―御本尊を勝手に作ってもいいのですか?―
(『慧妙』H20.10.16)
学会員の皆さん、あなたの家の御本尊は、誰が作ったものですか。
平成5年、創価学会は自前の本尊製作に踏み切りました。それを正当化するために、「宗門から下附されなくなったのだから、仕方がないではないか」と言っているようですが、それでは「本物が手に入らなくなったからニセモノを出した」と言い訳している、世間の偽装問題の論法と何ら変わりありません。どんなに言い訳しても、ニセモノはニセモノなのです。
そもそも、創価学会の第2代戸田会長は、
「御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない。だから、仏立宗や身延のヤツラが書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから、力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている。」(『大白蓮華』S34.7)
「御法主猊下だけが、御本尊をしたためることのできる仏様なのです。」(『戸田城聖先生質問会集』)
と明言していました。
現在、学会は、「自分達で書写したわけではない。日寛上人の御本尊を印刷したのだ」と言ってごまかしていますが、それが正義ならば、戸田会長の時代から学会所持の御本尊を元に、どんどん自前で増版してもよかった、ということになります。しかし、戸田会長は、そんな恐ろしいことは、絶対にしませんでした。
あの有名な小樽問答では、創価学会側が日蓮宗身延派を破折する際に「天皇陛下が有り難いから、それを写した写真も有り難い。それでは御本尊様を、ただ写して歩けばよいのですか」と詰め寄っていますが、これはまさに、今の創価学会を破折しているようです。
また、昔の学会の指導では、
「末法の現在においては、絶対に戒壇の大御本尊様こそ、われわれが即身成仏できる生身の御本仏様であらせられるのです。また、われわれがいただいている御本尊様も、文底事の一念三千、真の草木成仏の理によって開眼された、これまた生身の御本仏様であります。この御本尊様こそ、真の木絵二像開眼の御姿でなくてなんでありましょうか。これは日蓮正宗以外の邪宗では絶対になしえないところであり、たゞ日蓮正宗のみのもつ深秘の法門であります。邪宗がいくら日蓮正宗の御本尊をマネて作ってみたところが、それこそ馬の骨なのであります。否、恐ろしい毒薬の働きをもつのであります」(『大白蓮華』第62号)
と言っていました。
現在の創価学会は、「開眼供養は必要ない」などと言って、ただ日蓮正宗の御本尊をマネて作っているわけですから、これはまさに「馬の骨」であり、「恐ろしい毒薬」ということになります。
現在、その「毒薬」を手にしてしまった学会員達が、塗炭の苦しみに喘(あえ)いでいます。
業病に冒され、悶絶しながら最期を迎えた人、精神的に異常をきたし、幻覚や幻聴が出るようになった人―そうした話は、あなたの身近にもあるのではありませんか?
また、ニュースでは、熱心な学会員の起こした痛ましい事件や事故が後を絶ちません。
あなたも、ニセ本尊を拝んでから、人生が狂ってしまっていませんか?
早く、この「恐ろしい毒薬」製造団体から脱して、日蓮正宗の正しい御本尊のもとに帰伏しましょう。
ニセ本尊破折
平成5年10月1日、創価学会は、離脱僧・成田宣道からの申し出によるとして、栃木県・浄圓寺所蔵の総本山第26世日寛上人御書写の御本尊を、勝手に写し、配布し始めました。
学会作成のこの"本尊"が、日蓮正宗の御本尊の意義を有しない"ニセ本尊"であり、これをいくら拝んでも功徳がないどころか、大謗法であり堕地獄の因となることを説明します。
1.「授与書き」抹消は御本尊の変造であり、日寛上人の御心にも反する大謗法
今回学会が本尊作成のために利用した日寛上人の御本尊は、浄圓寺16代住職・日證師に授与されたもので、「下野国小薬邑本如山浄圓寺 大行阿闍梨本證坊日證 授与之」という添え書きが入っています。しかるに学会は、この授与書きを勝手に抹消(これは御本尊を変造したことになります)して、多くの会員に配布したのです。
●誠に凡筆を以て直に聖筆を黷(けが)す事、最も其の恐れ有り(第2祖日興上人『富士一跡門徒存知事』御書1872、全集1606頁)
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大聖人の御本尊の散失を防ぐためとはいえ、日興上人御自身が「授与書き」を書き加えることすら、「聖筆を黷す恐れ有り」と自戒されているのです。それを相承なき輩が勝手に「授与書き」を削除し、不特定多数の者に配布することは、日寛上人の御心を踏みにじる行為になるのは当然です。
●その授与書きのある御本尊は、必ずその方に授与するという意味において御書写あそばされ、下附される次第であります。
ですから、それを血脈付法の法主が敢えて開眼し、その感得を許すという意味は別としましても、一般の者が勝手に御本尊をいじって信仰の筋道を違えるということは、当然のことながら、日寛上人のお心にも大きく背いておるということを言わなければなりません。(第67世日顕上人 H5.9.10 大宣寺御宝蔵落成入仏法要)
御本尊に関する権能の一切は御歴代上人が所持されているのであって、猊下の御指示の下にしかるべき修正が加えられても、それが「変造」した、などということに当たらないのは当然である(かつて昭和30年代に下附されていた日寛上人の御形木御本尊も、そうした修正がなされているが、これを他の第三者が勝手に行なったら僭越〈せんえつ〉至極な謗法罪となる)。(『慧妙』H24.2.1)
2.御文字に筆を加えた疑い
学会が作成した複製本尊の、誰の目にもわかる変造について、『フェイク』(第1,101号)は、全くごまかして触れていない。よほど都合が悪いのだろう。(『慧妙』H22.4.16)
[画像]:授与書きを削除した上に、中央主題・梵字・四天王などの筆跡まで改変した「ニセ本尊」=これは、まさに"変造本尊"です。学会では"変造などしていない"と否定していますが、それなら、浄圓寺格護の当該御本尊の真筆を持ってきて、コピー本尊と比較し証明すべきです。それをしないから、変造の疑義が晴れないのです。(『慧妙』H16.8.1)
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筆跡が勝手に改変されたということは、形式的にも(日寛上人書写の)御形木ではない、ということ。筆跡の異なる"本尊"が有効であるならば、最早、本尊は誰が書いてもよいことになってしまう。まさか、筆跡を故意に改変したのは、将来、池田大作が本尊を書写するための伏線ではあるまいな( ̄― ̄)ニヤリッ
●日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり(第2祖日興上人『御本尊七箇相承』/『富士宗学要集』第1巻32頁)
●明星直見の本尊の事如何、(中略)釈迦古僧に値ひ奉つて塔中に直授せるなり貴し貴しと讃め被れたり、(中略)仍つて本尊書写の事・一向日興之を書写し奉る可き事勿論なるのみ。(第2祖日興上人『御本尊七箇相承』/『富士宗学要集』第1巻32頁)
●宗旨の信仰は全部か否かにおいて意義をなす。而して体系は本尊が根源であり全部である。依て本尊を同じうするか否か此れに於て一切を決して破邪顕正論争をつくさねばならぬ。(第65世日淳上人『日淳上人全集』119頁)
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「本尊を同じうするか否か」これこそが「破邪顕正」の最重要部分である。筆跡まで変えた学会の"本尊"は、最早、邪宗日蓮宗のそれと何ら変わりがない。「根源」において誤った学会は、その信仰「全部」が邪教化したのである。
3.御法主上人による「開眼」なき本尊は「ニセ本尊」(【開眼】参照)
「開眼」とは一般には「魂を入れる」などといわれていますが、書写された御本尊を法によって供養し、魂を入れることです。
御本尊は、唯授一人の相伝による開眼の御祈念がなされないかぎり、本門戒壇の大御本尊からの血脈が流れない。学会では「開眼など行なう必要はない」としているが、それでは、自分たちで勝手に御本尊をコピーして、いくらでも御本尊を作れることになってしまう。されば、学会の本尊は、開眼なき"コピー本尊"である。(『慧妙』H23.11.16)
●草木成仏とは非情の成仏なり(中略)我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは死の成仏にして草木成仏なり(『草木成仏口決』全集1338頁~)
●画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし、(中略)此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり(『四条金吾釈迦仏供養事』全集1144頁~)
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有情の成仏を「即身成仏」、非情の成仏を「草木成仏」という。有情も死後は非情となる。草木成仏は「開眼供養」によって成就する。非情である「画像・木像」も開眼供養によって仏となる(草木成仏)。→非情は開眼供養によって成仏(草木成仏)する
●妙法蓮華経一部一巻小字経、御供養のために御布施に小袖二重・鵞目十貫・並びに扇百本。(『曾谷入道殿御返事』全集1057頁)
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この「小字経」というのは細字経のことで、小さい字で書写されたお経のことであります。この書写を曽谷さんが自らなさったか、それともだれかに書かせたかは判りませんが、その書かれた法華経を身延に送られて大聖人様のもとにおいて御宝前に安置し、お経、題目を大聖人様から唱えていただいて、その書写したお経の開眼の儀式を願ったのです。
そして御供養として、まず「御布施に小袖二重」。「小袖」は着物のことで、それが二重ねです。(第67世日顕上人H6.10.29/『大日蓮』H12.11)
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要するに「御供養」とは開眼供養のことである。ここに開眼供養は画像木像に限らないことが明らか。
●草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり、経に云く「如来秘密神通之力」云云(『草木成仏口決』全集1339頁)
●御義口伝に云く此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。(『御義口伝』全集760頁)
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草木成仏によって草木(非情)が「寿量品の釈尊」となる。その例が塔婆である。
法華経『寿量品』の「如来秘密神通之力」の文は「法華経の行者の一身の当体」すなわち曼荼羅御本尊の依文である。『草木成仏口決』では草木である塔婆が開眼によって「寿量品の釈尊」と顕れることを示され、そのことを「如来秘密神通之力」と仰せである。しかし本来「如来秘密神通之力」とは、非情である曼荼羅が「寿量品の釈尊」と顕れることを示されたものと拝される。
●塔婆を立て開眼供養するは死の成仏にして草木成仏なり、止観の一に云く「一色一香中道に非ざること無し」妙楽云く「然かも亦共に色香中道を許す無情仏性惑耳驚心す」(文永9年2月20日 51歳御作『草木成仏口決』)
●一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり、天台・妙楽・伝教・内にはかがみさせ給へどもひろめ給はず、一色一香とののしり惑耳驚心とささやき給いて・妙法蓮華と云うべきを円頓止観と・かへさせ給いき(文永9年2月20日 51歳御作『草木成仏口決』全集1339頁)
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「一色一香」とは非情であり「無情」のこと。草木成仏の原理を知らない人は、木や紙などの非情に仏性があることに「惑耳驚心」する。すなわち曼荼羅も塔婆も非情(草木)であるが故に、仏性の存在を信じがたい。しかし、同じく草木成仏の原理によって「草木にも成り給へる寿量品の釈尊」と顕れるのである。木画、塔婆、法華経はともに非情であり開眼によって草木成仏する。ならば曼荼羅も同様の方法(開眼)によって草木成仏すると考えられる。→曼荼羅御本尊は非情である。だから、開眼供養によって仏となる。
●日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ(文永10年8月 52歳御作『経王殿御返事』全集1124頁)
●此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属し給わず何に況や其の已外をや但地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う(中略)未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか。(文永10年 52歳御作『観心本尊抄』全集247頁~)
●されば画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし、其の上一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり、三種の世間と申すは一には衆生世間・二には五陰世間・三には国土世間なり、前の二は且らく之を置く、第三の国土世間と申すは草木世間なり、草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来す、此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり(建治2年7月 55歳御作『四条金吾釈迦仏供養事』全集1144頁~)
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「五色のゑのぐは草木なり画像これより起る」と仰せのように画像は「五色のゑのぐ」に「魂魄と申す神(たましい)を入」れることによって「草木成仏」する。「五色のゑのぐ」が草木であれば「すみ」も当然草木である。草木であれば開眼によって「たましひ(魂)」を「そめなが」すことができるのである。「ゑのぐ」と「すみ」、「魂魄と申す神(たましい)」と「たましひ」という表現の類似、さらに曼荼羅御本尊を「仏像」と表現されていることから考えて、草木である曼荼羅御本尊が開眼によって成仏することは明らか。
●木絵の二像は本草木にてあり。しかるを生身の妙覚の仏と開眼したもうことは、大事至極の秘曲なり。日蓮聖人乃至日因に至るまで三十一代、累(るい)も乱れず相伝これなり(第31世日因上人著『御消息』妙喜寺文書/『折伏教本』284頁)
●御代々の魂魄即一念三千の本尊なるが故に此の本尊に向かい奉り南無妙法蓮華経と唱え奉るべし(総本山第31世日因上人 当家聞書/『大白法』H21.10.16)
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第31世日因上人は、「木絵の二像」を「生身の妙覚の仏と開眼」することは大聖人以来の唯授一人の血脈相伝に基づくと仰せである。つまり、「木絵の二像」を開眼する「秘曲」が大聖人滅後、曼荼羅本尊以外の仏像が完全に排除された後世にまで相伝されているのである。ということは、『木絵二像開眼之事』で仰せの「木絵二像」とは再往、下種仏法の立場から言えば、曼荼羅御本尊のことである。
●此法体相承を受くるに付き尚唯授一人金口嫡々相承なるものあり此金口嫡々相承を受けざれは決して本尊の書写をなすこと能はず(第56世日応上人『弁惑観心抄』212頁)
●金口血脈には宗祖己心の秘妙を垂示し一切衆生成仏を所期する本尊の活眼たる極意の相伝あり(第56世日応上人『法の道』・研教27-474頁)
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と仰せのように、御法主上人による開眼とは「唯授一人金口嫡々相承」「極意の相伝を御所持なされる」お立場からの崇高なる御境界においてなされるものなのである。しかるにその内容に関しては、血脈相承をお受けなされた御法主上人のみ知るところであり、余人が知る必要もなく、また知ることはできないのである。(『松岡幹夫の傲慢不遜なる10項目の愚問を弁駁す』H17.8.24)
●日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり(大聖人・日興上人『御本尊七箇相承』/『富士宗学要集』第1巻32頁)
●付弟一人之を書写し奉るべきの由、日興上人御遺誡なり(日尊=日目上人の弟子『日蓮宗宗学全書』2-418)
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日興上人は何故、書写を付弟(法主)1人に限定されたのか。もし、御形木(模写またはコピー)でもよいのであれば、わざわざ法主1人に書写の権能を付与する意味がない。かといって、御形木を認めなければ広宣流布が進展したときに御本尊下付ができなくなってしまう。
このことから分かることは、法主に本尊に関する一切の権能(書写、開眼、授与)が付与されたということであり、御形木を本尊たらしめる権能を法主が有するということである。この権能こそが開眼である。事実、歴代御法主は本尊を開眼されてきたのであるから、本尊には正師による開眼が必要、と考えるのが道理というものであろう。
以上のように道理と文証と歴史的化儀の上から、曼荼羅御本尊には開眼が必要であることは明らかである。
4.御法主上人による「允可」なき本尊は「ニセ本尊」(<允可(いんか)>参照)
<御本尊に関する一切は、御法主上人の権能>
御本尊の「授与」や「書写」など、本尊にかかわるすべてのことは御法主上人の権能であり、本来、他の誰人も触れることはできないのです。
●日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり(中略)仍つて本尊書写の事・一向日興之を書写し奉る可き事勿論なるのみ(大聖人・日興上人『御本尊七箇相承』/『富士宗学要集』第1巻32頁)
●血脈並に本尊の大事は日蓮嫡嫡座主伝法の書・塔中相承の禀承唯授一人の血脈なり(『本因妙抄』全集877頁)
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唯授一人の血脈と御本尊の大事は一体不二なるものであって、これを分けて論ずることはできないのです。(<「伝法の書」について>参照)
●縦(たと)ひ子孫たりと雖も私に之を与へ若し又売買する者は同罪たるべきなり、この旨に背きて師匠の教訓を用ひざる大謗法の輩に於ては自今以後永く本尊を之を付与すべからず(日興上人真筆・定佐渡の国法華衆等の本尊聖教の事『富士日興上人詳伝下』222頁)
●日蓮が重恩の人なれば扶けたてまつらんために此の御本尊をわたし奉るならば十羅刹定めて偏頗の法師と・をぼしめされなん、又経文のごとく不信の人に・わたしまいらせずば日蓮・偏頗は・なけれども尼御前我が身のとがをば・しらせ給はずして・うらみさせ給はんずらん(『新尼御前御返事』全集907頁)
●曼荼羅書写本尊授与の事は・宗門第一尊厳の化儀なり、仮令意に妙法を信じ口に題目を唱へ身に殊勝の行ありとも・当流にては対境の本尊を授与せられ示書中の人とならざれば・信心決定即身成仏と云ふこと能はざるなり、故に宗祖は濫に曼荼羅を授与し給はず(第59世日亨上人『有師化儀抄註解』/『富士宗学要集』第1巻112頁)
●歴代各上人の御本尊のすべては、もぬけられて本尊の法魂は現法主の承るところにあり、その大義に背いて血脈上の本尊を勝手に作るのは、池田と創価学会の魔性が入っている故に、魔性・魔心の「ニセ本尊」である(第67世日顕上人『創価学会の偽造本尊義を破す』170頁)
●御代々の魂魄即一念三千の本尊なるが故に此の本尊に向かい奉り南無妙法蓮華経と唱え奉るべし(第31世日因上人 当家聞書/『大白法』H21.10.16)
<允可(いんか)>
御本尊の「授与」や「書写」「開眼」など、本尊にかかわるすべてのことは御法主上人の権能であり、本来、他の誰人も触れることはできないのです。他の者が「授与」「書写」を行うことがあったとしても、御法主上人による「允可(いんか)」のある場合に限られます。
「允可」とは一般に、師匠が弟子の悟りに対して許可を与えることであります。日蓮正宗においては、信心修行の根本となる本尊は本仏の悟りであり、仏の当体ですから、こと御本尊に関しては允可は絶対に必要なのです。
●大切なのは、いかに方法等に変化があっても、一貫して総本山の血脈法主の指示乃至、許可によるところの本寺と末寺の関係が厳として存在したということであり、この中心の在り方には絶対に変化がない。(第67世日顕上人『偽造本尊義を破す』31頁)
―ニセ札の譬え―
仮に、国立印刷局に無断で、国立印刷局の機械を使って紙幣を作り、これを市中に流通させたらどうか。紙幣自体は本物とまったく同じであるが、当局の許可を得ていない以上、回収されるべきであり、勝手に作成した者は罪に問われる。
あるいはまた、戦争や自然災害等、止むを得えない理由により、一時的に質の悪い紙幣を国立印刷局が発行したらどうか。この場合は、それまでの紙幣と外見上まったく異なるけれども、真正の紙幣に相違ない。
正当な責任者の許可の有無が、偽物と本物を区別する判断基準となる例である。学会のコピー本尊は、本物の日寛上人書写の常住御本尊とソックリだが、日寛上人は勿論、同上人が一切を付嘱された(つまり本尊の権能の一切を譲られた)後代の上人、就中、御当代上人に無断で作成されたものだから、本物ソックリのニセ札と同様である。
【信心があっても「ニセ本尊」では功徳なし】
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◆大聖人の御本尊は、信心の対境となる本尊であるだけでなく、本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えれば、その信心に本尊が具するのである。この2つの次元が揃って初めて大聖人の御本尊の意義が完結する(『聖教新聞』H5.9.18/『大日蓮』H6.1)
◆この「観心の本尊」という御本尊の本義のうえで言えば、御本尊は「信心」があるところにしか存在しないと言える。「信心」がなければ、紙幅の御本尊はあっても、本義たる「観心の本尊」はないのである(『聖教新聞』H5.9.18/『大日蓮』H6.1)
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●夫れ本尊とは所縁の境なり・境能く智を発し智亦行を導く、故に境若し正しからざれば智行も亦随って正しからず、妙楽大師謂える有り「仮使(たとい)発心真実ならざる者も正境に縁すれば功徳猶多し・若し正境に非ずんば縦い偽妄無きも亦種と成らず」等云々(第26世日寛上人著『文底秘沈抄』)
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いかに真剣に唱題しても、「正境」である本門の本尊が無ければ「種」(仏種)とはならないのです。逆に、正しい本尊に縁しておれば「発心真実ならざる者」でも「功徳猶多し」なのです。つまり、本尊の意義(大聖人の当体、仏力・法力)は、行者の信心とは無関係に本尊自体に具わるのです(ただし、行者が正師によって破門され血脈が断絶した場合は別)。
【何れにせよ、「唯授一人の血脈」を否定する信心に功徳なし!】
●釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。(弘安5年10月13日 61歳御作『身延山付嘱書』全集1600頁)
●根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり(第26世日寛上人『六巻抄』68頁)
●信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり(御書515頁、全集1338頁)
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"ニセ本尊"作成の背景には、唯授一人の血脈に対する否定・不信が存在することは明らかです。しかるに、この唯授一人の血脈に対する信心がなければ、仮に正しい御本尊を拝んだとしても功徳はないのです。
「信心の血脈」とは、あくまでも、法体の血脈(唯授一人の血脈)相承を受けられている御法主上人への信順なくして流れ通うものではありません。御法主上人を仏法上の師匠と仰ぎ、師弟相対して「本門戒壇の本尊」を信受するところに信心の血脈も流れ通うのです。
◆良き法と、良き師と、良き檀那との3つが、そろわなければだめだ。南無妙法蓮華経、これは良き法に決まっている。大御本尊様は良き法なのです。また御法主上人は唯授一人、64代の間を、私どもに、もったいなくも師匠として大聖人様そのままの御内証を伝えておられるのです。ですから、御法主上人猊下を通して大御本尊様を拝しますれば、必ず功徳が出てくる。ただ良き檀那として、その代表として、その位置にすわれたことを、私は、ひじょうに光栄とするものであります(戸田城聖・昭和30年12月13日、関西本部入仏落慶式/『戸田城聖全集』第4巻399頁)
◆唯授一人・法水写瓶(ほっすいしゃびょう)の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである。すなわち『信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり』なのである(池田大作『広布と人生を語る』第8巻228頁)
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この池田氏の指導で注目すべきことは、「信心の血脈」を「唯授一人・法水写瓶の血脈相承にのっとった信心」としている点です。
変↓節
◆信心唱題によってのみ法体の血脈を受けるのであって、決して法主1人に法体が伝わるわけではない。法体の血脈なるものが法主のみと説くのは邪義(『聖教新聞』H5.9.20)
【「日寛上人書写の御本尊」と称しながら、同上人の御指南に反する支離滅裂】
1●宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。(第26世日寛上人著『撰時抄愚記』/『日寛上人文段集』聖教新聞・初版271頁)
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「塔中及び蓮・興・目」とあるように、塔中における上行菩薩への別付嘱が、末法においては唯授一人血脈相承として歴代上人に伝わっているのです。
●祖師より興師へ御付嘱亦是れ三大秘法なり。興師より目師へ御付嘱も亦是れなり。(中略)目師より代々今に於て、二十四代金口の相承と申して一器の水を一器にうつすが如く云々(第26世日寛上人著『寿量品談義』/『富士宗学要集』第10巻131頁)
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「金口の相承」とあるように、唯授一人の相伝は大御本尊だけではありません。金口によって本仏の内証が相伝されているのです。だからこそ「此の経は相伝に非ずんば知り難し」(1●)とあるように、唯授一人の相伝によって下種仏法の深義を知悉し、法華経や御書、正師の指南等を正しく解釈できるのです。
2●而して後、法を日目に付し、日目亦日道に付す、今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し(第26世日寛上人著『文底秘沈抄』/『富士宗学要集』第3巻94頁)
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「法水」とは法門や戒律のことです(3◆4◆)。唯授一人の法水写瓶によって「四百余年の間」法門や戒律が「清浄」のまま「断絶せしむる事無し」と仰せなのです。
3◆[法水瀉瓶]=血脈相承をあらわしている(『新版仏教哲学大辞典』初版1621頁)
4◆[血脈相承]=法門、戒律を1人の師から1人の弟子へ絶えることなく授け伝えていくこと。(『新版仏教哲学大辞典』初版409頁)
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法水=血脈=法門や戒律。血脈相承とは大御本尊のことのみではなく、法門や戒律も含みます。日寛上人は法門や戒律(化儀)も「清浄」にして「断絶せしむる事無し」(上記2●)と仰せなのです。
●されば画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし、其の上一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり、三種の世間と申すは一には衆生世間・二には五陰世間・三には国土世間なり、前の二は且らく之を置く、第三の国土世間と申すは草木世間なり、草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来す、此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり(『四条金吾釈迦仏供養事』全集1144頁~)
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5●木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり。二十八十三四条金吾抄に云く「(※上記下線部)」と云云。
文の中に「此の法門」とは、一念三千の法門なり。(中略)またまた当に知るべし、若し草木成仏の両義を暁れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うことなかれ云云。(第26世日寛上人著『観心本尊抄文段』/『日寛上人文段集』聖教新聞社・初版469頁~)
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「木画の二像」は「一念三千の仏種の魂魄を入るる」という行為によってはじめて「木画の全体生身の仏」となる。これが「草木成仏」の姿であるが、「文字及び木画」とあるから「文字」を認(したため)められた「今安置し奉る処の御本尊」(曼荼羅御本尊)もまた「木画の二像」と同様であることは明らかである。ということは曼荼羅御本尊もまた、文字が認められただけでは本尊としての力用がなく、「一念三千の仏種の魂魄を入るる」という特別な行為によってはじめて「生身の仏」となることが分かる。「木画の二像」に「一念三千の仏種の魂魄を入るる」行為とは開眼であるから、「今安置し奉る処の御本尊」(曼荼羅御本尊)に「一念三千の仏種の魂魄を入るる」行為もまた、開眼である。(<木画の開眼と草木成仏>参照)
日寛上人は、「今安置し奉る処の御本尊」(曼荼羅御本尊)についても「一念三千の仏種の魂魄を入るる」こと(開眼)によって「草木成仏」すると明言。
6●広宣流布の時至れば、一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す(第26世日寛上人著『法華取要抄文段』)
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広宣流布進展のうえにおいては、全世界の寺院に御安置する常住御本尊を時の御法主上人に御書写いただくことは当然であり、またその時代時代の強信な方に常住御本尊を授与されることは、代々の御法主上人の尊い化儀にましますのである。(日蓮正宗青年僧侶邪義破折班H17.6.7)
・学会は、第13世日院上人をはじめとする方々が、幼少にして付嘱を受けた("稚児貫主")ことをもって、あたかも血脈が正しく伝わっていないよう誹謗している。→2●に反する
・第17世日精上人を"造読家"であったとして誹謗している。→2●に反する
・血脈に総別がないとして、唯授一人の血脈を否定している。→1●に反する
・本尊には開眼など不要としている。→5●に反する
・「法主による本尊書写の必要性が失われている」としている。→6●に反する
★日寛上人を正師と仰ぎ(?)「日寛上人書写の御本尊を拝んでいる」と言いながら、同上人の御指南に反している池田学会は、無節操で支離滅裂!
【"御書根本"の学会の矛盾】
大聖人御在世の弟子檀那において、大聖人書写の御本尊を模写したり形木にした例はない。すなわち御形木本尊は、唯授一人の口伝に基づいて時の宜しきに従って、時の御法主が作成されたのである。"御書根本"を吹聴し、さらに宗門を邪教呼ばわりする学会が、御書にも文証のない御形木本尊を作成し頒布するというのは如何なものか。都合のよいところは宗門を真似して、都合の悪いところは"御書根本"といって宗門を批判する。あまりにも無節操ではないか。
●御筆の本尊を以て形木に彫(きざ)み不信の輩に授与して軽賤する由・諸方に其の聞え有り所謂日向・日頂・日春等なり。(『富士一跡門徒存知の事』全集1606頁)
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聖筆の御曼荼羅本尊を模刻して、刷帋(さっし)として頒布せしこといまは他門には一般なるも、相応に古代のものもあるべく、御開山当時五老のなかでは真間の日頂・藻原および身延の日向とあるが、現代には存在せぬようである。(中略)かくのごときいささかのことに御開山の誤聞はなかろうが、いずれ本尊の奉持の麁浪(そろう)軽賤の末である。
本尊書写は、筆の巧拙にのみよるものでなく、一心浄念に身心一如になさるべきで、その願主の熾烈な信仰に酬(むく)いらるるもので、御開山の御用意はもちろんのことであるが、中興日有上人はもとより、代々の写主が本尊に脇書する人名の即身成仏を示すものとなされておる。しかるを、印刷にて間に合わすとは本尊軽賤の至りであるが、時の情勢のいかんにより、または願主の信仰未決の時の暫定の仮本尊ならばしばらく許すべきもあろうが、宗建を去ること遠からざる御開山御存命時代ではいずれの方面にあっても印刷の本尊の扱いは軽賤の罪におちいる。これが、富士開山の制規であるから古代にありては、上行院日尊(いまの要法寺)が特別の意趣で、わずかに一体奉刻したもので、一般の軽賤罪とは別異のものであり、まったく他門とは制を厳格にしていたのに、妙本寺日濃の入質したる万年救護の御本尊等を取りもどすべき手段にこれを形木に頒布していたことが、そもそもやむを得ぬといいながら過謬の始めである。(第59世日亨上人著『富士日興上人詳伝』227頁~)
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大聖人御在世だけでなく「御開山御存命時代」においても、「印刷の本尊の扱いは軽賤の罪におちいる」というのが「富士開山の規制」であった。池田学会は唯授一人の血脈を否定し、大聖人・日興上人以外は「南無」の対象としていないようであるが、そのお二人にも背いている。
「学会下付本尊の正義の証明」を破す
(『慧妙』H9.10.1)
《目次》
1.ニセ本尊正当の文証はない
2.「御法主以外の書写」の真相
3.「末寺から申し出」の欺瞞
4.「御本尊授与の独占禁止」は切り文
5.「化儀抄註解」の引用は文意改竄
6.「教師必携」は「法主必携」にあらず
7.「開眼なく印刷会社から直送」の無知
8.「導師御本尊」への疑難を破す
9.「未来本尊」への疑難を破す
10.「紙幅の大御本尊」云々の迷妄を笑う
11.「彫刻」と「模刻」のトリック!?(省略)
12.模刻ニセ本尊はお蔵入り
13.「脇書はメモ」の妄説を破す
14.真正の御本尊なくして成仏なし
15.???珍妙な妄説を粉砕する
16.学会のニセ本尊は仏罰製造機
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1.ニセ本尊正当の文証はない
<学会の邪義1>
学会下附の本尊がニセ本尊である、という文証はない。
<破折>
要するに、学会が下附している本尊は正しい、といいたいのだろう。ならば、まず、その文証をこそ示すべきだ。血脈に背いて在家が勝手に本尊を造ってもよい、などという文証は、どこにもない。
2.「御法主以外の書写」の真相
<学会の邪義2>
本尊書写は、古来、法主以外の者でも条件付きで認められてきた。第9世日有上人の『化儀抄』に
「末寺に於いて弟子檀那を持つ人は、守りをば書くべし。但し判形(はんぎょう)は有るべからず、本寺住持の所作(しょさ)に限るべし」(聖典988頁/『富士宗学要集』第1巻71頁)
「曼荼羅(まんだら)は、末寺に於いて弟子檀那を持つ人は之を書くべし、判形をば為すべからず」(聖典同頁/『富士宗学要集』第1巻同頁)
とあるとおりだ。また、歴史上の事実として、判形も加えた本尊書写が行なわれていた例もある。
<破折>
『化儀抄』に仰せられているのは、当時の世相が戦乱相次ぐ戦国時代であり、交通も不便であったため、遠隔地の弘通における一時の特例として、「判形」のない”仮本尊”の書写を末寺住職に許されていた、ということであり、これについては、66世日達上人も『有師(ううし)化儀抄略解』に
「当時は交通が不便であり、戦乱相次ぐ時代である故、日有上人が一時的に末寺住職に許されたこと」
と仰せられているとおりである。
また学会は、判形を加えた本尊書写も行なわれていた事例がある、として、日興上人の時代の例などを挙げる。
だが、当時は、いまだ一宗建立の初めの時期であり、大聖人の御正意が明確に体系化して周知されていなかったため、ある程度、用捨宣(よろ)しきに随う寛容をもって許された面が存している。御本尊書写についても、”付弟(ふてい)1人に限る”という御本意が、しばらくの間は門下に徹底されておらず、だからこそ、御遷化(ごせんげ)の近づいた日興上人が、わざわざ御弟子方に「付弟一人これを書写し奉るべき由」を「御遺誡」になり(日尊師の文書より)、また日有上人の『化儀抄』で、”末寺の住職は、自分の弟子や信徒のために仮本尊を書写してもよいが、判形を入れてはならない。判形を入れた真正の御本尊書写は御法主上人だけに限られる”という旨を明示せられたものと拝するのである。
しかして、この義がハッキリと周知されてから後、御法主以外の者が、判形も加えた本尊を書写することは「謗法と申すは違背の義」(御書221、全集4頁)
で謗法となるが、それより以前の時代の書写の例を捜して挙げてみたところで、何の意味もないことは当然である。
いずれにせよ、学会も「(書写は)条件付きで認められてきた」と述べているように、上古の時代であっても、一般僧俗が自由に本尊書写をしていたなどという事実はなく、まさに、血脈付法の御法主上人が、ある程度の寛容をもって、あるいは判形を加えない等の条件付きで、しばらく書写を「認められてきた」のである。このことは、結局、本尊書写に関する一切の権能が、血脈付法の御歴代御法主上人のみにある、という現証ではないか。
3.「末寺から申し出」の欺瞞
<学会の邪義3>
59世日亨上人の『有師化儀抄註解(ちゅうげ)』には、
「此の判形こそ、真仮の分るゝ所にして猶(なお)俗法の如し」(『富士宗学要集』第1巻113頁)
とあり、いわば判形に印鑑証明のような意味を持たせているが、今回の学会による本尊下附は、判形を勝手に書いたものではなく、末寺の申し出を受けて開始された「形木本尊」の下附なので、問題はない。
<破折>
まず、判形について、”印鑑証明のようなもの”などと言っているが、『化儀抄註解』の次下には、
「宗祖の御書中所々に判形云云の事あり。思ふべし、中にも大曼荼羅には殊(こと)に判形を尊ぶこと、唯一絶対の尊境なるを以ってなり」(『富士宗学要集』第1巻113頁)
とあって、御本尊の判形がもつ意義の重大なることを御教示されている。それを、いとも簡単に”印鑑証明のようなもの”とは、浅識・軽善も甚だしい。
また、”末寺の申し出を受けて”と言うが、ここでいう末寺とは、今回の学会下附の本尊の元になっている、26世日寛上人の御本尊を所蔵していた、栃木県の浄圓寺のことである。
しかし、浄圓寺は、平成4年に日蓮正宗から離脱してしまっており、いまや、本寺をもたない(したがって末寺でもない)、創価学会の完全下請と化した単立寺院である。
しかるを、「末寺からの申し出を受けて開始された下附なので問題ない」などと偽り、あたかも、学会で作成・下附したニセ本尊が、宗門から正当な手続きをもって下附された本尊であるかのごとく見せかけて、無知な会員を欺こうとする行為は、”羊頭狗肉(ようとうくにく)”の宗教詐欺(サギ)と言わざるをえない。いかに浄圓寺の名を利用しようとも、学会で下附している本尊が「在家の学会によって勝手に作られたニセ本尊」であることは動かせないのである。
4.「御本尊授与の独占禁止」は切り文
<学会の邪義4>
日亨上人は、「世界広布の時は法主が御本尊授与を独占してはならない」と御指南されている。事実、海外布教で御本尊を縮刷して下附した昭和初期の学頭・日照師の例もあるし、また各末寺でも、自由に「形木本尊」を発行していた事実がある。
<破折>
日亨上人は、『有師化儀抄註解』の中で
「宗運漸次(ざんじ)に開けて、異族に海外に妙法の唱へ盛なるに至らば、曼荼羅授与の事、豈(あに)法主御一人の手に成ることを得んや。或は本条の如き事実を再現するに至らんか、或は形木を以て之を補はんか」(『富士宗学要集』第1巻113頁)
と、宗門が発展し海外にも信徒が増えていった場合に、御法主上人の手により直々に書写される御本尊(常住御本尊)の下附たけでは対処しきれないのではないか、その時は『化儀抄』にある仮本尊や御形木御本尊の下附によって、これを補うことになるかもしれない、と述べられているのであって、けっして「法主が御本尊授与を独占してはならない」などと言われているわけではない。文意を勝手に作り変えてはならない。
しかも、この文の前には、
「曼荼羅書写の大権は、唯授一人・金口相承の法主に在り」(『富士宗学要集』第1巻112頁)
「曼荼羅書写・本尊授与の事は、宗門第一尊厳の化儀なり」(同頁)
と仰せられ、御本尊の書写も授与も、その大権を持たれるのは御法主御一人である、という大前提を示されているのだから、「形木を以て之を補」うのも、御法主上人がなされることは申すまでもない。
要するに学会は、自分達に都合の良い箇処だけを抜き取って、全く違った意味に文を利用しているのであって、これを「切り文」というのである。
また、学頭・日照師の海外布教における例や末寺での例を挙げて、「自由に『形木本尊』を発行していた」などというが、とんでもない言い掛かりであり、これらは全て、弘教の実情に則して、時の御法主がなさしめられていたのであり、日照師や末寺が、学会のように「血脈を無視して勝手に本尊を下附」していたのではない。何より、これらの事例を挙げられた日亨上人も、
「有師、斯(こ)の如く時の宜しきに従ひて寛容の度を示し給ふといへども、しかも爾後(じご)数百年、宗門の真俗、能(よ)く祖意を守りて苟(いやし)くも授与せず。以て寛仁(かんじん)の化儀に馴るゝこと無かりしは、実に宗門の幸福なりしなり」(『富士宗学要集』第1巻113頁)
すなわち、本宗で数百年間にわたって、御法主以外の僧俗が勝手に本尊を授与する、という事例がなかったのは、宗門として本当に喜ばしいことである、と仰せられているではないか。
切り文に、デタラメな解説を加えて、正反対の史実を作るとは、呆れ果てた悪餓鬼(ワルガキ)共である。
5.「化儀抄註解」の引用は文意改竄
<学会の邪義5>
『有師化儀抄註解』の中では、今回の学会の下附のやり方を「事なかるべし」と判定されている。
<破折>
まず、『化儀抄註解』の該当箇処を挙げてみよう。
「比の判形といへるに種々あるべし。一には、形木または縮写のものに、法主の判形を為されたるもの。二には、平僧の書写せしものに、法主の判形を加へられたるもの。三には、後代の法主が、宗祖開山等の曼荼羅を其儀(そのまま)模写し給ひて、更に模写の判形を為されたるものを、形木または写真版等となしたるもの。四には、先師先聖の模写版又は形木に、平僧が自らの判形を加へ又は平僧自ら書写して判形(自己)まで加へたるもの等に分かつを得べきか。此中に、一と三とは事なかるべし。」(『富士宗学要集』第1巻113頁)
学会は、この文中の3番目に述べられていることが、今回の学会の下附のやり方にそのまま該当することであり、これは日亨上人も「事なかるべし」と認められていることである、と主張する。
すなわち彼らは、
「後代の法主(今回は日寛上人)が宗祖開山等の曼荼羅(今回は戒壇の大御本尊)を其儘模写し給ひて更に模写の判形を(今回は日寛上人が)為されたるものを形木又は写真版等と為したるもの」(※カッコ内は学会側が挿入したもの)
である、というのであるが、これまた切り文、文意改竄(かいざん)の典型といわざるをえない。
そもそも、この御文に仰せられているのは、冒頭に「此の判形といへるに種々あるべし。一には……」とあるように、判形の加え方の可否について述べられているのであり、下附のやり方の可否などを述べられているのではない。まったく関係のない文の中から、都合のよさそうな部分だけを切り取って、別な意味に利用する-こうした学会の手口を”仏法破壊の魔の所為”というのである。
しかも、原文のような、「後代の御法主」が「模写し」「判形を為され」「形木又は写真版等と為したる」のであれはいざ知らず、今回の学会が下附している本尊は、「学会と離脱僧」が、日寛上人書写の御本尊を、勝手に変造して「形木または写真版等となし」て下附しているものである。
以上のことから、学会発行のニセ本尊は、この御文には全く該当しないと知るべきである。
6.「教師必携」は「法主必携」にあらず
<学会の邪義6>
「御本尊の開眼」という化儀は、『日蓮正宗教師必携』というマニュアルにも載(の)っていない。「法主の開眼が必要」というのなら、どの段階でどんな作法をとるのか、具体的に言ってみろ。
<破折>
『日蓮正宗教師必携』に、「御本尊の開眼」のことが載っていないのは、当たり前である。「御本尊の開眼」は、唯授一人の相伝を受けられた歴代の御法主のみがなさるものであり、一般の教師僧侶方のための「教師必携」にその内容が掲載されるわけは、もとよりないのである。
また、”どの段階でどんな作法をとるのか”を本当に知りたければ、大謗法の池田創価学会を脱会して、日蓮正宗にひざまづいて懺悔し、素直に大石寺の教えを請うたらいかがか。
7.「開眼なく印刷会社から直送」の無知
<学会の邪義7>
日達上人時代の初期には、御形木本尊は、法道院の法華講の印刷会社で印刷し、それを束にして直接、末寺に送付していたので、開眼などなされていなかった。
<破折>
学会は、知らずに言っているのか。それとも知っていてわざと言っているのか、当時の法道院主管・早瀬日慈上人は、御形木御本尊の開眼をまとめて本山にお願いされていた。そして、本山で開眼された後、各末寺に送られていたのである。
そもそも、こうした邪難は、御法主上人が丑寅勤行の際に御本尊の開眼供養をなさっていたことを知らぬ、修行不足の離脱僧が言い出したらしい。まったくもって、自らの修行不足・認識不足を、自ら露呈したようなものだ。
8.「導師御本尊」への疑難を破す
<学会の邪義8>
日蓮正宗で葬儀に用いている「導師本尊」は、邪宗日蓮宗が葬儀用に開発したニセ本尊である。大聖人の御本尊とは異なる「五道冥官」等の悪鬼の名が書かれている。これを、江戸時代になって、日蓮正宗でも取り入れたのである。
<破折>
まず、「導師御本尊」が、日蓮宗が開発したニセ本尊である、という証拠を挙げてみよ。
また、江戸時代になって日蓮正宗でも取り入れた、というが、24世以前の上代の御法主の書写された「導師御本尊」が存している以上、この疑難は前提から崩壊していると知るべきである。
なお、日寛上人書写の「導師御本尊」も存在するが、学会は、日寛上人もニセ本尊を作っていた、というのか。とすると、現今の学会は”ニセ本尊を作っていた法主の書写した御本尊をコピーして拝んでいる”ことになるが、どうか。
そもそも、この程度の疑難しかできぬ者が、判ったような口ぶりで”大聖人の御本尊とは異なる”云々などと言うこと自体、じつにおこがましい。よくよく身の程を知るべきであろう。
9.「未来本尊」への疑難を破す
<学会の邪義9>
日蓮正宗では以前、葬儀の際に、「導師本尊」を形木にした「未来本尊」と名づける「ニセ本尊」を、棺や骨壷の中に入れていた。これは、日興上人が『富士一跡門徒存知事』で破折されている、五老僧の謗法行為と同じだ。
<破折>
そもそも「末来本尊」とは、時の御法主上人が、『寂日房御書』に
「此の御本尊こそ冥途(めいど)のいしゃうなれ」(御書1394、全集903頁)
と仰せの意義を持たせて、「導師御本尊」を形木にし、亡くなった人と共に棺等に収めたものである(類似した事例としては、建物を上棟する際に、その建物の守りとして、屋根裏に棟札本尊を収める化儀もある)。
一方、『富士一跡門徒存知事』に日興上人が仰せられているのは、よく前後の御文を拝すとわかるが、日蓮大聖人御直筆の御本尊の散逸(さんいつ)を戒められた御教示である。
すなわち
「一、上の如く一同に此の本尊を忽諸し奉るの間、或は曼荼羅なりと云ひて死人を覆(おお)ふて葬る輩も有り、(中略)
日興が云はく、此の御筆の御本尊は」云云(御書1872、全集1606頁)
と。
学会は、”日興上人が戒められた、五老僧と同じ不敬行為だ”と言いたいのであろうが、大聖人の御直筆御本尊の散逸を戒められた御教示を、形木の未来本尊を収めることの可否に結びつけること自体、まったくの見当はずれなのである。
10.「紙幅の大御本尊」云々の迷妄を笑う
<学会の邪義10>
書写された紙幅の御本尊を板に彫刻することを「御本尊の彫刻」というが、戒壇の大御本尊は、大聖人が弟子の日法師に彫刻させたもので、大聖人直筆である紙幅の大御本尊は、御宝蔵に保管されている。このように、「御本尊の彫刻」は昔から行なわれていた。
<破折>
”戒壇の大御本尊は、大聖人が弟子の日法師に彫刻させたもので、大聖人直筆である紙幅の御本尊は、御宝蔵に保管されている”-どこからこのような珍説が飛び出してくるのか。
これは、かつて妙観講を除名になった渡辺某の我見の狂学が、そのまま朋友の学会に利用されたものであり、もとより「(戒壇の大御本尊が彫刻される前の)大聖人直筆である紙幅の御本尊」など、御宝蔵どころか、世界中どこを探しても存在しない。
学会は、「彫刻」(紙幅の御本尊をそのまま板に張って、彫刻することをいう。御本尊のお姿は、紙幅から板のお姿に替わられる)と「模刻」(1体の御本尊を元に、もう1体の板御本尊を別に複製彫刻することをいう)を、わざと錯誤させ、自分達がしでかした「御本尊模刻事件」を正当化したいのだ。
つまり、書写された紙幅の御本尊があって、その紙幅の御本尊を元にして、さらにもう一体、別の板本尊を模刻すること(これを彼らはワザと「彫刻」という)は、昔から行なわれていた、戒壇の大御本尊からしてそうであるから、何ら問題はない、というのである。
しかし、渡辺某のいう、戒壇の大御本尊の元になった紙幅の大御本尊など、もとより存在しておらないので、このような妄説は前提から崩壊してしまっている。後に残るのは潮笑のみ、呵々(かか)。
12.模刻ニセ本尊はお蔵入り
<学会の邪義12>
学会で彫刻した御本尊はニセ本尊ではなかった。ゆえに、本山でも、回収した7体の本尊を、正式な本尊として御宝蔵に保管している。
<破折>
何が「正式な本尊として御宝蔵に保管」だ。バカも休み休み言うべきである。
御法主上人の知らぬところで、学会が勝手に「模刻」して作った板本尊は、まぎれもなくニセ本尊であった。ゆえに、本山に没収し、学会の大謗法の証拠品として、倉庫(元の奉安殿)の中に、毛布に包んで置いてあった。
これが全てだ。
13.「脇書はメモ」の妄説を破す
<学会の邪義13>
脇書きは、授与された人の名誉を残すためのものにすぎず、御本尊として必要不可欠な部分ではない。単なるメモ書きである。大聖人直筆の御本尊にも、脇書きのないものが多数存在している。また、御本尊書写に関する相承書として取り扱われていた『御本尊七箇之相承』にも、脇書きについては、一言も触れられていない。
<破折>
御本尊の示し書きに認(したた)められる授与者の名は、『富士一跡門徒存知事』に示されているように、正法の信仰ゆえに「或は身命を捨て或は疵(きず)を被り若しは又在所を追ひ放たれ」た人の熾烈(しれつ)なまでの信心を、師の立場から認定して認められるものであり、また『化儀抄』に、
「御本尊授与の時、真俗弟子等の示し書之れ有り。師匠有れば師の方は仏界の方、弟子の方は九界なる故に、師弟相向かうところ中央の妙法(中略)是れ則ち事行の妙法事の即身成仏等云々」(聖典996頁/『富士宗学要集』第1巻77頁)
とあるように、授与者の未来の即身成仏を示すものである。
したがって、”授与された人の名誉を残すためにすぎない”などという軽々しいものではなく、御本尊の本体に列するもの、というべきであろう。ゆえに、日興上人や日亨上人も
「凡筆を以って直に聖筆を黷(けが)す事、最も其の恐れ有りと雖も」(御書1872、全集1606頁)
「興師以外の凡筆が宗祖の聖筆に列したとすると、それは開山の仰せのごとく、恐懼(きょうく)の極まりなきものとなる」(富士日興上人詳伝)
等々と仰せられているのである。
これを、御歴代でもない一般僧俗が、勝手に削(けづ)り取って、コピーした学会のニセ本尊--まことに恐懼の極み、恐るべき謗法行為といわねばならない。
また、「メモ書きにすぎない」などともいっているが、「メモ書き」とは、自分自身の覚えのために書き留めるものであって、相手に授与するための「授与書き」とは、まったく性質の異なるものである。このようなこともわからなくなっているほど、学会は頭が狂ってしまっているようだ。
さらに、「大聖人直筆の御本尊にも、脇書きがないものが多数存在している」とは、本当に調べた上でいっているのか。文永・建治年間の御本尊には、授与書きのある御本尊は少ないが、弘安以降(究竟の極説である弘安2年の戒壇の大御本尊御出現以降)の御本尊においては、授与書きの認められたものが、じつに多数(81体中の66体で、約8割)存在しているではないか。
また、「『御本尊七箇之相承』に、授与書きについて一言も触れられていない」のは、御本尊本体についての御指南であるから、本体に列する授与書きについて触れられていないのは、当然のことである。
14.真正の御本尊なくして成仏なし
<学会の邪義14>
脇書きに名前を書かれなければ成仏できない、などとは御書には述べられていない。御書には、『生死一大事血脈抄』『本因妙抄』に、”信心強盛に南無妙法蓮華経と唱えるところに、生死一大事の血脈が流れ、凡身即仏身になる”と、大聖人の仏法の偉大な力を示す御文が厳然と記されている。
<破折>
「脇書きに名前を書かれなければ成仏できない」などと、誰も一言ってはいない。日蓮正宗の僧俗が言ってもいないことを、「言った」として、自分達で勝手に”破折ごっこ”をするものではない。
また、『本因妙抄』の
「信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱へ奉れば凡身即ち仏身なり。これを天真独朗の即身成仏と名づく」(御書1679、全集872頁)
との御文を引いて得意満面になっているが、この御文の前には、何と仰せられているか。すなわち、
「久遠名字の妙法を本と為す。信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱へ奉れば」云云と、久遠名字の妙法(いうまでもなく「正しい御本尊」のことである)を根本となして題目を唱えるところに即身成仏ができる、と仰せになっているのである。
日蓮正宗から破門され、戒壇の大御本尊からも離れてしまい、ニセ本尊まで作った創価学会が、ただ題目を唱えたからといって、そこに即身成仏の義などないことを知るべきであろう。
15.???珍妙な妄説を粉砕する
<学会の邪義15>
一機一縁の御本尊の不特定多数への下附は宗門の得意技であり、日亨上人の『有師化儀抄註解』にも、「一機一縁の本尊」を御歴代が「書写」して「特定の人に授与した本尊」を、「形木」にして「開眼せず」に「不特定多数」に授与した例として、昭和初期の学頭・日照師のことをあげており、何の問題もない下附のあり方とされている。
今回の学会による本尊授与は、由緒正しい「本門戒壇の大御本尊」を、中興の祖である日寛上人が「書写」して「特定の人に授与した本尊」を、「末寺の允可(いんか)に基づいて」「形木」にして「開眼せず」に「不特定多数」に授与するもので、「一機一縁の本尊」を同じようにして授与するよりはるかに素晴らしいことだ。
<破折>
何を訳のわからぬ妄説を振り回わしておるのか。
学会では、「一機一縁の御本尊とは、大聖人の直筆の御本尊のうち、本門戒壇の大御本尊以外の御本尊のことをいう。御歴代の書写された御本尊は『分身散体』『分身散影』と呼んで、一機一縁の御本尊とは区別する」などと勝手に定義づけて、聞く者の頭を混乱させて煙に巻くような珍妙な妄説を立てる。
だが、もとより「一機一縁の御本尊」とは、「一閻浮提総与」である本門戒壇の大御本尊以外の御本尊のことをいい、他の大聖人御直筆の御本尊も、御歴代上人が書写あそばされた御本尊も、すべて「一機一縁の御本尊」なのである。
また、ここでも昭和初期の学頭・日照師等の例を持ち出しているが、これはすでに述べたとおり、時の御法主が、弘教の実情に則して、なさしめられた事例である。
念のため、彼ら流の言い方で示しておけば、それら『化儀抄註解』に挙げられている事例は、「本門戒壇の大御本尊」を「書写」された「一機一縁の御本尊」を、後代の御法主が「御形木」にされて「開眼」をなさった上で、多数の信徒に授与することを許された例であり、何の問題もないのである。
しかるに、今回の学会によるニセ本尊は、「本門戒壇の大御本尊」を、日蓮正宗の中興の祖である日寛上人が「書写」されて「特定の人に授与した一機一縁の御本尊」を、「日運正宗を破門になった創価学会と学会の支配下に入った単立寺院が、血脈を無視して勝手に」「変造・コピー」して、「開眼せず」に「不特定多数」に「配布」(「授与」というのであれば、誰が、その資格を誰から与えられて授与するのかを、明らかにすべきである)したもので、まぎれもなく「悪鬼・魔神の札」であり、拝む者は堕地獄必定(ひつじょう)である。
鳴呼、恐るべし、恐るべし。
16.学会のニセ本尊は仏罰製造機
<学会の邪義16>
学会草創期には、日寛上人の御本尊を旗印に、国内に向けて御本尊の偉大な功徳力を示した。今また一閻浮提広宣流布の時に、日寛上人の御本尊を旗印に、全世界に向けて偉大な功徳を生み出すのである。
<破折>
学会の草創期には、たしかに日蓮正宗の信徒団体として、血脈付法の御法主上人から、日寛上人の御本尊を御形木とした御本尊を下附され、大聖人の仏法の功徳に浴した会員も多かったであろう。
しかし、今回の「ニセ本尊下附」は、草創期とはまったく違った手続きで勝手に作ったニセ本尊を、開眼もなく配布しているものであり、「全世界に向けて偉大な功徳を生み出す」ことなど、できようはずもない。
その証拠に、それまで戴いていた日蓮正宗の御本尊を手放し、学会のニセ本尊に交換した多数の学会員達が、全国、あちらこちらで厳しい仏罰を受けているではないか。その最大にして悲惨なる現証が、かの阪神大震災である。
学会員諸兄におかれては、一刻も早く「ニセ本尊」を処分し、日蓮大聖人の正統門流である日蓮正宗大石寺に帰伏すべきである。
学会の本尊観、妙法観破折
【「信心の中に本尊がある」「本尊は胸中にある」との妄説】
―信心がなければ本尊の意義を失う?―
―信心があれば本尊は不要?―
―信心があれば本尊となれる?―
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◆大聖人の御本尊は、信心の対境となる本尊であるだけでなく、本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えれば、その信心に本尊が具するのである。この2つの次元が揃って初めて大聖人の御本尊の意義が完結する(『聖教新聞』H5.9.18)
◆この「観心の本尊」という御本尊の本義のうえで言えば、御本尊は「信心」があるところにしか存在しないと言える。「信心」がなければ、紙幅の御本尊はあっても、本義たる「観心の本尊」はないのである(同)
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つまり、彼等は、対境たる大聖人御図顕の御本尊のみでは「観心の本尊」としての意義が整足せず、衆生の信心がなければ「観心の本尊」にならないというのであり、観心のところに本尊があるとの妄説を主張しているのです。しかし、本尊とは、根本尊崇・本有尊形・本来尊重の意義を有する「所縁の境」であります。(『大日蓮』H6.1)
●末法の本門、下種の人法は正しくこれ観心の本尊なり、故に末法下種の本尊と為すなり(第26世日寛上人著『観心本尊抄文段』文段集524頁)
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末法では、寿量文底の人法のみが一切衆生観心成仏のための本尊法体となるのであり、これを「観心の本尊」と称するのであります。したがって、衆生の信心が揃わなければ「観心の本尊」とならないなどということは、大聖人の仏法にはないのです。(『大日蓮』H6.1)
●当に知るべし、四義具足する則(とき)は成仏疑い無きなり。「正直に方便を捨て但法華経を信じ」とは、是れ信力なり。「南無妙法蓮華経と唱ふる」とは、是れ行力なり。「法華の当体」とは、是れ法力なり。「自在神力」とは、是れ仏力なり。法力・仏力は正しく本尊に在り。之を疑うべからず。我等応に信力・行力を励むべきのみ(第26世日寛上人著『当体義抄文段』)
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すなわち四義具足とは、本門戒壇の大御本尊を信行するとき、我らに具する信力・行力と、御本尊にまします法力・仏力が冥合一体となることであり、境智冥合することであります。(第68世日如上人『大日蓮』H21.8)(<仏力・法力と信力・行力>)
●夫れ本尊とは所縁の境なり・境能く智を発し智亦行を導く、故に境若し正しからざれば智行も亦随って正しからず、妙楽大師謂える有り「仮使(たとい)発心真実ならざる者も正境に縁すれば功徳猶多し・若し正境に非ずんば縦い偽妄無きも亦種と成らず」等云々(第26世日寛上人著『文底秘沈抄』)
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信心の有無に拘わりなく、正しい御本尊は、それ自体「所縁の境」として「能く智を発し智亦行を導く」のです。逆に信心があってもニセ本尊であれば「智行も亦随って正しからず」。
※ただし、正しい御本尊であっても、行者が謗法によって破門された場合は、行者本人だけでなく、彼が所持する御本尊も血脈が切れ、御本尊自体がその意義を失う。すなわち、御本尊も行者も大御本尊からの血脈がなければならないのである(【本尊と血脈】参照)。
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◆此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり(『日女御前御返事』全集1244頁)
◆此の御本尊も只信心の二字にをさまれり(同頁)
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信心修行をする自身の胸中にこそ本尊がある。妙法を唱える自分自身が、胸中に御本尊を納めた妙法の当体でもある。。
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これは戒壇の大御本尊の否定と本尊不要への道筋を付けるものであります。
そもそも大聖人様は何故に曼荼羅本尊を御図顕なされたのか。それは御一期の御化導における究竟本懐として、一切衆生を成仏に導くために、その信仰の対象・対境として顕わされたのです。自分たちの心中を拝んで成仏するなら大聖人様が御本尊を顕わす意味がありません。
また、自宅に安置の御本尊も、戒壇の大御本尊のお写しを、時の御法主上人の允可(いんか)のもと、お貸し下げ戴いた御本尊です。それを戒壇の大御本尊を否定し、御法主上人猊下に背反しながら、しかも池田大作を信じて拝んでいるようでは決して御本尊と境智冥合することはできず、成仏が不可能であることは明らかです。まして、「ニセ本尊」で成仏できないことは当然です。(『大白法』H23.2.1)
この御文は「この御本尊は全く他に求める必要はない。ただ私たちが御本尊を信受して、南無妙法蓮華経と唱える胸中におられる」という意(『慧妙』H18.8.16)
この御文は、信心唱題という衆生の観心が成就するとき、御本尊と衆生とが一体の境地となり、衆生凡夫の生命に仏の事の一念三千の当体が宿ることを示されているのでありまして、創価宗のように、一切衆生を成仏せしめる御本仏の御当体たる「御本尊」と、成仏を願って信心修行に励む衆生の「観心」とを混ぜ合わせて論じてはならないのです。現に、我々がいかに信心唱題に励んだからといって、この肉団が礼拝の対境となるはずはありません。(『大日蓮』H6.1)
◆本尊とはまったく他所に求むべきではなくて、自分自身が本尊であり、お題目を唱えるものは等しく地涌の菩薩であって、日蓮大聖人とも変わりがないと考えることは、重大な増上慢のきわみであり、大謗法である。(『戸田城聖全集』第3巻65頁)
●三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値はざれば、悟らず知らず顕はれず(『三世諸仏総勘文教相廃立』御書1426頁、全集574頁)
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ここで善知識と仰せられているのは、末法御出現の御本仏、主師親三徳兼備の宗祖日蓮大聖人様のことであります。つまり、御本仏大聖人様が末法に御出現あそばされて一切衆生の三因仏性を扣発(こうはつ)し、凡夫即極の成仏を現ぜしめるが故であります。
したがってまた、今時に約して申せば、人法一箇の大御本尊様を指すのであります。(第68世日如上人『大日蓮』H23.5)
●我々は、御本尊の明鏡に向うとき、凡夫理体の仏性が境智冥合して、はじめて成仏できるのであります。自分が自身を拝んで、なんで成仏できましょうか。そこに、御本尊の大事なことがあるのであります。もし、かってに自分自身を拝んで成仏するというならば、大聖人はなんのために御本尊をご図顕なさったのか。戒壇の御本尊を、大聖人のご当体として残されたのでありましょうか(第66世日達上人『達全』2-5-600頁)
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"胸中に御本尊があるから、戒壇の大御本尊を拝む必要はない"という学会の考えは、大聖人のお心に背く悩乱の説というべきです。(創価学会『ニセ本尊』破折100問100答-44頁)
●衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり、譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり(『一生成仏抄』全集384頁)
●我等が信力、行力は必ず法力に依って生ずるなり。若し水なくんば則ち蓮華生ぜず、若し法力なくんば何ぞ信行を生ぜん。この故に本尊を仰ぎ奉り法力を祈るべし(第26世日寛上人著『観心本尊抄文段』)
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私たちの信力・行力、信心修行は、御本尊の法力によって生ずる、と仰せである。
つまり、信じる対象があるからこそ信心が起こる、御本尊があるからこそ、それを信じることができるのであるが、創価学会員らは、"信心があってこそ御本尊が現われる。御本尊があっても、信じる者がいなければ、御本尊としての力も現われない"と、全く反対のことを言う。
なるほど、御本尊の仏力・法力は、私達の信力・行力によって発揮される、ということはできようが、その信力・行力が生ずる本(もと)は、まず正しき仏力・法力を具(そな)えた御本尊がましますことによるのである。(『慧妙』H18.2.1)
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◆「御本尊」は、自身の「信心」のなかにこそあると大聖人は仰せです。妙法の当体である自分自身、人間自身が大事なのです。その胸中の妙法を顕すためにこそ、御本尊が、こよなく大切なのです(『聖教新聞』H4.7.5)
◆御本尊は決して遠くにあるのではないと。どこまでむ「信心」こそが根本である。信心さえあれば何も心配することはないのである(池田大作『聖教新聞』H4.2.6)
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大作の浅知恵は、ついに「己心本尊」に行き着く。(中略)こんな愚かな大作はもちろんながら、これに盲従する学会員も、「妙法の当体」となるはずがないではないか。なぜなら、根木となる御本尊に迷い、「物体」と見下しているからだ(下記【御本尊から離れた「法」】参照)。(『大白法』H16.7.1)
「御本尊が、こよなく大切なのです」などと言っているが、その一方で「戸田先生は御本尊のない、・地獄・のごとき牢獄で2年間を過ごされた。そして、あの偉大なる境涯を開かれた」(『聖教新聞』H3.12.2)、「曼荼羅それ自体は、物体という側面からいえば永遠不滅ではありえない」(『聖教新聞』H5.5.5)、「精神的実在は人格神のようなものではなく、宇宙に遍満する『法』」(『聖教新聞』H6.6.12)などと発言している。つまり、池田学会の本心は御本尊を仏界発現のための手段・道具としかとらえておらず、大聖人の御当体であるという信心がまったく欠如しているのである。これは、大御本尊と御本尊に関わる権能が一人日蓮正宗の御法主にのみ具わることが、独立教団・創価学会としては、はなはだ不都合であるから、会員に御本尊に対する尊信の念を薄めさせることによって、御本尊と唯授一人の血脈を根本とする日蓮正宗本来の化儀化法から離れようとしたものとも考えられる(法蔵)。
私達凡夫の生命にも本然的に仏の生命が具わっているから(ただし、それは冥伏<みょうぶく>していて現われておらず、御本尊との感応によってのみ涌現する)といって、直ちに「自分の中に御本尊がある」「妙法を唱える自分は、御本尊を納めた妙法の当体」などと言っては、自分を尊い存在に押し上げてしまうため、御本尊を自らの人生の根本として信じ崇(あが)めることにならず、そこには感応が働かない。つまり、自分の中の仏界は、もとより涌現しないのである。
仏界が涌現しなければ、仏でもなければ成仏でもなく、したがって御本尊だなどと言える道理がない。(『慧妙』H15.12.16)
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◆但本尊を信じて妙法を唱うれば、則ち本尊の十法界全くこれ我が己心の十法界なるが故なり(第26世日寛上人著『日寛上人文段集』聖教新聞社・初版471頁)
◆仏心も妙法五字の本尊なり。己心もまた妙法五字の本尊なり(同頁)
◆若し信心なくんば一念三千の本尊を具せず(同465頁)
◆若し一念の信心あらば即ち一念三千の本尊を具す(同466頁)
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我々の己心に本尊がある証拠
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これらの御文はいずれも、日寛上人が「観心」と「本尊」を立て分けて解釈されるなかの、「観心」の解釈部分であって、創価宗では、最も大切な「本尊」に関する以下の御教示を故意に隠した、いわゆる「切り文」をしているのです。(『大日蓮』H6.1)(<凡夫本仏論破折>参照)
●観心の本尊とは(中略)文底深秘の大法にして本地唯密の正法なり(中略)これ則ち蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人所修の明鏡なり(第26世日寛上人著『観心本尊抄文段』/『日寛上人文段集』聖教新聞社・初版443頁)
●就中(なかんずく)弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり(同452頁)
●自分自身が御本尊だなどと考える時は、すでに増上慢に陥って地獄の苦を受けるということになるのであります。そこで日蓮大聖人様はご自身の当体を戒壇の御本尊として、我ら末法の衆生の依止の本尊と顕わされておるのでございます(第66世日達上人『日達上人全集』2-5-526頁/『大白法』H16.7.1)
★宗祖日蓮大聖人の仏法は、あくまで文底下種の法体たる本門戒壇の大御本尊が中心であり、間違っても衆生の機根を中心にしてはなりません。創価宗は、この「法と機根の関係」に迷い、「能化と所化の関係」を顛倒し、混乱して、信心修行をする衆生の肉団のなかに本尊があるなどという、珍無類、古今未曾有の新義・邪説を吐くに至ったのであります。(『大日蓮』H6.1)
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◆戸田先生は御本尊のない、・地獄・のごとき牢獄で2年間を過ごされた。そして、あの偉大なる境涯を開かれた(『聖教新聞』H3.12.2)
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これは宗門から御本尊下附を停止されたことに対する発言であるが、ねらいは日蓮正宗の御本尊を受持しなくても成仏はできる、というところにある。学会は大御本尊どころか、各自の御本尊さえ蔑ろにしています!
◆仏の生命を顕現するべき対境が、絶対になければならない。どんな境涯といえども必ず縁によって生ずるからであります。この対境が、結論していえば、大御本尊なのです。(戸田城聖指導『人間革命』第2巻「幾山河」)
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◆立宗の日にちなみまして考えますことは、日蓮大聖人は、いったい何をこの世にお弘めになろうとされたのか、という1点であります。それは、端的に申し上げれば「本尊」であります。根本として尊敬すべきものとしての「本尊」であります。(中略)これにつきまして、あえて誤解をおそれずに申し上げれば、「汝等が身を以って本尊と為す可し」(※『御本尊七箇之相承』)とあるとおり、人間の生命をもって本尊とせよ、とのことでありまして、一切の根源は"生命"それ自体である。根本として大切にして尊敬を払っていくべきものは、まさに"人間生命"そのものである、という哲理であり、思想なわけであります。(池田大作『広布第2章の指針』第4集/『慧妙』H17.5.1)
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●明星直見の本尊の事如何。師の曰わく、末代の凡夫、幼稚の為めに何物を以って本尊とす可きと、虚空蔵に御起請ありし時、古僧示して言わく、汝等が身を以って本尊と為す可し、明星の池を見給えとの玉えば、即ち彼の池を見るに不思議なり。日蓮が影、今の大曼荼羅なりと云云。(『御本尊七箇之相承』/『富士宗学要集』第1巻32頁~)
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すなわち、立宗される以前の日蓮大聖人の不思議な体験として、清澄寺本堂の左の谷あいにある"明星が池"のほとりに立って、御自分の影を御覧になったところ、
「日蓮が影、今の大曼荼羅なり」
大聖人御自身が大御本尊であることを御覧になられたのでした。
つまり、『御本尊七箇之相承』で述べられているのは、大御本尊が御本仏日蓮大聖人の御生命の当体である、という人法一箇の深旨であって、間違っても、「人間の生命が本尊」であるとか、「根本として尊敬を払っていくべきものは、人間生命」などという意味ではありません。
●本尊とは法華経の行者の一身の当体なり(『御義口伝』御書1773、全集760頁)
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末法における法華経の行者(日蓮大聖人)の当体を本尊と拝する、というのが大聖人正統門流の正しい信仰なのであります。
ですから、『御本尊七箇之相承』で古僧が述べられたという「汝等」が指しているのは、別して、仏である大聖人の当体をさしているのです。
それが「汝等」という表現になっているのは、我々一切衆生の中にも、大聖人と同じ仏界が具(ぐ)しているからですが、それは理念的に言えることであって、現実に具現しているわけではありません。ゆえに、人間の生命そのものを直ちに本尊とすることはできないのであります。
また、我々の生命にも仏界が内在しているからといって、御本仏である大聖人への信心をさしおき、九界の迷いの凡夫の生命を即座に本尊として、そこに尊敬を払い根本としていくというなら、これはまさしく禅宗で唱えるところの「是心即仏・即心是仏」(我が心がそのまま仏であり、仏はそのまま我が心である)と同じになってしまいます。
●只(ただ)不二を立てゝ而二を知らず。謂己均仏(いこきんぶつ)の大慢を成せり(『聖愚問答抄』御書397、全集489頁)
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大聖人は、この禅宗の邪義に対して、"己れを仏に均(ひと)しいと謂(い)う"大慢心である、と破折されていますが、池田をはじめ、「自分の中にも御本尊はある」とか「私もあなたも御本尊(仏)」などという学会員は、まさに、謂己均仏の大慢心の者であります。(『慧妙』H17.5.1)
【御本尊から離れた「法」】
<宇宙に遍満する「法」、「久遠元初の法」>
************************************************************◆トインビー博士は常に、「
宇宙の背後にある究極の精神的実在」について語られていた。(中略)トインビー博士は私との対談の1つの結論として、この精神的実在は
人格神のようなものではなく、宇宙に遍満する「法」であると考えられるとされた。ワーズワースが歌い、トインビー博士が求められた究極の「法」は「妙法」であると私どもは信ずる(池田大作『聖教新聞』H6.6.12/『創価学会の新理論とその本質』89頁)
◆大聖人の仏法の真髄である「
久遠元初の法」を根本としてこそ、永遠の妙法流布の道が開ける(
『聖教新聞』H5.5.5/『創価学会の新理論とその本質』)
◆
宇宙それ自体の"根源法"(中略)を仏が一幅の「曼荼羅」とされた。それに南無し帰命することによって、大宇宙の外なる法則と、
己心の内なる法則が完全に合致し、さらに人生、生活が、正しきリズムにのっとったものになる(『「仏法と宇宙」を語る』1-P53/『大白法』H25.6.1)
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「宇宙に遍満する『法』」「久遠元初の法」という言葉をもって実在の仏を否定することは、とりもなおさず御本仏大聖人と、人法一箇の大御本尊を否定した大謗法である。(<「宇宙に遍満する法」!?>参照)
●この本因本果は刹那の始終、一念の因果にして、真の十界互具・百界千如・事の一念三千の南無妙法蓮華経なり。此くの如く本地難思の境智冥合・本有無作の事の一念三千の南無妙法蓮華経を証得するを、久遠元初の自受用身と名づくるなり。 この時法を尋ぬれば人の外に別の法なし。人の全体即ち法なり。この時、人を尋ぬれば法の外に別の人なし。法の全体即ち人なり。既に境智冥合し人法体一なり。故に事の一念三千と名づくるなり。故に宗祖は「自受用身即一念三千」と。(第26世日寛上人著『観心本尊抄文段』/『日寛上人文段集』聖教新聞社・初版458頁)
●但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麁法(そほう)なり、麁法は今経にあらず今経にあらざれば方便なり権門なり(『一生成仏抄』全集383頁)
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ただし、この御指南は「観心」について述べられたのであり、これをもって"行者の己心に本尊があるから対境としての本尊など必要ない"などと思ってはならない。
●本尊とは法華経の行者の一身の当体なり(『御義口伝』全集760頁)
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曼荼羅(本尊)とは大聖人御自身であり、大聖人を離れて妙法はないのです。『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)
●自受用身とは一念三千なり(『御義口伝』全集759頁)
●我等が色心の二法を無常と説くは権教なり、常住と説くは法華経なり(『御義口伝』御書1745、全集732頁)
●凡夫の血肉の色心を本有と談ずるが故に本門と云ふなり(『御義口伝』御書1811、全集799頁)
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法華経では、生身そのものが生死を繰り返しながら常住する永遠の存在と説くのである。ただし、これをもって"凡夫本仏論だ"などと思ってはならない。
●爾前の経経の心は心のすむは月のごとし・心のきよきは花のごとし、法華経はしからず・月こそ心よ・花こそ心よと申す法門なり。此れをもつてしろしめせ、白米は白米にはあらず・すなはち命なり。(『白米一俵御書』全集1597頁)
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「法」は、実在する「命」を離れたところには存在しない。もし、あるとすれば、それは真言宗で説くところの大日如来のようなものであり、頭の中で考えた空理空論に過ぎない。
●文字は是(これ)一切衆生の心法の顕はれたる質(すがた)なり。されば人のかける物を以て其の人の心根を知って相(そう)する事あり。凡(およ)そ心と色法とは不二の法にて有る間、かきたる物を以て其の人の貧福をも相するなり。然(しか)れば文字は是一切衆生の色心不二の質なり(『諸宗問答抄』御書36、全集380頁)
●口決に云はく「草にも木にも成る仏なり」云云。此の意は、草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり。(中略)一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこなひの学者ゆめにもしらざる法門なり(『草木成仏口決』御書522、全集1339頁)
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要するに、御本尊は単なる物質(眼に見える形、色法)ではなく、仏の御悟り(心法)を顕わした、色心不二の仏の御姿であり、板であれ紙幅であれ、そこに仏の御悟りが文字をもって認(したた)められれば、尊厳な仏の当体と顕われることを、御教示くださっている。しかるを、御本尊を"単なる物質"としか見られず、御本尊以外に"永遠の法"を求めるような輩(やから)は、法華経の一念三千の法理も弁えない「習いそこないの学者」といわざるをえない。(『慧妙』H17.8.16)
●彼等はまた、"日蓮正宗では御本尊の板や紙に執(とら)われているから唯物思想だ"といっておるが、事ここに至っては、開いた口がふさがらない。彼等には、草木成仏・非情成仏等、仏法の重大法門は少しも解(わか)っていない。それでは法華を学んだとは、とうてい、いえないことである(第65世日淳上人『日淳上人全集』1411頁)
●世間では大聖人の教は題目にあらせられると思つて題目を主として御本尊を忽(ゆるが)せにする者が多いのであります―多いどころではなく皆左様に考へてをりますが、此れがために大聖人の教をはき違へるのであります。元来かような考へは南無妙法蓮華経は法であるとのみ考へるからでありまして宇宙に遍満する妙法の理が題目であるとするからであります。此れは大変な誤りで南無妙法蓮華経は仏身であります。即ち法報応三身具足の当体であらせられ報身中に具し玉ふのであります。妙法の理は天地の間にありましてもそれは理性(りしょう)であります。実際には仏の御智慧のうちにのみ厳然として具はり玉ふのであります。その仏は十方法界に唯一人在ますだけであります。そうしてその仏が衆生を正しく御導き下さるのであります。(第65世日淳上人『日淳上人全集』981頁~)
<バラモン教に似た外道義>
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◆「南無」とは「帰命」と訳する。その「帰命」とは、宇宙それ自体の“根源法”に合致しゆく儀式の姿といえるでしょう。すなわち、その根元法を仏が一幅の「曼荼羅」とされた。それに南無し帰命することによって、大宇宙の外なる法則と、己心の内なる法則が完全に合致し、さらに人生・生活が正しきリズムにのっとったものになる。(池田大作『仏法と宇宙を語る』第1巻53頁)
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↑
両者は、
宇宙(の原理または法)と自己(の原理または法)の合致(合一)を目指すという点で同じ。
学会は、外道義に基づく目的達成の手段・道具として、曼荼羅御本尊を利用しているに過ぎない。
↓
◆梵、すなわち「ブラフマン」と我、すなわち「アートマン」が同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする。これが梵我一如の思想である。ブラフマンは、宇宙を支配する原理である。アートマンは、私という一個人の中にある個体原理で、私をこのように生かしている「霊魂」であり、私をこのような私にしている「自我」、もしくは「人格」である。
この宇宙原理「ブラフマン」と個体原理「アートマン」が本質において同一であると直観することを目指すのが梵我一如の思想である。
後にバラモン思想の主流となるヴェーダーンタ思想は、梵我一如の思想を発展させたものである。また、大宇宙(梵)と小宇宙(我)の融合合一という考えは、その後の神秘主義思想にくりかえしあらわれる。たとえば、仏教でも密教の大日如来の観想による即身成仏には、同じ発想がみられる。(「梵我一如の思想」抜粋編集/<インド思想史略説>WS081025)
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「宇宙を支配する原理」を「大宇宙の外なる法則」、「私という一個人の中にある個体原理」を「己心の内なる法則」に置き換えれば、池田学会の妙法観宇宙観と同じではないか。
「宇宙にはブラフマン(梵)と呼ばれる宇宙全体を貫く根本原理があり、それは人間の本質であるアートマン(我)と等しく、ブラフマンとアートマンが一体となった境地が、最高の覚りである」
これは、「梵我一如」という古代インドの外道義ですが、以下の池田大作の発言は、この外道義に酷似しています。
「宇宙それ自体の"根源法"(中略)を仏が一幅の『曼荼羅』とされた。それに南無し帰命することによって、大宇宙の外なる法則と、己心の内なる法則が完全に合致し、さらに人生、生活が、正しきリズムにのっとったものになる」(『「仏法と宇宙」を語る』1-P53)
「本来、全宇宙が諸法実相であり、御本尊なのです。本来、我が生命も諸法実相であり、御本尊なのです。ゆえに御本尊を拝するとき、宇宙と我が生命がダイナミックに交流しつつ、自身の本来の『実相』すなわち南無妙法蓮華経の当体としての姿に輝いていくのです」(『聖教新聞』H7.8.2)
池田の言う"根源法"なるものは、形ばかりは曼荼羅や御本尊の語を使用しながら、その実体は「梵(宇宙の法則)」そのものであり、その「梵」と「我(己心の法則)」が「完全に合致」するとか、「宇宙と我が生命がダイナミックに交流」するなどと、宇宙と我との融合を説くことは、まさに「梵我一如」の外道義であり、日蓮正宗の教義とはかけ離れた邪義です。
『100問100答』の設問では、「学会の言う」云々と記述していますが、学会が「梵我一如」の邪義に染まり、その邪義を公言して憚(はばか)らないようになった根本原因は、池田大作の誤った教義解釈にあることは疑いありません。
(中略)
平成3年に破門された学会は、平成7年10月にSGI決議の中で打ち出した、
「仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して、人類の基本的問題について対話し、その解決のために協力していく」(『聖教新聞』H7.10.21)
との方針のもと、他宗教との融和、すなわち謗法与同を進めて会員を堕地獄の道へと誘っています。思想は外道義に染まり、行動も外道におもねる醜態をさらす創価学会に、宗祖日蓮大聖人の教えを語る資格はありません。(『大白法』H25.6.1)
・「法偏重の妙法観」がもたらしたもの/『慧妙』H25.7.1
大御本尊否定(軽視)破折
【「本門戒壇」を削除】
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◆一閻浮提(いちえんぶだい)総与・三大秘法の大御本尊を信受し・・・(学会会則=H14.4.1改訂)
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現在の創価学会会則では、従前の、「日蓮正宗総本山大石寺に安置せられている弘安2年10月12日の本門戒壇の大御本尊を根本とする」という文言を削り取って上記のごとく述べ、その本尊が具体的に何を指すのか、故意に抽象的な表現に変更している。
●久遠元初の法宝とは、即ち是れ本門の大本尊是れなり(第26世日寛上人著『当流行事抄』六巻抄197頁)
●南無法、(中略)南無本門戒壇の大本尊(第26世日寛上人著『当家三衣抄』六巻抄225頁)
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日蓮大聖人が弘安2年10月12日に建立された本門戒壇の大御本尊こそが末法適時の法であることを示されている。
【一機一縁の御本尊との関係】
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◆もはや、御本尊は全部同じです(池田大作・昭和52年1月本部幹部会)
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◆むずかしい問題です。がっかりすると悪いし、よほど信心のしっかりしている人であれば、きとんと分かってくれることなのですが、初信の人だと説明の仕方がへただと、ふと迷ってしまうのです。気が弱ります。 御本尊様には違いがあります。仏法の上で分身散体ということがあります。私なら私の心と同じ心にできているのを分身体というのです。奉安殿の大御本尊様、ここの客殿の御本尊様、私どもの頂いている常住御本尊様、あなた方が拝んでいる御形木御本尊様、それぞれ違うのです。違うのですが、こちらの信心の仕方で少しも違わない結果を出せるのです。(『戸田城聖全集』第2巻29頁)
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「こちらの信心の仕方で少しも違わない結果を出せる」とはいっても、大御本尊を根本とし、大御本尊を渇仰恋慕し、その心のままに登山参詣を心がける信心でなければならない。↓
◆御法主上人猊下をとおして大御本尊を拝しますれば、かならず功徳がでてくる(『戸田城聖全集』第4巻399頁)
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御法主上人を否定したのでは大御本尊を拝んでも功徳はない。まして仮本尊(御形木御本尊)においてをや、またまたニセ本尊においてをや、である。
◆なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない。こんなありがたい御本尊様を、わずかな御開扉供養で拝むことのできるのは、当本山であればこそであり、まことにもったいないことである。(『戸田城聖全集』第3巻490頁)
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◆ニセではない。日寛上人が一閻浮提(いちえんぶだい)総与の御本尊を書き写されたのだから、この御本尊は一閻浮提総与の御本尊だ。
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◆御本尊様は1つしかありませんが、無量義経に分身散体の法というのがあります。この分身散体の法というのは、日蓮正宗を除いて日本広しといえども絶対に説いておりません。分身散体の分け方により種々分けられますが、すべて一閻浮提の大御本尊に帰一するのです。(『戸田城聖全集』第2巻30頁~)
◆弘安2年10月12日の大御本尊は、一閻浮提総与の大御本尊であり、本門戒壇の大御本尊であります。(中略)特定の個人に授けられた御本尊を、一機一縁の御本尊と申し上げます。(中略)大海の水と小さな器の水とでは、同じ海水であっても違うように、本門戒壇の大御本尊は無量無辺の大海の水であり、末法万年の外未来までも流れる一切大衆の信仰の根源であり、功徳の本源であります。私達が家庭へいただいて一家で信心している御本尊とは、その意義が異なるのです。(『大白蓮華』第71号/『慧妙』H5.12.1)
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大御本尊は「大海の水」であるから功徳が枯渇することがない。それに対して「個人に授けられた御本尊」は「小さな器の水」である。だから、家庭にある御本尊を拝むだけではなく、常に末寺に参詣し聴聞したり、登山して大御本尊にお目通りする等、大御本尊と唯授一人の血脈を根本とした師弟相対の信心を実践することが大事なのである。そうすることによって、大御本尊からの血脈を維持することができ、家庭の御本尊の「小さな器の水」を絶やさないことができるのである。同じ御本尊であっても、行者が破門された途端に、所持の御本尊が"謗法の本尊"となるのは、このためである。
◆ただ、大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない。だから、仏立宗や身延のヤツラが書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから。力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている。だからコワイ。紙や木が仏にならんというのならば、御本尊様に力がないことになります。(戸田城聖『大白蓮華』S34.7/青年僧侶邪義破折班H17.6.7)
◆富士大石寺にそむく謗法のやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがない(創価学会作成『折伏教典』340頁/『大白法』H17.10.1)
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本尊自体はもともと有効であったものが、受者が謗法となり破門されたために、本尊としての意義を失う。その原理からすれば、たとえ血脈付法の日寛上人書写の御本尊といえども、破門された学会が所持したのでは「大聖人の御魂は住まわれるわけがない」。ましてや、勝手にコピーした"物"をや、である。
◆いまのところは、まずまず貧乏と病気です。これを、仏さまがおられてお救いにならないわけがない。われわれの貧乏と苦悩を救わんがために、日蓮大聖人様は大御本尊様を建立し、遺(のこ)されてある。
これは、弘安2年の10月12日の大御本尊様のただ1幅なのです。そこから、分身散体の方程式によりまして、ずうっと出てくるのです。それから、ほかの本尊、どこのを拝んでも絶対にだめなのです。弘安2年の10月12日の大御本尊様から出発したものでなければ、法脈が切れてますから、絶対だめなのです。
だから、身延や仏立宗や霊友会なんか、いくらがんばっても、御利益がでようがないのです。ありませんから、やってごらんなさい。7年もしたら、どんな顔になるか。いや、いままでやった人の顔をみてごらんなさい。
ですから、私の願いとするところは、この弘安2年の10月12日の大御本尊様を信ずるということです。しかし、理論がわかっても、わからなくてもいい。だんだん、そのうちにわかる。絶対だということがわかる。この日蓮正宗の哲学ぐらい、きちんとなっているものはないのです。(S30.8.24 札幌市商工会議所『戸田城聖全集』第4巻343頁~)
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「身延や仏立宗や霊友会なんか、いくらがんばっても、御利益がでようがない」とあることから、身延が所持している大聖人の真筆本尊であっても「弘安2年の10月12日の大御本尊様から出発したもの」とはいえず「法脈が切れてますから、絶対だめ」ということが分かる。大聖人の真筆本尊であっても功徳がないのであるから、歴代上人の常住御本尊を勝手にコピーしたものに功徳があるはずがない。
◆日蓮正宗の根幹をなすものは血脈である。大御本尊を根本とし、代々の御法主上人が、唯授一人でこれを受け継ぎ、令法久住をされてこられた。御本尊を御認めあそばすのは、御法主上人御一人であられる(中略)いくら広宣流布といっても、御本尊の御認めがなければできない。われわれは、あくまでも総本山根本、御法主上人厳護の信心で進んでまいりたい。(池田大作『広布と人生を語る』第3巻256頁/青年僧侶邪義破折班H17.6.7)
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分身散体の意義に照らして、弘安2年の大御本尊を書写した御本尊を正しい信心で受持することは、そのまま大御本尊の受持になります(中略)したがって、各家庭安置の本尊を拝することが、そのまま大御本尊を信受することになります(斉藤教学部長『聖教新聞』H14.3.30/『「会則」改変の欺瞞を糾す』)
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ここで斉藤は、本門戒壇の大御本尊を覆い隠し、各家庭安置の本尊でこと足れりとする邪義を説明するために「分身散体の意義」を引き合いに出している。
そもそも仏教では、仏がその姿を十方仏土に影現することを「分身散影」と説くが、これはあくまでも広大無辺なる仏の御境界より、他土にあって仏を渇仰恋慕する衆生に応ずる大慈悲の御化導である。
「分身散影」と同義に用いられる「分身散体」も仏の御化導であることはいうまでもないが、だからといって、他土にあって分身の仏を礼拝する衆生が「本身の仏より分身の仏がありがたい」とか、「分身の仏をあがめれば本身の仏を礼拝する必要はない」などというならば、仏の御真意に背く行為であることは明らかであろう。
中心の法体である大石寺御安置の本門戒壇の大御本尊に参詣することを拒否しながら、「分身散体の意義に照らして」各家庭の本尊を拝すればそれで良しとする斉藤ら学会の主張は、あたかも天月から目を背けて、ひたすら池月に執着する類であり、本末転倒・不知恩の愚論というほかはない。
まして本門戒壇の大御本尊と無縁の「ニセ本尊」を拝んでいる学会員に「分身散影」の利益などあるわけがないのである。(『「会則」改変の欺瞞を糾す』)
◆日蓮正宗総本山大石寺におわします本門戒壇の大御本尊が、いっさいの根本である。我々の拝受したてまつる御本尊は、血脈付法の代々の御法主上人のみが、分身散体の法理からおしたためくださるのである。(池田大作『広布と人生を語る』第1巻112頁/青年僧侶邪義破折班H17.6.7)
【大御本尊は消滅する「物体」?】
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◆曼荼羅それ自体は、
物体という側面からいえば永遠不滅ではありえない(『聖教新聞』H5.5.5/『創価学会の新理論とその本質』)
◆やっぱり、
曼荼羅はいつかなくなっちゃう。物体だから(池田大作・H5.5.3録音テープ/『慧妙』H16.7.16)
◆本門戒壇・板御本尊、何だ!寛尊は「信心の中にしか本尊はない」と。
ただの物です!(池田大作・H5.9.7録音テープ/『慧妙』H16.7.16)
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会員から本門戒壇の大御本尊への渇仰心と、総本山への思慕の念を失わせるために、大御本尊は単なる物体であり、いずれ消滅するものであると言って宗祖の御当体たる大御本尊を侮蔑している。(<「大御本尊はただのモノ」!?>参照)
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◆その折、私(識者)は、「究極に求められるものは何でしょうか」と(池田に)質問しました。おそらく「板曼荼羅(いたまんだら)の御本尊」と答えられると思っておりましたが、しかし、名誉会長は「久遠元初の法です」と答えられたのです。(中略)このことから、名誉会長が、永遠の根源を求めておられ、板曼荼羅に偏狭(へんきょう)にこだわっておられないことに、非常に感動し、創価学会の普遍性と、発展の因を見た想いでした(「識者の声」として池田が紹介・H5.5.3/『慧妙』H16.7.16
◆御本仏・日蓮大聖人の御生命は宇宙大であられる。小さな寺院や本山にしか大聖人の御生命はないなどというのは、御本仏への冒涜であろう(『聖教新聞』H5.10.24)
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永遠の根源は「板曼荼羅(日蓮大聖人の建立された御真筆御本尊のうちで、板に彫刻されたのは本門戒壇の大御本尊のみ)」ではなく「久遠元初の法」である、としています。うかつに聞くと、通り過ごしてしまうかもしれませんが、これは大きな誤りです(【御本尊から離れた「法」】参照)。
●文字は是(これ)一切衆生の心法の顕はれたる質(すがた)なり。されば人のかける物を以て其の人の心根を知って相(そう)する事あり。(中略)然れば文字は是一切衆生の色心不二の質なり(『諸宗問答抄』御書P36,全集P380)
●口決に云はく「草にも木にも成る仏なり」云云。此の意は、草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり。(中略)一念三千の法門をふ(振)りすゝ(濯)ぎたてたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり(『草木成仏口決』御書P522,全集P1339)
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等、要するに、御本尊は単なる物質(色法)ではなく、仏の御悟り(心法)を目に見える形に顕わした、色心不二の仏の当体であり、板であろうが、紙幅であろうが、そこに仏の御悟りが文字をもって認(したた)められれば、尊厳な仏の当体と顕われることを御教示くださっている。
しかるを、御本尊を"単なる物質"としか見られず、御本尊以外に"永遠の法"を求める、というような輩(やから)は、法華経の一念三千の法理を弁えない「習ひそこないの学者」といわざるをえない。
その誤りは、すでに第65世日淳上人が、
●彼等はまた、"日蓮正宗では御本尊の板や紙に執(とら)われているから唯物思想だ"といっておるが、事ここに至っては、開いた口がふさがらない。彼等には、草木成仏・非情成仏等、仏法の重大法門は少しも解(わか)っていない。それでは法華を学んだとは、とうてい、いえないことである(『日淳上人全集』P1411)
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と、明確に指摘されているとおりである。
また、"御本尊も物質である以上、いつかは無くなってしまう"という点については、一見、紙や板からなる色法の側面を見れば、そのように思えるかもしれない。
だが、御本尊とは、
●日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ(『経王殿御返事』御書P685,全集P1124)
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と仰(おお)せられるように、「日蓮が魂」すなわち日蓮大聖人の御悟りを、文字をもって顕わされたものであるから、たとえ長い年月の中で色法としての御体が朽(く)ちていったとしても、「日蓮が魂」がましますかぎりは、永遠に地上に住されることになる。
そして、そのための備えとして、
●仏宝・法宝は必ず僧によて住す(『四恩抄』御書P268,全集P938)
●日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す(中略)血脈の次第 日蓮日興(『日蓮一期弘法付嘱書』御書P1675,全集P1600)
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等と御示しのごとく、日蓮大聖人は御自身の悟り(仏の心法)の全てを、血脈相承によって、第2祖日興上人以下、御歴代上人方へ付嘱され、御本尊の書写をはじめ一切の権能を委(ゆだ)ねられたのである。
されば、"いつかは無くなってしまう"などという心配は、まったく無用というべきであろう。(『慧妙』H24.9.16)
◆かりに御本尊も、一見すればたしかに物体であり、なくなる場合もあるようにみえるが、代々の御法主上人が、かならず御本尊の御図顕をなさってくださる。絶対の法が残されるのである(池田大作『広布と人生を語る』4-P216)
◆御本尊様は日蓮大聖人の生身と拝することです。その信心でなければなりません。(中略)御本尊を"物"と扱うようになった場合は罰をうけます。学会精神に反します。信心ではありません。(池田『大白蓮華』S39.8P62/『慧妙』H26.3.1)
●仏世(ぶっせ)すら猶(なお)人を以て法を顕はす(『持妙法華問答抄』御書P298,全集P465)
●法自(おの)づから弘まらず、人、法を弘むるが故に人法ともに尊し(『百六箇抄』御書P1687,全集P856)
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久遠元初の法といっても、それを覚知して説き出される御方(むろん御本仏日蓮大聖人)なくしては、誰1人として、その相貌(そうみょう)を見ることも、その尊さを知ることもできないのであり、それを大聖人が、我々末法衆生に感見のできる当体として顕(あら)わしてくださったのが本門戒壇の大御本尊(他の曼荼羅御本尊はそのお写しです。
したがって、本門戒壇の大御本尊を離れて、「久遠元初の法」を論じても、それは有名無実の観念的妄想であり、大聖人の悟られた法とはまったく異なる麁法(そほう)となってしまうのです。(『慧妙』H16.7.16)
されば、大聖人が覚知遊ばされた久遠元初の法は、大聖人が文字をもって顕わされた漫荼羅御本尊として、我々凡夫にも観見ができるのであり、そこを離れて他に求めることはできえない。いかに"自分は眼に見える御本尊より、久遠元初の永遠の法を信じている"つもりでいても、所詮、それは、真の久遠元初の法体に背(そむ)く、堕地獄・謗法の信仰である、と知るべきであろう。
さらには、これらの意義をまったく無視して、ネット上で無責任な戯言を列(つら)ねる妄弁者には、早く自らの浅識を改め、一刻も早く、大御本尊への冒涜(ぼうとく)行為を反省懺悔(さんげ)すべきことを忠告しておく。(『慧妙』H24.9.16)
【登山】
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>家で御本尊を拝んでいるから、それでいいんだ。そちらの海外信徒だって、一生のうちにお目通りせずに亡くなってしまう人もいるじゃないか。
>心の中で大御本尊を思っているからいいんだ!
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海外の方々は、お目通りしたくても簡単にはできない状況にあるだけで、行かなくてもいいとか、行きたくないと言っているわけではないのです。
本当に心の中で大御本尊様を求めているのなら、なんとしてもお目通りしたいと願うし、その行動に出るはずです。それがお目通りしなくてもいいというのだから、本当は心でも思っていないということです。仏法は身口意の三業で行なうものです。実際に大御本尊様を拝さないということは、あなたの身はまったく功徳が積めない、ということになりますね。(『慧妙』H17.5.1)
●金口相承と申して一器の水を一器に瀉すが如く三大秘法を付嘱なされて大石寺にのみ止まれり。(中略)既に本門の戒壇の御本尊存する上は其の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則(ときん)ば本門の題目なり。志有らん人は登山して拝したまへ(第26世日寛上人著『富士宗学要集』第10巻131頁)
◆御登山の場合は最高の敬意を忘れず、1週間前に宿坊に申出(もうしい)で、なるべく認可を受けた上登山するものとする。(『牧口常三郎全集』第10巻228頁)
◆なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない。こんなありがたい御本尊様を、わずかな御開扉供養で拝むことのできるのは、当本山であればこそであり、まことにもったいないことである。(『戸田城聖全集』第3巻490頁)
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「登山不要」を唱える今の学会は「本物の信心」ではないということだ(笑)
◆富士大石寺の大御本尊を拝まない者はすべて謗法である(『折伏経典』314頁/『創価学会のいうことはこんなに間違っている』240頁)
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あれこれ屁理屈を並べて登山しない(できない)池田学会は、「大御本尊を拝まない者」であるから「すべて謗法」です。
◆登山会は、日蓮大聖人様のまします霊鷲山への参詣であり、さらに日興上人・日目上人等、三世諸仏の住処であり、われらが真如の都である、久遠元初の故郷へ還(かえ)ることなのである。 このように、学会の登山会は、極めてその意義が深いのであるから、軽々しく考えてはならない。(池田大作『大白蓮華』「巻頭言」S38.10)
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「軽々しく考えてはならない」どころか、積極的に登山を否定しているのが今の学会。この自語相違、変節こそ邪教化の動かぬ証拠!
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どこか特定の場所に参拝しなければ成仏できないという日顕宗のような誤った考えは大聖人の御本意ではありません。御書に、「法華経を持ち奉る処を当詣道場と云ふなり。此を去って彼へ行くには非ざるなり」「我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ、常寂光土の都たるべし」と仰せのとおりです(斉藤教学部長『聖教新聞』H14.3.30/『「会則」改変の欺瞞を糾す』)
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初めに、斉藤がいう「日顕宗」なる宗派は、日本はおろか世界中を探してもまったく存在しない架空のものであると言っておく。
また本宗において誰一人として「特定の場所に参拝しなければ成仏できない」などと言った者はいない。
このようなデタラメな作り話を創価学会の教学部長たる者が、公衆の面前で得々と発言する一事を見ても、学会がいかに欺瞞に満ちた捏造集団であるかがわかるというものである。
ここで斉藤は、総本山大石寺への参詣をする必要もなく、大御本尊へのお目通りをする必要もない旨の迷妄の論を披歴するために2つの御書を引用しているので、この点について破折を加えておく。(『「会則」改変の欺瞞を糾す』)
1.『御義口伝』の曲解
まず、
「法華経を持ち奉る処を当詣道場と云ふなり。此を去って彼へ行くには非ざるなり」(『御義口伝』新編1794、全集781頁)
との御文であるが、これは『御義口伝』の普賢品の経文を釈された御教示である。
この御文について、次下の、
「道場とは十界の衆生の住処を云ふなり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり。此を道場と云ふなり」(同)
との御文に照らして拝するならば、〝当詣道場とは、法華経を受持する衆生の住処がそのまま寂光土であり、当詣といっても此土を去って他土に赴くことではない″との意味である。
末法における当詣道場とは、法華経本門文底下種の妙法、すなわち総本山大石寺にまします本門戒壇の大御本尊を受持する者の住処であり、その所こそ常寂光土である。
創価学会員のごとく本門戒壇の大御本尊への参詣を拒絶する者には、「当詣道場」「常寂光土」はあり得ないのである。
結局、斉藤が大石寺参詣を妨害するために引用した『御義口伝』の御文は、末法の御本仏宗祖大聖人の御当体たる戒壇の大御本尊への受持信行を勧奨する御教示であり、斉藤は『御義口伝』の尊い御教示を故意に曲解し、卑劣な切り文をもって虚言を吐いているのである。(『「会則」改変の欺瞞を糾す』)
2.『最蓮房御返事』の曲解
次の
「我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ、常寂光の都たるべし」(御書588、全集1343頁)
の御文は、〝我々が法華経を修行するところはいずれの所も常寂光土である″と教示された『最蓮房御返事』の一節である。
この御文をもって斉藤は「特定の場所」である総本山大石寺に参詣しなくても学会員には功徳があるというのである。
しかし、この御文の前段には、
「我等は流人なれども身心共にうれしく候なり。大事の法門をば昼夜に沙汰し、成仏の理をば時々刻々にあぢはう」(同)
とあり、前後を併せて拝するに〝法華経を色読した法華経の行者が修行する所は、たとえ佐渡の地であっても常寂光土なり″との御教示であることは明らかである。
ここに「我等」と仰せられているのは、最蓮房への慰撫与同の御配慮であり、「一乗を修行」される法華経の行者とは勧持品に予証された日蓮大聖人をおいてほかになく、法華経の故に「流人」の身となられたのは日蓮大聖人であり、流罪の身で「身心共にうれしく候」とは日蓮大聖人の自受法楽の御境界である。
したがって、この『最蓮房御返事』の御文は法華経の行者日蓮大聖人の居住される処すべてが常寂光土であるとの御教示である。
ところが、学会ではこの「一乗を修行」する「我等」が創価学会員なのだという。
いかに不信・浅識の族とはいえ、厚顔無恥にも程がある。
末法の衆生の住処が直ちに常寂光土となる道は、「一乗の修行」すなわち末法の御本仏日蓮大聖人を信じ、本因下種の妙法を受持することである。この御本仏日蓮大聖人の教義とその法体たる本門戒壇の大御本尊は富士大石寺に厳然と伝えられ、その大御本尊への信仰なくして、末法における「成仏の理」を顕現することは叶わないのである。
したがって『最蓮房御返事』の御文をもって、総本山大石寺を「特定の場所」と蔑み、大御本尊への参詣を否定する創価学会斉藤教学部長の信心と頭脳は完全に破綻しているというほかはない。(『「会則」改変の欺瞞を糾す』)
【大聖人の御指南】
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◆大聖人は戒壇の大御本尊だけにこだわるようなことは御書で言われていない。
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<門下にも秘された>
本来、広布の暁(あかつき)まで秘蔵されるべき大御本尊を、御書の面(おもて)に顕わに述べられるはずがないのであるが、とにかく、この学会男子部は、御書に載(の)っていないことは、すべて認めない、と言い張る。
ならば、宗祖本仏義も、種脱相対判も、そのものズバリは御書の面に明らかでない(これらの深義は相伝によって伝わった)から、これらも全て認めない、というつもりなのか。後生のことを思うと、本当に可愛そうである。(『慧妙』H16.2.1)
大聖人の時代は宗門草創期であり、宗旨建立時は題目の流布が中心であられた。曼荼羅御本尊は佐渡以降にあらわされたが、信心強盛な一部の方にしか下付されていない。多くの信徒は法華経に執着し、末法においても釈尊を尊崇すべきだと思い、釈尊像を拝む者も多かった。このような時期に曼荼羅御本尊、就中大御本尊が出世の本懐であるなどという指南ができようはずもない。
●予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付て留め置ずんば門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加う可し、其の後は何と悔ゆとも叶うまじきと存ずる間貴辺に対し書き送り候、一見の後・秘して他見有る可からず口外も詮無し、法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり、秘す可し秘す可し。(『三大秘法禀承事』全集1023頁)
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当抄は三大秘法の内容について御指南されている。すなわち、釈尊が上行菩薩に別付嘱された秘法が「寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」(同書)と仰せである。また、広布達成時に建立すべき戒壇について言及(場所および意義)されている。現在の我々からみれば当然の御指南であるが、それでも「一見の後・秘して他見有る可からず口外も詮無し」とまで仰せになっている。このような状況下、三大秘法総在の、しかも広布達成時の戒壇に安置されるべき大御本尊について言及することが、如何に困難であったかが容易に分かろう。
<大聖人の御当体=末法弘通の法体=罪障消滅のため参詣すべき対象>
1●戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。(『御義口伝』全集760頁)
2●三大秘法其の体如何、答て云く予が己心の大事之に如かず汝が志無二なれば少し之を云わん寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり(中略)戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋(ふみ)給うべき戒壇なり(『三大秘法禀承事』全集1022頁)
3●我が身法華経の行者ならば霊山の教主・釈迦・宝浄世界の多宝如来・十方分身の諸仏・本化の大士・迹化の大菩薩・梵・釈・竜神・十羅刹女も定めて此の砌におはしますらん、水あれば魚すむ林あれば鳥来る蓬莱山には玉多く摩黎山には栴檀生ず麗水の山には金あり、今此の所も此くの如し仏菩薩の住み給う功徳聚の砌なり、多くの月日を送り読誦し奉る所の法華経の功徳は虚空にも余りぬべし、然るを毎年度度の御参詣には無始の罪障も定めて今生一生に消滅すべきか、弥はげむべし・はげむべし。(弘安3年10月8日『四条金吾殿御返事』全集1194頁)
4●其の上此の処は人倫を離れたる山中なり、東西南北を去りて里もなし、かかる・いと心細き幽窟なれども教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し・日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり、されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり、舌の上は転法輪の所・喉は誕生の処・口中は正覚の砌なるべし、かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば・いかでか霊山浄土に劣るべき、法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊しと申すは是なり(中略)彼の月氏の霊鷲山は本朝此の身延の嶺なり、参詣遥かに中絶せり急急に来臨を企つべし、是にて待ち入つて候べし、哀哀申しつくしがたき御志かな・御志かな。(弘安4年9月11日『南条殿御返事』全集1578頁)
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「毎年度度の御参詣には無始の罪障も定めて今生一生に消滅すべきか」(3●)と大聖人が登山を強く勧められているのは、「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し」(4●)の理による。法とは「寿量品の事の三大秘法」(1●)であり「其の体」(2●)は「寿量品に建立する所の本尊」(2●)即「法華経の行者の一身の当体」(1●)である。
すなわち大聖人即本尊であるが故に、その場所に参詣することによって(説法を聞くためではない)無始以来の罪障が消滅する大功徳があるのである。
<大聖人の当体たる本尊安置の場所が本門事の戒壇>
大聖人即本尊所住の地が「霊山の教主・釈迦・宝浄世界の多宝如来・十方分身の諸仏・本化の大士・迹化の大菩薩・梵・釈・竜神・十羅刹女も定めて此の砌におはしますらん」(3●)と仰せになっている。
一方「事の戒法」たる本門事の戒壇についても、大聖人所住の地同様「懺悔滅罪」(2●)「大梵天王・帝釈等も来下して蹋(ふみ)給う」(同)と仰せである。このことから、広布達成時に建立される戒壇には大聖人の当体たる御本尊が安置されることが分かるのである。
<本門寺の戒壇には弘安2年の大御本尊を安置>
「毎年度度の御参詣には無始の罪障も定めて今生一生に消滅すべきか」(3●)との御手紙を頂いた四条金吾は、このとき既に曼荼羅本尊を頂戴していた。それでも大聖人は金吾殿に「我が身法華経の行者ならば霊山の教主・釈迦・宝浄世界の多宝如来・十方分身の諸仏・本化の大士・迹化の大菩薩・梵・釈・竜神・十羅刹女も定めて此の砌におはしますらん」との御指南をされ、身延への参詣を奨励されている。このことから、「大梵天王・帝釈等も来下」(2●)し弟子檀那が「懺悔滅罪」(同)のために参詣すべき「戒壇」(同)に安置される本尊は一機一縁の御本尊とは別格であることが分る。とすれば大聖人御親筆本尊中唯一「本門戒壇」の文字があり、「此の法門申しはじめて今に二十七年」(5●)に「出世の本懐を遂げ給う」(同)と仰せになった弘安2年10月書写の本尊こそ、真実の法即人・人即法、御本仏日蓮大聖人の御当体たる御本尊ということになる。
5●清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年〔太歳己卯〕なり、仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり。(『聖人御難事』全集1189頁)
6●日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり。(『身延相承書』全集1600頁)
7●日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。(第2祖日興上人『日興跡条々事』御書1883頁・真蹟大石寺)
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広布達成時の「戒壇」(2●)は「本門寺」(6●)内に建立される。この「本門寺」「戒壇」「に懸け奉る」(7●)本尊こそ「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊」(同)なのである。
「三大秘法其の体如何(中略)寿量品に建立する所の本尊」(2●)
「本尊とは法華経の行者の一身の当体」(1●)
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末法弘通の法体は曼荼羅本尊即日蓮大聖人
「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊しと申すは是なり(中略)彼の月氏の霊鷲山は本朝此の身延の嶺なり、参詣遥かに中絶せり急急に来臨を企つべし」(4●)
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人法一箇の御本尊に参詣することによって罪障消滅
「戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋(ふみ)給うべき戒壇なり」(2●)
「本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり」(6●)
「弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。」(7●)
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参詣すべき御本尊は弘安2年の大御本尊のみ
大聖人が「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり」(2●『三大秘法禀承事』)と仰せになった以上、「戒壇」に安置すべき本尊がなくてはならない。本尊とは勿論「寿量品に建立する所の本尊」(同書)である。
「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて」(同書)と仰せのように、一切衆生が参詣すべき場所は地球上に1ヵ所のみである。
「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊しと申すは是なり(中略)彼の月氏の霊鷲山は本朝此の身延の嶺なり、参詣遥かに中絶せり急急に来臨を企つべし」(4●『南条殿御返事』)と仰せのように参詣すべき場所には法体がなくてはならない。法体=曼荼羅本尊は数多(あまた)存在するが一切衆生が参詣すべき唯一の戒壇に安置されるべき法体は、自余の本尊とは別格であるはずである。
以上のように、曼荼羅本尊は数多存在するのに対し、一切衆生が懺悔滅罪のために参詣すべき本門寺の戒壇は1つしかない。だから、この戒壇に安置すべき特別の御本尊に関する御指南が必ずあるはずである。しかして、これについての御指南は、ただただ大聖人付法の弟子・日興上人の門流にのみ存在するのである。
<罪障消滅のために参詣する場所と対象>
時期 | 参詣場所 | 拝む対象 | 文証 |
御在世 | 久遠寺または大聖人居住の処 | 大聖人または大御本尊 | ・我が身法華経の行者ならば(中略)毎年度度の御参詣には無始の罪障も定めて今生一生に消滅すべきか(『四条金吾殿御返事』) ・本尊とは法華経の行者の一身の当体なり(『御義口伝』) |
滅後 | 大石寺 | 大御本尊 | ・本門の戒壇の御本尊存する上は其の住処は即戒壇なり。(中略)志有らん人は登山して拝したまへ(第26世日寛上人著『寿量品談義』) |
広布達成時 | 本門寺本堂 | 大御本尊 | ・一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋(ふみ)給うべき戒壇なり(『三大秘法禀承事』)
・国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり(『身延相承書』)
・弘安二年の大御本尊は(中略)本門寺に懸け奉るべし(第2祖日興上人『日興跡条々事』真蹟大石寺) |
コピー本尊はニセ本尊
【ニセ札の譬え】
―ニセ本尊ならぬニセ札について―
仮に、国立印刷局に無断で、国立印刷局の機械を使って紙幣を作り、これを市中に流通させたらどうか。紙幣自体は本物とまったく同じであるが、当局の許可を得ていない以上、回収されるべきであり、勝手に作成した者は罪に問われる。また、貨幣価値は低下し、市場経済は大きく混乱し、不幸な結果となる。
あるいはまた、戦争や自然災害等、止むを得えない理由により、一時的に質の悪い紙幣を国立印刷局が発行したらどうか。この場合は、それまでの紙幣と外見上まったく異なるけれども、真正の紙幣に相違ない。
正当な責任者の允可の有無が、偽物と本物を区別する判断基準となる例である。学会のコピー本尊は、本物の日寛上人書写の常住御本尊とソックリだが、日寛上人は勿論、同上人が一切を付嘱された(つまり本尊の権能の一切を譲られた)後代の上人、就中、御当代上人に無断で作成されたものだから、本物ソックリのニセ札と同様である。
【"御書根本"の学会の矛盾】
大聖人御在世の弟子檀那において、大聖人書写の御本尊を模写したり形木にした例はない。すなわち御形木本尊は、唯授一人の口伝に基づいて時の宜しきに従って、時の御法主が作成されたのである。"御書根本"を吹聴し、さらに宗門を邪教呼ばわりする学会が、御書にも文証のない御形木本尊を作成し頒布するというのは如何なものか。都合のよいところは宗門を真似して、都合の悪いところは"御書根本"といって宗門を批判する。あまりにも無節操ではないか。
●御筆の本尊を以て形木に彫(きざ)み不信の輩に授与して軽賤する由・諸方に其の聞え有り所謂日向・日頂・日春等なり。(『富士一跡門徒存知の事』全集1606頁)
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聖筆の御曼荼羅本尊を模刻して、刷帋(さっし)として頒布せしこといまは他門には一般なるも、相応に古代のものもあるべく、御開山当時五老のなかでは真間の日頂・藻原および身延の日向とあるが、現代には存在せぬようである。(中略)かくのごときいささかのことに御開山の誤聞はなかろうが、いずれ本尊の奉持の麁浪(そろう)軽賤の末である。
本尊書写は、筆の巧拙にのみよるものでなく、一心浄念に身心一如になさるべきで、その願主の熾烈な信仰に酬(むく)いらるるもので、御開山の御用意はもちろんのことであるが、中興日有上人はもとより、代々の写主が本尊に脇書する人名の即身成仏を示すものとなされておる。しかるを、印刷にて間に合わすとは本尊軽賤の至りであるが、時の情勢のいかんにより、または願主の信仰未決の時の暫定の仮本尊ならばしばらく許すべきもあろうが、宗建を去ること遠からざる御開山御存命時代ではいずれの方面にあっても印刷の本尊の扱いは軽賤の罪におちいる。これが、富士開山の制規であるから古代にありては、上行院日尊(いまの要法寺)が特別の意趣で、わずかに一体奉刻したもので、一般の軽賤罪とは別異のものであり、まったく他門とは制を厳格にしていたのに、妙本寺日濃の入質したる万年救護の御本尊等を取りもどすべき手段にこれを形木に頒布していたことが、そもそもやむを得ぬといいながら過謬の始めである。(第59世日亨上人著『富士日興上人詳伝』227頁~)
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大聖人御在世だけでなく「御開山御存命時代」においても、「印刷の本尊の扱いは軽賤の罪におちいる」というのが「富士開山の規制」であった。池田学会は唯授一人の血脈を否定し、大聖人・日興上人以外は「南無」の対象としていないようであるが、そのお二人にも背いている。
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●日蓮がたましひを・すみにそめながして・かきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし(『経王殿御返事』)
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開眼しなくとも、御本尊には既に「たましひ」が具わっている。
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ただ単に御本尊と同じ文字を書き列ねただけでは御本尊ではない。開眼されて初めて御本尊となるのである。開眼によって御文字に魂が入ることを、このように表現されたのである。
ところで、学会はかつて紙幅の御本尊を無断で板に模刻したことがある。この板御本尊は、御文字が彫られているので、当然「すみ」で認められたものではない。この場合、学会の見解では開眼は必要なのかしら?また、「すみ」に「たましひ」が入っているとしても、それは大聖人や御法主上人が直接御筆をとられた直筆御本尊の場合であろう。学会のニセ本尊のような御形木だと常住御本尊の「すみ」ではなく印刷用のインクだから、「たましひ」は入っていないのではないか?(笑)
【「体相」にこだわる学会の浅見】
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それはまた、曼荼羅本尊の体相や筆法について教義的に理解できる法主の必要性が完全に消失したことをも意味していよう。もとより曼荼羅本尊の体相は、その教義解説の有無に関わらず、万人の眼に映じている。あえて言えば、本尊書写の際に宗開両祖や先師の本尊の体相を模写し、門流僧俗はその模写本尊を宗門独自の三大秘法観に基づきつつ信仰する、というあり方でも信仰上は十分に事足りるのである。そこに加えて、現代では本尊書写それ自体が実質的に不要化し、唯授一人の本尊相承書とされてきた「御本尊七箇相承」等も出版公開されている。ゆえに今日、曼荼羅本尊の体相や筆法に関する教義を唯授一人で相承することの信仰上の意義は完全に消失した、と言わざるを得ないのである。(脱落僧・松岡某)
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この悪書の論は、御本尊を、単に理論・体相・筆法等のみから皮相的に判断する浅識謗法であるのみならず、日蓮正宗の正しい御本尊義に背く、破仏法・三宝破壊の究極の邪義といわねばならない。
ここで松岡は、「曼荼羅本尊の体相や筆法について教義的に理解できる法主の必要性が完全に消失した」との言を弄しているが、これはまったくの妄論である。なぜならば御本尊は、前にも述べた如く「教義的理解」によって認められるのではない。御法主上人は、あくまで法体の血脈相承によって御本尊の御内証を相伝されておられるのであり、そのうえから御本尊を御書写なさるのである。「教義的に理解できる法主の必要性が完全に消失した」などと言うのは、御法主上人による御本尊御書写の甚深の意義を否定せんとする悪質な邪義である。
また悪書では、「もとより曼荼羅本尊の体相は、その教義解説の有無に関わらず、万人の眼に映じている」と述べている。御本尊を、単なる文字として見るならば、たしかに「万人の眼に映じて」いよう。
たとえ"ニセ本尊"であっても、見るだけなら「曼荼羅本尊の体相」は同じように見える。しかし、御本尊は単なる文字ではなく、その御内証は「日蓮が魂を墨に染め流して」と御指南の如く、仏様の御当体である。ただ単に「映じて」いればよいのではなく、日蓮正宗の御法主上人により、御書写御開眼された御本尊には、日蓮大聖人の御法魂が在すことこそ根本として大切であり、またそこに信を置くことが成仏の要諦なのである。
さらに悪書では、「あえて言えば、本尊書写の際に宗開両祖や先師の本尊の体相を模写し」と述べるが、この「体相を模写」とは、いったい誰が「模写」するのだ。御本尊とは、単に姿形が本尊に見えればよい、というものではない。(日蓮正宗青年僧侶邪義破折班H17.6.7)
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現代では本尊書写それ自体が実質的に不要化し、唯授一人の本尊相承書とされてきた「御本尊七箇相承」等も出版公開されている。
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これらの文献はそもそも金口嫡々唯授一人の相承ではない。文献として出版公開されたものと、公開すべからざる奧義の相伝とは、そこに確たる立て分けが存するのである。その奥義の御相伝が厳然と存在することは明らかなのであり『本因妙抄』の、
「此の血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし」(『本因妙抄』御書1684、全集877頁)
との御指南にも、仏法伝持の重大な意義が拝せられるのである。(日蓮正宗青年僧侶邪義破折班H17.6.7)
●書は言を尽さず言は心を尽さず事事見参の時を期せん(『太田入道殿御返事』全集1012頁)
●此の経は相伝に有らざれば知り難し(『一代聖教大意』全集398頁)
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本尊書写に関する相伝は『御本尊七箇相承』だけではない。しかし、その『御本尊七箇相承』についても相伝のない学会は、誤った解釈をしている(<「本尊誤写事件」破折><『御本尊七箇相承』に対する学会員の愚難を破す>参照)。結局、文証を直接拝しても、不相伝の輩には正しい理解ができないということか。
<内証書写>
●日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ(『経王殿御返事』全集1124頁)
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御本尊とは大聖人の魂=内証を表したものです。単に文字や、その配置を真似ただけで仏の内証が現れるものではありません。書写する方を歴代上人に限定されたのは、血脈相承によって、大聖人の御内証が伝持されているからです。↓
●日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり(第2祖日興上人『御本尊七箇相承』/『富士宗学要集』1巻32頁)
●当宗において歴代の法主が、かたじけなくも御本尊を書写申し上げるということは、まことに重々の大事が存するのでありますが、特に、本門戒壇の大御本尊の御内証を拝してお写し申し上げ奉るというところに、甚深の意義が存するのであります。(第67世日顕上人『大日蓮』S57.8)
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御歴代上人は本門戒壇の大御本尊の御色法である御相貌の書写だけではなく、大御本尊の御内証、即ち御本仏日蓮大聖人の御心法をも御書写遊ばされるのである。要するに、御歴代上人は、本門戒壇の大御本尊即日蓮大聖人の色心不二の不思議の御当体を拝され、御書写遊ばされるのであって、それは、日蓮大聖人の御内証を唯授一人血脈相承された御法主上人のみが御所持される権能である。けっして松岡の言うような三大秘法義の理論や筆法・体相の皮相的な相貌書写などではない。(日蓮正宗青年僧侶邪義破折班H17.6.7)
<語句と配置について>
・大聖人書写の御本尊でも、御本尊によって語句や配置が異なる。
・例えば身延の僧が、語句と配置を真似て書写しても本尊とはならない。
↓
語句や配置が同じであることは本尊書写の必要条件でも十分条件でもない。本尊書写は内証の書写であって「体相を模写」することではないのである
<筆跡について>
大聖人書写の御本尊と日興上人書写の御本尊とでは、まったく筆跡が異なる
・例えば身延の僧が、筆跡を真似て書写しても本尊とはならない。
↓
筆跡が同じであることは本尊書写の必要条件でも十分条件でもない。本尊書写は内証の書写であって「体相を模写」することではないのである
<書写する方>
●日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり(第2祖日興上人『御本尊七箇相承』/『富士宗学要集』1巻32頁)
●明星直見の本尊の事如何、(中略)釈迦古僧に値ひ奉つて塔中に直授せるなり貴し貴しと讃め被れたり、(中略)仍つて本尊書写の事・一向日興之を書写し奉る可き事勿論なるのみ。(第2祖日興上人『御本尊七箇相承』/『富士宗学要集』第1巻32頁)
●付弟一人之を書写し奉るべきの由、日興上人御遺誡なり(日尊=日目上人の弟子『日蓮宗宗学全書』2-418)
・例えば身延の僧が、大聖人の御本尊を模写しても本尊とはならない。
↓
語句と配置が同じで筆跡が似ていることは本尊書写の必要条件でも十分条件でもない。
・語句の配置や筆跡が同じであればよいのなら、書写する方を血脈付法の方に限定する必要はない。本尊書写は内証書写であるからこそ、内証伝持(「代々の聖人悉く日蓮なり」)の方しか書写できないのである。「本尊書写の事・一向日興之を書写し奉る可き」ここでいう「書写」とは内証書写であり、認(したた)められた本尊の允可・開眼など、大御本尊の分身散体の意義を発現する権能全体を指すものと考えられる。
・御形木御本尊の場合は、当然、「書写する方」(血脈付法の方)による御本尊と同じ「体相」である。しかし、本尊書写は内証の書写であって「体相を模写」することではないのだから、「書写する方」以外の者が勝手に写して形木にしても、内証書写の意義は生まれない。
・御本尊を顕すには法主による書写、開眼が必要です。御形木本尊の場合は、御法主書写の御本尊を写しているから「書写」(一般的意味で)の意義は具わるとも言えそうです。しかし、「開眼」の意義はありません。草木成仏の原理からしても開眼のない非情は仏とはならないのです(<御本尊と化儀>参照)。
【大御本尊からの血脈】
◆日蓮正宗総本山大石寺におわします本門戒壇の大御本尊が、いっさいの根本である。我々の拝受したてまつる御本尊は、血脈付法の代々の御法主上人のみが、分身散体の法理からおしたためくださるのである。(池田大作『広布と人生を語る』第1巻112頁/青年僧侶邪義破折班H17.6.7)
◆富士大石寺にそむく謗法のやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがない(創価学会作成『折伏教典』340頁/『大白法』H17.10.1)
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本尊自体はもともと有効であったものが、受者が謗法となり破門されたために、本尊としての意義を失う。その原理からすれば、たとえ血脈付法の日寛上人書写の御本尊といえども、破門された学会が所持したのでは「大聖人の御魂は住まわれるわけがない」。ましてや、勝手にコピーした"物"をや、である。
◆いまのところは、まずまず貧乏と病気です。これを、仏さまがおられてお救いにならないわけがない。われわれの貧乏と苦悩を救わんがために、日蓮大聖人様は大御本尊様を建立し、遺(のこ)されてある。
これは、弘安2年の10月12日の大御本尊様のただ1幅なのです。そこから、分身散体の方程式によりまして、ずうっと出てくるのです。それから、ほかの本尊、どこのを拝んでも絶対にだめなのです。弘安2年の10月12日の大御本尊様から出発したものでなければ、法脈が切れてますから、絶対だめなのです。
だから、身延や仏立宗や霊友会なんか、いくらがんばっても、御利益がでようがないのです。ありませんから、やってごらんなさい。7年もしたら、どんな顔になるか。いや、いままでやった人の顔をみてごらんなさい。
ですから、私の願いとするところは、この弘安2年の10月12日の大御本尊様を信ずるということです。しかし、理論がわかっても、わからなくてもいい。だんだん、そのうちにわかる。絶対だということがわかる。この日蓮正宗の哲学ぐらい、きちんとなっているものはないのです。(S30.8.24 札幌市商工会議所『戸田城聖全集』第4巻343頁~)
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「身延や仏立宗や霊友会なんか、いくらがんばっても、御利益がでようがない」とあることから、身延が所持している大聖人の真筆本尊であっても「弘安2年の10月12日の大御本尊様から出発したもの」とはいえず「法脈が切れてますから、絶対だめ」ということが分かる。大聖人の真筆本尊であっても功徳がないのであるから、歴代上人の常住御本尊を勝手にコピーしたものに功徳があるはずがない。
【"開眼不要"の学会の矛盾】
************************************************************日蓮正宗では以前に
奉蔵於奥法寶という御本尊集を出し、
日達上人も了解済みです。
それも昭和42年10月15日にです。(
<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
------------------------------------------------------------ このBBSは学会員が管理するサイトである。ここでは、会合の様子を撮影した写真に御本尊が写っていた『大白蓮華』81号の記事やら、歴代上人の御本尊を自慢げに掲載している。要するに、彼ら学会員は御本尊を写真に撮ったり複写しても謗法ではない、と考えているのである。しかし「日達上人も了解済みです」とは笑止千万。そもそも日達上人を含め宗門は本尊には開眼が必要という立場である。それに対して学会は開眼不要の立場のはず。しかも学会は宗門を謗法呼ばわりしている団体。そのような学会が、自分達の本尊撮影を正当化する根拠に日達上人を持ち出すとは!これに何の疑問も持たない学会員は、かなり重症です(溜息)。
[画像]:本尊を平気で撮影・複写する学会
<学会の考え>
・本尊を写真に撮ったりコピーしても問題ない。実際、学会では機関紙誌において本尊の写真を掲載していた。
↑
両者は矛盾する
↓
・学会は御本尊に開眼など必要ないという考えである。
・事実、学会が会員に配布している"本尊"は日寛上人書写の御本尊を写し印刷しただけのものであり、開眼などしていない。
もし、大聖人や歴代上人書写の本尊を写したものがそのまま本尊としての力用を持つのであれば、学会員が勝手にコピーしたものや、インターネット上に掲載された本尊の写真、『大白蓮華』や『聖教新聞』に掲載された本尊の写真またはコピー類もそのままで本尊となってしまう。とすれば学会は、帰命し礼拝すべき根本尊崇の当体を礼拝以外の用途で配布利用し、粗末な扱いを行っていることになる。「粗末な扱い」とは、例えば"本尊"が掲載された『大白蓮華』や『聖教新聞』を無造作に畳や床に放置したり、落書きしたり、包み紙にしたり、果ては紙屑同然にして廃棄したり、等である。これは大謗法となるはずである。
もし「本尊を写真に撮ったりコピーしても問題ない」のであれば、それ(写したもの)は本尊ではないからでなければならない。言い換えれば、写しただけでは本尊とはならないからこそ、写真撮影やコピーが許されるのである。ところが学会は「本尊を写真に撮ったりコピーしても問題ない」として写真撮影されたものを粗末に扱う一方で、写真に撮ったりコピーしただけのものを"本尊"と仰いでいるのだから、完全に矛盾しているといえよう。
以上の見解に対して、狂乱した学会としては色々とその場凌ぎの"言い訳"ができるかも知れない。しかし、その言い訳が正しいためには、それなりの文証("御書根本"の学会としては、まずは御書を示すべきである。次に過去の学会の公式見解=会長指導や機関紙誌の記述)がなければ何の説得力もない。
<宗門の考え>
・本尊を写真撮影したからといって、必ずしも直ちに謗法となるとはいえない。
↑
両者は矛盾しない
↓
・本尊を写しただけでは、本尊とはならない。本尊となるためには、必ず御法主の允可(いんか)及び開眼が必要である。
※なお、今日、日蓮正宗富士大石寺においては、本門戒壇の大御本尊をはじめ全ての御筆御本尊について、写真撮影や鑑定調査を許していない。それは、釈尊の頭頂を上から見ようとして果たせなかった者の話が示唆(しさ)するように、仏を信仰する者にとって、軽々に仏を測る(研究する)対象とすることは、上慢・不敬に陥(おちい)る畏(おそ)れがあるからである。(『慧妙』H17.3.16)。
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本尊を写しただけでは本尊ではない。同様に、人物の写真は被写体それ自身ではない。しかし、尊敬する方の写真を見れば、写真を通して其の方を実感し、自ずから写真に敬意を表するものである(多くの学会員の家庭において歴代会長の顔写真を大切そうに飾っているのは、同様の理由によるのであろう)。
昔、キリスト教徒を探し出すために"踏み絵"が行われた。キリストの絵はキリスト自身ではない。しかし、キリストの絵を踏むことは、キリスト教徒にとってキリスト自身を踏むに等しいほど、恐れ多いことであった。だからこそ、権力者は踏み絵を踏ませることによって、キリスト教徒を探し出すことができたのである。
写真と被写体は同じではない。だから本尊と本尊の写真は同じではない。しかし、本尊の写真を見て本尊を感じるのは信仰者としてごく自然な感情であり、本尊として尊崇するにふさわしくない状態で、本尊の写真を扱うことは恐れ多いことなのである。それを何の違和感もなく粗末に扱うことができるとすれば、それ自体、本尊に対する畏敬の念を失った証ではないか。
かつては宗門においても本尊の写真撮影が行われていたようである。その理由として考えられるのは、
①本尊を写しただけでは本尊とはならない
②広宣流布と令法久住のために研究用として撮影することは、御本仏の御意に沿う行為である
というものであろう。しかし、現在においては種々の状況から総合的に判断して上記(※)のような方針を採っているのであろう。(法蔵)
本尊に開眼は不要と言いながら、写しただけの"本尊"を本来の目的以外に利用し粗末に扱う学会員は支離滅裂
↓頭が7つに破れた現証か!?
導師本尊・棟札本尊・未来本尊について
【導師本尊】
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日蓮正宗で葬儀に用いている「導師本尊」は、邪宗日蓮宗が葬儀用に開発したニセ本尊である。大聖人の御本尊とは異なる「五道冥官」等の悪鬼の名が書かれている。これを、江戸時代になって、日蓮正宗でも取り入れたのである。
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まず、「導師御本尊」が、日蓮宗が開発したニセ本尊である、という証拠を挙げてみよ。
また、江戸時代になって日蓮正宗でも取り入れた、というが、24世以前の上代の御法主の書写された「導師御本尊」が存している以上、この疑難は前提から崩壊していると知るべきである。
なお、日寛上人書写の「導師御本尊」も存在するが、学会は、日寛上人もニセ本尊を作っていた、というのか。とすると、現今の学会は”ニセ本尊を作っていた法主の書写した御本尊をコピーして拝んでいる”ことになるが、どうか。
そもそも、この程度の疑難しかできぬ者が、判ったような口ぶりで”大聖人の御本尊とは異なる”云々などと言うこと自体、じつにおこがましい。よくよく身の程を知るべきであろう。(『慧妙』H9.10.1)
御本尊の御事である故、御法主上人の御講義をもって破折とする。
●「大聖人が書かれた御本尊とは明らかに異なる」とも言っておるが、これは本尊の内証口伝を受けていない者が形式だけを見て、その曼荼羅(まんだら)弘通の規模の広さを知らない偏見であります。
冥界へ向かう衆生への化導救済の意義より、天照大神、八幡大菩薩の代わりに閻魔法皇(えんまほうおう)、五道冥官(こどうみょうかん)を書かれることは、『南無妙法蓮華経 日蓮在御判』を中心とする一念三千の本尊に在(あ)ってはいささかの違法もないのであり、これを『ニセものの本尊』とすることは、本尊相伝のない創価学会の短見・邪見なのであります。
創価学会は歴代上人のなかで、日寛上人こそ大聖人直結の方であると讃しているが、その日寛上人の在家に授与された数幅の御本尊に、明らかに天照、八幡の代わりに閻魔法皇、五道冥官と書かれておる御本尊が現存しております。また、日寛上人の御師・24世日永上人の書写にも閻魔法皇、五道冥官の書き方が拝され、さらに上代の御先師にも存在しております。その血脈の上からの流れは、近年では日応上人、日亨上人、日開上人にも同様の書写の御本尊が拝せます。特に先師日達上人はこの意味において導師御本尊をお示しであり、私もその上から伝承して、冥界へ向かう信徒の化導のための本尊として、いわゆる導師曼荼羅として『閻魔法皇、五道冥官』を書写申し上げておるのであります。(『日顕上人猊下御講義・創価学会の偽造本尊義を破す』P75)(『慧妙』H25.11.16)
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導師曼荼羅は謗法である。邪宗日蓮宗が葬儀専用に開発したニセ本尊を形木にしたもので、御書にもない「五道冥官(ごどうみょうかん)」等の文が書かれ、大聖人の御本尊と明らかに異なっている
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学会で大聖人直結の方とする26世日寛上人の顕(あら)わされた御本尊の中にも、やはり「五道冥官」等と書かれた導師御本尊が存(おわ)しますし、そもそも、この「五道冥官」の語は御書の中(『戒法門』御書12頁=御書全集には掲載されていない)にも示されています。
●先世に三宝の御前にして此の戒を受けし時、天には日月・衆星・二十八宿・七星・九曜・五星、地には五つの地神・七鬼神・十二神・三十六禽(きん)、又梵天・帝釈・四大天王・五道の冥官等、此の五戒を受くる人を護らんと誓ひ給ひき。(『戒法門』御書12頁)
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[五道の冥官]ごどう-のみょうかん〔仏〕=閻魔王の臣で、地獄で五道の衆生の罪を裁くという役人。(三省堂『大辞林』第2版)
[梵天]ぼんてん〔「ぼんでん」とも〕〔梵 Brahma〕=色界の初禅天の王。本来はバラモン教で根本原理を人格化した最高神であったが、仏教に取り入れられて正法護持の神とされる。大梵天。梵王(ぼんおう)。梵天王(ぼんてんおう)。婆羅門(バラモン)天。
●善無畏三蔵の閻魔の責にあづからせ給しは此の邪見による後に心をひるがへし法華経に帰伏してこそ・このせめをば脱させ給いしか(『開目抄』全集216頁)
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[閻魔]えんま〔梵 Yama〕〔仏〕=亡者の罪に判決を下すという地獄の王。笏(しやく)を持ち、中国の道服を着、怒りの相をあらわした姿で描かれる。もとインド神話中の神で、祖霊の王。焔摩。閻魔羅闍(らじや)。閻魔羅。閻羅。閻羅王。閻魔王。閻魔大王。閻魔法王。(三省堂『大辞林』第2版)
閻魔も梵天も、本来は仏教とは無関係であったが御書に書かれている。特に、梵天は御本尊にも認められている。閻魔の臣である五道の冥官もまた、御書に書かれている。
平成12年3月6日、創価学会2代会長・戸田城聖氏の夫人・戸田幾(いく)さんが逝去されました。享年89歳。
お通夜ならびに告別式は、3月12日、13日と、東京都品川区の桐ケ谷斎場において、日蓮正宗常在寺住職・細井珪道尊師の導師で、厳粛(げんしゅく)に執(と)り行なわれました。(中略)
なお、創価学会2代会長夫人の葬儀に、池田大作は欠礼。秋谷栄之助、和泉覚、粕原ヤスら、学会最高幹部30名が参列し、細井尊師の唱導のもと、共々に日蓮正宗の導師曼荼羅(まんだら)に手を合わせていました。(<妙観講>WS)
【棟札(むなふだ)本尊】
(戸田城聖『戸田城聖全集』第2巻61頁)
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家の上棟式のとき、日蓮正宗の御僧侶が板に書いた御本尊〔注〕を屋根裏の柱に打ちつけていましたが、そまつにならないでしょうか。
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あれは棟札御本尊といって「火も焼くこと能わず」「水も漂わすこと能わず」としたためてあります。御本尊に似ていますが、信仰の対象ではないのです。釈尊時代から、火事を防ぐための祈りが行われて、『上野殿御書』にもそのことを示してあります。
〔注〕現在は、末寺を通して法主上人から賜ることになっています。
●棟札の事承り侯。書き侯ひて此の伯耆(ほうき)公に進(まい)らせ候(『上野殿御書』御書902、全集1513頁)
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大聖人自ら棟札をしたためられ、日興上人がこれをお持ちして南条殿の館に向かわれた様子がうかがえます。(『大日蓮』H19.11)
【未来本尊】
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日蓮正宗では以前、葬儀の際に、「導師本尊」を形木にした「未来本尊」と名づける「ニセ本尊」を、棺や骨壷の中に入れていた。これは、日興上人が『富士一跡門徒存知事』で破折されている、五老僧の謗法行為と同じだ。
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そもそも「末来本尊」とは、時の御法主上人が、『寂日房御書』に
「此の御本尊こそ冥途(めいど)のいしゃうなれ」(御書1394、全集903頁)
と仰せの意義を持たせて、「導師御本尊」を形木にし、亡くなった人と共に棺等に収めたものである(類似した事例としては、建物を上棟する際に、その建物の守りとして、屋根裏に棟札本尊を収める化儀もある)。
一方、『富士一跡門徒存知事』に日興上人が仰せられているのは、よく前後の御文を拝すとわかるが、日蓮大聖人御直筆の御本尊の散逸(さんいつ)を戒められた御教示である。
すなわち
「一、上の如く一同に此の本尊を忽諸し奉るの間、或は曼荼羅なりと云ひて死人を覆(おお)ふて葬る輩も有り、(中略)
日興が云はく、此の御筆の御本尊は」云云(御書1872、全集1606頁)
と。
学会は、”日興上人が戒められた、五老僧と同じ不敬行為だ”と言いたいのであろうが、大聖人の御直筆御本尊の散逸を戒められた御教示を、形木の未来本尊を収めることの可否に結びつけること自体、まったくの見当はずれなのである。(『慧妙』H9.10.1)
◆御本尊に似ていますが、信仰の対象ではないのです(戸田城聖『戸田城聖全集』第2巻61頁)
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これは棟札本尊についての指導であるが、未来本尊についても当てはまるのではないか。
【本尊書写と相伝】
1●日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり(『御本尊七箇相承』/『富士宗学要集』第1巻32頁)
2●明星直見の本尊の事如何、(中略)釈迦古僧に値ひ奉つて塔中に直授せるなり貴し貴しと讃め被れたり、(中略)仍つて本尊書写の事・一向日興之を書写し奉る可き事勿論なるのみ。(『御本尊七箇相承』/『富士宗学要集』第1巻32頁)
3●宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。(第26世日寛上人著『撰時抄愚記』/『日寛上人文段集』聖教新聞・初版271頁)
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「塔中及び蓮・興・目」とあるように、塔中における上行菩薩への別付嘱が、末法においては唯授一人血脈相承として歴代上人に伝わっている(<血脈相伝の体>参照)。
4●曼荼羅書写本尊授与の事は・宗門第一尊厳の化儀なり(第59世日亨上人著『有師化儀抄註解』/『富士宗学要集』第1巻112頁)
5●「義理」「化儀」の簡別は義理は化法なり、大道理なり・化儀は設けられたる信条なり、諸法度なり御開山の廿六箇条又は当化儀条目の如し又は其時々々に師より弟子檀那に訓諭せし不文の信条もあるべし(第59世日亨上人『有師化儀抄註解』/『富士宗学要集』第1巻151頁)
「本尊書写の事・一向日興之を書写し奉る可き事」(2●)とは大聖人の御指南である。しかして、その本尊書写の大権は「塔中に直授」(2●)と仰せのように、虚空会において釈尊より上行菩薩へ別付嘱されたものである。この付嘱は「『塔中及び蓮・興・目』等」(3●)と仰せのように、大石寺歴代上人方によって伝持されている。だからこそ大聖人は「日蓮在御判と嫡々代々と書くべし」(1●)「代々の聖人悉く日蓮なり」(1●)と仰せになったのである。
「曼荼羅書写本尊授与の事は・宗門第一尊厳の化儀」(4●)と仰せのように、本尊書写もまた化儀に属することがらである。これについては『御本尊七箇相承』に詳しく書かれている。しかし「不文の信条もあるべし」(5●)「此の経は相伝に非ずんば知り難し」(3●)とあるように、公開されている御書や相伝書がすべてではない。未だ公開されていない相伝に基づいて、時と場合に応じた化儀が現れることもあることを信じるべきである。
ニセ守り本尊使った"錬金術"
(『慧妙』H19.11.1)
創価学会が、脱落僧の占拠する栃木・浄圓寺に所蔵されていた日寛上人御書写の御本尊を元に、ニセ本尊を作成してから1年後の平成6年、今度はそのニセ本尊を縮小印刷したニセ"守り本尊"を作成していたことが表面化しました。
このニセ"守り本尊"は、いわゆる「ロケット」(※写真などを入れて首からつるす容器)のような構造になっていて、当初は、プラスチック製のその「ロケット」のフタを開けると、フタの裏側に縮小版ニセ本尊が収められていました。
その存在を、写真によって本紙が知ったときの驚きは、とても言葉では言い表わせません。というのは、その時、本紙が入手したロケット様(よう)ニセ守り本尊の写真には、その「本体」側に池田大作の肖像がはめ込まれていたからです。
それはまさに、学会流"人法"の本尊ともいうべきものでしたが、本紙としては、「まさか」と半信半疑の思いでした。
しかしてその後、ロケット様ニセ守り本尊の現物を確認したのです。
それは、縦4.8センチ、横2.95センチ、厚さ1センチ、重さ13グラム、白いプラスチック製で、学会の八葉蓮華のマークが刻印されたフタを開くと、フタの裏側に当たる部分に、ニセ守り本尊が透明プラスチックのカバーで固定されていました。
そして、フタとは反対側のケース本体に当たる方にも、ニセ守り本尊と同じ大きさのモノが納められるよう加工がされ、透明プラスチックのカバーが付けられていました。
そのようなプラスチック製のケースが、細いチェーンの付いた、クリーム色のビニールケース(重さ13.5グラム)の中に納められていたのです。
しかして、この中には池田の写真は入っておりませんでしたので、本紙が入手した写真は、機転が利(き)く学会員が、そのロケット様ニセ守り本尊の構造を利用し、本体に池田大作の写真を収めて造った"人法の本尊"だったのかもしれません。
このニセ守り本尊について、本紙(平成6年7月16日号)が池田の肖像入りニセ守り本尊の写真を公表し、そのおかしな構造を指摘すると、創価学会は慌(あわ)てて、本体とフタを逆転させた"改良型"ニセ守り本尊を出してきました。
それは、ニセ本尊を本体側に移すのではなく、それまで本体にしていた側に創価学会の「八葉蓮華」のマークを刻み、「フタ」になっていたニセ本尊側のマークを消す、という急ごしらえのものでした。
その証拠に、新・旧の写真を並べると、ヒンジが取り付けられている側が正反対になっています。
学会としては、本紙の記事を読み、写真を見た会員から"なぜ御本尊をフタの方に入れているのか"と糾(ただ)された時に、改良型を示し"『慧妙』の記事はデマだ"とごまかしてしまおうと考えたのでしょうが、その結果、ヒンジの位置が左右逆になってしまったのです。
この醜態がまた本紙(同年11月16日号)のネタになる、というお粗末な顛末(てんまつ)でした。
閑話休題。本来、日蓮正宗における御守御本尊とは、所属寺院に願い出て、御住職の許可を得て初めて、総本山に御下附の願い出をしていただけるという、厳正なものです。
これに対し創価学会では、平成9年2月8日、秋谷栄之助(当時は会長)が「(謗法払いは)御本尊を安置するための絶対的条件ではありません。謗法払いしてからでないと御本尊を安置してはいけないという考え方を変え、まず御本尊を安置し、拝み始める。そのうえで信心が深まって、古い対象物は置きたくなくなる。そうなってから、自発的に本人がそれを取り除くようにしてもかまいません」
と発言しているように、まずはニセ守り本尊を3千円で"売りつける"ことを優先し、「後は野となれ山となれ」です。呆(あき)れてしまうではありませんか。
結局、創価学会にとっては本尊すらも、"金儲(もう)けのための道具"にしか過ぎないのです。
[画像]:当初、本紙が入手したニセ守り本尊の写真
[画像]:フタを開けると、その裏側にニセ本尊が
[画像]:学会員が作成した(?)池田の写真付き守り本尊
[画像]:本紙の指摘に、慌てて作った改良型守り本尊
無様!法論から遁走した学会男子部
―青森専妙寺・沼田尊師が学会に不戦勝―
―手前勝手な条件押し付け法論を逃避―
―この手口は今後も使われるかも!?―
(『慧妙』H16.5.1)
「破邪顕正の年」の本年、眼前の「一凶」たる創価学会を破折すべく、法論の段取りを進めていたところ、創価学会側が「法論」から遁走(とんそう)してしまった。
場所は東北・青森市――学会男子部が、正宗寺院・専妙寺に再三押し掛け、「法論」「法論」と騒ぎ立てておきながら、専妙寺御住職・沼田凡道尊師がこれを受けて立つと、手前勝手な条件を盾(たて)に逃避(とうひ)してしまったのである。
事の起こりは昨年に遡(さかのぼ)る。青森市・専妙寺に、創価学会男子部員が再々にわたって押し掛け、「裁判が云々」と喚(わめ)くため、9月20日、専妙寺御住職・沼田凡道尊師が、「創価学会の本尊はニセモノか否か」ということを論題にして「法論」を行なおう、と応じた。
ところが、何を臆(おく)したのか、その後、学会男子部はとんと顔を出さなくなってしまった。
以来、3ヵ月以上が過ぎ、暮れも押し迫った12月24日、専妙寺に顔を出した件(くだん)の学会男子部員は唐突に「対論をやりましょう」と言い出したのである。
この突然の非常識な申し入れに沼田尊師は、「対論には応じてあげるが、来訪の前には必ず電話を入れるように」と諭(さと)して帰した。だが、常識など通用しない学会男子部員は、その後も事前連絡なしで来寺してくる。
しかして本年3月7日に来寺したTら学会男子部は、沼田尊師に対し、それに先だって郵送されてきていた、東北青年部長・東北男子部長の連名の、創価学会教学部長・斉藤克司の日精上人誹謗(ひぼう)文書に準拠(じゅんきょ)した「質問状」なるものへの回答を要求すると共に、地元の創価学会文化会館あてに、公開法論実施を確約する文書を内容証明郵便で送るよう要求してきたのである。
そこで沼田尊師は、配達証明郵便で、件の「質問状」への回答書と共に、「『公開法論』確約書(案)」を送ったのである。その案文は、次のようなもの。
<「公開法論」確約書(案)>
【法論規約】
公開法論は、専妙寺と創価学会との間によって行なわれるものとする。
【法論の内容規定】
法論の内容は、双方同意の「創価学会の本尊はニセ物だ」に限定する。
【登壇者規定】
登壇者は、住所・氏名・電話番号・役職を明らかにし、創価学会の場合は、公開法論を求めた「T」「K」「O」のうち、役職上位の者を当てる。専妙寺は住職とする。
【法論の方法と規定】
質疑応答は登壇者のみとし、一問一答の形式で交互に発言する。(中略)法論の迅速化並びに真実性を図るため、専妙寺は『創価学会のいうことはこんなに間違っている』212頁で使用の全体写真を用意する。創価学会は「会員配布の原本本尊(下野国小薬邑本如山浄圓寺 大行阿闍梨本證坊日證の授与書きがある本尊)」を用意する。(以下略)
同確約書にはこの他に、公開法論の場所は公の施設を用いる、双方聴衆は百名とする、登壇者以外の者が不規則発言をなした場合は即刻退出させる等の、正式な公開法論として必要最低限と思われる規約が盛り込まれていた。
また、学会男子部が盛んに「マスコミ」「マスコミ」と口にしていたことから、マスコミにも通知して、要請があれば取材を認める旨も明記されていた。
これに対し、返答の期限とした日になって学会男子部はようやく、専妙寺の受付に、無記名の茶封筒に入れた「法論要領兼確約書」なるものを届けてきた。
ところがその内容は、「法論」をぶち壊しにしようとする、悪らつな謀略文書だったのである。
すなわち、「法論」のテーマは何も提示せず、開催場所は、一方的に「収容規模を考え、創価学会青森文化会館とする」とした上で、極めつけは、「日蓮正宗指導教師の立場を尊重し、対する青年の愚問に答える形で『随問而答(ずいもんにとう)』とする」と、学会側は一方的に質問する立場、沼田尊師は答えるだけの立場に固定しよう、と画策してきたのである。
沼田尊師が、双方で合意したテーマを掲げ、法論会場は公の場所を借り、双方対等な立場で「法論」を行なおうと提案したことへの対案が、これである。
学会男子部の、こうした不遜(ふそん)な態度に接してもなお、沼田尊師は「法論」実現に向けて動かれた。すなわち、なぜ対等の立場で「法論」をしようとしないのかを質(ただ)し、誰もが納得する形での公開法論の実現を促(うなが)す文書を、4月5日に再度、Tら宛てに送付したのである。
ところが、これに対する学会男子部の返書は、あくまでも、創価学会青森文化会館において、学会男子部が質問に、沼田尊師が応答に徹する、という形に拘泥(こうでい)したうえで、「時間をいたずらに消費するだけの文書交換は、この書面が最後です。速やかに法論実現に向けて、双方の意見を調整するため、今後、貴殿(沼田尊師)からの郵送物は『受け取り拒否』することを明言しておきます」との逃げ口上が述べられていたのである。
そして実際に、沼田尊師が「T」らに宛てて4月16日に送った配達証明郵便は「受け取り拒否」で返送されてきてしまい、その後、創価学会東北青年部長今村拓也、および同男子部長山内好浩に宛てて4月19日に送った配達証明郵便もまた、「受け取り拒否」で返送されてきてしまったのである。
[画像]: 法論実現に向けて学会側に送られた配達証明郵便
こうして、沼田尊師と創価学会青森青年部との「法論」は、学会側が勝手に遁走したことにより、沼田尊師の全面勝利で幕を閉じることになった。
それにしても、「法論」を逃げるための学会のお粗末な手口は、創価学会男子部ならではの悪らつさであり、呆れざるをえない。
今後、同様の手口で「法論」を逃避する学会員が数多く出ると思われるので、充分、これを参考にしつつ、我々は、あくまでも彼らの過ちを徹底的に正していこうではないか。
己心本尊の強調は堕地獄への道
―御本尊の意味を見失った創価学会―
(『慧妙』H15.12.16編集)
<本尊とは>
まず本尊とは、根本尊崇(こんぽんそんぎょう)の意味で、人生の根本として信仰・礼拝する対象のことをいいい、それぞれの宗派の教えや指針等を具体的に表わしたものである。
そして、本尊を立てて信仰していくと、感応の働き(本尊を信じ尊ぶという信仰・礼拝によって、本尊と自己とを直ちに一体化させる働き)が生じるが故に、もし、低級・邪悪な本尊を信じれば、その人の人格・生活も、自(おの)ずと低級な、苦しみに満ちた不幸なものになってしまうのであり、真に幸福な人生を生きていこうと思うならば、最高に勝(すぐ)れた本尊を信仰の対象として選択することが、もっとも肝心なのである。
ゆえに、日蓮大聖人も、
「本尊とは勝れたるを用ふべし」(御書1275頁)
と仰せられ、"宗教の五綱""五重相対""四重興廃"等の、厳密かつ公正なる宗教批判の基準をもって、比較相対され、最高真実の本尊を判ぜられたのである。
そして、そのようにして選びぬかれたところの本尊こそ、日蓮大聖人が顕(あら)わされた三大秘法の大御本尊に他ならない。
<大聖人の御本尊>
―三徳―
日蓮大聖人が顕わされた大御本尊とは、どのような御本尊かというと、主師親の三徳をすべて兼ね具(そな)えられた仏の生命の御当体であり、人法一箇の御本尊なのである。
まず、"主師親三徳兼備の仏の生命の御当体"ということについては、前回の「やさしい教学」でも述べたとおり、絶対の力をもって眷属を守る主人の働き(主徳)、民衆を絶対の幸福境涯へと導く指導性(師徳)、子に対する厳父のような慈愛(親徳)という、3つの特性(三徳)のすべてを円満に具えられているのが、仏である。
―人法一箇―
そして、"人法一箇の御本尊"とは、いちおう人本尊と法本尊という立て分けがあるけれども、内容的にはまったく一体の御本尊であることをいう。
すなわち、いかに勝れた教法が宇宙間に存在していたとしても、それを覚知して説かれる人(仏)がおられなくては、その法の存在を明らかにすることはできない。
また、仏といっても、宇宙の根源の法を覚知していなくては、単なる人にすぎないことになる。
日蓮大聖人は、一切衆生をことごとく成仏に導く根源の法を悟られた御本仏にあらせられ、そして、御自らの仏としてのお悟りを、御文字をもって一幅の大曼荼羅御本尊として顕わされた。
ゆえに、日蓮大聖人を人の本尊、大曼荼羅御本尊を法の本尊と申し上げるが、形の上で違いはあっても、内容的には、法を具えた人、人を具えた法と、まったく一体であるので、人本尊たる日蓮大聖人の御生命は、法本尊たる大曼荼羅御本尊そのものであり、これを"人法一箇の御本尊"と申し上げるのである。
―感応の働き―
そして、この"主師親三徳兼備""人法一箇"の御本尊に対し、家来として弟子として子供として、また御本尊を生きておられる日蓮大聖人と拝して、純粋に求めて勤行・唱題に励むところに、感応の働きによって、私達末法の荒凡夫の濁った命の中にも、御本尊と同じような、すばらしい仏の生命(仏界)を涌現していくことができるのである。
―己心本尊の強調は堕地獄への道―
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◆此の御本尊全く余所(よそ)に求むる事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり(『日女御前御返事』御書1388頁)
→御本尊は、法華経(御本尊)を信じる自分自身の胸中にある。妙法を唱える自分自身が、胸中に御本尊を納めた妙法の当体でもある。
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私達凡夫の生命にも本然的に仏の生命が具わっているから(ただし、それは冥伏<みょうぶく>していて現われておらず、御本尊との感応によってのみ涌現する)といって、直ちに「自分の中に御本尊がある」「妙法を唱える自分は、御本尊を納めた妙法の当体」などと言っては、自分を尊い存在に押し上げてしまうため、御本尊を自らの人生の根本として信じ崇(あが)めることにならず、そこには感応が働かない。つまり、自分の中の仏界は、もとより涌現しないのである。
仏界が涌現しなければ、仏でもなければ成仏でもなく、したがって御本尊だなどと言える道理がない。
もっとも、このようにいくら論じてみても、池田創価学会の本尊は、根源の大御本尊とはまったく関係のない、悪鬼魔神が棲(す)む最悪の本尊であるから、仏の生命の涌現どころか、信じれば信じるほど、拝めば拝むほど、感応の働きによって地獄・餓鬼・畜生の三悪道の生命が噴き出し、かえって、不幸のどん底に埋没していくことになる。
本尊書写と内証相伝
●日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ(『経王殿御返事』全集1124)
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御本尊とは大聖人の魂=内証を書写したものです。単に文字や、その配置を真似ただけで仏の内証が現れるものではありません。書写する方を歴代上人に限定されたのは、血脈相承によって、大聖人の御内証が伝持されているからです。
この御文からも、本尊付嘱である結要付属は、同時に仏の内証付嘱でもあることが分かります。
●日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり(日興上人『御本尊七箇相承』/『富士宗学要集』第1巻32頁)
●明星直見の本尊の事如何、師の曰はく末代の凡夫・幼稚の為めに何物を以つて本尊とす可きと・虚空蔵に御祈請ありし時古僧示して言はく汝等が身を以つて本尊と為す可し(中略)釈迦古僧に値ひ奉つて塔中に直授せるなり貴し貴しと讃め被れたり、(中略)仍つて本尊書写の事・一向日興之を書写し奉る可き事勿論なるのみ。(同上)
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後加文ではありません。「日蓮在御判と嫡々代々と書くべし」とあり、「一向日興之を書写し奉る可き事勿論なるのみ」とあることから、御本尊書写の権能が唯授一人血脈相承の方に限ることが分かります。唯授一人の相承は大御本尊だけではなく、本尊書写の権能もふくみます。それは、「代々の聖人悉く日蓮なり」とあるように、唯授一人の血脈相承によって大聖人の御内証が歴代上人に伝授されているからです。
●仏法を相続して当代の法主の処に本尊の体有る可きなり(第26世日寛上人著『抜書雑々集』/研教9-740頁/『創価学会のいうことはこんなに間違っている』19頁)
●此の金口の血脈こそ宗祖の法魂を写し本尊の極意を伝ふるものなり之を真の唯授一人と云ふ(第56世日応上人『弁惑観心抄』219頁/『創価学会のいうことはこんなに間違っている』102頁)
●当宗では、血脈なくして御本尊様を書写し奉ることはできない。もし、血脈などいらないというのならば、身延の人が書いた本尊でもよい、誰が書いてもよいではないか。(第66世日達上人・第17回妙観会・昭和53年3月31日)
<昔の学会指導>
●血脈相承といって、われわれの御法主上人に、法水の容器は違うが、その内容は一滴ももらさずに伝えられてきているのです。だから御法主上人だけが、御本尊様をしたためることができる方なのです。(『戸田城聖全集』第2巻37頁)
創価宗の「ニセ本尊」販売に伴う自己弁護を破す
(教学部長・大村寿顕御尊師『大日蓮』H6.1)
創価宗では、本年5月3日、池田大作が、卑劣にも、カトリック教徒である上智大学教授の口を借りて、宗教の究極は「板曼荼羅ではなく、久遠元初の法である」と、大聖人の御当体である本門戒壇の大御本尊を、単なる物体と見下す恐るべき暴言を吐き、そして、ついに、第26世日寛上人の御本尊を無断でコピーし、「ニセ本尊」を作って、会員に売り付け、地獄への道を歩ませる決定をしたのであります。
しかも、会貝を欺(あざむ)き、「ニセ本尊」の正当性を無理やり会員に認識させるために、9月10日の『聖教新聞』より「『創価の世紀』の開幕」と題して、秋谷、辻、斉藤等による座談会を連載し、さらに9月18日の『聖教新聞』において、創価学会教学部が、「『信心の血脈』脈動する創価学会に『授与』の資格」と題し、本尊の販売を正当化するキャンペーンを行っていますが、それらはことごとく、学会員を洗脳するためのこじつけであり、日蓮正宗の法義から完全に離れた邪論であることは申すまでもありません。
彼等の主張を要約すると、
①学会に本尊授与の資格がある。
②本尊は胸中にある。
③学会こそ大聖人直結の信心である。
④「唯授一人法体の血脈」などない。
⑤法主による允許(いんきょ)・開眼などは御書にない。
の5点になります。
<信心の血脈を継ぐ学会に本尊授与の資格があるとの妄説を破す>
まず、学会に本尊授与の資格がある、との主張において彼等は、「現代においては信心の血脈を受け継ぎ、世界広布に尽くしてきた創価学会にこそ御本尊授与の資格がある」と、勝手な自己主張をしております。
これらの邪説に対しては、既に『大白法』号外で破折を加えておりますし、間もなく法義研鑚委員会より詳しい破折の書が発刊される予定になっていますので、この件では、彼等の主張に対する破折を省略し、彼等の数多くの邪説に共通する基本的な誤りを指摘しておきたいと思います。
彼等の誤りは、一言でいえば、「能所の混乱」をしているということであります。すなわち、能化である仏の境界と、所化の凡夫衆生の信仰とを同一視し、混合させた上で我見の新義を結論としているのであります。
彼等が犯している「能所の混乱」とは、言い換えれば、「法義と信仰」の混乱、「仏意と機情」の混乱、「師と弟子」の混乱、ということです。
「広布を願う一念」だとか「折伏に精進した功績」だとか「宗門を外護した功労」などは、衆生の信心修行の領域です。それに対して「御本尊」「宗祖大聖人」「三宝」等は本来、能化・師匠の領域であります。
したがって、日興上人が、
●この法門は師弟子を正して仏になり候
と制誡なされているように、これらを混ぜ合わせて論じてはならないのです。
古来、本宗においては、御本尊の御書写をはじめ、御本尊に関わる一切の権能は唯授一人血脈付法の御法主上人にましますことは、不変の鉄則であり、今さら創価宗がどのような新義・異説を立てようとも、御法主上人の御允可なき「ニセ本尊」の製造・販売が大謗法であることは申すまでもありません。
<本尊は胸中にあるとの妄説を破す>
次に、創価宗では、本門の本尊義について、
◆大聖人の御本尊は、信心の対境となる本尊であるだけでなく、本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えれば、その信心に本尊が具するのである。この二つの次元が揃って初めて大聖人の御本尊の意義が完結する(『聖教新聞』平成5.9.18)
と言っております。また、
◆この「観心の本尊」という御本尊の本義のうえで言えば、御本尊は「信心」があるところにしか存在しないと言える。「信心」がなければ、紙幅の御本尊はあっても、本義たる「観心の本尊」はないのである(同紙)
などと述べて、本宗伝統の本尊義を破壊しております。
つまり、彼等は、対境たる大聖人御図顕の御本尊のみでは「観心の本尊」としての意義が整足せず、衆生の信心がなければ「観心の本尊」にならないというのであり、観心のところに本尊があるとの妄説を主張しているのです。
しかし、本尊とは、根本尊崇・本有尊形・本来尊重の意義を有する「所縁の境」であります。『観心本尊抄文段』に、
●末法の本門、下種の人法は正しくこれ観心の本尊なり、故に末法下種の本尊と為すなり(『日寛上人文段集』524頁)
と御教示のように、末法では、寿量文底の人法のみが一切衆生観心成仏のための本尊法体となるのであり、これを「観心の本尊」と称するのであります。
したがって、衆生の信心が揃わなければ「観心の本尊」とならないなどということは、大聖人の仏法にはないのです。
また、創価宗では、『日女御前御返事』の、
◆此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり(全集1244頁)
◆此の御本尊も只信心の二字にをさまれり(同頁)
等の御文を挙げて、信心修行をする衆生の胸中にこそ本尊があるなどと言っておりますが、この御文は、信心唱題という衆生の観心が成就するとき、御本尊と衆生とが一体の境地となり、衆生凡夫の生命に仏の事の一念三千の当体が宿ることを示されているのでありまして、創価宗のように、一切衆生を成仏せしめる御本仏の御当体たる「御本尊」と、成仏を願って信心修行に励む衆生の「観心」とを混ぜ合わせて論じてはならないのです。
現に、我々がいかに信心唱題に励んだからといって、この肉団が礼拝の対境となるはずはありません。
また、彼等は日寛上人の『観心本尊抄文段』のなかから、
◆但本尊を信じて妙法を唱うれば、則ち本尊の十法界全くこれ我が己心の十法界なるが故なり(『日寛上人文段集』471頁)
◆仏心も妙法五字の本尊なり。己心もまた妙法五字の本尊なり(同471頁)
◆若し信心なくんば一念三千の本尊を具せず(同465頁)
◆若し一念の信心あらば即ち一念三千の本尊を具す(同466頁)
などの御文をもって、我々の己心に本尊があるとの証拠としておりますが、これらの御文はいずれも、日寛上人が「観心」と「本尊」を立て分けて解釈されるなかの、「観心」の解釈部分であって、創価宗では、最も大切な「本尊」に関する、
●観心の本尊とは(中略)文底深秘の大法にして本地唯密の正法なり(中略)これ則ち蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人所修の明鏡なり(同443頁)
●就中(なかんずく)弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり(同452頁)
などの御教示を故意に隠した、いわゆる「切り文」をしているのです。
宗祖日蓮大聖人の仏法は、あくまで文底下種の法体たる本門戒壇の大御本尊が中心であり、間違っても衆生の機根を中心にしてはなりません。
創価宗は、この「法と機根の関係」に迷い、「能化と所化の関係」を顛倒し、混乱して、信心修行をする衆生の肉団のなかに本尊があるなどという、珍無類、古今未曾有の新義・邪説を吐くに至ったのであります。
<学会こそ大聖人直結の信心であるとの妄説を破す>
創価宗では、学会こそ「大聖人直結の信心」であると、得意になって言い続けております。
その文証を、
◆日蓮と同じく法華経を弘むべきなり(全集903頁)
◆日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか(同1360頁)
等に求め、この文が、まさに「大聖人直結」の信心と実践を意味するなどと言っています。
この主張は、まさに日興上人、日目上人等の唯授一人の御歴代上人を飛び越えた、不知恩の暴論であります。
この御文の、「日蓮と同じく」「日蓮と同意」等の文意は、日蓮が弟子檀那等は、日蓮大聖人の立正安国の精神をもって弘教に精進せよ、との御意であり、これを大聖人直結の文証とすること自体、為にするこじつけ以外の何物でもありません。
このような偏見は、日興上人の、
●案のごとく聖人の御のちも、末の弟子どもが、誰は聖人の直の御弟子と申す輩多く候。これらの人謗法にて候なり
等の仰せに違背した大謗法の邪義であります。
また、これらの暴論は、大聖人御入滅後百年頃、世に出て「経巻相承」を唱えた、邪宗・顕本法華宗の玄妙日什が、
◆直ちに日什は仰いで日蓮大聖人に帰する処なり
と「大聖人直結」を主張したのと同じ邪義邪説であります。
<唯授一人法体の血脈などない、との邪義を破す>
次に、「大聖人直結の信心」をこじつけたい創価宗にとって、「唯授一人法体の血脈」ほど、邪魔なものはなく、それを否定するために彼等は、
◆「血脈」は「信心の血脈」以外には、全くありえない。もし、これ以外の「血脈」を立てる者がいれば、それは取りも直さず、大聖人の仏法から逸脱した邪義にほかならない
と主張し、その証拠には、
◆相承の原点とも言うへき『二箇相承』や『日興跡条々事』のどこにも見いだすことはできない
等の暴言を吐いております。これらは学会員を欺くため以外の何物でもありません。その証拠には、かつては創価学会においても、これらの文を「法体の血脈相承」を証明する文として用いてきたのです。
いわゆる、『折伏教典』の「第9章、日蓮正宗の歴史」において、二箇相承を出して、唯授一人の血脈相承を証明し、さらに
●(日興上人は)ご入滅にさきだち、第3世として日目上人を選ばれ、日蓮大聖人からご相伝されたいっさいを日目上人にご付属あそばされた(同書209頁)
と、『日興跡条々の事』を文証とし、さらに、
●日目上人は第4世として日道上人にご付属になり、それより今日の第66世の現御法主日達上人にいたるまで、法灯連綿と嫡々のご相承を伝承されてきているただ一つの正しい日蓮正宗がすなわち富士大石寺である(同210頁)
と明言してきたのです。
また、戸田城聖氏は、
●ただ日興上人お一人に、いっさいのものをお譲り渡しになっています。それが、堀米日淳65世猊下まで、血脈相承といって、われわれの御法主上人に、法水の容器は違うが、その内容は一滴ももらさずに伝えられてきているのです。だから御法主上人だけが、御本尊様をしたためることのできる方なのです(『戸田城聖全集』第2巻37頁)
と、日蓮正宗の法義に則った指導をしてきたのです。
また、池田大作の監修による『生死一大事血脈抄』の講義では、
●「信心の血脈」とは、日蓮大聖人の正法を伝えてきた日蓮正宗の正しい信仰でなくては、いかに法華経を持っているといっても無益であり、成仏の道に入ることはできないということである(『日蓮大聖人御書講義』第30巻上-58頁)
●「法体の血脈」についていえば、久遠元初自受用報身如未の再誕たる日蓮大聖人の御生命こそが、生死一大事血脈の究極であられ、その大聖人の御生命をそのまま移された法体が南無妙法蓮華経の大御本尊である。その血脈は、唯授一人血脈付法の代々の御法主上人が伝持されるところである(同59頁)
などと言っていたのです。
また、平成2年12月23日、創価学会が宗務院に対して詰問した、あの不遜な9項目の『お伺い』のなかでは、
●私どもは、日蓮正宗にとって根本たる法主の血脈を、状況次第でいとも簡単に否定し、あまっさえ恐れ多くも猊下を裁判で訴えた正信会の行動は、信心の狂いの極みであり、悪鬼入其身の所業以外の何ものでもなく、人間としても最も糾弾されてしかるべきであると思っております
と言っていたのです。それらをことごとく不問にした揚げ句、平成5年12月号の『大白蓮華』には、「御本尊授与」と題する漫画入りの記事のなかで、
◆例えば第56世日応上人の著作のなかに、血脈相承を二つに分けて、"別付嘱の法体相承"と、"総付嘱の法門相承"があると書かれていて、法門相承は大聖人門下のすべての人が受けるが、法体相承は「唯授一人」だ、とされているわけだ。現宗門は、この立て分けを展開して、法主だけに「法体の血脈」が流れているという邪義を唱えているわけだよ(同誌62頁)
などと宣伝しております。このように、不都合な部分はすべてなかった、ことごとく邪義であった、歴代法主の指南は全部間違いであったとして削り取るのが、創価宗の常套手段なのです。
まさに「悪鬼入其身」の所業を平然とやって、会員を地獄の道連れにしているのが、恐るべき創価宗の実態であります。
<法主による允許・開眼の不要を主張>
次に、御法主による允許・開眼について、創価宗では、
◆”古来、御本尊は常に法主によって御開眼され、総本山より下付されてきたものである”などと言っているが、これが、まず真っ赤な大ウソです(『聖教新聞』H5.9.12)
と言い、さらに、
◆だいたい法主だけしか開眼できないなどという特別な秘伝など、御書のどこにあるのか。すべて信徒の目をくらます、まやかし以外の何ものでもない(同紙)
との暴論を吐いております。
しかし、古来本宗においては、御本尊書写、ならびに御開眼が法主上人の権能であることは、誰でも知っている当然のことです。
この700年の伝統、67代にわたって守ってきた相伝の法義を、創価宗の輩は「法主による開眼の文証が御書のどこにもない」などという、愚にもつかない理由で、本当に覆すことができると思っているのでしょうか。
宗祖大聖人は、開眼について、
●木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし(全集366頁)
●此の画木(えもく)に魂魄と申す神(たましい)を入るる事は法華経の力なり(同1145頁)
と仰せられ、法華経をもとにして御開眼すべきことを教示されております。
また、第31世日因上人は、
●木絵の二像は本(も)と草木にて有り、然るを生身の妙覚の仏と開眼したまふ事は大事至極の秘曲なり、日蓮聖人乃至日因に至る迄三十一代累も乱れず相伝是れなり
と仰せのように、大聖人以未今日に至るまで、厳然と御歴代の法主上人に相伝される大事の秘法によって、御開眼がなされてきたことは疑いのない事実なのです。
過去60年の間、この法義に従って信仰してきたにもかかわらず、突如として伝統の法義を改変し、異義・邪説を唱える創価宗は、まさに狂気の大謗法集団と言う以外にありません。
<宗門よりのハガキについて>
なお、御承知のとおり、宗内各寺院より、ハガキ・力ードをもって「ニセ本尊」を破折しました。これに対し、創価宗では、「折伏経典を切り文した」などと騒ぐ程度で、結局のところ、ハガキの文章に対しては何らの反論もできません。それにもかかわらず、婦人部・青年部を中心とした一部創価宗の輩は、全国の寺院や法華講員に対して、暴力的な威嚇行為や、いやがらせをしております。このような悪あがきの行動は、むしろ創価宗内部が、相当の動揺を来たしており、組織地盤の冷却化を心配している証左といえましよう。
このような状況下にあって、私ども僧侶は大きな慈悲をもって気の毒な創価宗の人々を、真の成仏の境界に導くべく、積極的に再折伏を行っていくべきであります。
以上、各項目に分けて彼等の邪説を破折してまいりましたが、冒頭にも言いましたように、彼等の邪義はすべて能所の惑乱、すなわち法義と修行の惑乱に起因しており、彼等はこの能所の立て分けをぼかし、法義と修行の立て分けを打ち消すために、僧侶は不要、法主の権能は単なる役割、宗教的権威は悪、唯授一人の血脈は無用、法体相承は後代の偽作、などと喧伝し、「大聖人直結」なる悪義をもって会員を洗脳せんとしているのです。
私達は、この迷乱、惑乱による創価宗の邪説をはっきりと見破り、粘り強く破折の鉄槌を加えていかなければなりません。
今や創価宗にあるものは、名聞名利に狂奔する怨念の権化・池田に盲従することしかできない会員と、乱立する会館や講堂、そして虚飾に彩られた機関紙の活字だけであり、本来根本となるべき宗教と信仰は完全に死滅していると、声を大にして言いたいのであります。
今こそ私達は、御法主上人猊下の御指南を身に体し、破邪顕正と正法厳護のために勇猛精進する時であります。
最後に皆様の一層の御精進と御健勝をお祈り申し上げまして、創価宗の「ニセ本尊」販売に関する破折とさせていただきます。