無し!)したという赤澤証言があるのみで、連絡会議という公式の場では申請していなかったのである。
 一方、日達上人は、学会本部常住の御本尊の模刻申請しか受けていないと仰せである。
 要するに、連絡会議での申請の有無と、日達上人の御発言は一致しており、赤澤が「死人に口無し!」を利用してウソをついていると考えれば、すべてが矛盾なく説明できるのである。

S48.12.
48年の暮れに、学会本部から、「学会の御本尊を何体か板御本尊にしたいので、そのときはよろしくお願いしたい」という話がありまして、私は、「猊下に一言いっていただければ、私どもも安心してできますが」と答えました。(模刻作業に携わった赤澤猛の証言『聖教新聞』H5.9.30)

S49.1.
1月に、池田先生にお会いした折、先生のほうから「御本尊のことは、私から猊下に申し上げておいた。猊下は、“大事にするためなんだからいいんだよ”とおっしゃっていた。安心してよろしく頼みます」と言われたんです。(赤澤証言『聖教新聞』H5.9.30)

S49.1.10
1月10日に学会本部で宗門と学会の連絡会議がおこなわれた際、同御本尊(※賞与御本尊)を板御本尊に謹刻する件について、細井管長の許可を求める申請が宗門側に正規になされた。翌11日、総監・早瀬日慈より、「御本尊に関することは、一応申し上げました」(「記録文書」/北林芳典著『暁闇』
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このような話は模刻問題を扱った『聖教新聞』(H5.9.15・H5.9.30・H9.10.16・H9.10.17・H9.10.18)にもない。さらに当該連絡会議について報じる『聖教新聞』にも模刻の申請については記載されていない。したがって北林某の個人的捏造である。では何故、北林某がこのような記述を思いついたのか?それは、"聖教記事では学会本部常住の御本尊のみ連絡会議にかけて、他の御本尊については非公式の申請だけということになるが、これではあまりにも説得力に欠ける"と思ったからであろう。

●日昇上人御本尊の彫刻(※本部常住「大法弘通」の御本尊)については、前に話があったかどうか記憶ない、許可した覚えはない。正月登山の時に、会長から「板本尊にしました」という報告はあった(日達上人/藤本庶務部長が書き留めた「藤本メモ」)
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学会本部常住の御本尊については「板本尊にしました」という結果報告があった。しかし、賞与御本尊をはじめとする7体については結果報告がなかったのは何故か?それは連絡会議という公式の場での申請がなされたのが学会本部常住の御本尊のみであったからであろう。否、真相は、赤澤の言う口頭の申請さえもなかったから結果報告ができなかったのであろう。



<7体の模刻本尊の処置>
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S53.9.2
●(学会が模刻した8体の内、7体の板本尊の処置について御指南を求めたのに対し)そんなものは人目にさらすな。金庫の中にでもしまっておけ(第66世日達上人・連絡協議会の記録/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)
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〈原田〉これもまったくのデタラメです。活動家僧侶(後の正信会)が謹刻問題で騒(さわ)ぎ出した際、学会としては、あくまでも日達上人をお守りする立場から、昭和53年9月2日の目通りの席で、御本尊の扱いで指南を求めたわけです。 〈秋谷〉そう。その時、日達上人は「すべて学会本部に宝物としてお納めくだされば結構です」と言われたんだ。私もその場にいて、この耳で聞いている。その日達上人のおっしゃった通り、翌日の『聖教新聞』に報道されています。(『聖教新聞』H9.10.18
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 特に由緒のある御本尊であれば格別、紙幅の御本尊を板に模刻しただけで「宝物」と表現するのは、少しおかしくないか。傷みが目立つ紙幅の御本尊であれば、お巻きして「宝物」として保管するというのも理解できるが、実際に会館に安置して会員が日常的に拝むのであれば、「宝物」という表現に違和感をもつ。
 やはり、これは、「そんなものは人目にさらすな。金庫の中にでもしまっておけ」という御指南を、そのままでは新聞に掲載できないので、当たり障りのないように改竄(かいざん)したとみるのが妥当だろう。


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〈森田〉ところが今度は、それを材料にした活動家僧侶が、「また猊下は学会にだまされ、利用された」と騒ぎ出し、収拾(しゅうしゅう)がつかなくなった。日達上人に対して、活動家僧侶はものすごい剣幕で詰め寄っていた。
〈佐藤〉結論として学会は、その目通りの後、本部常住の板御本尊以外の7体の板御本尊を本山に納めることになりました。これについても光久は、“大宣寺が学会に泣きつかれた”などと、とぼけたことを言っていますが。
〈原田〉あべこべだ。学会が大宣寺に泣きつかれたんですよ(笑い)。菅野慈雲が「猊下は活動家僧侶との板挟(ばさ)みで、学会を守るために苦しんでいる。猊下の立場を考えて、板御本尊については、本山に納めてくれないか。そうしてくれれば、問題はすべて収まるから」と言ってきたんです。(『聖教新聞』H9.10.18)
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 以下に示すように、正信会は現在まで、学会本部常住の御本尊の模刻も問題にしている。もし、学会のいうように、「活動家僧侶との板挟(ばさ)みで、学会を守るために」「板御本尊を本山に納めることにな」ったのであれば、当然、その対象は8体全部でなければならない。しかし、実際には学会本部常住の板御本尊については納められなかった。それは何故か?
 その理由は、"学会本部常住の御本尊はまがりなりにも模刻申請があったが、他の7体については申請さえなかった"という日達上人御自身の事実認識に基づく処分だったからである。

◆辻武寿副会長は「不用意にご謹刻申し上げた御本尊については云々」と述べていますが、御本尊大聖人の御魂である御本尊を「不用意にご謹刻申し上げ」たとは、具体的にはいかなる行為を指すのですか。またその「ご謹刻本尊」の正確な数は、これまで公表されておりませんが、正直のところ、一体何体作られたのですか。(学会への公開質問『継命』S55.2.1/<正信会>WS070120)

◆本当は日達上人は、「本尊模刻問題を出すときは学会を破門にするときだ」というお気持ちであられたのです。そううかがっております。本尊模刻は謗法の最たるものです。それを敢えて日達上人はお許しくださったのです(原島嵩『本尊模刻事件のすべて』継命新聞社S55.12.1<青年僧侶邪義破折班>WS

◆辻武寿副会長は、戒壇の大御本尊根本の信心を強調し、「その意味からも、不用意にご謹刻申し上げた御本尊については、重ねて猊下のご指南をうけ、奉安殿にご奉納申し上げました。今後御本尊に関しては、こうしたことも含めて、お取り扱い、手続きなどは、宗風を重んじ、一段と厳格に臨んでまいりたいと思います」と述べた。
 この辻副会長発言は、学会が犯した本尊模刻が、戒壇の大御本尊根本の信心からかけはなれ、正宗の化法化儀から大きく逸脱してしまったことを認めたものである。(「『11.7』とは?」/<正信会>WS070120)
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正信会の公式ウェブサイトには現在(H19.1.20)も、学会の模刻本尊を批判する内容が掲載されている。


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>学会で彫刻した御本尊はニセ本尊ではなかった。ゆえに、本山でも、回収した7体の本尊を、正式な本尊として御宝蔵に保管している。
>宗門は何故奉安殿に安置したのだ?謗法払いをすればすむ事ではないか!矛盾している。(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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 彼等はここで「7体の御本尊は正式な御本尊として御宝蔵に保管されている」と言っておりますが、これも全くのでたらめです。7体の模刻本尊は、正式な本尊ではなく、単に外形だけを似せた、彫刻された板に過ぎないので、御宝蔵ではなく、現在は倉庫に保管してあるだけのことです。
 これについて、ある学会幹部が「模刻本尊が謗法だと言うならば、いつまでも本山に置くことはない。叩き割るなり、焼却すればよいではないか」と言ったそうですが稀代の大増上慢・池田大作と、策謀集団・創価学会を後世に語り継ぐ証拠の品を、そうは簡単に割ったり焼いたりはできません。これら7体は、後代への戒めの意味も含め、大石寺に永く留め置くべきであると思うのであります。(教学部副部長・水島公正H9.8.28『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)

 何が「正式な本尊として御宝蔵に保管」だ。バカも休み休み言うべきである。
 御法主上人の知らぬところで、学会が勝手に「模刻」して作った板本尊は、まぎれもなくニセ本尊であった。ゆえに、本山に没収し、学会の大謗法の証拠品として、倉庫(元の奉安殿)の中に、毛布に包んで置いてあった。
 これが全てだ。(『慧妙』H9.10.1)

◆総本山大石寺こそ、信仰の根本道場である。戒壇の大御本尊を離れて、われわれの信仰はない。不用意にご謹刻申し上げた御本尊については、重ねて猊下のご指南をうけ、奉安殿にご奉納申し上げた(辻副会長『聖教新聞』S53.11.8要旨/<宗門>WS)
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7体の模刻本尊に問題がないのであれば、そのまま学会が会館に安置し、会員に拝ませるはず。そのための模刻だったはずではないか。それができなかったこと自体、日達上人の允可(いんか)のないニセ本尊だった証拠である。「ご奉納」とは、会員の動揺を抑えるための苦し紛れの表現に過ぎない。(法蔵)


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「模刻本尊が謗法」なら、速やかに謗法払いをするのが日蓮正宗の教義ではないのか?学会の体面など関係なかろう! (<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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●他宗の法花宗に成る時、本と所持の絵像木像并に神座其の外他宗の守なんどを法花堂に納むるなり、其の故は一切の法は法花経より出てたるが故に此の経を持つ時、本の如く妙法蓮花経の内証に事納まる姿なり、総して一生涯の間、大小権実の仏法に於いて成す所の所作、皆妙法蓮花経を持つ時、妙法蓮花経の功徳と成るなり、此の時実の功徳なり云云。(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻70頁)
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他宗の本尊であっても御守であっても、これを破却することなく末寺の「法華堂」に納めていたのである。その意義から言えば、たとえ邪宗の本尊であっても必ずしも破却する必要はない。

●学会の方で板御本尊に直したところがあります。それは私が知らなかった。しかし、あとで了解をして、こちらも承認したのだから、そういうことをつついて、お互いに喧嘩(けんか)しないように(第66世日達上人・教師指導会S53.6.29/『聖教新聞』H5.9.15)
●(学会が模刻した8体の内、7体の板本尊の処置について御指南を求めたのに対し)そんなものは人目にさらすな。金庫の中にでもしまっておけ(第66世日達上人・連絡協議会の記録S53.9.2/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)
●①9月28日、学会模刻の板本尊は本山に奉納せられた。②学会本部安置(3階)の板本尊は猊下の承認。③よって、板本尊に関して論議無用(院達S53.10.3/『暁闇』)
●こちらが許可していない分(の板本尊)は取り上げて、注意をしました(第66世日達上人『大日蓮』S54.7
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「あとで了解をして、こちらも承認」とは学会本部常住の御本尊の件である(「自称『正信会』の虚言集を粉砕す」H15.6.7/<青年僧侶邪義破折班>WS)。「お互いに喧嘩(けんか)しないように」とは、学会側が化儀に無知であったために引き起こした事件であったが、反省していることを踏まえての御指南であろう。↓

●法華宗の真俗の中に知らずして仏法の義理を違へ化儀を違ふる事、一定弁へず違へたらば罸文起請を以て義理を違ふると云はゞ免許有るべきなり云云(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻68頁)
●「義理」「化儀」の簡別は義理は化法なり、大道理なり・化儀は設けられたる信条なり、諸法度なり御開山の廿六箇条又は当化儀条目の如し又は其時々々に師より弟子檀那に訓諭せし不文の信条もあるべし、「一定」とは決定真実等の義全く慥にと云ふ意なり、「罸文起請」の事は上の第四十五条の下に委し、「免許有るべし」とは宗祖本仏の代官として時の貫首上人が・犯人の罪を免すとなり、是れ故意に為したる咎にあらざれば、已生の悪を悔ひ末生の悪を止めて・以つて已生の善を増長し末生の善を起さしむる修道の本義に叶はしむるにあり。(第59世日亨上人著『有師化儀抄註解』/『富士宗学要集』第1巻151頁)
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知らずに化儀を破った場合は、「宗祖本仏の代官」である「時の貫首上人」がお許しになるということである。言い換えれば、故意に化儀を破壊し、訓戒しても改めない場合は、謗法となるということである。何故なら"化儀即化法"の意義から、化儀を破るということは、その前提である唯授一人の血脈を根本とした師弟相対の信心を破ることになり、血脈を塞ぐことになるからである。



<「模刻はしたけれども偽作はしていません」>
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3.大御本尊を偽作した者を完全に処罰出来ぬは謗法行為のなにものでもない
いつ学会が御本尊を偽作しましたか。偽作というのは、似たような御本尊を書いて出したものが偽作であります。学会は正宗の御本尊を、模刻はしたけれども偽作はしていません。ここを考えなければならないですね。だれかがよく「戒壇の御本尊の正しいのが昔の蓮華寺にあるんだ」と言って歩き回っている人がいますが、そういうふうに新しく作って彫刻して出したのであればそれはそれは偽作であるけれども、正宗の御本尊を写してそのまま彫刻したのですから、これは偽作ではありません。よくみんながいう模刻ですね。そのものをただ写した、写真みたいなものです。だから偽作とは違うのです。よく御本尊を偽作したというけれども、学会は別に偽作はしていません。それを「完全に処罰出来ぬは」といいますが、そのことは、こちらが許可していない分は取り上げて注意をしました。だから、私は別にちっともこちらには落ち度がないと思っております。(第66世日達上人 第21回寺族同心会S54.5.29)
[画像]:
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日達管長は、「学会は模刻はしたが偽作はしていない」と明確に論難を否定している。(中略)ご本尊の模刻は謗法でもなければ何でもなかったのである。当時の時代感覚、時代背景から、一種タブーとされていた内容であり、学会支配を目論んでいた山崎正友やその一味(宗門関係者)の攻撃材料にされたため、多くの学会員が脱会をし、悪道に落ちていった事は残念である。(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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 学会の模刻本尊は、本物の御本尊を写したものだから、文字の配置や筆跡は正規の御本尊と全く同じである。その意味では「模刻はしたが偽作はしていない」といえよう。この発言については、現在の宗門も異論はないはず。学会は偽作はしなかったが模刻という謗法を犯したのである(笑)。日達上人も、学会による偽作を否定されただけで、謗法ではない、と仰せられた訳ではない。学会の模刻本尊は、正規の手続きを経ていない故に、大御本尊からの血脈の通わないニセ本尊なのである。



<「議論無用」との院達>
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まったく問題にならない。だいたい、この件については日達上人がわざわざ院達まで出され、「一切論議を禁止する」(昭和53年10月3日付)と厳命されていた事柄です。いったい日顕は、どこまで先師・日達上人に逆らって、いちいち弓を引けば気がすむのか。(秋谷会長『聖教新聞』H9.10.16)
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何故、学会の本尊模刻について「議論無用」との院達が発せられたのか。それは、学会が一応非を認め、日達上人がこれを受け入れられたからに他ならない。学会の反省・懺悔がウソであったことが明らかとなった現在では、この問題を隠す必要がなくなった。むしろ学会の過去の謗法を明らかにすることによって、多くの学会員を覚醒させる材料となる。

S53.10.3
●①9月28日、学会模刻の板本尊は本山に奉納せられた。②学会本部安置(3階)の板本尊は猊下の承認。③よって、板本尊に関して論議無用(院達/『暁闇』)
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日達上人は一宗を統括し、御本尊にかかわる権能を所持あそばされる御法主のお立場から、創価学会が2度と過ちを犯さないという前提で、10月3日付の「院達」をもって本尊模刻事件に関する議論を禁止されました。(教学部副部長・水島公正『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)

●法華宗の真俗の中に知らずして仏法の義理を違へ化儀を違ふる事、一定弁へず違へたらば罸文起請を以て義理を違ふると云はゞ免許有るべきなり云云(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻68頁)
●「義理」「化儀」の簡別は義理は化法なり、大道理なり・化儀は設けられたる信条なり、諸法度なり御開山の廿六箇条又は当化儀条目の如し又は其時々々に師より弟子檀那に訓諭せし不文の信条もあるべし、「一定」とは決定真実等の義全く慥にと云ふ意なり、「罸文起請」の事は上の第四十五条の下に委し、「免許有るべし」とは宗祖本仏の代官として時の貫首上人が・犯人の罪を免すとなり、是れ故意に為したる咎にあらざれば、已生の悪を悔ひ末生の悪を止めて・以つて已生の善を増長し末生の善を起さしむる修道の本義に叶はしむるにあり。(第59世日亨上人著『有師化儀抄註解』/『富士宗学要集』第1巻151頁)
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知らずに化儀を破った場合は、「宗祖本仏の代官」である「時の貫首上人」がお許しになるということである。言い換えれば、故意に化儀を破壊し、訓戒しても改めない場合は、謗法となるということである。何故なら"化儀即化法"の意義から、化儀を破るということは、その前提である唯授一人の血脈を根本とした師弟相対の信心を破ることになり、血脈を塞ぐことになるからである。

●懺悔すれども懺悔の後に重ねて此の罪を作れば後の懺悔には此の罪きえがたし(『顕謗法抄』全集443頁)
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本尊模刻という大謗法を犯した学会の場合も、反省・懺悔の態度を示したことで、日達上人が一旦は許されたのであるが、自ら反省・懺悔を反故にしてしまったために、堕地獄が確定してしまった。



<藤本総監の証言>
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〈藤本総監〉謗法にも色々あり教義逸脱がその下にある。
〈正信会側弁護士〉謗法とは具体的にどういうことですか?
〈総監〉祭りに御輿(みこし)を担ぐことなどが入ります。
〈弁護士〉では本尊模刻は謗法に入りますか?
〈総監〉あれは謗法ではなく、手続き上の問題でした。(中略)
〈弁護士〉法主が書写された御本尊様を、例えば今はいい機械ができていますから、コピーをとるとか写真にするということはいかがですか?
〈総監〉それは御法主が許可になればよろしいと思います。
〈弁護士〉それは法主の書写の権限を侵したことにはならないわけですか?
〈総監〉書写ではありませんですから。
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この資料は、正信会の中核坊主の1人・妙真寺住職の山口法興の地位保全仮処分の裁判で証言した藤本日潤総監(当時)の証言です。(中略)本尊摸刻について「謗法ではない」証言をしています。第1次宗門事件当時、御本尊模刻に疑問を感じて脱会したメンバーが多数いました。学会としては、真実を明らかにしたかったでしょうが、あくまで「僧俗和合」の大義名分の下、臥薪嘗胆の日々を過ごさざるを得ない時期でした。(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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 この質問に答える前に当時の状況を説明しておきましょう。
 日達上人の後董(ごとう)を受けられた日顕上人は、創価学会に対して大慈悲のうえから、教義逸脱、謗法路線の過(あやま)ちを再び犯さないという条件のもとで一応許されましたが、自称正信会と称する一部の僧侶たちが、これを不服とし、創価学会の謗法を糾(ただ)すためといって、学会を攻撃し、ついには唯授一人の血脈を否定したため、日顕上人は正信会の僧侶たちを厳正に処分しました。
 これに対して正信会は日顕上人を裁判に訴えたのです。その裁判で、証人に立った藤本総監は8体の御本尊模刻について「これは謗法ではない」という証言をされましたが、続けて「手続き的に間違いを犯したということである」と証言しています。
 これは、当時(※昭和57年)の状況からみて、最大限に学会をかばった証言でした。
 なぜならば、同日の証言で、藤本総監は
 「(御本尊を)無断で書写すれば謗法になります」
とも、
 「(御本尊の複写は)御法主が御許可になればよろしいと思います」
と述べて、あくまでも御本尊に関しては、御法主上人の許可が絶対に必要であるという精神で一貫しているからです。
 また、相手(正信会側)の弁護士の
 「1体のほか、7体の本尊の模刻は事前に猊下の承認を得たのですか」(取意)
との尋問に対しては、藤本総監は
 「7体については知らなかった
とはっきり証言されています。
 学会側は宗門が「8体の本尊の模刻をすべて認めていた」といっていますが、これは卑劣な責任転嫁(てんか)であり、まやかしの論にすぎません。(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』/<宗教に関心を持とう>WS)



<非公式な口頭による申請と許可、証人は赤澤1人>
S54.
●こちらが許可していない分(の板本尊)は取り上げて、注意をしました(第66世日達上人『大日蓮』S54.7

S57.
●(正信会側の弁護士の「1体のほか、7体の本尊の模刻は事前に猊下の承認を得たのですか」との尋問に対して)7体については知らなかった(対正信会裁判でに藤本総監の証言/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)

・日達上人は公式の場で「許可していない」と仰せである。
・模刻事件を扱った『聖教新聞』でも連絡会議で公式に申請をしたのは本部常住の御本尊のみ。
・模刻の申請及び許可は、赤澤猛1人の証言しかない。しかも彼が公式に証言したのは破門後の平成5年が最初である。


要するに

学会は、公式な場での申請なしに、日達上人による正式な認可もなく数多の御本尊を模刻したのである!




【賞与御本尊(昭和49年1月2日)】
 この御本尊の日付は、じつは書写された日付ではない。それは重役・藤本日潤御尊能化(当時・庶務部長)の記録に明らかであり、この御本尊は昭和48年8月23日に御書写された御本尊である。それを下付や書写の日に関係なく、池田の誕生日を認(したた)めていただくよう無理に願ったのであろう。
 池田は、あろうことか、この記念御本尊が池田宛に下付されるや、ただちに写真に撮らせて模刻複製の板本尊を造り、極秘裏(ごくひり)に文化会館7階に安置したのである。それだけに止まらず、
 「実は、本門事の戒壇は正本堂という御本尊がある。猊下と私だけの唯仏与仏だ。板本尊で、まさしく化儀の広宣流布の8百万は、明確に終わった。文化会館の7階の座しきに安置してあるのだ。これは、私か受けたもの。私が拝ませてあげよう」(昭和48年12月29日・第2回御義口伝受講者大会における池田発言)
と言って、本門戒壇大御本尊の内拝(御開扉)になぞらえ、学会員に内拝させていたのである。(『慧妙』H23.8.1)

<略年表>
S48.8.23 日達上人、「賞本門事戒壇正本堂建立」という授与書のある御本尊を書写
●昭和48年8月23日御書写の「賞本門事戒壇正本堂建立」という授与書のある御本尊(『慧妙』H13.4.16)
●御本尊裏書の件(S48.8.23正本堂記念の御本尊)学会持参の原稿「此の御本尊は、正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇為ることの証明の本尊也」(「藤本メモ」S49.5.6=裁判で資料提出されたこともある/『正本堂に関する御指南の真義』)

S48.10.
◆昭和48年10月、池田大作氏は、日達上人から「正本堂建立賞与御本尊」を下付されたことに対して、「正本堂を作って、紙切れ1枚かよ」と言って、この未表装の御本尊をポンと投げ出しました。(元創価学会顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H20.3.1)

S48.12.
48年の暮れに、学会本部から、「学会の御本尊を何体か板御本尊にしたいので、そのときはよろしくお願いしたい」という話がありまして、私は、「猊下に一言いっていただければ、私どもも安心してできますが」と答えました。(模刻作業に携わった赤澤猛の証言『聖教新聞』H5.9.30)

S48.12.29
◆実は「本門事の戒壇は正本堂」という御本尊がある。猊下と私だけの唯仏与仏だ。板本尊で、まさしく化儀の広宣流布の8百万は、明確に終わった。文化会館の7階の座しきに安置してあるのだ。これは、私が受けたもの。私が拝ませてあげよう。(池田大作・第2回『御義口伝』受講者大会/原島証言『大白法』H11.7.1)
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ここでいう「板本尊」とは、昭和48年8月23日御書写の「賞本門事戒壇正本堂建立」という授与書のある御本尊を、池田が授与された後、直ちに模刻・複製してしまった板本尊である。これで明らかなごとく、学会では昭和49年以前から、すでに勝手に板本尊を作っていたのだ。(『慧妙』H13.4.16)

S49.1.2
◆この御本尊は、昨年(昭和49年)、会長の誕生日に当たる1月2日に、日達猊下から特別に下賜されたもので、正本堂建立の重要な意義がとどめられた御本尊である。(『聖教新聞』S50.10.24/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
1月に、池田先生にお会いした折、先生のほうから「御本尊のことは、私から猊下に申し上げておいた。猊下は、“大事にするためなんだからいいんだよ”とおっしゃっていた。安心してよろしく頼みます」と言われたんです。(赤澤証言『聖教新聞』H5.9.30

S49.1.10
1月10日に学会本部で宗門と学会の連絡会議がおこなわれた際、同御本尊(※賞与御本尊)を板御本尊に謹刻する件について、細井管長の許可を求める申請が宗門側に正規になされた。翌11日、総監・早瀬日慈より、「御本尊に関することは、一応申し上げました」(「記録文書」/北林芳典著『暁闇』
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このような話は模刻事件を扱った『聖教新聞』(H5.9.15・H5.9.30・H9.10.16・H9.10.17・H9.10.18)にもない。さらに当該連絡会議について報じる『聖教新聞』にも模刻の申請については記載されていない。したがって全く信じるに足りない。
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創価学会の本尊模刻が初めて公式の場で言い出されたのは、昭和49年9月2日の宗門と学会との連絡会議の席上、当時の池田会長より、学会本部の御本尊を板本尊にしたい旨の願い出があった時です。(教学部副部長・水島公正『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)

S49.4
◆昭和四十九年四月 朝陽(ニセ本尊を台座に接合した「ほぞ」の彫刻
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ニセ板本尊の実物調査の結果、本体を台座に接合した「ほぞ」の部分に、彫刻師の名前と彫刻した年月を「◆」と刻んだ板本尊も発見されています。(『慧妙』H16.8.1)
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この本尊はいわゆる『賞与本尊』と言われるもの。(『慧妙』H22.3.16)


S49.9.20
1●此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也 昭和四十九年九月二十日(第66世日達上人・紙幅の賞与御本尊の裏書/『正本堂に関する御指南の真義』)

S50.10.23
◆「創価学会常住の板御本尊」ならびに「正本堂記念御本尊」の入仏法要が23日午後、東京・信濃町の学会本部と創価文化会館で、それぞれ早瀬日慈総監の導師のもと厳粛に営まれた。(『聖教新聞』S50.10.24/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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「正本堂記念御本尊」とは紙幅の御本尊であろう。下付された同御本尊は、日達上人に裏書をしていただくために総本山に納められていたのである(上記1●)。

S52.11.9
◆この日の儀式は御法主日達上人猊下の大導師により、正午前、正本堂記念御本尊への読経・唱題に始まり、そのあと、師弟会館に御安置の学会本部常住御本尊、そして、広宣会館の慶祝法要と続いた。(『聖教新聞』S52.11.10/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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結局、この学会本部安置の板御本尊については、当初、あいまいながらも「板御本尊にお願いしたい」との申し出があったことから、昭和52年11月7日、日達上人が正式に御允可(いんか)あそばされ、開眼入仏法要を営まれて、決着をつけられたのである。(『慧妙』H14.3.1)
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 当該記事には単に「正本堂記念御本尊」とのみ記載されており板御本尊であったかどうかは不明である。他の聖教記事をみれば板御本尊の場合は「板御本尊」と記している。とすれば、この日に日達上人が拝まれたのは、紙幅の御本尊であったことが推測される。ただし、「師弟会館に御安置の学会本部常住御本尊」については、日達上人より認可され、早瀬日慈総監の導師のもと入仏法要が営まれたことが『聖教新聞』に報じられていたから、特に板本尊であることを記す必要もなかったであろう。
 このときから、わずか2ヵ月後に、「師弟会館に御安置の学会本部常住御本尊」以外の模刻が明るみになって問題化している(下記2●)。この事実から考えても、当該記事の「正本堂記念御本尊」とは紙幅であったことが分かる。

S53.1.
2●今、赤澤朝陽の社長が年始の挨拶にきて、学会からの依頼で多数の御本尊を板本尊に直したと聞いた。何体彫刻したのか、赤澤に行って調べて来るように(第66世日達上人/菅野慈雲御尊師の手記『大日蓮』第573号77頁)
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これによって、日達上人が本尊模刻の実態を初めて耳にされたのが、昭和53年正月のことであり、これを報告したのが赤澤氏本人であったことがわかります。赤澤氏は、学会が秘密にしてきた本尊模刻を日達上人に報告した張本人なのです。(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)

S53.9.2 
●(学会が模刻した8体の内、7体の板本尊の処置について御指南を求めたのに対し)そんなものは人目にさらすな。金庫の中にでもしまっておけ(第66世日達上人 連絡協議会の記録/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)

S53.9.28 学会、7体の模刻本尊を総本山に納める(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)

S53.11.7
◆総本山大石寺こそ、信仰の根本道場である。戒壇の大御本尊を離れて、われわれの信仰はない。不用意にご謹刻申し上げた御本尊については、重ねて猊下のご指南をうけ、奉安殿にご奉納申し上げた(辻副会長『聖教新聞』S53.11.8要旨/<宗門>WS)
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学会の非を詫びたことによって、一往、模刻事件を終息することとなりました。(教学部副部長・水島公正『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)

S54.
●こちらが許可していない分(の板本尊)は取り上げて、注意をしました(第66世日達上人『大日蓮』S54.7

S57.
●(正信会側の弁護士の「1体のほか、7体の本尊の模刻は事前に猊下の承認を得たのですか」との尋問に対して)7体については知らなかった(対正信会裁判での藤本総監の証言/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)



<赤澤証言について>
●赤澤氏の話として、昭和48年の暮れに池田から模刻を依頼されたとか、昭和49年の正月には池田が日達上人から直々に内諾を得ていたなどと言っております。しかし、先程も申し上げましたように、赤澤氏の話は全く取るに足りない作り話です。日達上人が宗門の全教師の前で「私は知らなかった」と仰せられた事実を、御遷化ののち、14年も経過してから「日達上人は実は御存知だった」と言い張るのですから、赤澤氏は日達上人は嘘をついていたと言っているに等しいのです。したがって、このような話をまともに相手にする必要は全くないのです。(中略)
 いずれにしても、学会の本尊模刻事件の実態は、昭和49年9月2日の連絡会議における申し出が初めてであり、その後に取ってつけた赤澤発言などは何の証拠にもならないことを銘記すべきであります。(教学部副部長・水島公正『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)



<原島証言について>
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(※昭和48年)12月29日第2回御義口伝受講者大会が、学会本部で行われました。その時池田大作は、学会の「5つの宝」を挙げ、「(1)本部にある大法弘通の御本尊様。(2)戸田先生からいただいている刀。(3)留言集(注=池田大作の遺言集)だ、1つの相伝集だ。(4)学会の玉璽だ、代々の会長に伝えるだの、作ってある。(5)実は本門事の戒壇は、正本堂という御本尊(注=賞与御本尊のこと。本門事の戒壇というのはウソ)がある。猊下と私だけの唯仏与仏だ。板御本尊(注=この時点では本尊模刻は、宗門には内緒で行われていた)で、まさしく化儀の広宣流布の8百万は明確に終わった。文化会館の座敷に安置してあるのだ。これは私が直接受けたもの。私が拝ませてあげよう」と発言しました。まさしく池田大作の傍若無人には、今にして驚くことばかりです。(元創価学会教学部長・原島嵩『大白法』H11.7.1)
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この証言どおりだと、池田は昭和48年には賞与御本尊を模刻していたことになる。しかし、それだと、以下の報道や事実と食い違う。これをどう解釈するか("後出し"の赤澤証言と出所不明の「記録文書」は無視する)。

◆この御本尊は、昨年(昭和49年)、会長の誕生日に当たる1月2日に、日達猊下から特別に下賜されたもので、正本堂建立の重要な意義がとどめられた御本尊である。(『聖教新聞』S50.10.24/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)

◆昭和四十九年四月 朝陽(ニセ本尊を台座に接合した「ほぞ」の彫刻)
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ニセ板本尊の実物調査の結果、本体を台座に接合した「ほぞ」の部分に、彫刻師の名前と彫刻した年月を「◆」と刻んだ板本尊も発見されています。(『慧妙』H16.8.1)
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この本尊はいわゆる『賞与本尊』と言われるもの。(『慧妙』H22.3.16)



①実際の下付日は昭和48年10月→だから昭和48年12月29日に板御本尊があっても不思議ではない。
◆昭和48年10月、池田大作氏は、日達上人から「正本堂建立賞与御本尊」を下付されたことに対して、「正本堂を作って、紙切れ1枚かよ」と言って、この未表装の御本尊をポンと投げ出しました。(元創価学会顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H20.3.1)
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 公式の下付は昭和49年1月2日だが、実際に学会に下付されたのは昭和48年10月だった。それならば、昭和48年12月29日に板御本尊があっても不思議ではない。
 実はこの「1月2日」というのは池田の誕生日である。実際の下付日や書写日とは無関係に、池田が自身の誕生日を下付日(御本尊にお認めの日付)としていただいたのであろう。

②紙幅の御本尊の入仏は昭和50年10月→だから昭和48年12月29日に安置してあったのは板御本尊【「創価学会常住の板御本尊」ならびに「正本堂記念御本尊」の入仏法要】参照)
◆学会本部常住の板御本尊入仏法要に引き続き、創価文化会館に場所を移して「正本堂記念御本尊」の入仏法要が行われた。
 この御本尊は、昨年(昭和49年)、会長の誕生日に当たる1月2日に、日達猊下から特別に下賜されたもので、正本堂建立の重要な意義がとどめられた御本尊である。ここでも会長はじめ代表幹部が出席し、早瀬総監の導師のもと方便品、自我偈の読経・唱題。末法広布への不惜の誓いを新たにしあう厳粛な法要となった。(『聖教新聞』S50.10.24

③複数の模刻本尊があった……模刻した日付が「昭和四十九年四月」という台座の日付どおりだとすると、これ以前にも同様の模刻が行われていた可能性もある(法蔵)。紙幅の賞与御本尊から、昭和48年中に1体、そして昭和49年4月に1体、合計2体の板本尊が模刻されたということだ(『慧妙』H22.3.16)。



<学会も正式の許可を認めていない>
昭和49年1月2日、池田会長は「賞本門事戒壇正本堂建立」の脇書のある御本尊を細井管長より下付された。1月10日に学会本部で宗門と学会の連絡会議がおこなわれた際、同御本尊を板御本尊に謹刻する件について、細井管長の許可を求める申請が宗門側に正規になされた。翌11日、総監・早瀬日慈より、「御本尊に関することは、一応申し上げました」(記録文書より)と返事が来た。(北林芳典著『暁闇』/<創価スピリット.com>WS)
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 このような話は模刻事件を扱った『聖教新聞』(H5.9.15・H5.9.30・H9.10.16・H9.10.17・H9.10.18)にもない。さらに当該連絡会議について報じる『聖教新聞』にも模刻の申請については記載されていない。したがって全く信じるに足りない。仮に、この「記録文書」の内容が事実であったとしても、総監が日達上人に伝えたことしか証明できず、日達上人が認可されたかどうかは不明である。しかも、この記録は賞与御本尊のみに関することである。
 要するに、学会側の主張を鵜呑みにしたとしても、連絡会議という公式の場で模刻の申請がなされたのは本部常住の御本尊と賞与御本尊のみ。日達上人による承諾はすべて口頭、ということである。しかもその口頭による許可も赤澤猛1人の証言に基づく、という希薄極まりない証拠でしかない。


要するに

学会は、日達上人による正式な認可もなく賞与御本尊を模刻したのである!

とすれば「先生のほうから『御本尊のことは、私から猊下に申し上げておいた。猊下は、“大事にするためなんだからいいんだよ”とおっしゃっていた。安心してよろしく頼みます』と言われたんです」(S49.1.赤澤=第2次宗創問題後の証言)とか「許可を求める申請が宗門側に正規になされた」(S49.1.10「記録文書」=第2次宗創問題後に発表)「総監・早瀬日慈より、『御本尊に関することは、一応申し上げました』」(S49.1.11「記録文書」=第2次宗創問題後に発表)とかの主張も、かなり怪しい、と言わざる得ない。



【御守り御本尊の模刻】
 学会本部安置の御本尊のゴタゴタの最中、昭和51年10月、さらにもう1体の模刻板本尊の入仏式が密(ひそ)かに行なわれていた。
 場所は東北総合研修所内の東北牧口記念館。10月27日夜、東北入りした池田大作は、同記念館の仏間に、御守り御本尊を勝手に拡大複製した模刻板本尊(※【模刻本尊】の左端=【模刻された御守御本尊】)を安置したのである。
 そもそも御守り御本尊とは、日蓮大聖人が
 「先日のまぼり暫時(ざんじ)も身をはなさずたもち給へ」(御書685、全集1124頁)
と仰せのように、我が身に携帯して御守護申し上げる御本尊であり、安置して皆に拝ませるべき御本尊ではありません。ましてや、拡大した上に、板本尊に変造するとは、呆(あき)れて言葉もない。
 池田大作は、このニセ板本尊を安置した理由について、  「この東北の地は宗門においては第3祖日目上人にご縁の深い土地であります。また"3"に非常に意味がある。そういう意味からも、私が昭和26年5月3日に日昇猊下より頂戴しました御本尊をお持ちいたしました。東北を厳然と守りたい。なかなかおじゃまできないので、この研修所に御安置しておきたい。そういう意味で小さい御本尊を東北創価学会の続くかぎり、この記念館にご安置申し上げて、皆さんを守りたいと、お持ちしました。どうか"3"に意味のある、その意義をお忘れなく。」(S51.10.28 開館式での発言記録)
と述べている。
 要するに、自分の身代わりにこのニセ板本尊を安置して、厳然と東北を守る、というのだから、池田は、自分と本尊とを同等と見なしていた、ということである。
 これぞ、池田本仏論の物証であり、この異常なニセ板本尊を見ても池田に対して疑いがない、という人は、もはや完全に信心のカケラも失った一闡提人(いっせんだいにん)でありましょう。(『慧妙』H16.8.1・H23.8.1)

●特にお守御本尊を彫刻したことに対して、(日達上人の)お怒りのお言葉があったことを記憶しております(菅野慈雲御尊師『大日蓮』第573号78頁/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』法義研鑽委員会編)

[画像]:模刻された御守御本尊(『創価学会の光と影』)=池田大作個人に与えられた御本尊で、本来は身に所持すべき御守御本尊を、板に模刻し、東北研修所に安置して、自分の身代わりと称して拝ませようとした。その他に7体(※後に認可された学会本部の御本尊1体を含む)の御本尊を模刻した。

学会がどんなにウソをついても言い訳できないのが、御守御本尊を拡大して模刻するという前代未聞の暴挙である。こんなことを日達上人が許可されるはずがない。





赤澤証言について


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◆「正本堂賞与御本尊」については、一番最初に御謹刻させていただきましたので、よく覚えています。49年の1月に依頼を受け、2月に彫り始めて、4月30日に学会本部に納めました。(赤澤証言『聖教新聞』H9.10.17)

「正本堂賞与御本尊」を板御本尊にすることは、日達上人は昭和49年の1月にはすでにご存じでした。これは日達上人からも、また池田先生からも、私が直接お話を伺(うかが)ったことですから、確かなことです。(赤澤証言『聖教新聞』H9.10.17)

〈原田〉そうでしたね。確か、49年の秋ごろ、大奥の対面所で目通(めどお)りした時のことでしたね。
〈赤澤〉はい。その時、猊下(げいか)は本来の用件が終わり、いったんお帰りになられようとしたんです。それが思い出したように戻ってこられ、「そういえば、学会本部の御本尊は赤澤で彫ってるんだよね」と聞かれたのです。
〈八矢〉それで赤澤さんは、どうされたんですか?
〈赤澤〉もちろん「そうです」と答えました。すると猊下は、「ほかのもやってるのかい」と言われました。私が「はい。やりました。たしか、池田先生が猊下様に申し上げたと言われておりましたが」と申し上げたところ、「うん。池田会長から聞いているよ。あと5、6体やらせてもらいたいと言ってたな。大事なものだから、気をつけてやってください」と言われ、それで部屋を出ていかれたんです。
〈秋谷〉明快ですね。学会本部常住の御本尊をはじめ、他の御本尊についても、日達上人は昭和49年の段階で明確にご存じだったわけだ。まったく光久も無責任な発言をするものだな。
〈赤澤〉本当にそう思います。こと御本尊のこととなると日達上人は厳格で、必ずそばにだれもいない時に話をされていました。それが役僧であろうと側近であろうと、だれかいる時にはそうした話は一切口にされませんでした。(『聖教新聞』H9.10.18)
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<日達上人の公式発言や当時の報道など>
S53.1.
●今、赤澤朝陽の社長が年始の挨拶にきて、学会からの依頼で多数の御本尊を板本尊に直したと聞いた。何体彫刻したのか、赤澤に行って調べて来るように(第66世日達上人/菅野慈雲御尊師の手記『大日蓮』第573号77頁)
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これによって、日達上人が本尊模刻の実態を初めて耳にされたのが、昭和53年正月のことであり、これを報告したのが赤澤氏本人であったことがわかります。赤澤氏は、学会が秘密にしてきた本尊模刻を日達上人に報告した張本人なのです。(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)

S53.6.29
●学会の方で板御本尊に直したところがあります。それは私が知らなかった(第66世日達上人 総本山大講堂で行なわれた教師指導会『大日蓮』第390号44頁/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)

S53.9.2
●(模刻した8体の内、7体の板本尊の処置について御指南を求めた学会に対し)そんなものは人目にさらすな。金庫の中にでもしまっておけ(第66世日達上人 連絡協議会の記録/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)

S53.9.28 学会、7体の模刻本尊を総本山に納める(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)

S53.11.7
◆総本山大石寺こそ、信仰の根本道場である。戒壇の大御本尊を離れて、われわれの信仰はない。不用意にご謹刻申し上げた御本尊については、重ねて猊下のご指南をうけ、奉安殿にご奉納申し上げた(辻副会長『聖教新聞』S53.11.8要旨/<宗門>WS)
-----------------------
学会の非を詫びたことによって、一往、模刻事件を終息することとなりました。(教学部副部長・水島公正『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)

S54.
●こちらが許可していない分(の板本尊)は取り上げて、注意をしました(第66世日達上人『大日蓮』S54.7

S57.
●(正信会側の弁護士の「1体のほか、7体の本尊の模刻は事前に猊下の承認を得たのですか」との尋問に対して)7体については知らなかった(対正信会裁判での藤本総監の証言/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)

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 現在、学会では本尊模刻事件に関しては、この赤澤氏の話を唯一の証拠として、「だから日達上人は御本尊模刻を承知していたのだ」と主張しております。しかし、この赤澤氏の話にはいくつか、おかしな点があります。
 その第1は、ただいま読み上げた後半部分に、昭和50年1月10日の大奥での御報告としての記録を挙げておりますが、このなかで日達上人が、
 「日昇上人御本尊の彫刻については、前に話しがあったかどうか記憶ない。許可した覚えはない」
と仰せられた、とあります。もし赤澤氏の話が事実ならば、日達上人は49年の秋ごろに承知していた御本尊彫刻という信仰の大事を、3、4ヵ月後の50年1月にはすっかり忘れていたということになります。日達上人の記憶力が人並み優れておられたことは、おそばに仕えた者ならばだれもが熟知しているところであり、御本尊にかかわる大事を3、4ヵ月で忘れてしまうことなど、考えられないことです。
 第2の点は、日達上人が7体の模刻を昭和49年の段階で承知されていたと言うのは、あとにも先にも赤澤氏1人でありますが、これに対して、ただいま御紹介した昭和50年1月10日の「許可した覚えはない」との記録と同様に、菅野慈雲師のお話によれば、昭和53年正月に至って、本尊模刻の実態を聞かれた日達上人はたいへん驚かれ、
 「とんでもないことだ。誠に無礼なことである」(『大日蓮』H5.11)
と仰せられた、とあります。
 また、この時、大石寺主任理事として日達上人のおそばに仕え、模刻本尊の収納に当たられた妙縁寺住職・光久諦顕師のお話によりますと、この時、日達上人は、
 「このようなことは承知していないし、許可したことはない」
と仰せられ、創価学会に対して、ただただ、あきれ返っておられたとのことであります。
 さらに、昭和53年6月29日には総本山大講堂において全国教師指導会が行われましたが、この席上、日達上人は全国の教師一同に対して、
 「学会の方で板御本尊に直した所があります。それは私が知らなかった」(『大日蓮』S53.8)
と明言されています。たった1人で聞いたという赤澤発言は、疑う余地のないこれらの事実と完全に食い違っています。
 第3は、非常に大事な点ですが、7体のなかに、お守り本尊の模刻があるということです。本宗においては古来、個々に授与される鎮護御本尊は、本人が死亡した場合はお寺に納めることが原則であります。これを、かりそめにも板本尊として彫刻し、他人に拝ませることなど絶対に許されることではありません。宗門において許されざる行為を、山法山規を厳守された日達上人が、これを承認したり黙認されることなど、ありえません。
 これらの3点から見ても、赤澤証言は、極めていかがわしいものです。
 さらに赤澤証言の発生を考えてみますと、創価学会は平成3年以降、模刻事件について宗門からたびたび破折されながら、明確な返答ができない状態が続きました。そして、平成5年の9月に突如として赤澤証言が出てくるのです。これなども、前年の平成4年に菅野慈雲師によって当時の真相がより鮮明に明かされたことで、創価学会が窮余の一策として虚偽の話を作り上げ、赤澤氏に証言させたものと推測できるのであります。いずれにせよ、赤澤証言は全く信用できない、作り話であると断ずるものであります。(教学部副部長・水島公正『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)

 赤澤氏の話として、昭和48年の暮れに池田から模刻を依頼されたとか、昭和49年の正月には池田が日達上人から直々に内諾を得ていたなどと言っております。しかし、先程も申し上げましたように、赤澤氏の話は全く取るに足りない作り話です。日達上人が宗門の全教師の前で「私は知らなかった」と仰せられた事実を、御遷化ののち、14年も経過してから「日達上人は実は御存知だった」と言い張るのですから、赤澤氏は日達上人は嘘をついていたと言っているに等しいのです。したがって、このような話をまともに相手にする必要は全くないのです。(中略)
 いずれにしても、学会の本尊模刻事件の実態は、昭和49年9月2日の連絡会議における申し出が初めてであり、その後に取ってつけた赤澤発言などは何の証拠にもならないことを銘記すべきであります。(教学部副部長・水島公正『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)




正信会の証言



【佐々木秀明の証言】
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実は、九州・別府の末寺に在勤していた御僧侶Y師は、その当時住職だった佐々木秀明が、他の坊主と5人で日達上人のもとに直接面談に行った時のテープを聞かされたのですが、池田先生の御本尊の彫刻の打診について日達上人が、「わしも耄碌して覚えてないんだよ。」と発言されていたことを確認しており、正信会の中心的存在だった佐々木があわてて全国の坊主に学会誹謗のビラ配りを止めるように指示していた事実を証言しています。その当時宗門の中枢にいた者は皆知っているのです。知らずに騙されて脱会した方々があまりにも可哀想ではありませんか!(新階某『日顕宗の邪義を破す』)
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 次は最後の段になりますが、テープのなかで、日達上人が学会からの本尊模刻の打診について「わしも耄碌して覚えてないんだよ」と仰せられたというものです。このYなる僧侶とは離脱僧・吉川某のことと思いますが、離脱僧と正信会僧という珍妙な取り合わせによるこの伝聞がどこまで信用できるものか、はなはだ怪しい限りですが、創価学会ではこのことをもって、無礼千万にも日達上人が老耄(ろうもう)のために失念したと言うのであります。もちろん、日達上人が最晩年に至るまで毅然として一宗を教導あそばされたことに対し奉り、だれもが等しく尊仰申し上げてきたところであります。
 しかし、もし万が一にも日達上人がそのように仰せられたのならば、当時の状況に思いをいたさなければなりません。
 当時、数々の謗法と逸脱を犯した創価学会に最後の機会を与え、できうるならば清浄な信徒集団に蘇生するよう努力された日達上人は、一方において、本尊模刻問題を糾弾すべしとする一部の僧侶がいたため、これらに対して種々説得されておりました。この言葉は、そのようななかで、一宗を教導あそばされるお立場から、学会を庇護するために、磊落(らいらく)かつ酒脱(しゃだつ)の御気風をもって事態の鎮静を計られたものと拝察できるのであります。
 この尊い日達上人のお心を踏みにじる、無慚無愧の創価学会に与同し、剃髪の師である日達上人を耄碌呼ばわりする離脱僧・吉川こそ、恩を仇で返す不知恩、師敵対の者と言うべきであります。(教学部副部長・水島公正『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)




【『祖道の恢復と真の正信確立の為に』】
<[1]「W師」の発言>
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W師53.10.6蓮華寺にて無任所教師10月研修会等の発言、その他池田源立寺活動家会合等の席上での言に曰く、「御本尊模刻の件については、総監、教学部長、早瀬理事等の証言によれば、会長登山御目通りの刻、御本尊模刻を願い出た所、法主上人自ら黙認されたことを承知しているのである。従って今こちら側でこの件を突いてゆけば、それでは事実はこうと聖教で公表するだろう。秋谷副会長はその意向であると言っている。かかる事体になれば法主上人の御徳にきずがつくことは免れない。……(『祖道の恢復と真の正信確立の為に』S55.12/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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 四国の正信会活動家が出版した書籍「祖道の恢復と真の正信確立の為に」に書かれている文章に注目!
 総監は早瀬日慈。教学部長は阿部信雄、理事は早瀬義孔。「自ら黙認されたことを承知している」法主上人は日達管長。日達管長以下宗務役員が、御本尊模刻のことを知っており、認めていたのである。
 結果として、反学会勢力である正信会の四国の活動家(その多くは細井派:妙観会)が、学会の行動の正当性を証言しているのは刮目に値する。反対勢力すら諸天善神として動かしてしまう学会こそ、真の和合僧団の証明である。(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS061024)
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―「W師=渡辺広済」の矛盾―
「W師」とは渡辺広済。“模刻”の件を突けば秋谷副会長(当時)は『聖教新聞』で事実を公表する意向で、そうなれば法主の徳に傷がつくから論議禁止の通達を出したことが窺える。(『フェイク』第349号/fb010313)
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 渡辺広済は、正信会の議長だった者である(昭和55年9月に住職罷免処分)。<正信会>WS(H19.1.20)を見る限り、少なくとも昭和57年~平成3年12月の間は議長(代表)であった。その渡辺が「総監、教学部長、早瀬理事等の証言」として「御本尊模刻の件については」「法主上人自ら黙認された」「この件を突いてゆけば」「法主上人の御徳にきずがつく」と発言したという。ここでいう「法主上人」とは日達上人であり、正信会も正師と認める方である。もし、渡辺が実際にこのような発言をしたのであれば、彼が率いる正信会としても、模刻事件を追及できなかったであろう。
 しかし、実際は以下に示すとおり、昭和53年以降も正信会は模刻事件を取り上げ学会を糾弾しているのである。
 ということは、渡辺自身は、「総監、教学部長、早瀬理事等の証言」の内容を信じていないのではないか。「総監、教学部長、早瀬理事等」が事を穏便に処理しようとするあまりウソの発言をしたというスタンスで、すなわち宗門幹部を攻撃するために引用したのではないか。とすれば、渡辺が発言内容を捏造した可能性は十分ある。

◆辻武寿副会長は「不用意にご謹刻申し上げた御本尊については云々」と述べていますが、御本尊大聖人の御魂である御本尊を「不用意にご謹刻申し上げ」たとは、具体的にはいかなる行為を指すのですか。またその「ご謹刻本尊」の正確な数は、これまで公表されておりませんが、正直のところ、一体何体作られたのですか。(学会への公開質問『継命』S55.2.1/<正信会>WS070120)

◆本当は日達上人は、「本尊模刻問題を出すときは学会を破門にするときだ」というお気持ちであられたのです。そううかがっております。本尊模刻は謗法の最たるものです。それを敢えて日達上人はお許しくださったのです(原島嵩『本尊模刻事件のすべて』継命新聞社S55.12.1<青年僧侶邪義破折班>WS
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昭和55年12月の時点でも、正信会は、その公式出版物において「W師」とは異なる見解を載せていた。

◆辻武寿副会長は、戒壇の大御本尊根本の信心を強調し、「その意味からも、不用意にご謹刻申し上げた御本尊については、重ねて猊下のご指南をうけ、奉安殿にご奉納申し上げました。今後御本尊に関しては、こうしたことも含めて、お取り扱い、手続きなどは、宗風を重んじ、一段と厳格に臨んでまいりたいと思います」と述べた。
 この辻副会長発言は、学会が犯した本尊模刻が、戒壇の大御本尊根本の信心からかけはなれ、正宗の化法化儀から大きく逸脱してしまったことを認めたものである。(「『11.7』とは?」/<正信会>WS070120)
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正信会の公式ウェブサイトには現在(H19.1.20)も、学会の模刻本尊を批判する内容が掲載されている。


―当事者が認めていない発言―
「W師」は「総監、教学部長、早瀬理事等の証言によれば」と述べたそうだが、当事者である「早瀬日慈」「阿部信雄」「早瀬義孔」の方々は、「W師」の証言を認めていない。それどころか、「阿部信雄」すなわち日顕上人は、学会による模刻が謗法であったことを認めておられる。当然、日達上人の公式の御指南も渡辺発言と矛盾する。

●とにかく、池田大作の説明は、大聖人様を無視し、御本尊を蔑ろにし、法を破っておるわけです。
 やはり、このようなところから本尊の模刻があったともいえるわけです。この件については実に重大なことでありますし、当時、日達上人が、池田大作がかなりの影響力を持つ指導者であることなど、種々の状況を鑑みられて、最終的に「これ以上、触れてはならない」と仰せになっているけれども、今日、ここに至れば、御本仏大聖人の仏智を無視した、池田大作の本尊観から、本尊模刻という形も出たということは申し上げておきます。(第67世日顕上人H4.8.28 全国教師講習会/<nbのページ>WS)

●学会の方で板御本尊に直したところがあります。それは私が知らなかった(第66世日達上人 総本山大講堂で行なわれた教師指導会『大日蓮』第390号44頁/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)

[画像]:「W師」が「御本尊模刻の件については、総監、教学部長、早瀬理事等の証言によれば、会長登山御目通りの刻、御本尊模刻を願い出た所、法主上人自ら黙認されたことを承知している」と発言したとする『祖道の恢復と真の正信確立の為に』

ただいま読み上げた前半部分は、正信会のWなる者の「模刻間題をつつけば法主上人の御徳にきずがつく」旨の発言ですが、これは学会側の巧妙な情報戦略に乗せられて、自称正信会の僧侶が躊躇せざるをえなかった、というだけのことであります。(教学部副部長・水島公正『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)



<[2]「不用意に謹刻」>
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「辻副会長の『不用意に謹刻』と明言した通り云々○何故本山に回収しなくてはならないのでしょうか」との問は、当時蔭の宗務院で、6.30、11.7等を演出された貴師方の代表が一番よく御存知ではないかと存ずる。学会側に「不用意に謹刻云々」と言う言辞を入れて発表してくれれば、納まると説得したのは誰であったか。週刊誌でY弁護士が、活動家の諸師方と密接に協議し、学会にも納得させて、自分が全部原稿(脚本)を書いたと告白しているではないか。事の真相が明白になった時、やがて手飼いにせんとした檀徒各位に糾弾されるであろう。(『祖道の恢復と真の正信確立の為に』S55.12/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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『祖道の恢復と真の正信確立の為に』では、この手続きの行き違いを悪用して、ペテン師山友が学会をワナにはめたことも明らかにしているのです。(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS061206)
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 また、「学会側に『不用意に謹刻云々』と言う言辞を入れて」云々とありますが、最近、学会では「実は、不用意に謹刻云々の発言は、宗門が作成した文書を読んだだけ」と弁明しております。
 しかし、総本山において、御法主上人の御臨席を仰ぎ、宗門の全教師と2千名の学会幹部が出席した公式の会合で、学会を代表して副会長が発表したものを、あとになってから「実は読めと言われたから読んだだけ」とする言い逃れは見苦しい限りであり、社会の良識が通じない異常集団の、たわけた世迷い言と言うべきであります。(教学部副部長・水島公正『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)

 「ペテン師山友が学会をワナにはめた」といっているが、このときの山崎氏は、宗門と学会の間に立って、事を丸く納めようとしたのであって、むしろ学会の為にもなると考えたのではないか。そもそも、山崎氏の意図がどうであれ、真実を知っているのは模刻を指示した者(池田)であり、「不用意に謹刻」の語句を機関紙に記載(S53.11.8)することも、池田の同意なくして実現しなかったはずである。
 では何故、山崎氏は「『不用意に謹刻云々』と言う言辞を入れて発表してくれれば、納まる」と考えたのか、それは
①無断で模刻したことが事実だからであり、
②日達上人もそのように思われていたからであり、
③池田自身がその事実を認めていたからである。
だから、山崎氏としては宗門と学会の両者が納得する、主張の中間点(妥協点)を提示したのであろう。"中間点"とは「謗法」(宗門の認識)を「不用意」に、「模刻」(宗門の認識)を「謹刻」変える、ということである。
 このように考えれば、山崎氏が「不用意に謹刻」云々の語句を入れることを提示したとしても、そのことをもって模刻の事実を否定することはできないのである。

[画像]:「Y弁護士が、活動家の諸師方と密接に協議し、学会にも納得させて」「「不用意に謹刻云々」と言う言辞を入れて発表」したとする『祖道の恢復と真の正信確立の為に』



<[1]と[2]の矛盾>
 [1]では後に正信会の議長にもなった渡辺広済が、"日達上人はじめ宗門中枢が、学会による模刻を容認していた"と発言したとする。
 [2]は、「活動家の諸師方」(おそらくは後の正信会)が学会幹部に、「不用意に謹刻」したことを認めさせることに関わったとするもの。正信会は、後にこの記事をもって学会の模刻を攻撃している。
 つまり、同じ正信会幹部が、一方で模刻を容認する証言を出し、一方で模刻を攻撃するための行動をとる。これは、明らかに矛盾である。この矛盾が解明されない限り『祖道の恢復と真の正信確立の為に』を利用した学会側の主張を認める訳にはいかない。



<執筆者のスタンス>
 投稿者は『祖道の恢復と真の正信確立の為に』の執筆者について「四国の正信会活動家」と述べている。しかし、その内容はむしろ日顕上人の意向を無視する正信会僧侶を諌めるもので、執筆の目的は正信会の"暴走"を制止するものであったといえる。しかし、昭和55年12月という発行年次から推測するに、執筆者には時間的余裕がなかったと思われる。
 なぜなら、既に昭和54年10月には「創価学会の過去の誤り等を指摘批判する言動は厳に慎しまなくてはならない」という院達が発せられ、それにも拘らず、正信会は昭和55年8月に、宗門の制止を無視して檀徒大会を決行、そのために同年9月には罷免を含む201名もの処分が決定されたのである。
 もし、投稿者の述べるように『祖道の恢復と真の正信確立の為に』の執筆者が「四国の正信会活動家」であったならば、"共に戦った同志を救いたい"という切実な思いと、時間的切迫が相まって、正信会の"暴走"を制止するためには情報の真実性を吟味することなく([1]と[2]の矛盾は、その顕れであろう)、使えるものは何でも使おうと、結果的に創価学会を必要以上に擁護するものとなってしまったとも考えられる。

●いかなる場においても、また各種紙誌等出版物においても創価学会の過去の誤り等を指摘批判する言動は厳に慎しまなくてはならない。さらに創価学会員に対しては、自らの意志・希望によって檀徒となることを申し出た者の受け入れは差支えないが、それ以外は一切の働きかけをしてはならない。(院第18号S54.10.8/<正信会>WS)

昭和55年8月24日、日本武道館において、僧侶187名、檀徒1万3千人が参集し、第5回日蓮正宗全国檀徒大会が開催された。(<正信会>WS)

◆宗門は、9月24日、総本山において責任役員会を開き、第5回檀徒大会に出席した正信会僧侶の処分を協議し、罷免5名、2階級降格13名、2年停権155名、1年停権23名、譴責5名の計201名にのぼる大量処分を決定した。
 処分理由は「法主が全国檀徒大会の開催中止を再三にわたって命じたにもかかわらず、これに違背して強行し、宗内の秩序を乱した」というもの。(<正信会>WS)

◆9月30日宗門は、住職罷免処分を受けた渡辺広済師(堅持院)、佐々木秀明師(小田原教会)、荻原昭謙師(応身寺)、山口法興(妙真寺)、丸岡文乗師(涌化寺)に対し、後任住職の赴任を実力で妨害し、財産引継を拒んだとして、5師に対し、擯斥処分を決定した。10月3日、5師に対し、宗務院より宣告書・特達が送付された。(『継命』S55.10.15/<正信会>WS)

以上の点から考えて、『祖道の恢復と真の正信確立の為に』を利用した学会側の主張は事実無根(邪推)だといえる。




御僧侶が模刻本尊を礼拝!?


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 宗門側は、創価学会が御本尊を板御本尊として謹刻したことについて、知らないどころか、『聖教新聞』で報じられたものだけでも4体の板御本尊について入仏式をおこない、創価学会本部にある3体については、細井管長自らが礼拝していた。にもかかわらず、入仏法要が公然と報道された3体(うち2体は細井管長自身が拝んだ)を含めた7体の板御本尊を、大石寺に納入するよう創価学会側に命じたのである。ただし、「3体」の入仏式というのも、公に報じられた記録にのみ基づくものである。
 これは、どのような事実を示すのか。『聖教新聞』に報道されていない他の4体の板御本尊もまた、報道された3体と同様、正当に謹刻されたものであることを示している。なぜなら「謹刻」の許可が出ていないことが明白であるなら、それだけを棄却させればいいのである。この7体の板御本尊の大石寺への返却はあくまで、創価学会が涙を呑んでおこなった〝外護〟の行為であった。(北林芳典著『暁闇』
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 「謹刻」された「板御本尊」のうち「宗門側」が「入仏式」を行い「『聖教新聞』で報じられた」「4体」とは関西本部安置の"大法興隆所願成就"の板御本尊、創価学会本部常住の板御本尊、正本堂記念御本尊(賞与御本尊)、創価文化会館常住の板御本尊である。
 また、「細井管長自らが礼拝していた」「創価学会本部にある3体」とは、正本堂記念御本尊、創価学会本部常住の板御本尊、「広宣会館の板御本尊」(『暁闇』)である。
 これらを根拠として北林某は、『聖教新聞』に報道された模刻本尊は「正当に謹刻されたもの」であり、「他の4体の板御本尊もまた、報道された3体と同様、正当に謹刻されたものである」と結論付けている。そして、自慢げに「7体の板御本尊の大石寺への返却はあくまで、創価学会が涙を呑んでおこなった〝外護〟の行為であった」と述べている。
 しかし、以下に述べるように北林某の結論の前提である『聖教新聞』記事の解釈がデタラメなのである。従って「正当に謹刻されたもの」「涙を呑んでおこなった〝外護〟」というのも事実無根の邪義なのである。


【関西本部安置の「大法興隆所願成就」の板御本尊】
-昭和50年10月20日―
関西本部安置の御本尊を模刻した板本尊は、昭和50年7月16日、関西センター新館に、福島副会長(当時)の導師で入仏している。(『慧妙』H23.8.1)
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◆"常勝関西"の歴史に、また1つ新たな前進と発展の起点が刻まれた。16日に行われた「関西センター新館」の落成入仏式が、それである。とりわけ、末法万年にわたる「大法興隆所願成就」の板御本尊が安置されるという、記念すべき意義をはらんだこの入仏式によって、常勝の輝かしい伝統の上に限りない未来飛翔をめざそうとする関西は、その原点に一段と深く、強固なクサビを打つことになったといえよう。(『聖教新聞』S50.7.17?/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)

◆関西広布の1ページを飾る大阪・蓮華寺は来る11月6日に、復興再建10周年を迎えるが、この"佳き日"に先立って蓮華寺住職・久保川法章尊師をはじめ大阪12ヵ寺の住職、尊師が20日午前、関西センター新館を公式訪問。同新館の「大法興隆所願成就」の御本尊に読経・唱題し、広布新展開と常勝関西の更なる発展をねんごろに祈念した。
 この日、関西センターでは柳原延行副会長、西口良三をはじめ、各部の代表メンバー約300人が真心で各尊師を出迎え、午前11時から新館での記念勤行会に臨んだ。
 勤行のあと、あいさつに立った柳原副会長は、各尊師の列席をえて、常勝の牙城の入魂の儀式が、厳粛に執り行われたことに対し「会員を代表して心よりお礼申しあげたい」と述べるとともに僧俗一……(『聖教新聞』S50.10.21/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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関西本部安置の「大法興隆所願成就」の板御本尊は、昭和50年10月20日、大阪・蓮華寺住職の久保川法章以下11名が出席し、「開眼法要」が営まれた。そのことは、翌21日の『聖教新聞』に報じられている。(『暁闇』)
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 当該新聞を見る限り「開眼」を示す言葉はない。わずかに「入魂の儀式」という聞きなれない語句が「開眼」を連想させるが、宗門より公式に認可された御本尊であるならば、日達上人または代理の方による入仏法要が執り行われるはずである。おそらくは、招かれた住職方は「開眼法要」だとは知らされていなかったのではあるまいか。
 記事を読む限り、この「板御本尊」は「入魂の儀式」が行われる以前から当該場所に安置されていたようである。しかし、入仏してから後に、本尊とは直接関係のない行事(大阪・蓮華寺の復興再建10周年)との関連で御僧侶をお迎えして、「入魂の儀式」を実施するなど、常識では考えられないことである。
 このことは、返って当該本尊が正式な認可のないままに模刻されたことを強く推認させる、といえよう。

◆こと御本尊のこととなると日達上人は厳格で、必ずそばにだれもいない時に話をされていました。それが役僧であろうと側近であろうと、だれかいる時にはそうした話は一切口にされませんでした。(赤澤証言『聖教新聞』H9.10.18)
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この証言が事実であれば、末寺住職方は"まさか、学会が勝手に模刻するはずはない"と思われていたのであろう。これより先の昭和50年1月に学会本部の模刻が発覚したのは、『聖教新聞』に掲載されたからであるが、それも宗門中枢方でなければ、無許可の模刻とは誰も断定できなかったであろう。



【「創価学会常住の板御本尊」ならびに「正本堂記念御本尊」の入仏法要】
昭和50年10月23日
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「創価学会常住の板御本尊」ならびに「正本堂記念御本尊」の入仏法要が23日午後、東京・信濃町の学会本部と創価文化会館で、それぞれ早瀬日慈総監の導師のもと厳粛に営まれた。この法要には池田会長も北条理事長、各副会長らとともに出席したのをはじめ各部の代表幹部ら約600人が参列、読経・唱題を通し、慈折広布への誓いを新たにした。秋谷副会長、北条理事長のあいさつに続き、池田会長は入仏法要にこめられた意義深いあいさつを述べた。その際会長は、この10月23日が広布史に永久に残る学会の新しい出発の意義を刻む日になったとして、御本尊の右の脇○に認(したた)められている「大法流布慈折広宣流布大願成就」を永遠の根本指標に、末法広布の軌道を潔く前進していくよう指導した。(『聖教新聞』S50.10.24/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
◆学会本部常住の板御本尊入仏法要に引き続き、創価文化会館に場所を移して「正本堂記念御本尊」の入仏法要が行われた。
 この御本尊は、昨年(49年)、会長の誕生日にあたる1月2日に、日達猊下から特別に下賜されたもので、正本堂建立の重要な意義がとどめられた御本尊である。ここでも会長はじめ代表幹部が出席し、早瀬総監の導師のもと方便品・自我偈の読経・唱題。末法広布への不惜の誓いを新たにしあう厳粛な法要となった。(同)
[画像]:
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本部3階師弟会館安置の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の板御本尊と「賞与御本尊」の板御本尊の入仏法要は、昭和50年10月23日、総監・早瀬の導師によっておこなわれている。このことは翌24日付の『聖教新聞』に報じられている。(『暁闇』)
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<「創価学会常住の板御本尊」>
昭和50年10月の時点で早瀬総監が当該板本尊を拝んでいたとしても問題はなかろう。何故なら、学会による模刻が発覚し、日達上人の知るところとなったのは昭和50年1月である。そのときには「許可した覚えはない」とは仰せられたものの、先の連絡会議で模刻の打診があったことを酌量されて、結局認可されたのである。

S50.1.1 突如、池田は、模刻複製した板御本尊を、自ら導師をして学会本部3階に入仏してしまったのである。(『慧妙』H14.3.1)
◆入仏式は会長(池田)の唱導で方便品・自我偈の読経・唱題の声が和するなか、これまでの紙幅の御本尊は北條浩理事長、森田康夫本部事務総長らの手によって収納され、そのあと、板御本尊に参加者はお目通り。これにより「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の常住御本尊は、永遠不滅の義を刻みつつ本部にご安置されたわけである。(『聖教新聞』S50.1.4)

S50.1.10 大奥での日達上人への御報告
●日昇上人御本尊の彫刻(※本部常住「大法弘通」の御本尊)については、前に話があったかどうか記憶ない、許可した覚えはない。正月登山の時に、会長から「板本尊にしました」という報告はあった(日達上人/藤本庶務部長が書き留めた「藤本メモ」/『暁闇』)
●個人が受けた本尊だから、その人又は会の宝物だから、どのように格護しようがとやかく云えない。紙幅を板御本尊にするということは、前からも行われている。御開眼とか、入仏式とかは、信仰上からは、僧侶にお願いするのが本当だが、しかし、これも個人の自由で、僧侶を呼ばなければいけない、という事でもない(昭和50年1月10日の大奥での日達上人への御報告の議事録)
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 まず、「紙幅の御本尊を板御本尊になおすということは、以前からも行われていることであり、受けた人の考えによるものであるから、そのこと自体に他の人がとやかく言うことはできない」という仰せでありますが、このことと御法主の許可を頂くという手続きとは別であります。板御本尊にするかどうかは本人の意志によるけれども、そのための手続きとしては御法主上人のお許しが必要であるということは、本宗の信仰の上から当然のことであります。
 しかし、この本部3階の御本尊については、前年の9月に申し出を受けたという経過もあるので、一往与えて、追認という形をとられたわけであります。もし許可の必要が全くないものであれば、他の7体の模刻本尊を総本山へ納めさせる理由も全くなくなるのであります。(中略)
 次に「御開眼とか、入仏式とかは、信仰上からは、僧侶にお願いするのが本当だが、しかし、これも個人の自由で、僧侶を呼ばなければいけない、という事でもない」というお言葉であります。
 これは、学会が、本部3階安置の御本尊を模刻し、昭和50年元旦に入仏式まで行ったという、特殊なけケースに対する御指南であり、しかも、これに不審を懐いた伊藤康二氏に対する内々の御指南である、ということを知らなくてはなりません。すなわち、通常、総本山より正規に下附される御本尊とは一切、関係がない、ということであります。日達上人は、伊藤氏が本宗の信仰に混乱をきたさないよう御配慮されつつ、御法主としての大慈大悲のお立場から最大限に学会を包容あそばされ、追認あそばされた、と理解すべきであります。
 したがって、このお言葉のなかでも「御本尊の御開眼とか入仏式とかは、本来的に僧侶の導師によって行うべきである」ということを仰せでありますが、ここで仰せの「僧侶」とは御法主上人御自身であり、あるいはその御代理の僧侶を意味する、ということは言うまでもありません。しかしまた、既に入仏式まで行ってしまった学会を擁護され、また追認あそばされるという情況の上で、敢えて「僧侶(御自身)なしでもやむをえない」旨をお示しになっているのであります。このため、日達上人は、御法主による御開眼のない模刻御本尊の入仏式を、本来的、また一般的な意味で、まして積極的な意味でお認めになっているのではけっしてない、ということであります。(総監・藤本日潤『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)
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内々の会合での御発言であるが、昭和50年1月10日の時点で既に、日達上人は、「本部3階の御本尊」に関しては、追認する御意思であられたことが分かる。

S52.11.9
◆この日の儀式は御法主日達上人猊下の大導師により、正午前、正本堂記念御本尊への読経・唱題に始まり、そのあと、師弟会館に御安置の学会本部常住御本尊、そして、広宣会館の慶祝法要と続いた。(『聖教新聞』S52.11.10/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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結局、この学会本部安置の板御本尊については、当初、あいまいながらも「板御本尊にお願いしたい」との申し出があったことから、昭和52年11月7日、日達上人が正式に御允可(いんか)あそばされ、開眼入仏法要を営まれて、決着をつけられたのである。(『慧妙』H14.3.1)

S53.6.29
●学会の方で板御本尊に直したところがあります。それは私が知らなかった。しかし、あとで了解をして、こちらも承認したのだから、そういうことをつついて、お互いに喧嘩(けんか)しないように(第66世日達上人・教師指導会/『聖教新聞』H5.9.15)
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このように、学会による御本尊模刻の経緯には問題があったが、日達上人は、一往後から追認したことであるからと、学会本部安置の板御本尊については御了解せられたのである。(「自称『正信会』の虚言集を粉砕す」H15.6.7/<青年僧侶邪義破折班>WS)


<「正本堂記念御本尊」>
「正本堂記念御本尊」については、以下の理由により、板御本尊ではない。
①「大法流布慈折広宣流布大願成就」の御本尊については「板御本尊」と断っているのに対し「正本堂記念御本尊」については「板御本尊」の表記がない。

②「正本堂記念御本尊」の説明として「昨年(49年)、会長の誕生日にあたる1月2日に、日達猊下から特別に下賜された」とある。「1月2日」に下付されたのは紙幅の御本尊である。模刻本尊は相貌こそ同じだが、これとは別個の本尊であって「1月2日」の下付でもなければ「特別に下賜された」ものでもない。

③ではなぜ、昭和49年1月2日に下付されたとされる紙幅本尊が、昭和50年10月になって入仏されたのか?これは、一旦下付されたあと、日達上人に裏書きしていただくために総本山に納めていたからだと考えられる。↓
●此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也 昭和四十九年九月二十日(第66世日達上人・紙幅の賞与御本尊の裏書/『正本堂に関する御指南の真義』)

④模刻問題を扱った『聖教新聞』では、板本尊の報道があったとしているのは、本部常住の御本尊と関西本部の御本尊のみである。↓
◆ここに昭和50年1月4日付と、50年7月17日付の『聖教新聞』の記事があります。創価学会本部や関西本部の常住御本尊などを板御本尊にしたこともハッキリ出ています。しかし、当時は何の問題にもならなかったのです。(『聖教新聞』H5.9.15)



【文化会館常住御本尊の入仏式】
―昭和50年11月17日―
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〈※タイトル〉牧口初代会長のお逮夜法要
〈※サブタイトル〉創価文化会館常住御本尊の入仏式も
〈※本文〉「創価学会常住の板御本尊」が安置された学会本部で初めて営まれた牧口初代会長の第32回忌法要―。この日の会場には初代会長の遺影(?)がライトに明るく照らし出され、人々の眼前に迫っていた。特に在りし日の初代会長の写真を目のあたりにした「牧口会」のメンバーは、懐かしの情(?)ととも……
〈※写真説明〉早瀬総監の導師を得て厳粛に営まれた牧口初代会長の第32回忌お逮夜法要(学会本部で)(『聖教新聞』S50.11.18?/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
[画像]:
************************************************************創価文化会館内・広宣会館の板御本尊については、昭和50年11月17日、学会本部師弟会館において総監・早瀬の導師で「牧口初代会長32回御逮夜法要」がおこなわれた際、総監・早瀬が、広宣会館の板御本尊の入仏法要をおこなっている。(『暁闇』)
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 本文の「創価学会常住の板御本尊」とは創価学会本部3階の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」との脇書のある御本尊のことであろう。サブタイトルの「創価文化会館常住御本尊」とは創価学会文化会館に安置されていた昭和42年6月15日お認めの紙幅御本尊を模刻したものであろう。一見すると「創価文化会館常住御本尊の入仏式も」早瀬総監が導師となって行われたように思われるが、当該画像を見る限り、その証拠はない。通常、御僧侶を導師として行われる入仏は「入仏式」ではなく「入仏法要」と表記しているようである。その意味からすれば、「創価文化会館常住御本尊の入仏式」と早瀬総監は無関係ではないか、と推測される。
 あるいは、「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の御本尊が「板御本尊」とわざわざ表記されているのに対して、「創価文化会館常住御本尊」の方は紙幅とも板とも特定されない。これは、「創価文化会館常住御本尊」が紙幅であったことを推測させる。仏壇を代えたか何かの理由で入仏式を行ったのかも知れない。
 また、模刻問題を扱った『聖教新聞』では、板本尊の報道があったとしているのは、本部常住の御本尊と関西本部の御本尊のみである。↓

◆ここに昭和50年1月4日付と、50年7月17日付の『聖教新聞』の記事があります。創価学会本部や関西本部の常住御本尊などを板御本尊にしたこともハッキリ出ています。しかし、当時は何の問題にもならなかったのです。(『聖教新聞』H5.9.15)



【日達上人が賞与御本尊に読経】
―昭和52年11月9日―
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◆創価学会創立47周年を記念する慶祝法要が9日、総本山より御法主日達上人猊下をお迎え申し上げ、信濃町の学会本部で厳粛に営まれた。これには、宗門から、早瀬総監、阿部教学部長、吉田渉外部長、藤本庶務部長、早瀬主任理事、光久理事らの各御尊師方も出席。また、学会からは池田会長、北条理事長をはじめ、副会長、全国幹部の代表が参列した。この日の儀式は御法主日達上人猊下の大導師により、正午前、正本堂記念御本尊への読経・唱題に始まり、そのあと、師弟会館に御安置の学会本部常住御本尊、そして、広宣会館の慶祝法要と続いた。各会場では、いずれも日達猊下の大導師で読経・唱題し、今日の正法興隆への感謝と、ますますの慈折広布への請願を祈りを込めた。このさい、師弟会館の法要では、日達猊下より御説法を賜ったほか、池田会長からもあいさつがあり、法要は47周年の慶祝の喜びに包まれるなか、大法弘通に邁進していくべく深き意義をとどめるものとなった。なお、このあとも千駄ヶ谷の日蓮正宗国際センター、聖教新聞本社でも、それぞれ日達猊下の御出仕を仰ぎ47周年慶祝の儀式が営まれた。(『聖教新聞』S52.11.10/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
[画像]:
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昭和52年11月9日には、学会創立47周年慶祝法要のために創価学会本部を訪れた細井管長他6名が、師弟会館安置の板御本尊、「賞与御本尊」の板御本尊、広宣会館の板御本尊の前で、読経唱題をおこなっている。このことは、翌10日付の『聖教新聞』で報じられた。(『暁闇』)
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 「師弟会館に御安置の学会本部常住御本尊」については、日達上人より認可され、その意味から開眼入仏法要がこの日に営まれたのである。
 当該記事には単に「正本堂記念御本尊」とのみ記載されており板御本尊であったかどうかは不明である。広宣会館安置の御本尊も同様である。このときから、わずか2ヵ月後に、「師弟会館に御安置の学会本部常住御本尊」以外の模刻が明るみになって問題化している(下記3●)。この事実から考えても、当該記事の「正本堂記念御本尊」とは紙幅であったことが分かる。

S50.10.23
2◆「創価学会常住の板御本尊」ならびに「正本堂記念御本尊」の入仏法要が23日午後、東京・信濃町の学会本部と創価文化会館で、それぞれ早瀬日慈総監の導師のもと厳粛に営まれた。(『聖教新聞』S50.10.24/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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「正本堂記念御本尊」とは紙幅の御本尊であろう。昭和49年1月2日に下付された同御本尊は、日達上人に裏書をしていただくために総本山に納められていたのである(上記1●)。

S52.11.7
●結局、この学会本部安置の板御本尊については、当初、あいまいながらも「板御本尊にお願いしたい」との申し出があったことから、昭和52年11月7日、日達上人が正式に御允可(いんか)あそばされ、開眼入仏法要を営まれて、決着をつけられたのである。(『慧妙』H14.3.1)
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「11月7日」というのは「11月9日」の誤りか?それとも7日に允可され9日に開眼入仏法要を営まれたのか。いずれにせよ、上記聖教記事は、日達上人が学会本部安置の板御本尊の模刻を追認された後の行事である。

S53.1.
3●今、赤澤朝陽の社長が年始の挨拶にきて、学会からの依頼で多数の御本尊を板本尊に直したと聞いた。何体彫刻したのか、赤澤に行って調べて来るように(第66世日達上人/菅野慈雲御尊師の手記『大日蓮』第573号77頁)
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これによって、日達上人が本尊模刻の実態を初めて耳にされたのが、昭和53年正月のことであり、これを報告したのが赤澤氏本人であったことがわかります。赤澤氏は、学会が秘密にしてきた本尊模刻を日達上人に報告した張本人なのです。(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)

また、模刻問題を扱った『聖教新聞』では、板本尊の報道があったとしているのは、本部常住の御本尊と関西本部の御本尊のみである。↓

◆ここに昭和50年1月4日付と、50年7月17日付の『聖教新聞』の記事があります。創価学会本部や関西本部の常住御本尊などを板御本尊にしたこともハッキリ出ています。しかし、当時は何の問題にもならなかったのです。(『聖教新聞』H5.9.15)




宗門機関誌の広告


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宗門機関誌『白蓮』等の広告では「御本尊彫刻を受け付ます」と掲載されており、法主の許可などが必要とはどこからも読みとることはできません。
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 日蓮正宗において、御本尊にかかわることはすべて、御法主上人の御允可のもとになされてきたことは疑う余地のないことであります。御本尊の謹刻はもちろんのこと、紙幅の御本尊の表装やおきよめについても、御法主上人の直々の允可によるか、あるいは御法主の允可を受けた末寺住職の指導のもとに行われてきました。信徒が勝手に御本尊の模刻を仏師に依頼したり、紙幅本尊の表装を勝手に表具師に注文することは、従来、許しておりません。
 昭和30年代の『聖教新聞』を見ますと、頻繁に「常住本尊・御守御本尊表装謹製、○○表具店」という広告が掲載されておりますが、これらの広告から御本尊の表装について寺院の指導を受けるべきことなど読み取れません。しかし、当時の創価学会員は、だれしも当然の如く、御本尊に関するお取り扱いは寺院の指導を受けていたではありませんか。機関誌の広告を取り上げて、御本尊の謹刻に御法主上人の許可が必要ないとする主張は、余りにも幼稚な愚論であります。(教学部副部長・水島公正『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)




「議論を禁止」の院達について


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院達 模刻本尊の件

 院達第2915号
 昭和53年10月3日

日蓮正宗宗務院

 このたび、創価学会に於ては、これまでに彫刻申上けた板御本尊については、すべて総本山へ納め奉ることとなり、去る9月28日、7体の板御本尊が、総本山へ奉納せられ総本山に於ては29日奉安殿へお納めいたしました。
 但し、学会本部安置の日昇上人板御本尊については、御法主上人猊下御承認のもとに、そのまま本部に安置せられることになりました。
 依って、今後は創価学会の板御本尊のことに関しては、一切議論を禁止する旨、御法主上人猊下より御命令がありましたので、充分御了知下さるよう願います。
 我が宗は、日蓮大聖人の正義を広宣流布するものであることは、既に御承知の通りでありますので、これの妨げとなるような僧侶間の摩擦を排し、僧俗一致して御奉公の誠を尽されるようお願い致します。
 右、通達いたします。
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これに背いたのが日顕宗ではないか!それどころか、日達上人の事跡の全てを破壊し尽くしたのが阿部日顕であることを、法華講は目をつぶることなく認識すべきだ。(<創価王道>WS070813)
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 「創価学会の板御本尊のことに関しては、一切議論を禁止」されたのは「我が宗は、日蓮大聖人の正義を広宣流布するものである」からで、「これの妨げとなるような僧侶間の摩擦を排し、僧俗一致して御奉公の誠を尽」すためである。
 ところが、平成2年11月16日以降の学会は、唯授一人の血脈の尊厳を汚し、「日蓮大聖人の正義を広宣流布する」資格を自ら放棄したのである。だから、学会自身が、当該院達の効力を喪失せしめたともいえるのである。
 そして、謗法と化した学会を破折することはむしろ「日蓮大聖人の正義を広宣流布する」ためには必要なことであり、日達上人の御意にも適うことなのである。そのためには、学会の過去の謗法を明らかにすることも当然必要である。





御本尊謹刻問題 自由座談会 赤澤氏


<鸞鳳>WS)



【自由座談会「太陽の仏法」と「創価の時代」を語る18】
(『聖教新聞』H9.10.16)

〈佐藤〉笑止千万の“信徒資格”騒ぎで大わらわの日顕宗ですが、最近、性懲(しょうこ)りもなく御本尊謹刻(きんこく)問題を持ち出し、愚(ぐ)にもつかぬ言い掛かりをつけています。
〈原田〉そうらしいね。8月28日の教師講習会で、教学部副部長の水島公正と総監の藤本日潤が、派手にやっていたそうじゃないですか。
〈八矢〉“23年ぶりの新発見”などと言って、“学会は昭和49年9月に
、本山に謹刻の願い出をする以前から勝手に御本尊を彫っていた”という、とんでもない大嘘(うそ)を吹聴(ふいちょう)しているらしいわね。
〈森田〉何が“23年ぶりの新発見”か。学会はちゃんと日達上人の了解を受けたうえで、御本尊を御謹刻申し上げたんです。こんなほこりをかぶった、重箱の隅をつついたような話を持ち出すこと自体、まったく問題がない何よりの証拠じゃないか(笑い)。
〈佐藤〉そう。追い詰められて、まさに“破れかぶれ”です。10月1日付『大白法』では、今度は当時、日達上人の仲居だった光久諦顕(関東大支院長)まで登場させて、“本尊模刻は大謗法(ほうぼう)”などと寝ぼけたことを言っている。
〈秋谷〉まったく問題にならない。だいたい、この件については日達上人がわざわざ院達まで出され、「一切論議を禁止する」(昭和53年10月3日付)と厳命されていた事柄です。いったい日顕は、どこまで先師・日達上人に逆らって、いちいち弓を引けば気がすむのか。
〈八矢〉藤本にしろ、光久にしろ、あれだけ日達上人に世話になっておきながら、日顕にお世辞をつかって、日達上人の指南を破るとは何ごとですか。弟子として、いや人間としても最低ですよ。
〈佐藤〉信徒には「師弟の筋目」などと偉そうに言っておきながら、自分たちはいとも簡単に師匠の戒(いまし)めを破る。どうせ日顕に脅(おど)されて仕方なくやったんだろうが、彼らの名は師匠を売った“忘恩の徒”“裏切り者”として永遠に残るだけだ。
〈秋谷〉しょせん、あの連中は、自分の保身のことだけしか頭にない“小心者”だ(笑い)。やはり一番の極悪(ごくあく)の中の極悪は日顕だ。
〈森田〉そうですね。そもそも日達上人の院達を最初に破ったのが日顕だ。今回の問題が起きた直後に、この謹刻の件を学会攻撃のために使っていいという指示
を出している。
〈八矢〉“自語相違”もいいところね。かつて「論議する者こそ謗法であります」(昭和55年4月6日、御代替奉告法要)と言っていたのは、だれだったかしら。
〈原田〉まったくだ。日顕は、その後も、「総じて“触れるな”といわれたものに触れることは、謗法と断じます」(同7月4日、全国教師指導会)、「今もって蒸し返して謗法論議をすることは逆に日達上人の御意に背(そむ)く謗法」(同11月、「宗内檀徒の皆さんへ」)とも言っていた。
〈秋谷〉ところが、それが平成3年になると、例えば11月の解散勧告書には「御本尊の模刻という前代未聞(みもん)の大謗法」、破門通告書には「勝手に模刻するという大罪」などと言っている。かつて自分で“論議するな”“触れるな”と言っておきながら、それを破門理由にしたということは重大な問題だ。
〈森田〉何のことはない。登座直後の日顕の指南からすると、日顕こそ大謗法を犯したことになる(笑い)。
〈佐藤〉日顕の“自語相違”“二枚舌”はシアトル事件裁判でも立証済みです。それこそ裁判になったってコロコロ主張を変えてくるんだから、“裁判所公認の大ウソつき”山崎正友といい勝負だ(笑い)。
〈秋谷〉そもそも、この問題の“火種(ひだね)”をつくったのが、ほかならぬ山崎正友だ。前回の宗門問題の時に、何とか学会攻撃の材料にしようと、裏で若手僧侶を焚(た)きつけ、無理やり「問題」にして日達上人を突き上げさせたのだ。
〈森田〉登座した直後の日顕は、そうした山崎の策謀(さくぼう)を知っていて、「あんたはウソつきだ!」といって山崎を退け、自分の血脈相承を否定した正信会についても擯斥(ひんせき)処分にしている。
〈原田〉ところが、今や日顕は、その山崎に「あの時はウソつきと言って悪かった。勘弁(かんべん)してください」と頭を下げ、かつて山崎や正信会がやっていたことを、そのまま“猿マネ”している(笑い)。
〈秋谷〉まるで山崎が法主で、日顕が檀徒か家来みたいな関係だね(笑い)。主客転倒もいいところで、自分のやっていることのおかしさが分からないほど、錯乱している。「頭(こうべ)阿梨樹(ありじゅ)の枝のごとくに・われたれども悪業ふかくして・しらざるなり」(御書924頁)と仰せ通りの、まさに「頭破七分」の姿だ。
〈佐藤〉私が理解できないのは、御本尊を大切にするために板御本尊にしたのに、何で宗門がとやかく言うのか、ということです。これは信心のうえから、どう考えたって納得できない。
〈八矢〉そうですよ。ご不敬したとか、紛失したとか、あるいは身延みたいにキツネや鬼子母神(きしもじん)を祀(まつ)ったというのなら話は別ですが、学会は御本尊を荘厳申し上げたんです。今ごろ日顕宗から文句を言われる筋合いなんてどこにもないですよ。
〈秋谷〉まったくその通りです。日達上人も、「御本尊は受持した人のものですから、信心の上で大切にするのであれば、板御本尊にするのは自由です。他の人がとやかく言うものではありません。紙幅(しふく)を板御本尊にするということは、以前からもあったことです。特段、問題にすることではありません」と言われていた。それを今さら「謗法だ!」なんて、とんでもない言い掛かりだ。
〈原田〉そう。もともと紙幅の御本尊を板御本尊に彫刻することは、宗内では昔から行われていることです。昔は“御形木3年”といって、そのあとは信者でも、板御本尊にするのが当たり前だったんです。
〈森田〉現に大石寺周辺には、板本尊を持っている檀家はいくらでもいるし、初代会長の牧口先生の御本尊も板御本尊だった。
〈佐藤〉だいたい、彼らの言う、「模刻」という言葉自体が新造語でおかしい。まるで学会が勝手に御本尊をマネして板に刻んだような悪いイメージをつくろうとしている。もともとそれが、あの連中の狙(ねら)いなんだろうが、冗談じゃない。
〈原田〉そうそう。“聖教新聞社の地下でつくった”とか、ひどいのになると“実はその時、板本尊を何百体もつくっていた”と本気で信じている者もいる(笑い)。
〈佐藤〉改革同盟の大橋正淳住職(和歌山・大照寺)も、「正信会が騒ぎ出すまで、『模刻』なんて言葉は聞いたこともなかった」と語っています。
〈原田〉いずれにせよ、学会は日達上人の了解をきちんと得たうえで、日蓮正宗御用達の仏師に依頼し、御本尊を御謹刻申し上げたんだ。それに対して、向こうが日達上人の禁止令を破ってまで批判してくるなら、この際、こっちも事実関係をハッキリしておく必要がある。
〈秋谷〉あれは了解を得たうえでの「謹刻」であり、断じて彼らのいう「勝手に模刻」とか、ましてや御本尊に御不敬を働いた日顕宗が言うような「謗法」ではないことは明確だ。そもそも、御本尊にこと寄せ、そんなバカげた言い掛かりをつけること自体、信徒などいかようにも騙(だま)せるという日顕宗宗門のペテン師ぶりが如実に表れている。
〈森田〉賛成です。次回は特別に、当時、実際に御本尊の御謹刻に携わった赤澤朝陽会長の赤澤猛さんにもご足労願い、いかに日顕宗がウソ八百を並べているか、当時の真相を語ってもらいたいと思います。



【自由座談会「太陽の仏法」と「創価の時代」を語る19】
(『聖教新聞』H9.10.17)

〈秋谷〉今回は、元・日蓮正宗御用達の仏師で、赤澤朝陽会長の赤澤猛さんに来ていただいた。実際に学会本部の御本尊御謹刻(きんこく)に携(たずさ)わった当事者として、当時の状況をありのままに語ってもらいましょう。
〈赤澤〉はい。赤澤です。よろしくお願いします。
〈原田〉赤澤さんは、4年前の座談会(平成5年9月30日付)以来、2度目の登場ですね。ぜひ、もう1度、話してください。
〈赤澤〉わかりました。私どもは、明治40年に日蓮正宗御用達となって以来、日顕が学会を破門するに至(いた)るまでの間、宗門の御本尊の御謹刻に関する仕事は一手にお引き受けしてまいりました。学会本部の御本尊を御謹刻したのも私どもですし、よく存じております。
〈佐藤〉早速ですが、今回日顕宗では、大石寺に納められている板御本尊を調査したら、御本尊のほぞの部分に、仏師の名前と彫刻した年月が刻まれているのを
発見したと言っていますが、それは本当ですか。
〈赤澤〉その通りでございます。ほぞというのは板御本尊の台座に差し込まれている部分のことですが、通常、御本尊の御謹刻が終わり、台座に差し込む際に、仏師の名前と年月を刻んでおります。
〈佐藤〉なるほど。それでは宗門側が、池田先生が日達上人から昭和49年1月2日に賜(たまわ)った「正本堂賞与(しょうよ)御本尊」の板御本尊に、「昭和四十九年四月 朝陽(ちょうよう)」と彫られていたと発表していますが、これも間違いないわけですね。
〈赤澤〉はい。間違いないと思います。「正本堂賞与御本尊」については、一番最初に御謹刻させていただきましたので、よく覚えています。49年の1月に依頼を受け、2月に彫り始めて、4月30日に学会本部に納めました。
〈八矢〉何の問題もないじゃない。いったい宗門側は、何がいけないと言ってるの?
〈佐藤〉宗門の教学部副部長である水島の話はこうです。要は、“学会が板御本尊にしたいと願い出をしてきたのは昭和49年9月2日。ところが、実はそれよりも5ヵ月も前の4月には彫刻が終わっていた”というのです。
〈赤澤〉それはとんでもないスリ替えです。「正本堂賞与御本尊」を板御本尊にすることは、日達上人は昭和49年の1月にはすでにご存じでした。これは日達上人からも、また池田先生からも、私が直接お話を伺(うかが)ったことですから、確かなことです。このことは4年前の座談会でも、明確に申し上げたはずです。
〈森田〉日顕宗というところは、「唖法(あほう=無言の行法)を受けたる婆羅門(ばらもん)等の如(ごと)し」(御書21頁)とある通り、自分たちに都合の悪いところはすぐに頬被(ほおかむ)りして黙ってしまう習性がある(笑い)。念のため、もう1度、その間の経緯を教えていただけませんか。
〈赤澤〉はい。わかりました。私が初めてこの話を伺ったのは、昭和48年の暮れのことでした。学会本部から、「学会の御本尊を何体か板御本尊にしたいので、そのときはよろしくお願いしたい」という話がありまして、私は、「猊下(げいか)に言いっていただければ、私どもも安心してできますが」と答えました。
〈秋谷〉そうです。それで、年明け早々に、その件で池田先生から日達上人にお話ししたわけです。ちょうど、日達上人から池田先生に「正本堂賞与御本尊」が下付(かふ)された時のことでした。
〈赤澤〉昭和49年1月16日のことですが、私が池田先生にお会いした折、先生の方から「御本尊のことは、私から猊下に申し上げておいた。猊下は、“大事にするためなんだからいいんだよ”とおっしゃっていた。安心してよろしく頼みます」と言われたんです。
〈原田〉つまり、日顕宗側が問題にしている「正本堂賞与御本尊」については、昭和49年1月に日達上人の了承を得たうえで依頼を受け、2月に彫り始めて4月に学会本部に納めた、ということですね。
〈赤澤〉その通りです。ですから、水島の言う“願い出をする前から、学会は謹刻していた”というのは、明らかな間違いです。
〈秋谷〉間違えたというよりは、手柄を立てたいために、意図的に無視して、“新発見”にしたというのが真相でしょう。宗内でも知らない人が聞いたら、本当かなと思ってしまう。
〈原田〉まったくタチの悪い教学部副部長だ。こんな“トリック”で、人々を騙(だま)そうとするなんて、まったくずるい。この昭和49年9月2日というのは、学会と宗門の連絡会議が行われた日のことだが、ここで議題に上がった板御本尊とは、学会本部常住の師弟会館の御本尊のことで、「正本堂賞与御本尊」のことではない。
〈森田〉そう。私も出席者だったからよく覚えている。もともと御謹刻は日達上人の了解を得てから始めたものだが、学会本部常住の御本尊を御謹刻する際、改めて、連絡会議にかけたのです。

〈秋谷〉その会議には、当時、総監代務者だった日顕自身も宗門側の責任者として出ていて、日達上人に報告していたはずだ。その時も日達上人ははっきりと了解している。だから、そのことは、報告した当人の日顕が、誰(だれ)よりもこの事実について一番よく知っているはずだ。
〈佐藤〉ちなみに赤澤さん、本部常住の御本尊を謹刻したのはいつごろですか?
〈赤澤〉49年の11月末に彫り始め、その年の暮れに学会本部に納めています。
〈原田〉そう。だから9月に連絡会議で確認して、11月から謹刻が始まったのです。そしてこの学会本部常住の板御本尊については、翌50年の1月1日に入仏式を行った。このことは当時の『聖教新聞』(1月4日付)でも大々的に報道している。当然のことながら、当時、これらの御謹刻については、何の問題にもなってはいませんでした。学会には宗門に隠れてこっそりやらなければならない理由など何1つなかったんです。
〈佐藤〉では謹刻の仕方についてはどうですか?何か宗門側は、紙幅(しふく)の御本尊を写真に撮(と)って、板にしたことが悪いように言っていますが。
〈赤澤〉そんなことはありません。現に学会本部の御本尊以外にも、保田の妙本寺では10体、日向(ひゅうが)の定善寺では7体ほど、それぞれお寺の御本尊の写真を撮り、謹刻しています。何より日顕自身、広島・正教寺の客殿の御本尊が大きすぎて御厨子(ずし)に入らず、住職に「赤澤に言って、写真を撮ってもらって小さくしろ」と指示を出していたことがあります。
〈八矢〉まー、御厨子を大きくするんじゃなくて、御本尊を小さくしたの?とんでもない本末転倒(ほんまつてんとう)じゃないですか。
〈秋谷〉御本尊を単なる“モノ”としか思っていない証拠だ。それに比べて学会は、本部常住の御本尊をはじめ数体の御本尊を、将来にわたって大切にお守りするために、板御本尊にしたいと願い出をしたんだ。それに対して日達上人は、「紙幅を板御本尊にするということは、以前からもあったことです。特段、問題にすることではありません」と言われた。それを今さら宗門側がとやかく言うのは筋違(すじちが)いです。
〈森田〉いずれにしても、これで日顕宗の言い掛かりは完全に総崩れだ(笑い)。わざと学会本部常住の御本尊と「正本堂賞与御本尊」をスリ替えて、“願い出の5ヵ月前に勝手に謹刻していた”などと発表するなんて、聖職者の風上(かざかみ)にもおけない大ウソつきだ。
〈佐藤〉水島も総監の藤本も、さぞかし“穴があったら入りたい”心境だろう。“新事実発見!”などと、あれだけ得意になって大はしゃぎしていたクセに、『創価新報』(9月17日付)で破折(はしゃく)されたとたん、『大白法』(10月1日付)では見る影もないほど“トーンダウン”している(笑い)。
〈原田〉赤澤さんが4年前に証言していたことについても、“知っていたけど、発表は省略しました”などと負け惜しみを言ってる。これで“学会員を再折伏しよう!”だなんて、とんだお笑い草だよ。わざわざ自分たちで“墓穴(ぼけつ)”を掘りにくるようなものだ(笑い)。
〈秋谷〉要するに、大騒ぎしても、よく見ると実態は何もない。正論があらわれると、あとは何も言わないで身を縮めて穴の中にこもってしまう。まさに「帝釈(たいしゃく)にせめられて無熱池(むねっち)の蓮(はちす)の中に小身(しょうしん)と成(なり)て隠れしが如(ごと)し」(御書957頁)の御金言通りの哀(あわ)れな姿じゃないか。日顕宗が凋落(ちょうらく)の一途をたどるのも当然と言えば当然だ。



【自由座談会「太陽の仏法」と「創価の時代」を語る20】
(『聖教新聞』H9.10.18)

〈佐藤〉ところで、10月1日付の『大白法』には、当時、日達上人の仲居だった光久諦顕(関東大支院長)がノコノコと登場し、ウソ八百を並べています。
〈八矢〉私も一読して、思わず噴き出してしまいました(笑い)。よほど4年前の赤澤さんの証言が効(き)いているのね。何ら明快な反論もできずに、ただ「疑点に思います」「信用するのもばからしい」といった調子で、個人攻撃に終始しています。
〈森田〉そう。所詮(しょせん)、言っていることは、平成4年4月1日付『大白法』に掲載された菅野慈雲(東京・大宣寺)の受け売りだ。これこそ「信用するのもばからしい」言い掛かりばかりだが、せっかく当時の経緯をすべて知っている赤澤さんがおられるわけだから、ここでしっかりと破折(はしゃく)しておいたほうがいい。
〈佐藤〉光久の難クセの第1は、“昭和53年初頭に、日達上人から菅野に対し、「今、赤澤朝陽の社長が年始のあいさつにきて、学会からの依頼で多数の御本尊を板本尊にしたと聞いた。何体彫刻したのか、赤澤に行って調べてくるように」と依頼があった。そのこと自体、日達上人が知らなかった何よりの証拠である”というものです。
〈赤澤〉前にも言いましたが、この話はまったくの作り話です。第一、年始のあいさつには、私だけではなくたくさんの方が来られています。そんな所で私1人が、しかも御本尊に関する重要な話などできるはずがありません。もしあったと言うなら、その場にいた大勢の人たちが証言しているはずですよ。
〈秋谷〉そうですね。この光久の話は明らかに矛盾している。だいたい日達上人は、昭和49年の段階ですでに御本尊の謹刻(きんこく)については了解されていたんです。それなのに53年になって、そんなことを聞くわけがない。これはもうまったく作られた話です。
〈赤澤〉そうです。それに私は日達上人から直接、最初から了解されていたことを伺(うかが)っています。
〈原田〉そうでしたね。確か、49年の秋ごろ、大奥の対面所で目通(めどお)りした時のことでしたね。
〈赤澤〉はい。その時、猊下(げいか)は本来の用件が終わり、いったんお帰りになられようとしたんです。それが思い出したように戻ってこられ、「そういえば、学会本部の御本尊は赤澤で彫ってるんだよね」と聞かれたのです。
〈八矢〉それで赤澤さんは、どうされたんですか?
〈赤澤〉もちろん「そうです」と答えました。すると猊下は、「ほかのもやってるのかい」と言われました。私が「はい。やりました。たしか、池田先生が猊下様に申し上げたと言われておりましたが」と申し上げたところ、「うん。池田会長から聞いているよ。あと5、6体やらせてもらいたいと言ってたな。大事なものだから、気をつけてやってください」と言われ、それで部屋を出ていかれたんです。
〈秋谷〉明快ですね。学会本部常住の御本尊をはじめ、他の御本尊についても、日達上人は昭和49年の段階で明確にご存じだったわけだ。まったく光久も無責任な発言をするものだな。
〈赤澤〉本当にそう思います。こと御本尊のこととなると日達上人は厳格で、必ずそばにだれもいない時に話をされていました。それが役僧であろうと側近であろうと、だれかいる時にはそうした話は一切口にされませんでした。
〈佐藤〉赤澤さんの証言で、池田先生と日達上人の間で、話があったことは明白です。そのうえで確認しておきたいのですが、実際に謹刻する際の手続きはどうなっているのですか?というのも、光久は“なぜ内事部に報告しない”“口約束だけで仕事をするなんて怠慢(たいまん)だ”と難クセをつけているのですが(笑い)。
〈赤澤〉いや、当時は、そんないちいち内事部に書類を提出したり、報告するようなことはありませんでした。通常、信徒の皆さんから依頼を受けた時にも、末寺の住職に身元の確認をするぐらいのものでしたから。本山から報告を要求されるようになったのは、日顕の代になってから、とくに内事部に御本尊を取り扱う第3課ができてからのことです。
〈森田〉だいたい連絡会議等で、そんな話は1度も出なかったですよね。もしそんな手続きや方式があるなら、意地悪しないできちんと教えてくれればいいんだ。それこそ本山側の“怠慢”になる(笑い)。
〈八矢〉その底意地(そこいじ)の悪い光久は、日達上人が謹刻した御本尊について、“どこか金庫にでもしまっておけ、人目に触れさせるな!”と立腹(りっぷく)して、学会がどう処置していいか困ったなんて言ってるわね。
〈原田〉これもまったくのデタラメです。活動家僧侶(後の正信会)が謹刻問題で騒(さわ)ぎ出した際、学会としては、あくまでも日達上人をお守りする立場から、昭和53年9月2日の目通りの席で、御本尊の扱いで指南を求めたわけです。
〈秋谷〉そう。その時、日達上人は「すべて学会本部に宝物としてお納めくだされば結構です」と言われたんだ。私もその場にいて、この耳で聞いている。その日達上人のおっしゃった通り、翌日の『聖教新聞』に報道されています。
〈森田〉ところが今度は、それを材料にした活動家僧侶が、「また猊下は学会にだまされ、利用された」と騒ぎ出し、収拾(しゅうしゅう)がつかなくなった。日達上人に対して、活動家僧侶はものすごい剣幕で詰め寄っていた。
〈佐藤〉結論として学会は、その目通りの後、本部常住の板御本尊以外の7体の板御本尊を本山に納めることになりました。これについても光久は、“大宣寺が学会に泣きつかれた”などと、とぼけたことを言っていますが。
〈原田〉あべこべだ。学会が大宣寺に泣きつかれたんですよ(笑い)。菅野慈雲が「猊下は活動家僧侶との板挟(ばさ)みで、学会を守るために苦しんでいる。猊下の立場を考えて、板御本尊については、本山に納めてくれないか。そうしてくれれば、問題はすべて収まるから」と言ってきたんです。
〈森田〉とにかく当時の宗内は、山崎正友の暗躍と活動家僧侶の暴走で揺れに揺れていた。学会としては、こうした宗内の混乱を収拾することが最優先課題と判断した。だからこそ、日達上人を守るために、学会本部常住の御本尊以外の7体の板御本尊を大石寺に納めたわけです。
〈秋谷〉その通りです。本来なら、いくら菅野に泣きつかれようが、それに応じる必要など一切なかった問題です。それもこれも、すべては日達上人を守り、僧俗和合をしていこうとの思いから、あえて学会が泥をかぶり、譲歩(じょうほ)もし、耐え忍んだのです。
〈原田〉そうです。だから、御本尊を納めた直後、学会としても日達上人に申し上げた。「こちらは御指南を守って言わないのに、活動家僧侶がまだいろいろ言っています。これではまったく困ります」とね。それに対して日達上人は、「わかった。それでは院達(宗門・宗務院からの通達)を出します」と言われ、それで例の「一切論議を禁止する」という昭和53年10月3日付の院達が出されたんです。
〈佐藤〉しかし教学部副部長の水島など、こうした経緯をネジ曲げて、“昭和53年11月の幹部会で、辻副会長(当時)が、「不用意に御謹刻申し上げた」と謝罪したから、論議を禁止した”などと言っている。
〈八矢〉まったくどこまでひねくれているのかしら。「悪世の中の比丘(びく)は邪智(じゃち)にして心諂曲(てんごく)」(御書224頁)の通りだわ。
〈森田〉だいたい、あの「不用意に御謹刻申し上げた」の表現は、代表幹部会の前日、突然、宗門側の強い要請があって挿入(そうにゅう)させられたことじゃないですか。陰では全部、あの“極悪ペテン師”山崎正友の策略だったんです。
〈秋谷〉宗門側の言い分は、“これを入れてくれないと、騒いでいる活動家僧侶が納得しない”“彼らが納得しない限り、学会がいくら僧俗和合を徹底しても事態は収拾しない”というものでした。つまり、事態収拾のためにということで話し合った結果、入れた文言(もんごん)だったのです。そうした経緯を承知(しょうち)のうえで、日顕たちはその文言だけを取り出し、“あの時謝(あやま)ったじゃないか”“あれは偽(いつわ)りの反省だったのか”と言ってくる。無慚無愧(むざんむき)とはこのことで、信義も何も通じないところです、日顕宗は。
〈赤澤〉まったく嘆(なげ)かわしい限りです。あの人たちには、この件で感情的に騒げば騒ぐほど、日達上人に疵(きず)がつくことが、まだわからないらしい。
〈秋谷〉大聖人は「ほろぶべき事を知りながら申さぬは諛臣(ゆしん)とて・へつらへる者・不知恩の人なり」(同1412頁)と仰せです。
 光久にしても、藤本にしても、あるいは菅野にしても、本来、日達上人の弟子として、先師に違背(いはい)し宗門を破滅に追いやる日顕に対し、命懸(いのちが)けで諫暁(かんぎょう=いさめただす意)すべき立場にある。
〈原田〉それを見て見ぬふりをするどころか、媚(こ)び諂(へつら)ってお先棒(さきぼう)を担(かつ)いでいるのだから、話にならない。この3人は“腰抜けトリオ”として、日達上人の遺弟たちからも陰で笑われているらしい(笑い)。
〈森田〉笑われて当然ですよ。大客殿をはじめ、大化城、六壷、総坊前の桜と、大石寺から日達上人の事跡が次から次へと取り払われているというのに、彼らはただボーッと指をくわえて眺(なが)めているだけなんだから(笑い)。
〈八矢〉これはもう日顕宗全般に言えることですが、出家の身でありながら、とにかく“恩”と言うものを知らなすぎるわね。その最たるものが、大恩ある学会、なかんずく池田先生に対する仕打ちです。
〈秋谷〉会長就任以来、それこそ池田先生はどれほど宗門に貢献されたか。建立寄進した末寺の数だけでも360ヵ寺にも及ぶ。それほどの大功労者を、あろうことか「あの野郎」呼ばわりして切ってきた。
〈佐藤〉大聖人は「畜生すら猶(なお)恩をほうず」(同204頁)と仰せです。世間でも、犬すら3日飼えば恩は忘れないという。大恩に仇(あだ)で報いた日顕は、断じて許すことはできない。



【「創価の世紀」の開幕(3)】
(『聖教新聞』H5.9.15)

〈高橋〉今回の学会の御本尊授与は、皆大喜びです。広布の新しい時代の開幕を実感しているからです。
〈原田〉そうですね。授与のことが発表された第70回本部幹部会のあった7日は、池田先生が本年の本部訪問百回目の日でしたし、新聞発表がされた8日も戸田先生の「原水爆禁止宣言」の記念日であるなど、幾つもの意義を刻む日でした。世界広布新時代のまさに夜明けの時を迎えています。
〈谷川〉それに対し日顕宗は謗法の坂をますます転げ落ちている。『大白法』号外では、今回の学会の御本尊授与を、以前の御本尊謹刻(きんこく)のことに結び付けて誹謗(ひぼう)しているようですね。
〈秋谷〉そうらしい。しかし御本尊謹刻のことは、十数年前、日達上人が“今後一切言ってはならない”と院達を出され、厳しく戒められたことです。それを持ち出すことは、先師に対する大変な反逆になる。
〈斉藤〉その通りです。後で申し上げますが、そもそも御本尊謹刻は、日顕や藤本も言っていたように、仏法上また日達上人の御指南に照らして、謗法でも何でもないことなのです。
〈辻〉当然だよ。日達上人の書写された御本尊を謹刻しても、日達上人の御本尊に決まってる。日寛上人の御本尊を御形木御本尊にしても、日寛上人の御本尊に決まってるじゃないか。その御本尊を謗法だとか、功徳がないとかいう日顕たちこそ大謗法だよ。
〈高橋〉その謹刻のことを利用して謀略で騒いだのが、山崎正友や正信会ですね。
〈辻〉そうです。だから日顕たちは、正信会の猿マネをしていることになる(笑い)。
〈谷川〉そもそも日達上人が禁止されたことを破ったのは日顕でした。日顕は、今回の問題が起きた直後の平成3年1月6日の本山での会合で、この謹刻問題を
学会攻撃のために使っていいという指示を出しています。それも、僧侶の話によると、新年の樽酒を開けてホロ酔い気分で号令したというんです。
〈辻〉とんでもない男だ。日顕は最初から御本尊を謀略の道具にしようとしていたということだね。
〈原田〉ええ。『大白法』では、謹刻は日達上人の許可を得ていなかった等と、まず経過をごまかしています。そして“学会は日達上人のお心を踏みにじり、再び大謗法を犯した”などと臆面(おくめん)もなく書いています。
〈秋谷〉全く笑止千万だ。日達上人の心を踏みにじって、御本尊謹刻のことをまだ言っているのが日顕たちではないか。
〈辻〉その通り。これ自体、大謗法だよ。
〈秋谷〉この件については、学会としては日達上人の指南に基づき発言を控えてきたが、ここまで先師を冒涜(ぼうとく)し、ウソを重ねるのなら、後々のためにも、ここで、御本尊謹刻の真相、経緯についても明確にしておきたい。
〈辻〉賛成です。この問題は、学会が宗門を守ったのであって、学会には一点も非がなかったことを、是非明らかにしておきたい。あの御本尊の謹刻は、当時、間違いなく日達上人の了解も得たうえで謹刻したものなのです。
〈秋谷〉その通り。当時の経過について言いますと、昭和49年に、学会は創価学会常住の御本尊はじめ数体の御本尊を、将来にわたり大切にお守りするために板御本尊に謹刻させていただきたいと、時の日達上人に願い出たのです。
 それに対し、日達上人からは、「御本尊は受持した人のものですから、信心の上で大切にするのであれば、板御本尊にするのは自由です。他の人がとやかく言うものではありません。紙幅を板御本尊にするということは、以前からもあったことです。特段、問題にすることではありません」という趣旨の、お話があったのです。これが真相です。
〈辻〉日達上人はこの他にも、「僧俗には、最高の技術をもって大御本尊を守護申し上げる責任がある」「御本尊を守り、法を守って永代まで伝えなければならない」等と、御本尊をお守りする信心の大切さについて、昔から折に触れ言われている。
〈斉藤〉もともと、紙幅の御本尊を板御本尊に彫刻することは、宗内では昔から行われてきたことで、問題にする方がおかしいのです。例えば、堀上人は、紫宸殿(ししんでん)御本尊を謹刻した板御本尊を拝んでいた。末寺でも、保田の妙本寺では10体、日向の定善寺では7体、紙幅の御本尊を写真にとり、謹刻している。宗門では紙幅を板御本尊にすることは、本来騒ぐことでも何でもないことなのです。
〈原田〉だから、学会も日達上人の了解を得て、昭和49年より、本部常住の御本尊など全部で8体の御本尊を、順次、板御本尊に謹刻申し上げたのです。そもそも、総監の藤本が「あれは、謗法ではない」と法廷で証言したではないですか。ところが、あの『大白法』によると、藤本は公(おおやけ)の法廷でウソをついたことになる(大笑い)。それこそ大問題だ。
〈高橋〉全くそうですね。
〈谷川〉このことは、当時の問題をよく調べたといわれる河辺慈篤(かわべじとく=北海道大支院長)も、昭和63年4月に行われた一般得度9期生に対する指導会で「正信会は御本尊模刻について大謗法だといっているが、そんなことはない。やはりこのことについても、日達上人からそのような御指南を得ていた。謗法でも何でもない。素晴らしいことだ」と説明しているということです。
〈高橋〉ということは、もともと問題になるようなことではなかったということですね。
〈原田〉その通りです。ここに昭和50年1月4日付と、50年7月17日付の『聖教新聞』の記事があります。創価学会本部や関西本部の常住御本尊などを板御本尊にしたこともハッキリ出ています。しかし、当時は何の問題にもならなかったのです
〈谷川〉この問題のおかしいところは、すでに公になってから2、3年経過した昭和52年ころから急に騒がれ始めたことです。後にいわゆる正信会となって宗門に反逆した若手坊主たちが、山崎正友と結託して意図的な学会攻撃の材料として、この謹刻を問題があるように仕立て上げたからです。
〈秋谷〉とくに、これが宗内でことさら騒がれた昭和53年当時は、若手が宗門執行部を突き上げ宗内は無政府状態で、宗務院と何を話してもすぐ若手に壊されるという状況でした。日達上人も大変に心を痛められていた時です。
〈斉藤〉そんな異常な宗内状況の中で、正信会に学会の謹刻御本尊のことを質問された日達上人は、昭和53年6月の教師指導会で「学会の方で板御本尊に直したところがあります。それは私が知らなかった。しかし、あとで了解をして、こちらも承認したのだから、そういうことをつついて、お互いに喧嘩(けんか)しないように」と発言したことがあります。
〈谷川〉この中の、「それは私が知らなかった」という部分を今回の『大白法』は、だから法主の許可はなかった、という根拠にしようとしていますが。
〈秋谷〉そう、これもあの時の正信会の輩(やから)のマネをしているんだ(笑い)。正信会はこの発言を、学会の謹刻は事前の承認を受けていなかったということで利用しようとした。そして更にしつこく追及した。すると、別の時には、“学会から願い出はあったが、後で正式な申請の書類が出てくると思っていたが来なかったのだ”との説明がなされたりした。
〈辻〉あの日達上人の話の結論は、「こちらも承認したのだから、そういうことをつついて、お互いに喧嘩しないように」というところにあった。つまりあれは、日達上人が、最終的に宗門も“了解し、承認したのだから騒ぐな”と、正信会を納得させ、問題を収めようとした発言だったのです。このあたりの日達上人の正信会僧侶に対する話を正信会が悪用し、問題をくすぶらせたともいえる。
〈秋谷〉そうです。しかし実際は、この書類の件も、当時そのような書面を出す指示もなかったし、そのための手続きや方式もなかった。それに、何より、日達上人が直接、池田先生に明確に了解されたことであり、それで十分であると私どもは考えたのです。それは当然のことでしょう。
〈谷川〉現に宗内でも、四国大支院長の安沢らが当時出した小冊子のなかで、学会の御本尊御謹刻については、日達上人が認可されたものだとハッキリ言っていますね。
〈斉藤〉そうです。その小冊子の中では、正信会の中心者が、早瀬日慈や日顕らの証言と問題の経緯を踏まえて、次のように言ったことを紹介している。「今こちら側でこの件をついてゆけばそれでは事実はこうと聖教で公表するだろう。かかる事態になれば、法主上人の御徳にきずがつくことは免れない。故にこの件に関しては是以上言うべきでない。宗務院として強制力のある通達をもってこれを達しなければならない。この件に違反すれば宗制宗規に照らして厳正な処置を取らねばならないと考える」と。
〈高橋〉先ほど河辺慈篤が、御本尊謹刻は謗法などではないと言っていた話がありましたが、日顕はもちろん、あの河辺や安沢たちも皆、事実を知っていたということですね。
〈谷川〉先日ある僧侶から聞いたことですが、当時大方の宗門僧侶の間には、学会の御本尊謹刻が教義上の「謗法」だという感覚など、全くなかったというんです。それが騒ぎになったのは、坊主には、寺は板御本尊で会館は紙幅御本尊だから“寺の方が会館より上”という愚かな上下意識があり、その“差別”が崩されて、信徒が来なくなり御供養が減ることが怖(こわ)かった。これが実は本音だったというのです。
〈辻〉なるほど。宗内ではその程度だったのだろうね。それこそ御本尊は寺の配布物、販売物としか考えていない宗門の体質がよく出ている話だ(笑い)。この邪教そのものの心根(こころね)の下劣さを、大聖人はどれほどお怒りになられることか。
〈原田〉さて、話を戻しますと、謹刻問題がにわかに大きくなる中で、学会としては、あくまで日達上人の指南に基づくべきであると考え、昭和53年9月2日のお目通りで、謹刻した御本尊についての御指南を求めたのです。
〈秋谷〉その時、日達上人は「すべて学会本部に宝物としてお納めくだされば結構です」との話をされました。私もその場にいて間違いなく聞いています。そして学会は、その通り、翌日の『聖教新聞』に報道しました。すると、活動家僧侶側は、今度はこれを材料に「また猊下は学会にだまされ、利用された」と、日達上人に詰め寄り、騒いだのです。
〈高橋〉日達上人がお目通りで話されたことを、そのように曲げて取るとは、よほど性格が曲がっていたのですね、当時の正信会も。本当に悪辣(あくらつ)です。
〈谷川〉そのお目通りの後の9月末、最終的に学会は、創価学会常住板御本尊以外の7体の謹刻御本尊については、本山に納めました。これをとらえて、御本尊を返したのは学会に非があったからだ、などと日顕は言わせていますが、この真相はどうだったのですか。
〈原田〉その理由はただ1つです。実は、日達上人の娘婿(むすめむこ)で学会との折衝(せっしょう)役になった大宣寺の菅野慈雲(すがのじうん)から、「猊下は活動家僧侶との板挟(いたばさ)みで、学会を守るために苦しんでいる。猊下の立場を考えて、板御本尊については、本山に納めてくれないか。そうしてくれれば、問題はすべて収まるから」という趣旨の話があったのです。
 学会としては、経過からしてこれに応じなければならない理由は何1つありません。しかし、とにかく宗内が反学会の活動家僧侶の決起で揺れに揺れ混乱している。したがって、こうした宗内の異常状態を収拾することが最優先課題でした。ゆえに日達上人を守るために、学会常住以外の7体の板御本尊を本山に納めたわけです。
〈高橋〉今から考えれば、信じられないほどの譲歩(じょうほ)を学会はしたのですね。
〈秋谷〉結局、これも日達上人を守り、僧俗和合をしようとの思いからです。だから、板御本尊を本山に納めた直後、日達上人に「こちらは御指南を守って言わないのに、活動家僧侶がまだいろいろ言っています。これでは全く困ります」と申し上げたところ、日達上人は「分かった。それでは院達を出します」と言われ、これらの経緯をすべて踏まえ、昭和53年10月3日付の院達を出し、「今後は創価学会の板御本尊のことに関しては、一切論議を禁止する」とされたのです。
〈辻〉もう1つ言わせてもらいたい。あの院達の後の、昭和53年11月7日に本山で行われた代表幹部会で、私の話の中で、「不用意に御謹刻申し上げた御本尊」という表現があります。しかしあれも、当初の私の原稿にはなかったのに、幹部会の直前の前夜になって、宗門側の強い要請があって、“不用意”という言葉を挿入(そうにゅう)させられたんだ。
〈谷川〉それはどういう理由からだったんですか。
〈辻〉宗門側の言い分は、これを入れてくれないと、騒いでいる反学会の活動家僧侶が納得しない。彼らが納得しない限り、学会がこの「11.7」でいくら僧俗和合のための方針を徹底しても事態の収拾にはならない、というものだった。まことに不本意ながら、僧俗和合実現のためにやむをえず、ああした表現になったのです。
〈秋谷〉当時の異常な宗内状況のため、以上のような複雑な経緯をたどったが、ここでも分かるように、御本尊の謹刻は、法義上も、また本来、手続き上も何らの問題もなかったのです。日達上人自身の指南にもある通り、あくまで御本尊を大事にしたいとの信心の上からなされたものです。
〈斉藤〉そうですね。本来、創価学会が大聖人の「信心の血脈」を継承する、真の「和合僧団」であるということからも、全く問題となることではないですね。
〈秋谷〉そう。それが“大問題”のようになったのは、宗内が、正信会や山崎正友に蹂躙(じゅうりん)されるという事態の中で、学会攻撃の作戦として“為(ため)につくられた”材料だった。これこそ、全く罪ないことで、学会に黒いワナを仕掛けた、中世暗黒時代のような聖職者による謀略だったのです。



【「創価の世紀」の開幕(5)】
(『聖教新聞』H5.9.30)

〈谷川〉ハーバード大学での講演をはじめ、先生の北米訪問のニュースが楽しみな毎日です。いよいよ民衆仏法の太陽が、全世界を照らしていることを感じるのは私1人ではないと思います。
〈高橋〉全くそうです。法華経なかんずく日蓮大聖人の仏法のもつ普遍性が輝く、画期的な「時」が訪れたと実感します。
〈辻〉日淳上人は、仏意仏勅(ぶついぶっちょく)の広宣流布の団体である学会の出現によって、仏教史に劇的な変化が起こったことを見抜かれ、将来の歴史家は「立宗7百年以前は宗門の護持の時代とし、以後を流通(るつう)広布の時代と定義するであろう」(『日淳上人全集』1620頁)という有名な言葉を残されている。これからの広宣流布は、あくまで民衆が主役の時代だということです。先生の戦いは、まさにそれを証明している。
〈細谷〉ここで日顕のことをいうのは、まるで別世界の化石を相手にするようなものですが(笑い)、彼は、日淳上人のいわれた「流通広布の時代」の深い意義が、結局わからなかったんでしょう。だから、現実に世界に広宣流布をしている先生に嫉妬(しっと)し、狂ってしまった。
〈高橋〉その結果は、民主主義を否定し、文化を否定し、僧俗和合を破壊し、ただ“衣の幻想”に執着し宗門を滅亡させています。全く、哀れと言うしかありません。
〈谷川〉ロサンゼルスの男子部が、日顕宗のことを映画の「ジュラシック・パーク」をもじって「ジェラス・パーク(嫉妬の園)」と言ってましたが、実にぴったりの表現です(笑い)。
〈細谷〉ところで、その“嫉妬の園”の動きだけど、日顕は、学会の御本尊授与のことを今度は「院達」で、法主の「御允可(ごいんか)」がないから駄目(だめ)だといっている。
〈高橋〉“御允可”ですか!今時、古臭いですね。つまり“許可”でしょ(笑い)。少しでも有り難がるように、ということでしょうが、そんなのが通用するのは、日顕に盲従(もうじゅう)している法華講あたりだけですよ(笑い)。
〈斉藤〉日顕の国語力は正本堂説法の“たるべき”の珍解釈で底が割れていますからね(笑い)。昔から日顕は見えだけで実際は中身がない。やさしいことを、いかにも難解そうに言って偉そうに見せかけるんです。しかも、肝心の言っている内容が間違いだらけだから、どうしようもないですよ。
〈辻〉結局、日顕宗は、学会の御本尊授与について、法主の許可がないということしか言えない。ところがその法主は、禅寺に墓を建てるわ、陰で悪事を繰り返すわ、遺誡置文(ゆいかいおきもん)もことごとく破ってしまった。これでは邪宗の法主だ。こんな法主が「許可、許可」と居丈高(いたけだか)に言っても、それこそ笑い話にしか過ぎないよ(大笑い)。
〈細谷〉そうです。“ニセ本尊”だとか、功徳がないとか悪口を言っていますが、日寛上人の御本尊というのは、大御本尊をお写ししたものだ。その御本尊に功徳がないというのであれば、それは大御本尊否定になりますよ。
〈秋谷〉その通りです。それこそ大謗法(ほうぼう)です。そのように大御本尊を否定し、日寛上人を否定していること自体、“ニセ法主”の証拠だ。謗法の法主のエセ開眼なんて、まっぴらだ(笑い)。
〈辻〉そう。大事なのは信心なんだ。この日寛上人の御本尊を拝んで、功徳をいっぱいいただいて進んでいきましょう。
〈高橋〉ところで、「院達」では、また御本尊謹刻(きんこく)のことを持ち出しているようですね。
〈細谷〉“日達上人に無断で模刻するという非法行為を犯した”“日達上人の厳しい御叱責(ごしっせき)を蒙(こうむ)って、総本山にその模刻本尊を納めた”などと、もっともらしい作り話を並べています。
〈辻〉事実は、日達上人は明確に了解されていたし、御謹刻した御本尊を本山に納めたのも、宗門側のたっての要請を受け、日達上人を守るために学会が敢(あ)えて譲(ゆず)ったことだ。この前の座談会(本紙9月15日付)で述べた通りです。
〈細谷〉そもそも日顕は、御本尊謹刻を正信会が騒いでいることに対して、「日達上人違背の大罪人である。“触れるな”といわれたものに触れることは謗法と断じます」と自分で言っていたではないか。
〈高橋〉全く正信会より何十倍、何百倍も悪いですね。
〈秋谷〉そう。日顕は、当時の教学部長、総監代務者としてこの件の事情は十分わかっているのです。だから、明らかに嘘(うそ)をついている。そこで、それを明らかにするために、当時、御本尊の御謹刻に、日蓮正宗御用達の仏師(ぶっし)としてかかわった赤澤朝陽社長の赤澤さんに座談会に入ってもらい、当事者として真実を証言してもらいましょう。
〈赤澤〉はい。赤澤猛です。よろしくお願いします。私どもは、明治40年に日蓮正宗御用達となって以来、日顕が理不尽にも学会を破門する事態に至るまでの間、宗門の御本尊の御謹刻に関する業務は、一手に引き受けてまいりました。実際に、学会本部の御本尊などを御謹刻したのも私どもですし、その真相もよく知っています。
〈高橋〉ぜひ、真実を語ってください。
〈赤澤〉私は立場上、宗門のこと、法主のこと、個々の坊さんのことなど、いろいろなことを知っています。しかし、今までは、私は言わないできました。特に、御本尊に関することは、口外しないできました。
 しかし、御本尊謹刻は、宗門では昔から普通にやっていることです。それを謗法呼ばわりするとは、日顕は全く事実をねじ曲げています。日達上人を無視するやり方にも、とても我慢できません。何よりも、大聖人様に弓を引く日顕は、絶対に許せません。ですから私は、真実を残すために証言させていただきます。
〈谷川〉よろしくお願いします。御本尊謹刻の経緯の件ですが、当時の日達上人は、どのようにおっしゃっていましたか。
〈赤澤〉ええ。学会の御本尊謹刻のことは、日達上人は、最初からもうご存じでした。これは日達上人からも、また池田先生からも、私は直接お話を伺(うかが)っているんです。先生からお話を聞いたのは、昭和49年の1月でした。
〈細谷〉それは、御本尊の謹刻を開始する前ですね。
〈赤澤〉そうです。前年の48年の暮れに、学会本部から、「学会の御本尊を何体か板御本尊にしたいので、そのときはよろしくお願いしたい」という話がありまして、私は、「猊下に一言いっていただければ、私どもも安心してできますが」と答えました
 それで年が明けた1月に、池田先生にお会いした折、先生のほうから「御本尊のことは、私から猊下に申し上げておいた。猊下は、“大事にするためなんだからいいんだよ”とおっしゃっていた。安心してよろしく頼みます」と言われたんです
〈高橋〉明快ですね。池田先生と日達上人の間で、よく話し合われていたのですね。
〈秋谷〉そうです。昭和49年の初頭に、日達上人と池田先生との間で、御本尊謹刻の件で話があったのは、事実なんです。日顕宗は猊下に無許可でやったなどと嘘(うそ)を言っているが、学会には、猊下に黙ってやらなければならない理由など何1つないわけです。それに、“大事にするためなんだからいいんだよ”との日達上人の指南は、まさしく信心が大切であることを示されたものです。ですから、学会の御謹刻というのは、本来、全く間違いはなかったのです。
〈赤澤〉もう1つ、日達上人が最初から了解されていたことも、私は直接、確認しています。それは、同じく49年の秋ごろでした。仕事のことで、大奥の対面所で日達上人とのお目通りがありました。本来の用件が終わって、猊下はいったんお帰りになろうとしたんですが、思い出したように戻ってこられ、「そういえば、学会本部の御本尊は赤澤で彫ってるんだよね」と聞かれたのです。
 私が「そうです」と答えますと、猊下は「他のもやってるのかい」と言われました。私が「はい。やりました。たしか、池田先生が猊下様に申し上げたと言われておりましたが」と申し上げると、「うん。池田会長から聞いているよ。あと5、6体やらせてもらいたいと言ってたな」と言われて、部屋を出ていかれたんです。

〈斉藤〉日達上人が、学会本部をはじめ、他の御本尊の謹刻のことも、明確に承知されていたことは明らかですね。
〈赤澤〉そうです。本部師弟会館の御本尊の御謹刻の依頼を受けて、取り掛かったころですから、私もよく覚えています。
〈高橋〉日達上人もご存じで、了解されていたことを“謗法”呼ばわりする日顕こそ、先師否定の大謗法じゃないですか。
〈秋谷〉御謹刻は日達上人の了解を得たうえで始まりましたが、本部師弟会館の学会常住の御本尊のとき、再度、連絡会議にもかけている。49年の9月2日です。そのときは、総監代務者の日顕自身が宗門側の責任者として出ていて、日達上人に取り次いだのです。そのときも、はっきりと了解をいただいている。それを、ごまかしているんです、日顕は。
〈辻〉50年1月1日に池田先生中心に学会本部で入仏式を行い、当時の『聖教新聞』にも大きく掲載されました。1月2日に初登山し、お目通りした折にも、先生は日達上人に明確に報告されているし、日達上人自身、その報告があったことを周囲に言われている。
〈秋谷〉日顕宗は、学会に対する平成3年の解散勧告書では、御本尊謹刻のことを「前代未聞の大謗法」などと言っていたが、謗法でも何でもないことは明らかです。これを解散勧告の理由にしたということは重大な問題だ。これ自体が先師日達上人に対する大反逆だからです。
〈斉藤〉ところで、日達上人の了解もちゃんとあるのに、なぜ、学会は7体の板御本尊を本山に納めたのか、当事者の赤澤さんは疑問に思われたでしょうね。
〈赤澤〉そうなんです。先日のこの座談会を拝見しまして、宗門からの要請という事情があったことを、私も初めて知りました。当時は、どうしてこのことが問題にされるのか、なぜ、最終的に奉安殿に納めなければならないのか、さっぱりわかりませんでした。いずれにしても、学会を攻撃するための難癖(なんくせ)だろうとは思っていましたが、「一切論議を禁止する」と院達を出したはずの宗門自身が、今回これを持ち出したことに本当に驚き呆(あき)れています。
〈細谷〉この謹刻のことについて、当時の宗門の見方はどうだったのですか。
〈赤澤〉いや。それもですね、あれは昭和58年暮れでしたが、ある寺の入仏式が終わって、私の車に札幌・日正寺の秋山海学さんら老僧が2人乗って来たんです。その時、2人が「赤澤さん、御本尊模刻のことはどういうことなの。あんたのとこでやったの」と聞くものですから、「ええやりました。猊下も知ってるよ、といわれてましたよ」と答えると、「それじゃあ、問題ないんだなー」と納得していました。
〈辻〉そうですよ。全く問題はなかったと知りながら、日顕の策謀(さくぼう)に加わっている坊主はとんでもないね。
〈谷川〉ところで、大宣寺の菅野慈雲などは、御本尊謹刻のことで53年1月の初めに、日達上人から「今、赤澤朝陽の社長が年始のあいさつにきて、学会からの依頼で多数の御本尊を板本尊にしたと聞いた。何体彫刻したのか、赤澤に行って調べてくるように」と言われて調査したなどと言っていますが。これについては、どうだったのですか。
〈赤澤〉いや。それも全く違いますね。年始のごあいさつは、そのころ毎年しておりましたから、53年も年始にうかがったことは間違いありません。しかし、そんな話は出ませんでした。
〈高橋〉日達上人は御謹刻のことを当初からご存じだったわけですから、そのときにそのような話が出るはずがありませんよね。
〈赤澤〉菅野住職が、この問題が騒ぎになってから1度見えたことはありますが、それは御謹刻御本尊のあくまで確認だけで、それ以上のことではありませんでした。
〈辻〉菅野は前回の宗門問題のとき、山崎正友の進言で作られた宗門海外部の部長に、やはり山崎の後押しでついた男です。やったことといえば、宗門のいうことを聞かなければ「日蓮正宗の信徒団体とは認めがたくなる」などと脅しの「海外部通達」を出し、韓国などの海外信徒組織の檀徒化に狂奔(きょうほん)しただけだ。
〈細谷〉その通達にしても、山崎が書いたシロモノです。結局、海外部長を辞(や)めさせられ、山崎正友の操(あやつ)り人形として策謀に加担しただけの愚かな人間が、今更そんなことを言っても、だれにも信用されませんよ。
〈高橋〉ところで赤澤さん、宗門の御本尊に関する姿勢はどうだったのですか。
〈赤澤〉学会と宗門の御本尊に対する姿勢は全然違います。これは、謹刻を依頼された時からそうです。学会の場合は、先生はじめ、本当に信心の真心から行われ、扱われていました。それに対し宗門は、御本尊をまるで“物扱い”なんです。
〈谷川〉具体的には、どういうことですか。
〈赤澤〉例えば、大石寺では、御本尊の謹刻をうちに依頼してくるときに、御本尊を書写した和紙を郵便書留で送ってくるんですよ。また、化粧直しのための板御本尊を他の業者に頼んで送りつけてくる住職もいます。こういうことについて、もし、途中で事故があったらどうするのか。私どもでは責任を持てないから他の方法を考えていただきたいと本山まで行って直訴(じきそ)したんです。これは平成2年の7月でした。日顕は「うーん、やらないほうがいいな」と言いながらも、結局、何も変わりませんでした。
〈高橋〉いや。日顕は、第1回海外出張御授戒の時、シアトル事件の前に、ハワイでトイレに大切な御本尊を忘れてくるくらいですからね(笑い)。
〈谷川〉昭和50年でしたか、滋賀県の寺(仏世寺)の坊主が借金に困って、業者と共謀して寺の御本尊を持ち出しておいて、“持っていかれた”と狂言を繕(つくろ)い、本山から金を出させようとした、とんでもない事件があったと聞いています。
〈秋谷〉そう。当時、同じ布教区で、教学部長としてその坊主を監督すべき立場だったのが日顕(当時、京都・平安寺住職)だった(笑い)。これだって本当は重大問題です。この時も、全部、学会が解決してあげたんです。
〈赤澤〉あと日顕の御本尊に対する姿勢がおかしいなと思ったことは、実はたくさんあるんです。また、機会があれば、ぜひ、お話させてもらいたい。
〈細谷〉ぜひ、お願いします。それにしても、日顕はどこまで悪いのか計り知れない。
〈高橋〉赤澤さんの話で御本尊謹刻のことも、よりハッキリしましたね。
〈秋谷〉日顕たちが何を言おうと、所詮は、御本尊を“商売道具”としか見ない謗法の輩(やから)の猿知恵だ。その悪辣(あくらつ)さは、すでに白日のもとになっていますが、後世のためにも、この前代未聞の悪侶の実像を、今後もしっかり語り残しておきましょう。



暁闇


―断簡17 錫杖の音―
http://www.heianbooks.jp/zenbun/gyouan/017.html

【ふって湧いた御本尊模刻問題】
 山崎正友は、右手に反学会活動家僧という刀を握り、左手に〝法主〟という玉爾を握ることになった。山崎は創価学会に対して、ある時は、
 「活動家僧侶がこれでは治(ママ)まらない」(浜中和道『回想録』より一部抜粋)
と言い、ある時は、
 「これが猊下の御内意である」(同)
 あるいは「それは猊下の御意志ではない」(同)
などと、自在に刀と玉爾を使い分けた。山崎は僧の権威を利用して、信徒団体である創価学会に切り傷を入れ、そこに塩をもみ込み始める。
 昭和53年6月頃創価学会が紙幅の御本尊を勝手に板御本尊に「模刻」したという話が、反学会活動家僧の中に流れ始めた。山崎も一時は浜中和道に、
 「学会のほうでは、あれは猊下が会長さんに、ハッキリ『いいよ』と許可を出したと言っているんだよね」(同)
などと言っていたが、そのうち、
 「その御本尊問題を取り上げて、ガンガンやったほうがいいですよ」(同)
などと、反学会活動家僧らに言い始めた。
 結局、この騒ぎを収めるため、9月27日、創価学会によって謹刻された8体のうち、7体の板御本尊が東京・国立の大宣寺に運ばれ、翌28日に大宣寺から大石寺奉安殿に納められた。
 大石寺に運ばれた7体の板御本尊は以下のとおりである。

・「賞本門事戒壇正本堂建立」の脇書のある池田会長への賞与御本尊(細井日達管長書写)
・「大法興隆所願成就」の脇書のある関西本部常住の御本尊(水谷日昇管長書写)
・創価文化会館内・広宣会館の御本尊(細井管長書写
・創価学会会長室の御本尊(細井管長書写)
・創価学会ヨーロッパ本部の御本尊(細井管長書写)
・日蓮正宗アメリカ本部の御本尊(細井管長書写)
・池田会長のお守り御本尊(水谷管長書写)

 これら7体の板御本尊が納められたにもかかわらず、その後、この本尊「模刻」問題は創価学会に暗い影を投げかける。創価学会による本尊「模刻」に疑念を持ち、脱会する者たちも多く出た。
 昭和49年1月2日、池田会長は「賞本門事戒壇正本堂建立」の脇書のある御本尊を細井管長より下付された。1月10日学会本部で宗門と学会の連絡会議がおこなわれた際、同御本尊を板御本尊に謹刻する件について、細井管長の許可を求める申請が宗門側に正規になされた。翌11日総監・早瀬日慈より、
 「御本尊に関することは、一応申し上げました」(記録文書より)
と返事が来た。

 また、昭和49年9月2日、大石寺雪山坊でおこなわれた連絡会議においては、創価学会本部3階の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」との脇書のある第64世・水谷日昇管長書写の御本尊を板御本尊に謹刻することについて、創価学会側より宗門側に申し入れがなされた。
 翌3日教学部長・阿部信雄より、創価学会理事長・北条浩宛に、
 「一応、申し上げました。猊下ご了承です。後程、お目通りの時、先生からお話がある旨申し上げておきました」(同)
との返事があった。



【細井管長は事前に許可していたのに……】
 また、反学会活動家僧らは、この御本尊を謹刻する際に、御本尊を写真に撮ったことを問題にしているが、それはこれまでも宗門でおこなわれていたことである。
 たとえば、当時、日蓮正宗御用達の仏師であった赤澤朝陽では、堀米日淳管長の時代においては、保田妙本寺の万年救護本尊を写真に撮り、10体の板御本尊を謹刻した。また、細井管長の時代にも日向・定善寺の御本尊を写真に撮り、7体の板御本尊を謹刻している。
 一般に紙幅の御本尊を板御本尊に謹刻する場合、紙をそのまま板に貼り付けて彫ると、紙の厚みのため、板に刻まれる文字が細くなる。そのため、板御本尊にする場合は、最初から薄い紙を使用している。近代においては写真に一度撮り、薄い印画紙に焼きつけたものを板の上に貼って彫刻するという方法が取られるようになっていたのである。また、広島県福山市の正教寺の場合、客殿安置の板御本尊が大きすぎたため、細井管長の指示により、1度でき上がった板御本尊を写真に撮り、縮小して彫り直した。
 写真を使う以前は、薄い紙に臨書(見ながら模写すること)するか、「籠抜き」といって、御本尊の上に薄い紙をあてがって文字を写し取り、その薄紙を板の上に貼って彫刻する方法もあったという。
 ともあれ、細井管長は創価学会がこれらの板御本尊を謹刻することについて、自ら許可していたことを忘失していたと思われる。しかし、それを忘れていた細井管長にしても、昭和50年1月10日、庶務部長・藤本栄道に次のように話をしている。
 「日昇上人御本尊の彫刻については、前に話しがあったかどうか記憶ない.許可した覚えはない.正月登山の時に、会長から『板御本尊にしました』という報告はあった。個人が受けた御本尊だから、その人又は会の宝物だから、どのように格護しようと他がとやかく云えない。紙幅を板御本尊にするということは、前からも行なわれている。御開眼とか、入仏式とかは、信仰上からは、僧侶にお願いするのが本当だが、しかし、これも個人の自由で、僧侶を呼ばなければいけない、という事でもない」(庶務部長・藤本が書き止めた「藤本メモ」より一部抜粋)
 この「日昇上人御本尊」とは、創価学会本部3階に安置されていた「大法弘通慈折広宣流布大願成就」との脇書のある御本尊のことである。
 赤澤朝陽の社長であった赤澤猛は、細井管長から板御本尊謹刻について直接指示を受けた模様を、詳細な書面として残している。
 「それは、この本部師弟会館の御本尊様の御謹刻の依頼を受けてとりかかったかどうかという頃ですから、昭和49年の11月頃と思います。何かの仕事のことで、日達上人にお目通りしたときのことです。私は、仕事柄、猊下にはしばしばお目通りしておりますので、正確な日付は、ちょっとわかりません。日達上人は私と会うときは、ことが御本尊様の話になるときは、たとえ高僧でも他の人はさがらせますので、このときも大奥の対面所で2人きりの面談でした。
 そのときの本来の用件が済んで、日達上人は立ち上がって部屋を出て行こうとされたのですが、思い出したように私のそばに来られて、『そういえば、学会本部の御本尊は赤澤で彫っているんだよね』とおっしゃったのです。私が、『そうです。池田先生が猊下様に申し上げたと言われておりましたが、お聞きになっていませんか』と申し上げますと、『いや、池田会長から聞いているよ』と言われました。さらに日達上人は、『ほかのもやっているね』と言われましたので、私は、『はい、やっております』とお答えしました。日達上人は、『そうか。あと5、6体やらせてもらいたいと言っていたな』と言われて、部屋を出て行かれました。
 この日のやり取りは以上ですが、これからわかるとおり、日達上人は、学会本部が師弟会館の御本尊やその他の御本尊を私のところで御謹刻していることは、すべて御承知でありましたし、今後さらに5、6体の御本尊を御謹刻することも御了解されていました」(「陳述書」より)
 赤澤はすでにこの時、細井管長の決裁を受けた「賞与御本尊」の謹刻を終え、創価学会本部3階の師弟会館に安置された「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の本尊の謹刻にあたっていたのだから、「あと5、6体」ということになれば、細井管長が創価学会に対し自ら裁可したと認識していた謹刻御本尊の数は、全部で7、8体であったことがわかる。


【僧俗和合のため、反論しなかった創価学会】
 ところが昭和53年になると、細井管長は反学会活動家僧の雰囲気に押され始めた。昭和53年6月29日に全国教師指導会がおこなわれたが、この時、細井管長は以下のように発言する。
 「学会の方で板御本尊に直した所があります。それは私が知らなかった。しかし、あとで了解をして、こちらも承認したのだから、そういうことをつついて、お互いに喧嘩をしないように」(『蓮華』昭和53年7月号)
 この「知らなかった」という細井管長の言い分は、前記したように、昭和49年1月と9月の連絡会議で創価学会側からなされた板御本尊謹刻の申請を自ら事前に承諾したという事実に反する。また、板御本尊を彫った日蓮正宗御用達の仏師・赤澤朝陽社長であった赤澤猛の証言にも反する。
 創価学会は僧俗和合の大義、そして当時の宗内を広く覆っていた「法主に反論することは謗法」といった宗教的禁忌観の故に、
 「それらの板御本尊の謹刻については、細井管長の許可を得ていた」
とは言えなかった。細井管長が忘却したのか、意図的であったのかは別にして、許可したことを〝法主〟自らが明言しない状況では、創価学会側はそれが事実であったとしても、板御本尊の謹刻が管長によって事前に許可されたものだったと反論できなかったのである。
 反論すれば僧俗の対立は決定的になるし、細井管長が事実に反してでも「許可していない」と言い張れば、当時の状況では創価学会からの脱会者はとどまることがなかっただろう。繰り返すが、当時の創価学会員の多くは、〝法主〟を「唯授一人血脈相承」の体現者と信じていた。また、宗門を外護する立場にある創価学会が、細井管長の権威を失墜させるわけにもいかなかった。
 とはいえ、細井管長にしても、この本尊「模刻」問題がこれ以上深刻化し、創価学会側より事前承諾の経過が公表されれば、退座によって引責するしかなくなる
 そこで、事前承諾の有無には言及せず、細井管長が現状を追認する〝御指南〟を出すことにより、決着が図られることとなった。
 「今まで本部として謹刻させていただいた数体の板御本尊について御指南を仰ぎ、猊下よりすべて学会本部の宝物としてお納めくだされば結構ですとのお話があった」(昭和53年9月3日付『聖教新聞』)
 しかし、こうした政治的決着が通用するような反学会活動家僧たちではなかった。9月14日大分県別府市の寿福寺において、創価学会の原田稔副会長、野崎勲青年部長、原島嵩教学部長と、反学会活動家僧である佐々木秀明、渡辺広済、山口法興、荻原昭謙、丸岡文乗、菅野憲道らとで話し合いがもたれた。この時佐々木は、細井管長から口止めされている本尊「模刻」問題について、学会側を詰問した。佐々木はこの会談の後、浜中和道に次のように電話をしている。
 「1つだけ大事なことを教えてやるよ。原島が認めたぞ。『御本尊を何体、作った?』と聞いたら、ブルブル震え出して『8体です』って正直に答えたぞ。じゃ、詳しくはまたな」(浜中和道『回想録』より一部抜粋)
 この佐々木からの電話を受け、浜中は山崎に電話を入れた。
 「『今、佐々木さんから聞いたんだけど、学会は8体も御本尊を作っていたんだって。原島さんが認めたって言ってたよ。これじゃ、御前さんがなんと言っても大問題になるよ』
 すると山崎氏は、含み笑いするような声で、
 『知ってるよ。僕が原島にそう言えって言ったんだから。坊さんのほうから出た話じゃ、猊下も怒るかもしれないけど、原島がしゃべったんだったら、猊下も怒りようがないでしょう。これで安心して坊さんたちもガンガンと学会を攻めれるよ。野崎たちも泡くっていたけど、あとの祭りだよ。ハッ、ハッ、ハッ』
と、笑いながら話した」(同)
 細井管長の政治的決着を、〝玉〟を握った山崎がひっくり返した瞬間である。8体の板御本尊の「模刻」という〝大事件〟は、反学会活動家僧の口から口を経て、たちまちのうちに全国に広がった。もはや〝政治的決着〟などで収まる状況ではなくなった。現状を追認する政治的決着では、細井管長が反学会活動家僧らから突き上げられ、批判の対象とされてしまう。創価学会側も〝実は事前承認だった〟と言えない立場である以上、燎原の火の如く広がるデマに反論する術はなかった。


【事実に反する御本尊「模刻」】
 山崎はさらに〝もう一手〟を打ってきた。創価学会本部3階安置の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の板御本尊以外の7体を、創価学会側から本山に納めさせるという〝調停案〟である。
 この〝調停案〟には、細井管長の娘婿である東京国立・大宣寺の住職・菅野慈雲も1枚噛んでいた。先述したように、7体の板御本尊は大宣寺を経て、大石寺奉安殿に移された。これにより、7体の板御本尊を創価学会が勝手に「模刻」したかのような状況が作られてしまったのである。
 しかし、事実はそれを覆している。ここで、参考のため、「〝法主〟不許可で模刻」とされた8体の板御本尊について述べておく。
 関西本部安置の「大法興隆所願成就」の板御本尊は、昭和50年10月20日、大阪・蓮華寺住職の久保川法章以下11名が出席し、「開眼法要」が営まれた。そのことは、翌21日の『聖教新聞』に報じられている。
 本部3階師弟会館安置の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の板御本尊と「賞与御本尊」の板御本尊の入仏法要は、昭和50年10月23日、総監・早瀬の導師によっておこなわれている。このことは翌24日付の『聖教新聞』に報じられている。
 創価文化会館内・広宣会館の板御本尊については、昭和50年11月17日、学会本部師弟会館において総監・早瀬の導師で「牧口初代会長32回御逮夜法要」がおこなわれた際、総監・早瀬が、広宣会館の板御本尊の入仏法要をおこなっている。
 昭和52年11月9日には、学会創立47周年慶祝法要のために創価学会本部を訪れた細井管長他6名が、師弟会館安置の板御本尊、「賞与御本尊」の板御本尊、広宣会館の板御本尊の前で、読経唱題をおこなっている。このことは、翌10日付の『聖教新聞』で報じられた。

 宗門側は、創価学会が御本尊を板御本尊として謹刻したことについて、知らないどころか、『聖教新聞』で報じられたものだけでも4体の板御本尊について入仏式をおこない、創価学会本部にある3体については、細井管長自らが礼拝していた。にもかかわらず、入仏法要が公然と報道された3体(うち2体は細井管長自身が拝んだ)を含めた7体の板御本尊を、大石寺に納入するよう創価学会側に命じたのである。ただし、「3体」の入仏式というのも、公に報じられた記録にのみ基づくものである。
 これは、どのような事実を示すのか。『聖教新聞』に報道されていない他の4体の板御本尊もまた、報道された3体と同様、正当に謹刻されたものであることを示している。なぜなら「謹刻」の許可が出ていないことが明白であるなら、それだけを棄却させればいいのである。この7体の板御本尊の大石寺への返却はあくまで、創価学会が涙を呑んでおこなった〝外護〟の行為であった。
 創価学会側が細井管長の許可なく板御本尊に謹刻することなど、当時の信仰観からしてあり得ず、日蓮正宗御用達の仏師である赤澤朝陽が勝手に謹刻することもまたあり得ないことである。
 細井管長自身が拝んだ3体の板御本尊のうち、本部3階の板御本尊については、「許可した覚えがない」と言いながらもそのまま安置を認め、「賞与御本尊」と広宣会館安置の2体の板御本尊については、大石寺に返納させた。この事実は〝法主〟が自らのメンツを守るために、事実過程を無視し、御本尊をご都合主義的に取り扱ったことを示している。
 なお、細井管長は昭和50年10月12日に池田会長と話し合った際、
 「謹刻した御本尊については、僧侶2、3人で拝むようにしてください。それで結構です」(記録文書より)
と述べていた。それらのことからして、創価学会が御本尊を勝手に「模刻」し、あたかも別の本尊を作り出したかのように言う反学会活動家僧らの主張は、まったく事実に反するものである。


【山崎が細井管長を指南】
 だが、創価学会は僧俗和合のために、細井管長と山崎との間で作り上げられた「決着」のレールの上を走らざるを得なかった。不本意なことではあったが、創価学会には7体の板御本尊を大石寺に納めるしか、道は残されていなかったのである。それのみが反学会活動家僧らを鎮める方法であり、細井管長の〝権威〟を保つ手立てであった。
 昭和53年11月7日、池田会長以下創価学会員2千名が、大石寺大客殿において、細井管長以下6百余名の僧侶に対し直接頭を下げる「お詫び登山」をすることになった。この時、創価学会を代表して「反省」の弁を辻武寿副会長が述べたが、本来なら「模刻」の問題は解決済みのことであり、細井管長も6月29日に、「つつくな」と言っていた。10月3日には、以下のような宗務院の「院達」も出されていた。
 「①9月28日、学会模刻の板本尊は本山に奉納せられた。
②学会本部安置(3階)の板本尊は猊下の承認。
③よって、板本尊に関して論議無用」
 しかし、細井管長は反学会活動家僧らから、この「お詫び登山」の際、本尊「模刻」の問題に関して、創価学会側に謝罪をさせてほしいとの強い要望を受けていた。このため、11月7日に大石寺大客殿において辻副会長が読み上げる原稿には謝罪の言葉が盛られた。その原稿に細井管長は事前に目を通した。その原稿にあった「ご謹刻申し上げた御本尊」との文言に、細井管長は「不用意に」との一言を加筆し、「不用意にご謹刻申し上げた御本尊」とした。創価学会側はただそれを呑むしかなかった。この文言は、大石寺大客殿において僧俗代表の前で発表され、翌日には『聖教新聞』にも掲載された。
 しかし、これだけ誠意を尽くしても、反学会活動家僧たちはおさまらなかった。それどころかますます創価学会を侮り、攻撃を仕掛けてきた。細井管長もそれを止める様子すらなかった
 実はこれに先立ち、山崎は細井管長に対して、「現下の状勢(ママ)について」という文書を渡している。その文書には次のように書かれていた。
 「情勢は、宗門側にとって極めて有利に、学会側にとってはことごとく作戦がはずれた形ですゝんでいます。・しかし、学会側がここに来て事態を正視し、思い切った転換を覚悟しつつ、それでもなお池田体制と、これまでの学会の地盤だけは保守しようとする決意を固めてきていますのでいよく重大な段階に差かゝります」(「現下の状勢について」より一部抜粋)
 「・具体的には、11月中に、総会、又はこれに近い臨時幹部会で、正式に会長の発言によって収拾する、という方針ですゝんでいます」(同)
 「・学会側の根本的なねらいは、第1に、池田体制の実質的温存であり、第2に、組織防衛であり、そのためには何としても路線変更は最小限にくい止めなくてはなりません。従って、今回の学会の作戦の最大のねらいは、何といっても檀家作りという名の組織攻撃をくいとめることです」(同)
 「会長の本心は口惜しさと復しゅう心で一杯であります」(同)
 「学会側からは、会長を先頭にすさまじい和平工作が展開されると思われる。宗門側としては一貫して〝政治ではない。信仰である。学会の出方を見て決める。これが最後の機会である。これからの宗門をになうのは若手である。若手が納得する修正をしてもらいたい〟という態度をとりつづける〝要は、誠意が感じられるかどうかである〟との態度も重要である」(同)
 「学会側がしかるべき姿勢を11月に示した後(但し、会長退陣はまだ無理と思われる)は、宗門としても、一応和平に応じなくてはならない。但し、檀家作りは、止めない」(同)
 山崎はこの文書の他にも、同日、「海外について」との文書を細井管長に渡している。そこには次のように書かれている。
 「宗門に、『海外部』を設置すること。海外経験者の僧侶を集め、(現に海外寺院にいる人もふくむ)これを統括する意味で、菅野先生をキャップとして発足する。
 これまで海外は〝別法人〟という名目で宗門は手が出せなかったが、宗務院にはっきりした機関を置き、海外の寺院僧侶を直轄させることによって、海外の諸問題を直接すい上げ、宗門として学会側及び現地法人に発言し対抗できることになる」(「海外について」より一部抜粋)
 その目的は、創価学会の海外組織を根こそぎ宗門の直接支配下に置こうとするものであった。(以下省略)