創価学会破折
教学全般



重大な誤りを含んでいた学会用語/『慧妙』H25.10.1

異体同心/『慧妙』H16.4.16

「一閻浮提総与」の意味を弁えぬ学会/『慧妙』H26.7.1

戒名/『慧妙』H20.3.1

倶体倶用の三身/『慧妙』H20.9.1

御供養の本義/『慧妙』H19.5.1

外護/『慧妙』H19.9.1

化法と化儀/『慧妙』H20.5.1

広宣流布/『慧妙』H16.1.16

戸田会長の「獄中の悟達」

三大秘法/『慧妙』H16.11.16

四箇格言/『慧妙』H19.6.1

正宗分・流通分/『慧妙』H20.4.1

随自意と随他意/『慧妙』H18.6.1

知恩・報恩/『慧妙』H20.6.1

転重軽受(宿命転換の原理)/『慧妙』H15.10.16

塔婆供養/『慧妙』H19.10.1

登山/『慧妙』H20.1.1

「日本の柱」とは/『慧妙』H19.7.1

学会流「破邪顕正」とは/『慧妙』H19.8.16

「法華弘通のはたじるし」について/『慧妙』H28.2.1

仏法の師と人生の師?/『慧妙』H20.8.1

「仏法は勝負」について/『慧妙』H17.8.1

本尊(「本尊は胸中にある」破折)/『慧妙』H17.5.1

聞法下種と発心下種/『慧妙』H16.6.16

「仏は人に尽くすもの」!?/『慧妙』H18.11.16



重大な誤りを含んでいた学会用語

―知らずに使ううちに邪義・邪信に染まる―
(『慧妙』H25.10.1)

 日蓮大聖人が、
 「文字は是(これ)一切衆生の心法の顕はれたる質(すがた)なり。されば人のかける物を以て其の人の心根を知って相(そう)する事あり」(御書P36)
と仰(おお)せのように、文字・言葉は非常に大切なものであり、仏法においても、文字・言葉を通じて仏の御教えを知っていくことができます。
 それ故、もし文字・言葉によって表わされた内容に誤りがあれば、仏の正しい御教えに到達するどころか、かえって邪義邪信に堕(だ)することにもなりかねないのです。
 さて、創価学会におきましては、仏法の教えを平易な言葉で表現し、それが多くの人々に受け入れられてきましたが、じつは、その中に重大な誤りがいくつも含まれていました(それが、創価学会が正しい仏法から逸脱する要因の1つともなっていた、といえましょう)。
 以下、創価学会の中で使われていた"誤った言葉や用語"の主なものを挙(あ)げてみます。

【1.題目を送る】
 よく学会内で使われていた「題目を送る」という表現、これを言い出したのは池田会長(当時)その人でした。
◆私には全部わかっている。又、本部から、いつも会えないから電波を発信しているのだけれども、いくら発信しても受信機が壊(こわ)れていては何もならない。(『前進』)
◆皆さん方に題目を送ります。皆さん方もしっかり題目をあげてほしい。送信機がいくら立派でも、受信機が壊れていてはだめだ。(『前進』)
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 これを分かりやすく言えば、池田会長が発した題目の功徳が御本尊を経由して会員に届く、ということになります。だとすれば、御本尊は池田会長と会員をつなぐ仲立ちにすぎず、池田会長こそが会員に功徳を送る源(みなもと)、ということになってしまいます。
 これでは、まさに池田本仏論であり、増上慢(ぞうじょうまん)この上ありません。
 また、こうした池田の口マネをして、「あなたに題目を送ってあげる」等という言い方をしていた人達も、自ずから増上慢の心を醸成(じょうせい)して罪障(ざいしょう)を刻(きざ)んでしまった、と知るべきでありましょう。

【2.仏とは生命なり】
 「仏とは生命なり」とは、2代・戸田城聖会長が獄中で述べた言葉、とされています(正確にそのとおりの言葉であったのか、定かではありませんが)。
 この言葉が元となって、後に「本尊とは人間生命の当体である」との邪見が生まれ、さらに「本門戒壇の大御本尊から離れても、我々の生命自体が本尊なのだから大丈夫」との大謗法思想が生まれました。
 しかし、仏(仏界)とは、我々衆生の生命の中の十種の境界(十界)の1つであって、生命には、他にも地獄・餓鬼・畜生等の低下(ていげ)の境界も具(そな)わっているのですから、十界から成(な)る衆生の生命そのものを「仏なり」ということは誤りです。
 ことに宇宙法界の真理を悟(さと)ったわけでもない、我々凡夫の生命を、直ちに仏であるとすることは、
 「謂己均仏(いこきんぶつ)の大慢」(御書P397)
となるのであります。

【3.御本尊送り】
 学会では、会員宅に幹部が行って御本尊を御入仏することを「御本尊送り」と呼んでいました。
 これも、よく考えてみればおかしな話で、"精霊(しょうりょう)流し"ではあるまいし、大事の御本尊を会員宅へ送ってしまう、という発想自体が、御本尊をモノ扱いする軽善(きょうぜん)謗法です。
 宗門では古来より、仏様の当体である御本尊は、あくまでも願主の願いによって貸与し(譲渡するわけではない)、願主宅に「御入仏」申し上げる、と教えられてきたのであります。

【4.脇士を作る】
 よく学会の活動家幹部に対して、いわゆる大幹部と称する人達が「脇士(わきし)を作りなさい」と指導していました。つまり、自分が学会幹部として活動するのをサポートしてくれる後輩を育てろ、という程度の意味であろうと思われます。しかし、「脇士(※きょうじと読みます)」とは、
 「小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為(な)し、権大乗並びに涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢等を以て脇士と為す」(御書P654)
等と仰せのように、本尊の両脇にあって、その化導を助ける所従(しょじゅう)のことですから、我々が自分に脇士を作ろうとしたら、他ならぬ自分が本尊となってしまいます。
 そのような言い方は、気付くと気付かざるとに関わりなく、増上慢に陥(おちい)る、と知るべきでありましょう。

【5.人間革命】
 学会では、その人の罪障消滅がなされて境涯が開けてゆくことを「人間革命(する、した)」と称し、個人における信心の目的であるとしていました。
 要するに、仏法の目的である「即身成仏」を、学会流に「人間革命」という平易な表現に置き換えていたものと思われます。
 しかし、革命とは暗者が別な有徳者に替わるという意味であり、誰人の生命にも具わる仏界を拓(ひら)いて即身成仏するのとは、根本的に意味の違いがありますので、適切な言い替えとはいえません。
 さらに、昭和49年、池田大作が中国を持ち上げる目的で著述した『中国の人間革命』(※なんと、仏法を信じていない中国の偉人達が人間革命している、というのです!?これでは何のために信心しているのか、わからなくなってしまいます)という本が出たとき、とうとう66世日達上人は
 「偉大な人物は世間にはたまたまあるかもしれないが、即身成仏のできる偉大な人物となるには、出世間法の大聖人の教えを信じて唱題修行しなければ不可能なことである」(『大日蓮』S50.1)
と仰せられ、池田のいう「人間革命」と、仏法の目的である「即身成仏」とは異なることを明らかにされ、池田の迷妄を打ち破られたのです。
 したがって、信心する最大の目的が「人間革命」である、などと思っていくと、即身成仏という、仏法修行の大目的を見失うことになってしまいます。

【6.総体革命】
 近年ではあまり耳にしなくなりましたが、昭和40年代の創価学会では、盛んに「総体革命」という言葉が使われました。それは、即身成仏を人間革命に置き換えたように、広宣流布・立正安国を学会流に置き換えた言葉でした。
 しかし、その意味するところは、池田自ら
 「要所要所を全部ね、学会員で占めなかったら広宣流布出来やしませんよ。天下取るまで諸君は大事な体だから……」(『聖教新聞』S32.9.6)
等と語っていたように、日本の国家機構の要所要所に創価学会員を送り込んでこれを掌握(しようあく)し、最後は政権を取って日本国を乗っ取る、という、とんでもない野望だったのです。
 こうした考え自体が、仏法を利用する摧尊入卑(さいそんにゅうひ=尊〈とうと〉く勝れたものを砕いて、卑〈いや〉しく低いものの中に取り入れること)の大謗法です。

【7.学会人】
 学会では、創価学会員のことを指して、好んで「学会人」という呼び方をし、一般世間の人々との区別をつけていました。まるで、日本の国にあって、日本人の他に学会人という人種がいるかのごとくです。
 しかし、日蓮大聖人の仏法は、
 「智者とは世間の法より外に仏法を行(おこなわ)ず」(御書P925)
 「中務(なかつかさ)三郎左衛門尉は主の御ためにも、仏法の御ためにも、世間の心ねもよ(吉)かりけりよかりけり」(御書P1173)
等と仰せのように、その国、その社会の人々を、正法によって立派に蘇生(そせい)させていくものであり、その国や社会からはみ出す別な人種や組織を作るものではありません。
 そこがわからないから、学会員は社会からはみ出す嫌われ者となってしまうのです。
◇◇◇
以上、限られた紙面で全てを尽くすことはできませんが、誤った学会用語を使っているうちに、知らず知らず正しい仏法から逸脱し、自身も罪障を積むことは必定です。一刻も早く創価学会と訣別し、正法正義に帰依(きえ)するべきでありましょう。





異体同心

―「異体同心」を"同好の士"と捉(とら)えた学会人数の拡大だけを追求してきた創価学会―
―本意は「正師に随順し、同心する」こと―
(『慧妙』H16.4.16参考)

<「異体同心」は成仏の要諦>
●異体同心なれば万事を成じ、同体異心なれば諸事叶ふ事なし(中略)一人の心なれども二つの心あれば、其の心たが(違)いて成ずる事なし。盲人千人なれども一つ心なれば必ず事を成ず(中略)日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成じて、一定(いちじょう)法華経ひろまりなんと覚へ候(『異体同心事』御書1389、全集1463頁)
●日蓮が弟子檀那等自他彼此(じたひし)の心なく、水魚の思ひを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり。然(しか)も今日蓮が弘通する処の所詮(しょせん)是なり(『生死一大事血脈抄』御書514、全集1337頁)
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 日蓮大聖人の弟子檀那たる者は異体同心でなくては何事も成就しない、異体同心して信心に励むところに、仏の大生命が涌現して即身成仏が叶う、と異体同心の大切なることをお教えくださっている。
 異体同心とは、個性や姿かたち、人生経験、職業、生活環境などがそれぞれ異なる人々が、心を同じくし、一致団結した姿で正法の信仰に邁進(まいしん)することをいうのだが、ここで大切なのは、何に心を同じくするのか、ということである。


<大聖人に「同心」>
●いかにも今度(このたび)信心をいたして法華経の行者にてとを(通)り、日蓮が一門とな(成)りとをし給ふべし。日蓮と同意ならば地涌(じゆ)の菩薩たらんか(『諸法実相抄』御書666、全集1360頁)
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日蓮大聖人の弟子檀那として、本師である日蓮大聖人の御意に同心(同意)していく、ということである。


<大聖人滅後は歴代上人に「同心」>
●釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当たるべきなり、背く在家出家どもの輩は非法の衆たるべきなり。(『池上相承書』全集1600頁)

●直授結要付属は一人なり、白蓮阿闍梨日興を以て惣貫首と為して日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず悉く付属せしめ畢んぬ、上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て惣貫首と仰ぐ可き者なり。(『百六箇抄』全集869頁)
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第59世日亨上人は「後加と見ゆる分の中に義において支語なき所には一線を引き」(『富士宗学要集』第1巻25頁)とあるごとく、史伝書その他多くの文献にあたられ、さらに血脈相伝の上から内容に於いて正しいと判断されたから御書にも掲載されたのである。

●日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり(『御本尊七箇相承』/『富要』第1巻32頁)
●明星直見の本尊の事如何、師の曰はく末代の凡夫・幼稚の為めに何物を以つて本尊とす可きと・虚空蔵に御祈請ありし時古僧示して言はく汝等が身を以つて本尊と為す可し(中略)釈迦古僧に値ひ奉つて塔中に直授せるなり貴し貴しと讃め被れたり、(中略)仍つて本尊書写の事・一向日興之を書写し奉る可き事勿論なるのみ。(『御本尊七箇相承』/『富要』第1巻32頁)
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「日蓮在御判と嫡々代々と書くべし」「代々の聖人悉く日蓮なり」とあり、「一向日興之を書写し奉る可き」とあることから、御本尊書写の権能が歴代上人に限ることが分かる。これは、大聖人の御内証が、唯授一人の血脈相承によって、歴代上人に伝持されているからに他ならない。何故なら、大聖人の御内証を書写することが本尊書写なのだから。

●宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。(第26世日寛上人『撰時抄愚記』/『日寛上人文段集』聖教新聞・初版271頁)
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「塔中及び蓮・興・目」とあるように、塔中における上行菩薩への別付嘱が、唯授一人血脈相承として歴代上人に伝わっている。

●仏に通達する道程は必ず師匠に由らざるを得ず・仏の法を受取るには是非とも師範の手を経ざるを得ず(中略)三世十万の通軌なれば・釈尊は釈葉仏に宗祖は釈尊に開山は宗祖に寛師は永師に霑師は誠師に師侍し・もたげ給ふ、師は針・弟子は糸の如く・法水相承血脈相伝等悉く師に依つて行はる、師弟の道は神聖ならざるべからず・世間の利害を離れて絶対ならざるべからず、(中略)「師匠の所を能々取り定めて信を取るべし」と仰なるは、千古の金言として仰ぐべき事なり(第59世日亨上人『有師化儀抄註解』/『富士宗学要集』第1巻124・125頁)

●御相伝となりますれば直接御指南の金口嫡々の御相承や宗門の上の御教示等重々あらせられると拝しますが、それは御法主上人として大事大切なことでありまして、一般の僧侶や信徒としては御法主上人に随順し奉ることによって、自ら受けることができるのであります。それ故此には従来拝読を許されてをる御相伝書を挙ぐるに止めたのでありまして、此れを以て全部であると速断してはならないのであります。(第65世日淳上人『日淳上人全集』1150頁)

 大聖人御入滅後は、大聖人の御代管である血脈付法の御法主上人猊下を本師と仰いで、その御意・御指南に同心していくのである。
 つまり、ただ信者同士で「仲良くしよう」とか、「あの人とは気が合うから異体同心だ」というような、世間的な仲間意識や単純な横の連帯感を異体同心ご呼ぶのではなく、縦に正師に信伏随従していく、異体である一人ひとりが、弟子の道に徹して正師のもとに同心していく―、このような姿を異体同心というのである。
 そこには、あえて横の団結を作ろうとしなくても、自ずと師弟子を軸にした、強固な全体の団結が計られていくことは、いうまでもない。
 このように、本師である日蓮大聖人と御法主上人に正しく異体同心していくところに、一生成仏も叶(かな)い、広宣流布も成し遂げることができるのである。
 この点、正師を失った(というより、自ら捨てた)池田創価学会においては、「異体同心の団結」だの「連帯」だのといっても、非常に空(むな)しいものがある。


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(※『生死一大事血脈抄』の御文を引いて)「自他彼此の心なく」とは、同じ大聖人門下同土で、相対立し排斥し合う心がないことです。
 「水魚の思いを成して」とは、お互いをかけがえのない不可欠な存在として大切に思う心、お互いを活かす心といえます。
 このように、心を1つにしてお互いに助け合うさまが、「異体同心」です
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 これでは、ただ仲間だから大切にし合って仲良くしよう、ということでしかなく、世間のボランティアや互助会と大差がないではないか。
 しかも、「先生の心に1つ」とも言っていることからすれば、"大謗法で凝り固まった池田に同心する"会員の末路が思いやられ、本当に哀れでならない。
 また、「池田先生に難癖をつけて攻撃し、学会を破壊しようとした日蓮正宗は、異体異心の典型。異体同心の城を破る者」(趣意)などと、日顕上人や日蓮正宗を誹謗(ひぼう)するに至っては、その本末顛倒の内容に怒りが込み上げてくる。
 御金言のとおり、本師である日蓮大聖人と御法主上人に異体同心して、広宣流布へと前進すべきところ、宗門支配かしからずんば独立、などという計画を抱き、異体異心の者となって城を破ったのは、他ならぬ池田創価学会である。よくよく自らを省みるべきである。
 最後に、『生死一大事血脈抄』の御文について少々述べておきたい。
 「自他彼此の心なく、水魚の思ひを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る」
とは、
 「大聖人と自分とは違うというような心ではなく、魚が水が無くては生きられないように、自分は大聖人や御本尊がなくては生きていけないという思いで、大聖人に随(したが)って南無妙法蓮華経と唱える」
という意味である。





戒名(仮題)

―戒名は仏門に帰依した証拠となるもの―
―戒名無用用論は仏弟子たるの放棄と同義―

(『慧妙』H20.3.1)

 池田創価学会では、「大聖人の時代には戒名はなかったので、戒名は不要である」として、学会葬の際には「本名」で行なえばよい、としています。ここで、「俗名」ではなく「本名」といっているのは、"戒名に対するのが俗名であるが、戒名はもともとないのだから、本名となる"ということだそうです。
 これだけを聞いても、戒名を、芸能人や作家が使う芸名やペンネームか何かと勘違(かんちが)いしているのか、と思ってしまいますが、仏道修行における戒名には、大切な意義があるのです。
 戒名とは、法名ともいい、そのはじめは、出家して仏道に帰依し、戒を受けた者に対して、俗名を捨てさせ授けられたものです。のちに、在家のままで仏門に帰依し、授戒を受けた者も、戒名をいただくようになり、また、生前戒名を受けていなかった者には、死後に与えられるようになりました。
 本宗においても、昔は、御授戒の時に戒名を授(さず)けられたこともあったようですが、現在は、亡くなったときにいただく、という形になっています。
 これは、大勢の人達が入信してくるようになった近年において、入信はしたもののすぐに退転してしまうケースもあることから考えれば、やむをえなぬことといえましょう。
 というのは、御授戒と同時に、仏弟子としての立派な名前を頂戴(ちょうだい)したけれども、すぐに退転してしまった、などということがあってはならないからです。そこで、一生を終えた時点で、生前の信仰を見極めて戒名が授けられる、という形になったのでありましょう。
 さて、学会は、「大聖人の時代には戒名はなかった」などと言っていますが、本当に知らずに言っているとしたら、無知もいいところ、恥ずかしいかぎりです。
 大聖人の御父は妙日、御母は妙蓮、また、大石寺の開基檀那となった南条時光殿は大行、曽谷教信殿は法蓮―等々、大聖人の御在世から戒名が存したことは、歴とした事実です。
 この戒名の大事について、第9世日有上人は、『化儀抄』に次のように仰せられています。
 「仏事追善の引導の時の回向の事、私(わたくし)の心中有るべからず。経を読みて此の経の功用(くゆう)に依(よ)って、当亡者の戒名を以って無始の罪障を滅して成仏得道疑いなし。乃至法界平等利益。」
 これは、法事や葬儀の導師をする御僧侶の心構えを示されたものですが、法事における追善供養や葬儀における引導の回向をする時は、いささかの私心も持たず、虚心坦懐(きょしんたんかい)にて行なわなければならない、とされ、"この御本尊の功力を信じて一心に読経唱題していくならば、亡くなった人の戒名をもって、無始以来の罪障を消滅し、成仏することは疑いない"と仰せられているのです。
 ゆえに、第59世日亨上人も、
 「亡霊への回向には、其導師たるもの少しも私の意志を挟(はさ)むべからず、御経の功用に任すべし、此時は蓋(けだ)し、戒名に意義ありと意得べしとなり」
と仰せられ、第66世日達上人も、
 「追福作善の法事、あるいは葬式の引導の回向には、導師となる人は、虚心坦懐、いささかも私心を持ってはいけません。ただ読経唱題して、『妙法経力即身成仏』の功用にまかせる時、その亡者を戒名によせて、その亡者の無始以来の謗法罪障を消滅し即身成仏は疑いないのであります」
と御指南されているのであります。
 今日、戒名をいただく場合、生前において立派に仏道修行をしぬいてきた上で頂戴する戒名、信仰はなかったけれども、葬儀を出す時点で初めて仏弟子の末席に加えてもらって頂戴する戒名、と、信仰の度合いに応じた違いがありますが、いずれにしても、「導師の御僧侶が、戒名を持った仏弟子として、その人の罪障消滅を願っていくとき、その人の罪障消滅・即身成仏が叶(かな)う」ということでありますから、戒名にはじつに重大な意味があることを知るべきであります。
 それを、「昔は戒名はなかった」「戒名はいらない」などということは、仏法に対する冒涜(ぼうとく)であり、自ら仏弟子たることを放棄しているとしか、いいようがありません。
 有り難くも、御本仏日蓮大聖人の弟子信者の末席に加えていただいた私達は、大聖人の仰せどおりの信仰を全うし、大聖人から「立派な仏弟子であった」とお認めいただけるよう、自行化他の修行に精進してまいりましょう。そして、縁のある人達が、1人でも多く仏弟子となれるよう、しっかりと折伏を行じてまいろうではありませんか。





倶体倶用の三身(仮題)

―倶体倶用の三身とは目蓮大聖人の御事―
―「学会の活動は用の三身」とは憍慢至極―

(『慧妙』H20.9.1)

 倶体倶用とは、体と用が倶(とも)に具(そな)わっていることをいいます。体というのは本体のことをいい、用とはその働きのことをいいます。
 そして、三身とは、仏の三種の身のことで、法身(仏の悟〈さと〉りそのもの)・報身(仏の智慧)・応身(衆生を救済する仏の振る舞い)のことをいいます。
 つまり、倶体倶用の三身とは、仏の生命の体も働きも、倶に具えた仏のことをいうのです。
 釈尊の爾前経や法華経迹門では、法身を体、報身・応身を用として、種々説かれていますが、法華経迹門に至って、はじめて、三身が一身に円満に具わることが明かされます。
 しかし、迹門の仏は始成正覚ですから、体である法身の常住は説いても、用である報身は有始無終、応身は今世のみ、ということになり、三身が常住とはなりません。
 これに対して、法華経本門では久遠実成が明かされ、法報応の三身の常住が説かれます。
 しかし、この久遠実成の仏も、久遠元初の無作三身からみれば、迹仏、すなわち用の仏となるのです。
 『諸法実相抄』に、
 「釈迦・多宝の二仏と云ふも用の仏なり。妙法蓮華経こそ本仏にては御坐(おわ)し候へ。経に云はく『如来秘密神通之力』是なり。如来秘密は体の三身にして本仏なり。神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし。凡夫は体の三身にして本仏ぞかし。仏は用の三身にして迹仏なり。(中略)天台の釈に『如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり』と判じ給へり。此の釈に本仏と云ふは凡夫なり、迹仏と云ふは仏なり。然れども迷悟の不同にして生仏異なるに依って、倶体倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり」(御書665頁)
と仰せのように、真実の倶体倶用の三身とは、久遠元初の無作三身、すなわち凡夫即極の本仏・日蓮大聖人の御事であります。
 このように、倶体倶用の三身とは、仏、及び仏の化導に対して用いる言葉なのです。
 ところが、池田創価学会では、かつて、次のような論を展開していました。
 「宗門に伝持された本門戒壇の御本尊たる法体は、私ども信徒からみれば体の三身となり、広宣流布を目指す創価学会の活動は用の三身を意味するものと見ることができる」云云
と。
 まったく、呆(あき)れて開いた口がふさがらない、とはこのことです。
 先程も述べましたように、三身とは仏の御身であり、体も用も倶に具わっている倶体倶用の三身こそ、久遠元初の御本仏日蓮大聖人であられるわけですから、そもそも大聖人の仏法において、「体の三身」「用の三身」を分けることはありえません。
 しかも、仏や仏の化導に約する言葉を、「創価学会の活動は用の三身」などと、信徒の組織活動に当てはめること自体、憍慢(きょうまん)以外の何物でもないではありませんか。
 さらに学会は、
 「つまり、創価学会を通じてのみ、日蓮大聖人の法体が何であるかを理論上も生活上の実感としても知ることができたわけです」
などと嘯(うそぶ)いていましたが、本当に日蓮大聖人の法体が何であるか、その一分でも知ることができたのなら、何故、法体である本門戒壇の大御本尊から離れて平気なのでしょうか。何故、法体を厳護する日蓮正宗を滅ぼさんとして誹謗攻撃できるのでしょうか。
 結局、それらしいことを言ってはみたけれども、池田創価学会では、日蓮大聖人の仏法の何たるかが、まったくといってよいほどわからなかった、ということであります。
 私達は、自らの自行を磨き、哀れな創価学会員を救うため、また、立正安国の実現に向けて、さらなる折伏行に邁進(まいしん)してまいろうではありませんか。





御供養の本義

―「"まことの人=創価学会"に御供養」!?―
―御供養とは三宝に捧げるものだ!―

(『慧妙』H19.5.1編集)

 池田創価学会は、何かにつけて、「日蓮正宗は金儲(もう)け主義だ」「御供養地獄だ」などと誹謗(ひぼう)してきます。また、かつて戒壇の大御本尊が御安置されていた正本堂が解体されるや、"御供養返還訴訟"なるものを、全国規模で起こしたりもしました(ちなみに、平成12年1月から4月までのわずかな期間に、全国各地で39件、420名の創価学会員によって提起された正本堂関連訴訟は、すべて最高裁で宗門側が勝訴しました)。
 では、"日蓮大聖人の正義は創価学会にある"と言って憚(はばか)らない彼等にとって、「御供養」とはどのようなものなのでしょうか。
 そもそも御供養とは、仏法僧の三宝に対して、崇敬の真心をもって諸物・浄財を捧(ささ)げることで、在家信徒にとって大切な仏道修行の1つです。
 日蓮大聖人は、
 「在家の御身は但余念なく南無妙法蓮華経と御唱へありて、僧をも供養し給ふが肝心にて候なり。それも経文の如くならば随力演説も有るべきか」(『松野殿御返事』御書1051、全集1386頁)
と仰せられて、在家信徒の仏道修行というのは、余念なく題目を唱えて勤行に励み、御供養をし、折伏をする、この3つが肝要である、とお示しくださっています。
 なぜ、御供養が在家信徒にとって大切な仏道修行なのか―それは、御書に種々お示しですが、一言でいうならば、私達衆生は、仏法僧の三宝があってはじめて、成仏することができるから、であります。
 つまり、仏は、私達衆生を救済するためにこの世に出現され、法を説いてくださり、その法を正しく学んで、後世へ守り伝えてくださるために僧がおられます。
 私達が今、唯一最高の成仏法に巡り合え、罪障消滅して成仏が叶(かな)うのも、御本仏日蓮大聖人、大聖人建立の大御本尊、そして、大聖人の正法を7百年以上にわたって守り伝えてくださった御歴代上人と本宗御僧侶の存在なくしては、ありえなかったことであります。
 ですから、現実の世の中において、御供養をもって三宝の存在をお守り申し上げ、お支え申し上げていくことは、在家信徒の務めであり、御供養に精いっばいの真心をもって励むところに、大きな功徳が積まれ、成仏が叶うのです。
 ゆえに、大聖人も、真心からの御供養を申し上げた御在世の信徒達に対し、その信心の志をお誉(ほ)めになり、功徳の絶大なことを説かれているのです。
 末法の三宝を正しく仰ぐ日蓮正宗に身を置く私達は、いろいろな機会に御供養させていただけることを心から喜び、精いっぱいの志で臨(のぞ)んでまいりたいと思います。

 さて、末法の三宝を破壊している創価学会、本宗の御供養に難癖(なんくせ)を付ける創価学会では、御供養についてどのように教えているのでしょうか。
 彼等の機関紙に、『南条殿御返事』(御書883頁)の一節を引いて、とんでもない指導(?)が載(の)っていました。
 そこには、"赤誠の御供養に励む時光の信心を讃嘆(さんたん)""「まことの人」への御供養が成仏の要諦(ようてい)"との見出しのもと、
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●まことの心なれども、供養せらるゝ人だにもあしければ功徳とならず、かへりて悪道におつる事候(御書1582頁)
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広宣流布を忘れ、遊蕩(ゆうとう)にふける悪僧への供養は、功徳どころか、「かへりて悪道におつる」のです。

●設ひ心をろ(愚)かにすこ(少)しき物なれども、まことの人に供養すればこう(功)大なり(御書1217頁)
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今日において、「まことの人」とは、大聖人の御遺命のままに広宣流布に前進する創価の友の連帯以外にありません。

師匠である大聖人の生活を支える力になりたい―このやむにやまれぬ思いほど尊いものはありません。
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 これらのことからすると、彼等の主張するところは、"御供養申し上げるべき「まことの人」とは、創価学会なかんずく師匠である池田センセーである"ということになりそうです。
 しかし、これは、とんでもない誤りです。
 なぜならば、御供養とは、冒頭に述べたように、仏法僧の三宝に対して崇敬の真心をもって諸物・浄財を捧げることでありますから、創価学会・池田に御供養するということは、即、創価学会・池田は三宝である、ということになってしまうからです。
 かつて池田は、
 「供養とは、あくまで仏法のためになすのであります。その供養が仏法流布に生かされるならば、在家の身であっても供養を受けられるという思想があります」(昭和52年3月号『大白蓮華』・池田会長、仏法史観を語る)
などと述べて、御宗門から指摘・破折をされた経緯があります。
 当時、第66世日達上人は、これらの誤りを御説法の中で破折されました。以下に謹(つつし)んで引用させていただきます。

供養というのは仏様以外には受けられないんです。何故ならば、仏様のお名前が供養なんです。1つは如来、応供、供養に応ずるというのが仏様です。如来・応供・正偏知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏世尊、この10の名前が仏様の名前でこざいます。そのうちの1つが応供、いわゆる供養に応ずる。供養に応じてこそ本当の仏様である。(第66世日達上人S52.9.16)

 日達上人の仰せのように、御供養を受けられるのは仏であり、間違っても在家に御供養を受ける資格などはありません。
 まして、創価学会・池田大作とは、正しき三宝を護持する日蓮正宗に対して怨念を抱き、限りない誹謗・中傷を浴びせる大謗法、邪宗の中の邪宗でありますから、そのような者に供養することは、まさに「供養せらるゝ人だにもあしければ功徳とならず、かへりて悪道におつる」行為となると知らなければなりません。
 大聖人がお教えくださっている御供養の意義と功徳を拝する時、日蓮正宗の信徒として御供養させていただける身の福運を感じると共に、御供養すべき三宝がない創価学会員は、本当に哀れであると思わずにはいられません。
 私達は、今後も真心からの御供養の修行に励んで功徳を積ませていただき、また、「悪道におつる」学会員を救うべく、唱題を根本に折伏をしっかりと進めて
まいりましょう。





外護(げご)(仮題)

―「内護」と「外護」の両輪で護法が成立―
(『慧妙』H19.9.1)

 日蓮大聖人の仏法に巡(めぐ)り会えた私達は、大聖人の仏法こそが、すべての人々をあらゆる苦悩から救い、1人ひとりの崩れぬ幸福と、真の世界平和を築くことができる、唯一最高の教えであることを知りました。
 ゆえに、まず何よりも、この正法を断絶させることなく護(まも)りぬく、ということが、もっとも大切なこととなるのであります。
 今回は、この正しい仏法を護る―すなわち護法(ごほう)ということについて、学んでまいりましょう。
 護法ということには、「内護(ないご)」と「外護(げご)」の2通りがあります。
 まず「内護」というのは、宗門の内にあって正法を護る、という意味で、大聖人の血脈を受け継がれている御法主上人猊下を棟梁(とうりょう)とする日蓮正宗の御僧侶方が、甚深の正法正義の極理を学び、伝持されている姿がこれにあたります。
 一方、「外護」というのは、外側から正法を護る、という意味で、信徒が、各々の家庭にあって仕事に従事しながら正法を信仰し、折伏弘教によって正法の教勢を拡大しつつ、浄財や世俗的な力をもって、正法の興隆を計る姿がこれにあたります。
 釈尊の説いた『涅槃経』には、
●内に智慧の弟子あって甚深の義を解(さと)り、外に清浄(しょうじょう)の檀越(だんのつ)あって、仏法久住せん
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とありますが、幼い頃から出家されて仏法の研鑽に一生を捧げられる御僧侶方がおられるからこそ、甚深の正法正義が正しく伝持されていくのであり、かつ、御僧侶方から正法正義を教えていただいた在家が、折伏弘教をなし、浄財や世俗的な力をもって支えていくところに、はじめて、正法が正しく、厳格に、未来永劫まで護られていく、といえましょう。
 もし、在家(信徒)だけいて御僧侶がおられなければ、集団はあっても、根本の正法正義が正しく伝持されていないため、どんどんと教義が改変されていき、正法正義は失われてしまいます。逆に、信徒がいない宗門となれば、やはり疲弊(ひへい)を免(まぬが)れえないでしょう。
 言い換えれば、信徒だけの仏教、僧侶だけの仏教、という形は本来ありえないのでありまして、それぞれの使命・役割の異なる僧俗(御僧侶と信徒)が固く結束して、内と外から正法を護っていくことが大切なのであります。
 我が日蓮正宗においては、先程も述べましたように、唯授一人の血脈相承によって大聖人の正義を受け継がれる代々の御法主上人猊下がおられ、また、猊下の御もとにあって正法の奥義を習伝される御僧侶方がおられるからこそ、正法が厳然と守り伝わってきたのであります。そして、それゆえに、信徒も、大聖人の正法正義を信仰でき、一生成仏を叶(かな)えていただけるわけですから、私達法華講は、どこまでも御法主上人と御僧侶方を尊び、僧俗和合の姿をもって総本山や各正宗寺院を外護申し上げる―つまり、信徒としての宗門外護の使命を自覚して、大聖人以来の正当な仏法の流れを、僧俗和合して護りぬいていくことを、根本精神とするのであります。

 さて、かつての池田創価学会も、「総本山外護」「学会は宗門の外護団体」とさかんに言っていました。しかし、彼等のいう「外護」とは、「正法正義を護る」という意味ではなかったようです。
 昨年の池田創価学会の機関紙『創価新報』には、次のような内容が掲載されていました。
◆大聖人の御入滅後、時代を経るにつれて、大聖人・日興上人の御精神はうすれ、昭和初期には、宗門はまさに滅亡の危機を迎えていた。
 そうした状況下で出現したのが、創価学会。
 戦時中、宗門は権力に屈して大聖人・日興上人の「謗法厳誡」の御精神をふみにじったが、学会は「謗法厳誡」の精神を貫(つらぬ)いたため、牧口初代会長、戸田2代会長が逮捕・投獄された。
 戦後、学会は、宗門の外護に尽くし、350ヵ寺以上の寺院を建立・寄進するなど、その発展に尽力してきた。
 広宣流布の大願に生きる創価学会と、僧の権威に固執しようとする宗門との間には、時に摩擦が生じることもあったが、学会は僧俗和合を願い、事態の収拾に尽力してきた。
 にもかかわらず、こうした外護の赤誠を蹂躙(じゅうりん)したのが日顕(上人)である(趣意)
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として、池田を法華講総講頭職から外し、創価学会を破門した67世日顕上人への誹謗を繰り返しているのです。
 この学会の主張をみると、「外護」という言葉は使っていますが、"日蓮正宗宗門に日蓮大聖人の正法正義があるから、宗門・総本山をお護りさせていただくのだ"というものではなく"学会は常に正しい道を進んできた"という、不遜で憍慢(きょうまん)な姿が見てとれます。
 だからこそ、正法を内護してこられた御法主上人や御僧侶方から見て、池田創価学会は明らかに謗法である、と指摘されたとき、正法正義に随(したが)うことができずにかえって猛反発をし、ついに破門となってしまったのでありましょう。
 本当に恐ろしく、また、哀れというしかありません。
 池田創価学会の教宣部や男子部などの折伏の際も、「総本山根本」「血脈の大事」「御法主上人のお立場」について、戸田2代会長やかつての池田の指導(※まともな内容)を挙げて、
 「日蓮正宗の信徒団体だった時の指導と、現在の創価学会の指導とでは、全く正反対ではないか」
と指摘すると、
 「あの頃は、宗門の外護団体だったからな」とか「それは、宗門を外護するために、かばっていたんだ」などと呆(あき)れたことを言ってくるので、
 「では、なぜ宗門を外護していたのか?」
と尋ねると、
 「あの時は外護団体だったから」
としか言えない、という哀れな醜態(しゅうたい)を晒(さら)すのです。
 第66世日達上人は、
 「法華講は、どこまでも法華講の道を保ち、本山並びに自分の寺院と運命を共にする信心を、堅く持っていただきたい」
と御指南あそばされましたが、私達法華講は、宗門外護の大精神を根本とし、日々、自らの信心修行に精進してまいりましょう。





化法と化儀(仮題)

―日蓮正宗の化儀は、即化法―
―化儀軽んずる学会は謗法団体―

(『慧妙』H20.5.1)

 化法とは、仏が衆生を教化するための法、化儀とは、仏が衆生を教化するための儀式、形態という意味です。
 これをわかりやすく説明するために、医者と病人と薬の譬(たと)えが用いられます。すなわち、医者とは仏、病人とは衆生、そして、病人に与える種々の薬が化法であり、またその薬をどのように調合し服用せしめるかという処方箋(しょほうせん)に当たるのが化儀、という関係です。
 釈尊の仏法においては、衆生の素養に応じて、蔵教・通教・別教・円教という4つの法(化法の四教といいます)を、頓(とん)教・漸(ぜん)教・秘密教・不定(ふじょう)教という4通りの化儀(化儀の四教といいます)を用いて、一代50年間にわたって説法し、衆生を教化されました。
 その一々を本項で説明することは、紙面の都合上省略させていただきますが、この釈尊の仏法における化法の四教と化儀の四教は、本已有善の衆生の機根を整えるために用いられた内容であります。
 一方、日蓮大聖人の下種仏法においては、本未有善の衆生に対する教化であり、化法とは文底独一本門の法、化儀とは下種仏法の執行、表明を意味します。
 第9世日有上人は、
 「当宗は第一化儀なり」(『有師物語聴聞抄佳跡上』/『富要集』第1巻198頁)
と仰せられ、第31世日因上人はこれを、
 「第一化儀とは当宗化儀即仏法なるが故に」(同頁)
と釈されていますが、大聖人の仏法においては化儀即化法となります。
 すなわち、日蓮正宗における儀式法要・修行等の一切の化儀は、ことごとくが化法であり、その表明でありますから、けっして軽んじるようなことがあってはいけません。
 私達は、化儀の方式に信順するところに、おのずと大聖人の仏法に則(のっと)った信心を行じていくことができ、利益を頂戴(ちょうだい)することができるのであります。
 池田創価学会では、日蓮正宗の信徒団体であった頃より、寺院で奉修される法要を軽視していました。事実、大聖人に対し奉る御報恩のために奉修されている御講も、また宗門で最重要の法要である御会式も、その意義もさることながら、そういう法要が奉修されていることすら知らない会員が、数多くいたのです。
 このように化儀を軽んじていた在(あ)り方が、大聖人の甚深の化法を軽んじることになっており、そのなれの果てが今日の大謗法化である、ということを思えば、納得がいくというものであります(今では、朝夕の勤行式まで、自分達の懈怠〈けだい〉の心に任せて簡略化してしまっています)。
 また、化法を、その時代に即した形で御指南されるのは、唯授一人の血脈を受けられた時の御法主上人であります。
 たとえば、日興上人が『遺誡置文』に、
 「若輩(じゃくはい)たりと雖(いえど)も高位の檀那より末座に居(お)くべからざる事」(御書1885頁)
と仰せられ、「たとえ若いお小僧さんやお所化さんであっても、高位の檀信徒より末座に座らせてはいけない」と示されていることや、また、日有上人が『化儀抄』の中で、
 「貴賎道俗(きせんどうぞく)の差別なく信心の人は妙法蓮華経なる故に何
(いず)れも同等なり、然れども竹に上下の節(ふし)の有るがごとく、其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか」(聖典973頁)
と仰せられて、「信心に励む人は貴賎道俗の差別なく、平等に成仏できる。しかし、僧俗には立場の違い、上下関係があり、それを乱してはいけない」と定められているのも、その立場からの御指南です。
 それを、池田創価学会では、
 「信心している人は本質的に平等であることが示されている。これは化法に該当する」「(『竹に上下の節のあるがごとく……』の御文について)これは、化儀の上での区別を示したものである」「化儀の上での区別は化法の不変に比べて、第2次的なものであり」云云
と、自分達の都合に合わせて化法と化儀を切り離し、また「化儀は2次的なもの」と軽視する論を展開した上で、「あくまでも僧俗は平等である。差別があると説くのは、権威主義である」という暴論をもって日蓮正宗を誹謗(ひぼう)してきました。
 しかし、先程から述べているように、日蓮正宗の化儀は、化法に裏打ちされたもの、化法を現実化したものであり、化法から独立した化儀というのはありえません。その化儀を軽んじること自体が、大聖人の仏法に対する誹謗となることを、よくよく肝(きも)に銘(めい)ずるべきであります。
 私達は、大聖人の甚深の仏法を、700年来変わることなく、儀式法要の上に顕わし、またその時々において御法主上人が御指南くださっていることに、心から感謝申し上げ、日蓮正宗の化儀に則った正しい修行に精進していきたいものです。





広宣流布

―人数の拡大だけを追求してきた創価学会―
―日達上人は「間違った広宣流布は仏法破壊」と―
(『慧妙』H16.1.16編集)

<数の拡大が広布?>
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>広布を進める学会
>広布に邁進(まいしん)する創価学会
>日顕(上人)は、広布を推進する学会を一方的に破門したから、重罪を犯した
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 そもそも広宣流布とは、日蓮大聖人の仏法を、広く世の中に、未来永劫まで断絶させることなく弘通していくことをいうのである。
 ここで大切なのは、弘めるべき日蓮大聖人の仏法を間違ってはならない、単に信者の数を増やせば広宣流布になるというものではない、ということである。

―日達上人―
●広宣流布はしなければならん、けれども教義の間違った広宣流布をしたら大変であります(第66世日達上人・昭和49年4月25日)
●日蓮正宗の教義が、一閻浮提(いちえんぶだい)に敷衍(ふえん)していってこそ、広宣流布であるべきであります。日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります。(中略)日蓮正宗の教義でもなく、大聖人の教義でないものが、世界に広がったからといって、けっして我々は喜ぶべきでもないし、大聖人がお喜びになるとは思いません。むしろ、日蓮正宗の精神がなくなってしまった、消滅してしまった、ということになるのであります(第66世日達上人・昭和49年6月18日)
●日本国全人口の3分の1以上の人が、本門事の戒壇の御本尊に、純真な、しかも確実な信心をもって、本門の題目・南無妙法蓮華経を異口同音に唱え奉ることができた時、その時こそ、日本国一国は広宣流布したと申し上げるべきことであると思うのであります(第66世日達上人・昭和49年11月17日)
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 人数ばかりは増え、形ばかりは日本乃至世界に拡がったとしても、そこに、正しい本尊と教義に対する信仰がなければ、日蓮大聖人の仏法を広宣流布していることにはならない。それどころか、大聖人の仏法を破壊していることになるのである。
 もし、これに異を唱えるとしたら、創価学会のいう広宣流布と、立正佼成会や霊友会、あるいは日蓮宗身延派のいう広宣流布と、何がどう違うのか、明確に答えるべきであろう。同じ南無妙法蓮華経を唱え、形の似かよった曼茶羅(まんだら)を拝んでいれば、佼成会とも身延とも変わらない、ということになってしまうからである。
 要するに、日蓮大聖人の仏法の正体である、正しい本尊と教義とは、大聖人出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊と、第2祖日興上人以来の御歴代上人によって伝えられてきた日蓮正宗の教義であり、これに対する信心を弘めていくことこそが広宣流布である。
 しかるに、"広宣流布"と口先で言いながらも、この正しい本尊と教義に対する信仰を失った人々を増やしていくとすれば、それは、かえって正法を破壊し断絶させたことになってしまう。
 されば、本門戒壇の大御本尊を軽賎(きょうせん)・否定して独自のニセ本尊を造り、日蓮正宗の教義に背(そむ)いた独自の狂学を打ち立てる池田創価学会は、まさに日達上人が危惧(きぐ)あそばされた"正法破壊""正法断絶"の団体と成り下がったのであり、間違っても正法広布の団体ではありえない。だから、日蓮正宗から破門されたのである。


<「広宣流布のための御本尊」>
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◆爰(ここ)に日蓮いかなる不思議にてや候らん、竜樹(りょうじゅ)・天親(てんじん)等、天台・妙楽等だにも顕はし給はざる大曼茶羅を、末法二百余年の此(ころ)、はじめて法華弘通のはたじるしとして顕はし奉るなり(『日女御前御返事』御書1387頁)
→大聖人が顕わされたのは「法華弘通のはたじるし」、すなわち"広宣流布のための御本尊"である。「広宣流布のための御本尊」は学会から全世界へ
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 結局、池田創価学会は、御本尊を広宣流布の道具としか思っていない (もちろん、そんな在り方が、御本尊に対する正しい信心であるわけはない)、ということが明らかであろう。
 いずれにせよ、彼らの本尊は、本門戒壇の大御本尊とは全く関係ない、大謗法のニセ本尊であるから、それが流布されればされるほど、人々は苦悩と迷いに落ち込み、ますます暗澹(あんたん)たる世の中になっていくのである。

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<正邪は法門によって判定>
●法門をもて邪正をただすべし(『唱法華題目抄』全集16頁)
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池田学会では会員数が多いことをもって、自らを「広布の団体」と自讃し、正義の証のごとく主張している。しかし、広宣流布の長い道程にあって、一時的に人数が増えたからといって、それが正義の証明になるはずがない。正邪の判定はあくまでも法門によって行われるべきである。

●汝只正理を以て前とすべし別して人の多きを以て本とすることなかれ(『聖愚問答抄』全集493頁)
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「正理」とは何か。それは三大秘法総在の御本尊に帰着する。そして、御本尊即御本仏の御内証は唯授一人の血脈として歴代上人に伝持されているのである。

●堂社僧坊は仏法に非ず又智慧才覚も仏法に非ず多人数も仏法に非ず(中略)信心無二にして筋目を違えず仏法修行するを仏道修行広宣流布とは云ふなり(第9世日有上人『有師談諸聞書』/『富士宗学要集』第2巻146頁)


<唯授一人の血脈を根本とする僧俗異体同心が広布の要諦>
1●日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候、悪は多けれども一善にかつ事なし(『異体同心事』全集1463頁)
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ここでいう「異体同心」とは、『生死一大事血脈抄』に仰せのように、僧俗一体となっての異体同心である。"僧侶不要"を唱える在家団体・創価学会がいかに仲良くしても血脈は通わないのである。従って、大聖人が仰せの広布も実現できないのである。↓

●総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり(『生死一大事血脈抄』全集1337頁)
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「生死一大事の血脈」は「弟子檀那」が「異体同心」であるところに成り立つ。いかに数が多くても、「檀那」である在家だけで仲良くやっても、「異体同心」とはならない。よって、「弟子」である御僧侶を蔑ろにし、"僧侶不要"を唱える池田学会に、生死一大事の血脈が通わないことは明らか。

●只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ(『生死一大事血脈抄』全集1338頁)
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「釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて」とあるように、生死一大事の血脈は、釈尊から上行菩薩への別付属に由来する。

●宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。(第26世日寛上人『撰時抄愚記』/『日寛上人文段集』聖教新聞・初版271頁)
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「塔中及び蓮・興・目」とあるように、塔中における上行菩薩への別付嘱が、唯授一人血脈相承として歴代上人に伝わっている。

★広布拡大乃至達成の条件である「異体同心」(1●)とは、唯授一人の血脈を根本とした僧俗一体の異体同心である。


<数は少なくとも広布は確実>
●日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし(『諸法実相抄』全集1360頁)

●梵天・帝釈等の御計として日本国・一時に信ずる事あるべし、爾時我も本より信じたり信じたりと申す人こそおほくをはせずらんめとおぼえ候(『上野殿御返事』全集1539頁)


<昔の学会指導>
◆日蓮正宗の根幹をなすものは血脈である。大御本尊を根本とし、代々の御法主上人が、唯授一人でこれを受け継ぎ、令法久住をされてこられた。御本尊を御認めあそばすのは、御法主上人御一人であられる。(乃至)広宣流布といっても、御本尊の御認めがなければできない。われわれは、あくまでも総本山根本、御法主上人厳護の信心で進んでまいりたい(池田大作・昭和57年7月24日・第1回関東会研修『広布と人生を語る』第3巻256頁/『大白法』H16.2.1)
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ところが今はどうだ。「根本」のはずの「血脈」「総本山」は否定され、「厳護」する対象であるはずの「御法主上人」は最大の攻撃対象となっている。「広宣流布といっても、御本尊の御認めがなければできない」というからには、歴代上人の御本尊といえども勝手にコピーすることはできない、という考えであったのだろう。





三大秘法

―池田こそ三大秘法破壊の謗法者―
―戒壇御本尊を離れて三秘はない!―
(『慧妙』H16.11.16)

 池田創価学会では、"日蓮正宗が三大秘法をことごとく破壊した"などと、日蓮正宗を誹謗(ひぼう)しています。が、その内容たたるや、三大秘法そのものに対する浅識(せんしき)と自己矛盾に充ち満ちたもので、呆(あき)れてしまいます。
 今回は、三大秘法について正しく学び、併(あわ)せて学会の的外(まとはず)れな誹謗を破していきたいと思います。
 三大秘法とは、日蓮大聖人が、
 「問うて云はく、如来滅後二千余年竜樹・天親・天台・伝教の残したまへる所の秘法何物ぞや。答えて曰く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」(御書736頁)
と仰せられているように、日蓮大聖人によって説き顕わされた、末法時代のための唯一の正法のことで、本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目の3つをいいます。そして、これが大聖人の仏法の正体・骨格であることから、宗旨(しゅうし)の三秘(さんぴ)とも呼ばれます。
 三大秘法という名目は、この3つの法門が、仏法のなかでもっとも勝(すぐ)れて重大な、しかも、いまだかつて説かれたことのない、仏のみが知りたもう秘密の法である、という意味です。
 また、3つのそれぞれに冠(かん)せられている「本門」の二字は、仏の真実の悟りを説いた法門という意味で、この場合は、釈尊の仏法に対し、それよりさらに一重深く立ち入った、日蓮大聖人の仏法を指して用いられています。
 では次に、三大秘法のそれぞれについて、簡単に述べてみましょう。
 まず、本門の本尊とは、根本として尊崇(そんすう)すべき信仰の対象をいい、日蓮大聖人が顕わされた大曼茶羅(まんだら)御本尊―その究極の実体は、大聖人出世の御本懐(ほんがい)たる弘安2年10月12日の大御本尊―です。
 そして、この本門の本尊を御安置する場所が本門の戒壇であり、本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることが本門の題目です。
 このことから、三大秘法の中心をなすのは本門の本尊であり、戒壇といい題目というも、本門の本尊を離れてはありえず、三大秘法というも、本門の本尊に収まりますので、本門の本尊を一大秘法と申し上げます。
 このことを、第26世日寛上人は、
 「一大秘法とは即(すなわ)ち本門の本尊なり。此(こ)の本尊所住(しょじゅう)の処(ところ)を名づけて本門の戒壇と為し、此の本尊を信じて妙法を唱うるを名づけて本門の題目と為すなり。(中略)三大秘法を合すれば則ち但(ただ)一大秘法の本門の本尊と成るなり。故(ゆえ)に本門戒壇の本尊を亦(また)は三大秘法総在(そうざい)の本尊と名づくるなり」(『六巻抄』82頁)
 「三大秘法総在の本尊を明かすなり、総在の本尊とは題目・戒壇の功能を具足(ぐそく)する故なり。亦(また)は一大秘法の本尊と名づく、題目・戒壇の功能を具すると雖も(いえど)も、但(ただ)是(こ)れ一箇の本尊なるが故なり」(『六巻抄』87頁)
と仰せられています。
 この三大秘法総在の大御本尊を、700有余年、厳然(げんぜん)と護持(こじ)し奉(たてまつ)ってきたのが、富士大石寺を総本山とする我が日蓮正宗なのです。
 その日蓮正宗に対し、池田創価学会は、「大御本尊を『偽物』と断定した」「本門の戒壇たる『正本堂』を破壊した」「『本門の題目』を信じず、『本門の本尊』を否定し、『本門の戒壇』を破壊した日顕(上人)こそ、『謗法の固まり』である」などと誹謗しているのです。
 まず、日蓮正宗が「大御本尊を『偽物』と断定」したことなど、いまだかつて1度もありません。
 学会が誹謗の依処(えしょ)としている「河辺メモ」については、これまで本紙で何度も破折が加えられているので、ここではあえて述べませんが、学会が何を言おうと、"三大秘法総在の大御本尊は、御歴代御法主上人方によって厳護(げんこ)され、現在、富士大石寺奉安堂に厳然とまします"―この事実を素直に受け止めるべきである、とだけ言っておきましょう。
 また、「本門の戒壇たる『正本堂』を破壊」ということについてですが、先に述べたように、本門の戒壇とは、本門の本尊御安置の場所をいいます。
 ですから、大御本尊が奉安殿に御安置されていた時は奉安殿が、御宝蔵に御安置されていた時は御宝蔵が、本門の本尊を安置する本門の戒壇にあたるのであります。
 そういう意味では、かつて大御本尊が御安置されていた時の正本堂は、その時における本門の戒壇といえたでしょう。
 しかし、創価学会なかんずく池田大作は、正本堂という建物に、勝手にそれ以上の意義付けをして、あたかも池田が広宣流布を成(な)したかのような、さらには、池田が大聖人よりも勝れる仏であるかのような、とんでもない大謗法の依処として正本堂を利用したのです。
 ゆえに、そのような"妄執(もうしゅう)の染(し)みついた謗法の固まりである正本堂"から大御本尊を御遷座(ごせんざ)し、もぬけのカラとなった無用の建造物=正本堂は解体された、ということであります。
 そして、現在、大御本尊御安置の場所は奉安堂でありますので、奉安堂が現時における本門の戒壇にあたるのです。
 また、現在の学会がニセ本尊を祀(まつ)り、ニセ本尊に向かって題目をあげていることは、それ自体、本門の題目を否定・破壊していることであります。
 いずれにしても、三大秘法総在の大御本尊のことを、
 「やっぱり、曼奈羅はいつかな<なっちゃう。物体だから」(平成5年5月3日・池田発言)
 「本門戒壇・板本尊、何だ!寛尊(かんそん)は『信心の中にしか本尊はない』と。ただの物でず!」(平成5年9月7日・池田発言)
などと言って軽賎(きょうせん)し、否定しているのが池田創価学会なのですから、もとより、池田創価学会には本門の本尊もなければ、本門の戒壇も本門の題目もあろうはずがありません。
 そのことをよくよく肝(きも)に銘(めい)じ、三大秘法破壊の大謗法を恐れるべきであります。
 私達は、日蓮大聖人の正義を正しく学び、その上から、池田創価学会の邪義謗法を見逃がすことなく、しっかりと破折してまいりましよう。





四箇格言(仮題)

―破邪顕正の象徴たる「四箇格言」―
―批判者攻撃への利用は言語道断!―

(『慧妙』H19.6.1)

 四箇格言とは、宗祖日蓮大聖人が、鎌倉時代にもっとも盛んであった邪宗教を4つ選び、それを破折された格言です。
 日蓮大聖人の御生涯は、立宗宣言以来、世の一切の不幸の根源である邪宗邪義との闘いの連続でした。
 それは、正法によって人々を救済するためには、その大前提として、まず正法に違背する邪宗教を廃さなくてはならないからです。
 ゆえに、
 「一乗流布の代の時は権教有って敵と成る。まぎ(紛)らはしくば実教より之を責むべし。是を摂折の修行の中には法華折伏と申すなり」(御書672頁)
 「年(とし)三十二建長五年の春の此(ころ)より念仏宗と禅宗等とをせめはじめて、後に真言宗等をせむる」(御書1078頁)
と仰せのとおり、立宗以来、当時流行していた念仏・禅・真言等の諸宗を次々と破折していかれたのです。
 こうした邪宗教との闘いの中、文永5年、大聖人は、当時の幕府および仏教界の代表11人に書状を送り、公場対決によって法の正邪を決し、すみやかに邪宗邪義を捨てて正法に帰伏するよう迫(せま)られました。
 この時、『建長寺道隆への御状』の中で、大聖人は、諸宗の邪義を端的に破され、
 「念仏は無間(むけん)地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説」(御書375頁)
と説かれていますが、これがいわゆる「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」という、四箇格言であります。
 それぞれの内容をごく簡単に説明しますと、念仏は極楽往生を掲げながら逆に無間地獄に堕(お)ち、禅宗は教外別伝を強調する故に天魔の所為となり、真言は鎮護国家をうたいながらも教主を打ち倒すが故に逆に国を亡ぼし、律は国の宝と誇るけれどもじつは国賊に値する、と、各宗の邪義の特徴を指摘して破折されています。
 個人の幸福、世界の平和といっても、まず不幸と災難の根源である邪宗教を断絶し、正法を流布しなくては、絶対に獲得できるものではありません。四箇格言は、その破邪顕正(邪宗を破して正法を顕彰する)の精神を象徴するものといえましょう。
 まさしくこの四箇格言こそ、大聖人御一代の御化導の中に貫かれた根本の折伏精神であり、正法を弘通していくうえで、永遠に忘失してはならない珠玉の仏語なのです。
 ゆえに、日蓮大聖人の正統門流たる我が日蓮正宗においては、7百年来、この四箇格言に示された謗法厳誡・破邪顕正の精神を伝統としてきたのであり、私達法華講員は、常に四箇格言を心肝に染めて、勇猛果敢に折伏を行じていくことが大聖人の御意に適(かな)う修行となるのであります。
 さて、創価学会の機関紙に、次のような内容が掲載されていました。
 「日蓮仏法において邪悪と闘争する意味をあらためて確認しておきたいと思います。
 池田名誉会長は『御書の世界』のなかで、大聖人の『立宗宣言』や、『念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊』で知られる『四箇の格言』などの意義についてこう語っています。
 『"人間生命に潜(ひそ)む根源の悪""生命に内在する魔性""一切の元品の無明"との大闘争宣言』『万人の成仏という最大の人間尊敬の道を開く"戦う人間主義"の宣言』

と。
 これだけでは、何だかよくわかりませんが、その次下に、この池田の指導を解説する内容が出ています。
 そこには、
 「大聖人に貫かれる行動は、民衆を苦しめ、『善の連帯』を破壊しようと目論(もくろ)む人間との闘争に他なりません。大聖人の眼差しは、人間の善性を高める点にあります。懸命に生きる庶民には優しく、人間の善性を蹂躙(じゅうりん)する権力者には烈火のごとく激しく破折されます。
 具体的には、大聖人が戦った相手は、幕府や宗教界での権力者である、平左衛門尉や極楽寺良観です

云々と。
 さらに、「一部マスコミと日蓮正宗、そしてそれらと結託して学会の分断に暗躍した元創価学会顧問弁護土の山崎正友、支持者の真心を忘れて党費の流用疑惑もある元公明党委員長の竹入義勝が、民衆を苦しめる悪である」「これら民衆を惑(まど)わす魔性とは断固戦っていくのが学会精神」などと述べているのです。
 これらからわかるのは、大聖人の立宗宣言や四箇格言を巧みにあげながらも、実際に教えているのは、「庶民・民衆である学会員を惑わすものが悪。それらとは徹底して戦うのが学会精神」と会員を煽(あお)っている、ということであります。
 これは、大聖人が立宗宣言や四箇格言でお示しになられた、謗法厳誡・破邪顕正の尊い御精神とは、まったく異なっています。
 大聖人が邪宗邪義を徹底して破折されたのは、先程も述べたとおり、邪宗謗法が世の一切の不幸の根源だからであります。当然、当時、邪宗に固執(こしゅう)していた権力者に対しても、その謗法を強く責めていかれましたが、それも邪宗謗法が不幸の根源であり、国を亡ぼす根源であるからに他なりません。
 大聖人は、1人ひとりの幸福と国の平和の実現のため、皆が邪宗邪義を捨てて正法を信受することを心から願われ、大慈悲の折伏を敢行されたのであります。
 間違っても、自分を裏切ったから、とか、組織に不都合な人間だから、などという理由ではありません。
 私達は、大聖人の尊い御精神を正しく拝し、世の不幸の根源である邪宗邪義、ことに最悪の邪宗である池田創価学会の大謗法を断じて折伏し、1人でも多くの方が正法を信受できるよう、精進していこうではありませんか。





正宗分・流通分

―本門戒壇の大御本尊こそ正法の要―
―要を忌避し「学会が流通」とは笑止千万―

(『慧妙』H20.4.1)

 仏が教法を説かれるにあたっては、序分・正宗分・流通(るつう)分という3段に分けてその内容を展開する、という方法をとられます。
 それぞれの意義について、67世日顕上人の『観心本尊抄』の御説法を引用させていただきます。
 「序分というのは、準備のための教法に当たります。仏様がまさしくこれを衆生に説こうとする時に、その説かれる内容を説き示す前の準備として、いろいろな導きをなさる。特に勝(すぐ)れた大法の場合には、前もって非常に勝れた準備をなさるのです。それから次に、説かんとされるところの内容、いわゆる正しく因果の実体・実義を明らかにする、それが正宗分です。さらに現在以降において、その教えを流布していって、それを聞き、それを修行する人達に利益を得せしめんがために説く部分、また、そういう用意をなさる部分、それが流通分ということになります。」(昭和61年9月4日)
 つまり、正意を顕(あら)わすまでの準備段階が序分、正意そのもの(本懐)が正宗分、そしてその正宗分を後世にいかに流布していくかを説いたものが流通分、ということなのです。
 このことを釈尊の1代50年の化導にあてはめてみますと、
序分…法華経以前の爾前(にぜん)の経々
正宗分…法華経及び開結2経
流通分…涅槃経
ということになります。
 では、日蓮大聖人の仏法においては、どのように拝するのでしょうか。
 大聖人は、『三沢抄』に、
 「法門の事はさど(佐渡)の国へながされ候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ。(中略)去ぬる文永八年九月十二日の夜、たつの口にて頸(くび)をはねられんとせし時よりのち(後)、ふびん(不便)なり。我につきたりし者どもに、まことの事をい(言)わざりけるとをも(思)て、さどの国より弟子どもに内々申す法門あり」(御書1204頁)
と仰せられています。
 すなわち、竜の口法難で発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)された大聖人が、佐渡流罪以降に説く法門が、「まことの事」つまり正宗分にあたる、ということであります。
 大聖人は、佐渡の地において、『開目抄』を認(したた)められて、自らが末法の御本仏であることを明かされ、さらに、『観心本尊抄』では、末法に礼拝すべき御本尊の相貌(そうみょう)をお示しになりました。そして、その究極の御本尊として、弘安2年10月12日に本門戒壇の大御本尊を御図顕あそばされたのです。まさに、これこそ大聖人が、
 「我が内証の寿量品」(御書657頁)
と仰せられる、文底仏法の真髄(しんずい)にして、正宗分中の正宗分です。
 そして、この正宗分を中心として、それ以前に説かれたあらゆる仏の経々を全て序分とし、また、正宗分が説かれた以降、その体内に摂(せっ)せられたあらゆる仏の経々を流通分とするのです。
 以上が、大聖人の仏法における序・正・流通の3段ですが、創価学会においては、かねて
 「宗門の教義は法体の確立を示した正宗分、創価仏法は正宗分に根ざした流通分
などという解釈を展開し、創価学会の教えは大聖人の仏法と相違するものではないという言い訳に利用してきました。
 しかし、正宗分と流通分というのは、本来、その内容において別のものではありません。正宗分を流通する(流れ通わす)のが流通分でありますから、「宗門の教義が正宗分」「創価仏法は正宗分に根ざす流通分」などと区分けをすること自体、おかしいのです。
 要は、正宗分を血脈相承によって護(まも)り伝えてきた日蓮正宗の教義を、誤りなく弘めていくことが大切なのであります。
 しかるに、あえて前のごとき区分けをしたのは、日蓮正宗と創価学会とは違う、という不純な下心があったからこそ、といえましょう。
 事実、現在の創価学会は、文底仏法の正宗分を護持する日蓮正宗を攻撃しているのですから、まったくお話になりません。
 私達は、どこまでも本門戒壇の大御本導をお護り申し上げ、またその正義を命がけで守り伝えてこられた御法主上人猊下と御宗門に信伏随従して、御奉公のまことを尽くしてまいろうではありませんか。





随自意と随他意(仮題)

―「主体的に妙法を語るのが『随自意』」!?―
―「随自意」は仏が悟りのままに説くこと―

(『慧妙』H18.6.1)

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 「随自意」とは、偉大なる妙法であるがゆえに、だれが何と言おうと、讃嘆(さんたん)せざるをえないという"讃嘆の心"です。妙法への讃嘆こそ法華経読誦の根本です。
 また、一文一句でも人々に語らずにはいられない、呼び掛けずにはいられないという"随力弘通"の姿勢でもあります。人から言われたから話すとか、こういえば相手によく思われるだろうとか、そんな考え方は「随他意」です。
 広く言えば、「無問自説」「随自意」とは"主体性"であり、"自発能動"です。素朴でもよい、口下手でもよい。相手を救おうという一念で懸命に祈り、仏法の素晴らしさを、自分の言葉で確信をもって率直に語りきっていく。これが法華経の精神です。また「学会精神」です。
(池田大作『法華経方便品・寿量品講義』第1巻)
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 要するに、池田は、「『随自意』とは、自ら主体性をもって妙法の素晴らしさを讃嘆していくことである。これが法華経の精神であり、学会の精神である」と述べているわけですが、「随自意」とは、本来、そのようなことを指しているのではありません。
 「随自意」の「自」とは教主たる仏ご自身のことであり、「随自意」とは仏の御化導の在り方に関する語です。
 『諸経と法華経と難易の事』には、
 「随他意とは、真言宗・華厳宗等は随他意・易信易解(いしんいげ)なり。仏、九界の衆生の意楽(いぎょう)に随って説く所の経々を随他意という。譬へば賢父(けんぷ)が愚子(ぐし)に随ふが如し。仏、仏界に随って説く所の経を随自意という。譬へば聖父(せいふ)が愚子を随へたるが如し」(御書1468頁)
と仰せられています。
 つまり、「随自意」とは、仏が、衆生の機根(状態、素養、能力)にかかわらず、ご自身の悟りをそのまま説くこと、またはそのようにして説かれた真実の教えをいいます。
 そして、「随他意」とは、「随自意」に対する言葉で、仏が、衆生の機根や好みに応じて教えを説き、徐々に真実の教えに誘引していくこと、またはそのようにして説かれた方便の教えをいうのです。
 釈尊の化導においては、大聖人が
 「法華経と申すは随自意と申して仏の御心を説かせ給ふ」(御書1212頁)
と仰せのように、数多(あまた)の経々のなかでも、仏の悟りをそのまま説き明かした法華経こそが、随自意の教えです。そして、この法華経に対すれば、他の一切の経々はすべて、法華経に導くために衆生の機根に応じて説かれた方便の教えであるので、随他意の教え、ということになるのです。
 さらにいえば、法華経の文底に秘められた下種の南無妙法蓮華経、すなわち日蓮大聖人の三大秘法こそが、御本仏の悟りをそのまま説き明かした真実最高の教えでありますから、随自意となり、これに対すれば、釈尊の仏法・化導は、すでに過去に御本仏の下種を受けている衆生の、仏種を守り育てるための熟脱の仏法・化導であるがゆえに、随他意となるのであります。
 このように、随自意・随他意というのは、一切衆生を成仏へと導く仏の化導の在り方と法の内容について、その立て分けを述べられているものです。にもかかわらず、池田は、「随自意とは讃嘆の心だ」とか「主体性だ」「自発能動だ」などというのですから、本当に呆(あき)れてしまいます。
 仏法を平易に解説しているつもりなのかもしれませんが、これでは、仏法の教義も筋道もメチャクチャです。
 相伝を否定し、正しい師匠を持たないがための、じつに哀れで滑稽(こっけい)な姿であるとしか、言いようがありません。
 私達は、相伝に基づく正しい教学を学び、御本仏日蓮大聖人の御意に適(かな)った修行ができるよう、。御法主上人猊下の御指南に信伏随従してまいろうではありませんか。





知恩・報恩(仮題)

―三宝の恩を無視して仏道は成ぜず―
―三宝誹謗の学会は不知恩・忘恩の輩―

(『慧妙』H20.6.1)

 日蓮大聖人は、『四恩抄』に、
 「仏法を習ふ身には、必ず四恩を報ずべきに候か」(御書267頁)
と仰せられ、仏法を習う者は四恩というものを知ってその恩を報じていかなければならない、と示されています。
 まず、四恩ということについてですが、大聖人は、『四恩抄』に『心地観経』を引かれて、「父母の恩・一切衆生の恩・国王の恩・三宝(仏法僧)の恩」の4つを挙(あ)げられています。
 この4つの恩について簡単に述べてみますと、まず「父母の恩」とは、言うまでもなく、自分を生み育ててくれた両親の恩ということです。私達が、この世に生を受けて成長し、そして、値(あ)い難(がた)き正法に巡(めぐ)り値って即身成仏の境涯を得ることができるのも、今の両親が苦労も厭(いと)わず、生み育ててくれたおかげであります。それゆえ、父母の恩は非常に深く、大きいのです。
 次の「一切衆生の恩」とは、私達は、じつにいろいろな人達に支えられ、お互いに助け合って生活している、というのが現実ですから、その恩もまた、大きいと知らなければなりません。
 次に「国王の恩」とは、現在の日本においては主権在民ですから、絶対的な力を持った1人の国王とか国主という存在はありません。しかし、この国において、政治や経済等を司(つかさど)る人々がいるおかげで、私達も生活ができるわけでありますから、やはり、その恩は大きいのであります。
 最後に、「三宝(仏法僧)の恩」ですが、これは一切衆生が成仏する法を悟(さと)り、その法を命がけで説き顕(あら)わしてくださった仏と、仏が説かれた法、そして仏と仏が説かれた法を後世まで正しく守り伝えてくださる僧、この仏と法と僧の三宝に対する恩ということです。
 末法における三宝とは、いうまでもなく、御本仏日蓮大聖人(仏宝)、大聖人御図顕の大曼荼羅御本尊(法宝)、第2祖日興上人以来、血脈付法の御歴代上人ならびに日蓮正宗の御僧侶方(僧宝)であります。
 私達が、この値い難き正法の信心ができ、功徳を頂戴(ちょうだい)して即身成仏が叶(かな)うのも、大聖人が御命を縮めて大御本尊を顕わされたからであり、また大聖人御入滅後、御歴代の御法主上人をはじめ御僧侶方が、命がけでこの仏法を護(まも)り伝えてきてくださったからであります。
 大聖人は、
 「然るに末代の凡夫、三宝の恩を蒙(こうむ)りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん」(御書268頁)
と誡(いまし)められていますが、私達は計り知れないほど三宝の恩を蒙っていることを、けっして忘れることなく、その恩に報(むく)いていけるよう、精進していかなければなりません。
 なお、『報恩抄』においては、「父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国王の恩」という四恩を挙げられ、『四恩抄』で挙げられていた一切衆生の恩に代わって、師匠の恩が説かれています。
 このことについて、第26世日寛上人は、「『報恩抄』が、大聖人の出家得度の師であった清澄寺住職・道善房のために認(したた)められた御書である故、とくに師匠の恩が強調されている。一切衆生の恩は父母の恩に含められている」と釈されています。
 いずれにしても、仏道を修する者は、父母をはじめとする一切の人々、そして三宝よりの恩を受けて、現在の自分があるということを、よくよく肝(きも)に銘(めい)じ、その大恩に報いていかなければならないのであり、そのためには、
 「必ず仏法をならひきわめ、智者とならで叶ふべきか」(御書999頁)
 「我が心には報ずると思はねども、此の経の力にて報ずるなり」(御書923頁)
と仰せのように、自らが正法を固く信受して仏道修行に励み、功徳を積んで成仏していくこと、併(あわ)せて、父母や身の回りの人達に正法を持たせていくべく、精いっぱい、真心からの折伏に励むことが、肝要であります。

 さて、池田創価学会の機関紙誌では、「四恩」や「知恩・報恩」ということを巧(たく)みに説きながら、「学会こそ、報恩を実践する道を貫いてきた」と自慢しています。そして、「学会と師匠(※池田のこと)から計り知れない恩を受けながら、恩を仇(あだ)で返す輩(やから)がいた」といっては、日顕上人はじめ宗門を口汚なく罵(ののし)り、「日蓮正宗は不知恩・忘恩の輩」「忘恩の輩を断じて許すな!」などと、紙面を大きく割き、感情をむき出しにして日蓮正宗を誹謗しています。
 そこには、自らの三宝に対する「知恩・報恩」の思いというものは全くなく、ただ、"自分達は、これだけのことをやってやったのだから、感謝しろ"という、まことに憍慢(きょうまん)きわまりない、醜(みにく)い性根しか見えてきません。
 そもそも、創価学会も、四恩、なかんずく三宝の恩があってこそ、存在しえたのであり、一人ひとりの会員が功徳を頂戴できたのも、日蓮正宗の三宝があったからこそ、であります。ゆえに、創価学会は、その御報恩のために日蓮正宗を外護(げご)させていただく、という立場であったはずです。
 それを、「これだけ外護に尽くしたのだから学会に感謝しろ」とは、本末顛倒(てんとう)もいいところではありませんか。
 しかも、創価学会が正法正義を曲げ、大謗法を犯すようになったため、やむなく日蓮正宗として学会を破門されたのに、その御宗門を逆恨(うら)みし、「これだけ外護してやったのに、学会をいじめるとは、許せない」とは、見当違いも甚(はなは)だしい、それこそ、畜生にも劣る行為といわざるをえません。
 このような学会こそ、「三宝の恩を仇で返す不知恩・忘恩の輩」であります。

 日寛上人は、『報恩抄文段』の中で、報恩の要術について、
 「不惜身命を名づけて要術と為す。謂(いわ)く、身命を惜しまず邪法を退治し、正法を弘通すれば、即ち一切の恩として報せざること莫(な)きが故なり」
と、不自惜身命で、唱題に励み、邪宗を破折し、正法を弘めていくところに、一切の恩を報じていくことができる、と御教示くださっています。
 私達は、三宝に対し、父母に対し、大恩を報じていくべく、さらなる唱題行・折伏行に励んでまいりましょう。
 また、たとえ、大謗法の創価学会員からさまざまな嫌がらせや圧力を受けることがあったとしても、それによって罪障消滅ができるわけですから、その有り難さを確信し、その恩を報じるために、どこまでも慈悲の折伏を貫いてまいりたいものです。





転重軽受(「宿命転換」の原理)

―大聖人の仏法は観念哲学にはあらず!―
―折伏を行じてこそ罪障消滅が叶う―
(『慧妙』H15.10.16編集)

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>「宿命転換」の原理は、日蓮仏法の人間主義
>業(ごう)そのものにしばられることからの解放が日蓮仏法の眼目。宿業は必ず転換できることを示すために「宿業」が説かれた。
>徹底した自己凝視で宿業の転換を。
>宿命と直面する自己を鍛(きた)えることで、プラスに転ずる生き方―これが我ら創価の宿命転換。
(学会機関紙)
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 ここでいう「宿業転換・宿命転換」とは、おそらく罪障消滅を意味するものと思われるが、大聖人の仏法における罪障消滅は、転重軽受によってなされるものであり、およそ学会の説とは大きくかけ離れている。
 転重軽受とは、「重きを転じて軽く受く」と読み、私達末法の衆生が、過去から現在に至るまで、正法に背(そむ)いて我が身に刻みつけてきた重い不幸の宿業を、正法の修行によって消していく際の姿をいう。
 すなわち、末法の衆生は、皆、過去世から謗法を犯して、重い罪業を生命に刻みつけてきた衆生であり、それゆえに、この濁悪の末法の世に生まれ、生きている間も、病苦や貧苦、家庭不和等のさまざまな艱難辛苦(かんなんしんく)に泣き、死んでも、また地獄の重苦を味あわなくてはならないのである。
 しかし、日蓮大聖人が、
 「人の地に依りて倒れたる者の返って地をおさへて起(た)つが如し」(御書1316、全集552頁)
と仰せのように、正法に背いて形成した謗法の罪業は、正法を信受し実践することによってのみ、消滅させることができるのである。
 このことについて、大聖人は、『転重軽受法門』『佐渡御書』等々で、過去の不軽菩薩や、釈尊からの付嘱を受けた提婆菩薩や師子尊者の姿、そして大聖人御自らの御振舞いを通して、繰り返し繰り返し御教示くださっている。
 そこに示されているのは、"正法に対する強盛な信心の顕(あら)われとして、謗法者に対する折伏行を果敢(かかん)に行ずる時、必ず謗法者達から嫌われ、憎まれ、暴力を振るわれる等の難を受けるが、これが、過去の重い罪業を絞り出して一時に軽く受け、消している姿に他ならない"ということである。
 つまり、本来ならば、人生の様々な苦悩や地獄の大苦悩を味あわなければならないところを、折伏の功徳によって、"法難"という軽い苦しみとして絞り出し、それによって重い罪業を消滅させていく、このことを転重軽受―重い罪業を転じて軽い苦しみとして受ける―というのである。
 この転重軽受による罪障消滅こそが、日蓮大聖人の仏法における功徳の真髄というべきものであり、折伏故の難に遭(あ)えば遭うほど、また、難に遭った人ほど、それまでの病苦や貧苦等を克服し、大功徳を得て人生を大きく開き、ついには成仏の境涯を獲得していけるのである。
 ゆえに大聖人は、
 「妙法蓮華経を修行するに難来たるを以て安楽と意得べきなり」(御書1762、全集750頁)
とも仰せである。
 以上のことから、重い罪障を消滅し、不幸の宿業を転換することができるのは、学会がいうような"自己を凝視する"ことでも、"宿命と直面する自己を鍛える"ことでもないし、また、選挙活動や新聞啓蒙(けいもう)といった学会活動によるものでもないことは、明々白々である。
 公明党の集票を第一として世間に媚(こ)びる池田創価学会には、もはや二度とできないことであろうが、世のありとあらゆる邪宗謗法に対して、積極的に折伏を行じ、折伏故の法難に遭う―これによってのみ、転重軽受による罪障消滅が叶(かな)い、不幸の宿業も転換されていくのである。
 また、罪障・悪業は、誹謗正法が原因で刻まれるのであるから、自らが邪教と化し、日蓮正宗の正法正義を誹謗する池田創価学会においては、活動をすればするほど罪障が深くなり、間違っても転重軽受・罪障消滅など、ありえないのである。





塔婆供養(仮題)

―塔婆供養を「風習・形式」と下す学会―
―甚深の意義と功徳は御金言に明らか―

(『慧妙』H19.10.1)

 日蓮正宗においては、日頃、彼岸やお盆、あるいは故人の命日などに、寺院に参詣し御塔婆を建てて追善供養を行なっています。
 一方、池田創価学会においては、「死者への追善供養のために塔婆を建てる風習は、日本だけのものに過ぎない」「塔婆の建立は単なる形式にすぎず、寺院の金儲(もう)けのためだ」などとして、日蓮正宗における御塔婆供養を否定、誹謗(ひぼう)しています。
 しかし、御塔婆供養にはじつに深い意義があるのです。今回は、御塔婆供養について、正しく学んでまいりたいと思います。
 まず塔婆の由来と歴史についてですが、塔婆とは、率兜婆(率塔婆、率都婆などとも書きます)の略で、梵語でスツーパといい、方墳・円塚・霊廟(れいびょう)・功徳聚(くどくじゅ)・塔等と訳します。
 もともとは、古代インドの墓のことを指していましたが、仏教においては、とくに仏舎利を安置した建造物を意味し、インドの釈尊自らも造立し、また造立を許可したことが、『十誦律』や『摩訶僧祇律』等に説かれています。
 釈尊滅後は、故人に対する供養として、さかんに造立されるようになりました。そして、仏教が中国・日本へと弘まるにしたがって、塔婆の化儀は、五重塔や三重塔、あるいは五輪塔婆、角塔婆、板塔婆、石塔婆として伝えられきたのです。
 次に、塔婆の形について述べてみますと、塔婆はもともと、丸や角の形を積み重ねて1つの体を表わしています。
 すなわち「下から方形(四角)・円形・三角形・半円形・如意宝珠の順に、五輪の塔に組み立てるのが基本的な形です。これは、地(方形)・水(円形)・火(三角形)・風(半円形)・空(如意宝珠)の五大を表わしているので日蓮大聖人は、『就註法華経口伝』に、
 「我等が頭は妙なり、喉(のんど)は法なり、胸は蓮なり、胎(はら)は華なり、足は経なり。此の五尺の身は妙法蓮華経の五字なり」(御書1728頁)
と説かれ、また『三世諸仏総勘文抄』に
 「五行とは地水火風空なり(乃至)是則ち妙法蓮華経の五字なり」(御書1418頁)
と仰(おお)せですが、五大をかたどった五輪の塔は、妙法蓮華経という仏様の体を表わしたものといえます。
 そして、そこに題目を認(したた)め、「此中已有如来全身(※法華経法師品の文で、此〈こ〉の中に已〈すで〉に如来の全身有〈いま〉す、と読む)」との経文と、亡くなった人の名を書いて、祈念することにより、この塔婆は、亡くなった人の体が即、妙法蓮華経の仏身として顕われ、成仏の境界へと導かれるのであります。
 その深い意義については、『草木成仏口決』に、
 「妙法とは有情の成仏なり、蓮華とは非情の成仏なり。有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏と云ふが有情・非情の成仏の事なり。其の故は、我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」(御書522頁)
とあります。
 つまり、生きている時は、大聖人御図顕の大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えるところに成仏があり、死して後は、非情の草木をもって塔婆に建立し、開眼供養するところに、その死者が成仏できる、と仰せられているのです。
 人間は、死ねば、主体的意志や行動が失われ、死後の生命は、それぞれが生前に生命に刻み込んだ善業・悪業を、そのまま感じ続けていくことしかできなくなります。その死後の生命を救うために、仏法では御塔婆を建てて追善供養するのであります。
 この御塔婆の意義については、創価学会戸田2代会長も、
 「形式ではありません。仏法上の儀式であります。色心不二の成仏、草木成仏の深い原理からきているのであります」(『戸田城聖全集』第2巻176頁)
と述べていました。
 このように、御塔婆供養には、釈尊の時代からの歴史があり、また厳格な深い意義が具(そな)わっているのですから、昨今の池田創価学会のように"単なる形式だ"などと軽んじることは、先祖回向の功徳善根を失ってしまうばかりでなく、日蓮大聖人に背く大謗法であると知らなければなりません。
 最後に、御塔婆の功徳について仰せられた、大聖人の御金言をあげてみたいと思います。
 大聖人は、『中興入道御消息』に次のように仰せられています。
 「去(みまか)りぬる幼子のむすめ(娘)御前の十三年に、丈六のそとば(卒塔婆)をたてゝ、其の面(おもて)に南無妙法蓮華経の七字を顕はしてをはしませば、北風吹けば南海のいろくづ(魚族)、其の風にあたりて大海の苦をはな(離)れ、東風(こち)きたれば西山の鳥鹿(ちょうろく)、其の風を身にふれて畜生道をまぬ(免)かれて都率(とそつ)の内院に生まれん。況んやかのそとば(卒塔婆)に随喜をなし、手をふれ眼に見まいらせ候人類をや。過去の父母も彼のそとばの功徳によりて、天の日月の如く浄土をて(照)らし、孝養の人並びに妻子は現世に寿(いのち)を百二十年持ちて、後生は父母とともに霊山浄土にまいり給はん事、水す(澄)めば月うつり、つゞみ(鼓)をう(打)てばひゞ(響)きのあるがごとしとをぼしめし候へ等云云。此より後々の御そとば(卒塔婆)にも法華経の題目を顕はし給へ。」(御書1434頁)
 大聖人は、「南無妙法蓮華経と認められた御塔婆を吹きぬけた風にあたっただけで、畜生道の苦しみから抜けることができる、ましてや、喜んで塔婆を建て、手に触れ見ることのできる人間が積む功徳は、いかばかりであろうか。御塔婆供養をする人は、120歳まで寿命を持ち、後生は亡くなった父母とともに成仏できるであろうことは明らかである。今後も、題目を認めた御塔婆を建立しなさい」と仰せられています。
 なんと、ありがたいことでしょうか。
 私達が正宗寺院で御塔婆供養をさせていただく時、亡くなった先祖や故人を成仏させてあげられるばかりでなく、自らも大きな功徳を積ませていただけるのであります。されば、機会あるごとに御塔婆供養をなして、亡くなった方への真の追善供養をなしていきたいものです。
 これに対し、大聖人の正義に基づいた御塔婆供養の在(あ)り方を誹謗し、"塔婆供養は寺院の金儲けのためだ"などと誹謗する池田創価学会員達の、なんと哀れなことでありましょうか。
 すでに、大謗法の果報により地獄の苦しみを受けている故会員も多いことを思うと、縁のあった方の追善供養をさせていただくとともに、さらに折伏に邁進(まいしん)して、1人でも多くの方を正信に導き、共々に成仏を目指していきたいと思うものであります。





登山(仮題)

―大石寺への登山は仏道修行の根本―
―池田も「登山会は一切に優先」と―

(『慧妙』H20.1.1ほか)

 登山とは、総本山に登る、ということで、日蓮正宗総本山富士大石寺に参詣することをいいます。そして、登山は、毎日の勤行や折伏、寺院参詣の根本をなす、最も重要な仏道修行なのであります。
 昨今の池田創価学会は、「大石寺は謗法の寺となった」と言って憚(はばか)りませんが、かつて日蓮正宗の信徒団体だった頃は、「学会の登山会こそ、行事の中の最大の行事として、他の一切の行事に優先して行なわれている」等として、会員達へ登山を促(うなが)し、実際に多くの学会員が大石寺に参詣していました。
 今回は、登山の意義について学び、併(あわ)せて学会の矛盾(むじゅん)・誤りを指摘していきたいと思います。(『慧妙』H20.1.1)


【登山の本義】
 まず、登山がなぜ、すべての仏道修行の根本をなす重要な修行なのか、ということについてですが、それは一言でいうと、総本山大石寺に、日蓮大聖人出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊と大聖人の正統な後継者であられる血脈付法の御法主上人猊下がおわしますから、であります。
 すなわち、弘安2年10月12日御図顕の本門戒壇の大御本尊は、末法万年の衆生の信仰礼拝の対象として顕(あら)わされた根源の御本尊であり、
 「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ」(御書685頁)
と仰せのとおり、御本仏である大聖人の御命の御当体であります。
 そして、その大御本尊は、7百星霜を経(へ)た今日に至るまで、厳然と富士大石寺に秘蔵されてきています。
 また、大聖人は、御自らの御本仏としての悟りのすべてを、ただ1人日興上人に授け与えられ、大聖人御入滅後の後継者と定められました。そして、日興上人の後は日目上人に、日目上人はまた日道上人にと、順次に血脈相承がなされて、現在、第68世御法主日如上人猊下の御代に至っています。
 日蓮大聖人御在世における登山は、御本仏であられる大聖人のもとへ参詣し、直々に大聖人に御給仕申し上げ、御指南を頂戴するところに、その本義があったわけですが、今日の私達は大聖人にお目にかかることはできません。ゆえに、大聖人の御当体たる本門戒壇の大御本尊と、大聖人の後継者たる御法主上人猊下に対する、熱烈な渇仰恋慕(かつごうれんぼ)の心をもって、富士大石寺に参詣する―これが、御本仏日蓮大聖人のもとに参詣する意義にあたるのであり、ここに登山の本義があるのであります。(『慧妙』H20.1.1)


【登山の功徳】
 そして、そのように仏を求めて参詣していく功徳について、大聖人は、
 「今此(こ)の所も此(か)くの如し。仏菩薩の住み給ふ功徳聚(くどくじゅ)の砌(みぎり)なり。多くの月日を送り、読誦(どくじゅ)し奉(たてまつ)る所の法華経の功徳は虚空(こくう)にも余りぬべし。然るを毎年度々(たびたび)の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか」(御書1502頁)
と仰せられています。
 また、中国の妙楽大師は、
 「化を受け教を稟(う)く須(すべから)く根源を討(たず)ぬべし、若し根源に迷う則(とき)んば増上して真証を濫(みだ)さん」
と述べています。
 日蓮大聖人の仏法における信仰と功徳の根源は、まさに総本山富士大石寺であり、ここに、総本山大石寺への登山が仏道修行の根本となる所以(ゆえん)があるのです。(『慧妙』H20.1.1)


【昔の学会指導】
 日蓮正宗から破門されて15年以上が経過する中、現在の創価学会で活動している会員のほとんど(とくに男子部や女子部等の若者)が、本門戒壇の大御本尊の御事も、血脈の大事も、まったく教えられておらず、「登山」という意味もまったく理解不能となっている現状があります。
 しかし、かつては、冒頭でも述べたように、登山の重大意義を弁(わきま)えた上で、"登山会こそ、行事の中の最大の行事"と説き、現に総本山に多くの会員が参詣して、大功徳に浴してきたはずなのです。

◆なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない(『戸田城聖先生講演集』上112頁)

◆信仰の根本の対象は、いうまでもなく本門戒壇の大御本尊である。その大御本尊にお目通りすることが、登山会の最も大事な目的であり、意義である(『池田会長全集』第4巻210頁)

◆10月12日は、大御本尊御出現の日である。
 この大御本尊は、末法の御本仏であらせられる日蓮大聖人が大慈悲をおこされ、全世界の一切衆生に賜(たま)わった御本尊であるがゆえに、一閻浮提総与の大御本尊と申しあげ、大聖人様の出世の御本懐として、万人から仰がれる大御本尊であらせられる。われわれが登山して、大御本尊を拝することは、そのまま日蓮大聖人様にお目通りすることであり、偉大なる功徳を享受(きょうじゅ)できることは言うまでもないのである。(中略)
 かかる絶対の大御本尊にお目にかかる登山会であれば、学会の登山会こそ、行事の中の最大の行事として、他の一切の行事に優先して行なわれているのである(池田大作『大白蓮華』S38.10巻頭言)


【本宗伝統の登山方式について】
―添書登山は本宗古来の登山形式―
―師弟子の筋目の上に正しき信行―

(『慧妙』H20.2.1)
そもそも本宗の信仰においては、本師(御法主上人)―小師(指導教師御住職)―信徒という師弟子の筋目を正し、師弟相対して信心していくところに、仏法の甚深の功徳も流れ通ってくるのであります。

●実名・有職・袈裟・守・漫荼羅本尊等の望みを、本寺に登山しても、田舎の小師へ披露し、小師の推挙を取りて本寺にて免許ある時は、仏法の功徳の次第然るべく候。直に申す時は、功徳爾(しか)るべからず云云(第9世日有上人『化儀抄』)
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 すなわち、「日号や阿闍梨号、袈裟、お守り御本尊、常住御本尊等を願い出る場合、総本山に行って願いを出すにしても、まず手続ぎの小師である所属寺院の御住職に願いを申し上げ、御佳職の推薦をいただきなさい。そうするところに、仏法の功徳の次第があるのである。手続ぎの小師を通さないで勝手に本山に行って願い出を出した場合、仮に手違いでそれが受理されるようなことがあったとしても、そこには功徳がない」と仰(おお)せられているのです。
 これは、手続ぎの小師を通じて本師を仰(あお)ぐ、という本宗の師弟相対の在り方を、現実の上に具体的に示された御指南であります。

●末寺の坊主の状なからん者、在家・出家共に本寺において許容なきなり云云(第9世日有上人『化儀抄』)
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 「末寺御住職の証明書を持たない者が本山に来た時、それが御僧侶であれ在家信徒であれ、本山ではそれを受け入れてはいけない」と示されています。
 これは、その人の信仰を見てきたのは末寺の御住職であって、その師匠の添書なりがあってこそ、その人の信仰の確かさが証明されるからです。
 逆に、所持すべき添書もなく、"自分の意志で来ました"というとしたら、そのこと自体が信仰的におかしいし、そのような不確かな信仰の人を受け入れてはいけない、とされているのです。

私達が総本山に参詣し、大御本尊へのお目通りをお願い申し上げる場合も、まったく同様であります。法華講支部で団体登山するにしても、個人で登山するにしても、必ず所属寺院御住職の添書をいただいて、本山へ御開扉を願い出る--これが本宗伝統の登山方式なのであり、このような手続きを踏んで登山し御開扉を受けさせていただくところに、大御本尊の大功徳を頂戴できるのであります。


【特例だった学会組織による登山会】
 このように、本宗の信仰においては、正しい師弟子の筋道に則っていくことが原則・大前提でありますが、第2次世界大戦後の国土荒廃の中、日蓮正宗の仏法広布のため、創価学会復興を掲げて起ち上がった、戸田城聖2代会長の信心の姿に鑑(かんが)み、とくに創価学会に限って、無添書のままの登山が許されたのでした。
 それによって、昭和27年10月から、学会による登山会がスタートしましたが、しかし、この在り方は特例だったのです。(『慧妙』H20.2.1)


【登山会廃止の理由】
 しかも、平成2年末から、学会組織として師敵対の大謗法路線を顕(あら)わにし、御宗門からの指摘に対してもまったく一顧(いっこ)だにせず、宗門誹謗(ひぼう)をエスカレートさせる一方、とあっては、当然、学会組織に登山会を任(まか)せることなどできないのは明々白々でした。
 さらには、当時の学会員から、「組織でなかなか登山を許してもらえない」「幹部の言うことを聞く者だけが登山できる」「1年に1度も順番が回ってこない」「老人・子供は登山できない」といった不満が噴出していた事実もありました。
 そこで、御宗門では、学会組織に束縛されることなく、総本山に参詣したいという志(こころざし)のある会員が自由に登山できるようにと、学会組織による登山会は平成3年6月をもって終了、同年7月からは、寺院御住職を通じれば誰でも登山ができる、という本来の登山方式に戻されたのです。(※もちろん、現在は、創価学会は完全な邪宗謗法宗団ですから、かつて正宗で御授戒を受けたという創価学会員であっても、学会員のまま御開扉を許される、ということはありません。創価学会を脱会し、正宗寺院に所属する法華講員となって、寺院住職の添書をいただかなければなりません。) (『慧妙』H20.2.1)


【邪難粉砕】
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戸田先生の時代から40年間も続けてきた登山会を(日顕上人が)廃止させた。(宗門は)大御本尊を人質にして、宗門に付かなければ本山には参詣できないぞ、と脅迫してきた。
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 前述のように、もともと無添書での登山は、戸田2代会長の信心を信頼されての異例のことだったわけですから、信心を失ってしまった学会組織に、無添書での登山を許可する、などということができないのは、火を見るより明らかです。
 それを、学会では「戸田先生の時代から40年間続けてきた登山会を(日顕上人が)廃止させた」「(宗門は)大御本尊を人質にして、宗門に付かなければ本山には参詣できないぞ、と脅迫してきた」などと悪口し、見当違いも甚(はなは)だしい誹謗を繰り返しているのですから、本当に開いた口がふさがりません。
 結局、やはり学会には、信仰の根本である大御本尊を求める信心がなかった、というしかありません。(『慧妙』H20.2.1)





「日本の柱」とは

―「日本の柱」とは御本仏日蓮大聖人の御事―
―"信徒への励まし"とする池田は浅識・憍慢(きょうまん)―

(『慧妙』H19.7.1)

 日蓮大聖人は、『種々御振舞御書』に、
 「日蓮によりて日本国の有無はあるべし。譬へば宅(いえ)に柱なければたもたず。人に魂なければ死人なり。日蓮は日本の人の魂なり」(御書1065頁)
と仰せられています。
 この御文は、大聖人が佐渡御流罪中に、『開目抄』を御著述あそばされたことについて、述べられている箇処です。それは、この御文の直前に
 「去年の十一月から勘へたる開目抄と申す文二巻造りたり。頸切らるゝならば日蓮が不思議とゞ(留)めんと思ひて勘へたり。此の文のこころは日蓮によりて日本国の有無はあるべし……」
と仰せられていることから明らかです。
 では『開目抄』とは、いかなる御書かといえば、人本尊開顕の書ともいわれ、真実の主師親三徳の本仏を知らない一切衆生の盲目を開かせ、大聖人こそ、末法の主師親三徳兼備の御本仏であることを明かされた書です。
 『開目抄』では、
 「夫一切衆生の尊敬すべき者三つあり。所謂、主・師・親これなり」(御書523頁)
 「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」(御書577頁)
と仰せられています。
 また、
 「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ」(御書572頁)
とも仰せられていますが、これは、主・師・親の三徳を、それぞれ柱(主)、眼目(師)、大船(親)に譬えられたもので、やはり、大聖人こそが、三徳兼備の御本仏であることを述べられているものです。
 ですから、冒頭に挙げた『種々御振舞御書』の御文で大聖人が仰せられているのは、
 「日蓮大聖人によって、日本国の有無はある。たとえば家に柱がなければ家は倒れてしまい、人に魂がなければ死人である。それと同じように、主師親三徳兼備の御本仏である大聖人は、日本国の柱であり、人々の魂なのである」
という御意であります。
 さて、創価学会の機関紙では、この『種々御振舞御書』の御文を挙げ、「創価の青年は『日本の柱』」との見出しのもと、とんでもない解説が加えられていました。
 少々長くなりますが、以下に引用します。
 「人間社会における『柱』とは何か。それは『思想』『宗教』であろう。(中略)人間を本当の意味で幸福にし、社会を繁栄させるには、『正しい思想』『正しい宗教』を弘めるしかない。だからこそ、そうした思想を広げる人もまた、『社会の柱』の存在といえるだろう。
 「大聖人はまた、開目抄で『我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ』と仰せである。
 池田名誉会長は、この一節について『ここで大聖人は、自分が仏だと誇っているわけではありません。御自身の大願を明かして、弟子たちに勝利の道を教えているのです』と語っている(『御書の世界』)。
 弟子よ、私とともに、社会に正しき思想を広げよ!
 一人も残らず『日本の柱』『人々の魂』となるのだ――それは大聖人の大宣言であるとともに、弟子たちへの熱き期待であったのだ。

 「ひときわ輝くのが学会青年部の姿である。胸中に『日本の柱』たらんとの自覚をもち、現実に『一人の友』のために奔走する。地域の発展のために身を惜しまない。
(中略)
 『我らこそ、日本の柱である!』との大確信をもって、民衆勝利の時代を堂々と切り開こうではないか

と。
 つまり、呆れたことに、創価学会では、
 「大聖人は、日本の柱となり、人々の魂となりたい、との大願をもって法を弘められた。それは、弟子たちにも、同じように大願をもって法を弘めよ、と示されたのである。だから、創価の青年は『自分達こそ、日本の柱である』との大確信をもって堂々と時代を切り開いていこう」
といって、青年部を持ち上げているのです。
 たしかに、単純に"国がどのようにして成り立っているのか"と考えれば、国民一人ひとりによって成り立ち、動いている、といえます。そういう意味では、一人ひとりがいろいろな立場におけるそれぞれの責任・役割を果たし、社会や地域に貢献していくことは大切なことといえます。
 しかし、『種々御振舞御書』や『開目抄』で仰せられている「日本の柱」「日本の人の魂」等々というのは、一切衆生を導かれる主師親三徳兼備の御本仏の御事を仰せられているのであり、それは、日蓮大聖人ただお一人しかいらっしやいません。
 それを、御本仏以外の、あくまでも導かれる側の衆生が、「自分は日本国の柱だ」などといったら、まさに本仏気取り、恐るべき増上慢の姿、といわざるをえません。
 まして、今の創価学会の「思想」「宗教」は、といえば、御本仏の正義を破壊・攻撃し、"裏切り者は徹底的に攻撃しろ!""ウソも百遍いえば本当になる"などという、社会悪思想を撒き散らす邪宗教であります。
 そして、これに毒された会員達が国家の中枢に入り込んでいる状況の中で、いま日本国はさまざまな不幸や危機に見舞われ、人々も不幸の境遇へとどんどん落ち込んでしまっているではありませんか。
 まさに、日蓮大聖人が
 「かゝる日蓮を用ひぬるともあしくうやま(敬)はゞ国亡ぶべし」(御書1066頁)
と仰せのとおりであります。
 私達は、日本の柱である御本仏日蓮大聖人の正法正義を固く信受し、正信正行を貫いて、一国広宣流布を目指し、精進してまいりましょう。





学会流「破邪顕正」とは

―「破折」とは批判者を罵倒すること!?―
―邪宗との共存共栄めざす学会―

(『慧妙』H19.8.16)

 『創価新報』8月1日号5面には、例によって、仰々(ぎょうぎょう)しいタイトルが紙面を覆(おお)い、「青年部座談会」と称する低俗な雑談の内容が掲載されている。
 まともな人間が読めば、あまりのくだらなさに失笑してしまうこと請(う)け合いで、裁判の話に絡めて個人攻撃に終始するその内容は、間違いなく"創価仏法"の精神そのものである。
 同記事中で、今に始まった話ではなく、目新しい概念でもないが、あまりに見苦しい点があるので、ここで1つ教えておきたいことがある。それは「破折」という仏法用語の使い方に関してである。
 同記事を見ても明らかなように、創価学会では、この語を、批判者に対する徹底的な個人攻撃という意味に用いている。以下を見ていただきたい。

〈高木〉ともあれ、日蓮仏法の精神は「破邪顕正」の破折精神、闘争精神だ。天台大師が邪僧の論難を破折した時の様子を、大聖人は「一つ一つ責め返し、押し返して、更に重ねて責めていった」と教えてくださっている。この電光石火の言論戦こそ、日蓮仏法の魂だ。
〈佐藤〉その通りだ。「1」言われたら、即座に「倍」言い返す。正義の破折を加える。悪辣(あくらつ)なウソ、デマには、徹底的に反撃する。完膚(かんぷ)無きまでに打ち破る。

 まともな神経の持ち主であるならば、これに違和感を感せずにはいられないであろう。
 ここでの彼らの言う「破折」の意味するところは、言われたことに対して、徹底的に言い返し反撃する、ということである。いうなれば、単に「売られた喧嘩(けんか)は買う」といった、低次元な意味で、この言葉を使っているのである。
 この彼らの意図が、よりハッキリと表われているのが、彼らの「永遠の指導者」たる池田大作の、次なる発言であろう。

全員が「勝つ」と強く決めていけ!勝つか負けるか。やられたらやりかえせ。世間などなんだ!私は恐れなど微塵(みじん)もない。勇者は私だ。私だけ戦っている。強気でいけ!強気で勝つんだ!強気、強気、強気でいこう。どこまでもしぶとくいくんだ。(中略)何でもいいから、言い返すんだ。こわがったり、ひるんだりしてはいけない。怒鳴っていけばいいんだ!(中略)反逆者には「この野郎、馬鹿野郎」でいいんだ!(池田大作H1.3.12)
-----------------------
 まさに師は針、弟子は糸のごとしで、この池田の境界が今日の学会青年部に受け継がれているのである。
 これまでの執拗(しつよう)な宗門誹謗も、こうした学会流「破折」の一環であったのだろう。
 では、仏法でいう「破折」とは、本当にこのような低俗な意味なのだろうか。
 以前、創価学会では『仏教哲学大辞典』に、「破折」について次のように解説していた。

[破折]=砕き断つこと。破はやぶる、くじく、折は人のあやまちを責めること。誤った宗教・思想、またはそれに執着する心を打ち破ること。日蓮大聖人は、当時、最も流布していた邪宗邪義に対し「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」と、四箇の格言をもって破折されている。末法の修行である折伏行において、破折は相手に動執生疑(どうしゅうしょうぎ)を起こさせる第一の方法となる。なぜならば、破折によって相手の思想の邪悪な点を喝破(かっぱ)し、そのもっている思想に対して、疑いの念を起こさせなければ、相手は正法に耳を傾けることができないからである。(『仏教哲学大辞典』)
-----------------------
 ここにあるように、本来の「破折」とは、真実の教義の上から、誤った教義・思想を明らかにし、それに執着する心を打ち破ることである。
 しかし、池田創価学会における破折とは、大前提である真実の教義に基づくものであるか、どうかさえ、問題ではなく、ともかく自教団にとって不都合な材料となるものへの、報復行為全般を意味するものになっている。
 すでに述べたごとく、「破折」とは、仏法の正義に立脚した立場からの、救済のための慈悲の行ないであり、相手が自分に不都合なことを言ったから言い返す、やっつける、というようなものではない。池田創価学会のような、相手を攻撃する行為をもって「破折」とする概念は、まったくの見当違いなのである。
 ここにも、仏教用語を恣意(しい)的に解釈し、濫用(らんよう)する、創価学会の邪(よこしま)な体質が露呈(ろてい)している。


 また、そもそも創価学会には、すでに「破邪顕正の精神」などというものは存在していないのである。
 創価学会のメディア上では美辞麗句(びじれいく)をもって報じられているが、現実相として、平成3年以降の学会は謗法同化路線を突き進んでいる。他宗との共存共栄の表明、会内における謗法払いの撤廃など、その証拠を挙(あ)げたらきりがない。
 例えば、平成7年10月29日にフジテレビの人気報道番組「報道2001」に出演した秋谷栄之助(当時は創価学会会長)は、

〈司会者〉日本宗教連盟にも、日本仏教会にも入っていない創価学会は、他の教団と距離を置き、孤立主義を保っている教団というイメージがある。他の教団との融和を図っていく気はないのか
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〈秋谷(会長)〉日蓮正宗という宗門の下にあった時代には、教義の上でかなり教条的に厳しいあれ(制約)がありましたので、私どもが努力をしても、他教団との話し合いということについては制限されておりました。今回、別かれましたので、そういう意味からいうと、私どもが本来考えている、宗教というのはもっと対話をすべきだし、協調していくべきだと、こういう考え方で、先日もSGI総会で決議をいたしまして、仏教の寛容の精神で、他宗教を尊重して、そして対話をし、また、協調もしていこうということを、機関としても決めました

 このような実態であるのにもかかわらず、"日蓮仏法の精神は「破邪顕正」の破折精神"とは笑止千万である。
 要するに、学会の言う「破邪顕正」とか「破折」というのは、相手の宗教の正邪には全く関係なく、学会を批判する相手を徹底的に踏みつけ、やっつける、という意味であることが明らかだ。
 もし、「そうではない、破折とはあくまでも謗法に対するものだ」と言うのであれば、世の中の多くの謗法、とくに大作に対して勲章を与えた、縁の深い国に存在する宗教や、国内でも学会に迫る規模の立正佼成会や、それに次ぐ霊友会など、多くの破折の対象となる大教団を相手に「破折」を加えてみてはどうか。
 相手が批判してこないと「破折」しない創価学会には、なし得ないことかもしれないが(笑)。

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(<法蔵>H19.8.15)

【本来の「破折」】
[破折]=誤った宗教・思想、またはそれに執着する心を打ち破ること」「日蓮大聖人は、当時、最も流布していた邪宗邪義に対し「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」と、四箇の格言をもって破折(『仏教哲学大辞典』)


【本来の「破折」捨てた学会】
◆創価学会の機関誌『大白蓮華』は3月号で、池田大作名誉会長と斎藤克司教学部長の対談を掲載し、「四箇格言」の読み直しを提唱している。
 今回の対談では、各宗の態度が日蓮の時代と違うことを強調する。
 池田氏は「当時の念仏宗は権力と結託し、独善的で排他的だった」としながらも、浄土教を「どんな疲れ病む衆生をも仏界の生命力で包み、絶対の安心感を与える」とする。「自力のみによる悟りの獲得と安住を説く」という「天魔」の禅は「自分の中に自分を変革する力のあることを信じ、それを実感していける」とされた。「呪術による現世利益を説く護国宗教」の「亡国真言」も「現実の変革に勇気をもって邁進していける」存在となった。(『朝日新聞』夕刊H14.8.1・2版)
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1◆今後は攻撃されないかぎりは協調していきたい。そのために組織内の意識改革を狙った試論です。時代の変化を無視して今の世に「四箇格言」をそのままにしておくことは、かえってこちらが独善的と批判されかねませんから(斎藤克司教学部長『朝日新聞』夕刊H14.8.1・2版)

2◆仏教の寛容の精神で、他宗教を尊重して、そして対話をし、また、協調もしていこうということを、機関としても決めました(秋谷会長=フジテラビ報道番組「報道2001」H7.10.29)

3◆創価学会広報室長であった西口副会長は、平成8年6月13日付『産経新聞』によれば、他宗教に対し、今まで強折をしてきたことなどについて謝罪し、また、八尋副会長は、「日蓮正宗の手かせ足かせがなくなり、柔軟な対応が可能になった。祭りや地域行事もおつきあいする。宗教が宗教という理由で争ってはならない」(同『産経新聞』)と、謗法厳誡の精神を無視した暴言を吐(は)いている。(『慧妙』H19.6.16)

4◆平成9年10月20日、中外日報社などが主催する「第7回日中仏教学術会議」に伴う「懇親の夕べ」に、創価学会副会長の山崎尚見と西口良三、創価大学教授の菅野博史らが参加し、諸々の邪宗諸師と祝杯をあげて歓談した。そして遊戯雑談(ゆげぞうだん)にうつつを抜かす、その腑(ふ)抜けた笑顔が、『中外日報』(11月13日付)紙上に紹介されていた(『慧妙』H13.9.1)


【学会流「破折」とは】
5◆「やられたらやりかえせ」「何でもいいから、言い返す」「怒鳴っていけ」「反逆者には『この野郎、馬鹿野郎』でいいんだ!」(池田H1.3.12)

6◆「1」言われたら、即座に「倍」言い返す(『創価新報』H19.8.1)

・攻撃対象は、学会を批判する者。邪宗であっても、学会を攻撃しない限り協調する。(1◆〜4◆)

・攻撃内容は教義に基づく邪義の破折ではなく、人格批判、違法行為やスキャンダルの捏造や暴露が中心となる。(5◆6◆<資料>






「法華弘通のはたじるし」について

―かつて学会は「旗印は集団の生命・要」と―
―その「生命・要」を変遷させてきた学会―

(『慧妙』H28.2.1)

 創価学会教学部編の『教学入門』には「本門の本尊とは万人成仏の根本法である南無妙法蓮華経であり、それを直ちに図顕された曼荼羅(まんだら)の御本尊です」とある。学会はこの本尊をもって「法華弘通のはたじるし」であるとしている。
 「法華弘通のはたじるし」というのは『日女御前御返事』に出てくる一文であり、学会では、この一文を多用している。
 だが、まず、この御書に関していえば、学会では、日蓮宗等と同様に、建治3年の書としている。しかし、日蓮正宗においては、御隠尊日顕上人が弘安2年の書である旨を明確に御指南され、すでに、この書の系年を正しく変更しているのである。日顕上人は
 「この御書の年次は御本尊の体相において『釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ』とあって、善徳仏、十方分身仏を除くのは弘安元年以降の本尊に該当し、提婆達多と竜女を示されるのは日目上人授与・弘安2年2月と適合するので、その総合的な帰結として、まさしく弘安2年に当たるということが言えると思います」
と御指南あそばされ、系年変更の理由を示されている。
 しかるに学会では、よく使う御書の一文の系年すら、いまだに間違えた状態で使用しており、まずもってお粗末である。
 次に、旗印とは@目印として旗につける紋所や文字、A行動の目標として掲げる主義・主張、をいう。だが、主義主張がころころ変わる学会にとっての旗印とは、一時的な目印に過ぎない
 かつての学会の御書講義によると、「旗印は、集団の生命というべきもの、集団の理念といったものをあらわす、最も大事な要になっているのである」としていたが、「集団の生命」とも言うべき根幹がころころ代わって、勝手に自前のニセ本尊を造ったり、戒壇の大御本尊の信受を取り止め、一大秘法から三秘・六秘への開合を否定しているようでは、学会の正統な集団としての生命はないといえる。
 日顕上人は
 「この『はたじるし』ということは、真言等の間違った教えの曼荼羅が世の中にたくさんあるなかで、本当に正しい法華経に基づくところの法華弘通の旗印をここに立てる」
と御指南されている。
 現在でいえば、真言等の間違った曼荼羅、さらには学会の間違った本尊などが氾濫(はんらん)する中で、日蓮正宗では、正しい法華経に基づく本尊として、古来、本門戒壇の大御本尊を「法華弘通のはたじるし」としてきたのである。
 どれだけ学会が、独自の教学のもとに、学会の本尊を「法華弘通のはたじるし」であると説明しても、大聖人の御正意からは大きく逸脱している。なぜならば、学会では根本の本尊義をころころ変え、さらに根本の本尊たる本門戒壇の大御本尊に違背しているからである。日顕上人は、この御書の講義の最後に
 「今日はたいへん難しい話になってしまいましたが1つ心得べきことは、どの御本尊様も大聖人一期御化導の究竟たる本門戒壇の大御本尊様が根本となっているのであり、その本門戒壇の大御本尊様によって開会せられた御本尊様はすべて、根本の大御本尊様と変わりのない功徳が存するのであります」
と御指南されているが、すべては本門戒壇の大御本尊に帰結するのである。
 『聖教新聞』においては、〈「広宣流布のための御本尊」を弘通してきたのが、「信心の血脈」を受けた創価学会〉と述べているが、なにをもって信心の血脈を受けたというのか、その証明もなく、勝手に造ったニセ本尊を旗印としている創価学会は、広宣流布を阻害している、というべきであろう。
 会員諸氏には、変貌し続ける旗印から離れ、早く正法に帰依して、正しい旗印を示せるようになってほしいものである。





仏法の師と人生の師?

―仏法の師はそのまま人生の師―
―池田は人生を破滅させる邪師―

(『慧妙』H20.8.1)

 創価学会員の折伏の際、仏法における師弟の関係について、「なぜ池田センセーが仏法のことを正しく教えてくれる師匠だといえるのか?」と詰問(きつもん)すると、
 「池田センセーは人生の師であって、仏法の師はあくまでも日蓮大聖人」
と、わかったような、わからないような答えが返ってきます。
 が、池田創価学会の機関紙を見ると、何かに取り憑(つ)かれたように、「創価の師弟」「師弟不二」「師弟一体」と叫び、創価学会員としていかに師匠・池田センセーに応えるか、仕えるか、を論じる内容がやたらと目につきます。そして、それが大聖人の仏法における師弟のあり方である、と強調しています(その論調を見ていると、何か、ただならぬ緊迫〈きんぱく〉感、悲愴〈ひそう〉感すら感じてしまいますが)。
 今回は、池田創価学会のいう「仏法の師と人生の師」ということについて、その謀(たばか)りを指摘したいと思います。
 そもそも、私達は、言葉を覚えることから始まって、学問や技術、人としての礼儀等々を身に付けてきたのは、すべて親や先生、上司、先輩といった人達から、身をもって示され、教えられて、習得してきました。
 このように、生活上の分々の浅いことがらについてもそうですが、甚深(じんじん)の仏法においては、なおさらで、自分一人で正しく理解し、信仰していくことなど絶対にできません。やはり、仏法を正しく会得(えとく)されている師匠を求めて、その師匠に弟子として師事していく中で、すべてを学び受けていくことができるのであり、また、そこにのみ、正しい信心と功徳があるのです。
 では、仏法を正しく会得されている方はどなたかというと、いうまでもなく、御本仏日蓮大聖人であり、また、大聖人の仏法のすべてを継承されている血脈付法の御歴代上人方であります。
 ですから、私達は、日蓮大聖人と大聖人の正統な後継者であられる御歴代の御法主上人を、仏法の師と仰ぎ、心から信伏随従(しんぶくずいじゅう)していくところに、甚深の仏法の分々を我が身に習得でき、成仏の境界に至ることができるのであります。
 また、御金言に、
 「仏法は体のごとし、世間はかげのことし」(御書1469頁)
 「天晴れぬれば地明らかなり、法華を識る者は世法を得(う)べきか」(御書662頁)
と仰せられていますが、仏法は一切法の根源の法でありますから、仏法を正しく会得されている方は、世の中に起こってくる諸々の現象の本質を見抜いて、誤りのない正しい判断を下し、真に価値的な正しい人生を自らも生きていけるし、他に向かってもそのような生き方を指(さ)し示していける、すなわち、人生そのものの師匠でもあるのです。
 ゆえに、大聖人と血脈付法の御歴代上人方は、仏法の師であると共に人生の根本の師でもあるのであり、その御指南・御指導に従っていくところに、揺るぎない確固とした人生を築いていくことができるのです。

 さて、池田創価学会では、冒頭でも紹介しましたように、「仏法の師は日蓮大聖人であり人生の師は池田センセー」と言って、「仏法の師」と「人生の師」とをあえて分けています。
 しかし、今述べてきたように、「仏法の師」は「人生の師」でもあるはずです。それをあえて、別々に分けているところに、池田創価学会の邪心があるといえましょう。
 それはすなわち、
@池田センセーは師匠だといってもそれは人生における師匠であって、仏法の師はあくまでも日蓮大聖人、と言うことで、いちおう大聖人の仏法を信奉しているという面目(めんもく)は保(たも)てる
A仏法の師と人生の師を分けることで、大聖人と何の関係もない池田を師匠として位置付けることができる
B仏法の師は大聖人といっても直接御指南くださるわけではないので、結局は仏法のことについても、会員を直接の師・池田に追従させられる
等でありましょう。
 じつに、魔の知恵ともいうべきですが、学会は、このような誼弁(きべん)を弄(ろう)して、会員達を誑(たぶら)かしてきたのであります。

 しかしながら、何をどう理由付けようとも、御本仏日蓮大聖人と全く関係がなく、ましてや仏法を破壊している池田が、仏法の師はもちろんのこと、正しき人生の師となることも、絶対にありえません。むしろ、大謗法の池田を師匠としていけば、人生を破滅させる結果にしかならないことを、会員諸氏にはよくよく考えていただきたいものです。
 御金言にのたまわく、
 「謗法と申す罪をば、我もしらず人も失とも思はず。但仏法をならへば貴しとのみ思ひて候程に、此の人も又此の人にしたがふ弟子檀那等も無間(むけん)地獄に堕つる事あり」(御書1258頁)
 私達は、池田に騙(だま)され、地獄へ引きずられていく創価学会の1人でも多くの方を、正しい師の下へ導くべく、さらなる折伏に励んでまいりましょう。





「仏法は勝負」について

―「勝負」の前提には「道理」あり―
―道理に反する学会に真の勝利なし―

(『慧妙』H17.8.1)

 創価学会員を折伏すると、必ずと言っていいほど、言ってくるセリフがあります。それは、「仏法は勝負」という言葉です。
 とくに、法華講員からの破折に耐えられなくなって、言葉に詰まった時や、帰り際に、それでも何か言いたい、最後の一言、とばかりに、「『仏法は勝負』だから、現証が出るわよ」などと言い捨てていくことが多いようです。
 また、池田スピーチや学会機関紙にもよく出てくる言葉です。池田が会員に「勝て!勝て!」「勝利しろ!」と檄を飛ばし、たまに裁判で学会勝訴の判決が出れば「勝った!勝った!」と大宣伝をし、選挙で公明党議員が当選すれば「大勝利!」と大騒ぎ、と、常に目先の勝ち負けに終始している感があります。
 この「仏法は勝負」という言葉は、日蓮大聖人が『四条金吾殿御返事』に
 「夫(それ)仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり」(『四条金吾殿御返事』御書1175、全集1165頁)
と仰せられているのを、自分達の都合のいいように、安易に浅く捉(とら)えて使っているのですが、本来の「仏法は勝負」という意味とは、全く違った意味になってしまっています。
 このことについて、御法主日顕上人猊下は、
 「『夫仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり』
という文が『四条金吾殿御返事』にありますが、これは、三国伝来して仏法が弘まる形の上において、前代の邪法邪義や外道の教えとの間にきちんとけじめがついていくという、仏法の本義の上からのお示しであります。どのようなことをしても、ただ勝てばいい、というのは仏法の本義ではありません。
 ところが^『勝負をさきとし』という所だけをつかまえて、『仏法は勝負だ、勝つのが仏だ』とまで言っているようです。『勝つのが仏だ』などという解釈はありません」(平成4年8月28日)
と御指南くださり、明確に学会の誤りを破折あそばされています。
 すなわち、御書の中で仰せの「仏法は勝負」というのは、道理を根本とすることが大前提となっているのであり、目先の勝ち負けだけでただちに正邪が決する、などというものではありません。
 この御文の数頁後には、
 「仏法と申すは道理なり。道理と申すは主に勝つ物なり」(『四条金吾殿御返事』御書1179、全集1169頁)
と仰せられています。
 つまり、「仏法における勝負」とは、まず正しい道理と文証によって正邪を判じ、そして、その上に、現証によって決するものなのであります。
 したがって、まず、この道理と文証の上から判ずれば、池田創価学会が、大聖人出世の御本懐にして三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊から離れ、また、大聖人の正義を唯授一人の血脈相承によって厳護されてきた御法主上人や日蓮正宗に敵対した時点で、すでに勝負は決定しているのです。ですから、いくら池田創価学会が強がりを言って、「学会勝訴の判決が出た」だの「選挙で大勝利」だのと大宣伝をしたところで、所詮、負け犬の遠吠えでしかありません。
 学会が、日蓮正宗の三宝を誹謗(ひぼう)し、日蓮正宗よりも我れ尊(たっと)し、我れが勝つ、などということ自体が、仏法の道理に反する妄想なのであります。
 そして、その現証として、学会首脳・大幹部をはじめ会員の堕地獄の姿があり、じつは大敗を喫(きっ)している裁判結果があり、また、学会の大謗法が国土に充満しているために、日本の社会がありとあらゆる不幸に見舞われているという事実―これこそが「勝負」といえましよう。
 浅識・我見で御書を読み、ただ目先の勝ち負けに執着し、それによって正邪が決する、ゆえに勝つためには何をしてもよい、という創価学会の姿は、本当に哀れであります(※これは、学会による裁判結果の報道に、如実に顕われていますが、真実を知らされずに"学会側の全勝"と信じ込んでいる会員がじつに多く、『慧妙』第294号〈平成17年4月1日号〉2面の訴訟結果一覧表を目の前に提示してあげると、皆、驚きで硬直し、目を丸くしています)。
 ともあれ、私達は、この世で最高唯一の正法正義である日蓮大聖人の仏法を、正しく伝えてきてくださった日蓮正宗の中にあって学ぶことができる喜びをかみしめ、今後も相伝に基づく信行学に励んで、邪義を振りまく池田創価学会を、しっかりと折伏してまいりたいと思います。





本尊(「本尊は胸中にある」破折)

―「自分自身の胸中に御本尊が」!?―
―仏界は御本尊への尊信により開顕―

(『慧妙』H17.5.1ほか)

【感応と本尊】
<感応>
 そもそも本尊とは、根本尊敬(こんぽんそんぎょう)の意味で、人生の根本として信仰・礼拝する対象のことをいいます。
 そして、本尊を立てて信仰していくと、感応といって、自分と本尊を一体化させる働きが生じます。そのため、もし、低級・邪悪な本尊を信じれば、その人の人格や生活も、自ずと低級な苦しみに満ちた不幸なものになってしまうのです。
 ゆえに日蓮大聖人は、
●本尊とは勝れたるを用ふべし(『本尊問答抄』御書1275、全集366頁)
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と仰せられ、"宗教の五綱(ごこう)""五重相対""四重興廃(しじゅうこうはい)"等の、厳正かつ公正なる宗教批判の基準をもって、比較相対され、一切の人々を絶対の幸福へと導(みちび)く最高最勝の本尊として、三大秘法の大御本尊を顕(あら)わしてくださったのです。(『慧妙』H20.10.1)

<御本仏の当体>
 この大御本尊は、
●日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ(『経王殿御返事』御書685、全集1124頁)
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と仰せのように、御本仏日蓮大聖人の御生命の当体であり、大聖人の仏としてのお悟りを顕わされた、人法一箇の御本尊であります。
 ですから、私達が、御本尊を生きておられる日蓮大聖人と拝して、一心に信じて行じていく時には、御本尊との感応によって、私達凡夫の中に、すばらしい仏の生命を涌現(ゆげん)していくことができるのです。そして、その仏の大生命力を根本として生きていくところに、ありとあらゆる悩みや苦しみを解決して、物心両面にわたる真の幸福を獲得していくことができるのであります。(『慧妙』H17.5.1)



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◆此の御本尊全く余所(よそ)に求むる事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり(御書1388頁)
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御本尊は、法華経(御本尊)を信じる自分自身の胸中にある。妙法を唱える自分自身が、胸中に御本尊を納めた妙法の当体でもある。
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<憍慢の心に感応働かず>
 大聖人が顕わされた大御本尊とは、"主師親三徳兼備の仏の生命の御当体"です。
 そして私達末法の衆生は、大聖人が顕わされた仏の御当体である大御本尊を信じて勤行・唱題に励むときに、感応の働きによって、自らの濁(にご)った生命の中にも、御本尊と同じような、素晴らしい仏の生命(仏界)を涌現(ゆげん)していくことができる―このことを、大聖人は、
 「只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり」
と仰せになられているのであります。
 それを、私達凡夫の生命にも本然的に仏の生命が具(そな)わっているからといって、直ちに「自分の中に御本尊がある」「妙法を唱える自分は、御本尊を納めた妙法の当体」などと言っては、自分自身を尊(とうと)い存在に押し上げてしまうため、いくら題目を唱えていても、御本尊を人生の根本として崇(あが)めることにはなりませんから、感応が働きません。つまり、自分の中の仏界は、もとより涌現しないのです。
 もっといえば、私達の生命に具わっている仏の生命は、大聖人が顕わされた御本尊との感応によってのみ、涌現するわけですから、日蓮大聖人の正しい御本尊を信仰していなければ、冥伏(みょうぶぐ)したままで現われず、ただ観念的に「ある」と言っているに過ぎないことになります。
 結局、仏界が涌現しなければ、仏でもなければ成仏でもありませんから、御本尊だといえる道理は全くないのです。(『慧妙』H20.10.1)

●(※前に挙〈あ〉げた『日女御前御返事』の御文は)末法の正しい大聖人の御本尊による而二不二(ににふに)の衆生の大功徳を示された文で、池田崇拝の邪信・創価学会の者どものことではありません。(第67世日顕上人『創価学会の偽造本尊義を破す』166頁/『慧妙』H20.10.1)

●創価学会が言う信心成仏には、煩悩(ぼんのう)充満の凡夫が大聖人の大慈大悲によって己心に御本尊を顕わさせていただけるという有り難さ、報恩感謝の念が欠けています。故に、この文(※学会が作成した誹謗〈ひぼう〉文書)のごとく、「自分自身の生命自体が究極の存在であると確信することがまず第一に重要だ」などと、特に創価学会の会員のごとき、貪瞋癡(とんじんち)三毒充満の低下(ていげ)の者どもが究極だと確信するという思い上がり、憍慢(きょうまん)が明らかであります。これも池田の直伝でありましょう。(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を破す』104頁/『慧妙』H20.10.1)


<禅宗ばりの邪義>
 その迷いの凡夫の命を即座に本尊としていくというのは、これはまさしく禅宗で唱えるところの「是心即仏・即心是仏」(我が心がそのまま仏であり、仏はそのまま我が心である)の邪義と同じになってしまいます。
 大聖人は、この禅宗の邪義に対して、
●只不二を立て・而二を知らず。謂己均仏(いこきんぶつ)の大慢を成せり(御書397頁)
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と仰せられ、"己(おの)れを仏に均(ひと)しいと謂(い)う"大慢心である、と破折されていますが、「御本尊は自分の中にある」という学会員は、まさに、謂己均仏の大慢心の者であります。(『慧妙』H20.10.1)


<ニセ本尊に功徳なし>
 さらに大切なことは、創価学会がいかに大聖人の当体蓮華、即身成仏、衆生本仏等の文を挙げて誇ろうとも、いささかもその大聖人の御金言にそぐわず、功徳どころか罪障を積むばかりである理由を指摘しておきます。
 あらゆる大聖人の受持成仏、衆生成仏の金言が実証されるには、重要な一大基本が存します。すなわち、正しい御本尊への信行でなければならないことであります。日寛上人も『文底秘沈抄』に、
●夫(そ)れ本尊とは所縁の境(きょう)なり、境能(よ)く智を発し、智亦(また)行を導く。故に境若(も)し正しからざる則(とき)んば智行も亦随(したが)って正しからず(第26世日寛上人著『六巻抄』大石寺版42頁)
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と言われるごとく、仏法の筋道に背(そむ)いた「ニセ本尊」では一切の功徳はなく、堕地獄の現証を顕わすのであります。故に、いかに大聖人の有り難い文証を挙げても、一切、空虚となることを知るべきであります。(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を破す』104頁/『慧妙』H20.10.1)





聞法下種と発心下種

―「入信すれば発心下種」は誤り―
―末法今時の下種はすべて聞法下種―
(『慧妙』H16.6.16ほか編集)

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 発心下種とは、折伏をして、相手が大御本尊を受持したことである。
 聞法下種とは、折伏をしたが、いまだ大御本尊を受持しないことをいう。しかし、発心下種も聞法下種も、共に末法の折伏行であり、その受ける功徳は、同じである。
 聞法下種においては、そのときは御本尊を受持できなくても、その人の心田に仏種を植えたのであるから、仏法上、必ず、その人は、いつかは信心をすることに決定されているのである。
 観心本尊抄文段(『富要』第4巻280頁)在世の下種とは唯是れ発心下種にして、是れ聞法下種に非るなり(中略)最初聞法必ず是れ文底(中略)末法今世に折伏を受けて信心する者は、久遠元初の聞法下種を忘れていない人であり、これすなわち発心下種となるのである。
 折伏を受けても、信心できない者は、久遠元初の聞法下種を忘れている人であり、再び聞法下種を受けるわけである
(創価学会教学部の編纂『日蓮正宗教学小辞典』[聞法下種と発心下種]の項/『慧妙』H18.3.16)
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 これは、折伏をされて発心したから発心下種、信心することはできなかったが法だけは聞いたので聞法下種、と単純に考えたのであろうが、笑うべき浅識(せんしき)・計我(けいが)である。
 以下に述べるように、末法は聞法下種のみであり、発心下種は熟益の化導に属するから、末法には無縁なのである。
 やはり、不相伝の輩(やから)は、種脱の立て分けも弁(わきま)えられないのであろうし、衆生の側のみならず仏と法にもその立て分けがあることも、わからないのであろう。
 まことに哀れというしかない。(『慧妙』H16.6.16)

 だが、ここに引用する『本尊抄文段』に、
 「在世の下種とは唯是れ発心下種にして、是れ聞法下種に非るなり」
と示されているように、「発心下種」とは在世の釈尊等の行なった下種を指し、また
 「最初聞法必ず是れ文底」
と示されているように、「聞法下種」とは久遠元初(即末法)における文底の妙法による最初の下種を指すのである。
 この両者を「共に末法の折伏であ」る、とする学会の解釈は、明らかに誤っている。
 要するに、久遠元初において、全く仏種を持たない衆生(本未有善)に対し、下種本仏が文底の妙法をもって下種される―これが最初の下種であり、その下種は法を聞くことによって成立するので「聞法下種」という。
 この「聞法下種」を受け、妙法を純真に信受した衆生は順縁となって即身成仏するが、聞いても誹謗(ひぼう)したり、いったん信受しても退転した衆生は、逆縁となって、その心田に仏種だけが残った。
 この、仏種は残ったけれども、どうしても下種仏法を信受できない衆生(本已有善)に対し、五百塵点劫から3千年前の在世に至るまで、熟脱の仏・釈尊が現われては教化を行なう。
 その教化は、本已有善の衆生の欲するところに随(したが)って、方便の法を説き、衆生を仏法に誘う(発心せしめる)ことに主眼が置かれる故に、この下種を「発心下種」という。下種とはいっても、すでに過去に聞法下種を受けている衆生に対する化導であるから、真実は下種ではなく、仏種を調熟するための熟益である。
 なお、末法は久遠元初と同じく、本未有善の出生する時であるから、再び下種本仏(日蓮大聖人)が出現されて、久遠元初と同じ「聞法下種」を行なわれるのである。
 以上のような、日蓮大聖人の仏法における法門の筋道を知らぬ学会員に対し、日顕上人は、かつて
 「皆さんは、聞法下種は折伏を受けたときであり、それから御本尊を受けて一生懸命に信心する時が発心下種だと、そういうふうに説明を聞き、また領解(りょうげ)していると思います。それはまた、末法の大聖人出現の下種益のなかの立て分けに限って言えば、それはそれでいいと私は思うのです。
 ただ日蓮正宗の教学において、特に『観心本尊抄』等の御文の主意は、やはり釈尊仏法の領域を含めて、そこにけじめをつけ、そして大聖人の仏法の正しい所以をきちんと顕わすという筋道がある。(中略)この上から言えば久遠元初が聞法下種であり、釈尊の爾前、迹門、本門の一切は発心下種となるのであります」(昭和62年6月4日)
と、大きく包容しつつ、正しい解釈を御示しになった。
 しかし、幾度、正しい筋道を教えても、これを無視して誤った解釈を続ける学会に対し、
 「創価学会は、なかんずく、その首魁である池田大作は、仏法の基本を全く知らないにもかかわらず、仏教用語についても好き勝手に解釈する癖(くせ)を持っておりまして、例えば発心下種と聞法下種ということについても、まことにわがまま勝手な解釈をしております。(中略)彼らの言い分によると、折伏をした時が聞法下種であり、いよいよ入信を決意して御本尊の下附を受けるときが発心下種だ、というように教えているらしいのですが、それは全く素人法門であって、そのような立て分けは、ありはしません。末法は一切、聞法下種であります」(平成8年3月30日)
と、重ねてハッキリ破折あそばされたのである。
 創価学会教学部は、そろそろ自らの「素人法門」ぶりに気付かないと、恥の撒(ま)き散らしになると知るべきであろう。(『慧妙』H18.3.16)


<種・熟・脱>
 仏法には、種・熟・脱の三義があり、普通は三益と呼ばれている。
 種とは下種益のことで、仏に成(な)るための種を衆生に植えること。熟とは、熟益のことで、過去に下された種を育てて成熟せしめること。最後の脱とは脱益(だっちゃく)といい、ついに実った種を収穫すをこと、すなわち衆生を仏と等しい境涯に至らせることをいう。
 この三益は、いちおう、仏法を信受する衆生の機根の違いを示すものであるが、単にそれだけではなく、衆生を化導する仏と法にも、厳然とその相違があるのである。

<法華文上の三益>
 釈尊の化導においては、
 「久種(くしゅ)を以(もっ)て下種と為(な)し、大通・前四味・迹門を熟(じゅく)と為して、本門に至って等妙(とうみょう)に登らしむ」(『観心本尊抄』全集249頁)
との仰(おお)せのごとく、久遠五百慶点劫(じんでんこう)における下種を始まりとし、中間を経て3千年前のインドで法華経迹門を説くまでを熟益、法華経本門を脱益とするのである。

<聞法下種と発心下種>
―久遠元初は聞法下種―
―久遠五百塵点劫は発心下種=熟益―

 しかし、仏法の本源は、久遠五百塵点劫をはるかに遡(さかのぼ)った久遠元初にあるのであり、久遠元初において凡夫位で即座開悟された本仏(本因妙の仏)による下種が、真実の下種である。
 そして、この久遠元初における下種を受けて、そのまま信受した者は、一生のうちに仏果を得て即身成仏する(この場合、衆生の側には、下種益のみならず、一生のうちに熟益と脱益が成じるのである)。しかし、聞いてもなお信受できなかった者や、一旦は信受しながらも途中で退転した者は、成仏できずに悪道に堕(お)ちるが、すでに下されている仏種だけは残る。
 それら仏種だけが残っている者を救うべく、出現されたのが、五百塵点劫の釈尊(本果妙の仏)である。
 ゆえに、五百塵点劫の釈尊の化導は、過去久遠元初において下種を受けている衆生に対し、その仏種を調熟させ、得脱に至らしめるという、熟脱の化導となるのである。
 以上のように、真実の大きな体系から見てみると、久遠元初において本仏によってなされる下種こそが、真実本源の下種であり、それに対して、前に挙げた「久種を以て下種と為す」という五百塵点劫における下種は、すでに久遠元初に下種されて仏種は持っているものの、逆縁となってしまっていた者を、再び仏法に結縁(けちえん)させ、その仏種を調熟せしめるための化導、すなわち熟益に属することが明らかになるのである。
 このことを第26世日寛上人は、
 「聞法を下種と為す、了因の種なるが故に、発心を結縁と為す、仏果の縁なるが故に云云」(『依義判文抄』)
と仰せられて、同じ下種といっても、久遠元初における下種は、まったく仏種がない衆生が初めて仏法を聞く故に聞法下種といい、五百塵点劫における下種は、過去に下された仏種を成熟させるため、再び発心させる故に発心下種という、と示されている。
 そして、聞法下種こそが真の下種で、発心下種というのは、じつは熟益の化導なのである。
 このように、聞法下種と発心下種は、単に衆生の機根の違いではなく、化導される仏と法にまで及ぶのである。

<久遠即末法>
今、末法に至っては、「久遠即末法」と示されるとおり、久遠元初の再現であり、まったく下種されていない衆生に初めて仏種を下す時である故に、一同に聞法下種となるのである。

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釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき、後に化他の為に世世・番番に出世・成道し在在・処処に八相作仏し王宮に誕生し樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ四十余年に方便教を儲け衆生を誘引す、其の後方便の諸の経教を捨てて正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕して其の中に四十二年の方便の諸経を丸かし納れて一仏乗と丸し人一の法と名く一人が上の法なり(『三世諸仏総勘文教相廃立』全集568頁)

<久遠元初>(即座開悟)聞法下種=真実の下種・・・衆生の側には、下種益のみならず、一生のうちに熟益と脱益が成じる
●釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき(『三世諸仏総勘文教相廃立』全集568頁)
<五百塵点劫>発心下種=熟益

●久種(くしゅ)を以(もっ)て下種と為(な)し (『観心本尊抄』全集249頁)
●後に化他の為に世世・番番に出世・成道し(『三世諸仏総勘文教相廃立』全集568頁)
<三千塵点劫>熟益

●大通・前四味・迹門を熟(じゅく)と為し (『観心本尊抄』全集249頁)
<爾前迹門>熟益

●前四味・迹門を熟(じゅく)と為し (『観心本尊抄』全集249頁)
<本門>脱益

●本門に至って等妙(とうみょう)に登らしむ(『観心本尊抄』全集249頁)
<末法>(即座開悟)聞法下種=真実の下種
・・・衆生の側には、下種益のみならず、一生のうちに熟益と脱益が成じる
●詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり。(『観心本尊抄』全集246頁)
●一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり(『開目抄』全集189頁)
●在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり。(『観心本尊抄』全集249頁)
●一生成仏の信心南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経(『一生成仏抄』全集384頁)





「仏は人に尽くすもの」!?

―大聖人の教えに背く学会―
―正法正師に背いて成仏なし―

(『慧妙』H18.11.16編集)

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仏とは日蓮大聖人の仰(おお)せの如く民衆に尽(つ)くし抜く存在(見出し)

◆如我等無異(『方便品』)(にょがとうむい=我が如く等しくして異ること無からしめん)
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仏の目的は、自分(仏)と等しい境地に衆生を導くことである。その実践をしているのが創価学会で、その反対に民衆を宗門に従わせているのが宗門である。(取意)
(『創価新報』H18.11.1)
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 しかし、方便品の「如我等無異」の経文の次下には、仏は衆生に会えば仏法をもって教化されるが
 「無智(むち)の者は錯乱(しゃくらん)し 迷惑(めいわく)して教(おしえ)を受けず 我知んぬ此(こ)の衆生は 未(いま)だ曽(かつ)て善本(ぜんぽん)を修せず 堅(かた)く五欲に著(じゃく)して 癡愛(ちあい)の故(ゆえ)に悩(なやみ)を生ず 諸欲(しょよく)の因縁を以(もっ)て 三悪道(さんなくどう)に墜堕(ついだ)し 六趣(ろくしゅ)の中に輪廻(りんね)して 備(つぶ)さに諸(もろもろ)の苦毒(くどく)を受く(乃至)深く虚妄(こもう)の法に著(じゃく)して 堅く受けて捨つべからず 我慢(がまん)にして自ら矜高(ほこ)り 諂曲(てんごく)にして心不實(ふじつ)なり」(『開結』111頁)
と説かれている。
 また、日蓮大聖人も、
 「経に云はく『如我等無異』等云云。法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申す文なり。(乃至)但し不孝の者は父母の跡をつがず」(御書605頁)
と仰せられているように、仏法の根本を忘れ、伝法正師を離れて、成仏など思いもよらない。
 すなわち、方便品の「深く虚妄の法に著して」の「虚妄の法」とは、池田大作の説く邪義であり、その邪義に執着する会員達をいうものと拝する。
 そして、「我慢にして自ら矜高り 諂曲にして心不実なり」とは、宗門のあらゆる教導にも耳を貸すことなく、ひたすら宗門を批判しようとする、その心はすでに諂曲であり、不実であり、高慢である。
 かかる創価学会が「如我等無異」などと言ったら、釈尊も唖然(あぜん)とするであろう。正法正師に背(そむ)く池田らが「如我等無異」の実践をしたら、会員も皆、正法正師に背く大謗法者となってしまうであろう。


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本来であれば、「如我等無異」のまま広宣流布を共に進めるゆえに大切にすべき信徒、すなわち釈尊・大聖人とともに歩む"尊極の同志"を隷属(れいぞく)しようとしたのが、日顕(上人)である。"僧俗差別義"なる差別思想を浸透(しんとう)させ、僧侶による信徒支配を正当化しようとした(『創価新報』H18.11.1)
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 しかし、この民主主義の時代に、宗門が信徒を隷属などあり得ないことである。むしろ、宗門のあることないことを会員に吹聴(ふいちょう)し、徹底して脱会を防ぎ、会員を隷属させているのは創価学会である。対立する相手の意見を聞かせないこと自体、隷属させている、との謗(そし)りを免(まぬが)れないであろう。
 寺院として、信徒を守り、大切にすることは当然のことであるが、信仰的に間違っていれば、慈悲の上から注意し教導することは当然である。そこには上とか下とかという立場はない。救う、という一念のみである。


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民衆に尽くすリーダーが創価学会である(『創価新報』H18.11.1)
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 民衆に尽くすことが仏法なのではない。尽くすだけでよいのであれば、それはボランティアである。
 また、尽くすとはどういう定義なのか、はっきりしない。寺院に、悩みや問題を抱えた多くの人々が訪れていることは、紛(まぎ)れもない事実である。それも尽くしていることになるのではないか。
 なお、尽くす尽くされるは、双方の主観的な感覚の部分であるが、創価学会の場合でいえば、むしろ学会が会員に尽くしているというよりも、じつは学会に尽くしている会員の方が、圧倒的に多いのが現実である。

 いずれにせよ、どこの御書を拝しても、民衆に尽くせなどとは、一言も仰せられていない。五字・七字の題目を弘め、それを唱えていくことにより、衆生は幸せになる、と仰せられているのである。
 ゆえに、末法は、不軽菩薩の行軌による折伏となる、というのが大前提である。
 そのような、大聖人の末法における仏法弘通の大前提を無視している創価学会こそ、大聖人の御意を踏みにじる逆賊というべきであろう。
 また、「仏とは民衆に尽くす存在」などというのは、まったく知恩・報恩・感謝を忘れた創価学会の体質を、よく顕わしている。
 学会の主張を親子に譬(たと)えれば、親とは子供に尽くし抜く存在である、と言っていることと等しい。
 そもそも、何もわからない子供が悪いことをしても、ただ尽くし抜けというのか。躾(しつけ)はどうなっているのか。当然、親であれば、子供に間違っていることがあれば注意するだろう。これも尽くしている一分といえるのではないか。このような矛盾(むじゅん)をどう説明してくれるのか。
 現代の、子供を取り巻く環境で起こる様々な問題は、躾の有無に原因がある、と言われる。
 すなわち、親自身が甘やかされて躾を受けないために、その子を躾けることもできない。そのために悲惨な事件が起きている、というのである。
 学会のいうように、尽くすだけで人が救えるのであれば、仏法は必要ないということになるであろう。
 やはり学会は、外道の団体であった、ということか。呵々(かか)。

[画像]:『創価新報』記事=「民衆に尽くすのが仏」という珍説に文証はない